「残り物クッキング~ボイルド岩牡蠣~ホワイトワインwithブルーチーズ」

友人から今年も沢山岩牡蠣を贈っていただけました。ありがたや、ありがたや!

そこでさっそく、チリワインのシャルドネ3ℓ入りを1箱と、デンマーク産のブルーチーズを2パック買ってまいりました。

まあ今回は、残り物クッキングではありませんが、そこはご容赦願います。

まず岩牡蠣の殻に付着している汚れを、金束子でこそぎ落とし、大きな鍋に入れて置きます。一番大きく、深い鍋を使いましたが、とても一度には入りきらず、半分で一杯になってしまいましたが、第一弾を食べ終えてから、残りの岩牡蠣を白ワインとブルーチーズのスープの中でボイルしたほどです。

そして大鍋にチリ産のシャルドネ3ℓを惜しげもなく注ぎ入れ(って言っても、イオンの箱入りの3ℓで1,400円程度のチープなものです)、火に掛けながらブルーチーズ2パックをこれまた惜しげもなく加え、加熱しながら白ワインに溶かすだけ。

後の調味料は一切ありません。たったこれだけ!

以前、ニュージーランド南島の最北端、クック海峡に面したハブロックの港で、絶滅に瀕した飛べない鳥「カカポ」のHokiが保護されているモード・アイランドに渡る船を待つ間、シーフードレストランの「マッセルボーイ」で、ムール貝の白ワインとブルーチーズのボイルをいただいたことがありました。

ハブロックの港の周りでは、ムール貝の養殖が盛んで、お値打ちに沢山食べられちゃうんです。

それを応用したのが、この「ボイルド岩牡蠣~ホワイトワインwithブルーチーズ」です。

白ワインとブルーチーズのシンプルなスープが基本ですから、牡蠣の味わいを損なうことなく、尚且つ磯臭さも全くなく何個でも食べられちゃいます。

ぼくは生牡蠣がちょいと苦手なため、このスタイルが一番好きです。

食べ残った牡蠣は、ボイルした後に殻を外してタッパーで保存し、パスタやピザ、グラタンにカキフライと、色々と楽しませていただけるのも何よりです。

ぼくはニュージーランド・マールボロ産のヴィラマリアのソービニヨンブランをグビグヒとやりながら、頂きました!

今年もありがとう!友よ!

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「天職一芸~あの日のPoem 22」

今日の「天職人」は、愛知県甚目寺町の、「畳刺(たたみざし)職人」。

春も宵 萱津堤(かやづづつみ)に 朧月        波陀米(はだめ)の里の 藤娘             お初穂に 畑の実りと 藻塩添え            藪の香物 阿波手杜(あわでもり)

愛知県甚目寺町で江戸末期から続く畳職、伊藤畳店四代目の伊藤あや子さんと、あや子さんの孫で六代目を継いだ秀さんを訪ねた。

あや子さんは、昭和25(1950)年、故四代目に嫁いだ。「戦後は喰うが先。畳なんてもっと後だわ」。あや子さんは、畑作で夫を支えた。昭和33(1958)年、次女を出産。その直後、亡き夫が胸を患い半年間の闘病を余儀なくされた。あや子さんは三代目の義父に付き、いろはを学び急場を凌いだ。

「リヤカーの鉄製の轅(ながえ)に乳飲み子を括り付けて、そんであんたぁ、荷台に畳六枚も載せるんだて。一枚二十七キロのを!百六十キロも積んで萱津橋越えて、枇杷島まで運ぶんだで」。あや子さんは、当時を振り返った。「赤子は乳欲しいって泣き出すし、坂の途中で立ち往生してまうし。そんでもあの頃は、誰かかんかが助けてくれよったでなぁ」。

翌年、伊勢湾台風が襲来。一家は災害復興の特需に追われ倉庫を新築。しかし二年後、隣の火災の貰い火で全焼。

名古屋市中区の畳店の三男坊を、長女の婿として五代目に迎えた。再び一家に明るさが兆した。ところがそれも束の間。秀さんが小学六年の時、五代目は四十一歳の若さでこの世を去った。四代目は「まっと出来の悪い子でええで、なんで長生きせんかった!」と号泣した。自慢の婿だったのだ。

秀さんが大学四年になるのを待っていたかのように、四代目も召された。「後を頼むでなぁ、秀くん」の一言だけを遺して。卒業と同時に秀さんは、京都の畳職の下で一年間修業を積んだ。

「父が生きていたら、違う世界へ進んだでしょう」と、秀さんは父の形見の畳庖丁を握り締めた。

職人に道具の貸し借りは無用。昔は、畳庖丁も棺に入れたそうだ。秀さんは修業を切り上げ、あや子さんを案じ甚目寺へと戻った。「ぼくにとっては、親そのものですから」。秀さんは爽やかな笑顔を見せ、畳表の髭を裁った。

上って下る、吉凶対なす人の道・・・。「幸あれ」老婆と孫の畳算(たたみざん)。

*「畳刺し」は、畳職の別称。「波陀米」は、甚目寺町の旧村名。「阿波手杜」は、萱津神社周辺の森の名称。「畳算」は、占いの一種。簪(かんざし)を畳に落とし、畳の目の数で吉凶を占った。

秀さんは、とてもお婆ちゃん思いの、今時珍しい爽やかな若職人でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 21」

今日の「天職人」は、三重県磯部町の、「伊勢根付(ねつけ)木彫師」。

早乙女が 古式彩る御田植か              伊雑宮(いざわのみや)に 夏は寄せ来る        風待ちや 水主(かこ)も浮き立つ           鳥居崎 一夜詣での渡鹿野島(わたかのじま)よ     はしりがね 無事かえれよと              伊勢根付 帯に忍ばせ出船見送る

三重県磯部町の伊勢根付木彫師、櫻谷直弘さんを訪ねた。

根付は元々、印籠や煙草入れの帯留め。江戸も元禄を迎えると、粋筋の間で根付自体の美が競われた。中には、大名お抱えの根付師もいたという。

櫻谷さんは昭和9(1934)年、十五歳で伊勢根付三代目正直の最後の弟子となった。しかし根付は、維新以降国内での需要が激減。代わりに西欧の蒐集家が美術工芸品として価値を見い出し、正直を冠した伊勢根付は、海外での人気を追い風に、七つの海を渡った。

櫻谷さんの伊勢根付も師同様、樹齢百年ほどに成長した、幹周り七~八メートルに達した、自生の朝熊黄楊(あさまつげ)のみを使用。構図を描き硬質な朝熊黄楊に、丸刃(がんとう)で細かな細工を刻む。掌にすっぽり収まる根付一つに、一ヵ月以上の時が無尽蔵に費やされる。顔料の紅殻(べにがら)と墨を混ぜ合わせ、図柄によって濃淡を加える。最後に椿油をすり込み、何度も布で磨き上げ独特の艶を引き出す。

櫻谷さんの根付には、「無事かえる、客を引き込む」の願いを込め、ヒキガエルが浮き彫られる。櫻谷さんは、古井戸から引き上げたような、朽ち果てた釣瓶からヒキガエルも一緒に顔を覗かせる根付を取り出した。釣瓶の横板は片方が朽ちて剥がれ落ち、飛び出した和釘までが象嵌を施す念の入れよう。彫師の魂が刻み込まれた銘品だ。

幅2.5センチ、高さと奥行きも約1センチの小さな小さな根付。しかし小さな根付に描かれた彫り物たちは、まるで今でも生きているかのようでした。

*「はしりがね」とは、渡鹿野島が江戸時代の廻船の風待ち港であり、水主(船乗り)の相手をした一夜妻の意。

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「天職一芸~あの日のPoem 20」

今日の「天職人」は、岐阜県可児市の、「笛師」。

虫さえも龍吟(りゅうぎん)の音に唄いだす       鳩吹山に 月夜の宴                 神々が出雲に集う神無月                ご加護祈願の 龍鳴響け

岐阜県可児市の横笛工房「九華」に、笛師の田中敏長さんを訪ねた。

龍笛(りゅうてき/別名は、龍吟、龍鳴)作りは、竹選びに始まる。囲炉裏で燻され続け、何十何百年と時を経た煤竹が最高の部材だ。一節の長さと太さ、曲がり具合が吟味され、鼠歯錐(ねずみはぎり)で穴を開ける。竹はそれぞれに内径が異なり、微妙に音程も異なるため、下地漆を二十回も根気良く擦り込む。息を吹き込む歌口の壁には、水を含めた和紙を詰め、試し吹きを繰り返し、仕上げに朱の漆を五回擦り込む。また外側には、桜樺や籐が飾りと補強を兼ね巻き付けられる。仕上がりまでに悠に一年以上。完成した龍笛には、笛師の号も一切刻まれない。

写真は参考。

「この二百五十年前の龍笛にも、きっと笛師が仕上げた年号と、銘の入った和紙が歌口の先端に錘として詰まっているはずです」。古の笛師から現の笛師へ。封印された先達の言霊はいつの日か蘇るであろう。

余談ではあるが、龍笛と能管(のうかん)の指孔は七つ。神楽笛と高麗笛(こまぶえ)は指孔が六つ。現存する雅楽の楽曲では、六孔しか使われないそうだ。「では龍笛が秘めたもう一孔を使った楽曲とは?」遠く奈良時代に、もう一つの指孔を使ったと言う楽曲への浪漫が馳せた。

田中さんの魂を宿した龍笛の音は、息吹に震え時を流離い、馨しき音色を現の世に運び来た。

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「天職一芸~あの日のPoem 19」

今日の「天職人」は、愛知県名古屋市昭和区の、「髭文字(ひげもじ)手刷り師」。

夏も宵 京都伏見の 稲荷山 万の灯火 社も萌える   御神恩 民が手向けし 提灯と 河内江州(かわちごうしゅう) 本宮(もとみや)踊り

名古屋市昭和区で明治初年頃より続く、提灯の髭文字手刷り師、四代目浅野邦伸さんを訪ねた。

元尾張藩の下級武士であった初代の曽祖父は、維新と共に失業の憂き目に。時代が大きくうねる中、遥かに家禄の高い八百石取りの元藩士の娘と駆け落ちを遂げた。うら若き曽祖父と曾祖母は、維新の風に翻弄されながらも、仲ノ町(現、栄一丁目界隈)に居を構え、見よう見真似で提灯の手刷り師を始めた。代々、京都伏見稲荷大社の神須(かんす)と呼ばれる稲荷提灯、「志ん前(しんぜん)」と意匠化された髭文字を一手に引き受ける。

神須の命は、髭文字の微妙な擦れ方にある。百枚刷っても満足行く仕上がりはわずか数枚。

「親父によう怒られたわ『座り方がなっとらん。手の出し方が悪い。身体で調子取れ』って」。浅野さんは懐かし気に笑った。

「やがてなくなる仕事だと思うと、そりゃあ寂しい・・・でもいくらにもならんでなぁ」。五代目は?の問いに、浅野さんが切なげに呟いた。

しかし手刷り師は、縁あって妻に迎えた越後美人と、三人の息子を髭文字一つで育て上げた。「一番下のがやりたそうだけど・・・継げとはよう言えんでなぁ」。この国にもう五人と残らぬ神須の手刷り師。尾張の匠の灯が、また一つ時の狭間で揺れていた。

*「神須」は、稲荷提灯と呼ばれ、神前の真ん中に吊るされている提灯。

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「天職一芸~あの日のPoem 18」

今日の「天職人」は、三重県四日市市日永の、「団扇貼り立て職人」。

振り向けば おかげ参りの旅の空            遥か伊勢路を 偲ぶ追分                間宿(あいのしゅく) 団扇長餅日永足袋         軒を連ねる 呼び込みの声

四日市市日永で明治14(1899)年から続く、日永団扇三代目、稲垣藤夫さんを訪ねた。

伊勢型紙の日永団扇

日永団扇は、江戸時代より、伊勢詣での土産物としてその名を馳せた。日永は旧伊勢街道の四日市と石薬師の宿場に挟まれ、伊勢参宮道との追分となる間宿として賑わいを見せた。伊勢詣での往きに、土産としての団扇を注文し、帰りがけに立ち寄り国へと持ち帰ったとか。「団扇は何より軽いし、腐らんで土産に丁度ええんさ」。稲垣さんが団扇を扇いだ。

松阪木綿の日永団扇

日永団扇は、女竹(めだけ)の三年物に拘り、紙断ち、貼り立て、筋入れと、四十七手に及ぶ工程を経て、二週間の時が費やされる。

江戸時代、農家の夜鍋仕事であった団扇作りに、維新で止む無く一番ビリから参入した庄屋は、日永にたった一軒となった現在も、こつこつ往時を偲ぶ団扇作りに精を出す。「算盤勘定じゃのうて、日永に住まいし者の恩返しなんやさ」。団扇の縁に飛び出した竹骨に、半月型の刃を当て木槌で一刀両断に断ち切りながら呟いた。

日永団扇でゆったりと扇ぐと、花火大会などで配られる、プラスチック骨の団扇とは、一味も二味も違うやわらかな風を感じたものでした。

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「久しぶりのウォーキング雑観」

なんだか、見覚えのある風景じゃありませんか?

そうです!昨年12月初旬頃のブログでご紹介いたしました、街路樹の中のテラコッタの植木にクリスマスのデコレーションが施され、12月26日の朝には奇麗さっぱり、クリスマスのデコレーションだけが取り外されていた、あの植木です。

その後しばらくして、枝が刈り込まれて、奇麗になっていたものでした。

そして久しぶりによくよく目を見張ると、なんと!

ごらんのような小物が!言っておきますが、これは決して墓石ではありませんよ!

街路樹の仕切りであるコンクリートブロックの上に、素焼きの煉瓦が組み上げられ、その上に小さなバケツが!素焼きの煉瓦の背面は、墓石ではなく水道のパイプを這わせるためのものです。

これまたちょっとお洒落でした。

でもテラコッタの植木のクリスマスデコレーションといい、この水道の小さな蛇口といい、ドールハウスならぬドールガーデンさながら!

いずれにしても、どなたがなさったのかは分かりませんが、きっと心根のお優しい人ではないかと思えてなりませんでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 17」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「豆菓子匠」。

飛州盆地の 根雪溶け 宮川沿いの 桜も緩む      山王まつり 絢爛と 贅を尽くした 陽明門か      祭囃子に 声荒げ 旦那衆(だんなしゅ)たちも 辻を練り行く                         粋な飛騨鰤 男振り 斑鳩(いかる)も歌え 月日星よと

高山市で明治8(1875)年に三嶋治兵衛により製造され現在へと続く。その馬印三嶋豆本舗、四代目女将 長瀬理々子さんを訪ねた。

ある日炒り豆が好物の母が、齢も重ね歯も弱り豆を噛むことも出来ぬと、治兵衛に嘆いた。孝行息子の治兵衛は、何とかして今一度母に炒り豆を食べさせたいとの一心で、試行錯誤を重ね現在の三嶋豆を完成。その後三嶋豆は、治兵衛の三嶋家と、治兵衛の10歳年下だった従兄弟、長瀬久兵衛の長瀬家に代々受け継がれた。その後、三嶋家は戦後廃業。

三嶋豆は国産大豆を一昼夜井戸の湧き水でふやかし乾燥させる。乾燥した大豆を炒り、白ザラメを溶かし片栗粉を混ぜ、再び乾燥させる。この作業を十数回繰り返し、さらに炭火で一週間ほど乾燥させる。何とも気の遠くなる単調な作業の繰り返しが、炒り大豆を絶品の味に仕立てる。

女将は東京永田町で弁護士の娘として誕生。「商売人の処へなど絶対嫁にやらぬ」。父の猛反対を振り切り飛騨高山に嫁し、二人の息子に恵まれた。しかし長男が小学6年の年、四代目当主の夫が他界。「嫁の代で暖簾下ろしたなんて言わせたくない。意地しかありませんでした。それからお爺ちゃんに7年ほどついて、毎日泣きながら豆を炒ったもの」。女将は玄関口の暖簾を見詰めた。

「最初は人の足を引っ張るようなこの町が嫌いでした。でも主人を亡くして、初めてこの町で暮らす人の温もりが身に染みたもの。以前は弁護士の娘ってことで、高見から人を見降ろしていたのかも知れません。主人は死して『この町の人たちに溶け込んで生きろ』、きっとそう教えてくれたんです」。女将の昔語りに続いて、五代目の長男公昭(きみあき)さんが呟いた。「子どもの頃、友達が来ても、母は挨拶一つしませんでしたから」と。

飛州盆地の遅い春に、柔らかな陽射しが一筋舞い込んだ。『世の中は 満免(まめ)でまるうて 屋和(やわ)らかに かみて味阿(あじあ)る 人と奈連(なれ)かし』。昭和天皇の侍従であった小泉さんが、店に遺された歌に、人の世の情け深さと味わいを感じた。

こんな寒い日。炬燵に入って、ウィスキーを傾けながら、三嶋豆をあてに一杯、ついついやりたくなってしまうものです。

*「斑鳩」はスズメ目、二十センチメートルほどの小鳥。各地の山林で一年中見られ、澄んだ美しい声で「ツキヒホシ」と鳴く。異名は「豆回し」。

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「くされ縁」

写真は参考。

一人っ子だったぼくは、姉か妹が欲しくて欲しくて、何度も何度もお母ちゃんに強請って、お母ちゃんを困らせたものでした。

ぼくの結婚時の前夜だったか、母と二人で食卓を囲んでいた時の事。と言ってももう深夜でしたから、遅く帰ったぼくに酒のあてを作ってくれて、ぼくが一人手酌で呑んでいた時だったと思います。「いよいよ明日、お前も嫁さん貰うんやな」。母は感慨深げにそう言って、珍しくぼくに酌をせよと、グラスを差し出したものです。しばらく他愛ない昔話に興じていると、母が一人語りを始めたのです。「お前は小っちゃい頃、お姉ちゃんや妹が欲しい欲しいと、泣いてぐずるからお母ちゃんも困ったもんやった。でもさすがにお姉ちゃんは今更出来ぬ相談だけど、妹ならばと真剣に考えたもんや。本当はお母ちゃんのお腹の中に、お前の妹か弟が出来るには出来たんやけどなぁ・・・。ところがあかなんだ。本当にお前には申し訳ない事した。すまなんだなぁ・・・」。母はほんのりと顔を赤らめ、目頭を押さえてぼくに詫びたものだ。初めて聞かされたことだっただけに、お母ちゃんをどう宥めればいいかもわからず、結果としてぼくがお母ちゃんを苦しめてしまっていたことを、今更ながら悔いたものでした。

ですからぼくは、本物の兄妹の関係とか絆とかを、身をもって体験したことが無く、ただただ空想の中で兄妹の理想像を追い求めていただけだったのかも知れません。

そしてもし仮にぼくにも妹がいたとして、その妹の嫁ぐ日が訪れたとしたら、ぼくはどんなお兄ちゃんでいただろうと、そんな空想を曲にしたのが、この「くされ縁」です。

まずは、弾き語りで「くされ縁」をお聴きください。

「くされ縁」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

親父の涙を見た大粒の涙拭いもせず

 湯呑に冷酒をついで一思いに飲み干した

門出に涙は禁物とたしなめるようなお袋の声

内掛けに身を包んだ妹が三つ指をついた

 鮮やかに時は舞い 想い出を運び来る

 泣き虫泥んこ顔が 見違えるくらい綺麗だ

幸せ半分もしももしも ぼくのでよかったら

荷物にならないさ持ってお行きよ 何も無い代わりに

お袋は想い出をまるで手繰り寄せるように話す

親父の元へ嫁いだ喜びそして哀しみ

親父はくされ縁だと赤い顔で笑った

妹はうつむいたまま小さく一つうなづく

 鮮やかに時は舞い 想い出はよみがえる

 やり場の無い思いを胸に 妹を送り出した

幸せ半分もしももしも ぼくのでよかったら

荷物にならないさ持ってお行きよ 何も無い代わりに

 人は誰もがいつも 幸あれと願うもの

 連れ合い連れ添う時の 永さは愛の重さだ

幸せを幸せと言えず照れ笑い 親父の言葉のように

「くされ縁よ」とお前が言えるまで この家の敷居は跨ぐな

この曲が出来た当時は、「くされ縁」ではなく、妹の結婚と言う祝宴の宴だということで、当て字で「くされ宴」としておりました。しかしなかなかどなたにも、そのぼくの勝手な当て字の真意は伝わらず、ご批判をいただいた物でした。そしてそれを曲げ、「宴」ではなく「縁」を用いるようになったのです。まあ、その方が、何より分かりやすいっちゃー分かりやすいですものね(汗)

続いて、CDに収録されている、アコースティックサウンドの「くされ縁」を、弾き語りとお聴き比べいただければと思います。バックに薄っすらとストリングス系のシンセとベースかぶせられています。

写真は参考。

姉も妹も結局おらず、一人っ子のままでしたが、それでも貧乏ながら、両親の愛情を独り占めに出来たから、他の何物にも代えがたいものです。

★今日2月4日は、お二方お誕生日の方がおいでです。愛知県のももかさん、そして日置江のヒロちゃんの今日はお誕生日。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めてのバレンタインチョコ!」。初めてバレンタインのチョコレートをいただいたのは、中学3年の事だったと記憶しております。ちょうどクラスでも交換日記が流行っていた頃で、ぼくもクラスの女子A子さんと他愛もない事を綴った日記を交換していたものです。自分が日記に書き込んだら、翌日彼女の机の棚の奥に、こっそりと大学ノートを忍ばせると言う、これまたなんの捻りも無いシステムでしたねぇ。そして迎えたバレンタインデー。とは言え、バレンタインデーの事は知るには知っていましたが、自分とは住む世界が違う気がしていたのか、無関心だったような気がします。そしてその日は、A子さんが交換日記をぼくの机の棚の奥にこっそり入れる番。まさかA子さんからその日、人生初となるバレンタインチョコをいただけるなんて、これっぽっちも期待しておりませんでした。周りの男坊主どももみんな押しなべて野暮ったい奴ばかりで、バレンタインのバの字すら感じられなかったものです。でもクラスで一番秀才のB君だけは、こっそり女子たちから何かを貰っては、コソコソッと自分の学生鞄の中に仕舞い込んでいたものです。まあ、それがバレンタインチョコだろうなって、皆見て見ぬふりをしたそんな調子だったものです。ぼくは放課後、いつものようにA子さんから回って来た交換日記を鞄に詰め込んで家へ。なんだか今日の交換日記は、異常に分厚いなと、そう思った程度でした。そして家に帰って日記を開いてビックリ!奇麗な紙で包んだ小さなボール紙製の箱が!中を開けると、ちょっと歪な形をしたハート型のチョコレートじゃないですか!でもそのちょっと歪なハート型のチョコレート。ビターな感じのチョコレート色と、ミルクが分離したのか、マーブル柄のよう。その様子を覗き見ていたお母ちゃんが、「なんやのそれ!あっ、もしかして手作りのバレンタインチョコやないの!どれどれ味はぞうやろ?」と、ぼくがこの世に生まれ初めていただいた、例え歪とは言えハート型したバレンタインチョコを、真っ二つにバキッと折って、「これ半分、あんたにも上げるわ!」と。この時ばかりは、無神経すぎるお母ちゃんに怒りを覚えたものでした。

今回はそんな、『初めてのバレンタインチョコ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~イカカレーステーキとココアパウダー添えニョッキwithクリームソース」

まずレッドデビルの別名を持つ、アメリカオオアカイカ、いわゆるスーパーでみかける、ロールイカです。これを解凍し、よく表面の水分を拭き取り、塩コショウ、そしてSBの赤缶カレー粉を擦り込み、フライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立ててから、カレー粉を塗したイカを焼き、ある程度焼き上がったところで、白ワインを少々加え焼き上げ皿に盛り付けます。

彩でホウレンソウと赤パプリカをバターソテーし、皿の傍らに添えておきます。

続いて小鍋で生クリームを温め、コンソメ、塩、コショウ、白ワインでお好みの味に調え、クリームソースを作ります。

最後にニョッキを茹で上げ、皿に盛り付けクリームソースをたっぷりかけ、ココアパウダーを振り掛ければ完了。

ぼくの家には、ココアパウダーを振り掛けるための、お洒落な甑のようなものなどなく、味噌を溶く甑にココアパウダーを入れて、振りかけて見ました。

カレー風味のイカのバターソテーとクリームソースも見事に合い、これまたちょっとビターな味でチョコレートの香りのするココアパウダーと、クリームソースの絡み合ったニョッキがこれまたとんでもなく、大人のお味となり、久しぶりに白ワインがグビグヒと進んだものでした。

もちろん言うまでも無く、ホウレンソウと赤パブリカのバターソテーとクリームソースも絶品でした。

どうかどうか一度、お試しあれ!

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