「天職一芸~あの日のPoem 8」

今日の「天職人」は、岐阜市の「鵜匠の家女将」。

金華の裾に 篝火ゆれた 天守を翳む 朧月       風折烏帽子 ホウホウと 手縄さばきに 鵜舟駆る    河畔に屈む 影一つ 浴衣姿の 洗い髪         線香花火 燃え尽きた 長良の夏を 愛(お)しむように

長良河畔の旅館、「鵜匠の家すぎ山」の女将を訪ねた。

長良には、宮内庁式部職に任ぜられた鵜匠が六名。これは誰もが知っている、鵜舟を駆る鵜匠だ。ところが実はもう一人、鵜舟には乗らない陸の上の式部職鵜匠がいた。それが女将の最愛のご主人だった。

女将は村上水軍の血を引く、瀬戸内の出身。瀬戸の花嫁さながらに、26歳の年に長良橋を渡り嫁いだ。しかしその七年後、最愛の夫が急逝。二人の幼子を抱え、長男が鵜匠を襲名するまでの間、細腕で陸の上の鵜匠の肩代わりを務めた。

「この川に今まで、どんだけ喜びや哀しみを流したやろか」。茜色に染まった川面を眺めながら、女将がことりと呟いた。

瀬戸内の海から長良川を遡上した女将。ぼくがお逢いした折は、岐阜訛りにもまだぎこちなさが残っていたのが、今でも印象的に思い返されます。

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「天職一芸~あの日のPoem 7」

今日の「天職人」は、愛知県七宝町の、「七宝焼き釉挿し職人」。

一雨毎に 紅深めゆく 鎮守の森の 紫陽花よ      軒の戸板で 白透(しろす)けはぜた 梅雨の束の間 天日干し                         瑠璃玻璃瑪瑙(るりはりめのう) 七宝荘厳(しちほうしょうごん) 日がな一日 釉を挿す            尾張遠島 業人の里 貴(あて)やかなりし 紫紺釉(しこんゆう)

明治元(1868)年創業の、七宝焼き窯元に、丸喜軒四代目の釉挿し職人、林さんを訪ねた。

七宝焼きは分業制。極薄銅板を操る素地職人。極薄の銀線を植え込む、線付け職人。下絵の輪郭を模る、銀線と銀線の細かな隙間に、針ホセと言う錐(きり)の先が針のように細い道具で、極彩色の釉薬を挿す、釉挿し職人の手を経て、緻密な図柄が焼き付けられる。

写真は参考です。

「葉っぱ一枚にしたって、一枚一枚色が違う。陽にようあたるとこは、明るい緑だし、奥まったところは陰に隠れて黒ずんで見えるし」と、林さんが釉薬の入った引き出しを開けた。すると例えば緑一色とは言っても、黄葉、青葉、錆葉、萩葉、桜葉色と分かれている。それを釉挿し職人は、己が目を頼りに見事に使い分けるのだ。

仕上がりまでには約三か月。気の遠くなるような緻密な作業が、これでもかと言う程、繰り返されるのです。

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「天職一芸~あの日のPoem 6」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯南町の、日本一に輝いた松阪牛の「牛飼い職人」。

早苗色づく 深野の棚田 梅雨に打たれて 実を結べ   夜も明けぬのに 牛追う童 茣蓙を羽織って 菅の笠   五里を下りて ご城下までは 通いなれたる 道なれど  牛の値踏みに 胸躍りだす おらが牛なら 天下一

父の故郷、飯南町。松阪駅から西の山間へと入った、櫛田川の上流。お茶と松阪牛の産地として名高い。

ぼくが訪ねたのは、牛飼い一筋半世紀の栃木さん。栃木さんの牧場には、小さな牛舎がポツリとあるだけ。後は木柵で囲われた、大きな草原が広がる。しかも一度に飼育する牛は、3~4頭。自分の目が届く範囲で、手塩にかけ愛情を注ぎ込み、子牛を約3年間飼育する。だから栃木さんのところの松阪牛たちは、ストレスフリー。木柵に栃木さんが近寄ると、真っ黒な眼(まなこ)をクリクリとさせながら、子牛たちがすり寄って来たものです。「ええ松阪牛はなぁ、背筋がスーッと通り、箱みたいに四角い腹で、ふくよかな尻しとるんがええんやさ」と。

これは栃木さんでもなく、「ふくよし号」でもありません。あくまで参考まで。

栃木さんが育てた「ふくよし号」は、平成3(1991)年の松阪牛品評会で、優秀賞一席に選ばれ、三千万円の高値を付けた。

この松阪牛の肉は、「ふくよし号」のものではありません。

しかし今でも、品評会に出す日が一番辛いとか。牛も今生の別れと知り、真っ黒な大きな眼(まなこ)を濡らすと言う。

取材の帰りがけに、栃木さんから松阪牛のお肉の包みを、「切り落としやけど、食べて見て」と厚かましくも頂戴してしまいました。

切り落としと言えど、すき焼きにして早速いただきましたが、とんでもなく美味しく、栃木さんの牛飼いの精神に頭が下がるばかりだったことを、昨日の事のように思い出しました。ご馳走様でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 5」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、ぼくが高山の母とも慕う「旅館女将」。

陣屋朝市 売り子の声に 宮川沿いの 葉桜揺れた    昔家並に 流す掛け声 黒半纏と 車夫の男気      旅の人待つ 軒の打ち水 叩きを染めし 宿あかり    暖簾潜りて 框に座せば 疲れほどけし 草鞋代わりに  馳走並びて 女将の酌に 湯浴みし頬も 更に色づく   まずは一献 されば返盃 旅の夜耽る 国分寺宿

高山線開通の昭和9(1934)年創業の、旅館田邊。国分寺通りに面した一等地にあり、和風の趣あふれる格子戸から零れる灯りが、疲れた旅人をやさしく手招くようです。

最近ではすっかりヨーロッパやアメリカなど、西洋の旅行客が多く、温泉の大浴場の中では、各国の言語が飛び交うのも、楽しみの一つです。

今では仲居さん達もすっかり外国人観光客にも慣れた様子で、英語と英語の間に飛騨弁と、ボディーランゲージが混じると言う、何とも親しみ溢れる光景も愉しみの一つです。

そもそも西洋からの外国人観光客が多いため、連泊をされる方も多く、玄関口で見送る女将や仲居さんを前に、「ありがとうございました」とぎこちなく頭を下げ、覚えたての日本語で手を振り別れを惜しむ姿は、なんとも微笑ましいものがあります。

ぼくは天職一芸の取材で初めて女将と出逢い、それからは高山泊まりの時は決まって、旅館田邊を宿とさせていただいています。

ですから玄関の引き戸を開けると、いつも自然体のまま「ただいま~っ!」とついつい言ってしまい、女将や顔馴染みの仲居さんが、「あら~っ、おかえり」と出迎えてくれるから、これまた嬉しいじゃないですか!

ああこんな話をしていると、無性に高山に行きたくなってしまったぁ!

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「天職一芸~あの日のPoem 4」

今日の「天職人」は、愛知県津島市の「津島あかだ職人」。

牛頭天皇の 御旅所跡に 実らぬ雄の 大銀杏      幹に刻みし 古傷は 戦国(いくさ)を偲ぶ 太刀筋か  社に続く 禰宜町通り 祝(はふり)行き交う 祝詞ごと 天王川を 彩る藤と 講会(こうえ)詣でに 賑わうあかだ

津島神社の門前、あかだ屋清七商店の、「あかだ」と「くつわ」。写真の上二つの丸い輪っかのものが「くつわ」、下の丸い小さな団子状のものが「あかだ」。

今を遡る1200年以上前。弘法大師が津島神社で悪疫退散祈願の折り、米団子の油揚げを供えたのが由来とか。

「あかだ」の由来は、薬師如来が手にする薬袋(やくたい)の中の丸薬を、梵語で「アキャダ」と呼ばれ、それが後に訛って「あかだ」とか。

天保7(1836)年の「尾張名物見立番付」によると、堂々東前頭四枚目を張っています。

一つ一つがまったくの手作り。そしてほんのり甘く、すこぶる硬い!入れ歯の方は要注意です!でも噛むほどに昔ながらのコメの旨味が広がる逸品です。

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「天職一芸~あの日のPoem 3」

今日の「天職人」は、三重県尾鷲市の「鰤燻製職人」。

ヤサホラエー 誰が謡うか 尾鷲節           熊野古道を 濡らす五月雨               神を訪ねし 昔人 檜の傘に 雨宿り          八鬼山越えて 続く石段 修験行者の 苦行道      海鳥の 声につられて 振り向けば 煙りたゆたう    合ひ物の里 ノンノコサイサイ

これが大瀬勇商店の、鰤の燻製「かつおくん」です。どうですこの照り!

まるで鼈甲細工のような、酒盗の逸品です。思わず、「女将さ~ん、お銚子もう一本!」と、そんな声が聞こえるようです。

黒潮にもまれ、ほどよく脂の抜けた10kgほどの、高級寒ブリの素材を大切に、姥目樫と櫻のチップで燻煙・風乾を二週間強繰り返した、その手間と手数が鰤の燻製の味を高めるそうです。

尾鷲港に打ち寄せる波の音を三味の音代わりに、鰤の燻製に齧りつきながら、夜が更けるまで一献と洒落込んでみたいものです。

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「君を乗せた船」

今日弾き語りでお聴きいただくのは、CD化されていない「君を乗せた船」という曲です。

これは深夜番組を始めて、しばらくした頃の作品です。

ぼくは残念ながらこれまでに、フェリーや本州と小島を結ぶ定期高速船程度にしか、乗ったことがありません。

世界一周豪華客船のクルージングなんて、そんな余裕も時間も無く、ついつい安易に空の旅を選んでしまっておりました。でも正直、腕時計を外して、日がな一日豪華客船のサンデッキで、外洋を眺めながらの~んびりと、好きな本でも読んでみたいとも思いますが、やっぱり貧乏性のぼくには、それはそれで落ち着かないであろうと思います。

ましてや西洋の紳士淑女の方の様な、素養があるわけでも無し、ディナーの後にダンスフロアーで優雅にタキシードをめかし込んでダンスなんて、もっとも無理な相談ですし、似合わないことを百も承知しております。

また、サンデッキのプールサイドで、日がな一日何をするでもなく、ただボーッとしているなんてぇのも、これまたご勘弁です。

よく定年退職したご主人に奥様が突然「ねぇあなた。今度ゆっくり豪華客船で、世界中を旅して回らない?」なぁ~んて問いかけられ、思わずしどろもどろとされるご主人の姿を、TVドラマか何かで見掛けたシーンがあります。

しかしこれは、明らかに奥様からご主人様への、試金石的なリトマス試験紙のような一言に、他ならないのではないでしょうか?

つまり、「これから二月も三月も、同じ船の同じ部屋で、四六時中夫婦二人が顔を突き合わせ、わたくしとご一緒に旅を続けられる自信がおありですか?」と、問われているのでは?

そう考えると、もしもこんな問いかけがあったとしても、迂闊に生返事を返しちゃぁ致命傷になりかねません。

何も深く考えず、嫁の機嫌取りのように「ああ、いいねぇ!行って見るか!」なぁ~んて宣うたなら最後、豪華客船が岸壁を離れた途端、ただただ自分を押し殺し、嫁の地雷を踏まぬ様にと、ちっとも気の休まる隙も失うことでしょう。

あ~あ、クワバラクワバラ!

って、そんな心配はぼくにゃあ無用です。そんな豪華客船で何か月も掛け、世界中を旅して歩けるような身分じゃありませんから、まあ取り越し苦労でしょうね。

そんな与太話はこれくらいにして、「君を乗せた船」をお聴きください。

「君を乗せた船」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君は今静かに タラップを昇ってゆく

風に揺れる髪を 手で庇いながら

朝陽をまとった君が 眩し気に振り返る

永く暮らした町を 見納めとばかりに

 二度と振り向いたら やっと手にした

 掛替えのない愛も 零れ落ちる

君が望む町は どんな花が咲いて

何色の風が 吹くのだろう

抱え切れぬほどの 幸せ望むよりも

掌にそっと 収まればいい

 明日を信じて 心のままに

 君を乗せた船が 港に着く

 明日しかない 港だけど

 君を待ち続けた ぼくがいる

そうそう船の長旅と言えば、自らの意思ではなく外洋を漂流し続けた、難破船をついつい思い出してしまいました。

この東海地方では、やっぱり三重県白子の大黒屋光太夫と、愛知県美浜町の音吉、岩吉、久吉が浮かびます。

まずは、大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう)。1782年、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流。アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。光太夫は、ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクに向かい、女帝エカチェリーナ2世への謁見を乞い、帰国を願い出、漂流から約9年半後の1792年に根室港へ帰国。  その後、江戸に屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として蘭学者らと交流。波乱に満ちたその人生は、小説や映画として取りあげられています。

また一方の、船乗り音吉、岩吉、久吉。1832年、千石船の宝順丸が江戸へ向かう途中嵐に遭遇。操舵不能となり、太平洋を1年2か月も漂流。その後アメリカ西海岸に漂着。その後もひたすら故国を目指し、やがてイギリス経由でマカオへと移送。そこでドイツ人宣教師、ギュツラフの聖書の和訳に協力。翌年モリソン号に乗り日本へ。しかし浦賀、鹿児島で砲撃を受け、帰国を断念。中国で多くの日本人漂流民の援助を行い、送還の手助けをし、イギリス海軍の通訳としても、日英交渉に力をつくしたそうです。

しかしこんな船旅は、忍耐力に乏しいヘタレなぼくにはとても無理!

しかし記録に残っていないだけで、もっともっと昔から、多くの船乗りたちが、荒海で漂流せざるを得ず、ポリネシアの国々や、ハワイなどに漂着していたのかも知れませんね。そう思うと、ポリネシアの方やハワイの方たちは、どうにも赤の他人とは思えなくなるから不思議です。だって言語も、ポリネシアもハワイも、母音と子音がセットになっているからか、耳馴染みもとても良いですし!

何とも浪漫がありますねぇ!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「霜焼け、あかぎれ!」。子供の頃のぼくのズックは、毎日毎日同じものを履き続けるしかなく、と言うよりも履き潰すまで新しいズックなんて、買ってもらえませんでした。ですから爪先なんて穴が開いて、靴下が丸見え!しかも靴下だって、履き古して穴の開いた靴下の爪先を、お母ちゃんが糸で繕ってくれただけのもの。だから真冬は、霜焼けに悩まされたものです。まあ子供の頃から、血行が悪かったせいか、未だに真冬の厳寒期には、気を付けないと爪先が霜焼けになるほどです。そして「あかぎれ」。子供の頃わが家に給湯器なるものがやって来たのは、小学校の半ばころでしたでしょうか?だからか、お母ちゃんもお父ちゃんも、給湯器を給湯器と呼んだことはなく、死ぬまで「湯沸かし器のガスの元栓、ちゃんと止めといてや」と言い続けたものでした。しかも「湯沸かし器出しっぱなしにしたらいかん!ガス代がもったいないし、湯沸かし器が壊れてまったらかんで」と。ガス代が勿体ないは、100歩譲るとしても、湯沸かし器がそんなことで壊れる軟な物だったら・・・なぁ~んて、異を唱えようものなら・・・。そんな事でなかなか、せっかくの湯沸かし器も使わせてもらえず、あかぎれもひどかったものです。今でも家事にちょっと精を出すと、すぐにあかぎれが!温かくなってくると、コイツがまた困り者。痛痒くって!皆さんはいかがでしょうか?

今回はそんな、『霜焼け、あかぎれ!』に関する、皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~塩焼きそばならぬ、乾燥桜エビの塩ペンネ」

今回は、これまた超お手軽な手抜きクッキングです。

使いかけの乾燥干し桜エビの残りがあり、ちょっとあっさりパスタでもと、ちょちょいと作って見たのが、この塩焼きそばならぬ、「乾燥干し桜エビの塩ペンネ」です。

作り方も超簡単。

まずはペンネを茹で上げ、オリーブオイルを熱したフライパンに投入し、乾燥桜エビも入れ、軽く塩コショウして、ざっくり炒め皿に盛り付ければ完了。

これがまたまた、スナック感覚で、ビールにも白ワインにもピッタリ!

ついでにちょっとアンチョビを加えれば良かったかなとも思いましたが、乾燥桜エビだけの方が生臭さも無く、シンプルなお味でペロッと平らげてしまったほどです。

お時間の無い時にお勧めですよ!

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「天職一芸~あの日のPoem 2」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「郡上魚籠」の老職人。

乙姫川に 桜ひとひら 瀬音に揺られ 吉田川      釣り人垂れた 竿先を かすめて流る 長良川      川面に映える 銀鱗と 飴色焼けした 郡上魚籠

鮎掛けさん垂涎の逸品、嶋さんお手製の逆さ合掌造りの郡上魚籠。

腰当て板に揮毫された嶋さんの署名の墨痕は、まるで品質の保証書のようです。

でも、実際こんな高価な魚籠を使っている鮎掛けさんは、本当に少ないでしょうが!

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「天職一芸~あの日のPoem 1」

これからしばらくは、2002年4月から毎日新聞で連載させていただきました、「天職一芸」の中から、冒頭の詩の部分だけをご紹介してまいろうと思います。

この詩は、「天職一芸」で取り上げた、名も無き野辺にひっそりと咲く一輪の花のような、ただただひたすら己の道をゆく職人をご紹介する、そんな本編の前にプロローグ的な意味合いを持って、毎回拙い詩を書き添えたものです。

ぼくは天職一芸の取材を通じ、足掛け10年近くの歳月を費やし、のべ573人の職人と出逢い、573通りの人生を教えられました。取材で出会った一人一人の天職人は、まさに己が目の前に立ち塞がらんとする人生と向き合い、逃げも怯みもせずただひたすら、自分の定めである人生と真っ向から向き合い「生き抜いた」、そんな達人でした。名も無き野辺一輪の花なれど、その美しさには、心打たれるものが多々あった気がいたします。そんな天職人が、朴訥と語ってくれた言葉こそが、今でもぼくにとっての、人生の大いなるバイブルそのものでもあります。

また途中途中、折に触れ日々の旬なの話題も取り入れながら、気長にアップしてゆければと思います。

どうぞお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の郷土玩具「吉良赤馬」の女職人。

桐粉捻れば 背の子もぐずる              乳恋しいと 泣きじゃくる               子守唄なら 十八番のはずが              赤馬細工にゃ 気も抜けぬ               秘伝の細工 受け継ぐ今日も              吉良の港にゃ あかね雲

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