毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「おじいさんの時計屋さん」

小さな小さな店の片隅に、時計職人が座っている。

壁には数々の柱時計が、永遠の時を刻む。

「100円で時計が売られて、壊れたら捨てればいいって時代なんやて」。

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何とも嘆かわしげに、中川(たつる)さん(65)は、吐き捨てるようにつぶやいた。

元々昭和7年(1932)に大垣市で開業した、時計屋の二代目。

しかしクォーツ時計の時代と共に、衰退化の一途。

ついに平成10年に閉店。

しかしその後も一級技能士の技に、ぽつりぽつりと時計の修理が持ち込まれた。

3年程前「職人の店を作らんか」と、柳ケ瀬商店街から誘いを受け、実験のつもりで機械時計修理の専門店を開店。

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1ヶ月の間に、修理依頼が見る見るうちに溜まった。

「これも150年ほど前の懐中時計やて。家督を継ぐものに渡したいから修理をと、三重の方が持ってこられたんやて」。

老時計職人は、我子のような眼差しで掌の中の懐中時計を見つめた。

おじいさんの時計屋さん 岐阜市柳ケ瀬

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「元祖みそステーキ鉄板焼 ライオン」

「まあだいたい、7割のお客さんがみそステーキを召上るんやて」。

昭和7年(1932)創業の、元祖みそステーキ鉄板焼「ライオン」の二代目・岩田満さん(65)は、昼ご飯の手を止めて笑った。

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地味噌の赤に秘伝の調味料を加えたソースを絡める逸品。

「これがビールは勿論、白飯にぴったりなんやて」と、いかにも誇らしげ。

150gのポークが1000円で、100gの飛騨牛が3000円。(2004.11.28時点)

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宵は柳ケ瀬の、綺麗どころのママさんたちと、鼻の下を長くした旦那衆で賑う。

ライオン 岐阜市弥八町

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「湯葉勇」

一度に10枚の湯葉が、釜から竹串で引揚げられるのを待つ。

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「湯葉は何と言っても、国産大豆と井戸の伏流水だけが命やで。他には何も足したりせんのやて」。

慶応3年(1867)創業の湯葉勇・5代目の山田政雄さん(53)は、湯葉を揚げる手を止め、やさしげな眼でそうつぶやいた。(2004.11.28時点)

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岐阜市内に一店だけの湯葉の専門店。

寺社町ゆえに続く、精進料理には欠かせない逸品。

オリジナルの蛤ゆばに、濃厚な豆乳の汲上げゆば。

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いずれも厳選された大豆へのこだわりと、長良川の清流を受け継ぐ137年の心意気がこもる。

湯葉勇 岐阜市本町

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「タコ舟」

「駅伝に出場するっていう、すごく華奢(きゃしゃ)な身体のランナーが入ってきて、あれもこれもって5人前を平らげて、口に指を突っ込んでトイレに駆け込んでくんやて。可哀想で見てられんって」。

アスリートたちから「お母さん」と慕われる、S.Gさん(60)は、レースを目前に控えて極度のストレスを抱く、数々の歴代ランナーに想いを馳せた。

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11年前のオープン以来、スポーツ史に名を遺した有名な選手から、名も無く消えて行く選手の「お母さん」であり続けた。

「私、スポーツのことなんて、何もわからへんのやて」。

そんな「おっかさん」の手料理だから、妙に恋しいのかも。

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たこ焼・お好み焼に鉄板焼。

それに自家製のラッキョウと梅干。

今年もまた、駅伝にしのぎを削る子供たちが帰って来る。

タコ舟 岐阜市長良福光

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「ぎふ初寿司 芥見分店」

Qちゃんが小さな頃から、ご両親と共に訪れた店。

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シドニーの金メダルで一躍時の人となった、郷土の英雄Qチャンを讃え、2000年11月から始めた「尚ちゃん定食」。

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御代は940円。(2004.11.28時点)

新鮮なネタのにぎり寿司と小鉢、コロ蕎麦に茶碗蒸とフルーツのてんこもり。

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これでこのお値段とは、なんとも良心的すぎる!

お城を模した店の外観に、ぎふ初寿司の風格が感じられる。

ぎふ初寿司 芥見分店

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「マラソン校長」

勉強したいわけでもなく、皆がただそうするからって感じで、他に()したる理由もなく、ぼくは高校へと通った。

しかもそれは、ぼくの学力ではたぶん無理であろうと思われた高校の、合格発表の日を境にそうなってしまった。

中学校の出席順でぼくの一つ前だった、「オ」より前の「イ」君。

ぼくより彼は優秀だった。

にも関わらず、私立も公立も志望校が同じ。

高校の受験番号表も一番違い。

合格発表板を前に、肩を落す彼。

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「エエッ!そんな馬鹿な!」と、意外な結末にぼくも驚いた。

もしかしたら、受験票が取り違えられたのかなあ?

彼が落ちるはずなどないと、信じられない想いで一杯になったからだ。

番狂わせで、入学してしまった高校。

その想いから逃れることなど出来なかった。

学校からすれば、考え方も生き方も型破りだったぼくは、迷惑極まりない存在だったのだろう。

成績も良くなく、学校の規範には(そむ)く。

ぼくは母と共に、何度と無く校長室に招かれた。

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校長からすれば、招かざる客だったかも。

そんなぼくの高校の校長は、マラソン好きな校長として、ちょっとは名の知れた存在だった。

ある日、交通機関が一斉にストライキを決行。

いや、或いは始発ギリギリで回避した時だったか。

校長の自宅から学校までは、ゆうに30㌔はあろうかという距離を、朝4時に自宅を出て、学校までトイレットペーパー片手に走りぬいたのだ。

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当然朝礼時には、ジャージ姿のまま立ち、身体から湯気が噴きだしていたように想う。

校長は朝礼の中で、自らの精神力を誇らしげに語った。

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中でも圧巻は、途中で催すであろう便意を見越し、トイレットペーパーを携帯。

誰もいない真っ暗な大地で、見事本懐を遂げたとか。

しかし待てよ。聖職者の長たる校長が、野糞を野良犬のように放置したんだろうか?

まさか愛犬家のように、新聞紙に包んだ糞を、スーパーの袋に詰めてブラブラさせながら、学校へと走り続けたとは到底考えられない。

ならば、その残骸はいったい?

ぼくは校長の美談の中に、不審な陰りを見出し独りごちていたように想う。

それから数年後。

小さな駅の片隅にあった、も一つ小さな居酒屋のカウンターで、ぼくは校長と偶然再会した。

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「あっ、校長先生!」。

と言っても、何千人という教え子と接して来られたことだから、どうせぼくのことなど想い出すわけなんかないって、そう自分に言い聞かせ軽くご挨拶をした。

「おおっ、岡田か?」。

エエッ、そんな馬鹿な?

「久しぶりだなあ。ちょっと大人になったなあ」と、追い討ち。

何でも校長生活の中で、ぼくほど校長室を訪問した生徒は、後にも先にもなかったとか。

それは決して良い意味ではないが、ぼくが忘れられない存在だったのだろう。

酔う事しきり。

校長に酌をさせたことに、妙な快感を感じた。

しかし御代は、きっちり割り勘だった気がする。

でも結局最後の最後まで、喉につかえて出し損なった質問があった。

そう、野糞の処理だ。

本当の所は結局わからず仕舞い。

でもそんなことを問いただしたところで、真実を得たところで、ぼくの人生が何か劇的に変わるものではない。

所詮、知らないから良いこともある。

そう想うと、何だかものすごく爽快な気分になった。

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冬の凍てた空に、ただオリオンの光だけが勇壮に輝いていた。

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「岐阜市駅伝コース界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、「全日本実業団対抗女子駅伝」を控える岐阜市界隈へ。

アスリートの集う長良川競技場から金華橋を経て、市内中心部へと。6区間42.195㌔のコースで、日本一を競う。

神はどんなドラマを、用意していると言うのか?

運動音痴でマラソンが大の苦手だったぼくは、典型的な無知だったと想う。

でも草野球だけは、三度の飯より大好きでたまらなかったから不思議だけど。だからスポーツに関する専門用語なんて、まったくチンプンカンプン。

覚える気もさらさらなかった。

ある日の小学校の学び()

担任の先生が「エキデン競争」を話題に取り上げた。

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運動会が間近に迫り、いつでも腹ペコのぼくらは、「パン喰い競争」への出場を嬉々として狙っていた。

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そんな折に「エキデン競争」のお話。

おかげでぼくの思考力は、脳下垂体を一気に駆け下り、どうやら胃袋の辺りに居場所を換えてしまっていたのかも知れない。

たぶん先生は、運動会を前にリレーのチームワークの大切さとかを、お話になっていたのだろう。

先生の話を聞きながら、「エキデン競争」の大きな流れは理解できた。

でも何時まで経っても先生は、肝心なことを話してくれない。

『何でだろう?』

『肝心な部分は?』

『いったいどうやって?』

『どこで?』

『どんな状態で競い合い、次の区間を走りぬくんだろう?』

『それって途中でお腹が痛くなったりしないんだろうか?』

やたらと余計な心配ばかりが押し寄せる。

もう既にぼくの欲求は、沸点へと達しつつあった。

「何か質問あるか?」。

先生のその一言を待ち侘びていたように、ぼくは大きな声で「先生!ハイッ!」と、真っ直ぐ手を上げた。

皆がぼくに注目した。

運動音痴のぼくが、まさか質問するなんて。

どうせそんな風に、皆がぼくを見ているに違いない。

顔が紅潮するのに気付いた。

「ハイッ!じゃあ岡田くん!」。

ついに来た!この瞬間が!

でもどうしても、自分自身で確かめぬわけにはいかぬ!

「先生!ところで駅弁って、6区間とも別々の名物弁当とかが出るんですか?それに選手は、(たすき)を受け取ってから何処で食べるんですか?立ってですか?それってお行儀悪いから、それとも座って?でも食べて直ぐに走って、お腹痛くなる選手っていないんですか?」。

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ぼくは心にしこっていた、すべての疑問を矢継ぎ早に吐き出した。

あたりは水を打った静けさ。

ぼくは内心『勝った!』と思った。

しかし5秒もしないうちに、その(おご)りは打ち砕かれた。

「岡田くん。それって『駅弁』でしょう?何で『駅伝競走』で『駅弁』食べることになっちゃうわけ?」。

教室中、(せき)を切ったような笑いの洪水に(あふ)れかえった。

どうやら今想うと、それ以来ぼくのマラソン出場嫌いは、一気に加速した気がする。

さあそれでは、アスリートたちが42.195㌔のドラマを演じる、岐阜市界隈を、一足お先にのんびりと漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「岐阜の全日本実業団対抗女子駅伝競走大会」

岐阜の師走。

寒風を切り裂いて駆け抜ける、華麗なアスリートたち。

金華の麓から大垣を経て、再び岐阜城を仰ぎ見ながら喝采を目指す。

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沿道に幾つもの感動と興奮を振りまき、アスリートたちは白い吐息だけを風に躍らせ、ひたむきに走り抜ける。

今年もまた数々の名場面を刻んだ「第24回全日本実業団対抗女子駅伝競走大会」の、スタートを告げる号砲が鳴り響く。

「何でこんなに苦しい想いをしてまで、走らなきゃなんないの?」。

運動音痴のぼくは、毎年冬が大嫌いだった。

いや、冬そのものを(うと)ましく想っていたのではない。

厳密に言えば「冬のマラソン大会」って奴が苦手で、何とも忌み嫌っていたのだ。

だから毎年決って「マラソン大会」の前日には、咳き込んだり熱が出て、公然と病欠の勲章を得て、まんまと敵前逃亡を決め込んだりした。

毎年その技術は巧妙化し、6年生の頃にはすっかり、自らの体調を見事なまでにコントロール出来るほどの腕前となった。

今考えてみれば、それほどのセルフコントロール力があったなら、何故もっと他に有意義な使い道を考えられなかったのだろう。

ともかくマラソンだけは、ご免(こうむ)りたかったのが本音である。

「尚子は親思いやったでね。中学の部活で陸上部を選んだ時も、靴の他に何にも道具揃えんでいいからって」。

岐阜市大洞緑山の高橋良明さん(63)は、部屋中Qチャンの写真に囲まれた応接で、穏かに笑った。

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この御仁こそ、2000年シドニー五輪の立役者の一人、女子マラソン金メダリストに輝いたあの高橋尚子さんのお父上だ。

それが証拠に、シドニーを駆け抜けたマラソンシューズと、強豪シモンを交わして抜きん出た際に、沿道へ放り投げたあのサングラス、それに国民栄誉賞の大きな盾が、サイドテーブル上に無造作な状態で置かれていた。

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こうお膳立てが整ってしまえば、後はもうQチャンの生い立ちに迫るしかない。

高橋父は、昭和39年(1964)春に、岐阜県清見村の小学校で教壇に立ち、2年後に岐阜市内の小学校へと転勤。

翌、昭和42年(1967)に同僚の紹介で中学校教諭の滋子さんと結婚。

昭和44年(1969)に長男を、そして昭和47年(1972)5月に尚子さんをもうけた。

「普通に元気な子やったね」。

もっと激的な初対面かと思いきや、何のことはない極々(ごくごく)ありふれた父と娘の逢瀬だったとか。

両親共に教師の聖職。

当然教え子への愛が優先し、我子の子育てには犠牲も生じた。

「私が忙しかったから、尚子は早くから精神的に自立していたわね。遠足の準備も早くから計画的に済ませるような」と、高橋母。

本を読むにしろ、絵を描くにしても、ピアノの練習でも、とにかく自分が納得するまでやめようとはしない。

Qチャンはそんな少女だった。

中学で陸上と出逢い、走る道に進みたくて岐阜県立岐阜商業へ。

「かけっこやっとっても食べてけんで、教員免許を取ってこい!」。

高橋父の言葉に従い、商業高校の教員免許を取得。

次いで大阪学院大学へ。

4年の時、リクルートの北海道練習に加わったことで、小出監督と運命的な出逢いが。

やがてシドニー五輪へと、夢のエスカレーターは頂点を目指して昇り始めていた。

「ちょうど34.5㌔地点やった。シモンと競り合う尚子の姿が見えたんやて。尚子側の歩道は、木陰で涼しく黒山の人だかり。私らが見守るシモン側は、カンカン照りの人気なし。尚子は私に気付いて、サングラスを渡そうとしたんやて。そのためにはシモンの前に出るか後ろに下がるかしないと、シモンを越えてサングラスを放れんかったんやて。それで尚子がスパートをかけて、シモンを抜きサングラスをよこして、そのままゴールに向かったんやて」。

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高橋父は、スタジアムを目指したが、黒山の人だかり。

スタジアムから歓声が上がった。

「ああ、誰かがゴールしたんや」。

スタジアムで喝采に包まれていた主が、自分の愛娘だと知ったのは、同じ観戦ツアー客からの携帯電話だった。

『さぞや感動の表彰式だったですね』と尋ねた。

「何が何が。もうその頃私らツアーは、バスで移動中。娘がゴールドメダルをもらっとる時に、私らはゴールドコーストへ向かっとったんやて」。

高橋父母が、金メダリストの娘とご対面するのは、それから1ヶ月も先。

羽島駅でこっそり「世界の尚子」を迎えた。

親子水入らずの夕餉(ゆうげ)は、Qチャンの好物という筑前煮と、たっぷりのゴマ油で炒った野菜一杯のオカラだったとか。

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「今でも帰って来ると、ちゃんとお手伝いしてくれるの」と、高橋母。

両親の願いは、Qチャンのロマンチックな人生のゴールだ。

Qチャンは永遠に、自分の描くゴールに向け、今日もひたむきに走り続ける。

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毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「アメ車屋」

ぼくらがアメリカに憧れた時代のアメ車は、どいつもこいつも図体のでかさを、これ見よがしにひけらかしてるような印象が強く、やたらと威圧的だった。

矢田町10丁目交差点角のピースインターナショナルには、アメ車の4WDやトラックから、逆輸入車までが勢揃い。

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シボレー、フォード、リンカーン、ダッジと言えば、泣く子も黙るアメ車の王道。

新車から中古車まで300万円程の手頃な価格で並んでいる。(2004.10.31時点)

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「待てよ?アメ車ってこんなに小さかったっけ?」。

そうかあ!

アメ車が、図体のでかさだけで勝負した時代も終わり、そこそこコンパクトなサイズに切り替えたのと同時に、威圧的なアメ車を見上げていたぼくが、いつしか大人になった証しか。

ピースインターナショナル 東区矢田東

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毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「アメカジ」

「質実剛健なアメカジ。色気はないけど、そこがまた」。

アメカジ好きがこうじてBLOW IN CLOTHINGを8年前にオープンした、K.Yさん(37)。

店内には、ジーンズに関連するありとあらゆる装飾小物までが、まったくもってテンコモリ状態。

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お目当てにたどり着くまで、十分に愉しませてもらえそう。

「アメカジはサイズなんて、あってないような世界。だから自分が一番楽チンで、愉しめるサイズで着こなせばいいんだから」。

廃退的な気分を自分らしく演出するには、もってこいのアメカジショップだ。

BLOW IN CLOTHING 北区東大曽根町上

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