毎日新聞「くりぱる」2006.11.26特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「岐阜市界隈」

12月を迎えると、号砲轟く岐阜市長良川競技場。

寒風をものともせぬアスリートたちが、大垣城を目指し一斉に駆け出す、第26回全日本実業団対抗女子駅伝競走大会。

伊吹颪の歓迎を受け、大垣城を真っ先に折り返すのは誰だ。

そして6区間42.195㌔のドラマを締めくくるように、再び金華橋に現れ出でる選手や如何に!

岐阜の町を疾風のように駆け抜ける師走の風物詩、通称「岐阜駅伝」。

今年はどんなヒロインが生まれ、どんなドラマが待ち受けると言うのか!

昔の冬の朝の歩道といえば、朝露に濡れた枯葉の絨毯。そしてむこうから白い息を蒸気機関車のように、規則正しく吐き出しながら駆け抜けるジョギング愛好家がやって来たものだ。

ところが今はもっぱら、どっかの物騒な国の兵士みたいに大きく腕を振り上げては、颯爽と行き交うウォーキングの人たちに取って代られちゃったようである。

まあどっちにしたってぼくは、てんで運動音痴な軟弱もんだから、せいぜい飲み食い歩きくらいなものかなぁ。

そうこうしていると、こじんまりとしたスーパーの中から、揚げ物の馨しい匂いが手招く。

「うわっ!弁当詰め放題?」。

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「家のお惣菜は、み~んな手作り!正真正銘のお袋の味やでねぇ」。

岐阜市秋津町のスーパーニュー栄、肝っ玉母さんのY.Sさん(66)は、なんとも大雑把に笑い飛ばした。

肝っ玉母さんは美濃太田の産。

「愛があったもんやで、43年前に嫁いできたんやわ」。

その4年後の昭和42年にスーパーを開業。

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野菜果物は元より、鮮魚から肉類、雑貨や駄菓子に家庭用品まで、ありとあらゆる物が店内を埋め尽くした。

今では白和えや串カツ、煮物に煮魚といったお惣菜から、名物のお結びまで。

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肝っ玉母さんのお袋の味が、ショーケースにテンコモリ状態で勢揃い。

昼時ともなると近所のサラリーマンが、パック片手に山盛りお惣菜を詰め込む。

「ちょっとう!肉ばっか詰め込んどったらあかんよ!ちゃあんと野菜の煮物も摂らんと。肉ばっか食べとると怒りっぽくなってまうで」。

肝っ玉母さんは、客と言えど誰彼なしに健康管理に心を砕く。

「細々と商売続けてくには、他所の旦那も手名付けとかなんで」。

売れ筋商品だけに絞り込み、客の消費行動の心理を読んで、計算高く商品を陳列するコンビニとは大違い。

目当ての物がどこにあるのかも一筋縄では行かず、はたまた棚から何が飛び出すやも知れぬ、そんな不便利さと意外性が実に斬新で愉しく心地良い。

まるでぼくらが子供時代の、昭和の万屋(よろずや)そのもの。

小さなスーパーながら、肝っ玉母さんの心はスーパーにでっかい。

「昔は本当やて。ご飯三丈炊いて、500人分のお結び1500個も作っとったんやで」。

素描漫遊譚結びの地、大好きな岐阜を飾るに相応しい、肝っ玉母さんの大きな大きなお結び。

ほっこりとした温もりを宿す炊き立てご飯。

「いっただきま~す!」。

ぼくは愛情一杯のお結び片手に、名残を惜しみながら素描漫遊譚の結びの地を巡ります。

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2006.1 毎日新聞 新年別刷④

「名駅摩天楼計画」④

『下町の溜り』

ガラガラガラ。

重みのある、昔ながらの引き戸を開ける。

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一歩踏み込めば、溜りの香が漂い口中に唾が湧く。

ひんやりとした土間の片側には、5つの大きな樽と、飴色の(かめ)が置かれている。

「家は昔から、量り売りだけの醸造元なんだわ」。

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名古屋市西区名駅、昭和7年(1932)創業の山英商店、二代目の山田英樹さん(73)は、柔らかな物腰で語り始めた。

英樹さんは昭和7年に5人兄弟の長男として誕生。

「今でも桶ひっくり返すと、昭和7年8月にこの家を建て、10月に創業と書いてあるでね」。

まさに山英の、溜り醸造の歴史そのものが生い立ちなのだ。

「父が『大学なんか行かんでええ』って言うで」。

英樹さんは高校を上がると、父と共に味噌と溜りの醸造に精を出した。

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「昔はだいたい、2~3の町に一軒は、味噌醤油を醸造する店があったもんだわ。西区でも戦前は11軒あったのが、今は家だけだでね」。

戦後、都市開発の工事で井戸水枯れ、止む無く工場を移転した。

「水道水だと味が違うでかんわ」。

英樹さんが跡を継いで6年後、父が他界。

「大学なんか行かんでええ」と言った父は、自らの末路を知っていたのだろうか。

一日でも早くとの想いからか、郷土の味の製法を息子に伝授し、店の行く末を託した。

「先代の教え通り、昔ながらの製法と1年3ヶ月の熟成。それと甕出しの量り売りも、昔のまんま。本当は瓶詰めも嫌なんだけど、今の時代そうも言っとれんし」。

本来昔は、家々に味噌醤油の樽があり、客はそれを持参したとか。

「溜りも息をしとるでなぁ」。

溜りの詰まった樽。

英樹さんはキキュッと音を立て、口の木栓を抜き取った。

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ジョボジョボと音を立て、甕に溜りがほとばしる。

辺りに馨しい、日本の薫りが漂う。

「まあ指先で舐めてみやぁ」。

「旨すぎる!」。

つんと鼻を突く匂いなど無い。

柔らかな薫りと、まろやかな味が、口中にじわ~っと広がった。

「プ~ッと膨れ上がった焼餅を、溜りに浸して食べられたら、最高のご馳走だね」。

下町の味を、親子二代で頑なに守り続ける職人。

伝統の味は、この味を愛し続ける、下町衆の心意気に守り続けられている。

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2006.1 毎日新聞 新年別刷③

「名駅摩天楼計画」③

『食卓の王様、卵焼き』

「巨人大鵬卵焼き」。

今ほど豊じゃなかった昭和の半ば。

それでもぼくらは、継ぎ接ぎだらけの半ズボンで、一年中だって過ごせた。

草野球に砂場の相撲、ちょっぴり甘くて焦げ目の付いた卵焼き。

当時を生きた子どもたちにとって、卵焼きほどのご馳走はなかった。

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それは貧しかった、ぼくの家だけだろうか?

でもきっと、一部の裕福な家の子を除けば、大半の子供たちに愛されたからこそ、当時を形容する言葉として、冒頭のフレーズが歴史の一コマとして、しっかと横たわっているのだ。

そう言えばよくバケツを持って、養鶏やってる農家に、卵買いに行かされたものだ。

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地面に産み落とされた、糞まみれの卵。

でもとても楽しみだった。

卵掛けご飯の朝。

双子の卵だったりしたらもう大騒ぎ。

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たったそれだけで、一日中幸せになれた。

そんな思い出に浸りながら、ぼくは名古屋国際センターの東脇で、文字の薄れた看板を見上げていた。

タイル貼りの壁と、木製の引き戸。

名古屋市西区那古野、鶏肉鶏卵卸小売の西田商店二代目、S.Nさん(55)は、せっせと脇目も振らず、得意先に収める商品の小分けに没頭。

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「岐阜の瑞浪から仕入れた鶏を、その日の朝に締めて、氷水で冷やしてから、料理屋さんに配るんだわ」。

新潟出身の父が、名古屋で奉公し、戦中に独立開業。

Nさんは高校を上がると、直ぐに跡を継いだ。

「でも私が22歳の年に、父が亡くなって」。

以来、たった一人で商いを続けた。

「卵も昔は、今より高級品だったでねぇ」。

「そう言えば、ぼくらの遠足の弁当って言ったら、おにぎりと卵焼き」。

「それと、よっぽどじゃないと買って貰えなかった、台湾バナナだったし」。

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ついつい我が娘の、彩り豊富な弁当が思い浮かんだ。

何とも切ない溜め息と共に。

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2006.1 毎日新聞 新年別刷②

「名駅摩天楼計画」②

『板場の心意気!』

 「♪包丁い~っ本 晒しに巻いて 旅に出たの~は 板場の修業~♪」。

ガラス戸の向うには、普段お目にかかることさえ出来ない、板さん御用達とも思える庖丁の数々。

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「祖父が戦前に店を構えて、私は三代目の嫁」。

駅前中央市場の一角、丸五庖丁店の田中由美子さん(51)。

「だんだん寂しくなってきたわね。だって今の若い人達って庖丁使わないでしょ!カット野菜とかあるし。100円ショップの庖丁で、十分って思ってる人が多いでしょう」。

名古屋独特と言う、鰻を割く鰻割(うなさく)庖丁を取り出しながら、由美子さんがつぶやいた。

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ショーケースの中では、鱧切(はもぎり)庖丁からうどんやそばを切る庖丁までもが勢揃い。

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蛍光灯の明りを浴び、鈍い光を放っている。

「それ全部、家の工場で打ったオリジナルなの」。

確かに、柄には丸五と焼印で銘が打たれている。

さすがに売りっ放しではなく、砥ぎも修理も手掛ける専門店だ。

「なんだぁこりゃあ?」。

思わず天井から吊下がるクレーンを見上げ、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ああ、それは廻り砥石。(まぐろ)(さば)く時とか、日本刀のように刃の長い庖丁を砥ぐもの。今じゃあ、あんまり使わなくなったけどね」。

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 数少なかったに違いない、母の嫁入り道具。

長い年月で柄が細り、付け根も朽ち欠けた菜切り庖丁。

母はたったそれ一本で、全ての料理をこなした。

「あの庖丁は何処へ」。

もう二度と食べられない、母の剥いたウサギの林檎が、何故か無性に懐かしくて仕方なかった。

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2006.1 毎日新聞 新年別刷①

「名駅摩天楼計画」①

「サンロードとミットランド」

「♪モグラのチカちゃん行ったとさ。ナンナン名古屋の地下八丁…♪」。

昭和の丁度折り返し地点、昭和32年(1957)に国内初の地下街「サンロード」が、名古屋駅の地下に誕生。

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時を同じくしてこの世に生を受けたぼくにとっては、ここわずか10年ばかりの間に豹変した、名駅の変わり身の早さに、何とも度肝を抜かれる想いだ。

ミッドランドスクエアが一階また一階と、天への距離を縮める分だけ、ぼくの愛した昭和はひっそりと遠退いていってしまう。

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18年を刻む平成の世にあって、ぼくは今にも消え入ろうとしている昭和の残像を、追い求める姿勢に変わりは無い。

「大変でしょう。世も人も新しい時代に流され、変わってしまうから」。

よく取材中、そんな言葉を耳にする。

しかし、ドッコイ昭和の魂は、それでもひっそりと、そしてしたたかに生き長らえているのだ。

未来へと天を目指す、名駅摩天楼が(そび)える足元。

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変わり行く名駅を、まるで遠い異国のように眺めながら、今尚昭和の佇まいに身を置き、あの頃を刻んだ秒針の速さで、今を生き抜く人々を追った。

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「 世界家紀行」㉔(最終話)

04.10.15中日新聞三河版フジケン連載広告掲載

「終着の町サンパウロ」

旅の終わりに相応しい、真っ青な空。

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ブラジル・サンパウロ、坂の上にへばりつくよな町。

まるで天辺(てっぺん)の家は、神の一番近くにあって、神からの祝福を独り占めするかのようだ。

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公園の少ないこの町では、車がめったに入り込まないのを幸いに、路地が子どもたちにとって、(にわか)仕立(じた)てのサッカースタジアムと化す。

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はしゃぎ立てる子どもらの声。

使い古されたボールの行方を、夢中になって裸足で追いかける子どもたち。

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まるで40年ほど昔、ぼくらの少年時代そのものだ。

ただ当時の光景と異なる点は、野球とサッカーとの違いだけ。

ぼくらはグローブなんて買ってもらえるはずもなく、厚手の雑巾を母が縫いつけただけの、大きな手袋がミットの代わり。

それでも将来は、みんなプロ野球選手に憧れたんだから罪も無い。

まさに「巨人・大鵬・玉子焼き」の世代だった。

通りすがりの少年に問いかけたら何と言うだろう。

「レアル・マドリッド、ロナウド、フェイジョアーダ(ブラジル版母の手料理)」とでも、鸚鵡(おうむ)返しに応えるだろうか。

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約半年に渡ったこの旅も、日本の真裏に当たるこの地でやっと終える。

君は待ちくたびれたろうか?

それとも、「エッ!もう帰るって!」と、手荒く迎えてくれるだろうか?

何時の日か再びこの旅に出られたなら、ぼくは君と一緒だって決めてるって言うのに…。

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「 世界家紀行」㉓

04.10.8中日新聞三河版フジケン連載広告掲載

「アメリカンなお屋敷」

ここが今まで旅した家紀行の中で、最も恵まれた国の一つであるに違いないのは、疑う余地も無い。

手入れの行き届いた芝生と花壇。

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一人に一台ずつの、ピッカピカの自転車と、4人家族に2台の磨きこまれた大型自家用車。

レンガ造りの建坪50坪はあろうかと思われる、大きな平屋の邸宅。

そんなあ!

これがもっとも平均的な、郊外型アメリカ人の家だと言われたって。

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アメリカ・テキサス州の大地は、日本人のぼくからすれば、何とも嫌味なほどにでかすぎた。

そう言えばさっきのステーキ屋だってそうだ。

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Tボーンステーキが、並みの大きさじゃないのはまだわかる。

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しかしステーキの焼き上がりを待つ間、テーブルにブリキのバケツ一杯分の落花生が、ズッデーンと出された瞬間、思わず腰が引けたものだ。

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何とも大胆不敵。

周りの男たちは大声で会話し、落花生の殻を足元に捨てながらビールをあおり、肉の焼き上がりを待つ。

カーボーイハットにジーンズ姿。

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腰の太目の皮ベルトに、長めの銃身の拳銃でも差さっていようものなら、ぼくは思わず「カンバーック、シェーン!」とでも、モノクロームの世界に向って叫んだろうか?

ええっ?

国際電話の向こうから、「カンバーック、ダーリーン!」って、君の声が聞こえたようだ。

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「 世界家紀行」㉒

04.10.1中日新聞三河版フジケン連載広告掲載

「マングワ村の精霊の家」

この村は、24時間365日、ブッダと共にあるようだ。

日本は八百万(やおよろず)の神々、インドには3億3千万の神々が()()すとか。

ならばここ、タイのバン・マングワ村には、いったいどれほどの神々が、土と向き合って暮らす善良な民を、(まも)っておいでなのだろう。

稲刈りの日の朝、家長がご馳走を小皿に取り分け、庭先に奉られる精霊の家に供物を捧げた。

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精霊の家は、地中に差し込んだ丸太の上に、左右と正面がポッカリ開いた四角い箱を挿げただけの粗末な造り。

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廃タイヤのチューブが、雨除け用に屋根を覆う。

家長は燈明を灯すと(ひざまず)き、胸の前でそっと両手を合わせた。

ひた向きに祈りを捧げる姿は、何人たりといえども崇高な美しさを放つ。

仏の加護というオーラが舞い降りるせいか。わずかな静寂が、父を呼ぶ子どもたちの声に()き消された。

高床式の木造家からは、朝餉(あさげ)の薫りが立ち上り、子どもらは転げ出すように父を呼びに走る。

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犬が後を追う。

ニワトリは何事かとばかりに、運動不足の羽根を広げて身をかわす。

一昔前、ぼくらの国のどこにでもあった、ありふれた小さな幸せ。

どうにもぼくは、この風景に同化しそうだよ。

ねえ、こんな幸せじゃあ、君には小さ過ぎますか?

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「 世界家紀行」㉑

04.9.24中日新聞三河版フジケン連載広告掲載

「キューバのお赤飯」

カテドラルから荘厳(そうごん)な鐘の音が鳴り響く。

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カリブ海を(のぞ)む、世界遺産のオールドハバナ。

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ちょっと気取って葉巻なんぞをくわえ、スペイン統治時代の面影が残る街並みをゆく。

クリスタルと銘打たれた、ちょっと薄味の地ビールを(あお)りながら。

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何だかこうしていると、言葉も満足に()せぬのに、気分はキューバンボーイズそのものだから、手のつけようも無い。

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老朽化が進んだ建物の向こうから、赤銅色(しゃくどういろ)の顔にゴアゴアの髭を誇らしげに蓄えた男が、ぼくを手招いた。

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「まさか、モンテクリスティ?」。

恐る恐る、片言で問いかけた。

なぜこんなに可愛らしい名前なの!

明らかに名前負けの、いかつい男に肩を抱かれ、極東の地から訪ね来た小心者は彼の家へと。

3世帯9人の大家族が、130㎡の朽ち果てそうなアパートで寄り添いながら暮らす。

カリブの海にどっぷりと陽が沈んだ。

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「お待ち兼ね!」。

ささやかな晩餐(ばんさん)の宵。

家族が小さなベランダに(ひしめ)く。

メインはポークソテーと、コングリと呼ばれるキューバ風のお赤飯。

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もち米の食感には程遠いが、歓待された気になるから不思議だ。

もしも君がこの場に居合わせたなら、「そっかあ、キューバの人もお赤飯でもてなすんだ」って、妙に納得しちゃうかな?

でも、「それって、ちょっと違うんだよなっ!」。

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「 世界家紀行」⑳

04.9.17中日新聞三河版フジケン連載広告掲載

「グアテマラのタマーリ」

「あれっ、山田さん?にしちゃあ、ちょっと日に焼けた?」。

なんて会話が、グアテマラ・アティテラン湖を望む大地にこだました。

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ここに暮らすマヤ族の一つ、カクチケル族の顔には、どうにも見覚えがあるようでたまらない。

まるでぼくの体内に流れる血潮と彼らの血潮とが、言葉など難なく飛び越えて()きあうかのようだ。

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山の斜面を切り(ひら)いて建てた、9坪足らずのワンルームの家に若い夫婦と子どもが3人。

別棟の炊事場に座り込み、妻がタマーリと呼ばれる、トウモロコシの粉に挽肉(ひきにく)を混ぜ、(ちまき)の要領でトウモロコシの葉に(くる)んで蒸す素朴な料理を手際よく作り始めた。

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黄色い団子と、トウモロコシの葉の緑が対照的なコントラストを(かも)し出し、(なま)(つば)を止め()なく湧き出させる。

「いったいどんな味がするんだろう?」。

蒸し上がる蒸気に、トウモロコシの甘い薫りが溶け出して、炊事場を(おお)()くす。

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「いただきま~す!」。

ほっこり蒸し上がったタマーリに想わず舌鼓。

さすがに本場、原産のトウモロコシ。

ぼくはきっと、今夜の君への絵手紙を「君と食べたら、タマーリません!」と結ぶだろう。

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