今日の「天職人」は、三重県津市の、「簾(すだれ)職人」。
旦那の代わりのお遣いは 隣の町のお店(たな)まで ご苦労さんと労われ 土間で番茶を一啜り 簾越しに揺れる影 清楚可憐なお幼(いと)はん 一目お顔を拝みたい 一言言葉も交わしたい 身の程知らずの片想い 簾隔てる淡き恋
三重県津市で明治20(1887)年から続く、阿部久すだれ店三代目の阿部久司さんを訪ねた。

「二塁手の二番。甲子園の高校球児やったんさ」。一畳ほどの作業場に座し、苦竹(にがたけ)を割く手を止め、久司さんは壁の写真を指差した。
久司さんは昭和10(1935)年に誕生。津高校へと進学した。「名門やったで、大学へ行きたかった。でも親爺は店継げ言うて認めてくれやんで。進学あきらめて、代わりに野球に打ち込んだんやさ」。
高校三年の夏、久司さんは甲子園の土を踏んだ。初日の第三試合、対するは宇都宮工業。グラウンドに落ちた影が長く伸び始めた頃、ナインの健闘も空しく、二対一の僅差で敗退。津高校野球部と久司さんの夏が終わった。「今し、みんな甲子園の土持ち帰るけど、忘れてもうてなぁ。後で貰(もろ)てきたんさ」。
高校を出るとすぐ職人見習いが始まった。春から夏は簾。秋から冬は竹籠作りと、朝から深夜まで作業に追われた。
ある日町内の若者たちからスキーに誘われたが、仕事に追われそれどころではなかった。するとその日、初めて父が久司さんに詫びたと言う。一刻な職人が、父親としての顔をわずかに覗かせた瞬間。「働くことは苦にならんだ。でも帰省した連れが角帽姿やで、一緒に歩くのんが一番かなんだ」。心の何処かで負い目を感じていた。

「簾一枚垂らせば、向こうは別世界やでなぁ。昔の人らの知恵は大したもんや」。お座敷簾も、神社仏閣の御翠簾(おみす)も、竹籤(たけひご)を自家染めの綿糸で編み込む簡素な作り。しかも簾の表面に透かし彫りの様に、波や鳥をあしらう意匠は、竹籤の節を少しずつずらして編み込むだけ。それで遠目に図柄を浮き立たせるのだ。その控え目な意匠の表現方法が、簾の味を一層際立たせる。
神社仏閣からは、二百年ほど前の御翠簾の修理も依頼される。「竹籤に二百年前の日付と、職人の名が刻み込まれとるんやで。そんなん見るとなぁ、まだまだ自分はヒョッコや思てなぁ」。右利きの久司さんは、左庖丁を買い求め、籤の太さに応じて刃先を削り込み、竹の皮剥ぎ用の道具に仕立て上げる。

「これも職人の大事な仕事のうちやで。でも今までようけ失敗して、刃みんなこぼしてもうたわ」。無駄一つない動きの指先を、片時も休めず久司さんは笑った。
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