「天職一芸~あの日のPoem 36」

今日の「天職人」は、三重県答志島の、「老海女」。

沖の潜女(かずきめ)磯笛も止み            入日追いかけ海人船(あまぶね)還る          舳先(へさき)掠(かす)める海猫が          浜に豊漁告げて鳴く                  島の女の晴れ着姿は                  潮焼けの肌に濡れた磯着(いそぎ)           焚き火囲んで車座に                  笑いも絶えぬ浜の海女火場(あまひば)

三重県答志島に最年長(平成十五年二月十八日時点で)の海女、四代目浜崎徳枝さんを訪ねた。

「海の底にお金が落ちとるんやで、息こらして(息が切れて)も拾(ひら)てまうんさ」。浜崎さんは、潮焼けした赤ら顔で語った。

答志島

浜崎さんは昭和4(1929)年、この島で七人姉妹の長女として誕生。村の娘の仕来りで、冬場は夏の海女解禁まで、行儀見習いに大阪や名古屋へ奉公に上がった。夏が来ると島に戻り、海女の稽古に明け暮れ、嫁入り修業の和裁を身に付ける。二十歳の年に浜崎家に嫁いだ。

以来海女として、沖を目指し海鼠漁へ。身を切るような厳寒の海は、単衣の磯着を通して冷たい海水が肌を突き刺した。答志島の海女は約二百人。しかし海鼠漁に出るのはわずか二十人。鮑や雲丹に比べ、海鼠の漁場の水深が深いからだ。

浜崎さんは海人船を漕ぐ「トマイ(船頭)」さんと漁場を目指す。「腹にスカリ(網の袋)と腰紐括って、ナンマリ(鉛)爆弾(十五~六キロの錘)抱えて一気に潜るんやさ」。おおよそ一回の潜水は一分以内。「息が上(あ)ごてまう寸前に、腰紐しゃくったるんやさ。そうするとトマイさんが必死に腰紐たくし上げる。まあ、わしら海女の命の管理人みたいなもんやな」。現にトマイは、夫や息子など血縁者が多いと言う。二年前にご主人を亡くし、今は漁師を継いだ長男がトマイを務める。

漁を終え、海女火場に戻って、海女達と共に暖を取るのが一番の愉しみ。「歌(うとう)たり、亭主の愚痴を言って、そりゃあ賑やかやで」。文字通り男子禁制、海女達の裸の集会だ。

写真は参考

「海は愉しいよ。四季折々の色しとって」と、隣の家の海女仲間、山下きよこさんが呟いた。「そやさ!宝の海やでな。海に潜る時は、ドウマイ・センマイ(ドーマン・セーマン)言うてな、この手拭い頭に巻いて、米と小豆を紙に包んで、お酒と一緒に無事を祈って海に撒いたるんやさ」。浜崎さんは古びた手拭いを開いた。真ん中に「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」、左に五芒星、右には縦四本、横五本の格子(魔物の侵入を防ぐ網)が描かれている。陰陽道の魔除けの呪文が、いつしか海女の護符となった。

海と生きて六十年。誰よりも海を愛し、その美しさと気高さを知る老海女。お元気でと別れを切り出すと「わしら海女薬(あまぐすり)いう、ええ薬もうとるで、まだまだ身体が言うこと利くうちは潜るわさ」。島に大きな笑い声が響いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 35」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「宮大工棟梁」。

童相撲に勝鬨挙がる 宮の境内秋祭り          慣れぬ廻しを引き絞り あの娘横目にもう一番      入母屋(いりもや)修理の宮大工 結びの一番待った無し                          手に汗握り気も漫ろ 鑿の槌音触れ太鼓

岐阜県高山市の宮大工棟梁、袈裟丸(けさまる)時男さんを訪ねた。

「入母屋造りの美しさは、破風(はふ)の反りが命。縄垂れの弛み具合で棟梁の腕が試されるんやさ」。袈裟丸さんが物静かに語った。

入母屋造り(参考)
破風(参考)

大工与三吉(よそきち)の次男として誕生した袈裟丸さんは、十歳にして鑿を片手に大工仕事を手伝ったと言う。

昭和12(1937)年、尋常高等小学校を上がると、「世が安泰でないと、大工じゃ喰えん」と、父は吐き捨てるように呟いた。日華事変勃発で、激動の昭和が不気味な軋み音を発しながら動き始めていた。

袈裟丸さんは鉄道省の試験を受け、高山機関区の庫内手に。蒸気機関車の罐(かま)掃除の日々が続いた。やがて機関助手を経て、高山本線の機関士に。

昭和20(1945)年8月1日夜。貨物を牽き富山に到着。仮眠後再び夜行で高山へと戻るはずだった。「神通川の向こうから、B29が大編隊でズンズン近付いて来るんやさ」。同僚と共に近くの池に飛び込んだ。「もう地獄絵そのものやった。瓦が真っ赤に焼け、ドロドロになって飛び散って来るんや」。辺り一面は焦土と化した。

終戦の翌年暮れ、妻を娶り翌年国鉄を辞し、復興に沸く父の下で大工を始めた。あくる年には長男が誕生。飛騨に遅い春が訪れ、仕事に目鼻が付き始めた矢先のこと。昭和23(1948)年、産後の肥立ちの思わしくなかった妻が、乳飲み子を遺し急逝。その年、高山別院が焼失した。

それから四年後、今度は長男が母の後を追うように、わずか五歳で先立った。相次ぎ家族を失った袈裟丸さんは、哀しさを紛らわそうと仕事に打ち込んだ。ちょうどその年、高山別院の再建が始まり、大棟梁の下、宮大工の一人として加わった。木取りに始まり、二年後上棟式を済ませたものの、再び放火により焼失。二十五人の宮大工たちが皆項垂れた。

平成5(1993)年、袈裟丸さんが棟梁を務め、埼玉県越谷市の能舞台を木曽檜だけで造り上げた。「木曽の檜はおとなしいんやさ」。袈裟丸さんは、狂いの少ない木曽檜に人格を与えた。「白木はやがて黒く、そしてまた風化して白く生まれ変わるんやさ」。

袈裟丸さんが手がけた越谷市の能舞台
越谷市の薪能

百年で約3ミリ。木曽檜の表面は風雨に晒され、やがて毛羽立ち白く見えると言う。宮大工に魂を注ぎ込まれた木曽檜は、過行く時間の中で、風化と言う進化を遂げる。

木曽檜
木曽檜

人は神を崇め、一柱(ひとはしら)と数える。「神々御座(おわ)す宮処(みやこ)かな、家々守る床柱」ミノル

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「奇跡の泪」

「奇跡」。

この言葉は、いろんな場所で耳にしたりする機会があります。例えば、「9回裏2アウトからの奇跡的な逆転ホームランだった」とか、「あんな大事故に遭って、よく奇跡的にそれだけのかすり傷で済んだ」とか。

多くの場合、奇跡が起きたかと思えるほど驚いたと、そんな感嘆の意味合いを重ね合わせ、奇跡ではないものの、奇跡のような事を「奇跡『的』」と言ったりするものです。

では、奇跡の正体っていったいどんなものなのでしょうか?

到底叶いっこないような夢や希望、そして祈りが、あたかも神の思し召しであるかの様に、ふと自分の前に出現することだって、立派な奇跡に違いありません。

どんなに恐れ多い夢や希望、そして祈りであったにせよ、端っから「そんなもの叶いっこ無いって」と諦めてしまっていては、神々だってそんな人間に見向きはしないものでは無いでしょうか?

例えどんなに恐れ多い夢や希望、そして祈りであっても、それがどんなに遠い道程であったにせよ、「奇跡」を信じて直向きに生き続けなければ、神の思し召しに与れるスタートラインにも立てないってことではないでしょうか?

しかしそれだけ直向きに「奇跡」を信じ生き続けたからと言って、必ずしも絶対に「奇跡」が訪れるとは、何の保証もない筈です。

でもだからと言って、端っから諦めていては、夢や希望や祈りに一歩たりとも近付けはしないものです。

だったらどんな夢や希望に祈りであったにせよ、ぼくは「奇跡」を信じて、怠け者ながらも自分で自分の尻を叩きながらでも、もう一歩、もう一歩と、日々を送りたいと思います。

「奇跡」の出現は、少なくともそうして「奇跡」を信じ続け、決して怯む事無く、ただひたすら前を向いて突き進む者にしか、ご褒美の様に現れてくれないものだと、ぼくはそう信じています。

傍から見ればそれがどんなにちっぽけな「奇跡」であっても、それを信じて願い続けた者にとっては、途方も無く莫大な「奇跡」であるに違いないものではないでしょうか?

ましてや「奇跡」は、貧富貴賤を問わず、何人にだって訪れるものではないでしょうか?少なくとも「奇跡」を信じ、一歩前へと踏み出そうとする、全ての者たちにその機会は平等に存在すると信じます。

今日の弾き語りは「奇跡の泪」。この曲もCD化されておりませんので、ぼくの拙いギターと唄でお聴きください。そして皆様にも、素敵な奇跡が訪れますようにと、願いを込めて唄わせていただきます。

「奇跡の泪」

詩・曲・唄/オカダミノル

君が傷付いても ぼくはずっと側に居るよ

擦り切れた心の傷が 癒えるまで手を添えよう

そんなに自分だけを 責めて見ても苦しむだけ

君らしい笑顔が戻る その日まで見届けよう

 奇跡を祈り君が君を信じて うつむかないで歩いてごらん

 君のすべてを受け止めようと まだ見ぬ人が待ってるはず

 奇跡の泪流すだけ流したら 振り向かないで歩いてごらん

 きっと君の足元には まだ見ぬ花がそっと揺れてるはずさ

君が病んだ時も ぼくはずっと側に居るよ

耐え切れぬ痛みならぼくが その全て引き受けよう

夜毎星に祈ろう 朝まででも月を仰ぎ

この世の遍く神に この命引き換えても

 奇跡を祈ろう君よ生まれ代われと もう誰からも邪魔などさせない

 君のすべてを受け止められる ぼくが居る事気付いて欲しい

 奇跡の泪濡れた頬渇いたら 振り向かないで歩いてみよう

 ぼくは君の心の杖に 君はぼくの明日への勇気だから

 奇跡はいつも気付かないだけのこと 信じる事が出来ればいい

 君と二人で生きられたら 月並みだけど何んにもいらない

 奇跡の泪濡れた頬渇いたら 振り向かないで歩いてゆこう

 ぼくは君の心の杖に 君はぼくの明日への勇気だから

さあ、どんな夢や希望に祈りであれ、見返りを求めず「奇跡が起きる」と信じ、自分だけは自分をとことん信じてやって、明日に向かって生きて見ましょうよ。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「絣のモンペ!」。今朝ウォーキングの途中、向こうからやって来る自転車の小洒落たオバチャンに目が留まりました。自転車も普通のママチャリですし、小洒落たオバチャンの上着は、春めいたパステルカラーのセーターに厚手のブルゾン。髪はブロンズ色で、大きめのサングラス。それだけだったらさほど驚かなかったはずですが、下のパンツに目が留まったのです。オバチャンのパンツは、何と何と懐かしい絣のモンペだったのです。絣のモンペのパンツに、ショートブーツと来た日にゃあ、ちょっとビックリ!しかしそれが全然違和感が無く、むしろ良く似合っておいででした。なかなか目から鱗のコーディネートでした。そう言えば、小洒落たオバチャンとは比べ物になりませんが、家のお母ちゃんもモンペをこよなく愛して、どこに行くにもモンペ姿でした。とは言え、さすがにバスに乗ってのお出かけの時には、違っていましたが・・・。でも小学校の授業参観の時くらいは、モンペ姿だった気がいたします。令和の今の時代、なかなか見かけなくなったモンペ。ついお母ちゃんを思い出してしまったものです。皆様のお宅はいかがでしたでしょうか?

今回はそんな、『絣のモンペ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~ニョッキのなぁ~んちゃって桜色カルボナーラ」

使いかけの生クリームが冷蔵庫に残っていましたので、これをとにかく片付けねばと編み出しましたのが、この「ニョッキのなぁ~んちゃって桜色カルボナーラ」です。

まず、溶き卵に生クリームと、すり下ろしたパルミジャーノレッジャーノ、トマトソース少々、塩、ブラックペッパー、コンソメ少々を入れ、良くかき混ぜておきます。

次にニョッキを茹で上げ、水切りしてから、オリーブオイルをひいたフライパンで炒め、そこに溶き卵のソースを加えて炒め、皿に盛り付ければ完了。

今回ぼくは卵をちょっと多めにしてしまいましたので、スクランブルエッグの様になってしまいました(泣)

しかしお味の方は、トマト風味の桜色したニョッキのカルボナーラとなり、中々白ワインのお供にピッタリなワンプレートランチとなりました。

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「天職一芸~あの日のPoem 31」

*うっかりして、Poem31を飛ばしておりました。失礼いたしました。

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の、「漆喰鏝絵師」。

幼い頃の思い出が お寺の鐘によみがえる        冬枯れの田んぼ 泥んこ顔の君とぼく          夕暮れ畦道帰り道 お寺の土塀の片隅に         二人刻んだ淡い約束 雨に打たれ風に塗れた

名古屋市中川区の山田左官店、漆喰鏝絵師の山田實さんを訪ねた。

写真は参考。

「『おおい、雀の涙買って来い』って、よう職人にどやされて・・・あんた、何軒薬屋へ走ったかわからんで」。山田さんは目を輝かせた。

山田さんは終戦の年に尋常高等小学校を卒業すると、十三歳で左官見習の奉公に上がった。朝五時から樽に川砂と水、それに苆(すさ)と呼ぶ細かく刻んだ藁を加えて練り、ネタを仕込む。ネタ樽と左官道具満載の大八車を、力任せに曳いて十キロ以上離れた現場へと駆けた。

職人の仕事は、見て盗んで覚えろが鉄則。また職人たちの遊び心は、小僧いびりにも長じていた。それが冒頭の「雀の涙」だ。年端も行かぬ小僧にしてみれば、本当にそんな薬があると真に受ける。「今と違って同じイジメにしたって、昔は洒落心があったんだわさ」と、傍らで二代目の正彦さんがつぶやいた。

山田さんは小僧時代、昼食後の職人の昼寝の隙を狙って、押入れの中に潜り込んでは、人目にも付かず技量も要さぬ壁を相手に修練を積んだ。その甲斐あって、若干二十歳の年に晴れて独立開業した。

写真は参考。

左官の仕事は、壁板への荒塗に始まる。次に「場慣らし」と呼ぶ、柱や貫の間に丸竹を組む。特に柱脇と壁土の接着には、カヤと呼ばれる格子状に編んだ補強用の下地が埋め込まれ、中塗り、乾燥へと続く。ここまでに一ヵ月。一年を経てやっと上塗りを施し完成となる。

一年の間に、柱も壁も痩せてしまうからだとか。とても現代の時間軸では推し量れない。職人の智慧と技量が惜しみなく注ぎ込まれ、絶妙な鏝捌きに託されるのだ。

写真は参考。

「まあ、これ見たってちょう」。山田さんが屋根漆喰を指差した。純白の漆喰壁に浮き上がった二羽の鶴が優雅に大空を舞う。「昔は土蔵の入り口が、左官職の腕の見せ所だったけど、まあ遣りたても遣らせてまえんわ」。山田さんが口惜し気につぶやいた。

鏝一つで吉相を塗り上げる、天晴れ漆喰鏝絵師!

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「天職一芸~あの日のPoem 34」

今日の「天職人」は、名古屋市南区の、「庭師」。

糸の切れた凧を追い駆けた 茜空見上げ泣きじゃくる妹  鎮守の老木も木枯らしに鳴く 枝先の凧目掛け裸足で登った老木から見下ろす小さな町 鐘が鳴る 妹の心細げな顔  生傷と日焼けが誇りの腕白時代             怖さよりも勇気が勝っていた 何時からだろう      勇気を怖さが追い越したのは 何故だろう        そうまでして ぼくらが大人になったのは

名古屋市南区で高塚造園を営む庭師、庭哲、高塚徹也さんを訪ねた。

写真は参考。

「片道切符だけを持っての新婚旅行は、京都の職安でした」。高塚さんが重い口を開いた。

高塚さんは、東京の大学へ進学し、ワンダーフォーゲル部で山と出逢った。しかし危険と隣り合わせ。雪山で落石や滑落で仲間を失った。「あの頃は、『山屋』特有の、崖っぷちの緊張感に惹かれて」。相次ぐ事故を目の当たりにしても、決して山を下りようとはしなかった。そんな頃、山仲間に誘われ造園会社でアルバイトを開始。木に登るのも山登りの練習と嘯きながら。

二十五歳の暮れ。姉が保母として勤める、保育園の忘年会で栄養士だった典子さんを見初めた。結婚を目前に控えた頃、ヒマラヤ遠征の計画が持ち上がった。山の本当の怖さを知らぬ典子さんは、「ヒマラヤ行って来たら」と。しかし遠征前の冬山練習で、先輩が滑落。高塚さんは遂に山を下りた。そして結婚式を終えると、庭師の仕事を極めたいと、新妻を伴い京都へ修業に向かった。それが冒頭の、片道だけの新婚旅行の門出だった。

三千院「五葉の松」

古都の名刹では、樹齢千年に及ぶ古木や、三千院の七百年を超す五葉松が待ち受けていた。五葉松の手入れには、一度に三十人の庭師が必要。毎年春と秋に登った。春は松の芽を折り、秋は剪定と葉毟りに明け暮れたそうだ。

「自分が毎年松に話し掛けるからか、松も自分が来るのを待っとるんですわ」と照れ臭げだ。「人偏に木と書いて『休む』と読むでしょう。やっぱり人の側には、木がないと・・・」。

風雪に耐え、里の暮らしを見守り続ける、鎮守の杜の老木と話す、かつての山屋。朴訥とした口調で、魂の欠片を紡ぎ取る様に、静かに静かに呟いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 33」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「髪結」。

色取り取りの 振り袖姿 雪化粧の 街を染め      二十歳を祝う 声が弾む                慣れぬ足取り 簪揺れる 春の寿ぎ 日本髪       今日を限りの 大和撫子

三重県桑名市の「美容室由季」へ創業者の水谷ユキさんを訪ねた。

写真は参考。

「父の夢なぁ・・・いっぺんも見たことないなあ」と、二代目の恵美子さんがユキさんを見つめた。「この子がお腹ん中入ったのも知らんと、夫は戦地へ出征しましたんやわ」。

員弁出身のユキさんは、昭和17(1942)年、二十一歳の年に桑名で自動車修理業を営む政美さんの元へと嫁いだ。翌年には長女が誕生。小さな幸せが訪れた。

しかし昭和19(1944)年6月、一通の赤紙が届いた。政美さんは新妻と一歳半の娘に見送られ、汽車へと乗り込んだ。「あかん、あかん」。長女は父を乗せ走り去る汽車に向かって、覚えたての言葉を声の限り叫んだ。「そりゃあ、あかんはずや」と、誰かが見るに見かねて吐き捨てるように呟いた。周りで嗚咽が漏れた。すでにその時、ユキさんは恵美子さんを身籠っていたと言う。

翌年3月、恵美子さんを無事に出産し、戦地の夫に通知。翌月、まだ見ぬ次女の成長を願う便りが届けられた。空襲の激化で、一家は員弁のユキさんの実家に疎開。玉音放送が流れ、貧しいながらも安寧な時が訪れたかに見えた。しかしそれも束の間。夫の訃報が!政美さんは一度も次女の顔を見ることもなく、その胸に抱き上げる事も叶わず、祖国を護り戦地に散った。大黒柱を失い、義父の下でギリギリの生活が始まった。ある日、美容院に嫁いだ友人から「手に職を付けるしかないで」と、美容師の職を勧められた。ユキさんは娘二人を抱え、二十八歳の年に美容学院へ。しかし入学の時点で、三ヵ月の授業課程の内の一ヵ月が終了していた。残り二カ月、猛勉強を開始。学科はまだしも、実技など全くの素人。「『頭』がないで、実技の練習が出来やん」。ユキさんは、近所の奥さんたちに頼み込み、頭と髪の毛を借り、特訓に励んだ。「今もその人らは、開業以来のええお客さんなんさ」。その甲斐あって二カ月で国家試験を通過。「子供ら抱えて必死やったでなぁ」。ユキさんが懐かしむように笑った。

写真は参考。

昭和26(1951)年、現在の美容室を開業。「私は技術が未熟やで、真心だけやわ。取り柄なんて」。謙虚なユキさんは、半世紀に渡り現役を続け、娘二人と孫までも立派な美容師に育て上げた。

「私ら姉妹は、別に不自由した覚えなんてないし・・・。ただ記念写真の中に、父親が写っとらなんだだけやったわ」。恵美子さんが目頭を押さえた。

人も羨む髪結いの亭主は、妻と娘二人の記憶の片隅で、今も確かに生き続けている。

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「天職一芸~あの日のPoem 32」

今日の「天職人」は、岐阜県下呂市の、「花街芸者」。

いで湯の里は雪化粧 穢れを知らぬ白無垢のよう     あの日の駅前広場は 無事を祈る人で溢れた       声を限りの万歳に あなたは黙って右手を揚げた     咽び泣くよな汽笛を遺し 戻らぬ汽車は旅立った     いで湯の里は今日も雪 本掛けがえりにあの日を偲ぶ   岸辺の白鷺伝えておくれ 遥かな海に召された人に    今も独りを通していると

下呂市の芸者置屋「住吉」の女将、山崎スミ子さんを訪ねた。

スミ子さんは、今(平成十五年一月十四日)も現役でお座敷に着く、この道六十六年の温泉芸者だ。

写真は参考。

スミ子さんは新潟県長岡市で、大正14(1925)年に七人姉妹の長女として誕生。二二六事件勃発に揺れた昭和11(1936)年春、百五十円で下呂の花街へと、向こう十年間無給の「一生籍ぐるみ」で身売りされた。まだ十一歳のいたいけない少女だった。

置屋の養女とは言え、深夜まで寝ずに芸子の帰りを待ち、朝は五時起きでご飯を炊き上げ学校へと通う毎日。しかしわずか十一歳の娘にとって、竈の火加減は多難を極めた。焦がしたご飯をこっそり裏手の川へ流し、もう一度炊き直し学校へは遅刻ばかり。教師はスミ子さんの身の上を知り、「遅刻してでもいいから、ちゃんと毎日学校へは来るんやぞ」と励まし続けた。

舞妓としての初お座付(ざつき)は、端唄「紅葉の橋」。十六歳になった舞妓は、酔客を前に可憐に舞った。

写真は参考。

戦局は日毎悪化の一途をたどり、昭和18(1943)東条内閣は学徒出陣を決定。その頃、出征を間近に控え、地元の若者三人が芸者を上げた。一人の若者がスミ子さんに入れ揚げ、復員したら所帯を持ちたいと求婚。

しかし出征の日は容赦なく訪れた。若者は舞妓姿のスミ子さんの写真を胸に、不慣れな別れの敬礼を手向けた。それが二人の今生の別れに!

写真は参考。

「あんな時代やったで、手もよう握らんと・・・。遥かな海に散ってしまった」スミ子さんは瞳を潤ませた。還らぬ男の菩提を未だ弔い続ける。「私みたいなオヘチャを、嫁にと言ってくれたんやで。幸せなこっちゃ」。スミ子さんは目頭をこっそり押さえた。貧しき時代故に流れ着いた下呂の花街。芸一筋に激動の昭和を生き抜いた老芸者。その顔は、穏やかな慈愛に満ちた観音菩薩が、まるで舞い降りたのかと見紛う程だった。

*「本掛けがえり」は、干支の一回り六十年の意。

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「お伊勢参りと石神様詣で!」

やっと19日に、お伊勢さんとお二見さん、そして石神さんと、いつものお詣りルートを巡って来ることが出来ました。

遅ればせながらの初詣です。

まずは朝一番の近鉄特急で伊勢市へ。レンタカーに乗り換え、外宮さんへ。でも朝一番とは言え、外宮さんの境内はガラガラ!人込みの苦手なぼくには、ラッキーでした。これも新型コロナウイルスの影響でしょうか?

毎年毎年、あのお隣のお騒がせ国の皆々様で一杯なのに!今年は、一人も見かけません。

そして内宮さんへ。ここもこれまで初めてと言う程、ガラッガラ。

正宮でお詣りを済ませ、宇治橋の方へと戻る途中、神馬に出逢えました。

皇大神宮御料御馬「草新(くさしん)号」です。

さすがに、なかなか精悍な表情でした。

続いて、お二見さんの夫婦岩へ。ここもいつもの年より随分参拝者も少なく、ガラーン。ぼくには、ラッキー!

すると海に突き出た岩の上で、海鵜が日差しを浴びながら、の~んびりと羽繕いの真っ最中でした。

続いていつものように、鳥羽市へと向かい相差の石神様へ。

石神様もご多分に漏れず、参拝者は例年になく少なく、いつもは満車でとても近付けない、一番石神様に近い場所にある一等地の駐車場も、難なくクリア。これまたラッキーでした。

すると石神様の参道に不思議な光景が!草鞋が木に括り付けてあるではないですか!

説明によれば、獅子舞神事の出演者が履いた草鞋を、木に括り付ける450年も続くと言う風習だとか!

草鞋を括り付ける風習の由来が知りたいものでしたが、説明板にそこまでは残念ながら書かれていませんでした。

これで今年も何とか、無事にお詣りを終えることが出来、心がす~っとしたものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 30」

今日の「天職人」は、三重県久居市の、「味噌蔵人」。

一斉下校のサヨナラ ぼくは畦道の先を競った      白い息 赤い頬 遠い日 土曜の昼下がり        お帰りの声 茶の間から 母は七輪の土鍋を開けた    オジヤの焦げ 味噌の香 在りし日 母の面影

三重県久居市の味噌傳(みそでん)こと、辻岡醸造に七代目蔵人、辻岡傳治(でんじ)さんを訪ねた。

味噌傳は、明和2(1765)年創業。末っ子として生を受けた傳治さんは、大学進学の夏に終戦を迎えた。本来七代目傳治を継承するはずの兄は、戦争の犠牲となって散った。傳治さんは大学を出ると、大蔵省の醸造試験所に学び、二十三歳になった昭和25(1950)年に帰郷。その前年には、味噌醤油の自由クーポン制が導入され、翌年には自由販売の時代へと激変する、戦後の混乱の渦中であった。

昭和27(1952)年、海山町出身の公子さんと見合いを終えると、六代目は安堵したように急逝。涙の乾く間もなく七代目傳治を襲名し、その年の暮れ所帯を持った。「まだ二十五歳の若造やったで、本当大変やったさ。でも一つだけええこともあったわ。代々傳治を名乗って来たで、印鑑変えんでええし、そのまま使こうたったんさ」と、傳治さんは懐かし気に振り返った。隣で八代目の孝明さんが目を細めた。孝明さんは三人の姉に囲まれて育ったこれまた末っ子。味噌蔵を守る住み込みの蔵人たちと共に、学生時代から仕込みを学んだ。「味噌は敏感やさ。樽の配置や風の通り、それに温度と湿度の具合によって微妙に違(ちご)てくるんさ」。

百年以上使い込まれた、四.六トンの味噌樽が所狭しと並ぶ蔵には、有線放送の艶歌が流れる。「ええ歌聴かせてやると、ええ味に育つんやさ」。傳治さんがボリュームを上げた。

「これ、お口に合いますやろか?」と、公子さんが熱い茶を入れなおし、傳治さんがお袋の味と絶賛する柚干(ゆべし)が供された。柚子皮と味噌の芳香、胡桃と胡麻が絶妙な食感を醸す。

大地の恵みたちが大自然の時を纏い、見事に紡ぎ合い、馥郁たる味わいを織り成し、口の中に弾けた。

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