「昭和Nostalgia」(318)

「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらのP20kotonohaのコピー

残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も飛騨びと言の葉綴り~河合町・岡崎賢一郎さん – 飛騨市公式ウェブサイト併せてご覧いただければなによりです。

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これをご覧になって、直ぐにこのTV番組のタイトルを想い出された方は、きっとぼくの年齢前後の方じゃないでしょうか?

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ご存知の方も、ご存知でない方も、これは1961年から1963年まで放送された「ちびっこギャング」です。

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ぼくが4歳から7歳までの頃となります。

物語のあらすじなんてこれっぽっちも覚えていませんが、ちびっこギャング達のとんでもない悪戯が愉しくって、白黒テレビの画面に釘付けとなっていたものです。

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とは言え、それほどまで釘付けになっていたくせに、登場人物の顔は元より、役名もその悪戯も何一つ思い出せません。

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ただ、幼いながらこの番組が大好きで、夢中になって見入っていた事だけは覚えています。

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確かまだ他にも、アメリカのホームドラマに首っ丈だったのがあったよなぁ!

これまた朧気でしかありませんが!


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「昭和Nostalgia」(317)

「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらのP20kotonohaのコピー(city.hida.gifu.jp)

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子供の頃、ポン菓子屋のオッチャンが鐘を鳴らしながら公園へやって来ると、ぼくらは一斗缶の空き缶に生米を1合と、いくらだったか忘れましたが、ポン菓子にしていただくお金を握り締め、我先にオッチャンの元へと駆け出したものでした。

一般的には、ポン菓子と言うようですが、ぼくらは誰もが「パッカン」と呼び、「パッカン屋のオッチャン」がやって来た~と、そう呼んでいたものです。

ぼくには仲良くしていただいている、飛騨市のポン菓子屋、その名も「ポン菓子屋本舗」の下出明己さんこと「飛騨もん太=飛騨ポン太」さんがいます。

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そう言えば昔、マカロニで作ったポン菓子「オカポン」を作ってくださったあのお方です。

飛騨ポン太さんのFacebookもぜひご覧あれ!

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ぼくらの地域にやって来たパッカン屋のオッチャンは、

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大きな声で「みんな、耳をふさげよ~っ!」と大声を張り上げ、圧力釜のレバーをハンマーで叩き開けます。

すると「パッカーン」と轟音が鳴り響き、辺り一面に白煙が舞い上がり、ぼくらはおっかなびっくりで耳を塞ぎながら、その一部始終を遠巻きに眺めたものです。

生米からふっくらと膨らんだポン菓子は、網から切溜のような浅い木箱に移され、オッチャンが水飴を刷毛でポン菓子の表面に塗り、確か彩として青海苔を振り掛け、伸し餅の様に固まったポン菓子を包丁で蒲鉾板くらいに切り分けてくれ、それを持参した一斗缶に入れてもらって家へと持ち帰ったものでした。

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あの素朴なポン菓子の味は、昭和半ばのぼくらにとって、忘れられないとっておきの一つだったに違いありません。

ぼくは出来立てのポン菓子よりも、ちょっと時間が経って湿気った感じのポン菓子が好きでしたねぇ。


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「昭和Nostalgia」(316)

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あくまでぼく的な、昭和半ばの飴玉と言えば、超スタンダードなカンロ飴と決まっていたものです。

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そしてたま~のたまにでしたが、ちょっと高級な黄金糖を貰えようものなら、その飴玉の美しさを矯めつ眇めつ眺めてから、口に入れたものでした。

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そしてお母ちゃんの機嫌がすこぶる良い時に、稀にこんな缶入りのサクマ式ドロップを買い与えられたりしようものなら、天にも舞い上がりそうな気分だったものです。

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わが家ではお母ちゃんが鹿児島出身と言う事もあり、よくボンタンアメがあり、ぼくも好きでした。

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それに拳骨飴とか、

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金太郎飴なんてぇのも、よく口にしたものです。

でも子どもたちに人気だったのは、

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こんな水飴。

割り箸を持った左右の手首をグルグルと回し、透明な水飴が真っ白になるまで、空気を取り込むように遊びながら練って、それをいただいたものでしたねぇ。

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でも飛びっきり甘くて美味しかったと言うよりも、水飴を練ることで遊び心が満たされることの方が愉しかったのかも知れません。

ぼくらは水飴って呼んでましたが、ねりあめと言う地域もあるんですねぇ。

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ぼくなんて姑息にも、喉が痛いとか咳が出るとか言っては、お母ちゃんに浅田飴の水飴を買い置きしてもらい、時折こっそり割り箸で練り飴遊びをしたものです。

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時に、こんな飴細工を初詣の露店で見かけたものでしたが、当然ながら買ってもらえた試しはありませんでしたねぇ。

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それと「ひやしあめ」とは耳にしておりましたが、今の今まで飲んだことがありませんし、そもそもこの地域ではなかなか見かけません。

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気になって調べると、関西以西のもののようですが、冷やしあめとは米粉、上白糖、生姜の搾り汁を釜焚きし、シロップ状にした蜜を水でわったものだとか。

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だとすると、水ではなく炭酸で割ったら、ジンジャエールのような味わいになりそうですねぇ。

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中にゃあこんなひやしあめのお酒もあるようですから、ぼくにゃあこっちの方が向いてるかも知れません。

しかし、甘こいんやろうなぁ・・・トホホ。


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「昭和Nostalgia」(315)

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こんなマッサージ機ってご存知ですか?

ぼくは子供の頃、床屋さんで大人たちだけがこんなマッサージ機を、肩や背中とか腰などに宛がわれ、大人のお客さんたちが恍惚としている姿がある種羨ましくもあり、ぼくも早くバリカンで丸坊主にされる時代を終え、大人の客として床屋さんに通いたいと思ったものでした。

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そしてついに大人の客となって床屋さんで、こんなマッサージ機を宛がってもらえた時は、それこそ至福の時間となったものでした。

つい何年か前まで、こんなマッサージ機が現役の床屋さんにもあったものです。

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さすがにこんな、家庭用のマッサージ機は、わが家にゃあありませんでしたが、父の日のプレゼントにお父ちゃんに買ってあげればよかったなぁと、今さらながら思えてなりません。

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しかしまぁ、マッサージ機にも色々と種類があったようですねぇ。

こんなマジックハンドのようなモノで、肩を揉まれたとしたら、何だかだなぁ何て思えちゃいます!

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だって見るからに痛そうだし、なにより使いにくそうですよねぇ。

やっぱり揉みは人の手に限るんじゃないでしょうかねぇ。


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「昭和Nostalgia」(314)

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中学生になって友達の家にお邪魔してビックリ!

友達の家の居間の隣の部屋の障子が空いていて、友のお母さんの鏡台が目に入ったのです。

そこには今まで見たこともない、とても奇妙なものがデーンと置かれていたのです。

失礼ながら男性用の便器のようでもあり、それにしてはとても小さいし・・・。

当然わが家のお母ちゃんの鏡台には、そんなもの自体が存在しておりませんでしたから、とにかく何だろうと興味津々!

友にそれとなく尋ねると、それは何でも美しさを保つ美容器具だとかで、友のお母さんが夜な夜な白い丸い形をした部分に顔を押し当て、白い煙のようなモノに当たっているのだとか?

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紅茶とビスケットを「さあ、召し上がれ」と言って出してくれた友のお母さんは、家のお母ちゃんとは比べようもないほどお洒落な美人で、ちょっと羨ましく思えたものです。

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そしてそのビューティー・スチーマーの横には、こんなものが!

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これもお母様の立派な美容器具だそうで、わが家との歴然とした差を痛感したものでした。

でもぼくは、化粧っ気の無いスッピンのお母ちゃんではありましたが、やっぱりぼくのお母ちゃんが一番大好きでした!


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「昭和Nostalgia」(313)

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わが家にはもちろんありませんでしたが、こんな健康器具と言うか、お腹周りの余分なお肉を振るい落とすと言う、こんな器具をどこかのお家で見かけたことがありました。

きっと友達のお姉さんとかが、お使いだったのかも?

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もちろんこれもわが家にゃあありませんでしたが、これまたやっぱり友達の家で見かけたことがあります。

でもぶら下がるバーの所には、なぜか洗濯物がぶら下がっていたような?

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これもわが家にゃああるわけもありませんでしたが、年頃のお姉さんを持つ友の家で見かけたことがあった気がします。

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こんな肩こり解消のような器具も見かけましたねぇ。

しかしそれらの健康器具は、いつの間にどこかへ消え行ってしまったんですねぇ。

果たして効果はいかがなものだったんでしょうかねぇ?


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「昭和Nostalgia」(312)

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ぼくがまだ幼かった昭和半ばの時代は、家のお母ちゃんもよく着物を着て、その上から割烹着を羽織っておりました。

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なにも当時は、家のお母ちゃんだけのことではなく、ご近所のオバチャンたちも同様だったものです。

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時にはこんな洋装の時だって、買い物に行ったりする時は、割烹着に手拭いでほっかむりだったものです。

それにしてもこの写真の右上、八百屋さんの梁から吊り下げられている新聞紙!

それが立派な包装紙でしたねぇ。

中には新聞紙を糊付けし、紙袋にしてあるところもあったものです。

なにも新聞紙の包装紙は、八百屋さんだけじゃなく、魚屋さんだって肉屋さんだって、どこもかしこも読み終えた古新聞をちゃんと活用していたものでしたねぇ。

見てくれや見栄に捕らわれない、昭和の「もったいない」文化が色濃く残っていた、典型的なリサイクルだったのかも知れませんねぇ。


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高校の3年の卒業式が近付くと、女生徒を対象に「メイクアップ教室」とかってぇのが行われておりましたですねぇ。

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まぁ、野暮な男どもにゃあ、当然ながらお呼びがかかるわけじゃありませんが!

化粧品メーカーの協賛で、女生徒たちは楽しみにしていたようでしたねェ。

憧れのあの娘がメイクするとどうなるんだろうって、覗き見をしていた男子生徒もいたとかいないとか?

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さて、ぼくはどうだったか?

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しかし、令和の時代じゃ、高校3年の卒業前にメイクを教わらなくっても、もうとっくの昔から慣れ親しんでいるお嬢様方の方が多いようですけどねぇ。


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「昭和Nostalgia」(310)

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小学校の高学年になると、特段の理由など無く、とにかく当時キラキラとしていたアメリカに憧れを感じたものです。

そのアメリカの象徴が、エアラインの「PAN AM」でした。

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それは多分に、当時のTVのクイズ番組等で、優勝者にハワイ旅行がプレゼントされ、その時にアシスタントのお姉さんが、こんな「PAN AM」のロゴがプリントされたエアラインバックを、うやうやしく優勝者に手渡す姿を何度も何度も目にしていたからに違いありません。

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ぼくもいつか必ず、憧れの「PAN AM」に搭乗し、キラキラと輝いていたアメリカへ渡るんだ~っと、ただただ呆然と思い描いていたものです。

しかし1986(昭和61)年2月12日、太平洋路線からパンアメリカン機が撤退。

その年の11月、ぼくは一人でアメリカのニューヨークとサンフランシスコへ渡ったのですが、ついにあの「PAN AM」に搭乗することは叶わず、「PAN AM」に取って代わった「UA」ユナイテッド・エアラインに搭乗して、ジョンFケネディー空港へと降り立ったものでした。

昭和半ばのアメリカは、いつもキラキラとしていて、文化やファッション、そしてミュージックと、腕白坊主どもを駆り立てたものでしたねぇ。


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「昭和Nostalgia」(309)

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昨日は名古屋も雪が積もり、公園では親子連れが何組か、雪合戦をしてキャッキャキャッキャと声を上げていました。

寒空の中、その姿を眺めながら、娘がまだ幼かった頃、あんな風に雪合戦をしたものだなぁと感傷に耽ったものです。

上のモノクロ写真は、ぼくがまだ幼かった頃に見た光景とあまりにも似ていて、妙に懐かしさを感じてなりません。

その記憶とは、おそらくぼくがまだ3つ4つの頃のものだと思います。

お父ちゃんに連れられて、今日のような真冬の日に、三重の田舎に出掛けたのです。

お母ちゃんが一緒じゃなかったから、何かしらの用があったのでしょう。

名古屋から松坂まで近鉄電車に乗り、松阪駅から大石まで今では廃線となった三重電気鉄道松阪線に乗り換え、大石からは三重交通のバスで、粥見へと向かったものです。

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その際の、大石駅の小さな売店の中から、松阪行の電車か粥見行きのバスを待つ間なのか、曇りガラスの窓から温められた牛乳瓶を、お父ちゃんと仲間で飲みながら雪の降る小さな駅前ロータリーを眺めていた風景にとても似ているのです。

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ドラム缶の焚火で暖を取る学生服の少年、子を背負い褞袍を羽織る親子、革靴にコートの紳士。

そのいずれもが、不思議にも懐かしくもあり、ぼくの昭和半ばを象徴する原風景の一片のようでもあります。

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そう言えばわが家にも、家族全員分のこんな褞袍があり、冬になると登場したものです。

確か高校に入る頃まで、ぼくはお世話になったものでした。

薄い綿布団を着ているようで、とても温かでしたねぇ。

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今度どこかで、こんな辛子色の褞袍を見つけたら、部屋着に買ってみようかなぁ!

そしたら昭和半ばの温もりをもう一度、肌で実感できるかも知れませんよねぇ。


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