ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ①

美濃太田駅界隈「後ろ姿観音」

白い玉砂利が敷き詰められ、見事に掃き清められた境内。

その一角に、高さ60㌢程の、100体の観音石像が祀られている。

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頬杖を付き眠たそうに身体を傾げるお姿や、ただただ一心に両手を合わせ念ずるお姿など、100体それぞれの表情を湛える像。

そのお顔や光背は、長い年月の風雪に耐え抜いたせいか、全体の角張りが削り取られ、やんわりと丸みを帯びている。

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まるで数百年前の石工が打ち出した、荒々しい(のみ)痕を大自然の神の手が、時間をかけ研磨したかのようだ。

「だが待てよ?何かへんだ」。

さっきからずっと、心に引っ掛かっていた妙な不自然さに、やっと辿り着いた。

その不自然さは、最前列一番左端に祀られた、一体の観音像から発せられるものだった。

何と!

あろう事か、他の99体とは異なり、後ろを向いていらっしゃるではないか。

これまでぼくは、世辞にも信心深い方とは言えなかった。

だからことさら、人よりも多く観音様や仏様に接して来たわけでもない。

今さら悔やんでも始まらないのだが、それにしてもこんな後姿の観音像をお見かけしたのは、後にも先にもこれが初めてだ。

雛壇状に整然と祀られる観音像は、向って右から上下8体が5列、続いて上下に7体が4列、そして上下8体の4列と計100体。

「この(あたり)の方からは、『百仏様』と呼ばれ、親しまれてます」。

室町時代の文明6(1474)年開山という、由緒正しき禅宗の霊泉寺、高野禾堂(かどう)住職が庫裡から顔を覗かせた。

霊泉寺は、美濃太田駅から北東へ約600メートル。

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高山線と太多線を南北に跨ぐ陸橋を、北に渡りきった右手にある。

「実のところ、色んな説がありましてな。本当のところはいつ祀られたか、なぜ百体なのか。なぜ一体だけ、後ろ向きのお姿なのか、正確な記録が残ってないんです。ですから人によっては、『赤子を抱いておいでなんや』とか、『もしかしたら、異教の聖像やぞ』と、茶化すお方もおられます」。

住職も何か手がかりはないものかと、光背の裏側まで隈なく調べ上げたそうだ。

だが、戒名や寄進者の名は、どこにも刻まれていなかった。

名も無き古人(いにしえびと)は、この後ろ姿観音像に、いったいどんな願いを託したというのか。

もはやそれを知る術は無い。

後は(うつつ)の世を生きる者が、光背の向こう側へ、消え入ろうとされている観音様の後ろ姿を、どんな思いで眺め、何を感じるかしかない。

そう考えると、何やら時代を超えた浪漫に浸り入るようで、この場を立ち去りがたい気になるから不思議だ。

差し詰めぼくには、こう感じられた。

参考資料

『長良川鉄道、北濃までの38駅。長良川を1駅1駅遡上し、その町に生きる人々と出逢う度に、きっとお前は気付くであろう。気忙しく、常に何かと競い合い、やさしさや思いやり、そしてせめてもの人間らしささえ、かなぐり捨ててでも生き抜かねばならぬ都会と、これから訪ねる沿線の町とでは、あきらかに時計の針の進み方が違うことに。さあ、私に付いて来るがよかろう』と。

霊泉寺/美濃加茂市中富町

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いよいよ明日は「飛騨古川三寺まいり」!

どんなにコロナが世を震撼させたとは言え、飛騨古川にとって欠かすことがあってはならない特別な歳時記の一つ、「三寺まいり」。

確かに未知なるコロナの前では、規模を縮小しながらも、それでも歴史の灯と三寺まいりの和蝋燭の灯は、守り続けられました。

いかばかりのご苦労の積み上げであったであろうと、身に凍みるほど感じられてなりません。

そしていよいよ今年も明日、飛騨古川の寒の祭典「三寺まいり」が開催されるそうです。

ぼくももう一度、雪催いの夜、古川の地でかじかむ手をストーブの火で温めながら、三寺まいりの聖地でぼくの拙い歌「三寺まいり」を、地酒片手に白い息を吐きながら歌ってみたいものです。

そのためにも、その夢に向かって、今年もささやかながら、のらりくらりと頑張るつもりです。

せっかくですから、ぼくの拙い「三寺まいり」をぜひお聴きください。

「三寺まいり」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

瀬戸川に 明りが燈る  雪闇浮かぶ 白壁土蔵

 千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

飛騨古川 三寺まいり  娘御たちの 願い叶えや

瀬戸川に 灯篭流し  お七夜(しちや)様に 掌を合わす

千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

寒の古川 三寺まいり  娘御たちに 縁紡げや

 嫁を見立ての 寺詣り  小唄も囃す 白い息

飛騨古川 三寺まいり  娘御たちの 願い届けや

●「三寺まいり」公式飛騨市HP

「飛騨古川三寺まいり」開催(1月15日) – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2011.3.17

「春眠暁を覚えず」は、学校のある平日。

だが日曜は違う。

夜明けに父と自転車で、釣り場へと向った。

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ところがぼくは、小一時間も川面の浮きを眺めていればもううんざり。

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後は土筆や蓬を摘んだり、蓮華の蜜を吸い、オタマジャクシや蛙を追うばかり。

お昼のお結びなんてとっく平らげてしまい、お天道様が頭上に来る頃には「腹へったあ」の連発。

ついに父も根負け。

「じゃあ、角屋のおでんでも行くか」と。

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「待ってましたあ!」。

角屋のおでんのためだけに、頑張って早起きしたのだから。

縄暖簾を潜ると、出汁の香りと濃厚な味噌ダレの香に鼻がピクピク。

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「給料前やでおでんは一本やぞ」。

父は小声で言うと、鉢に蒟蒻を1本だけ取り、店主の目を盗み出汁を溢れんばかりに注いだ。

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「懐が寒い時は、ただの出汁飲んどきゃあ腹も張るで」と。

しかし次に行ってビックリ!

出汁が山盛り掬えたあのおでん鉢は無くなり、薄っぺらな皿へと取り替えられていたのだから。

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2011.2.17

昔のテレビCMに、エメロンの「ふりむかないで」があった。

各地の観光名所が舞台。

カメラが漫ろゆく黒髪の美女を追い声を掛ける。

すると美女が振り向き、♪振り向かないで 金沢の人♪とかの、歌が流れたリンスのCMだ。

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当時ぼくは中学の1年。

ある日悪友と名古屋駅界隈を、彷徨い歩いていた時のこと。

どっちが言い出しっぺか、悪ふざけでCMを真似「振り向いてください」と、道行くお姉さんに声を掛けた。

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するとあろうことか振り向いたではないか?

声を掛け一目散に逃げ出す約束だったはずが。

あまりの美しさに二つの毬栗頭は、その場で固まった。

その後何がどう転んだものか、3人で近くのジャズ喫茶へ。

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注文を問われ「ココアを」と答え大笑いされた。

後に分かったのだが、郷の弟と何処か似ていたのだとか。

今も忘れぬ店内に流れるジャズの調べ。

でもまだその時は、それがジャズだとはまったく知らなかった。

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何せ戦中派の両親が好んだ音楽と言えば、もっぱら軍歌と流行歌だったのだから。

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2011.1.20

「あっ、風邪かな?」と思うとつい、たこ焼きを思い出す。

ぼくにとっての刷り込みだろうか?

昭和半ばの子ども時代。

風邪で近所の小児科へ。

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ぼくは注射が嫌で、駄々をこね母を随分困らせたものだ。

しかし小児科横の、小さなたこ焼き屋から立ち上る、醤油の焦げる匂いに釣られ、ついつい立ち止まってしまう。

「ええ子やで、ちゃんと注射我慢出来たら、帰りにたこ焼きこうたる」。

母は絶妙のタイミングでそう切り出した。

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ぼくはまんまと母の策略にはまり、3個10円のたこ焼きと、注射の苦痛とを引き換えにしたものだ。

白い薄紙の袋に入った、湯気の立つたこ焼き。

子どものおちょぼ口では、持て余すほど大きなたこ焼き。

ハフハフと噛み締めれば、中から温かな醤油がトロッと溢れ出す。

これが何とも堪らないお御馳走(ごっつお)なのだ。

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でもぼくの心の中に、一つの疑念が生じた。

小児科とたこ焼き屋が、隣り合せにあるのは偶然ではなく、注射嫌いの子を狙い両者が結託したからではなかろうかと。

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.12.17

二学期が終わると、妙に心も浮き足立った。

今ほど豊かではなかった昭和の半ば。

だがクリスマスには、バタークリームのデコレーションケーキが、小さいながらも食卓に上った。

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しかしその前には、避けて通れぬ通信簿のご開帳。

お小言と大目玉の儀式が待ち受けていたものだ。

クリスマスが終わると、母はお節の準備。

田作り、金団、煮物に昆布巻き。

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火鉢の上ではいつも、鍋がコトコトと音を立てていた。

夜更かしの楽しみは、父と差し向かいで五目並べ。

母が煮物作りに精出す火鉢の傍らで、水でふやかす前の白豆と黒豆を碁石に見立ていざ勝負。

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だがやはり父には敵わぬ。

ついに見るに見かね、母が隣で指示を出した。

「阿呆。そこやないって、そっちやわ」と、ぼくの打ち手を菜箸が指し示す。

「人のは、よう筋が見えるもんやて」と、母は岡目八目を地で行きご満悦。

挙句に「あかんて!もう、ちょっと貸しゃあ」と、白豆を奪い取った。

以来、お節の煮豆を見るたび、あの日の口惜しさが今も甦る。

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.11.18

ちょうど東京五輪の頃。

ちょっと贅沢な外食と言えば、一文菓子屋を兼ねた店のお好み焼きだった。

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それですら、何ヶ月もかけて母を拝み倒し、やっとのことでお好み焼き一枚の小遣いをせしめたものだ。

尊い小遣いを片手に、小学校が半ドンとなる土曜を待ち侘び、お好み屋へと駆け出した。

ところが既に、店の外では近所の子供たちが順番待ち。

誰も皆、鉄板の周りの特等席に腰掛け、注文の品が焼き上がるその瞬間(とき)を眺めたいからだ。

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紅生姜で真っ赤に染まったおばちゃんの指先が、仕上げの青海苔と鰹粉を振りかける。

するとお待ちかねの出来上がりだ。

そいつを小振りの篦で一口大に切り分け、そのまま口元へと運びハフハフしながら頬張る。

そんな思いが頭の中に渦巻く。

だが行列は一向に進まない。

やっと食べ終えた頃には、既に夕日も傾き出していた。

それでも晩ご飯だけは、何食わぬ顔で押し込んだものだ。

だって晩御飯を残そうものなら、二度とお好み代をせがめなくなるのは、請け合いだから。

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.10.15

「とんでもねぇくっせぇ臭いにならんと、煮たく文字は、うめぇねぇんやさ」。

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高山市の在郷料理「京や」の女将は、漬け物樽を開け思わず顔をしかめた。

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「『煮たく文字』とは、公家言葉の『く文字(漬け物)』を煮るでやと、誰かが言わはったわ」。

煮たく文字は、古漬けの蕪の葉を塩抜きし、胡麻油と調味料で炒め煮した、高山ならではの郷土の味だ。

「昔はみんな銘々に、夏の終わり頃になると作りよった。せやでその頃になると、とにかく町中がくっそてかなんだわ」。

女将が嗄れ声で笑った。

「わたしら漬け物みたいなもん、どんだけ古なっても、よう捨てんのやさ。もったいないでな」。

盆暮れには、古里から離れて暮らす者達が帰省する。

彼らは女将の店へと顔を出すと、開口一番「煮たくあるか?」と、声を揃えるとか。

「今はもうどこの家も、作らはらんけど、煮たくはやっぱり高山のお袋の味なんやさ」。

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『名月や 三々九献交わしつつ 母を偲びて 煮たく文字』ミノル

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.09.16

祇園精舎の砂時計が、ぼくの宝物だ。

わずか3センチの瓢箪型。

逆さにすると赤みがかった砂が、真ん中の窪みをすり落ちる。

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しかし何度試みようとも十一秒しか刻まない。

以前取材で、ブッダの聖地、インドの竹林に囲まれた祇園精舎を訪ねた。

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珍道中の数々、見るもの聞くものすべてが驚きの連続だった。

帰国の途に着く機内で手荷物カバンをまさぐった。

タオルで大切に包まれた赤煉瓦の欠片。

但し、そんじょそこらの赤煉瓦じゃあない。

祇園精舎の遺跡で拾った、ブッダの聖地の煉瓦だ。)

その煉瓦を粉砕し、この世にたった二つの砂時計に仕立てたものが、冒頭の宝物である。

だがよくよく調べ直してみれば、インド国内のどこにでも転がっているただの赤煉瓦と判明。

たった十一秒の砂時計。

だが瓢箪を逆さにすれば、ブッダの里の景色が、今も色鮮やかに甦る。

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岐阜新聞「 トーキングフラッシュ」2010.8.19

1億が涙した、玉音放送。

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焼け野原となった柳ヶ瀬は、65年前、いったいどんな朝を迎えただろう。

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失った物はあまりに大きく、その日食うものさえ、こと欠くありさまではなかったか。

だがそれ以上に、誰もが平和の静けさを、しみじみと実感したはずだ。

爆撃機の爆音もない、どこまでも青く澄み切った、日本晴れの夏空を見上げ。

そして今日よりちょっとだけ豊かな、小さな明日がきっと来ると、そう信じることで、敗戦の哀しみと折り合いを付けながら。

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その後柳ヶ瀬は、驚異的な速度で復興を遂げた。

そう当時の生き証人から聞かされた。

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「岐阜は柳ヶ瀬が元気でないと、魂が腑抜けてまったみたいやで」。

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65年後の柳ヶ瀬の朝は、シャッターを巻き上げる音と共にやって来る。

「おはよう」のさわやかな声が、アーケードの中を吹き抜けてゆく。

誰かにちゃんと、見守られていることが実感出来る瞬間だ。

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そんなほっとする心の行き交う町、それが柳ヶ瀬商店街なのだ。

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