通り雨が行き過ぎた黄昏時が、ぼくはとてもロマンティックに想えてなりません。
皆様はいかがでしょうか?
街路樹の葉をポツンポツンと伝い落ちる雨粒。暮れなずむ西陽に染め上げられる、濡れた街並み。何だかちょっと切ない物語が始まりそうな、そんな予感すら覚えてならなかったものです。
通り雨が上がって、心が晴れやかになりそうにも思えますが、それが真昼間ならともかく、黄昏時ともなってまいりますと、ちょっとだけセンチメンタルな気分が掻き立てられることもあります。心の中にわだかまったままの、まるで古傷が疼くかのように。そんな心境をテーマにした曲です。
今夜はまず、「雨のメモワール」という曲を、弾き語りでお聴きください。
ぼくの曲の中では珍しく、「ぼく」という一人称ではなく、ちょっとキザったらしくって言うか、大人ぶってと言うか「俺」を使っています。よくよく考えて見ると、ぼくもオフィシャルには「ぼく」を多用する傾向にあると思います。「俺」という一人称を使う場合は、よっぽど心を許した相手との、男同士の席だけのように思います。
そしてなにより、この曲のシチュエーションで登場する人物には、「ぼく」よりも「俺」の方が、より相応しいと感じたからかも知れません。
VIDEO
「雨のメモワール」
詩・曲・唄/オカダミノル
通り雨よ何処まで行くんだ 急ぎ足でこの街を過ぎて
何処かの街角で あいつを見たら伝えて
この俺は今もあの店の 壁のポスターを相手にして
酔い潰れているはずと そっと伝えて欲しい
雨のメモワール風に揺れ 古傷がまた痛む
色褪せたページから浮かぶ記憶 思い上がりの日々が
通り雨が過ぎたこの街は 鮮やかな黄昏のスクリーン
すれ違う人並みに ふとあいつを探す
雨のメモワール風に揺れ 過ぎし日の愚かさが
ページと共に心締め付けるよ 独り善がりの恋と
雨のメモワール風に揺れ 戻れぬあの一時
最後のページを繰る指先から 滲む遠き日の影
誰かの事を好きになると、ついつい周りが見えなくなったり、相手の気持ちよりも自分の想いの方がドンドン空回りし、まるで恋している自分に酔いしれてしまった、そんなご経験をお持ちの方もおいでではないでしょうか?
しかし所詮、そんな独り善がりの恋は、長くは続かないものかも知れません。
いくつか恋の痛手を経験しながら、人として成長してゆかねばならないのでしょうね。
続いては、CDのバンドアレンジされた「雨のメモワール」を、お聴き比べください。
★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)
今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「年賀状の芋版」。ぼくも小学生の頃、サツマイモで芋版を彫ったものでした。なんせ筆不精者でしたから、少しでも手抜きできるようにと。お母ちゃんからサツマイモの輪切りを、一枚二枚と貰っては。ところがこれが中々思うように上手く彫れません。何度も何度も失敗し、その度お母ちゃんから嫌みの一言でも言われながら、渋々一枚二枚とサツマイモの輪切りを貰ったものです。何とかかんとかやっとのことで、芋版を完成させた夜。わが家の晩ご飯は、天麩羅でした。するとお父ちゃんが、食べかけの天麩羅を箸で掴んだまま、衣の下の実の部分を眺めているじゃないですか!「なんやこの芋天!なんやら緑色やら赤色なんやけど・・・」と。そうなんです。ぼくが芋版に絵の具を塗って、年賀はがきに刷った後のサツマイモまで、お母ちゃんが天麩羅に揚げてしまっていたのです。するとお母ちゃんは、「お父ちゃん!凄いわ!それ大当たりやわ!」と、煙に巻いてしまったのです。
今回はそんな、『年賀状の芋版』に関する、皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。