「天職一芸~あの日のPoem 16」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の、「古代型石灯籠石工(いしく)」。

過ぎ往く夏が 恋しいか つくつく法師 秋あかね    石都三河に 鳴り響く コヤスケの音と 石工節     伊賀川上の 道標 春日灯籠 石仏           兄弟石工 鎚振るう 石神(しゃくじ)の里の 貴セキレイ

古代型石灯籠一筋に彫り続ける石工、柴田徹さんを訪ねた。

全国一の石都岡崎の歴史は、室町末期の1452年、三河守護代西郷稠頼(つぎより)が、岡崎城築城に地元産の御影石を多用したことに始まる。

柴田さんは終戦の五日後に産声を上げ、16歳で石匠に付き丁稚奉公が始まった。来る日来る日も朝一番の仕事は、兄弟子たちの石鑿二十本ばかりを火床で焼き上げた。四年後年季明けを待ち、別の石匠の元で灯籠造りを学んだ。

「石の良し悪しは、叩きゃあわかる。鈍いと割れるし、高い音の出る石が良質だぁ。音色で鑿入れを思い描き、部材の配置を考えるだ」。柴田さんは石の肌を撫でた。

春日灯籠は、上部から順に「宝珠」「笠」「火袋」「中台」「竿」「基礎」に分かれる。中でも六角柱の火袋は、二面に雌雄の鹿、もう一つの二面に雲形の日月が彫られ、残りの二面は彫り貫かねばならず、最も技術が問われる。

「不思議だけど『この辺りで火袋彫ってくりょ』って、石神様の声が聞こえるだぁ」。柴田さんは冗談めかして笑い飛ばした。

「まぁ、何だかんだ言ってもやっぱり、わしは石が好きなんだって。何でか?ってか。そりゃあ石は、絶対文句言わんらぁ」。汗と石粉が染み込んだシャツ姿。身長150センチメートルの小さな巨人、石都岡崎の石工は、照れ臭げに笑った。

同じく石工の弟と二人で、寡黙に日がな一日鑿を振るう姿が、今でも蘇ってきます。

*「コヤスケ」は、石を大きく割る道具。

*「セキレイ」は、石工が尻を上下させ、鎚を振るう姿から、セキレイの異名がついた。ちなみに岡崎市の鳥は、「ハクセキレイ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 15」

今日の「天職人」は、三重県海山町の、「山部(やまべ)」。

始神(ししん)峠の 山踏みゆけば 山井の水が 疲れ労う                          尾鷲檜を 夏日の笠に 熊野詣の 蟻の巡礼       山子(やまご)唄いし 樵(きこり)唄かな 蝉も聴き入る 山彦節(やまびこぶし)よ             神々住まう 紀国(きのくに)の杜 山部の手塩 天下の檜

二百有余年続く山林業、八代目の速水勉さんを訪ねた。

「その土地の木が、一番その土地の建物に相応しい」。速水さんは、大工やハウスメーカーに持論を説き続ける。植林から八十年、高さ二十五メートル、太さ三十センチメートルに育って、ようやく尾鷲檜と銘打たれる。

「木を作るのが今は一番楽しいんです。子供と同じで、植えてから五~六年は一番人手がかかります。でもこの時期にいい加減に育ててしまえば、人間でも同じでしょう。やっぱり愛情をいっぱい注いでやらねば」。二百年以上に渡り、尾鷲檜と神々の住まいし森を守り続ける平成の山部は、立派に育った尾鷲檜を見上げた。

手入れの行き届いた尾鷲檜の山林は、檜が浄化した空気が満ちて、そこに佇んでいるだけで、とても癒されたものです。まさに「Mammy’s Forest」でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 14」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨古川の、「煎餅職人」。

瀬戸川沿いの 桜ほころぶ 白壁の町 古川祭り     夜さり引き連れ 丸子(まるご)提灯 千の灯りに 開く出格子                         起し太鼓が 闇を破れば 晒し姿の 若衆たちも     勇を競いて 付け太鼓打ち 辻を駆け出す 古川やんちゃ

明治41(1908)年創業の、井之廣味噌煎餅本舗、三代目の当主 井之丸祐八郎さんを訪ねた。

煎餅生地は、地鶏のさくら卵と、秋田産大豆に古川町産のコシヒカリ、そこに三年掛けて熟成した自家製味噌が練り込まれる。長い鋏のような柄の先の、丸い鉄板に生地を広げ火に炙る。そして焼き上がった煎餅が冷めるのを待ち、刷毛で一枚一枚砂糖蜜を塗り上げる。

「親父は何にも教えてくれんのやさ。そんなもん数作るうちに覚えるもんやと」。祐八郎さんは、初代が書き記した和綴じの製菓法帖を眺めた。そんな祐八郎さんも煎餅を焼き始め40年目に脳梗塞で倒れた。夫の看病と言う錘を背負い、暖簾を守り続けた妻の敏子さん。長男裕幸さんが四代目を継ぎ母を支えた。

「こんな身体になって、煎餅屋が煎餅焼けんのやでなあ。女房見とると何ともけなるいさ」。祐八郎さんはそう言いながら、麻痺の残った左手に右手を添え、長柄で煎餅を挟む真似をして、すまなさそうに笑った。

この取材の後からも、TVのロケやラジオの公開生放送などで古川に出掛ける度、井之廣味噌煎餅本舗をお訪ねし、味噌煎餅をはじめ新作のお煎餅を土産に買ったものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 13」

今日の「天職人」は、愛知県鳳来町の、「硯刻師(けんこくし)」。

音為川(おとなせがわ)の 瀬音掻き消す蝉の声     千の石段 続く瑠璃山行者越              大傘杉が 月を隠して闇染めりゃ            霊山の杜 声が木霊す仏法僧

鳳来町で明治20(1887)年から続く、鳳鳴堂硯舗(ほうめいどうけんぽ)、五代目硯刻師 名倉利幸さんを訪ねた。現在は、先代の雅号を襲名され、名倉鳳山と名乗っておられます。

鳳来寺硯は、平安朝の頃より、都人に持て囃されたと伝えられる。硯の石材は、金鳳石(きんぽうせき)、煙巌石(えんがんせき)、鳳鳴石(ほうめいせき)の三種。最も良質とされるのは、金鳳石。石色は、漆黒の闇を母体に、まるで金銀に輝く星が浮遊する小宇宙のよう。日本一の硯材に相応しい輝きを宿す。

写真は参考。

「昔は日本の武に対し、中国は文の国。日本の刀に対し、中国は硯を貴人は下賜されたそうだ。日本は刀で人を治め、中国は筆で国を統治した。だからこそ、筆、硯、紙、墨を文房四宝(ぶんぼうしほう)とまで崇めた」と、名倉さんは鑿を振るう手を止めた。

名倉さんの金鳳石の硯は、見ているだけで小宇宙の中へ吸い込まれてゆくようなほどでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 12」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「鋳物師(いもじ)」。

ゴンチキチンと鉦の音響く 天下奇祭の石取(いしどり)祭揃い半纏撞木打ち振り 鋳物師の里に夏の夜耽る     ゴンチキチンの鉦釣られて 人の心と草木も踊る     町屋川原の撫子さえも 昼咲かぬのに鉦の夜を待つ

桑名市で江戸末期から続く、中川梵鐘、六代目の中川正和さんを訪ねた。

参考写真

鋳物師修業は、百日ぶきと呼ばれる鋳型造りに始まり、踏鞴(たたら)と甑炉(こしきろ)で、千度に熱した真っ赤な鉄を吹く、その繰り返し。

「暇乞いして座を立とうとした者が、小僧の撞いた鐘の音にもう一度座りなおす」。中川さんはそんな梵鐘の音を目指した。

中川さんの言葉を借りれば、よい梵鐘ほど「当り、送り、返し、振り」と、余韻と抑揚を含んでなるそうだ。

一服の茶を啜りながら、そんな梵鐘の音を何も考えず、聴いて見たいものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 11」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「鍛冶屋」。

宮川沿いの 川原を行けば 浴衣の裾も 風に戯むる   夕陽を浴びて 鍛冶橋渡りゃ 時刻むよな 槌の音    火床(ほど)のくろがね 鉄火の如く 頬を流るる 汗も拭えず                        踏鞴(たたら)踏み込む 手風琴(オンガン)弾きは 飛騨の匠の 鍛冶屋かな

宮川に架かる鍛冶橋の東詰め。明治15(1882)年から続く、新名(しんみょう)鍛冶屋に三代目新名隆太郎さんと、四代目清雄さんを訪ねた。

小さな作業場に、ひと昔前は火床も三つあり、鍛冶職人も六~七人もいたと言う。しかしご多分に漏れず、高度経済成長期の余波をもろに受け、機械化の波に呑み込まれていったと言う。「昔はここに木炭を二十俵も積み上げ、火床も真っ赤に燃え盛っとったもんやさ」。隆太郎さんはたった一つとなった火床を見つめた。

写真は、参考です。

しかし転機が訪れた。永年の勘と腕が物言う全国各地の文化財として残る、山車の飾り金具の修復だ。

「鉄は一つも捨てるとこなんてないんやさ。これ見てみ、昔の人の刀や。人を殺める道具だったもんやさ」。隆太郎さんは、二十センチメートルほどの柳刃の中子を握った。人を殺めるはずの刀が砥ぎ減りし、平時になっては役を成さず、鍛冶屋に鍛えなおされ食材を刻む新たな命を宿した。

以前一度、旅館田邊さんに泊まった翌朝、ふらっと新名鍛冶を訪ねた事がありました。何だか妙な懐かしさから。すると今では四代目が、ランプシェイドなどの作品を手掛けておいででした。

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「天職一芸~あの日のPoem 10」

今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の、「菓子匠 つくは祢屋」。

宮の熱田の 神樹の杜を 誰が呼んだか 蓬莱島と    常世の国の 神々来たり 遍く民の 辛苦諫める     御手洗(みたらし)清め 柏手打ちて 曽福女(そぶくめ)様に 想いを馳せる                  千代に尊を 慕いし女は 熱田の杜の 神と召された

天明元(1781)年創業の、つくは祢屋九代目ご当主、石黒鐘義さんを訪ねた。

もともとつくは祢屋は、熱田神宮の門前、旧熱田市場町曽福女で米屋の大店を営んでいた。ところが天明の飢饉を境に、神饌菓子製造へと家業を転じた。初代善吉は、二百年以上愛され続ける銘菓「筑羽根(つくはね)」と「曽福女」を生み出し、現在も脈々と受け継がれ続ける。

この「筑羽根」は、日本武尊が東征時に携えたと言われる、火打石を模した干菓子。

またこちらは「曽福女」。本わらびにきな粉をまぶす和菓子。

熱田神宮の起源は、日本武尊から形見として授かった草薙神剣(くさなぎのつるぎ)を御神体として奉じ、宮簀媛命(みやすひめのみこと)が創祀(そうし)。尾張氏の祖先乎止与命(おとよのみこと)の娘であり、日本武尊の妃となった宮簀媛命は、曽福女様と人々に慕われたそうで、善吉はこの尊い名を冠し、尾張の地が産んだ女神を称えたそうだ。

以来、熱田神宮御用達を勤め続けた。

しかし先の大戦で、つくは祢屋の身代も大きく揺るがされた。昭和19(1944)年、鐘義さんの父に赤紙が舞い込み、本土空襲を警戒する軍から、軍用道路敷設工事により店の強制退去が命ぜられた。「店の退去の次の日が、父の出征だったそうです。だから母は軍に平伏し、空っぽの店の中に畳二枚と仏壇だけを何とか残させてもらい、翌日父はご先祖様に武運を祈り出征して行ったそうです」。鐘義さんの眼鏡の奥の眼が揺れた。

翌、昭和20(1945)年3月、鐘義さんは父が不在の家で産声を上げた。そして6月9日午前9時17分。熱田に爆撃機が飛来。二千人にも及ぶ屍の山を築いた。「あのまま強制退去させられていなかったら・・・。きっと曽福女様や、熱田の神々が『生きろ』と仰ったのでしょう」。命辛々復員を果たした父と共に、店の再興に明け暮れたそうだ。

筑羽根は、あの硬い京都の八つ橋の様な干菓子で、曽福女は昔ながらの粘りのある、とても上品なわらび餅の様な食感で、ぼくも一缶ペロッと平らげてしまったものです。

そんな古の浪漫を思い浮かべながら、もう一度ゆっくりと味わって見たいものです。

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「君とDancing!」

25日の土曜日に、「ほろ酔いLive Again!」を無事に終えることが出来ました。

ご来場いただいた方も、おいでになれなかった方にも、心よりお礼を申し上げます。

唄っているのは、ぼくではなく、落ち武者さんです!

沢山の紳士淑女の皆様方にお越し頂けました。

DAIKOKUの入り口に、こっそりこんな看板が!なんとも奥ゆかしくって、可愛らしいサインです。

店の入り口の客待ちスペースには、こんなサインが!

ご協賛いただきました「キリンビール」さん、そして「DAIKOKU」さんにも、この場をお借りして心より御礼を申し上げます。

今回の「ほろ酔いLive Again!」では、前回12月の楽曲と、ラインナップも入れ替え、それに伴って全体の構成も一味違ったものになりました。

今回のLiveでは、サプライズとして、新古曲を披露させていただきました。

楽譜を書けも読めもしないぼくですから、メインのメロディーと歌詞はぼんやり覚えていたものの、すっかりその他の歌詞もメロディーも忘れてしまっていた、「君とDancing!」を復活披露させていただいたのです。ですから、新古車ならぬ「新古曲」。

昔の埃塗れのカセットテープに、約40年近く前のLive音源があり、それをデジタルに変換して、やっと聴くことが出来て、唄えるようになったと言う、まあなんとも情けない話ではございます。

今日の弾き語りでは、その「君とDancing!」をお聴きいただこうと思います。

「君とDancing!」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

朝まで踊り続けて 君とDancing カーネギーホールで

夢のステップ アン ドゥ トロワー

ほろ酔いのワイン 夢へのパスポート

小さなベッドが 一つあればいつでも旅立てる

街はカーニバル 誰もが浮かれている

手招きをすれば 自由の女神も微笑む

 君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

 朝まで踊り続けて  君とDancing カーネギーホールで

 夢のステップ アン ドゥ トロワ

ほてった素肌に 風が吹き抜けてゆく

月のスポットが 君のステップ 追いかけて回る

魔法の呪文は 君の口づけ一つで

 溶け出してしまいそう 危ないよ Key word

 君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

 朝まで踊り続けて  君とDancing カーネギーホールで

 夢のステップ アン ドゥ トロワ

 君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

 朝まで踊り続けて  君とDancing カーネギーホールで

 夢のステップ アン ドゥ トロワ   

とは言え、ぼくはからっきし、ダンスが踊れません。以前一度だけ、取材に伺ったダンススクールで先生の奥様にお相手いただき、ボックスと言うステップを教えていただきましたが、これがもう最低!手も足も顔の向きも、てんでんバラバラ!改めて自分にダンスのセンスが全くない事を気付かされたものです。

ですから、若かりし頃、友人に連れられディスコに三度ほど出掛けましたが、ダンスフロアの周りのボックス席で、酒ばかり呑んでいたものです。とほほ・・・。

★ほろ酔いLiveの折に、まんさくさんからご予約を賜っておりました。1月27日がお誕生日だったとのこと。Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でささやかなお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「節分あれこれ」。子供の頃の節分は、今の様な紙製の、升に入ったビニール袋入りの煎り豆なんて無く、ましてやサービスで鬼のお面など付いていなかったものです。だから節分の日は、朝からお母ちゃんがストーブの上に焙烙を出し、大豆を煎ってくれたものです。そして画用紙にクレヨンで鬼の絵を描き、両脇に輪ゴムを通していましたねぇ。お父ちゃんが仕事から帰って来るのを待って、晩ご飯の前に豆まきです。もちろん鬼役は、お父ちゃんと決まっていたものです。豆まきを一番喜んでいたのは、わが家の老犬のバカ犬ジョン。この晩だけは、大っぴらに放し飼いにされ、外に撒いた豆の掃除役を任じられていたからです。しかしバカ犬とは言え、悪知恵が働き、近所の家で「鬼は外!」と声がすると、一目散でその声のするお宅に向かって走り出すのです。そしてそこの玄関先に座り込んで、誰も頼んでもいないのに、豆の掃除役を買って出ていたものでした。

子供の頃なんて、もちろん「恵方巻」なるものも無く、淡々と豆まきだけを済ませていたものでした。

今回はそんな、『節分あれこれ』に関する、皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~白菜漬けのなぁ~んちゃってすんきパスタ Honey Babeのピカタ添え」

この前インフルエンザにかかり、食欲が無かった時に、無性に白いご飯と白菜の浅漬けが食べたくって仕方ありませんでした。

しかしインフルエンザ薬のせいか、体が重だるいし、インフルエンザウイルスを撒き散らしてはいけませんから、スーパーに白菜の浅漬けを買いに出ることも出来ず、冷蔵庫の中に残っていた白菜と、塩昆布を使って自家製の白菜の浅漬けを漬けて見ることにしました。

ところが白菜の浅漬けなんて初挑戦でしたから、果たして上手くいくだろうかと、半信半疑だったものです。

翌朝さっそく炊き立てご飯と一緒に、お手製の白菜漬けをパクリ!手前味噌には違いありませんが、これまた実に旨い!

このところ、すっかり酒量が減り、ご飯と白菜漬けの消費が増えていて、白菜漬けがマイ・ブームです。

今回は、ちょっとやや古漬けになりかけた白菜漬けを使って、「白菜漬けのなぁ~んちゃってすんきパスタ Honey Babeのピカタ添え」に取り組んで見ました。

本物の「すんき」は、長野県木曽地方に古くから伝わる保存食のひとつで、「すんき漬け」とも呼ばれます。 塩を使わず、赤カブの葉を乳酸菌発酵させた漬け物で、日本の伝統的発酵食品の中でも、植物性乳酸菌だけで作る「すんき」は、健康面からも重要なんだそうです。冬場の木曽路では、「すんき蕎麦あります」と、手書きされたPOPが目に付きます。大きな鍋の出し汁の中で、すんきと蕎麦を煮たてたもので、醤油味の出し汁と、すんきの乳酸菌の酸味が加わり、実に体が芯から温まる逸品です。ぼくは取材で、木曽福島の役所の方に案内され、はじめてすんき蕎麦をいただいたことがあります。なんでも二日酔いにとってもいいと、役場の方が絶賛されていたものです。

しかし本物のすんき漬けは手に入りませんでしたので、古漬けの白菜漬けでトライしてみました。

まずフライパンにオリーブオイルをたっぷり注ぎ、そこに古漬けの白菜漬けと、プレーンヨーグルトを大さじ二杯程入れ、ざっくりと炒め、そこに茹で上げたパスタを入れて軽く炒めたら出来上がり。ぼくは最後にシソの葉を千切りにして、彩に添えて見ました。

そしてしゃぶしゃぶの残りの、Honey Babeのバラ肉が残っていましたので、それをピカタにしてパスタの周りに添えて見ました。

これがまた、イタリア人もビックリなほど、美味しいなぁ~んちゃってすんきパスタとなりました。古漬けの白菜漬けの塩味と、ヨーグルトの酸味が見事に絡み合い、塩昆布のアミノ酸がそれらの旨味を見事に引き立ててくれました。

あっさり味のパスタに、Honey Babeのピカタを添えたことで、病み上がりではありながらも、ガッツリイケてしまいました。

皆さんのご家庭でも、古漬けになった白菜漬けなんぞが残っていたら、ぜひランチにでもお試しください。これがとんでもなくイケちゃいますから!

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「天職一芸~あの日のPoem 9」

今日の「天職人」は、三重県尾鷲市の、「尾鷲わっぱ塗師職人」。

神々御座す 山海の 恵み与えし 尾鷲港        夜も明けやらぬ 入船に 勝鬨挙がる 初さいろ     海を恐れぬ 男衆 赤い真潮が 身に滾る        闇より深い 情愛と 塗師の漆黒 曲げわっぱ

*「さいろ」は尾鷲地方の方言で「秋刀魚」の意。

三重県尾鷲市で明治20(1887)年から続く、尾鷲わっぱ ぬし熊の四代目世古さんを訪ねた。

尾鷲檜の一枚板を曲げ、桜の皮を糸代わりに縫い留め、手製の和釘のように強靭な竹串で底板を繋ぎ止める。そして仕上げに三週間を費やし、生漆が丹念に布で直にすり込まれる。尾鷲わっぱの工程は、四十五手にも及ぶと言う。

尾鷲わっぱは、元は山師の弁当箱として重宝がられたそうだ。「漆には殺菌効果があり、何より飯が旨いんやさ」と世古さん。山師は飯を山盛りにした一対のわっぱをぶら下げ、神々御座す尾鷲檜の山へと分け入る。蓋の大きな方の山盛り飯が朝飯。昼には空になった蓋に川の水を汲み、焼き石と味噌を一緒に放り込む。小さい方の山盛り飯と、具の無い味噌汁で腹を満たしたとか。

いかにも飯が旨そうな、小判型の尾鷲わっぱ。いつかこんなわっば飯を食べて見たいものです。

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