「素描漫遊譚」
「数奇な時代に翻弄された大投手、沢村栄治」
「巨人、大鵬、卵焼き」世代のぼくらには、いくつもの宝物があった。
ロウソクを溶かして塗り込み、友達から召し上げたお気に入りのショウヤ。
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太陽の光を呑み込んで、魅惑的な光を放つビー玉。
工事現場に埋もれる、欠けたタイル。
大人には価値など見い出せない、いずれも昭和を生きたぼくらの宝物だった。
中でも野球少年たちの憧れは、歴代巨人の名選手たちの似顔絵が描かれた、大判のショウヤだった。
特にその王様と目されたのが、「背番号14の沢村栄治」。
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野球に精通した父を持つ友達から、神格化された沢村像を聞かされ、すっかりその気になって、沢村のショウヤを手に入れたくて躍起になったものだ。
ご存知、沢村栄治は、三重県伊勢市出身。
京都商業を中退し、昭和9年(1934)17歳で、全米オールスターチームのベーブ・ルースやルー・ゲーリックに挑んだ。
6回までベーブ・ルースの1安打だけに押える好投。
160㌔を越える剛速球と三段に落ちるカーブで、大リーガーをキリキリ舞いさせ9つの三振を奪取。
しかし7回に、ルー・ゲーリックにカーブの曲がり端を叩かれライトスタンドへ。
全日本軍は沢村の好投を援護できず、わずか1点差に泣いた。
その年の暮れ、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」に入団。
しかしまだ、国内には対戦相手のプロ球団が誕生しておらず、翌年は米国へ遠征。
昭和11年(1936)、日本のプロ野球が開幕。
19歳の沢村はエースとして、颯爽とマウンドに上った。
数々の超人的な記録とともに、沢村がいかに偉大で稀有な投手であったか、それを物語るエピソードも数多い。
160㌔を越えるといわれた剛速球を、何とかバントしたら、あれよあれよとレフト前ヒットになったとか。
しかし翌昭和12年(1937)には、日華事変が勃発し、もう一つのバットを銃に持ち替えた日本軍は、抜き足なら無い戦争の泥沼へと歩を進めていった。
2年間のプロ野球シーズンを終えて、年を越した昭和13年(1938)1月、中国へと出征。
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戦地では肩の強さを買われ、最前線でボールを手榴弾に持ち替えて、敵陣へと剛速弾を放り続けた。
昭和15年(1940)に復員し、プロ野球に復帰。
手榴弾の投げすぎが崇り、球速は以前ほどではなかったものの、球史に残る三度目のノーヒットノーランを樹立。
2年間プレーした後、昭和17年(1942)に二度目の召集でパラオへ出征。
翌年復員してマウンドに上ったものの、度重なる戦地での肩の酷使で、沢村から球速はおろかコントロールさえも奪い去っていた。
そして翌年、冒頭の非業の死を遂げる運命へ。
「栄ちゃんは、身体が弱て、親父の勧めで野球をはじめたんやさ。板塀に印付けて、それを目掛けて一生懸命投げ込んだらしいわ」。
昨年8月に86歳の生涯を閉じた、三重県伊勢市の故・山口千万石さんの言葉だ。
千万石さんは、小・中・高と一年先輩に当る、沢村の恋女房。
京都商業時代には、沢村とバッテリーを組み、日米野球までを支えた。
「栄ちゃんの球は、きっついもんで、痛とて痛とて」。
沢村の球は、低めが伸びてホップする。
千万石さんは、グローブのパンヤを抜き、沢村の球を補給し続けた。
最初は掌の内側が腫れ、馬肉で冷やしては、またそのまま球を受け続ける。
すると今度は、掌の内側の腫れが引き、手の甲に腫れが抜けるとか。
そうなれば、もう痛みが消える。
ミットの形に指が曲がった左手は、とにかく固い。
子供たちは、悪さをした後、親父の左手が上らぬよう震えて念じたとか。
沢村のプロ野球入団で、千万石さんにもプロ入りの声がかかった。
しかし祖父の猛烈な反対になす術もなく、沢村との別々の人生へ。
そして千万石さんは、球史にその名を遺した「沢村栄治」の語り部として、27歳の若さでこの世を去った沢村の分まで生き抜いた。
野球一直線に、いつまでも野球少年のままの眼をして。
ぼくは宇治山田駅からほどない、沢村の墓を詣で一輪の花を手向けた。
墓石の上に掲げられたボールに、ジャイアンツのGが誇らしげに刻まれている。
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数奇な時代に生きた大投手、沢村栄治。
無謀な国策の果てに、何度となく観衆の見守るマウンドと、血塗られた戦地を行き来しては、観衆の夢を乗せるはずの白球さえ、いわれなき人々の命を奪う手榴弾に持ち替えた。
「沢村さん。辛かったよね。あなたの類稀な右肩は、人々を喜ばせるものであって、人を哀しみの淵に追いやるものなんかじゃないよ」。
敵陣に一つ、また一つと、手榴弾を放り込みながら、もしかしたら沢村は、自分の野球生命と人生を引替えにしていったのかも知れない。
あなたの死から今年でちょうど60年。
日米野球の力の差は、ほとんど互角といっても過言ではない時代が訪れました。
過去の禍根は過ぎた年月の中に風化させ、日米それぞれの選手の活躍ぶりを、天国でゆっくりご覧下さい。
ぼくは墓前で頭を垂れた。
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