「願い星」

今から21~22年前の事だったでしょうか?

毎日新聞の連載の取材のため、初めてインドのビハール州ブッダガヤの地を訪れたのは・・・。

ホテルで夕食を終えると、TVもラジオも無く、何もすることがない。時折湯が水になるシャワーで一汗流し、涼みがてらホテルの玄関を出た。

ブッダガヤは、その名が示す通り、ブッダが成道した仏教の聖地で、世界各国の仏教国の寺院が犇めき合っている。

その中にある「日本寺」は、日本の仏教界が作った寺だ。しかし日没以降は、寺に照明が付くわけでも無く、辺りは漆黒の闇。唯一の灯りと言えば、濃紺の夜空に隙間なく巻き散らかされた様な、大中小様々な星たちの瞬きと、月明かりだけ。

すると日本寺と舗装されていない農道一本を隔てた、マスティープール村から子どもたちの歌声が聞こえた。と言っても、子どもらの歌の歌詞はヒンディー語のため、ぼくにはチンプンカンプン。とても優しく穏やかなメロディーに耳を傾けながら、夜空の星々を何時間も眺めていたものです。

周りには人工の灯りなど何一つ無いからか、これまでに見たことも無い無数の星々に、ただただ圧倒されたものです。一つ一つの星の光源がとても強く感じられ、星たちがまるで息衝いているかのような錯覚に陥ったものです。

それから都合取材で三度ブッダガヤを訪れましたが、いつもこの世の物とは思えぬ程満天の星空を眺めながら、屋台でインドビールのキングフィッシャーを呑んだものでした。

日本で流れ星を見る機会は、もうすっかり街灯りに消されてしまっているせいか、終ぞありませんが、ブッダガヤでは何度となく大きな流れ星を目にしたものです。

今夜はまず、弾き語りで「願い星」をお聴きください。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

それにしても人類は、流れ星に祈りを捧げるようになったのは、いつの頃からだったのでしょうか?

同時に大きく輝く一等星を結んで、様々なモノに見立て、星物語が紡ぎ出されていったのでしょうか?

ついつい子どもの頃の、日曜日の早朝を思い出してしまいます。子供にとって日曜の朝は、一週間でも特別な日です。川の字に布団を並べ、両親の真ん中で寝ているぼくは、雨戸の節穴から差し込む陽射しに、もう寝ても立ってもいられません。早く起きだして日曜日の休日を満喫しなければ、途轍もなく損でもするような、そんな強迫観念に囚われていたのかも知れません。しかし両脇で寝息を立てる両親は、まったくぼくとは逆で、せめて一週間に一度の日曜くらい、誰憚ることなくもう少し布団の中でまどろんでいたい!そう思っていたことでしょう。とは言えぼくは、早く両親が起き出してくれないものかと、何度も寝返りを打ったりしますが、その度に両親はぼくに背を向け、布団を頭からひっかぶったものです。ぼくは成す術も無く、布団の中から天井を見上げ、天井板の木目の図柄を眺めながら、「あっ、あれはムンクの『叫び』だ!(って、そんな小学生の頃ですから、もちろんムンクも『叫び』も知りませんから、ゲゲゲの鬼太郎に出て来る妖怪とでも思っていたかも知れません)とか、あっちは山下先生だ!」と、木目が描く不思議な曲線を擬人化して暇を持て余したものです。そう考えると、星座の星物語を生み出した古代人たちは、少なくとも忙しなく日々を生きるぼくらよりも、ゆったりと満天の星々を眺め、思いを馳せる時間がたっぷりあったのでしょうね。

続いては、CDよりオリジナル版の「願い星」お聴きください。

そしてもう一曲。こちらは即興のジャズバージョンの「願い星」にお付き合いください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「受験のお守り、験担ぎ!」。受験勉強が完璧な人も、そうでない人も、こんな時期になるともう成す術はなく、ただただ幸運を祈るばかりです。ぼくは受験勉強を完璧にこなせるほど、勤勉では無かったものですから、お母ちゃんが授かって来てくれたお守りを、腹巻の中へ忍ばせ受験会場に向かったものです。また、靴や靴下は左から履くとか、玄関の敷居から踏み出す時は右足からとか、お相撲さんのような験担ぎにも頼った記憶があります。まあいずれにせよ、勉強を怠けた自分は棚上げし、一切合切神頼みにすがると言う、そんな体たらくぶりでした。皆様にも、お守りや験担ぎの想い出、きっとおありのことでしょう。

今回はそんな、『受験のお守り、験担ぎ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~春と秋の味覚の饗宴!海女小屋風ピザ」

先週ご紹介いたしました、「ボイルド岩牡蠣~ホワイトワインwithブルーチーズ」の食べきれなかった岩牡蠣を、殻から外してたっぷり保存してあります。

それと先日のLiveで、ご実家で生ったということで、鬼殻と薄皮を剥いた銀杏をお裾分けいただいておりました。

また郡上からは、第二段の山菜「蕗の薹」を送っていただいておりました。

そして買い置いてあった、メカジキのスライスもございました。

ならばそれらをひとまとめに、ピザにでもしてしまえってなもんで、編みい出しましたる作品が、この「春と秋の味覚の饗宴!海女小屋風ピザ」でございます。

まずミラノ風のピザ生地にアラビアータ用の瓶詰トマトソースをたっぷりと敷き詰め、その上にこれまたたっぷりととろけるチーズも敷き詰めます。

次にフライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立て、牡蠣と銀杏、蕗の薹に、あらかじめ白ワインとハーブミックスに漬け込んで置いたメカジキを賽の目切りにし、塩コショウを軽く振って炒め、ピザの上に盛り付け、その上から再びとろけるチーズをたっぷりとのせ、オーブントースターで少しチーズが焦げる程度に焼き上げれば完了。

トマトソースととろけるチーズの相性は言うまでもありませんが、たっぷりと白ワインとブルーチーズの旨味を吸った牡蠣と、バターとガーリックの風味を纏ったもっちもちの銀杏に、春の苦味がほんのりと香る蕗の薹も、見事なほどマッチし美味しい逸品となりました。また圧巻は、メカジキのバターソテーがチーズに絡んで、これまたとっても美味しいツナとして、その存在感を感じさせてくれたものです。

ぼくはNZマールボロ産のヴィラマリア・ソービニヨンブランをついグビグヒと煽ってしまいました。

そして食べ終わってから思ったのは、トマトソースではなく、辛子味噌ソースでも銀杏や蕗の薹の味をより高められたようにも感じました。また機会があったら、今度は味噌ソースにチャレンジしてみます。

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「ウォーキング雑観」

ついこんな景色に目を奪われ、そぼ降る雨の中、立ち止まってしまいました。

なんだかパット見は、枯れてしまったマリモッコを撒き散らしたかのようでもありますし、小さな真ん丸の生物が寄り添って話し合っているようでもあり、またアフリカ大陸のヌーの様に集団で大移動をしているようでもあり、ついつい歩道にしゃがみ込んで眺めてしまいました。

何の木の実だろうかと思いながら・・・。

帰って調べて見ると、フウの実のようでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 28」

今日の「天職人」は、愛知県弥富町の、「瓦師」。

籠を逃げ出た 白文鳥は いぶし瓦の 甍の波に     呑まれて消えた 前ヶ須(まえがす)の宿        筏川から おみよし松へ 下駄を鳴らして 童が駆ける  甍に消えた 鳥の名を呼び

愛知県弥富町で孫子三代に渡り三州いぶし瓦の瓦師を続ける、瓦栄(かわらえい)商店、三代目瓦師山田篤さんを訪ねた。

三州いぶし瓦の瓦師は、神社仏閣の甍を葺けるまでに十五年の修業を要する。瓦師の仕事は、大工が建て上げた屋根を採寸し、いぶし瓦の割り付けを描き出すことに始まる。

瓦は下から上へ、縦に一列ずつ右から左へと葺いてゆく。瓦と屋根の結合部は、山の赤土と畑の土とが絶妙に絡み合った「泥コン」と呼ばれる粘土である。三角形の瓦鏝で塗り込み瓦を葺く。以前まではこれが主流だった。ところが阪神淡路大震災以降、強度の問題が問われ、泥コンに瓦釘を合わせ打つ工法が採用された。新建材の屋根工法では、泥コンを使わない。「ほんでも泥コン塗ったると、保温と断熱にええんだわ」と、篤さんは先達瓦師たちの智慧を讃えた。

一端の瓦師と呼ばれるには、一日七~八百枚が葺けなければならない。修業十五年は、決して伊達や酔狂ではない。ましてや一見同じに見える瓦でも、一枚一枚反りも違えば微妙な曲がりもある。そしてそれは、土台屋根自体にも言える。たとえわずかな誤差であっても、一屋根に何万枚も葺く、大きな仏閣ともなれば、最後には取り返しの付かない誤差が生じる。瓦師は屋根の上で瓦の癖を瞬時に見抜き、勘を頼りに微妙な調整を繰り返す。

そう考えると瓦師とは、まさに誤魔化しの達人であると同時に、鈍色に輝く甍の美しさを描き出す、屋根の上の細工師でもある。

しかし移ろう時代と共に、この地方独特のいぶし瓦の屋根も、新建材に圧される憂き目に。

「親父がきっちり仕事しとったで、五十年経ってもだっても全然傷んどれへんで、葺きかえてまえんでかんて!でもやっぱり、親父みたいなええ仕事せんとかん」。尾張の瓦師が、真っ黒な日焼け顔で笑って見せた。

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「天職一芸~あの日のPoem 27」

今日の「天職人」は、三重県多度町の、「縁起玩具職人」。

狩衣(かりぎぬ)の 馬上の射手(いて)が       矢壺(やつぼ)射る                  多度の流鏑馬(やぶさめ) 秋の寿(ことほ)ぎ     八壺(やつぼ)峡 紅の葉に              彩られ                        白馬天翔(あまか)け 神々来たる

三重県多度町で縁起玩具の「はじき猿」を作り続ける、二代目水谷復四郎(またしろう)さんを訪ねた。

水谷さんが営む宮川屋は、多度大社正面にあり、三百年ほど前から宮甚(みやじん)と呼ばれ、参拝客相手に商いを続ける。

多度名物と言えば、大豆を核に黄粉と糖蜜で丸め、白砂糖を塗した素朴な味わいの銘菓「八壺豆」。そしてもう一つが、明治中期頃から厄や災いを「はじき去る」と掛け、縁起物玩具として持て囃された「はじき猿」だ。

長さ三十センチほどの竹の先は細目に割かれ、太鼓のような流鏑馬の的である矢壺が取り付けられている。竹棒中ほどの、薄く割いた弓なりの竹跳ねが、矢壺との間を上下する猿の人形を弾き飛ばすもの。

至って単純な構造の玩具だが、昔の子供達には喜ばれる土産物の一つだった。しかし戦後の高度成長時代の片隅で、全国各地の郷土玩具が辿ったように、はじき猿も店先からその姿を消した。昭和40(1965)年頃、元々手先の器用だった先代が、絶え果てようとするはじき猿を憂い、見よう見真似で復元したのだ。

「ようお客さんに言うたるんやわ。そんなもん千円出して子供に買(こ)うたっても、今の子供は直に壊してまうでやめときって」。水谷さんは自虐的に笑い飛ばした。だが全国各地の民芸品蒐集家が、わざわざ遠方より買い求めに訪れたり、毎年決まって初詣の縁起物として求める参拝客も後を絶たない。

「まあ遅かれ早かれ廃れるもんやろな。でも物事あんまり考えんのが一番やさ。うざこい(うっとおしい)だけやでなぁ」。淀みのない笑顔で水谷さんがまた笑った。

水谷さんが作る「はじき猿」よ、どうか人の心に棲む邪悪な心や煩悩を、ものの見事にはじき去ってくれ!

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「天職一芸~あの日のPoem 26」

今日の「天職人」は、岐阜県伊自良村の、「連柿農夫」。

鈍色の 雲を引き連れ 木枯らしが           伊自良の里を 包み込む                指先に 息吹きかけて 柿を編む            朱染めの暖簾 軒に連柿 老夫婦

岐阜県伊自良村で大正時代より代々連柿を作り続ける農夫、佐野治一さんを訪ねた。

伊自良の連柿には、伊自良大実と呼ばれる渋柿が用いられる。伊自良の大地は肥沃さを欠く痩せた砂地だが、それが逆に柿の糖度を高めるとか。

連柿作りは、木守りの実一つを残し、伊自良大実の渋柿を収穫する作業に始まる。「木守り」とは文字通り、柿の木を守り翌年の豊作を願う、大地の恵みを受けて生きる人々の智慧そのものだ。

収穫した柿は蔕を取り、皮を剥き粒を揃えて竹串に刺す。一串に柿三個。それを縦に十串藁で編んで繋ぎ一連とする。「これを硫黄で燻(くすべ)ると、黴も吹かんしええ色になるんやて」と、佐野さんは押し入れのような燻蒸室を開けた。

次に母屋全体を包み込むように樽木を組み上げ、橙色の大玉暖簾のように連柿が天日に干される。そして約一月。連柿は伊自良の寒風に晒され、濃厚な甘みとふくよかな柔らかさを身に纏う。干し上がった柿はほぐされ、白い粉(果糖とブドウ糖)を吹かせるため、皮に束子を擦り付け、新しい藁で編み込まれる。

「ここから四キロ離れただけで、柿の色が黒ずんでまうんやて。ご先祖は偉い人やったんやろな。ここが連柿作りに、日本一適したことを見抜いとったんやで」。佐野さんは陽だまりの中、椅子に座し藁を編む妻の指先を見つめた。

大きく長い化粧箱に収められた伊自良の連柿は、ご進物としてもとても迫力ある逸品です。

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「天職一芸~あの日のPoem 25」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の、「提琴師(ていきんし)」。

バスを待つ雨の日がすきだった             坂の途中の洋館見上げ                 ぼくは窓越しに君を探した               傘を打つ雨音に バジイオリンの甘い調べが 重なった   君の影が揺れるたび                  バスを待つ雨の日が好きだった             そしてぼくは君が・・・

明治20(1887)年創業の鈴木バイオリン製造、四代目の鈴木隆さんと奥様の香里さんを訪ねた。

初代の鈴木政吉は尾張藩士で、維新後に三味線製造を手掛けた、鈴木正春の長男とし安政6(1859)年に誕生。十七歳の年から三味線製造を学ぶが、急速な西洋化の波に先行きを案じ、唱歌の教員を目指し西洋音楽理論を学んだ。そこで学友が手にしていたバイオリンに釘付けに!政吉は貴重なバイオリンを借り受け、一晩で全ての部材を採寸し模写。そのまま寝食も忘れ、憑りつかれたように試作づくりに励んだ。

それから一週間。見よう見真似で、日本初のバイオリンが完成。日本のアントニオ・ストラディバリの誕生だった。その後、本格的な生産を開始。

しかし大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパが戦禍にまみれた。ところが皮肉にもこの戦争が、鈴木バイオリンを世界のスズキに押し上げることに。ヨーロッパの製造が停止し、飛躍的に海外からの受注が増加。

だが政吉は、素直に喜べなかった。「いつか世界の名器を越えたい」が口癖だったと言う政吉の本意は、生涯一職人にあった。

現当主の隆さんは、先代の次女であった香里さんと、学生時代からの交際を実らせ鈴木家に婿入りした。隆さんは結婚一ヵ月前に入社し、一筋縄ではいかない職人の世界へ飛び込んだ。そして六年間の修業を経て、バイオリン作りを習得した。

今後の目標はと、隆さんに問うた。すると「政吉が遺したバイオリン作りへの職人魂を、守り抜くのが我々の務めですから、事業を広げる考えなど毛頭ありません」と、毅然と言い放った。

政吉の魂は曾孫に宿り、欲を捨て名器作りに励もうとする孫娘の婿を、きっと頼もし気に眺めていることだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 24」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「浅沓司(あさぐつし)」。

浮世の禊(みそぎ) 神所(しんじょ)を行けば     俗世の穢れ 祓い清める 玉砂利の音          古市(こいち)の旅籠 精進落とし           酒肴勧みて お国自慢に 夜も耽(ふけ)やらぬ

三重県伊勢市で浅沓を作り続ける、西澤浅沓調進所、浅沓司の西澤利一さんを訪ねた。

浅沓は、公卿や殿上人(てんじょうびと)、又神職高官が神事参勤時に着用する履物として、現在に受け継がれる。古来は革製。後に桐を刳り貫き、外側に黒漆を塗り絹布が貼られた。

また、苧麻(からむし)の麻糸で作ったものが「麻沓(あさぐつ)」と呼ばれ、後の世に深沓に対する浅沓と表記されるようになったとか。

伊勢地方での浅沓の歴史は、江戸期に入ってからで、型作りから仕上げまで、今では西澤さんたった一人が手掛ける。西澤さんは十八歳から祇園祭の山鉾の模型を父親と共に作り、京都へと納めていた。

昭和59(1984)年、伊勢最後の浅沓司が高齢のため、跡取りを求めていた。西澤さんは三十四歳にして弟子入りし修業を開始。しかし丸一日修業を務め、日当はたったの千円。子供と年老いた両親を抱え、修業を終えて戻ると、夜鍋仕事で山鉾の模型を作り家計を補った。しかし山鉾作りの基礎が活き、一年半で独り立ち。

程なくして初仕事が舞い込んだ。伊勢神宮内宮の宇治橋渡り初めの大仕事だった。楠の底板に四国産の和紙十四~十五枚を張り合わせ型を作り、砥粉に生漆を混ぜ、浅沓全体を覆うように何度も繰り返し塗っては磨く。最後は漆黒の艶を引き立たせる本堅地(ほんかたじ)色塗りで仕上げ、正絹の甲当て枕と呼ばれる綿の詰め物が添えられる。一足の完成までに約一月。片時も気が抜けぬ真剣勝負である。

内宮の玉砂利を踏みしめ、静々と進む神官の浅沓は、神宮の杜の木漏れ日を浴び、悠久の時の狭間で独特な輝きを放っていたものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 23」

今日の「天職人」は、岐阜県平田町の、「女板長」。

揖斐川の 流れを染める 山茜             養老おろし 秋も暮れ行く               油揚げは 千代保詣での 縁結び            稲荷の耳に 恋し名を呼ぶ

岐阜県平田町で文政年間(1818~1830)創業の川魚料理八穂長(やほちょう)、六代目板長の吉田有子(ともこ)さんを訪ねた。

日本三大稲荷の一つ「お千代保さん」の門前。稲荷の耳を模し、荒縄を通した三角の油揚げと蝋燭を、参拝者が買い求める。

有子さんは昭和17(1942)年、十七歳の年に八穂長を営む吉田家の養女として迎え入れられた。忌まわしい戦争の真っ只中だ。「この家に貰われてすぐ、挺身隊で落下傘作っとったんだわ。飯なんてあんたぁ、ブリキの皿に蒸かし芋たつたの二切れ」。有子さんは、懐かしそうに笑い飛ばした。

昭和も30年代に入ると、昔ながらの平穏な輪中の暮らしが戻った。「当時はまんだ竹鼻線の大須駅からバスが通っとってな。バスが一台着くと五~六人。みんな油揚げ買ってお参り済ませ、帰りに鯰を食べに寄ってかすんだわ。皆ゆうたんか(のんびり)やったわ」。

有子さんが四十になった年に「暖簾だけは頼むで。門前の灯を消すでないぞ」と、義母はそれだけを言い遺し逝った。江戸時代から続く暖簾の重さを感じたと言う。

有子さんは毎日、庖丁に全体重を掛け鯰を捌く。女手には過酷な重労働だ。右肩だけ筋肉が盛り上がり、手首は腱鞘炎の手術も受けた。

鯰の蒲焼は、何と言っても三年以上寝かせた、秘伝の溜まり醤油に尽きると言う。百九十年前から頑なに受け継がれた真っ黒なタレが、炭火の熾りに滴りジュッと音を立て爆ぜた。

跡取りはと問うと、「気が付いた時には婚期もとっくに遅れてまっとったで、まあお陀仏こいたらそれまでだわさ」と、下呂膏を貼った右の手首を擦った。

「大きい夢見たらかん。正直にコツコツやつとりゃあ、お千代保さんはちゃあんと見とって下さるで」。お千代保稲荷の門前を行き交う参拝客を、目を細めながら眺めていた女板長の顔が、今でも浮かんでくるようです。

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「哀しいほど君が好き」

あなたは、「哀しいほど」誰かの事を、好きになったことはありませんか?

もどかしくて、切なくて。じっとしていられないほど、堪らなく恋しくて愛しくてしかたない。そんな感情の高ぶりは、きっとどなたにもあったことでしょう。

誰もがその感情は永遠に続くものと信じて・・・。しかしその時に思い描いた、とってもピュアな感情のまま、永遠に生きる事はさぞかし大変な事ではないでしょうか?

恋も愛も、その時々の状況に応じ、日々刻々と姿かたちを変えてゆくもので、永遠に「あの日」のまま立ち止まることは許されないものなのでしょうか?

しかし恋も愛も姿かたちを変えて、二人の間で成長を続けてゆく場合もあれば、姿かたちを変えることで二人の間にわだかまりが生じたり、心の距離が開いてしまう場合もあるのでしょうね。

でも少なくとも、「哀しいほど」誰かの事を好きになった瞬間には、その時点が全てであって、その先にどんな事が待ち受けているかは、神様でもない限り何人にも分からないから、その時点に抱いた思いを信じる事しか出来ません。

まあ、先が分かってしまっていたら、誰も好んで恋や愛にエネルギーを無尽蔵に費やさないかも知れませんよね。何もかも未来なんて、分からないことだらけだけど、少なくとも「哀しいほど」好きになったその人に対する自分の想いだけは、とことん信じて見るしかないように思えます。

今日はCD化されておりませんので、弾き語りで聴いてください。「哀しいほど君が好き」。

「哀しいほど君が好き」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

哀しいほど好きだなんて 君はきっと笑うだろう

だけど言葉はもどかし過ぎて ぼくの心を伝えきれない

哀しいほど逢いたくなる 逢えばただそれだけで

ぼくの心は穏やかになる  君の魔法のkiss一つで

 だからだからだからもう一度 ぼくの夢の中へ現れて

 今宵も一人 酔い潰れ果て 君を想って 眠りつくだけ

愛しただけ切なくなる やるせない想いだけが

メリーゴーラウンド心空回り この恋しさは伝えきれない

哀しいほど君が好き 君はやっぱり笑うかな

でも言葉じゃ言い尽くせない 君を愛しく想う心は

 だからだからだからもう一度 ぼくの夢の中へ現れて

 今宵も一人ギター爪弾き 君を想って唄い明かそう

 哀しいほど君が好き 哀しいほど君が好き

 今宵も一人  夜空眺めて 君への想い星に託そう

しかし恋や愛は、何も若者だけのものではありません。例えいくつになったとしても、「哀しいほど君が好き」と純粋に想えたら、それはやっぱり素敵ですね。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「受験勉強のお夜食!」。こんなぼくでも、一応こんな時期には、受験勉強をしたものです。でも大半は、勉強しているふりをして、ラジオの深夜放送にうつつを抜かしていたに違いありませんが。でもお母ちゃんはそうとは知ってか知らずか、受験勉強の夜食を作ってくれたものでした。おにぎりや、インスタントラーメン、それにうどんとか。なかなかプラスチックのフォーク付きの、カップヌードルは買ってもらえなかったように記憶しています。お母ちゃんが寝間着に着替え、布団に入る前に運んでくれたことを、今もって感謝したい思いです。受験勉強とは名ばかりで、深夜放送ばかりに夢中だったことが、今でも後ろめたい思いでなりませんが!

今回はそんな、『受験勉強のお夜食!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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