JAF出版社「温泉で健康になろう」甲信越編2007.2 ④

「癒しの森と❝命湯(めいとう)❞巡り」

~熟年夫婦の木曽路旅~

木曽温泉「ホテル木曽温泉」(2007.2時点)

源泉45℃のかけ流し露天風呂。

写真は参考

湯船は昔、百草製造に用いられた陶器製の大釜と、寒天を煮た大きな蒟蒻(こんにゃく)釜。

炊き上がる釜飯の具にでもなった境地で、雄大な霊峰御嶽山を仰ぎ見た。

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JAF出版社「温泉で健康になろう」甲信越編2007.2 ③

「癒しの森と❝命湯(めいとう)❞巡り」

~熟年夫婦の木曽路旅~

木曽御嶽を仰ぎ見る至極の命湯を訪ねるを(めいとう)訪ねる

「釜沼温泉 大喜泉」

「ホタルが飛交う秘湯ですって!」。

妻の呟きは神のお告げとあきらめ、温泉療養指導士の宿「大喜泉」へ。

写真は参考

浴室入口の壁には、(おびただ)しいほどの礼状。

どんな効能書きよりも泉質の確かさを伝えている。

「大きな檜の湯船に2~3分。小さな13℃の源泉に1分ほど。それを2回繰り返すのが基本です」。

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ご主人の田口さんは、療養や湯冶の指導と、自慢の薬膳料理に腕を揮う。

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特にアトピーなどの皮膚病には最適。

「これください」。

妻は「温泉石ケン」を手にした。

「ハーブオイルとハチミツを加え、源泉で練ったものでアトピーにも効くんですって」。

2個入り800円。

普段の妻なら、とても手にしない高価な石ケン。

だが旅は見事なまでに、人の心とサイフの紐まで緩めてしまうものらしい。

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JAF出版社「温泉で健康になろう」甲信越編2007.2 ②

「癒しの森と❝命湯(めいとう)❞巡り」

~熟年夫婦の木曽路旅~

木曽の秘湯の隠れ名物『鉱泉カルピス』に舌鼓?!

「灰沢鉱泉」

旅館灰沢鉱泉は、まさに森の一部だ。

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8℃の源泉は透明ながら、沸かすと酸化し赤身を帯びる。

「まあ湯上りに、騙されたと思って一杯どうぞ」。

主人の羽毛田(はけだ)さんは、グラスに濃縮カルピスを1/3ほど入れ、源泉を注ぎいれた。

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「あらっ、意外。美味しいわよ!源泉の鉄臭さもないし。お肌にも良さそうだわ」。

妻は恐る恐るながらも、余さず飲み干した。

宿泊者には鉱泉カルピスか鉱泉梅酒が、無料で振舞われる。(2007.2時点)

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JAF出版社「温泉で健康になろう」甲信越編2007.2 ①

「癒しの森と❝命湯(めいとう)❞巡り」

「熟年夫婦の木曽路旅」

妻と二人きりのドライブなんて、何十年ぶりだろう。

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子育て後は、毎日を持て余し気味だった。

堪りかね妻がつぶやいた。

「ねえお父さん。新緑の湯巡りに出かけない?」。

想い掛けぬ言葉に、心が躍った。

『木一本、首一つ』に護り抜かれた日本一の美林

「赤沢自然休養林」

木曽ひのきは平安朝より重用され、やがて乱伐で山が荒れ、尾張藩は『木一本、首一つ』という、厳しい触書を出して美林を今に蘇らせた。

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「木一本で首が飛んだんですって」。

「あなたの会社にも居たでしょう。小指で首が飛んだ人」。

新緑の森が生む(けが)れなき酸素。

私たちは、都会で失ってしまった、笑いを取り戻した。

「これっ、理髪車ですって!」。

写真は参考

妻は子供のように中を覗き込む。

内部には昔ながらの床屋の椅子と鏡、それにアンティークなタオルの蒸器まで。

写真は参考

「延べ2万人も利用したんですって!」。

妻が唸った。

日本一の美林を巡る赤沢森林鉄道。

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GW頃から11月初旬までの運行。(2007.2時点)

問い合せ/上松町観光協会0264-52-2001(2007.2時点)

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毎日新聞「くりぱる」2006.12.24特集 最終号

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

350余回、28年。

途方もなく長い間、皆様に愛され続けた「くりぱる」も、いよいよ本号を持って最終回を迎えた。

ぼくは、その中でも終盤、わずか3年と3ヶ月を担当させていただいたに過ぎない。

しかしバックパックを背負い、あーでもない、こーでもないと、愛知・岐阜・三重の各地を旅しては、その町で出逢った方々と刹那的な逢瀬を愉しんだものだ。

ぼくの「くりぱる」は、たかだか3年3ヶ月でしかない。

しかし今こうして最後の原稿に向かい合っていると、39ヶ月の思い出が次から次へと蘇ってしまい、中々本題へと進めないでいる。

恐らくそれはぼくだけじゃないだろう。

編集に携った多くの歴代スタッフとて、ぼく以上の感慨深さでこの時を迎えているはずだ。

本号発行後にくり編関係者で、最後の打ち上げとお別れ会が開かれるとか。

ぼくももちろん参加させて頂く。

そしてフリーペーパーの先駆的な役割を全うした「くりぱる」の冥福を祈り、したたかに酔いつぶれることであろう。

活字離れが叫ばれる昨今でありながらも、多くの読者の皆様の声に支えていただけたことに、ひたすら心から感謝しながら。

ありがとう「くりぱる」、そしてサヨナラ「くり編」。

卒業とか、大晦日とか、旅行の最後の日とか、一つの事が終わる瞬間って、やっぱどことなく寂しいものだ。

名古屋駅前、ホテルキャッスルプラザの一階ロビー。

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ぼくは「くりぱる」の初代編集長を待ち続けた。

やっぱり1978年当時の編集長って言うんだから、それなりの御仁だろう。

少なくとも28年以上経ってるんだから、当時40歳だったとしても68歳。

正面入口でホテルマンに傅かれながら、威厳を放つようにやって来たダークスーツ姿の老人。

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まさか、あの人はどう見ても編集長って感じじゃない。どっかの名立たる企業の会長さんって感じだ。

「あれっ?あんた、もしかしたらくりぱるの?」。

さっきからぼくの隣りで、退屈そうな人待ち顔でいたちっちゃなオジサンは、どうやらぼくの独り言でも盗み聞きしていたようだ。

「ってことは?」。

「そうそう、俺がそれ!」。

「くりぱる」初代編集長の吉田哲郎さん(69)だった。

昭和31年に毎日新聞の印刷部に入社。

その後「くりぱる」発刊にあわせ、くりぱる編集室に配属された。

「印刷が間に合わんで、放り出されたんだわ」。

それから定年までの20年近くを、音楽担当として歩み続けた。

「最初の頃は媒体として誰ぁれも認めてくれんもんで、レコード会社のプロモーターやイベンターから相手にされず、『クリクリパーか?』って、よう馬鹿にされたって」。

ところがどっこい。

やがて「くりぱる」は、フリーペーパーの先駆けとして名古屋の音楽シーンを牽引し、全国的にも一目置かれる存在へ。

「昔は年間250~280本ほど、ライブの梯子したもんだて」。

名古屋の繁華街を原付バイクで、50半ばのオジサン編集長は颯爽と飛び回った。

「くりぱる」28年の歴史に、人生の20年間を惜しげも注ぎ込んで。

初代熱血編集長は「くりぱる」最終回に、止め処尽きぬ思い出談議の花を手向けた。

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毎日新聞「くりぱる」2006.11.26特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「クロコダイル・ダンディー(・・)???」

「えっ、なんだこの爪の生えたポーチ!」。

ショーウィンドーを覗き込むと、めっちゃめちゃワイルドなワニの爪先が蓋になった、煙草入れのようなポーチ。

黒々とし尖った爪が、何人をも寄せ付けぬオーラを振り撒いている。

「面白いでしょう、そのポーチ」。

輸入雑貨品の七番館、大野千波子さん(59)は、さも愉快そう。

写真は参考

昭和45年の創業時は、ハンドバッグの専門店。

その年の大阪万博でインド人と知り合い、アジア各国の民族衣装やアクセサリーから、生活雑貨まで幅広い品揃えへと。

「ここ柳ヶ瀬はホステスさんも多いから、チャイナドレスが人気やし、最近では披露宴のドレスアップや、卒業パーティーとか、カラオケの発表会とかでチャイナはよく出るんやわ」。

色取り取りのチャイナドレスが、店内をカラフルに彩る。

輸入雑貨品の七番館 岐阜市日ノ出町(2006.11.26時点)

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毎日新聞「くりぱる」2006.11.26特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「読書に耽る晩秋」

子どもの頃からぼくは、本屋で本を探してると、必ずと言っていいほど便意を催してならなかった。

確かテレビで、インクの匂いで便意を催すとかって言ってた気がする。

大人になった今でも、本屋に長居を決め込むと、子どもの頃のトラウマが蘇ってならない。

「あ・・・のう・・、何かお探しですか?」。

自由書房のA.Kさん(22)だ。

写真は参考

不意打ちにたじろぎ、ついつい口をついた台詞は「東海の天職一芸って本を探してるんです」。

加藤さんの先導でレジ前の売り場へ。

「これですかねぇ」。

さすがに入社4年と言うだけあって、躊躇うことなく本の在り処へ。

「ああっ、こ・これですう」。

特等席に平積みされたぼくの拙著とご対面。

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今更ぼくの本ですとも言い出せず、加藤さんの目を盗んでそそくさと店外へ。

それにしても大きな本屋さんだ。

哲学書や自然科学書、それに芸術書まで3フロアー丸ごと、ちょっとした図書館のようだった。

自由書房 岐阜市神田町

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毎日新聞「くりぱる」2006.11.26特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「お茶菓子ならぬお茶梅」

「元々コンピュータ会社の営業でして、飛び込んだ先で一粒試食させてもらったのが運の尽き。あまりの美味さに惹かれ、とうとう脱サラでこの店を始めたんです」。

平成8年開業の、京の梅「翔庵」坂隆行さん(42)。

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「梅干一つでそんな大胆な転職って?」。

ついついぼくも余分な一言。

「梅干じゃなくって、お茶うけ梅なんです。低塩仕込にハチミツを加えた完熟梅のフルーティーな味わいは、絶品ですから。まあお一つどうぞ」。

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そう言われちゃったらしかたない。

ぼくは「お茶事の小梅」を一粒口に運んだ。

冷蔵庫で冷やされた小梅が、ヒンヤ~リトロ~ッと口の中で弾け出す。

「なにいこれ!めっちゃめちゃ美味いじゃん!」。

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お一つと言われたにも関わらず、次から次へとお口の中へとホホイノホイ。

京の梅「翔庵」 岐阜市神田町

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毎日新聞「くりぱる」2006.11.26特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「結びの地で見つけた!むすび糸」

「むすび糸の繋ぎ目は、親と子の絆なんやて」。

岐阜生糸舗、二代目女将の細野まゆみさん(55)は、生糸の結び目を示した。

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岐阜ではもうここ一軒になった、生糸から着物までを仕上げる呉服屋。

客はむすび糸と呼ばれる生糸を購入し、目方約500㌘のむすび糸を繋ぎ合せ、丸い糸玉を作り上げる。

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次に結び合わされた糸玉は丹後の縮緬機屋へ。

客の好みの柄で、振袖から小紋や訪問着までを白生地に織り上げる。

次に好みの染めを決め、白生地を京染の染屋へ。

染め上がって戻って来ると、採寸し仕立屋へ。

「むすび糸から仕立て上がりまで、最低でも一年はかかるけど、三代は着てもらえるものやし。染め替えもきくから」。

全国からわざわざ訪ね来る客も多い。

「祖母から母へ。そして母から娘へ。『幸あれ』と、願いや祈りを込め一本一本生糸を紡ぐんやでねぇ」。

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気の遠くなる程、惜しげも無く費やす時間こそが、親子の情愛の重さなのかも知れない。

岐阜生糸舗 岐阜市今沢町

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毎日新聞「くりぱる」2006.11.26特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「岐阜市柳ヶ瀬界隈」

今回で最後となりました「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、第26回全日本実業団対抗女子駅伝競走大会に沸く、大好きな岐阜市柳ヶ瀬界隈が舞台です。

写真は参考

「素描漫遊譚」は、2003年の9月に名古屋市大須の町を皮切りに、3年と2ヶ月に渡って愛知・岐阜・三重の各地を訪ね歩いた。

永いようで短かった旅。

いつもぶらりと気の向くまま、そして足の赴くまま。

どうにも気になってしかたがない店や、店先で埃をかぶった奇妙な珍品に魂を吸い寄せられたものだ。

ぼくは旅の始めにあたり、いくつかの「お約束事」を立てた。

それは歯の浮くような、オベンチャラを一切()かないこと。

そして流行(はやり)の店やモノに執着せず、今と昔を有態に散りばめることだった。

なぜならぼくが訪ねる町では、いつも三世代の同居するような、そこはかとない体温を感じていたいからだった。

町の基本は、その町に暮らす人。

そして町の大きさやそこで暮らす人の数に応じ、やがて適度な距離感を持って様々な店が建ち並ぶ。

町のあちこちでは子供らが駆け回り、木陰で老人が憩う。

働き盛りの大人たちは誰も気忙しそうだが、それでいて駆け回る子供たちや老人たちを、ちゃんと視野の片隅に入れていた。

しかし昭和も半ば以降、時代は経済発展を最優先させ、その身代わりに緩やかだった町や人、店やモノとの距離感を引き離した。

マイカーブームが到来し、やがて郊外に大型の商業施設が鳴り物入りで誕生。

駅を取り巻くように発展を遂げた、一昔前の町並みは一変した。

まるで抜け落ちた虫歯のように、シャッターを硬く閉ざしたままの店。

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人通りの消え入りそうな商店街。

駆け回る子供たちや、のんびりくつろぐ老人の姿は、すでに遠き日の残像となった。

世の流れや、人の流れに諍うことなど出来ぬ非力なぼくは、「素描漫遊譚」の心の旅に、やり場のない怒りや淋しさを小さなメッセージに託し、せめてもの慰めにとこっそり認めるしか術がなかった。

「今昔合い塗れてこそ、町なんだ。老若男女が暮らし、それぞれが必要とする店やサービスがあればそれでいい。大企業や名のある再開発プロデューサーが、力任せにテーマを定めた嘘っぱちな街なんて、ぼくらが愛した町じゃない」んだと。

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「再開発の名の下に、駅前は悉くリトルトーキョーだ」。

ぼくは悔し紛れに、何度となくそんな言葉を口にしたものだ。

近代的と言う強引さを伴う言葉の影で、失われてしまったその町らしさや、その町だけの庶民の文化が妙に恋しくて。

「素描漫遊譚」旅立ちの町は名古屋の大須。

古びたメリヤス屋の隣りで、ビンテージ物のジーンズが吊り下がる、若者に人気の店と老人向けの店が同居する町。

そのアンバランスさが『町』そのものだった。

そんな想いで町と人を訪ね歩いたぼくの「素描漫遊譚」。

もっともっと沢山の町を訪ね歩き、もっともっと素敵な人に出逢いたかった。

ありがとう「素描漫遊譚」。

そしてサヨナラ「くりぱる」。

いよいよぼくの珍道中「素描漫遊譚」最終回。

結びの地に相応しい、今昔入り乱れる岐阜市柳ヶ瀬界隈を、感慨一入にぼくは最後の心の旅を始めます。

これまで永らくのお付き合い、本当にありがとうございました。

心より感謝いたします。

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