「SORANE(宙音)」

ぼくが14歳の中3の夏休み。何をどう血迷ったものか、「フォークシンガー」になりたいと思うようになり、「その為には兎にも角にも東京へ行かねば!」と、なんの脈略も無く、知恵も無い中学三年生のぼくは、頑なにそうあるべきだと思っていました。そしてある日、お母ちゃんの機嫌の良さげな日を見計らって、「東京の音大の付属高校に進学させて欲しい」と交渉を持ちかけました。すると見る見るうちに機嫌の良さげな母の顔はどんよりと曇り、「そ、そ、そんな、高校から東京に下宿させるお金なんて、家の何処を探したって、逆立ちしたって出て来る訳ないやろ!」とけんもほろろ。

そこで「フォークシンガー」に近付くには・・・と、毎日考えたものです。そして閃きました!当時、ミッドナイト東海と言う、ラジオの深夜番組に出演していた、秋田出身のフォークシンガー「山平和彦」氏。当時キングレコード傘下の、ベルウッドレーベルからLPも出されておりました。「そうだ!山平さんの弟子になれば、ぼくが東京に行かなくても、東京の空気を感じ取れるはず!」と。そして右も左も分からぬままぼくは、東海ラジオに電話をして山平さんに電話を繋いでいただいたのです。そして怖いもの知らずだったぼくは山平さんに「ぼくを山平さんの弟子にしてください」と告げると、「お前、いったい何歳?」と。ぼくが「中学3年の14歳です」と答えると、「面白い!さっそく来週から、このスタジオへ来い!」と。そこでぼくの運命は、現在へと続く長い道のりを歩み出したことになります。

山平師匠との思い出話は、また後日として、今日は弾き語りで「SORANE(宙音)」をお聴きいただこうと思います。

この「SORANE(宙音)」は、ぼくが21~22歳の頃の作品です。ちょうど当時、山平さんご夫婦は、名古屋市西区のとあるマンションにお住まいで、愛娘の「宙音(そらね)ちゃん」が誕生されたとお聞きし、お祝いにお邪魔した折に、僭越ながら山平師匠ご夫妻と、生後3ヵ月ほどの「宙音ちゃん」の前で、ギターをボロロンと爪弾いて、お祝い代わりに歌わせていただいた、思い出深い1曲なんです。当時のぼくは、花屋のご夫妻の元で、アルバイトの身。「宙音ちゃん」の立派な誕生祝など、買えるほどの身分でもありませんでしたから、それが精一杯だったのです。当時、山平師匠夫妻は、自然食のベジタリアン志向で、奥様の手料理を戴きながら唄ったのを今でも鮮明に覚えております。

前置きが長くなりましたが、まずは「SORANE」を弾き語りでお聴きください。

『SORANE』

詩・曲・歌/オカダ ミノル

宙音(そらね) 小さな君の 笑顔に勝るものなど無い

だからどんな時でも パパは君を守ろう

少し重くなったと 君を抱いてママが微笑む

そうだね 幸せなんて こんなことかも知れない

 君はわが家に 明るさを振りまく  静かな夜の 輝く星さ

 時の流れが 波打つ時でも  君とママのため 生きて見せる

宙音 君が生まれる 前のお話をしてあげよう

あれは夏の浜辺 やさしい星たちに囲まれ

澄んだ目をした娘に パパはプロポーズをした

娘は砂に「ありがとう」 それが君のママだよ

 しばらく何も言えず 小さなママの肩を  抱きしめながら 空を見上げた

 その時流れた 星が今でも  ママは君だと 信じている

 君はわが家に 微笑みを振りまく  小さな小さな ピエロのようだね

 時の流れが 波打つ時でも  君とママのため ぼくは生きよう

それから山平師匠とお逢いする機会はありましたが、東京都足立区北区に移り住まれて以降、「宙音ちゃん」とお目に掛かることはありませんでした。

ところが2004年、師匠の山平さんが東京の竹の塚駅前で交通事故に遭い、お亡くなりになったと、随分経ってからそんな訃報が届きました。

確かそれから2年ほど過ぎてしまってからだったでしょうか。東京竹のノ塚の山平師匠のお宅をやっとお訪ねすることが出来ました。当時は奥様も体を少し悪くなさっておったようでしたが、「ミノル君、よく来てくれたわね」と迎えて下さり、山平師匠のご仏前で香華を手向けさせていただきました。在りし日の師匠の遺影と、傍らには愛用されていた、オベーションのギター。そしてデビュー前の、マイ・ペースのお三方との写真に囲まれ、師匠の遺影の顔がより一層穏やかそうに感じられたものです。

しばし奥様と若き日の思い出話を愉しみ、暇乞いをして玄関先へと向かうと、玄関が開いたのです。「あらっ、お帰り!こちら名古屋のミノル君よ。あなた小っちゃかったから、覚えてないかしら?」と奥様。宙音ちゃんは、戸惑っておられました。そりゃあそうですよね。いくらなんでも、生後まだ3ヵ月ほどのまだ乳飲み子でいらっしゃったのですもの。それが何十年ぶりかで再会した、すっかり美しい大人の女性に成長された、宙音ちゃんだったのです。

でもどうして師匠は、愛娘に「宙音」と命名されたのか?その経緯を伺った覚えはありません。しかし師匠の作品には、「星の灯台」なんて曲もありますし、宇宙に関心を持たれていたのやも知れません。

はて?宇宙では、いったいどんな音が聞こえるのでしょう?しかし気圧も異なり、酸素も無い宇宙空間で、生身のままのこの鼓膜から、直接宇宙の音を聴きとることなど、出来ないのでしょうね。それでも誰も知らない遠い宇宙と言う、未知なるところの、未知なる音には、やはり壮大な浪漫が感じられるものです。師匠がこの世に遺した、たった一人の愛娘、「宙音」ちゃん。どうか何時いつまでも、幸多からんと祈りたいと思います願うばかりです。

★いつもブログに洒落たコメントをお寄せいただいている、「夢ちゃん」が11付4日にお誕生日をお迎えになります。そこで「Happy Birthday~君が生まれた夜は」で、今夜もささやかなお祝いです。

夢ちゃん、お誕生日おめでとうございます!

★ここで新企画のご提案です。深夜放送では、毎週特集のテーマを決めて、昔話の思い出話をメッセージとしてお書きいただき、リクエストいただいておりましたが、今ではそうはまいりません。

そこで毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「日捲り」。今はとんとどこからも、いただくことのなくなってしまった「日捲り」。昭和半ばのわが家には、洒落たカレンダーなんてどこにも無く、ましてやお金を出して買うカレンダーなんて、一つとしてありませんでした。あるのは全て、「○○酒店」とか「△△新聞店」と、台紙に屋号の刷り込まれた「日捲り」カレンダーばかり。よくもまあ来る日も来る日も、あっちこっちに掛けられた日捲りを、忘れず捲っていたものだと、つくづく感心するほどです。でも小学3年の年。わが家の日捲りカレンダーが、捲られもせず2週間も過ぎ去ったことがありました。父が十二指腸潰瘍の手術で2週間入院し、母が看病で付き添ったからです。母方の薩摩おごじょで、ものぐさだった婆ちゃんが、せっせこせっせこ日捲りを、捲って歩くはずも無く。あの誰も捲ろうともしなかった、父の入院当日で止まったままだった日捲りが、今でも忘れられません!って、そんなこと言うくらいなら、自分で背伸びしてでも捲れば良かっただけのことですけどね(笑)

今回はそんな、『日捲りサンタさんの長靴(クリスマスブーツ)』に関する皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「残り物クッキング~フライド里芋」

郡上から沢山、今年も里芋をお送りいただきました。感謝、感謝です。しかしこの里芋、めっちゃくちゃホッコリしていて、毎年楽しみにしているほど美味しいんです。

とは言え、里芋の使い方となりますと、イカとお醤油で甘辛く煮た煮っころがしや、里芋のバターソテーとか、グラタンと、レパートリーがどうしても似たり寄ったりになりがちです。

です!あっ、これだあ!そこでふと思い立ったのが、この「フライド里芋」。ちょうどTVで、ケンタッキーかマックのフライドポテトの美味しそうなCMが流れていた時の事です。

です!あっ、これだあ!ジャガイモに出来て、里芋に出来ぬはずはない!とばかりに、さっそく里芋の皮を剥き、水に浸けておきます。

そしてボールに空け水を切り、キッチンペーパーで水とぬめりを取り、後は油で揚げて塩を振り、最後に彩でドライパセリのパウダーを振り掛ければ完了。

表面はパリッとして、中は里芋のあのまったりとした、粘り気のある味わいがとても最高!キリン一番搾りにゃあ、たまらない肴に早変わりで、すっかりお腹の持ちも良く、中々どうして侮るなかれの「フライド里芋」。超時短クッキングとなりました。

ぜひ皆様も、里芋料理のバリエーションに行き詰まったら、お試しください!

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「色付く街とゴミ屋敷?ならぬ、アートな民家?」

街中でも少しずつ、街路樹が色付いて来ましたから、標高の高い地方ではもうすっかりさぞや美しい紅葉で彩られているのでしょうね。

まさに誰が言ったか「秋は山から下りて来る」ですねぇ。

そんなちょっぴり街中の紅葉を愉しみながら、ウォーキングを愉しんでいると、の途中こんな景色が!「ややや、今話題のゴミ屋敷かあ?こんな大通りに面した家で???」と、そんな事を思いながら歩を進めると!

「ゴ、ゴ、ゴミ屋敷?????ではなさそうか?」。良く眺めると、それなりにゴミのようなモノが、一定の法則でどうやら並べられているようです。このアートを手掛けた住人?、或いはアーティストは、ゴミもどきのモノを捨てているのではなく、もしかしたら展示をしているつもりなんでしょうか?

ここがどうやら、表玄関のようですが、とても人が足を踏み込めそうにありません!しかも奥の屋敷には、人がいる、人が生活していると言う気配もありません。

では、このゴミならぬ雑貨を、誰がどこから運んで来たのか、持ち出して来たか?どんな意図で、歩道と民家との境界に、こんな謎のアートをしているのやら?

アートをしているのやら?ますます謎は深まるばかりでした何とも不思議な光景に、思わず足を止めてしまいました。

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「またしても!でも、いかにもイモムシらしくって可愛らしい!」

またもや、ウォーキングの途中の歩道で、可愛らしいイモムシを発見!

これだったら連れ帰りたいほど、イモムシらしいイモムシ君です。

でもぼくは、ファーブル先生でもないので、このイモムシ君がどんな成虫になるのかも分からず、やっぱりとんでもない成虫になって部屋を飛び回ってくれても困りもの。

泣く泣く断念いたしました!

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「七五三の後は、あっちもこっちもクリスマス!」

近所のスーパーの店内も、ドラッグストアーも、あっちもこっちもすっかりクリスマスですねぇ。

七五三のディスプレイなんかよりも、クリスマスの方が圧倒的に目についてしまいますもの。

子供の頃、クリスマスツリーを飾って欲しくって、両親に泣いて強請った覚えがありました。

でも小さなクリスマスツリーがわが家にお目見えしたのは、小学校の3年の頃のことだったでしょうか!

クリスマスの次の日の夜、お父ちゃんが「おお~い!クリスマスツリー買って来てやったから、来年のクリスマスは一緒にツリー飾ろうな!」って。何で、もうせめて2~3日前に買ってくれなかったのか、と、お父ちゃんに問うたものです。

すると「今年のクリスマスの売れ残りが、安うなっとったでやわさ!」と。

今にして思えば、両親は、そんな風に遣り繰り算段をしながらて、何とかぼくに肩身の狭い思いをさせぬようにと、育ててくれたんだと感謝の気持ちばかりです。

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「舞台監督の42年来の友とDAIKOKUへ!」

先日の夜、ぼくのリサイタルの演出や舞台監督を務めてくれている、4年来の友とDAIKOKUの機材チェックを兼ね、二人で語らいながらグラスを重ねてまいりました。

この友とは、42年ほど前に出逢いました。

それからもこれからも、互いに付かず離れずの関係を保ち、今日まで続いているくさ縁です。

ぼくは一人っ子だったせいもあってか、いつもベッタリと、絶えず友人たちと一緒と言う関係は、何よりも苦手です。

人間には、野生動物たちと同じように、保守半径と言うモノが存在していたと、かつて半村良さんの小説で知ったことがあります。

その「保守半径」と言う理論は、小説家半村良氏の想像の産物なのか、或いはちゃんとした学説なのか、ぼくも確かめてはおりません。

しかし氏の小説の中に描かれた「保守半径」の件が、妙な説得力を秘めていたせいか、この年になっても忘れられず覚えております。

その「保守半径」なるもの。例えば野生の、百獣の王ライオンの保守半径が300mとすると、ライオンがよっぽど腹を空かして飢えていなければ、ライオンから半径300mの距離に立ち入らなければ、同時にこちらが何も危害を加えようとしなければ、ライオン自らから襲い掛かって来ることはないといった内容でした。

そして古代の人間にも、そうした保守半径と言うモノが、存在していたのでは無いかと!

古代の人々の保守半径が仮に10mほどであったとしたら、大都会で暮らす現代人は数cmにまで縮めながら、暮らしているのでは無いでしょうか?

しかも満員の通勤電車の中では、そんなわずか数cmの保守半径すらも保てず、体が密着するほどです。

そうして知らず知らずのうちに、「保守半径」を互いに犯し合っていることで、ストレスを生じさせているようにも思えます。

先日の、穢れ落としの陸奥旅など、名古屋なんぞに比べたら、そもそも人口密度が低いため、まったく満員電車で味わうようなストレスなどありませんでした。

ぼくの大好きなニュージーランドなんて、そもそも人間の数より、羊の方が多いくらいですから、ストレスフリーですし、むしろ人恋しい思いに駆られるほどですから!

きっとぼくは、42年の付き合いとなる友と、これからも付かず離れずで、どちらかが先にくたばるまで、こんなルーズな関係を保っていくのかも知れません。ちたいものです。

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「なんじゃこりゃあ!」

雨の日の翌日のこと。運転免許の書き換えで、名古屋の港水上警察署で手続きを終えた後、の~んびり歩いて帰ろうと、築地から千年、そして旗屋町を経由しながら、片道kmの道程を、ウォーキングかたがた歩いて帰った時の事でした。

築地から千年に向かう途中の、歩道の植え込みでこんな不思議な物に出くわしたのです。

まるで野球のボールのようでした。子供の頃の草野球。貧しい昭和半ばの時代ですから、満足な野球道具のグローブなんてありません。素手がグローブなんですもの。しかもバットなんて、一文菓子屋の倅のトシ君が持っている、たったの一本こっきり。ぼくらはトシ君のバットが借りたい一心で、野球ベタなトシ君でもメンバーに喜んで入れていたものです。しかもボールなんて、国際のボールがたったの一個。誰かがたまさかホームランでも打とうものなら、ぼくらは皆でキャベツ畑の中を探し回ったものです。まるでそんな感じで、キャベツ畑でボールを見つけた気分でした。

しかし近付いてよく見ると、巨大なマッシュルームのような、見たことも無いキノコです。しかしあまり見かけないキノコには、毒性を持つ物も多いと聞いていましたので、そっと傍観するだけにしましたたものです。

まあよくよく眺めて見れば、とても食用とは思えぬまがまがしさ。何でも聞くところによると、一雨で一気に成長する、こんなキノコもあるのだとか!嗚呼、クワバラクワバラ!

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「天下一!馬瀬川の鮎めし」

これは残り物クッキングではありません。ぼくが鮎を焼いて、郡上からお送りいただいた新米で炊き込んだ「鮎めし」です。

鮎は、馬瀬川温泉「美輝の里」の支配人さんから、鮎漁の解禁直後にいただいた物を冷凍して、新米の時期まで保存していたのです。

さすが天下一に輝いたと言う、「馬瀬川の鮎」。冷凍する前は、本当に奇麗なお姿で、桐の箱に収まっておられたものです。

全部で10匹いただきましたが、今回はその半分の5匹を自然解凍し、沖縄の塩を振り、魚焼きグリルでまずは塩焼きに!

焼き立ての鮎の塩焼きを、まず尾と鰭を取りのぞき、次に箸で鰓の周りを切り裂き、今度は箸の背で鮎を軽く圧し潰し、最後に身を手で押さえ、頭からスッポリ中骨を抜き取ります。これは初めて岐阜で初めて、鮎釣り名人を自負する先輩から、鮎の食べ方として習ったものです。

次に中骨を抜いた鮎を、手で千切り取り、新米を入れた炊飯器にたっぷり入れ、炊き上げたそれだけの「鮎めし」です。

昆布や鰹の荒節で煮出した出汁も加えず、もちろんお醤油や白醤油なども一切加えず、ただ塩焼きにした鮎に纏わりついた塩味だけですから、炊きたての炊飯器の蓋を開けると、ただならぬ香魚「馬瀬川の鮎」の香りと、郡上育ちの新米の香りが立ち込めます。

もう、これだけでも、天下一のご馳走でした!天晴れ、馬瀬川の鮎と、郡上の新米!

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「白山長滝の鮎パークへ!」

先日レンタカーを借りて、ぶらりと白鳥を越え、白山長滝の「鮎パーク」まで足を延ばして、ドライブを楽しんでまいりました。

丁度その日は、とても良い秋晴れの日に恵まれ、小学生が観光バスで訪れ、鮎のつかみ取りから串打ちまでを指導いただきながら、バーベキュー棟で鮎を塩焼きにして舌鼓を打っているようでした。羨ましい!

何ともいい眺めではないですか!川原に座り込んで、五平餅でも肴にキリン一番搾りでぷっはぁと行きたいところですが、車ですからもちろん飲酒はダメ!

ぼーっと、長良川の流れを見つめているだけで、気持ちが和らぎます。

この池の中では、鮎やニジマスなどが優雅に泳ぎまわっていました。

きっと小学生の太公望たちが大騒動するんでしょうね。

やっぱり鮎は美しい!

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「どんなに遠い君への道でも」

深夜番組のラストソングは、必ずこの「どんなに遠い君への道でも」を、お聴きいただいたものです。いつからか、どなたが名付けられたのか、「おやすみソング」なぁ~んて親しみを込めて呼んでいただいたものです。

今日は、弾き語りでまずはまったりと、「どんなに遠い君への道でも」をお聴きいただきましょう。

「どんなに遠い君への道でも」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

疲れ果てた夜は君が夢に訪れる

もう少し手を伸ばせば君を抱きしめられた

一番二人きりで逢いたい時に君と逢えない

もう少しだけ早く出逢うことが出来たら

 これ以上愛さないで 君の声が涙に滲(にじ)む

 どこまで行けばいいの どこまで続くの迷い子の恋

 これ以上愛さないで いることなんてぼくは出来ない

 これ以上たとえ君を 苦しめるとしても今君が好きだ

肩に回したぼくの腕時計を

何度見詰めても時は止められない

だけど君を抱いたあの夜から

ぼくの人生の 時は確かに君の前に立ち尽くした

 誰より深く君を 愛することしかぼくに出来ない

 どんなに遠い君への道でも これが最後の恋

 この広い世界中で 君のこと以外ぼくは見えない

 これ以上たとえ君を苦しめるとしても 永久(とわ)に君が好きだ

 誰より深く君を 愛することしかぼくに出来ない

 どんなに遠い君への道でも これが最後の恋

 この広い世界中で 君のこと以外ぼくは見えない

 これ以上たとえ君を苦しめるとしても 永久に君が好きだ

どんなに遠くに見えている山の頂でも、死ぬまでに一度は訪れて見たい、世界の果てにある名所であっても、どうしてもそこへ辿り着こうとする意志があるのならば、まずは最初の一歩を今踏み出さねば、昨日より目的地に近付くことなどあり得ません。

それは何も山の頂や、世界の果ての名所だけではなく、何事においてもそう言えるのではないでしょうか?

ぼくには、冒険家の知り合いがいます。その方は、2005年に植村直己冒険賞を受賞された、リヤカーマンこと冒険家の永瀬忠志氏です。彼は生活用品を積んだリヤカー「たごさく3号(当時3代目となるリヤカーだったため)」を引いて、1989年にアフリカ大陸の横断を始め、翌1990年にサハラ砂漠縦断を達成。1年の歳月を費やし、約11,100kmのアフリカ大陸横縦断を歩みぬいたのです。ぼくが彼にあったのは、確か1991年、冒険旅行から帰国して間もない頃のこと。独身だった彼の大阪にあったアパートに上がり込み、冒険譚に耳を傾けたものでした。当時彼は夜間高校で教鞭をとられ、生活を切り詰めお金を貯めては、また次の冒険へと向かうと言う、そんな暮らしをなさっていたものです。今でも忘れられないのは、彼が入れてくれたインスタントコーヒーです。とにかく必要最低限、余分な物を一切持たず、冒険の資金に充てていたようです。ですから、洒落たコーヒーカップもソーサーも無く、あるのはキャンプ用のアルマイトのコーヒーカップと、アルマイトのボール。彼はそれに堂々とインスタントコーヒーを淹れてくれたものです。どんな名立たる珈琲専門店のコーヒーよりも、一際美味しかったのを今でも鮮明に記憶しています。

アフリカ大陸の横縦断11,100kmの道程だって、端から無理だと思えば暴挙でしか無いかも知れません。しかし彼は、己の肉体の限界と闘いながら、アフリカ大陸に最初の一歩を記し、心が何度も折れながらでも、愛車のたごさくと共に歩みぬいたのです。普通歩幅は、「身長×0.45」が目安とか。彼はそれ程大柄ではありませんから、仮に身長を170cmとすれば、×0.45で一歩が76.5cmとなります。11,100kmを歩ききるのに彼は、約1千450万歩、ひたすら歩み続けた勘定となります。果てしなく遠い道のりです。でも彼は、アフリカの大地に、最初の一歩を踏み出したのです。

例えその場所が、例えその人が、どんなに遠くに見えようが、近付きたければ迷うことなく、一歩でも前へ前へと歩まなければ、いつまでも遠くから眺める、自分の立ち位置の視点からの風景だけしか見えないものではないでしょうか?

ここでもう一度「どんなに遠い君への道でも」をCD音源から聴き比べていただければ有難い限りです。

★ここで新企画のご提案です。深夜放送では、毎週特集のテーマを決めて、昔話の思い出話をメッセージとしてお書きいただき、リクエストいただいておりましたが、今ではそうはまいりません。

そこで毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今週の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「サンタさんの長靴(クリスマスブーツ)」。家なんて筋金入りの仏教徒でしたが、小学生になると一応、クリスマスの真似事をやってもらったものでした。今でこそ、クリスマスブーツと言えば、「ああ!あれかあ」となりますが、わが家では確か「サンタさんの長靴」って呼んでいたように記憶しております。それがまあ欲しくって欲しくって!毎年毎年半べそかいておねだりして、小学校の半ばの頃になって、やっとのこと本当に小さなサンタさんの長靴を買ってもらったことがありました。でも子どもながらに、なんでサンタさんの長靴って、片一方しかないのだろうと、不思議でならなかったものです。しかしこれは西欧では見られない商品で、海外の方たちはとてもビックリされますものね。

今回はそんな、『サンタさんの長靴(クリスマスブーツ)』に関する皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

ぼくには、冒険家の知り合いがいます。その方は、2005年に植村直己冒険賞を受賞された、リヤカーマンこと冒険家の永瀬忠志氏です。彼は生活用品を積んだリヤカー「たごさく3号(当時3代目となるリヤカーだったため)」を引いて、1989年にアフリカ大陸の横断を始め、翌1990年にサハラ砂漠縦断を達成。1年の歳月を費やし、約11,100kmのアフリカ大陸横縦断を歩みぬいたのです。ぼくが彼にあったのは、確か1991年、冒険旅行から帰国して間もない頃のこと。独身だった彼の大阪にあったアパートに上がり込み、冒険譚に耳を傾けたものでした。当時彼は夜間高校で教鞭をとられ、生活を切り詰めお金を貯めては、また次の冒険へと向かうと言う、そんな暮らしをなさっていたものです。今でも忘れられないのは、彼が入れてくれたインスタントコーヒーです。とにかく必要最低限、余分な物を一切持たず、冒険の資金に充てていたようで、コーヒーカップもソーサーも無く、キャンプ用のアルマイトの