岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.8.19

1億が涙した、玉音放送。

写真は参考

焼け野原となった柳ヶ瀬は、65年前、いったいどんな朝を迎えただろう。

写真は参考

失った物はあまりに大きく、その日食うものさえ、こと欠くありさまではなかったか。

だがそれ以上に、誰もが平和の静けさを、しみじみと実感したはずだ。

爆撃機の爆音もない、どこまでも青く澄み切った、日本晴れの夏空を見上げ。

そして今日よりちょっとだけ豊かな、小さな明日がきっと来ると、そう信じることで、敗戦の哀しみと折り合いを付けながら。

写真は参考

その後柳ヶ瀬は、驚異的な速度で復興を遂げた。

そう当時の生き証人から聞かされた。

写真は参考

「岐阜は柳ヶ瀬が元気でないと、魂が腑抜けてまったみたいやで」。

写真は参考

65年後の柳ヶ瀬の朝は、シャッターを巻き上げる音と共にやって来る。

「おはよう」のさわやかな声が、アーケードの中を吹き抜けてゆく。

誰かにちゃんと、見守られていることが実感出来る瞬間だ。

写真は参考

そんなほっとする心の行き交う町、それが柳ヶ瀬商店街なのだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.7.15

各地で見かける○○銀座。

写真は参考

東京の銀座にあやかり、昭和半ばの高度経済成長期に名付けられたものだろう。

誰もが明日を信じ、豊かさを求め走り続けた時代の名残。

その結果、誰もが三種の神器に車や住宅を手にした。

写真は参考

だが豊かさの代償か、今では子が親を殺めたり、オレオレ詐欺に通り魔など、陰惨な事件が後を絶たない。

交通機関の発達は、移動時間の短縮で人と人との距離や、産地と消費地を縮め経済発展に寄与した。

写真は参考

しかし人と人との心の距離は、裏腹に遠のいてしまった。

それも心無い事件に与える、影響の一つではないか。

写真は参考

かつて歌の文句にもなった柳ヶ瀬。

昭和の終わりまで、県内屈指の賑わいを見せた。

写真は参考

だが平成の世が明けると、他の○○銀座同様に人の姿が消え、櫛の歯が欠けるように商店もシャッターを閉じた。

写真は参考

すると今度は、豊かさを手にした者が、殺伐とした社会に心の渇きを感じ始める。

()()恋しくて、要らぬ世話でも焼かれてみたい」と。

そんな心の渇きを潤す人情が、この町、柳ヶ瀬商店街に今なお色濃く残る。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

2010.7岐阜新聞「高山昭和館がらくた堂臨時営業」

7月に入ると、みんな夏休みまでを指折り数え出す。

梅雨明けまでには程遠いのに。

それは昭和半ばの小学生時代のこと。

日めくりを繰り、終業式までの残り枚数を数えたものだ。

写真は参考

今の子供たちとは違い、海外旅行やリゾート地への家族旅行など夢のまた夢。

せいぜい近場の海の家へ、日帰りで連れて行ってもらえりゃ御の字だった。

写真は参考

それでも夏休みという、めくるめく響きに恋焦がれたものだ。

しかし終業式当日が迫ると、どうにも憂鬱でしかたない。

出来るならその日が、この世からすっぽりと消えてくれないものだろうか。

本気でそう何度も考えたものだ。

なぜならその日さえ無ければ、出来の悪い通信簿も見られず、両親にも咎め立てされずに済むからだ。

写真は参考

しかしそう都合良く問屋は卸さない。

だから通信簿を受け取ると、母の雷から免れようと、ランドセルの一番下に押し込んでみたり、上履き袋にねじ込んだみたり。

だがその苦労も虚しく、梅雨明けの雷鳴よりも恐ろしい、母の雷が直撃したものだ。

写真は参考

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

2010.6岐阜新聞「高山昭和館がらくた堂臨時営業」

窓から外を眺めて、やっと雨だと気が付いた。

中学に上がる春先。

父は日曜大工で、三ヶ月かけ勉強部屋を建てた。

大好きな釣りも絶ち、製材所から家まで角材を担ぎ幾度も往復。

写真は参考

それからひと月。

隣りのご隠居の手を借り棟上げへ。

写真は参考

その後父はたった一人で、黙々と屋根のトタン張りから内装までを仕上げた。

そして6月、ついに完成。

その夜は母の提案で、親子三人が布団を並べ川の字に。

写真は参考

思えばそれが最後の川の字だった。

個室を得て間もない頃は、嬉しくて急ぎ帰宅したものだ。

ところがそれも束の間、期末試験を迎える頃には、梅雨入りを迎えた。

所詮、素人大工の安普請。

ひとたび雨が降り出せば、会話も出来ぬほどトタン屋根からけたたましい音が上がる。

写真は参考

まるで戦場さながらに。

だから雨音に慣れるまでは、勉強どころか眠ることさえままならなかった。

だが今はそれさえ妙に懐かしい。

もうこの先、トタン屋根を打つ雨音は聞けないだろう。

そう思うと急に、在りし日の父の顔が浮かんだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

2010.5岐阜新聞「高山昭和館がらくた堂臨時営業」

今日は書初めでもしようかと思ったのは良いのですが、よくよく考えて見れば筆も硯どころか炭も半紙も無い!ならば来年こそは、諸道具でも買い揃え、着物姿で床の間に座し、一念の目標でも揮毫するか!いや待て!書道具どころかわが家にゃあ、床の間どころか和室も無いじゃないかーっ!(苦笑)

色褪せたアルバムは、両親に愛された記録だ。

写真は参考

だが我が家のアルバムは、ぼくが満2歳の誕生日から始まっている。

なぜならその直前、昭和34年の伊勢湾台風で全てを失ったからだ。

写真は参考

五十を越え、古惚けたアルバムを開く機会が増えた気がする。

ふとその中の一枚に目が止まった。

おそらく3歳の頃か。

安アパートの6畳一間に、家財道具も疎らだから被災した翌年の節句だろう。

卓袱台にはチマキと柏餅。

写真は参考

壁を背に仁王立ちのぼくは、なんと素っ裸。

写真は参考

お腹に○金と書かれた、金太郎の腹掛け一丁で。

おまけに頭には、新聞紙の兜の折り紙。

写真は参考

思わず吹き出しながら眺めれば、腹掛けの下から何やら顔をもたげているではないか。

甲羅から頭を突き出したスッポンのような一物が。

節句人形を買うことも(まま)ならず、両親はぼくを金太郎に仕立て節句を祝ったのだろう。

子の成長を願う親心は、節句人形の大小などで測れはしない。

ありがとう、お父ちゃんお母ちゃん。

思わず両親が()()る方角に向かい、心の中で手を合わせていた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

2010.1岐阜新聞「高山昭和館がらくた堂臨時営業」

初春のお慶びを心より申し上げます。今年一年、何がどうなるのやら、さっぱり分かりませんが、ともかく健康でささやかな幸せを見逃さず、笑って過ごしたいものです。どうぞよろしくお願いいたします。

卒業式の練習か?

学び舎から仰げば尊しの歌が聞こえる。

あの日ぼくらは、卒業証書を手に校庭で夢を語り合った。

写真は参考

卒業文集の見果てぬ夢には、医者やプロ野球選手、果ては大会社の社長までと様々。

罪こそ無いが、よくまあ大法螺が吹けたものだ。

だがA君だけは違った。

「俺、勉強嫌いだで鮨屋になる。店出したら、たらふく食わせたるで遠慮するなよ」と。

写真は参考

社会に出ると夢だけを頼りに、生きてはゆけない歯痒さを嫌というほど思い知る。

多くの者の夢も砕け散った。

A君だけを除いて。

卒業から30年以上も経て、初めてA君の店を訪ねた。

捻り鉢巻き姿が板に付いている。

写真は参考

「よう来たなあ」。

そう言うと頼みもしないのに、次々に高級ネタが並んだ。

写真は参考

昔話で盛り上がり「お勘定」を申し出た。

「いいって。約束だし。あの日言ったろ!たらふく食わせたるで遠慮するなって」。

昔の面影を滲ませA君が笑った。

誰も何処かでいつか、夢と現実の(はざま)で折り合いを付け、それでも人は生きていく。

しかしA君だけは違った。

中学を出て一直線に、あの日の夢へと走り続けたのだから。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

2009.12岐阜新聞「高山昭和館がらくた堂臨時営業」

今年一年、ぼくの拙いブログにお付き合いいただき、心より感謝申し上げますとともに、皆々様が素晴らしい新年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

昭和半ばの男の子の遊びと言えばチャンバラゴッコ。

箪笥から失敬した風呂敷をマント代わりに、棒っ切れをへっぽこ刀に、斬った張ったの大立ち回り。

だが、どんなに胴を真っ二つに斬られても、誰一人として死にはしない。

写真は参考

それでも一応子どもなりにもルールがあり、斬られた側は一旦地べた倒れ込むのだが、すぐさまゾンビのような復活を遂げる。

特に人気が高いチャンバラゴッコの舞台は、氏神様の境内や廃工場、それに工事用の砂利が積まれた小高い山だ。

釣瓶落としの晩秋の陽が一気に傾くまで、ぼくらは飛んだり跳ねたり、斬って斬られてを繰り返し、当時一世を風靡した時代劇の映画スターを気取ったものだ。

だからかすり傷なんて朝飯前。

腕白坊主の勲章だった。

今なら「危ない」の一言で片付けられるであろうが、そもそもそんじょそこらに、棒っ切れなんぞはもう落ちてなどいない。

写真は参考

だがコンピュータ相手に物も言わず、殺人ゲームで格闘するより、よっぽど健全だったのではないだろうか?

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

2009.11岐阜新聞「高山昭和館がらくた堂臨時営業」

昭和は実に稀な時代である。

64年も一つの元号が続いたのは、大化の改新(645年)以来初。

関東大震災で大正が終わり、昭和に入ると金融恐慌、そして第二次世界大戦へ。

原爆の投下で終戦を迎え、人々は焼け野原の中、餓えに苦しみながらも、平和の訪れを実感した。

写真は参考

昭和39年、東京五輪の開幕と東海道新幹線が開通。

写真は参考

41年にはビートルズが来日し、ミニスカートブームが到来。

写真は参考

45年、大阪万博が開幕。

だがその後、オイルショックが直撃。

写真は参考

しかし60年代に入ると、誰もが泡沫(うたかた)のバブル景気に酔い痴れた。

写真は参考

つい40年前、人が人を平然と(あや)め合った戦争の惨劇を忘れ。

昭和という天秤秤は、呆れるほどに人々の心を(もてあそ)び、吉凶、貧富、悲喜と、大きく左右に触れ続けた。

これほど激動に満ちた時代はもう無いであろう。

ぼくは昭和半ばの生まれ。

着る物も食べる物も豊ではなかった。

毎日、棒切れをバット代わりに草野球。

写真は参考

だが今よりもっと輝く明日が、ぼくのポケットには詰め込まれていた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

JAF出版社「温泉で健康になろう」甲信越編2007.2 ⑥

「癒しの森と❝命湯(めいとう)❞巡り」

~熟年夫婦の木曽路旅~

(いにしえ)の旧中山道 上の段坂を行く

馬宿(うまや)小路の石段を登れば古の旧中山道、上の段坂。

漆喰海鼠(なまこ)壁の土蔵が続く。

写真は参考

「熟し柿シャーベットですって」。

妻は有無を言わさず、古民家を再生した「肥田亭和庵」の中へ。

写真は参考

器に丸く盛られた、熟し柿シャーベットがお出まし。

「真夏でも一年中召し上がっていただけます」。

写真は参考

適度な食感が残る粒状シャーベット。

熟し柿本来の甘さが爽やか。

和風モダンなビストロ松島亭とBar松島が軒を連ねる。

写真は参考

旅籠風のビストロと、土蔵を改装したBarが淡い灯りに浮かぶ。

「ねぇ、〇也さん。たまにはお酒でも飲んで泊まりましょうよ」。

写真は参考

何年ぶりだろう。

妻からファーストネームで呼ばれたのは。

町屋を改造した漆の館には、侘透塗(わびすきぬり)塗師(ぬし)、手塚さんの作品が並ぶ。

600年の歴史を誇りながら一旦途絶えていた木曽漆器を、手塚さんが見事現代に蘇らせた「八澤春慶」。

写真は参考

木地師が()り上げた天然木の美は、3年熟した黒目(くろめ)(うるし)の美を(まと)い、後の世までも自然の輝きを封じ込める。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

JAF出版社「温泉で健康になろう」甲信越編2007.2 ⑤

「癒しの森と❝命湯(めいとう)❞巡り」

~熟年夫婦の木曽路旅~

「御嶽明神温泉 やまゆり荘」

開田高原に湧く、47℃の庭園大露天風呂が評判の日帰り施設。

写真は参考

湯船からは赤松越しに、御嶽山の勇姿が臨める。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。