ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑪

深戸駅界隈「元台に刻まれし釣師の誉れ『福作』銘~天下の郡上竿」

深戸駅のすぐ南を、長良川が悠然と西から東へと流れる。

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何千年、何万年と、何一つ変わらぬ、大自然の営みだけが、ただ淡々と繰り返されているのだ。

「あかんて!そんなへっぴり腰じゃあ!」。

川の流れに合わせ、友釣りの竿を操っていると、背後から突然声がした。

「あんた、友釣り初めてやろ?」。

何と厚かましい不躾な声。

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声の主を見定めてやろうと振り返った。

「鮎にはな、鮎の縄張りってもんがあるんやて。そこを狙わんと、ただオトリ鮎を流れに合わせて泳がせとっても、鮎は一向にかかれせん。鮎の縄張りに、新参者のオトリ鮎を放り込んだるで、オトリの鮎を駆逐しようと体当たりしてくんやで。そこを逃さんようにグッと引っ掛けたらんと」。

そう言うと男は川の中へと入り込み、徐に竿を延べた。

するとどうしたことか、川面に銀鱗が跳ね躍り、あっと言う間に友掛けされた鮎が吊り上げられるではないか。

名人はわずかな間に、事も無く3匹を吊り上げた。

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すると身を翻し、さっさと河原へと引き上げ、釣竿を仕舞い始める。

ポーン、ポーン、ポーン。

端切れの良い音と共に、7メートルはあろうかと思われる竿の継ぎ手がばらされた。

「カーボン製じゃないんだあ」。

思わずつぶやくと「これはわしが作った、四間もんの郡上竿やさ」と名人。

漆が飴色に輝く郡上竿には、絹糸を巻きつけて描いた、幾何学模様が織り成されている。

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「よかったらわしの作業場へ来るか?」。

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名人の名は、二代目竿師の福手福雄さん(74)。

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釣り好きで鳴らした先代の俵次は、昭和初期、関東の釣客が携えた、組み立て式の竿を真似郡上竿を編み出した。

「ちょうど戦争の影が忍び寄る中、今のように真鍮が手に入らんもんで、継ぎ手には空き缶を巻いて使ったんやて。それでもここらの皆は、『わしもわしも』言うて、空き缶持参で並んどったほどやで」。

先代に劣らず大の釣好きである福雄さんは、中学を出るとすぐ、迷うことなく父と共に竿作りを始めた。

「昔は鮎も値が張って、竿もよう売れたんやて」。

鮎の禁漁期は竿作り。

解禁を待ち侘び、友釣りでもう一稼ぎ。

「まあ、竿作りの準備は、10月初めに竹を切り出し、11月に入ったら大きなトタン板の鍋で、灰入れて竹を煮て油取りをするんやて」。

年の瀬は天日干しに追われ、年が改まったころに竿作りが始まる。

「やっぱり竹選びが肝心やて。はよ出る竹は重いし、遅いと軽なる。枝が3つ出たところで切り出すのが一番やさ。あんまり竹もみあいて(ひねて)まうと、(しな)りが悪なるで」。

材を見抜く、竿師の目は厳しい。

まず四間物の5本継ぎは、「穂先」「穂持ち」「三番」「二番」「元台」と組み、管継ぎを定める。

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次に真鍮を何度も火で炙り、真っ直ぐ伸ばして2枚重ねにし、継ぎ手を取り付ける。

そして絹糸を何度も何度も竿に巻き付け、漆で留めて柄を描き出す。

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さらに元台には、藤蔓を滑り止めに巻き付ける。

「1本の竿に、900メートルも絹糸巻いたこともあったわ」。

作業場に人が入ると、気が散って糸が緩むため、入り口を締め切ったまま黙々と作業を続ける。

「どうや、これ?」。

福雄さんは、自慢の柄の入った竿を取り出した。

飴色に輝く光沢と、絹巻き模様が絶妙な、竿師の描いた意匠。

そして元台に刻まれた「福作」の銘。

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友釣りに魅せられし者の、垂涎の逸品であろう。

しばらく美術品と見紛うほどの、美しさを放つ竿に言葉を失い見入ってしまった。

「そんでも使わな、何にもならん。所詮、魚釣りの道具なんやで」。

福雄さんは何の気負いも無く、あっけらかんと笑った。

今ではカーボン製の竿が主流となり、1年で50本の生産がやっととか。

「そんでも鮎の友釣りには、やっぱり竹竿が一番。でももう跡継ぐもんもおらんで、わしで仕舞いやわ」。

作業場から見下ろす長良川の流れ。

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誰よりも長良川と鮎釣を、心から愛し続けた竿師親子二代。

かつて日々の糧を得るための釣道具は、いつしか美術品と呼ばれるほどの美しさを手に入れ、やがて儚く消え入ろうとしている。

郡上釣竿製造フクテ 郡上市美並町三戸

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑩

深戸駅界隈「汽車が来るまでもう一曲~駅舎のカラオケ喫茶」

どこからどう見たところで、駅であることに違いはない。

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だがどこかが違う。

既に土曜も深夜の十一時。

とっくに終電も行き過ぎたというのに、駅舎から仄かに明かりがこぼれだしている。

駅員がうっかり、電気を切り忘れたのだろう。

だがそれにしても、妙に気になる。

なぜだろう。

そう思ってもう一度、駅舎の南側を東西に延びる国道まで戻り、駅全体を俯瞰して見ることにした。

静かな山裾と長良川に挟まれた小さな集落が、真っ暗なしじまの中にぼんやりとその輪郭を浮かべている。

まるで集落がひっそりと、駅に寄り添うように。

こじんまりした駅前広場は閑散とし、置き忘れられた自転車だけが、首を長く伸ばしじっと主の帰りを待ち侘びる。

月明かりにぼんやり照らし出された駅。

改札から向かって右側半分は、どこででも見かける駅の風景に相違ない。

だが問題はその反対側だ。

つまり改札に向かって左側。

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駅員の執務室兼、乗降客の待合いのような駅舎の方である。

駅舎正面には、古びた「ステーション深戸」の看板。

ガラスドアの向こうから、かすかに(なま)めかしい、怪しげな灯かりがこぼれ出しているではないか。

怖いもの見たさも手伝い、歩を進めガラスドアの隙間に耳を当てた。

するとあろうことか店内からは、情感たっぷりに小節を利かした艶歌が、聞こえて来るではないか。

まだそれだけでなら、大音量の有線放送かと思えるはずだが、歌声に合わせ手拍子やら、愉しげな囃し声まで上がる始末だ。

もはや尋常な様子とは言えまい。

こうなっちゃあ、止むを得まい。

しがない物書きの習性か、或いは単なる野次馬根性か。

どうにもその実体に迫らずにはいられない。

そんな無用の責任感が、ついつい頭をもたげてしまう。

勇気を奮い立たせ、ガラスドアを押し開けた。

すると入って右側の舞台では、年輩の着物姿の女性が、七色のスポットライトに全身を染め抜かれ、ご満悦の形相を浮かべ都はるみの「アンコ椿は恋の花」を熱唱中ではないか。

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しかも舞台前のボックス席では、やはり舞台衣装か、ロングドレスをまとった年輩の女性が、かぶりつき状態で身を乗り出し、熱狂的に声援を送り続けている。

今にも紙テープでも飛び交いそうな勢いだ。

「昔は火曜と土曜の二晩、カラオケ教室もやっとったんやて。もう今は、土曜の深夜くらいしか、カラオケする人らもおらんけど」。

駅舎がそのまま店舗の、カラオケ喫茶「ステーション深戸」の、森下つるゑママ(70)は、ステージの客に向って拍手を送りながら笑った。

「昔っから夫婦二人で、飛騨牛乳を配達しとったんやて。それが平成2年にJRから長良川鉄道に変わって、駅舎が貸し出されることになったもんやで、それを店に改装したんやに。そしたら主人の演歌好きが高じて、平成4年からカラオケ置くようになって、近所のお客さん等にも歌ってもらっとったんやわ」。

平成14年にはカラオケ教室を始め、生徒も12~13人ほどの盛況ぶりに。

「平成17年まで毎月第3土曜日になると、ゲストの歌手を呼んだりして、カラオケ大会もしとったんやに」。

この小さなステージで、カラオケ大会は64回も続いた。

「このへんは田舎やで、なあんも楽しみもないやろ。だからカラオケ大会がある言うと、みんな野良着から舞台衣装に着替えて、目一杯にお化粧して。それはそれで楽しいもんやて。時折走る電車の音と、長良川の水の音聞きながらな」。

人気の無い駅には、咽び泣くような演歌の節回しが似合い過ぎる。

「ええっ?わたしは歌わんのかって?そんなもんわたしは聞くが専門。カラオケに挑戦せることは無い」。

真夜中の珈琲は、いつもよりほろ苦い大人の味がした。

ステーション深戸/郡上市美並町深戸

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑨

洲原駅界隈「姿のブッポウソウもお洲原詣り~洲原神社千年の御霊験」

江戸時代中期の建立といわれる、楼門を潜り抜けると、静謐とした杜の匂いに包まれる。

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楼門の脇には、樹齢500年にも及ぼうかという男檜と女檜が、仲睦まじくまるで寄り添うかのように天空へと枝を伸ばす。

「この2本の檜には、昔から縁結びのご利益がありまして、今も恋人たちが両手を広げ抱き付いてゆかれます」。

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白衣に白袴姿の宮司、跡部亮一さん(54)だ。

「昭和の半ば頃までは、瑠璃色の体に真紅の嘴をしたブッポウソウが、この境内の老木に巣を掛けて、卵を産み雛を育て上げ、秋風が吹き始める頃になると、ジャワ、スマトラ、ボルネオ方面へと帰って行ったそうやに」。

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今ではもう残念ながらその姿を見ることは無くなったと言う。

宮司の言うブッポウソウとは、俗に言う姿のブッポウソウだ。

森の中から夜になると聞こえる「仏法僧」の鳴き声の主こそが、ブッポウソウだろうとこのありがたい名が付いた。

しかし実際には、誰一人としてブッポウソウが「仏法僧」と鳴くことを確認した者はいない。

故にその後も、声の主に関する謎が取り残された。

さて、読者諸兄はご存知であろうか?

ブッポウソウと呼ばれるもう一種類の鳥がいることを。

正式には学術名ではない、いわゆる俗称だが。

それが声のブッポウソウと呼ばれる、コノハズクだ。

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コノハズクは体長15㌢ほどの小型のフクロウ。

愛知県の鳳来寺山でよく泣き声が聞こえたこともあり、昭和40年に愛知県の鳥として選定されている。

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鳳来寺山のコノハズクだが、洲原神社のブッポウソウ同様、昭和50年後半に入ると姿の確認はおろか、鳴き声さえまったく聞かれなくなったという。

だが近年では、わずかにその鳴き声が確認されるように回復しつつあるようだ。

ではなぜそのコノハズクの別名が、声のブッポウソウなのか。

昭和10年6月、NHK名古屋放送局が、鳳来寺山から全国に向け「仏法僧」の鳴き声のラジオ中継を試みた。

するとその放送を聴いていた、東京浅草の傘屋から「家で飼ってる鳥も、同じ声で鳴き始めたぞ」との一報が。

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その正体こそが、紛れも無い小型フクロウのコノハズクであったのだ。

その後、鳥類学会は右往左往の大騒ぎ。

「今更学術名を変更しても、混乱を招くだけだ」と。

ならばと編み出された苦肉の策が、「声の仏法僧=コノハズク」「姿の仏法僧=ブッポウソウ」だ。

とは言え、それはそれで未だに十分まどろっこしい限りだが。

「ブッポウソウもコノハズクも、共に人里離れた大自然の森の中で、静かに子を成し暮らしとったんやて。ところが高速道路が通って、車もどんどん増える一方やで、もっともっと深い森の中へと、引きこもってしまったんやろな」。

樹齢五百年を数える、神木に囲まれた洲原神社。

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今でもこれほど浮世離れした神域はないと、鈍感過ぎるぼくにも感じられる。

しかし、我ら人間よりも遥かに鋭敏な感覚を持つ鳥たちにとっては、この神域ですら、もはや近代文明の手垢に穢された、子育てに適さなぬ場所と映ったのだ。

洲原神社/美濃市須原

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑧

美濃駅界隈「卯建つは上らねど『チキンのり巻き』揚げて、はや八十四年」

卯建つの昔屋並みを西に過ぎた、町外れの食堂。

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家族連れがひっきりなしに、店先の暖簾をくぐる日曜の昼下がり。

「チキンのり巻き五人前ね」。

「あっ、こっちは三つね」。

客は席に陣取ると、メニューに目をやるでもなく、我先にと「チキンのり巻き」を所望する。

「家の名物やでね。『チキンのり巻き』は。衣にパリッとした海苔が載せてあって、昭和2年の創業から続くヒット商品なんやて」。

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美濃市の美濃食堂。

二代目店主の古田省三さんは、白い調理師帽を取りながら笑った。

初期のビートルズのように、襟首辺りまで伸びた白髪が、画家か音楽家のようだ。

名物「チキンのり巻き」は、何と言ってもその柔らかくマシュマロのような、ふんわりとしたササミの食感に尽きる。

「ササミが新鮮なのは当たり前。衣に対するササミの厚さが、これぞ一番のポイントなんやて」。

小麦粉と卵に秘伝の材料を加えた衣で、ササミを包んで海苔を載せて揚げただけの代物。

とは言え、家に帰ってどんなに真似てみたところで、美濃食堂のチキンのり巻きとはいかない。

それが84年の歴史だと、改めて思い知るのが落ちだ。

「海苔のパリッとした食感と、見た目の艶が何とも食欲をそそるんや。なあ、和ちゃん!」。

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客席の後片付けに追われる妻の後ろ姿に、省三さんが笑いかけた。

仲睦まじさに感心していると、「ぼくらまだ新婚間もないんやて」と。

ってことは、省三さんが67歳で結婚した勘定になる。

そうとあっては、何が何でもその馴れ初めを知りたいと願うのも人情。

「えらいおそがけに春が訪れたようで」と、ひやかし半分に水を向けた。

すると省三さんは、一瞬顔を曇らせた。

何でも平成14(2002)年に、家族を支え続けた先妻を失っていたという。

「すっかり落ち込んで、息子も店畳んだらどうやって。でもぼくは父が作ったこの店の暖簾を、まだ降ろしたくなかったんやて。それに孫の守して、自分自身の生甲斐を失いたくなかったし」。

張り合いも連れ合いも失い、抜け殻状態のまま店を続けたという。

しかしその4年後、夏風邪を拗らせ肺炎で入院する騒ぎに。

医師から息子と旧知の和子さんが呼び出され「何時息が止まるかわからん」と無情な宣告が下された。

直ちに専門の医療機関へと転院。

「もうあかんと思って、彼女に頼みこんだんやて。『仕事辞めて、ぼくの看病してくれんか?』って」。

それが67歳のプロポーズだった。

しかしその後、再検査を試みると、何処にも異常が見当たらない。

「人生捨てたもんやないって。嫁は来てくれるし、病気も治ってまうんやで。なぁ、和ちゃん!」。

美濃食堂の「チキンのり巻き」は鶏ではなく、もしかしたら鴛鴦(おしどり)なのかも知れない。

美濃食堂/美濃市米屋町(2011.9.13時点)

※美濃駅を背に北へ。広岡町の交差点を越え一本目左側

※余談/隠れた逸品は、腹開きの鰻の蒲焼き。80年以上継ぎ足された濃厚のタレが、パリッと焼き上がった蒲焼きを、その旨味で包み込む。県内の川魚問屋で仕入れる活きのいい三河一色産の鰻は、先代から80年以上続くという取引だけに、問屋の目利きが選び抜いた鮮度と質の良さは天下一品。

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑦

関市役所前駅界隈「風雅な御座所(おましどころ)小瀬(おぜ)鵜飼と鵜の家」

赤い鮎之瀬橋の下を流れる長良の川面に、傾きかけた西日が跳ねる。

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まるで春を待ち侘びて、川面を遡上する鮎の銀鱗のようだ。

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船着場に(もや)われた三艘の鵜船も、篝火が焚かれるのを今か今かと待ち侘びる。

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向こう岸から投網を打つ漁師。

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水鳥が一斉に鳴き声を発して、バサバサバサッと羽ばたき飛び立って行く。

もしかすると、河原から眺めるこの風景は、小瀬鵜飼発祥の千猶予年の昔から、何一つ変っていないかも知れない。

ついそんな錯覚に陥りそうなほど、ここは(うつつ)の世から切り取られた特別な場所なのだ。

川の流れに耳を澄まし、そっと目を閉じた。

すると辺り一面は漆黒の闇。

遠くからギーギーと櫓の軋む音が聞こえ、川面を狩り下る鵜船の篝火が、漆黒の闇を切り裂く。

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揺れる篝火に浮かぶ、腰蓑姿に(かざ)(おれ)烏帽子(えぼし)の鵜匠。

鵜を操る鮮やかな()(なわ)さばきに、長良の夏の夜が静かに更け行く。

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「まずはここの座敷で、暮れなずむ長良川を眺めながら、鮎料理の数々に舌鼓を打ってもらって、そしてとっぷりと陽が沈んだら、千年続く風雅な鵜飼をご覧いただきましょか」。

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関市小瀬の料理旅館「鵜の家足立」十七代目女将の足立美和さんだ。

「私が25歳で嫁に来た時は、まだ先々代と先代夫婦もそりゃあ元気で、三夫婦で暮らしとったんやで賑やかやったわ」。

女将が鳥屋(とや)の引き戸を開けながら笑った。

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真っ暗な鳥屋の中から漁の本番を控え、腹を空かせた鵜が鳴き声を上げる。

「今は全部で21羽。みんな大切な鵜匠の片腕たちやでね」。

樹齢五百年とも言われる庭の満天(どう)(だん)躑躅(つつじ)が、代々宮内庁式部職を務め上げたこの家の歴史を物語る。

「亡き夫は、ほんといい男やったんやて。だから来世でもまた、夫と一緒になれますようにって、毎日お祈りを欠かしたことないんやよ。そうそう、十八代目の鵜匠を拝命した長男、これがまた主人によう似ていい男なんやて」。

こうまで言われれば、まさに亭主冥利に尽きるとしか言いようも無い。

「ぼくは高校生の頃から、父について鵜を4羽持ったり、6羽持ったりから始めて。23歳の年から、本格的に父の教えを受けるようになって、2002年に十八代目を襲名しました」。

若き鵜匠の足立陽一郎さんだ。

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「鵜は、(ひと)(かた)らい、(ふた)(かた)らいと、一つがいずつそう数えるんやて。つがいの雄雌は、家の先代夫婦のようにどれも仲が良く、まったく羨やむほど」。

寝るときも、いつも一緒とか。

それでも十語らいもいる鵜のつがいが、よくまあ見分けられるものだと訝つてみた。

「まず鳴き声やバタつき方が違うし、何よりもつがいによって話し方が皆違うんやて。ガガガガと語るのもあれば、ゴンゴンゴンと語るのもあるし」と、鵜匠が鳥屋をのぞき込みながら笑った。

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一本の手縄につなぐ鵜は8羽。

鵜船には、四語らいから六語らいを乗せ、川を狩り下る。

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皇室献上の御漁鵜飼は、毎年6月10日から8月27日までに、御漁場で8回行われ、小瀬の天然鮎が宮内庁へと向う。

「家は代々、鵜と共に暮らし続けて、はや300年ですから」。

一語らいの鵜を鵜籠の中へと入れながら、陽一郎さんがつぶやいた。

鵜と鵜匠が力を合わせ、長良川が育んだ鮎を、古式ゆかしい漁法で生け捕る。

それが鵜匠の家の夕餉の膳を飾るのだ。

鮎は塩焼きは元より、魚田(ぎょでん)(甘露煮)、赤煮(煮付け)に始まり、フライ、そして鮎雑炊へと続く。

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小瀬の天然鮎を知り尽くした女将の手料理を肴に、暮れゆく長良の川面に悠久の昔日を浮かべながら美酒に酔う。

俗世から隔たる小瀬ならではの、風雅を極めた現代の御座所(おましどころ)なのだ。

「どうやった?鮎料理は?そしたらそろそろ河原にご案内しましょか?」。

「鵜の家足立」/関市小瀬

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑥

関駅界隈「そばきり助六」

♪僕は無精ヒゲと髪をのばして 学生集会へも時々出かけた

就職が決って髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね♪

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昭和50年の名曲、詩・曲/荒井由美の「いちご白書をもう一度」の一節だ。

「そうやて。まさにその通りなんやったって。ぼくも大学の卒業が近付き、同期の仲間たちが髪を切り揃えて就職活動を始めた時、そんな仲間の姿を見るのが虚しくって。『俺は、ぜったい蕎麦屋やろう』と、京都烏丸の蕎麦屋に履歴書持参で飛び込んだんやて。そりゃ若かったし。そしたら店の主が『あんた大学まで出はったのに…。なんぞ人に言えやんような悪いことでもしやはったんか?』と真顔で訝られて。それでも何とか修業させてもらったんやて」。

関市本町の「そばきり助六」、二代目主で蕎麦打ち職人の小林明さん(55歳)は、ラジオから流れる「いちご白書をもう一度」に合せ鼻歌を一捻り。

刃物産業で栄えた関市は、古来より高山へと続く飛騨街道や、郡上とを結ぶ街道の要衝。

馬車()き目当てに食堂が軒を連ね、銭湯も5軒を数える賑わいぶりだった。

「家は元々、中華そばがとんでもなく美味(うま)い繁盛店で、みんな風呂上りや映画見た帰りに『助六でそば食べてこ』って。でも『そば』は、蕎麦じゃなくって『中華そば』のことだったんやて」。

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昔ながらの支那(しな)そば風、和風出汁の効いた素朴な味わいで、町の衆から旅人にまで愛され続けた一品だ。

主の明さんは助六開店の年、昭和30(1955)に長男として誕生。

やがて京都の大学へと進学。

「とにかく家業が嫌で嫌で。役人や銀行員のような、普通の生活に憧れとったんやて」。

商売屋ゆえ、家族揃っての食事もままならず、ましてや家族旅行などもってのほか。

子供の頃の歯痒さが、主をそんな思いに駆り立てた。

大学在学中は、もっぱら各地のユースホステル巡り。

「貧乏学生やで、旅先で美味いもん食べよとすると、蕎麦が一番手っ取り早くて最適なんやて」。

ある日、出雲大社近くの蕎麦屋で蕎麦湯を供された。

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「何なんやろう?頼みもしとらんのに。周りの人らの様子見ながら、真似て飲んでみたんやて。そしたら滋味があって、滅法美味い」。

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それが蕎麦の魅力に取り憑かれた瞬間だった。

そして迎えた卒業。

だがやはり、無難な人生への道を歩もうとはせず、敢えて多難な蕎麦職人の道へ。

その時背中を押したのが、冒頭の「いちご白書をもう一度」だったのだろう。

蕎麦屋の修業は、毎朝5時から夜9時まで、無休の日々が2年続いた。

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「技術の習得は早かったんやて。だって両親の後姿見て育ったんやで。たぶん体内時計が覚えとるんやろな」。

蕎麦打ちの技術は得たものの、蕎麦への執着心は止まるどころか、更にもっと深みへと向う。

石臼挽き自家製粉にこだわる、高山の蕎麦屋を探し出し、頼み込んで住み込みを開始。

朝8時から深夜0時まで、蕎麦を石臼で挽き、蕎麦打ちを繰り返した。

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昭和55年、中華そばで助六を切り盛りし、子どもたちを育て上げた父が心臓病に。

主は取るものも取らず、夜行列車で帰郷した。

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年老いた母一人に、助六を(ゆだ)ねることは忍びなく、そのまま高山の蕎麦屋を辞して家業へ。

助六で「そば一杯ちょうだい」と言われれば、それは兎にも角にも中華そば。

助六で蕎麦を出したいと舞い戻った主は、愕然(がくぜん)とする日々が続いたという。

昭和60年、店舗の改装に合せ、周りの反対を押し切り、名代の一品であった「助六の中華そば」を品書きから消した。

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「お客さんが『そば、ちょう』って注文するもんやで、『蕎麦』を出すと『嘘やろう?』って、目が点になって。今でも『助六のたあけ坊が』って言われるほどやて」。

2年後には、板取村の農家の協力を得、蕎麦作りも始めた。

「『毎週関から変わり者が来る』って言われながら通い詰めて。じきに気心が通じて、『昼飯どうや、風呂入れ、泊まってけ』って」。

一途な蕎麦職人は、何時しか「(すけ)さ」と親しみを込めて呼ばれるほどに。

それから7年。

板取村の農夫から一本の電話が入った。

「『助さ、家の下の娘どう思う?ええのか、悪いのか、どっちや』って、えらいせっつかれて」。

主は天麩羅を上げながら、思わず「ええと思うわ」と答えた。

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それが妻みちるさん(52歳)との馴れ初めだ。

蕎麦作りへの情熱は、そのままみちるさんへの熱き想いでもあったのだろう。

主は前日に石臼で蕎麦を挽き、翌朝6時半から1時間半かけ、混じり気の無い蕎麦粉を、生子(きこ)打ちで仕上げる。

板取産生山葵(わさび)のピンッとした刺激が、(りん)とした辛口の笊汁(ざるつゆ)を際立たせ、冷水にもまれた蕎麦は、蕎麦粉本来の香りと味を引き立てる。

未だ日に3人程が、幻の中華そばを所望するほどの助六で、「そば」が『蕎麦』として認められるまでには、ゆうに15年の歳月を要した。

「高級蕎麦とかじゃなく、フラッと入れる庶民的な町場(まちば)の蕎麦屋が目標なんやて」。

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誇張した宣伝文句も、薀蓄(うんちく)も一切無用。

黙って座して(ひと)(すす)り。

さすれば(うな)る間も無く「おやじ、もう一枚」と、呟いているはずだ。

「まあ、この新製品もいっぺん食べてみやあ」。

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主の勧めに応じ、平成19年から売り出されたという「円空なた切りそば」を、塩を振っていただくことに。

平打ち蕎麦は、ちょっと幅の広いきしめんのように厳つい。

だが、根っからの蕎麦好きには、恐らく応えられない一品だろう。

夜の特別コース(要予約4人以上、1日1組限定)では、主人が厳選した季節の野菜の天麩羅と、蕎麦が2~3種、それに蕎麦がきと、蕎麦がきぜんざいのデザートまで、9品の蕎麦尽くしが楽しめる。(2011.9.13時点)

「昔のお客さんから『助六の中華、わしの目の黒いうちに、まあいっぺん復活させてくれんか。頼むわあ』って言われると、この年になって改めて、親父の凄さを感じるようになたわ」。

―――生涯、町の衆から愛される、町場の蕎麦屋であり続けたい―――

主の潔すぎる矜持が、脳裏を離れようとしない。

その一方では、モダンな料亭を思わせる内装で、聞きもせぬのに蕎麦とはなんぞやを説き、薄っぺらな薀蓄で蕎麦を高価に仕立て上げる無粋な輩もいる。

蕎麦喰いには、もっともらしい作法も薀蓄も要らぬ。

ただ何より、旨い蕎麦を思う存分啜りたいだけなのだ。

「おおきに!」

主の声に振り向くと、「千客万来」の書が目に入った。

愛娘の()(あや)ちゃん(13歳)が幼い頃、最初に書いた作品だ。

何者にも縛られない、自由で伸び伸びとした清らかな筆遣いが、見る者の心を捉えて放さない。

―千客万来―

主自身が旨いと思えぬ物しか供さない、それがそばきり助六の、町場の衆の饗応料理。

萬屋町 そばきり助六/関市本町

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑤

関駅界隈「卍戒壇(かいだん)巡りで(けが)れ落とし」

「牛に牽かれて」で名高いのは、本家本元信州長野の善光寺。

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関の善光寺は、日本唯一の卍戒壇巡りの霊場としてこれまた名高い。

だがこの「関の善光寺」は俗称だ。

正式には天台宗安楽(あんらく)律法流(りっぽうりゅう)宗休寺という。

それにしても見事なほど、優雅に反り返る破風である。

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安桜山(あざくらやま)の緑を背に、ただただ見事な限りだ。

その優雅な破風を戴いた本堂こそが、本家信州長野の善光寺を模し、約10余年の歳月を費やし、3分の1の大きさで今から200年以上前に建立された関の善光寺なのだ。

由来は寛政10(1798)年4月、信州長野の善光寺大勧進(だいかんじん)(とう)(じゅん)大和尚(だいおしょう)が、この寺を訪れ()開帳(かいちょう)されたのが縁という。

秘仏本尊は、上野(りん)王寺(おうじ)門跡(もんぜき)(こう)()親王(しんのう)念持仏(ねんじぶつ)一光(いっこう)三尊(さんぞん)善光寺如来像の分身で、今も7年毎に大開張が執り行われている。

ちなみに次回のご開帳は、平成27年だ。

だが、日本唯一の卍戒壇巡りを行えば、大開張とも一味違うご利益がある。

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闇を掻き分け秘仏本尊が安置されている厨子の真下へと進み、本尊に繋がる仏の鍵に触れれば、幸運に恵まれ、信心に依り一切の罪も消滅するという。

しかも心身が清まり、弥陀に導かれ必ず極楽へ行けるとも。

ならば俗世の穢れだらけのぼくなんぞは、いの一番に戒壇を巡り、もはや仏の情けに縋るしかなかろう。

入り口で代金300円を支払うと、手の甲に卍の印が入ったシールを貼られた。(2011.9.13時点)

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「中は真っ暗なんで、迷子にならんようにと、今年から着けてもらうようにしたんですわ。卍マークが蛍光塗料やで、微かに光るんでちょっとした気休めになりますやろ」。

宗休寺の佐藤舜海僧は、にこやかにぼくを見送った。

本堂右脇の階段を降りきると、その先は真っ暗闇。

卍シールを貼った片手で、壁を伝いながら先へと進む。

右へ左へ、そしてUターン?

真っ暗な中を何回も何回も右往左往するばかりで、三半規管がどうにも機能を停止し、既に方向感覚は失われている。

頼りは卍シールの微かな光と、壁を伝う指先だけだ。

何度か行きつ戻りつを繰り返した頃、指先にコツリと異物が当った。

「これだ!」。

何だか目隠しをさせられ、手先に触れた感触だけでその物体を当てる、昔のテレビ番組の罰ゲームさながらだ。

両手で異物を確かめる。

冷たい。

やはり金属の感触だ。

間違いない。

これは土蔵の入り口などに付けられている、鋳物製の大きな錠前だ。

これが秘仏本尊に繋がる、仏の鍵とやらに違いない。

これまでの罪深い人生を振り返り、一心に仏に許しを請う。

すると突然、後方から体当たりを浴びせられた。

「ああ、すんません。どもないやろか?」。

「いえっ、ぼくがここで立ち止まっていたものですから。こちらこそ申し訳ありませんでした」。

真っ暗闇で相手の顔もわからず、ただただ声のする方に頭を下げ、再び壁伝いに進みどうにか出口へと辿り着いた。

「仏の錠前は探り当てられましたか?」。

「ええ。何とか手探りで」。

「今日はまだ空いてますが、団体さんが多い日は、まるで昔の電車ごっこですわ。まあ、電車ごっこみたいに、先頭から一番後ろの最後尾まで、縄を回して繋いでこそはいませんが」。

舜海僧がぼくを茶化す。

「元々この戒壇巡りは、僧侶の修業の場でして、それが明治以降、一般にも解放されるようになったんですわ」。

真っ暗闇の卍戒壇を巡り、極楽浄土への道が約束されるとあらば、誰もが挙って押し寄せるのもうなづける。

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俗世と隔つ、真っ暗闇の卍戒壇。

俗世の時間で表すなら、片道たった3分間の闇を巡る心の旅だ。

だが御仏の下に身を置き、己が心と無心で向き合えば、そのわずかな時間さえ永遠に感じられてしまう。

そう言えば、何でだろう。

闇の彼方から脳裏へと伝う、御仏の声が亡き母の声に聞こえたのは。

関善光寺(宗休寺)/関市西日吉町

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ④

刃物会館前駅界隈「命を斬り結んだ武士(もののふ)の声が聞こえる」

なぜか関や瀬戸には鰻屋が多い。

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刀鍛冶の町と、陶工の町。

炉と、登り窯の違いこそあれ、いずれも灼熱の炎と熱さとの戦いであることに違いはない。

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だから刀匠にせよ陶匠にせよ、折りに触れ親方が鰻を振る舞い、職人に精を付けさせ労ったとか。

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言うまでもなく重労働の証しであるが、世知辛い現代とは異なり、何とも人肌の温もりと人情味が感じられる逸話だ。

「日本一の刃物産地。大発展の影に鰻屋あり」としたら、この上なく面白い。

それ故今も町中(まちなか)のあちこちで、鰻と書かれた暖簾を見かける。

刃物会館前駅の南、418号線を東に進み関川を越え、風情のある堤を川沿いに南へ。

70mほどで春日橋を左に曲がれば、関鍛冶伝承館へと辿り着く。

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その名の通り、関の刀鍛冶に関する歴史から、貴重な資料の展示まで、今なお受け継がれる技の奥義の解説や、700年の時を重ね開花した刃物文化の華にも触れられる。

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隣接する日本刀鍛錬場を、窓ガラス越に覗き込んでいると、白銀師(しろがねし)の小坂稔さん(63)が声を掛けてきた。

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「今日が一般公開の日やったら、刀匠が鎚打つ姿や、わしらのような白銀師や鞘師、それに柄巻(つかまき)師や(とぎ)師の実演も、見てまえたんやけどなあ」。

白銀師とは、刀身が(つば)と接する鯉口にはめ込む金具の(はばき)や、鍔を製造する職人だ。

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「鎺は鞘の鯉口いっぱいに作らんと、刀身が鞘から抜け落ちてまうんやて」。

鯉口を切る。

時代劇で耳にする台詞だ。

つまり、直ぐにでも刀が抜ける状態にした、臨戦態勢を表す言葉だ。

生か死か、討つか討たれるかの刹那。

そののっぴきならない瞬間を表すにしては、なんとも美しい響きのある言葉だ。

武士(もののふ)の死生観から来る、潔さであろうか。

へたれなぼくなんぞは、つくづくそんな時代に生まれずに済んだことを、母に感謝したくなるくらいだ。

「関の四方(しほう)(づめ)(鍛錬法)は、『折れず曲がらず、よう切れる』が信条で、遠く鎌倉時代の元重によって始まったんやて。それでその後室町時代には、関の孫六兼元などの名匠が誕生し、今日へ脈々と受け継がれとるんや」。

幾人もの職人の手を経て、この世へと生を受ける日本刀。

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今を遡るわずか150年前の世では、人を殺めあの世へと送り込んだ凶器であった。

だからか。

これほどまでに美しい刃文の形状が、魔性の妖気を放つのであろうか。

「もう斬った張ったの時代やないで、美術品としての観賞用やね」。

ぼくが初めて母に買い与えられた玩具の刀は、たしか楠木正成公の太刀。

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銀メッキを施した薄手の鉄板が、峰から二つに折り曲げられ、刃先で二枚が合わさるものだった。

子供用の玩具だから、何をどう足掻いたところで、何かを真っ二つに斬ることなど不可能。

だが、それでもぼくは、浴衣の紐で腰を幾重にも巻き上げ帯代わりにし刀を差し、得意満面で侍を気取ったものだ。

ある日、近所の友が刀持参で遊びに来た。

部屋の中でさっそくチャンバラゴッコが始まる。

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母が買い物に出掛けたのをこれ幸いと、押入れの中から飛んだり跳ねたり、ドッタンバッタン。

口々に、「チャリィーン、バサッ、ドスッ」と、殺陣の効果音まで放ちながら。

何度斬られても、その都度生き返る。

どちらも不死身の剣士なのだ。

それでも飽き足らず、ぼくはついに母の三面鏡の引き出しを開けた。

中から口紅を取り出し、それを刃先に塗って、友の胴を真っ二つに斬り裂く。

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すると友の黄ばんだランニングシャツの脇腹から臍の辺りにかけ、真っ赤な太刀筋が真一文字に。

この斬新なアイデアに、友も痛く感動し、今度は二人で口紅付きの刃先で斬り合う始末。

母が買い物から戻る頃には、ランニングシャツはもちろんのこと、腕から顔、そしておまけに襖まで、真っ赤な真一文字の太刀筋がベッタリ。

「あんたたち、何しとったの!」。

母はたった一本きりの、大切な口紅をズタズタにされ、おまけに部屋中口紅の太刀筋だらけに怒りが爆発。

それはもう恐ろしい、仁王の形相のようであった。

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ぼくが育った昭和の半ばは、棒切れ一つですぐにチャンバラゴッコが始まる、そんな時代だった。

しかし今や、どこにもそんな子供たちの姿はない。

腕白は男の子、お転婆は女の子。

それは共に、子供だけに許された勲章だったはずだ。

いつからだろう。

路地裏でチャンバラゴッコの姿を見かけなくなったのは。

だがその一方で、子供が親や友を、ゴッコでは飽き足らず、実際に殺めてしまう悲惨な事件が報じられない日はない。

単にそんな時代に成り果てたと、他人事で済ましていいのだろうか。

関鍛冶伝承館には、命を斬り結んだ武士(もののふ)たちの声なき声と、刀匠が一本の刀に宿した魂の声がある。

名も無き武士や刀匠の先達は、生死の境を斬り分けた一本の刀を通し、あなたに何を語りかけることであろうか。

関鍛冶伝承館 関市南春日町

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ③

加茂野駅界隈「一日たった百五十分しか商わない、白い大判焼の木野(この)屋」

兎にも角にも不思議な光景が、駅前のわずかな一角に存在した。

駅の西側、富加(とみか)坂祝(さかほぎ)線の車道に出るまでの、ほんのわずか10mにも満たない場所に。

真っ先に目に入るのは、畑の一角に据え置かれた、直径3mほどのトランポリンだ。

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残念ながら未だに一度も、そこを舞台に飛び跳ねる子らの姿を見たことがない。

だが、ネットで覆われた入り口には、遊具使用の注意事項が掲示されており、利用を希望する者は、隣のたこ焼木野(この)屋で受付するようにとある。

さて、その隣りのたこ焼木野屋であるが、これが何度訪ねても開いていたためしが無い。

どうやら訪ねた時間帯が悪かったのかと、お昼時や3時のおやつの時間を見計らって出向いても見た。

しかし、いずれも空振りに終わった。

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そうなると、しがない物書きの哀れな習性とでも言うべきか、何としてでも確かめずにはいられなくなってくるから困ったものだ。

刑事ドラマの地取り捜査員気取りで、さっそく周りで聞き込みを開始した。

「ああ、あれは家の息子が片手間にやっとるんやて」。

何と!

あろう事か、たちまち有力な情報に接し、あまりにも呆気ない結末を迎えた。

まさに労せず、棚ボタそのもの。

「あっ、丁度ええとこに、本人が家から出て来たわ」。

そう言うと老婆は、木野屋の主人である息子と引き合わせた。

「本業はサラリーマンで、仕事を定時で終えて帰って来てから店を開けるんやわ。だで平日は、夕方の5時半から8時まで。土曜日は午後1時から夜の8時。日祝日は家族サービスせんなんで休みにしとるんやて」。

たこ焼木野屋の主、小関徹郎さん(42)だ。

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だから昼間やおやつの時間に来ても、店のシャッターが降りたままだったのだ。

やっと謎が解けたと一人ごちていると、徹郎さんが傍らで大笑い。

「昔からたこ焼屋に憧れとって、やっと3年前に店開いたんやて。家族の生活を脅かさんように、サラリーマンやりながら、片手間の空き時間を使うならという条件付きで」。

人気の商品は、たこ焼も然ることながら白い大判焼とか。

「餡にカスタード、ビターチョコに生キャラメル、それに餡カスタードが定番で、夏限定の冷たいクリームチーズにマンゴープリン、それからイチゴヨーグルトと北海道メロンが好評なんやて」。

さらに夏場は、かき氷とソフトクリームまで楽しめるとあっちゃあ、フル営業のたこ焼屋も真っ青だ。

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ところでトランポリンは?と切り出してみた。

「最初は家の子のために設置したんやけど、そのうち店のお客さんの子どもたちも遊びたいって。だで今は10分100円もらっとるんやて」。

道路を挟んだ向かいのガレージでは、簾にペンキで「やさい無人販売」の文字が。

トマトにキュウリ、ピーマンからインゲンにトウモロコシまで、どれでも100円ポッキリだ。

「あれはオヤジとお袋が、畑で作った旬の野菜を並べて販売しとるんやて。オヤジとお袋のもぎたて野菜も美味いけど、やっぱ白い大判焼にはかなわんって」。

一日にたったの150分しか商わない、欲の無い主が自信たっぷりに笑い飛ばした。

たこ焼木野屋/美濃加茂市加茂野町木七五二

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ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ②

美濃太田駅界隈「駅弁売りの名物松茸釜めし」

「松茸の釜めし~っ、美濃路名物、松茸の釜めしはいらんかな~」。

普通列車の扉が開くと同時に、男は唄う様な声を響かせた。

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すると列車の窓が持ち上げられ、あちらこちらから男を呼びとめる。

「へいっ、松茸釜めし。一丁、950円ね。毎度あり~っ」。

男は首から、帆布の紐で木箱を腹の前に吊るし、隣りの車両へと一目散に駆け出す。

「昔はこの美濃太田で、高山線に乗り換える客も多かったで、売り子が三人もおって、面白いくらいによう売れたもんやて。でもまあ今はあかんわ。昔の急行と違って、特急は窓が開かんし停車時間も短いで、今はもっぱら普通列車の客ばっかや。それに高速道路が開通してからは、電車の利用客そのものも減ってまったでな」。

美濃太田駅の3・4番線ホームに店を構える、名物松茸釜めしの向龍館、二代目主の酒向茂さん(65)だ。

「あっ、あかん。上りの列車が入って来た」。

酒向さんは首から木箱を吊ったまま、階段を駆け上り1・2番線のホームへと駆け下りてゆく。

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「まあ一日に何回、あっちのホームとこっちのホームを、行き来せんならんことか。だんだん歳入ってくるとしんどいもんやて。今みたいに上りと下りが、ちょっとの時間差でホームに入って来る時はまだましやわ。まったく一緒の時間に、入って来ることもあるんやで。そうすると向こうのホームから、客が『お~い、はよ来てくれ』って、手振って呼ばるもんで、こっちも大慌てやて」。

構内に短い汽笛の音を残し、下り列車が走り出した。

酒向さんは昭和19年の生まれ。

高校を卒業すると、東京のアイスクリーム材料の店へ。

「父は昔、駅弁始める前に、アイスクリームを作って、駅に収めとったんやて。それでその関係で『しばらく他所の飯喰うてこい』って」。

昭和40年、21歳で家業へ。

東京五輪も大成功を収め、世はまさに高度経済成長の上り坂を、まっしぐらに突き進んでいた。

「昭和43年やったわ。ちょうど国内旅行が流行り出した頃で、デパートの駅弁大会もえらい人気やって、家も松茸の釜めしを出品しとったんやて。そん時にアルバイトで来とったのが、今の嫁さんや」。

やがて二男一女が誕生。

旅行客も鰻登りに、小京都高山を目指した。

「当時の釜は瀬戸焼で、お釜の木蓋は木曽ヒノキやったんやて。だで首から釜めしぶら提げて、一日中売り歩かなかんで、重たて重たて。肩凝ってしゃあなかったわ。それでも食べ終えた瀬戸物の釜を、昔はみんな大事そうに持ち帰ってくれたもんやて。それが今や強化プラスチックなんやで、何とも味気ないわな」。

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ゴミ処理問題が浮上し、4~5年前から陶器の釜も木蓋も強化プラスチックに様変わりしたという。

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そう言えば10年ほど昔、インドの田舎を取材で訪ねた折り、チャイ(ミルクティー)の露天で、完全なリサイクルの姿に触れた。

わずかな小銭を差し出すと、チャイ売りのオヤジは、素焼きの赤茶けたぐい飲みほどの器に、沸かしたてのチャイを注ぎ入れ、無愛想な顔で差し出す。

客はヒンディー語をまくし立て、2口3口でチャイを飲み干すと、素焼きの茶器をそのまま、地べたに叩き付けて粉々にしてしまう。

そして1~2度ゴム草履の裏側で踏み均し、地べたの土と同化させていたのだ。

一度きりしか使わない茶器だから、衛生面でも非常に優れている。

だが、残念なことに欠点もあった。

それは、チャイを熱いうちに2口3口で飲み干さなければ、素焼きの茶器に染み込んでしまう点だ。

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だからぐい飲み程度の大きさが、実に理に適っている。

大き過ぎれば飲みきるまでに時間が必要となり、それだけ素焼きの茶器がどんどんチャイを吸い込んでしまうからだ。

だとすれば、昔の釜めしの釜も、素焼きに近かったわけだから、細かく粉砕してしまえば土に返せたはずだろう。

しかし、昭和も40年代中頃には、ほとんどの道路が舗装されてしまい、今では公園ですら土の塊った場所を探すとなると、花壇や植栽の根元にしか見当たらない。

だから手軽に土に返すこともならず、本来地球の表面を覆っていたはずの土までが、今や厄介者扱いされる始末だ。

こんなことで先進国と、踏ん反り返っていていいものか。

たしかわが家では、ぼくが学校帰りに捕ってきたメダカを、母が釜めしの釜を水槽がわりに飼っていたものだ。

小さな水草を浮かべ。

「あっ、今度はあっちのホームで手挙げとるわ」。

酒向さんは階段を駆け上がり、今度は長良川鉄道のホームへ。

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ディーゼル列車が白い煙を吐き出し、発車のベルならぬ電子音が、ホームに流れ出した。

向龍館/JR美濃太田駅三・四番線ホーム(2011.9.13/現在は閉店)

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