「天職一芸~あの日のPoem 50」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「船番匠(ふなばんじょう)」。

勢田川口(せたがわぐち)の 船溜(ふなだ)まり    村の童が 声上げて                  船蔵目掛け 駆け出した                今日は直会(なおらい) 船卸(ふなおろし)      船大将の 掛け声で                  水主(かこ)が船手(ふなで)に お神酒撒き      伊勢の港に 漕ぎ出せば                朝日に映える 船標(ふなじるし)

三重県伊勢市、兵作屋こと出口造船所、十三代目の船番匠、出口元夫さんを訪ねた。

「家(うっとこ)の先祖は、海賊船造っとったんやさ。孫爺さんからよう聞かされよったでなぁ」と、元夫さんが潮焼けした赤ら顔で笑った。

創業は始祖「兵作」が船造りを始めた、一六五〇年代頃。徳川幕府第三代将軍家光の時代である。

元夫さんは大正13(1924)年に誕生。東京工学院造船科で学んだ。そして昭和19(1944)年12月、伊勢に戻ると召集令状が届けられた。出征祝いの宴の最中、空襲警報が!それでも電灯を笠で覆い酒宴を続行した。「明日の朝早(はよう)に出たらええ。一日(いちんち)でも家で寝て行け」。父は元夫さんとの別れを惜しんだ。

そして敗戦。元夫さんは無事に復員を果たした。すると誰よりも元夫さんの帰りを待ち続けた祖父が言った。「もうお前の顔見たで、いつ逝ってもええわ」と。その言葉通り、それから三ヵ月後祖父は安らかに息を引き取った。

戦時中、多くの漁船は軍に徴用され、敗戦後人々は空腹を満たすため、漁の再開を求めた。兵作屋は漁船の建造に沸き、棟梁の下、和船造りの厳しい修業が始まった。

元夫さんは材を求め、自転車を四時間も走らせ、宮川上流へと通っては、山を学び木を学んだ。「細かい年輪の赤身がかった朝熊杉は、曲げても折れやんでなぁ。逆に強風に晒されとる所の木は『揉め』言うてな、中が傷んどるんやさ。それを知らんと使こたると、淦(あか)が出る(浸水する)んやで」。樹齢百五十年、太さ七十センチほどの丸太を宮川に落とし、筏を組んで勢田川河口の船蔵へと運び、木挽(こび)きで引き揚げる。そして棟梁が板に十分の一の大きさで設計図を描き、それを頼りに船大工たちは鋸を引いた。

伊勢和船

戦後の狂乱物価は、一隻二十五万円の漁船を、わずか一年足らずで百六十万円に跳ね上げた。「契約した時の金額は、材木代で終いやさ」。漁船需要も一段落した昭和25(1950)年からは、最後の和船時代を築いた団平船(だんぺいせん)と呼ばれる、伊勢特有の運搬船造りが始まった。しかしそれも昭和40(1965)年に入ると需要も激減。洋型船時代が到来した。

「和船の伝統を遺したいと、博物館の展示用に造らんか言う話もあるけど、船を陸(おか)に揚げてなとする?金捨てるだけやで。船は海原駆けてこその船やでなぁ」。元夫さんが苦笑い。

写真は参考

伊勢和船。最後の船番匠は三百五十年前(平成十五年五月二十七日時点)と、何一つ変わらず潮を打ち寄せる、伊勢の海原を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 49」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の、「筆師」。

君がこの世に生まれた夜は 何度も筆を走らせた     どんな娘になるのだろうと 授けし名前読み上げた    平凡なれどただ健やかに 親の想いが筆を追う      仮名の墨痕和紙に滲めば 命も宿る君の名に

岐阜県美濃市の古田毛筆、二代目筆匠(ひっしょう)の古田久規(ひさのり)さんを訪ねた。

今では既に絶えた名古屋筆。その最後の職人だったのが、父であった故古田理一さんだ。空襲を逃れ郷里の美濃に戻り、生涯の大半、七十年を筆結いに捧げた。「そんでも会心の一本なんて、一年に一回あるかないかやて」。久規さんが斜め前に座す、妻を見つめた。

玄関脇の小さな作業場。年季の入った作業机を挟み、夫婦は黙々と指先を繰る。「子供の頃は、ここが遊び場やったんやて」。先代夫婦もここに座し、秒刻みで目まぐるしく動く世間の慌ただしさを他所に、緩やかな時を静かに刻み続けた。

二十歳を迎えた久規さんは、名古屋の青果市場に就職。決して父の跡を継ぐのが嫌だったわけでは無い。高度成長期は誰もが浮足立ち、書を嗜む心の余裕などなく、筆の需要も落ち込んでいたからだ。その七年後に公代さんを妻に迎え、美濃へと戻り先代と共に筆作りを始めた。

筆の命とも言うべき獣毛は、中国産のイタチの尻毛。毛の油分を抜き取るため、夏は一~二週間、冬ならば二週間~一ヵ月、土の中に埋め置く。そして土から取り出した後、綿毛を取り除き、湯で三十分ほど煮て乾燥させる。次に毛の長さを揃え、籾殻や蕎麦殻の白い灰で、毛が摩擦で温かくなるまで揉みしだき、油を徹底的に抜き取る。さらに十一~十二種類の分板(ぶいた)で毛の長さを合わせ、真鍮製の寄せ金で揃えて元を断ち切る。

先混ぜと呼ぶ筆先から喉までの部分には、タヌキの毛と四~五種類の長さの毛を混ぜる。その下になる腰混ぜには、鹿の毛とやはり四~五種類の長さの毛を練り混ぜ、丸く芯立(しんたて)をしてから上毛(うわげ)で化粧巻きを施す。そして最後に毛の根元を麻糸で緒締(おじ)めし、電木鏝で焼き入れてから軸に挿げ込む。

「一番ええのは、雄のイタチの冬毛やて。でも動物は夏と冬とで毛が生え変るけど、・・・人間の毛はもう二度と生え変わってくれんでなぁ・・・」と、久規さんは白髪混じりに薄くなった自分の頭を小突いた。傍らで公代さんがこっそり笑った。

一本の筆に三十数手の工程。途方もない時間と、細かな手数が惜しみなく注ぎ込まれる。

「弘法筆を選ばず」。だが美濃に唯一人の筆匠は、敢えて多難な筆作りに生きる道を自ら選び取った。

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「ウォーキング雑観~えっ、床屋はどこよ?」

ウォーキングの途中で、こんなハイカラな床屋のサインポールを見掛けました。

さぞかしお洒落な床屋かと、探しては見たものの、どこにも見当たりません。

もしかするとサインポールのお隣の神社の境内の奥にでも、神社のサイドビジネスかなにかの床屋があるのではと、境内を見渡して見ても、普通の神社の境内で、床屋の「と」の字も見当たらないじゃあないですか!

しからば、この黄色い車のお宅が床屋なのかと近付いて見ても、ただ普通の住宅です。

じゃあ一体、このサインポールは何のためにクルクル回り続けているんだろうと、しばらく頭を傾げておりました。

それこそ近所の住人の方にでも聞いて見ようかと思ったものの、誰一人通らないんですから・・・。

ちなみにここから15mほど離れたところに、床屋があるにはあったのですが、そこはそこでサインポールがクルクルと回っておりましたし、果たしてこの意味不明なサインポールとの関連性も定かでは無さそうでした。

なんだかキツネに抓まれたようで、不思議な気持ちになったものです。

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「ウォーキング雑観~なんで民家に?」

ウォーキングの途中の民家の玄関口で、こんな光景を見掛けました。

朝の連ドラじゃありませんが、信楽焼のたぬきです。しかもでかい!

まるで英国王室の近衛兵の様に、来客の品定めでもしているようです。

信楽の土産でたぬきの置物を買ったとしても、いくらなんでもこれは大きすぎます。どちらかと言えば、お店屋さんの入り口でお客様を迎える方が似合っているようにも思われます。

これはあくまでぼくの勝手な想像ですが、昔この家は飲食店か何かをやっておられ、廃業されてからもこの信楽焼のたぬきを処分するのも忍ばれ、入り口においていらっしゃるように感じました。

右手に名古屋のマークの「丸八」と染め抜かれた徳利を手にしているところから、この地方の商店向けに出荷されていたのかも知れませんねぇ。

ぼくが子どもの頃は、どこのお店屋さんにもこんなたぬきがデーンと飾られていたように記憶しています。

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「心の扉」

「心には扉がある」と、感じられたことはありませんか?

誰もが自分にとって都合の良い事には、ドアスコープから相手を覗き見ることも無いまま、心の扉を全面的に開け放ち、両手を大きく開いて向かい入れてしまうものです。

ところが逆に、とても受け入れ難い事実に対しては、心の扉にも二重ロックを施し、事の過ぎ去るまで固唾を飲んで息を潜めてしまうものです。

しかしそうした受け入れ難い事実と言うものは、好むと好まざるとに関わらず、些細な隙間から心の中へと忍び込み、今世界を震撼させている新型コロナウイルスではありませんが、心に食い込みやがて蝕んでしまうものではないでしょうか?

そうした受け入れ難い事実と言うウイルスに蝕まれると、しばらくは誰もが心の扉を締め切り、塞ぎ込んでしまったりしてしまうものです。この世の誰も信じられないような孤独感に苛まれながら。

人の心は、たった誰かの何気ない一言や、何気ない素振りの一つでも、傷付いてしまうものです。自分では故意に、人を傷付けたりしたつもりが無かったとしても、相手からすれば心を抉(えぐ)られた様に感じられてしまう事だってあるでしょう。

今日お聴きいただく「心の扉」は、確か23歳頃の作品だったように記憶しています。

「恋」と「愛」の区別も碌に付かない若い頃は、ともすると自分の気持ちばかりを、相手の気持ちが追い付いていない事にも気付かず、ついつい押し付けてしまい、悪気が無くても相手を傷つけてしまうこともあります。

そんな些細な心のすれ違いが、やがて取り返しの付かない、大きな溝となってしまう事だってしばしば。

今日の「心の扉」は、些細な心のすれ違いを許せなかった無器用な男が、別れてから初めて相手の女性の真の大切さに気付き、塞ぎ込んでしまった彼女の心の扉を抉じ開け、もう一度やり直したい・・・そんな想いで彼女の部屋の灯りを眺めている・・・。「恋に恋した」男の未練を描いた曲です。

この「心の扉」は、CD化されてはおりませんが、若い頃のデモ・レコーディング版がいつくかあります。一つは、センチメンタル・シティー・ロマンス版。もう一つは、ヤマハ・スタジオ・ミュージシャン版です。

まずは、ぼくの拙い弾き語りからお聴きいただきましょう。「心の扉」です。

『心の扉』

詩・曲・歌/オカダ ミノル

街角で見かけたあなたの横顔 揺らぐ街の灯に翳りを浮かべてた

細い肩丸めてうつむくその癖 今もまだ一人でいるのかい

 愛していたと言えるはずも無い  身勝手な別れをきっと恨んだことだろう

 このカフェテラス角曲がれば  あの頃に出逢える気がする

点された灯りに揺れるシルエット あなたを最後に送ったあの夜も

この場所でこうして影だけ見詰めて くり返し心で侘びていたよ

 悪いのは俺愛し合う事を  急ぎ過ぎたばかり別れの足音さえも

 聞こえなくて想えばあなただけ  知らぬ間に傷付けていたね

 この階段を一息に上り  塞ぎ込んだままのあなたの心の扉(ドア)を

 押し開けたいもう一度だけ  愛したい心のままに

 心の扉開け放す鍵を  あの頃と言う戻れない時間の彼方へ

 投げ込んだのは捨て去ったのは  この馬鹿な俺の癖に

続いては、センチメンタル・シティー・ロマンス版の「心の扉」をお聴き比べいただきましょう。

そして次は、ヤマハのスタジオ・ミュージシャン版「心の扉」です。

続いては、約40年ほど前の一宮勤労会館での、センチの皆さんにバックを務めていただいた時の、Live音源がカセットテープから出てきましたので、本邦初公開でLive版「心の扉」お聴きください。

そしてもう一曲。これもヤマハのスタジオミュージシャンとのレコーディングの前のさらにデモ・レコーディングされた別アレンジの「心の扉」です。正直ぼくも昔のカセットテープをデジタルに変換して、ああ、こんなアレンジのものもあったなぁと、思い出したほどです。これまた本邦初公開の「心の扉」、お付き合いください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「詰襟学生服の第二釦!」。正直ぼくは、詰襟学生服の第二釦を、意中の女学生に手渡したことは、残念ながらありませんでした。チクショ~ッ!皆様はいかがでしたか?意中の女学生に渡されましたか?或いは、憧れの男子学生から、手渡されたことがありましたか?何だかとってもロマンチックな光景ですよねぇ。この「詰襟学生服の第二釦」を、なぜ卒業式の後で大切な人に贈るのか?どうやらこれにも諸説あるようです。一つ目の説は.「一番大切な人になりたい」。 この説によると、5つある学生服の釦には、上から順に一つ一つ意味がつけられているとか。まず一番上は自分用。二番目が1番大切な人へ。三番目は友人に。そして四番目は家族で、五番目は・・・謎だとか。釦を贈る女学生にとって、自分が貴女の「一番大切な人になりたい」と、そんな気持ちから第二釦を贈るのだとする説。また二つ目の説では、 第二釦が一番心臓に近いところにあるため、「貴女のハートを掴む」という意味で、意中の人に第二釦を贈るとする説。 三つ目の説。元々詰襟学生服は、軍服の応用だったとも言われるそうです。戦時中は若者達が、学徒出陣等、半ば強制的に戦地へと送られました。もしも戦地に散り、意中の人に二度と逢えぬかも知れぬと、出征の際一番大切な人に想いを伝え、自分の形見として軍服の第二釦を手渡したと伝えられています。それと一番上のボタンが取れていると、だらしないと上官に叱責されるが、第二釦ならまだ分かりにくいと言う事で、第二釦が選ばれたのだとか。ぼくらはそんな切なすぎる時代の上に築かれた、曲がりなりにも平和な世でしたので、学徒出陣で形見代わりに第二釦を贈った先達に比べると、それほど思い詰めるでもなく、卒業の通過儀礼の一つのような感覚で、意中の人に釦を贈ったり貰ったりしていたのかも知れませんね。さて、あなたはいかがでしたでしょうか?

今回はそんな、『詰襟学生服の第二釦!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~豚キムチクリームニョッキ」

ぼくのニョッキブームは、まだまだ続いております。従って使いかけのニョッキが、どうしても冷蔵庫に残ってしまいます。

今回は、Honey Babeのしゃぶしゃぶ用腿肉の使い掛けが残っておりましたので、それで豚キムチにしてしまえってなもんで、サクサクッと挑戦して見たのが、この「豚キムチクリームニョッキ」です。

まずフライパンにオリーブオイルをひき、Honey Babeの腿肉、キムチを炒め、茹で上げたニョッキを加えてさらに炒め、最後に生クリームを注いで軽く炒めれば完了。

この「豚キムチクリームニョッキ」は、超手抜きで簡単、そして生クリームを入れたことでキムチの辛さがまろやかになり、どことなく洋風なご機嫌な作品となりました。

これにはビールも白ワインも、グビグビと進んでしまったほどです。

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「天職一芸~あの日のPoem 48」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の、「質屋女将」。

やっとデートに漕ぎ着けたのに 給料前の間の悪さ    急な用でと彼女を待たせ 質屋の暖簾に駆け込んだ    舶来時計がステーキに 見栄を通すつもりのはずが    勘定書きに目を剥いて 彼女の財布に縋る失態      それがご縁で結ばれて見りゃ 子守り洗濯質奉公

愛知県豊橋市で明治末期創業の「佐野質店」二代目女将の佐野悦子さんを訪ねた。

写真は参考

「昔の職人さんは、朝飯の残りの入ったお釜を、仕事の出がけに質入れして、その日の日当で帰りがけに質請けしとったらしいじゃんね。よう先代がそう言って笑っとったもん」。店先を監視するテレビモニターを眺めながら、悦子さんが笑った。

悦子さんは昭和10(1935)年、お隣の新城市の農家で誕生。二十四歳の年に、縁あって質屋の嫁に入った。

その半年後には店を任され、質草の値踏みを恐る恐る始めたと言う。「質屋は決断力と度胸だけ。それが身に付くまでに十年はかかるじゃんね。恥ずかしい話だけど、今までどんだけ失敗したことか」。

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戦前の質草には、大八車や僧衣といった変わり種も多かったそうだ。「だって質屋なんて、下駄履きの気楽な庶民の金融屋だらぁ」。悦子さんの許には、様々な客が訪れた。「たった今、監獄から出て来たばっかりだと凄んで見せる者。子供の給食代をと駆けこんで来る母親」もいたそうだ。また、子連れの母親から、一銭の値打ちもないものを質草に差し出され、ついつい情に絆され拒めなかったことも一度や二度ではない。

客との間を仕切るガラスの向こうに、必死で生き抜こうとするそれぞれの人生があった。「今は贅沢な貧乏が多いじゃんね」。悦子さんが呟いた。「外車を横付けして、舶来もんの時計を質入れして行く時代らぁ」。昔は、今日一日を生き抜かんと質屋を頼った。

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「ねぇ、あのプラチナ、あんたが取ったんだった?」「それはお母さんが・・・」。三代目を継ぐ、長男の嫁真理子さんが口を挟んだ。それは二年前の閉店間際。五十代半ばの品のいい女性が店に現れた。「これで」と、真珠が埋め込まれたプラチナの指輪を差し出した。本来プラチナの真贋は、比重計で識別するが、真珠が埋め込まれているためそれが出来なかった。悦子さんは、自分の眼力を信じ引き取ったが、まんまと贋作にしてやられた。

「質屋は失敗が家宝じゃんね。痛みをしらなかんらぁ。でも人を疑ってばっかでは寂しいでなぁ」。悦子さんは誰にともなく呟いた。

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この世は所詮、持ちつ持たれつ。客との間を分かつ一枚のガラスは、この世を必死に生き抜く庶民の辛苦を、どれだけ見守って来たことだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 47」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「蒲鉾職人」。

辛い思いを抱いた夜は 駅舎の待合室にいた       故郷からの汽車が着き お国訛りを目で追った      母恋しさに寝れぬ夜は 故郷に向いた窓を開け      煎餅布団に包まって 母の鼻歌口ずさむ

三重県伊勢市で明治38(1905)年創業の蒲鉾店「若松屋」三代目美濃豊松さんを訪ねた。

「丁稚奉公の頃は、窓が伊勢へ向いとるだけで、なんや嬉して、そんだけで幸せやったんやさ」。豊松さんは、水仕事で真っ赤になった手を揉みしだいた。

豊松さんは昭和16(1941)年、伊勢の台所として参宮客で賑わう河崎で誕生。しかし戦時の暗雲が重く垂れ込め、統制経済の影響で店は休業を余儀なくされた。

戦後の混乱期には、正直者が馬鹿を見た。「魚の頭落として、身だけ籠の下へ入れ、粗で上っ面を隠して。皆上手い事しとたらしい。でも家の親爺は、ようせんかって休業のままやさ。お陰で皆客取られてもうて」。戦後一年を経て、ようやく店は再開した。

豊松さんは小学生の頃から店を手伝い、高校を出ると大阪尼崎の蒲鉾屋へ丁稚奉公に出された。「しばらく他所で、冷や飯喰うて来い」と。

早朝4時に起き出し、食事は俎板を食卓代わりにして、立ったまま掻き込んだ。夜遅く仕事を終えると、疲れ果てた足で梯子を上り、屋根裏部屋に崩れ込んだ。「阪神が負けると、大ファンの番頭が、腹癒せにバケツで水をぶっ掛けよってかなんだわ」。ところが豊松さんは、辛かった丁稚時代が、今でも一番の宝物と言う。二年に及ぶ冷や飯修業を終え、伊勢に戻り先代の下で家業に明け暮れた。

二十七歳の昭和43(1968)年に妻を娶った。すると孫の成長を見納めたかのように、創業者であった祖父が息を引き取った。その翌年、今度は二代目の父が、後を追うかのように他界。わずか三十歳にして、先達二人を失い、途方に暮れながら三代目を襲名した。

豊松さんの蒲鉾には、最高級のグチやエソを始め、伊勢で水揚げされた地場の白身魚が使われる。まず下ろした身に塩を振り、粘りが出るまで磨り潰す。そこに魚の煮汁と砂糖、そして味醂を加え秘伝の味に調える。仕上げは蒲鉾の付け板に、刃の無い付庖丁(つけぼうちょう)ですり身をこんもりと半円型に盛り付け、着色した紅色のすり身を上塗りする。

「伊勢の杜が清めた水は、川を下り豊かな伊勢の海を作るんやさ。神様が与えて下さるこの土地の素材にこだわって、納得いく味ださんとな」。豊松さんは窓の外を眺めた。

神領河崎生まれの誇りを、白身魚と共に練り上げる伊勢蒲鉾は、一世紀も前の風味そのままに、現を生きる我らの舌に運び来る。

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「天職一芸~あの日のPoem 46」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の、「珈琲職人」。

朝昼晩 三杯の珈琲 いつもの店 いつもの席      「お待たせしました」 いつも君の声がした       いつもかわらぬ珈琲が 今日は何だかほろ苦い      小さな店を見渡せば 君と似つかぬ声がする

岐阜市日ノ出町で昭和2(1927)年から続く、たつみ茶寮、二代目女将の竹中さがみさんを訪ねた。

外観

女将は大正13(1924)年、岐阜県安八町で誕生。十六歳の年に初代夫婦の養女となった。しかし昭和16(1941)年、七・七禁令が施行され、珈琲は贅沢品として槍玉に挙げられた。戦争拡大は、国民の生活を日々蝕み、農林省により代用珈琲の原料が、さつま芋やユリ根に規格化された。「横文字の看板を取り換えた店もあったんやて。そんでもここでは、珈琲は珈琲って言うとったけど」。さがみさんが目を細めた。

昭和19(1944)正月。芝居小屋の金華劇場から出火。煙草の不始末により日ノ出町の一帯が類焼。一家は鍋屋町に居を構え移り住んだ。しかしそれも束の間。翌昭和20(1945)年7月9日、八百六十三人もの尊い命を奪い、市中を焼き尽くした岐阜空襲で、再び焼け出された。何人たりとも戦禍に抗う事など出来ず、呆然と玉音放送に耳を傾けた。

昭和22(1947)年、疎開先から引き揚げ、現在地に店を再興。さがみさんは美容師の資格を取得し、店の二階に美容室を構えた。やっと戦禍の呪縛から解き放たれ、生きる希望が輝き始めた矢先のこと。今度は目と鼻の先の映画館から出火。火の手は一気に近隣を襲った。「まんだ買ったばっかやった、電髪(でんぱつ)の機械も黒焦げやて。一階の店は水でベッタベタやったし」。三度目の貰い火は、二階のさがみさんの美容室だけを焼き尽くし、さがみさんの希望に満ちた夢は呆気なく潰えた。

店内

昭和27(1952)年、北海道出身の博さん(故人)と所帯を持ち、店を切り盛りした。翌年には、テレビの本放送でプロレスが中継され、力道山の空手チョップに人々は歓喜。「天皇家と同じやいう一番大きなテレビ買って。それが評判を呼んで、プロレスが始まると超満員やったて」。

昭和30(1955)年には、三代目を継ぐ一粒種の英次さんをもうけた。

未だに戦前から使用する大型ミルで、七種類の豆を挽き、創業時と何一つ変わらぬ手法で珈琲を立てる。「商いだけに、飽きんとやってこれたんやて」。

写真は参考

逆境をものともせず生き抜いたさがみさんは、七十六年前(平成十五年四月二十二日時点)と変らぬ珈琲を差し出した。こくのある深い薫りに導かれ、ちょっぴり切ない昭和初めのハイカラな味が、喉の奥に広がった。

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*「七・七禁令」とは、奢侈品等製造販売制限規制。

*「電髪」とは、パーマネントの呼称。

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「天職一芸~あの日のPoem 45」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の、「洋服仕立て職人」。

家は魔法の館やで みんな嘘や言うけれど        入り口潜るただのおっさん 帰りは気取ったモボになる  家の父さん魔法使いやで 唱える呪文教えたろか     シャキシャキ鋏の音がして カシャカシャミシンが音立てる

愛知県蒲郡市で昭和9(1934)年創業のノサキ洋服、二代目の野崎龍也さんを訪ねた。

ノサキ洋服外観

「大正末から昭和初期にかけてのモボ(モダンボーイ)は、東京銀座のお話し。ここらぁじゃ、三つ揃えの背広に足袋、それに下駄履きだったようです」。和洋折衷が織り成す、当時の不思議な光景が浮かんだ。

写真はイメージ

達也さんは、戦後間もない昭和21(1946)年に誕生。「敗戦で物資も乏しく、当時は進駐軍払い下げのシーツでYシャツを誂え、軍服をスーツに仕立て直した」とか。羅紗切鋏(らしゃぎりばさみ)の音と、足踏みミシンが発する規則的な音を、子守歌代わりに成長した。高校を出ると上京。夜間大学に通いながら東京洋服学校へ通い、裁断、縫製、ミシンかけを学んだ。アイビールック隆盛の東京暮らしを身に付け、龍也さんは意気揚々と帰郷した。しかし中卒で住み込み、先代の下で修業を続けて来た同世代の職人には、とても太刀打ち出来なかった。

「職人が寝静まるのを待って作業場へ。先輩たちの仕立て方を、懐中電灯を点けて盗み見るんです。気付かれないよう、物音を立てずにトイレにも行かず。でも翌朝になると『昨日は夜鼠がうるさかったなぁ』って、先輩に言われて」。

仕立て職人への道程は、スラックスに2~3年。ベストに2年。上着に3~5年を費やし、やっとモーニングやタキシード、燕尾服へと腕を上げる。

まず客の体型を目で測り、好みの色を見極める。「だって今着ている服を見ればわかります。そもそも大嫌いな色は絶対に入っていませんから」。龍也さんがメジャーを使うのは、あくまで目測を確認するためだ。服地が決まれば裁断、仮縫いへ。ここまでの作業は十分の一。

着せ付け後は、仮縫いを解いて分解し、お客の身体的な特徴に応じて補正を加え縫製へ。仕上がりまで二週間。射るような職人の眼に晒され、金糸でモボの影絵を織り込んだ見返しのネーミングタグが、職人の誇りと共に縫い込まれる。

今尚三代に渡って続く客も多い。「良い服を着れば、心も福をまとう」。龍也さんは、年代物の鋏を取り出しそう呟いた。代々親方だけに持つことが許される、手打ちの羅紗切鋏だ。重厚な面構えの鋏は、七十年(平成十五年四月十五日時点)におよぶダンディズムの歴史を宿し、浪漫を秘め鈍色の光を放った。

写真は参考

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