毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「子どものたちの隠れ家」

オズモールの東よりの一角。

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子供用自転車が目白押し。

ただならぬ予感に導かれ、TOY & HOBBY美嶋屋の中へと。

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「よくもまあこんなにも、どこから集まってきたんだ」と、いわんばかりの子どもらが、額を寄せ合うように向き合い、黙々とカードゲームに夢中だ。

店内には、プラモデルからミニカーといった、普通の玩具屋らしい商品が並んでいる。

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しかしよく見回してみると、一文菓子からジュースに花火と、子ども心を虜にするアイテムが絶妙なバランスで配置されている。

「あのーっ。野球盤ゲームなんて、まだ今の世にもありますか?」。

三代目の店主、I.Tさん(51)に恐る恐る問い掛けた。

「最近また若い子が買ってくんだよ。TVゲームだけでは物足りないとかで、このアナログなゲームがいいらしい」。

そう言って取り出したのは、「野球盤PRO¥5.380-」。

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思わずオヤジでも、こっそり買いたくなるような出来栄え。

『玩具と駄菓子の組合せは、実に上手く子ども心を惹き付けますねえ』と、問うてみた。

「初代は落雁屋で菓子を扱っとって、グリコのおまけに人気が集まる様になって、玩具屋に鞍替えしたそうだわ。近所の駄菓子屋が廃業するからって、その店と合体してこんな何でもありの状態に」。

町の中から消えゆく子どもたちの居場所が、ここには立派に存在した。

何とも頼もしき玩具屋なり。

TOY & HOBBY美嶋屋 北区東大曽根町本通

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毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「ナゴヤドーム界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、「日米野球」を控えるナゴヤドーム界隈へ。

ナゴヤドームへと続く北区大曽根界隈と、東区大幸町界隈を流離い、間も無く幕が切って落とされる、日米野球の球宴に想いを馳せた。

今年はどんなスーパープレーや、どんなドラマが待ち受けているというのか?

まさに昭和の真っ只中で生まれたぼくは、何人たりとも漏れなく「巨人、大鵬、卵焼き」で育ったと言っても過言ではないだろう。

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満足にグローブも買ってもらえなかった少年時代。

ぼくらは、ハンドテニス用のものすごく柔らかな軟球を使って、毎日毎日明けても暮れても、草野球にこうじた。

と、言っても、近所の野球少年は18人も揃うわけでもなく、3塁を取り除いた2塁までの手抜きスタジアムだった。

ぼくらは二等辺三角形をダイヤモンドに見立て、来る日も来る日も、王や長嶋を真似た。

ゴムゾオリのスパイクに、ランニングシャツと半ズボンのユニフォーム。

汗染みで塩を拭き、茶色く変色した野球帽を被って、ランドセルを放り出せばすぐに、プレーボールとなった。

ぼくんちよりちょっと裕福なお好み焼屋のトシクンは、唯一仲間の中で木製のバットを持っていた。

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だから彼なしでは、野球らしくないのだ。

彼が風邪でもこじらせた日は、まさかバットだけ借りにゆくこともままならず、荒れ寺から拾ってきた太目の木の枝が、臨時のバットに変わるありさま。

ひ弱で華奢な、運動音痴のトシクンだったが、打順はいつも3番。

何故ならトシクンは長嶋の大ファンだったからだ。

だからぼくらは、バット持参でやってきてくれるトシクンを尊重し、彼が試合に貢献するしないに関わらず、不動の3番バッターに挿げた。

試合が始まると、ぼくらはいつでも前夜のスター選手や、春夏甲子園を沸かせた高校球児に早代わり。

すっかりその気になって、石ころだらけの公園を駆け回った。

ある日、隣町のチームから試合のお誘いが。

決戦の場所は、風呂屋の向うのサッポロ球場。

公園の隣の酒屋に、サッポロビールと書かれた看板が掲げられており、いつしか誰ともなくそう呼んだ。

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いよいよぼくの打席が回ってきた。

前夜満塁ホームランを放った王選手をイメージして、トシクンのバットを振りぬいた。

ポーンという柔らかな音を放ち、ボールは外野手の頭上を越え、場外のキャベツ畑へと消えた。

快心の一打のはずだった。

しかしそこで敢無く試合中断。

なぜならボールは後にも先にもその一個限り。

両チームで仲良く、陽が暮れるまでキャベツ畑を行ったり来たり。

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激的なホームランを放った喜びなど消え去り、ただ罪の意識で気まずい想い。

たしかぼくは、なけなしの小遣いを叩き、ボールを弁償した気がする。

それからしばらく後のこと。

子ども会の役員だった母が、農家からどっさりキャベツを貰い受けてきた。

虫食いだらけの大きな葉が、スーパーで売られている状態の、キャベツの外側を幾重にも取り巻いている。

「ウワーッ!」。

素っ頓狂な母の声。

どうせ大きな青虫でもついていたのかと、ぼくも段ボール箱一杯のキャベツの山を覗いてこれまた仰天。

何と、あの日のホームランボールが、キャベツの虫食いだらけの葉に埋もれ、情けなさそうに薄汚れた顔をのぞかせていたからだ。

さあそれでは、日米野球の火蓋が切って落とされる、ナゴヤドーム界隈を、一足お先にのんびりと漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「数奇な時代に翻弄された大投手、沢村栄治」

「巨人、大鵬、卵焼き」世代のぼくらには、いくつもの宝物があった。

ロウソクを溶かして塗り込み、友達から召し上げたお気に入りのショウヤ。

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太陽の光を呑み込んで、魅惑的な光を放つビー玉。

工事現場に埋もれる、欠けたタイル。

大人には価値など見い出せない、いずれも昭和を生きたぼくらの宝物だった。

中でも野球少年たちの憧れは、歴代巨人の名選手たちの似顔絵が描かれた、大判のショウヤだった。

特にその王様と目されたのが、「背番号14の沢村栄治」。

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野球に精通した父を持つ友達から、神格化された沢村像を聞かされ、すっかりその気になって、沢村のショウヤを手に入れたくて躍起になったものだ。

ご存知、沢村栄治は、三重県伊勢市出身。

京都商業を中退し、昭和9年(1934)17歳で、全米オールスターチームのベーブ・ルースやルー・ゲーリックに挑んだ。

6回までベーブ・ルースの1安打だけに押える好投。

160㌔を越える剛速球と三段に落ちるカーブで、大リーガーをキリキリ舞いさせ9つの三振を奪取。

しかし7回に、ルー・ゲーリックにカーブの曲がり端を叩かれライトスタンドへ。

全日本軍は沢村の好投を援護できず、わずか1点差に泣いた。

その年の暮れ、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」に入団。

しかしまだ、国内には対戦相手のプロ球団が誕生しておらず、翌年は米国へ遠征。

昭和11年(1936)、日本のプロ野球が開幕。

19歳の沢村はエースとして、颯爽とマウンドに上った。

数々の超人的な記録とともに、沢村がいかに偉大で稀有な投手であったか、それを物語るエピソードも数多い。

160㌔を越えるといわれた剛速球を、何とかバントしたら、あれよあれよとレフト前ヒットになったとか。

しかし翌昭和12年(1937)には、日華事変が勃発し、もう一つのバットを銃に持ち替えた日本軍は、抜き足なら無い戦争の泥沼へと歩を進めていった。

2年間のプロ野球シーズンを終えて、年を越した昭和13年(1938)1月、中国へと出征。

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戦地では肩の強さを買われ、最前線でボールを手榴弾に持ち替えて、敵陣へと剛速弾を放り続けた。

昭和15年(1940)に復員し、プロ野球に復帰。

手榴弾の投げすぎが崇り、球速は以前ほどではなかったものの、球史に残る三度目のノーヒットノーランを樹立。

2年間プレーした後、昭和17年(1942)に二度目の召集でパラオへ出征。

翌年復員してマウンドに上ったものの、度重なる戦地での肩の酷使で、沢村から球速はおろかコントロールさえも奪い去っていた。

そして翌年、冒頭の非業の死を遂げる運命へ。

「栄ちゃんは、身体が弱て、親父の勧めで野球をはじめたんやさ。板塀に印付けて、それを目掛けて一生懸命投げ込んだらしいわ」。

昨年8月に86歳の生涯を閉じた、三重県伊勢市の故・山口千万石さんの言葉だ。

千万石さんは、小・中・高と一年先輩に当る、沢村の恋女房。

京都商業時代には、沢村とバッテリーを組み、日米野球までを支えた。

「栄ちゃんの球は、きっついもんで、痛とて痛とて」。

沢村の球は、低めが伸びてホップする。

千万石さんは、グローブのパンヤを抜き、沢村の球を補給し続けた。

最初は掌の内側が腫れ、馬肉で冷やしては、またそのまま球を受け続ける。

すると今度は、掌の内側の腫れが引き、手の甲に腫れが抜けるとか。

そうなれば、もう痛みが消える。

ミットの形に指が曲がった左手は、とにかく固い。

子供たちは、悪さをした後、親父の左手が上らぬよう震えて念じたとか。

沢村のプロ野球入団で、千万石さんにもプロ入りの声がかかった。

しかし祖父の猛烈な反対になす術もなく、沢村との別々の人生へ。

そして千万石さんは、球史にその名を遺した「沢村栄治」の語り部として、27歳の若さでこの世を去った沢村の分まで生き抜いた。

野球一直線に、いつまでも野球少年のままの眼をして。

ぼくは宇治山田駅からほどない、沢村の墓を詣で一輪の花を手向けた。

墓石の上に掲げられたボールに、ジャイアンツのGが誇らしげに刻まれている。

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数奇な時代に生きた大投手、沢村栄治。

無謀な国策の果てに、何度となく観衆の見守るマウンドと、血塗られた戦地を行き来しては、観衆の夢を乗せるはずの白球さえ、いわれなき人々の命を奪う手榴弾に持ち替えた。

「沢村さん。辛かったよね。あなたの類稀な右肩は、人々を喜ばせるものであって、人を哀しみの淵に追いやるものなんかじゃないよ」。

敵陣に一つ、また一つと、手榴弾を放り込みながら、もしかしたら沢村は、自分の野球生命と人生を引替えにしていったのかも知れない。

あなたの死から今年でちょうど60年。

日米野球の力の差は、ほとんど互角といっても過言ではない時代が訪れました。

過去の禍根は過ぎた年月の中に風化させ、日米それぞれの選手の活躍ぶりを、天国でゆっくりご覧下さい。

ぼくは墓前で頭を垂れた。

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毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「沢村栄治の恋女房」

さあいよいよ日米野球の開幕だ~っ!

今年は日米球界も、様々な話題に満ち溢れていた。

それだけに、今回の日米野球には、また格別の趣がある。

今でこそイチローやゴジラ松井の活躍で、日米の野球技術の差はそれほど驚きを感じるものではなくなった。

しかし今から70年前の昭和9年に、二度目の来日を果した、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックという名立たる大リーガーを率いる、全米オールスターチーム。

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対するは、日本プロ野球が産声を上げる2年前、東京六大学の選手らで構成された全日本軍。

全国を転戦し、全米軍が18試合を全勝。

しかし唯一、静岡県草薙球場で迎えた第10戦。

全日本軍は0対1で惜敗したものの、全米軍相手に6回まで、ベーブ・ルースの1安打だけに押える好投を見せた少年がいた。

三重県伊勢市出身、京都商業中退の沢村栄治17歳だった。

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左足を高く跳ね上げ、豪快なフォームで繰り出す160㌔を超えるといわれた剛速球と、三段に落ちるカーブで、大リーガーから見事9つの三振を奪取。

しかし7回、ルー・ゲーリックが沢村のカーブの曲がり端を叩き、ライトスタンドに本塁打を浴び、奇しくも1点の僅差で全米軍が面目を保った。

翌年沢村は、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」入り。

しかし対戦相手となるプロ球団は、まだ国内に誕生しておらず、米国遠征の途へ。

128日間で109試合をこなし、75勝を上げた。

剛速球と三段に落ちるカーブを武器に、沢村は三振の山を築いていった。

そんな沢村に、大リーグはピッツバーグ・パイレーツのスカウトが注目。

サインを求めるファンを装い、大リーグ入りの契約書を差し出したとか。

寸でのところで同行者が気付き、沢村にサインを拒否させたとも。

しかし今想えば、その時もし沢村が知らぬとは言えサインをしていたら・・・。

その10年後の昭和19年(1944)12月2日、3度目の出征でフィリピンに向かう、沢村を載せた軍艦が、台湾沖で米艦隊の魚雷で撃沈。

沢村が浴びた、最後のデッドボールとなった。

「『栄ちゃんの球は、きっついもんで、痛とて痛とて言葉で言えんくらいや』って、たまに想い出しては、この子らによう話して聞かせよった」。

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三重県伊勢市の山口ふ志子さん(78)は、壁に掲げられた夫の遺影に眼をやった。

満面の笑みを浮かべる遺影の主は、京都商業で沢村栄治とバッテリーを組んだ、故・山口千万石(せんまんごく)さんだ。

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沢村が冒頭の日米野球で活躍する寸前まで、沢村の剛球を左手でしっかと受け止め続けた。

大日本東京野球倶楽部は、沢村の恋女房でもある千万石さんにもプロ入りを勧めたが、祖父が頑として許可せずプロ入りを断念。

別々の道へと。

千万石さんは高校を卒業後、大丸デパートに勤務し、後に満州へと渡った。

昭和24年(1949)、シベリア抑留から解放され帰国。

大日本紡績(現ユニチカ)へ入社。

「最初は野暮ったくて、嫌味な感じの人やった。私も引揚者やっていう偏見で見てしまって。でも話してみると、野球のことばっかりやさ。まるで野球少年のまんま大人んなったみたい」。

昭和30年(1955)に、千万石さんはふ志子さんと結婚し、二人の男子を設けた。

「沢村さんの球は、低めが伸びてホップするって。親父はグローブのパンヤを抜いて、沢村さんの球を受け取ったらしい。最初に掌の内側が腫れて、痛とて馬肉で冷やして、またそのまま球を受け続けとると、今度は手の甲に腫れが抜けるらしいんさ。そうなるともう痛となんらしいんさ。とにかく左手が固とて、悪いことして怒られて、親父の左手が上ると震とたもんやさ」。

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二男の茂樹さん(46)が、古い写真を開いてつぶやいた。

指がまるでミットのような形に曲がっている。

「親父は、とにかく野球がすべてやった。どっこも連れってもうたことないし。一度だけやわ。甲子園へ母校の応援に連れてかれたんが」。

茂樹さんは、愚痴のような口調で、しかし父を誇らし気に語った。

千万石さんは、平成6年に86歳の生涯を閉じた。

まるで27歳という若さで散った、沢村栄治の恋女房として、彼の分まで野球一筋に生き抜くように。

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毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「ぱんじゅう」

東京浅草生まれのぱんじゅうとか。

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歴史は100年ほど(さかのぼ)るそうだ。

由来は、洋風の「まんじゅう」、だから外見が洋風で「ぱんじゅう」だそうだ。

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「地元の人らは、赤福とか食べやんし。お遣いもんやでなあ。その点ぱんじゅうは、庶民のお菓子やったんやで。浅草の本店が店閉めて、伊勢に本拠を構えたんやさ」。

はじめ屋店長のT.Kさん(36)は、ぱんじゅうを紙袋に入れ差し出した。

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1個50円。(2004.9.25時点)

程よい大きさのぱんじゅうを口に頬張った。

中からこし餡が溢れ出す。

なるほど、大判焼を明石焼きの形にして、つぶ餡をこし餡に代えたとでも表現しておこうか。

ぱんじゅう はじめ屋 伊勢市宮後

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毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「モボ・モガ」

しんみち商店街の伊勢市駅よりに、明治30年頃開業の洋品店があった。

まさに100年以上に渡り、南勢地方のモボ・モガを養成した店に他ならない。

写真は参考

「家の前が人力車置き場やって、みなここで人力車を降りて、遊郭へと消えていったんやろなあ」。

店主の三代目・K.Nさん(65)は、古い写真を取り出した。

昔は、紳士婦人の小物から、化粧品、雑貨、傘、靴、肌着はもちろんのこと、末はお雛様まで、ありとあらゆるものを販売していたとか。

「終戦後、このしんみち商店街に人が溢れかえっとった時代は、ここへ来れば鍋釜から一通り何でもそろったもんや。でも時代が激変するとなあ」。

Nさんは、商店街をまばらに行く人を見つめた。

長尾本店

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毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「御好焼 おもかげ」

2004.9.25特集掲載①でも紹介した、昭和の残像を色濃く残す、お好み焼屋。

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4年前に寝込むまでは、現在97歳のT.Sさんが一人で、半世紀に渡って切り盛りを続けた一銭洋食のお好み焼屋。(2004.9.25時点)

お婆ちゃんが寝込んだ後も、親族が団結して交代々々に店を開け、お婆ちゃんのお世話に明け暮れ、昭和の灯を消してはならぬと力を合わせる。

何とも不思議な気持ちに誘われる、近未来のお好み屋かも知れない。

この店に座せば、人生決してお金だけじゃない、何かを感じること請け合い。

御好焼おもかげ 伊勢市市之木

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毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「お伽の国のパッチワーク・キルト」

「何で男の人が!」。

E.Dさん(49)の鋭い視線と言葉が、ぼくを突き刺した。

通りすがりの来店者に、いきなりそんな行過ぎた態度って・・・。

そっかあ、そりゃあそうだろう。

首の伸びたTシャツにタオルを巻いて、店先のガラス窓に顔を引っ付けんばかりに覗き込んでいれば。

明らかにぼくの方が不審者に違いない。

でもそれほど素敵な、お伽の国の主人公達が、パッチワーク・キルトの人形として、ぼくを手招いていたんだから、何ともいたしかたあるまい。

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ここは13年前にオープンした、パッチワークの材料ショップと教室。

数々の賞を得たEさんの作品やら、生徒さんの作品の販売まである。

あなたも伊勢のお伽の国に、一度足を踏み込んでみては?

パッチワーク・材料小物「PINE TREE」 (2004.9.25時点)

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毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「うなぎ茶漬」

うなぎ茶漬の品書きに、思わず目を奪われ店内へ飛び込んだ。

「どれどれ・・・これか?」。

ショーケースの(おごそ)かな木箱の中に、うなぎの蒲焼が乾燥したような状態で納められている。

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「開いたうなぎを白焼きにして、お醤油と味醂で佃煮のように炊いたもんやさ。炊きたてご飯の上にうなぎをのせて、山椒の実と胡麻を振って、山葵(わさび)はお好みで、番茶をかけて召上っていただく、素朴な味の料理やさ」。

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この店に半世紀以上勤めるY.Nさん(85)が、茶漬の作り方を手真似た。

20年ほど前に板場で編み出された「うなぎ茶漬」の逸品は、ここだけのオリジナル。

一箱3.000円(2004.9.25時点)。

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御料理 八百正 伊勢市大世古

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毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「漁師御用達の釣具店」

軒先に吊り下げられた、魚の日干し網の大・中・小が、ただならぬ釣具店を印象付ける。

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やはり!

創業明治35年(1902)のつわもの。

「もともとは、縫糸や毛糸と釣具を一緒に、昭和10年(1935)まで販売しとったんやさ」。

三代目の女将・西岡佳子さん(60)は、幼い頃に養女として迎えられた。

「鳥羽の方から漁師さんが、引縄なんかの道具を揃えにお越しんなるんやさ。一般向けの趣味の釣具屋には、漁師さん向けの道具がありませんやろ」。

確かに、店内に所狭しと居並ぶ釣具は、街中で見かける釣具屋の品揃えとはまったく異なる。

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初めてお目にかかる不思議な道具は、素人のぼくにも一目見る限りに於いても、ただならぬプロ仕様の道具であることが伺える。

大漁旗を(ひるがえ)して帰港するためには、これくらいの道具揃えが無くては始まらぬものか。

西岡釣具店 西岡 佳子  伊勢市大世古

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