毎日新聞「くりぱる」2005.3.27特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「昭和への憧憬」

「サツキとメイの家」は、タイムマシンの入口だった。

少なくとも昭和32年生まれのぼくにとって。

写真は参考

エイジングと呼ばれる経年変化加工技術で、見事に再現された「サツキとメイの家」のあちらこちらから、もうこの世にはいない父と母が、まるでぼくに呼びかけてくるような不思議な錯覚に陥った。

ついこの前の時代なのに。

もう手の届かない場所にいってしまった、途方もなく遠い時代のような気がする。

思わず耳を澄ましてみる。

「もう!また宿題もせんと、遊び呆けて!」。

でもお勝手の奥から、大好きだった母の声はもう聞こえない。

どうしてぼくは、こんなに遠くまでやって来てしまったんだろう。

大人になるのと引替えに、ぼくは一番居心地の良かった時代に別れを告げた。

誰もがそうであるように。

本物のサツキとメイの家があった時代に、ぼくだけこっそり止まっていられたら、どんなに幸せだっただろう。

つぎ当てズボンに、黄ばんだランニングシャツ、黒ずんでつま先の破れたズック靴でも十分だった。

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いつもこめかみにサイの目大に切ったトクホンを張り、不規則な醤油の染みの模様が入った割烹着。

首には酒屋の名入り手拭を巻き付け、細かな内職仕事に目を落した母。

お勝手の七輪からは、煮物のやさしい匂いがする。

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それでも母は、ぼくが玄関の引き戸を、そ~っと音を立てずに開けようとするだけで、「お帰り!」の一声を浴びせた。

まるですべてが、お見通しであったかのように。

人は誰のために大人になるんだろう。

どうして居心地の良かったあの頃に、止まっていられないのだろう。

時代はあまりにもけたたましい速度で駆け抜け、人が人としてごく普通にやさしくいられた時代をも、通り越したのだろうか?

だからお金を払わなければ、癒されないような時代を迎えたと言うのか?

戻りたくても、もう戻ることの出来ない昭和。

そして父と母の温もり。

家族たったの三人、丸い座卓で倹しい食事を囲んだあの頃が、ぼくにとって身の丈サイズの幸せな時代だった。

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出来ることなら、エイジングで父と母をも再現して欲しかった。

「サツキとメイの家」は、あの頃の我が家なんかより、遥に上流家庭に見える。

それでも、大好きだった昭和と言う時代の中へと、一瞬ではあってもぼくを連れ帰ってくれた。

ありがとう、サツキとメイの家。

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毎日新聞「くりぱる」2005.3.27特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「藤が丘駅界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、今月25日(2005.3.27時点)に開幕した、愛・地球博の長久手会場を、人込みに紛れながら、いつもよりはちょっと気忙しく、漫ろ歩いてまいりましょう。

「♪こんにちは、こんにちは、世界の国から~♫」。

1970年3月14日、「人類の進歩と調和」をテーマに、大阪府千里丘陵で大阪万博は月の石と故岡本太郎の太陽の塔を売り物に開幕。

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183日間の期間中に、6.421万人を集め閉幕した。

名実共に、昭和最大の万国博覧会であった。

敗戦からたったの四半世紀で、この国の多くの人民は、敵国アメリカを完膚なきまでに受け入れ、一目だけでも月の石を見ようと大行列が連日続いた。

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ぼくも一度だけ、父と親戚の父子と共に、日帰りで出かけたものだ。

しかし月の石のアメリカ館など、見ることは元より、行列に加わることすら叶わず、人気の無いパビリオンばかりを狙って、万博に出かけた言い訳を拾い集めるように、だだっぴろい会場を巡った気がする。

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ぼくの家は母が、親戚の家では叔母と従兄弟の妹が、それぞれ留守居役を務めた。

今ほど豊ではなかったあの頃、家族全員が連れ立って万博見学など、恐れ多くてそんな余裕など無かった。

それが極々自然な、平均的な日本の家庭ではなかっただろうか?

何を食べ、何を見たのかさえ、もう記憶の欠片すら見当たらない。

もしかすると最初から父もぼくも、一緒に連れて来られなかった母を気遣い、母への土産物ばかりを探し歩いていたのかも知れない。

大阪万博の月の石に代わる物が、永久凍土の中から深い眠りを妨げられ、遥々この地にやってきたマンモスの化石なのか、或いは?

その答えを探すのは、ほかの誰でも無いあなた自身なのです。

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今回は一足お先に万博会場と、万博会場へのアクセスの要となる名古屋市名東区の藤が丘駅周辺を、ちょっぴり気ぜわしく漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2005.3.27特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「愛・地球博 サツキとメイの家」

真っ黒クロスケも、トトロもここにはいない。

バス停で待てど暮らせど、ネコバスなんて来るはずも無い。

そんなことは、最初からわかっていた。

でも昭和30年代前半にこの世に生を受けたぼくは、この場所を目指し人ごみを掻き分けた。

「ええっ?本当にここがそう?」。

「なんかちょっと期待はずれ?」。

ぼくの周りからも、そんな声がこぼれ出した。

ここは、愛・地球博長久手会場の森林体験ゾーンにある、サツキとメイの家。

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それが証拠に、「草壁」の表札が門柱に掲げられている。

そう、あのアニメの名作、宮崎駿監督の「となりのトトロ」に登場する、サツキとメイの家だ。

森の中に再現された草壁家は、実際に昭和初期の建築手法が用いられ、エイジングと呼ばれる経年変化加工を施されたものだとか。

「ああっ!」。

井戸小屋の奥で、懐かしいブリキのバケツを発見。

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バケツの底を双眼鏡の要領で覗き込み、森の中で何かを必死に探すものの・・・やっぱりトトロは見つからない。

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ブリキのバケツの底板が、腐食してスッポリ抜け落ちている。

いや、これがその経年変化加工とやらか?

或いは田舎の納屋の片隅で、忘れ去られていたものをスタッフが探し出したものか。

いずれにせよ、アニメに登場するバケツそのままのようだ。

周りを見渡せば、重厚な丸石の自転車サニーロードに、(たらい)に洗濯板、亀の子束子にミヨシの固形石鹸。

いずれもぼくらの、まぎれもない昭和のブランド品が、さり気なく放置された様にそっと展示されている。

縁の下には、当時の住人が置き忘れた?昭和のガラクタも。

和式トイレの金隠しの向こうには、明り取りの窓まで忠実に再現されている。

でも、何かが違う!

アニメの世界の、スターたちがいないからではない。

あの時代を生きた者にしかわからぬ、暮しの中に漂う匂いが、身近に感じられないからだろうか?

或いは、住居から染み出でる、家族の匂いとでもいうべきだろうか。

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とにかくもうぼくらの昭和は、それほど遠くへいってしまったのだ。

21世紀最初の環境万博とか。

会場のあちこちでは、世界最新の技術力がしのぎを削りあっている。

そんな中にあって、あの敗戦の凄まじい傷を癒し、高度成長へと向かった昭和中盤の、明日信じて生き抜こうとした時代を映し出す「サツキとメイの家」。

世界からこの場所を訪れる人々の目に、今の日本の繁栄を築いた人々が、雄々しく生きた昭和の残像は、いったいどんなメッセージを持って語り掛けるのだろうか。

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載⑨

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「食事所 十三蔵(とみくら)

5年ほど前まで知多には、13の造り酒屋があり、それにちなんで「十三蔵」と号したとか。

「今はそれが7蔵になっちゃって」と、店長。

佇まいは、窯屋の納屋を改造した風情溢れる造り。

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京風うどん、おにぎり、干物、豆腐が付いた「十三蔵ご膳」は、1.000円。(2005.2.27時点)

知多の地酒3種類がぐい呑みに3杯と、酒盗の1品が付いた「飲みくらべセット」1.0000円には、思わず生唾ゴクリ。(2005.2.27時点)

食事処 十三蔵 常滑市栄町

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「光きゅうす」

陶器の販売と陶芸教室、甘味にお食事までがラインナップ。

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至れり尽せりの店内には、オーセンティックな常滑焼から、可愛らしいキャラクターの焼物までがズラリ。

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「陶芸教室はお飲み物付きで、予約なし。1回1㌔の土がついて、電動ロクロでお好みの器作りをお楽しみいただけます」と、足立まち子さん(57)。

光きゅうす 常滑市栄町

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

修英舎(しゅうえいしゃ)

昨年4月に脱サラでオープンした、木工品に木製品の注文製作から修理までを手掛ける、修英舎。(2005.2.27時点)

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舎長の修理屋英兵衛こと伊藤英樹さん(53)は、当て字に見られるような洒落者。

開店前夜、友人が何気なく蛍光灯を眺めてつぶやいた。

「木工屋にしちゃあ、紐スイッチの取っ手がプラスチックとは、味気ない」と。

写真は参考

伊藤さんは早速木っ端で大きな取っ手をぶら下げた。

ある日、白内障のご老人が店を訪れ、この木製取っ手を喜んで買っていかれとか。

修英舎 伊藤 英樹 〠常滑市栄町

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「だんご茶屋」

「もともと土管の焼物屋だったんだけど、景気が悪なって植木鉢から最後は急須を焼いとった。でも親会社が倒産してまって、今じゃあ常滑焼のみたらし団子焼いとるだあ」。

店主の村田昌弘さん(66)は、大声で笑い飛ばした。

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と言っても、さっきから寡黙に団子を焼いているのは、もっぱら奥さんのたつ代さん(65)だ。

「俺はこの店の営業だで。お客さんとしゃべっとりゃええんだあ」。

土管坂の入口で、老夫婦の笑いがこだました。

醤油みたらし団子1本60円。

2本注文すれば、暖かな日本茶がサービスで付く。

香ばしい醤油の焦げるにおいと、濃いキツネ色の団子。

常滑焼の土管色した、滅法美味い団子茶屋。

だんご茶屋 常滑市栄町

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「アニュー常滑店」

平成元年に開店。

わずか8坪足らずの店内には、600アイテムを越える無添加食品や化粧品が所狭し。

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「これは、そんじょそこらには無い、冷凍の海鮮太巻き寿司です」と、店長。

レンジで4分間解凍すれば、鮮度バツグンの握りたて太巻き寿司の完成。

アニュー常滑店 常滑市栄町(2005.2.27時点)

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

陶美苑(とうびえん)

常滑駅の東側。

ひっそりと古い町並みに佇む白壁のギャラリー。

うっかりすると、ついつい通り過ぎてしまいそうなほど、風景に溶け込んでいる。

店内には、常滑の陶芸家たちの焼き物や、知多木綿の古布を再利用した小物が居並ぶ。

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「3月は、11日から14日まで、古布の洋服展です」と、C.Sさん(59)。(2005.2.27時点)

品のある暖かな笑顔を添えて、郷土の美を誇らしげに語った。

陶美苑 常滑市鯉江町

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毎日新聞「くりぱる」2005.2.27特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「偶然乗り合わせた一国の宰相」

随分昔の事だ。

ぼくは明治40年に、岐阜の盲学校に多額の寄付金を寄せた、盲目のニュージーランド女性を取材する為、首都ウエリントンを訪れていた。

彼女の遠い血縁にあたる老人がいると知り、ウエリントンから小型飛行機で、北島の中央に位置するパーマストンノースへと、朝一番で飛んだ。

写真は参考

ぼくは右側の前から5列目。

通路を挟み、2人掛けの席が左右に2列。

前後が15列ほどだったろうか。

最後の乗客として、右側最前列に品のいい老夫婦が載り込んだ。

「はて?どこかでみたような?」。

小型飛行機は、難なく大空へと舞い上がった。

軽い朝食のサービスが終わると、ぼくの後ろの席が何だか騒がしい。

こっそり振り返って見ると、女子高のスポーツチームが試合にでも向かうようだ。

万国どこの女子高生も、「賑やかで結構」なんて思っていると、カメラを片手に最前列の品のいい老夫婦の元へと向かった。

すると老夫人が席を立ち、カメラを受け取った。

女子高生は老夫人の席に座り込み、隣の老紳士に寄り添い、夫人がカメラでパシャ!

女子高生はとても満足げに、夫婦に礼を述べ自分の席へ。

これで終わりかと思いきや、次から次へと女子高生の記念写真は続いた。

ぼくの知らない、ハリウッドのスターだったろうかと思いながら、その微笑ましい光景を見つめていた。

パーマストンノースのタラップを降りると、警察官が一人、老夫婦と気さくに声を交わし、空港玄関に横付けされたステーションワゴンに導いた。

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「やっぱりビップなんだ」。

そう思っていると、老紳士が助手席のドアを開け、夫人を乗り込ませて自らハンドルを握って走り去った。

その夜取材を終え、ウエリントンのホテルへと戻った。

ビールを煽って資料整理をしていると、テレビの臨時ニュースが報じられた。

『ダイアナ・デッド』

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「・・・嘘だろう?ダイアナ王妃が亡くなったって?」。

信じられない気持ちで、その後の続報に釘付けになった。

しばらく時間が経ち、ニュージーランドのテレビ局の中継に切り替わった。

「あれっ!さっきの!」。

今朝の飛行機で女子高生の記念写真に収まっていた、あの老紳士が沈痛な面持ちで、ダイアナ妃の死を悼む声明を発表しているではないか!

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そう、ニュージーランドのジム・ボルジャー前首相であったのだ。

「なんと・・・」。

ぼくにとっては、生涯忘れえぬ歴史的な一日となった。

ダイアナ妃の死と、一国の首相がたまたま載り合わせた機内の女子高生全員と、何の気負いもなく一つの記念写真に収まり、護衛の警官と気さくに言葉を交わし、自らハンドルを握る姿。

後で知ったことだが、その日は休日を利用して地元に夫婦で戻っていたそうだ。

しかしダイアナ妃の事故により、首都ウエリントンへと急遽舞い戻ったとか。

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何とも気負いの無い、一国の首相の姿に、大らかでやさしいニュージーランドの国民性を垣間見た。

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