「天職一芸~あの日のPoem 58」

今日の「天職人」は、岐阜市加納花ノ木町の「和傘貼師」。

悪戯小僧の勲章は 爪の黒さと赤チンの数        鎮守の杜の隠れ家で 時を忘れて駆け廻る        ピカゴロ 不意の夕立に 臍を押さえて家路を駆けりゃ  畦の向こうにジッチャの姿 揺れる番傘 細い腕

岐阜市加納花ノ木町の和傘の貼師、伴清吉さんを訪ねた。

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色鮮やかな美濃本蛇の目傘の大輪。仕事場の壁から天井まで、足の踏み場もないほど傘の花が咲き乱れる。

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傘の柄の天辺から、放射状に伸びる五十四本の竹骨に、古びた刷毛で和紙糊を滑らせ、三末(みまつ)と呼ぶ竹骨三本に、一枚の割合で都合十八枚の美濃和紙を、皺ばむ指先で寸分の狂いも無く貼り込んでゆく。「ちょっとこれ見てみゃーて」。ゆうに二十年以上は使い込まれたろう馬の刷毛を、清吉さんが差し出した。なんと柄は、清吉さんの指の形に窪み、飴色に変色してしまっている。「この辺りは、和傘の本場やでなも」。

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清吉さんは三人兄弟の末っ子。父と兄がそうであったように、何の疑問も抱かず、尋常高等小学校を上がると直ぐに貼師となった。「毎晩火の用心が廻ってくるまで、傘貼っとったて。欲があったでな。一本でもようけえやって、子どもらに美味いもん食わせたろって」。

和傘一本の完成までに、大きく分けて骨師、貼師、仕上師の手を潜り、工程は百を超える。実に貼師の作業だけでも、十八工程に及ぶ。

まず骨師が割き削った骨を、夏でもストーブに翳し一本ずつ歪みや反りを矯正する。「これが一番肝心なんやて」。矯正された五十四本の骨は、元の一本の太い真竹の状態に閉じられ、輪で締め続けること一ヵ月。それから三末ずつ美濃和紙を貼り込み、再び一ヵ月以上の時を掛け、ゆっくりと自然乾燥を待つ。「本当にええ傘は、半年かかるわさ」。貼師の納得がいった傘だけに、貼師の銘札が貼られ、絹の毛で荏胡麻油を塗り込む仕上師へと手渡される。

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しかし戦後の復興とは裏腹に、和傘需要は激減。「ここらぁは昔、家の前が広うしたって、そこら中に傘を干しとったもんやて」。洋傘台頭の憂き目に、職人たちも職を奪われていった。「だって蛇の目差しとるんを、見たことないやろ。今でも和心のあるお茶の先生や、踊りの先生のよな、突飛な人らしか差してくれやんでな」。清吉さんは小さな背を丸め、愛妻の志ず子さんを振り返った。

傘貼一筋、四分の三世紀。三人の子供も立派に巣立った。それでもなお、日がな一日傘を貼る。

バサバサッと小気味のいい音を立て、降りしきる雨が一瞬に跳ね飛んだ。曇天の梅雨空に、鮮やかな美濃本蛇の目の花が咲いた。「明日、天気になぁれ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 57」

今日の「天職人」は、名古屋市下之一色町の「漁網職人」。

新川縁(しんかわべり)の 船溜まり          朝陽にはためく 大漁旗                川面に波頭 カモメが群れりゃ             河岸も俄かに 活気付く                軒を寄せ合う 路地裏は                腕白坊主の チャンバラ劇場              面子ビー玉 屑鉄拾い                 ポケット一杯 夢いっぱい               尾張最後の 漁師町                  両郡橋から 眺めれば                 眩い昭和の 残像が                  波紋の渦に もまれて消えた

名古屋市中川区下之一色町で漁網を製造販売する、水谷商店三代目、水谷文雄さんを訪ねた。

「三人兄弟で、俺がババ引いちまったもんで、跡継いで婆あの面倒まで見とんだて、おめえさん」。文雄さんが小声で呟いた。

明治末期、海部郡蟹江町で櫓の職人をしていた祖父が、漁師町として栄える下之一色町に櫓の職人が一人もいないことに眼を付け、両郡橋の袂、大銀杏脇に漁具店を開業。店の真横の船溜まりから、漁師達が数珠繋ぎで陸に上がって来たと言う。

しかし昭和34(1959)年、伊勢湾台風が直撃。その後、高潮防波堤の建設に伴い、漁師たちの多くが漁業権を一斉に放棄。陸に上がった漁師達からは、気っ風のいい声が消え、人手に沸いた商店街の街頭スピーカーからは、うらぶれた演歌だけが虚しく響く。

子供の頃から魚獲りに明け暮れた文雄さんは、高校を出ると早朝から魚市場でアルバイトを終え、父の仕事を手伝った。「親父はコツコツとよう働いとった。婿養子だったでな」。

文雄さんは反物で網を仕入れ、かがり目が解けぬよう一つ一つ手縫いで紡ぐ。大小のタモから、生け簀用のタモに、果ては地引網。そして一度網に入ったが最後の、地獄網まで。魚の生態を知り尽くし、見事なまでに魚の習性を巧みに利用する。

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「昔は外国船の船員が、わざわざ三枚網を買いに、千円札を束で持って来よったて。でもよぉ、おめえさん。あいつら靴履きのまんま座敷に上がって来るでかんて」。三枚網とは、三枚重ねの漁網。一枚目と三枚目の網目は大きく、海老も魚も入り込む。しかし真ん中の小さな編目に引っ掛かり、一網打尽となる。実に日本人の繊細な手先が紡ぎ出した、漁網の逸品だ。「でもよう、今はまああかん。遊び漁師の時代だで。喰ってくのもままならんで」。

三枚網の参考写真

文雄さんは生計を案じ、職安通いもした。「伝統漁法の技術だで、遺した方がええって、皆言わっせるが、言う方はええわさ、言うだけだで。そんでもこっちは、生きてかなかんでなぁ。でももうこの歳じゃ、就職口なんてあーせんて。我慢してやっとるだわさ」。文雄さんは切なげに苦笑い。

時の流れは、漁師町の面影を押し流した。しかし澱んだ川面は、あの頃と何も変わらぬ満ち引きを、今日も淡々と繰り返している。

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「天職一芸~あの日のPoem 56」

今日の「天職人」は、三重県美杉村の「萬屋」。

おっちゃんおっちゃん これなんぼ           道草喰うて 菓子買うて                甘納豆の 籤引こか                  どうか当りが 出ますよに               「ハンニャラモンニャラ ペッペッペッ」        変な親爺の 呪(まじな)いが             いつも通りに 始まると                何や知らんが よう当たる

三重県美杉村で萬屋を営む(平成十五年七月八日時点)、三代目眞柄武士さんを訪ねた。

美杉村

実に何ともまどろこしい「床屋」という店名の、魚屋兼萬屋があった。一昔前のコンビニである。異なる点は、刺身や焼き魚、蚊取り線香から虫取りタモや釣り竿まで、暮らしに密着した食料品から生活雑貨が、所狭しと店内に居並ぶ。

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「それはなぁ、昔婆さんが、床屋やってんさ」。武士さんが赤道色の顔を綻ばせた。

武士さんが六歳になった昭和21(1946)年、隣の材木屋から出火。祖母が営む「床屋」ともども焼け出され、父は国鉄を辞し山師となり一家を支えた。すると今度は昭和28(1953)年9月、台風13号が直撃。至る所で山抜けが発生。武士さんも中学を上がると直ぐ、工事現場で鶴嘴を振るった。そして昭和33(1958)年9月、焼け出された床屋は十二年の歳月を経て、萬屋へと生まれ変わった。

「魚市場へ仕入れに行くとなぁ、皆『妙な店の名前やなぁ』ゆうて。直ぐに覚えてもうて。結構、役んたったんさ」。

萬屋の開店から三年後。武士さんは軽三輪自動車を購入。それまでの名松線での仕入れに別れを告げ、颯爽と片道一時間半をかけ、松阪に向け軽三輪を走らせた。「当時なんて、仕入れして店へ戻って来ると、客が行列作って待っとったんやで。今とはえらい違いやさ」。棚を飾る商品は、問屋が勝手に置いて行くのだとか。求められれば大工用品まで販売した。「まぁオイルショックまでは、おもろいほど売れよったわ」。

しかしバブル期以降、過疎化が進み高齢化へ。「今し皆歳喰うてもうて。店まで来るのもしんどいで、魚持って行商して廻っとんやさ」。武士さんは毎日欠かさず、近隣に住む独居老人宅を巡る。「『きんのうは刺身喰うたやろ。そやったら今日は、焼き魚にしとき』ってなもんさ。せやけどほんま世話やで」。独居老人問題は切実と言う。ガスの火を点けっ放しで、畑仕事に出掛けていた老婆宅を訪問し、寸でのところで台所の火事を消し止めたり、自室で発作を起こした病人も救った。

「如何に萬屋ゆうても、年寄りの健康管理までせんならんとは・・・」。傍らで愛妻の春子さんが笑った。「もういつ店仕舞いしても可笑しないんやさ。でもなぁ・・・」。

「床屋」と言う名の萬屋の裏山に、ゆっくり陽が落ちる。店先には買い物を終えた老婆の笑い声。軒の裸電球が灯り、暖かな光を放つ。美杉の里の萬屋には、誰もがやさしかった昭和のあの頃があった。

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「天職一芸~あの日のPoem 55」

今日の「天職人」は、岐阜県付知町の「飴職人」。

母に頼まれ 届け物 隣近所を 一巡り         幼い妹 連れ立てば 両手に余る 駄賃飴        白黒紅に ニッキ飴 大人の味の ハッカ糖       夕陽を浴びて キラキララ 両手の中の 小宇宙

岐阜県付知町の勝野製菓へ二代目の勝野観(かん)さんを訪ねた。

掃き清められた土間に、ハッカの匂いが漂う。思わず大きく息を吸い込んだ。鼻の奥の方に、忘れかけていたあの頃を感じた。

「親指と人差し指の先っちょに、煮えとる飴を一寸付けて指を開くんやて。よう煮えとるとパリパリ言うで、飴炊きの温度もわかるんやて」。観さんがその仕草を真似た。

昭和5(1930)年、初代の故勝野良二は、この地方に古くから伝わるハッカ糖を主力商品とする店を開業。「昔はこの辺りでも、ようけ薄荷草(はっかそう)が採れて、それを絞っとったらしいわ」。

観さんは六人兄弟の次男として誕生。中学を上がると、北恵那鉄道(昭和53年廃止)を中津川で乗り換え、名古屋で日用雑貨品を扱う問屋へと住み込み奉公に上がった。高度経済成長時代の訪れで、石鹸や剃刀も飛ぶような売れ行きに。三年の奉公を終え、休養のつもりで郷里へと戻った。すると跡取りの兄から「俺の代わりに、お前が飴作れ」と。「まあどうせ一時のことだろうと思っとったら、何が何が。知らん取る間に、兄貴は他所へ勤めに行っちまって」。観さんは、子どもの頃手伝った記憶を頼りに、父とハッカ糖や生菓子作りを開始。このころの昭和30年代初頭。大手の製パン業者が付知の町にも大量の和菓子などを運び込んだ。

「まさに付知の菓子屋の戦国時代やて」。観さんも生き残りを賭け、あの手この手と知恵を絞り、キャンプ場や下呂温泉へと新商品の販路を求め、ハッカ糖の灯を絶やすまいと守り抜いた。「生菓子は日持ちがせん。それに引き換え、飴は日持ちがええ」。やがて観さんの心は、先代が遺したハッカ糖一筋へ。

素朴な風味が魅力のハッカ糖は、砂糖と水飴の飴炊きに始まる。「何より火加減が肝心。飴のカリカリ感を出すには、二百度の高温と経験が頼りやて」。次にハッカの原液を加え、冷やして丸く固める。「柔らかすぎても、硬すぎてもあかん。時間との戦いや」。それを棒状に伸ばし、鋏で一粒大に切り分け袋詰め。「昔はみんな手作業やったで、肩が凝るとこれを首筋に擦り込んだるんやて。そうするとスーッとしてええ気持ちになるで。ちょっと塗ったろか?」。観さんはハッカの原液を掌に広げ、首筋に擦り込んだ。

さわやかなハッカの薫りが立ち込め、傍らで妻の恵美子さんがにっこり。

「深山裏木曽(みやまうらきそ)ハッカ糖 仲睦まじき飴職人」

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「天職一芸~あの日のPoem 54」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「表具師」。

母の十八番の 芋饅頭 どれどれどれが 大きいか    迷う間に 手が伸びて あっと言う間に 姉の口     憎つくき姉に 跳び蹴れば 襖ぶち抜き 大目玉     それが因果か わからぬが 今じゃ表具師 襖貼り

愛知県岡崎市の錦昌堂(きんしょうどう)に、二代目の原田直好さんを訪ねた。

参考

初代の父、好光の口癖は「わしの腕の分かる者は、この岡崎にゃあおらんだぁ」だったそうだ。なぜなら好光は戦前、宮内庁より「大経師(だいきょうじ)」の位を得、職人としてますます磨きがかかっていた頃。東京大空襲で焼け出され、止む無く妻の在所を頼り疎開した。そして戦後再び上京し、東京で店を再興するものの、戦後の荒波と逆風に翻弄されることに。「そんな時代、ほとんどが喰うが先。こんな仕事は贅沢品らぁ」。直好さんはぶっきらぼうだったと言う父の呟きを真似た。

参考

昭和25(1950)年、一家は再び岡崎に舞い戻った。父は大経師の位もうっちゃって山へと分け入り、木炭車用の薪を切り出し一家を支えた。

一方直好さんは中学を出ると上京。婦人靴職人を目指し、浅草の製靴会社に就職。

昭和37(1962)年、ついに父は大経師の腕に積もった埃を叩き落とし、岡崎の地で錦昌堂を再興。その二年後、東京五輪は世界の人々に、焼け跡からの復興振りを示して閉幕。その年の暮れ、一日に三十五足も婦人靴を仕上げる、熟練の靴職人となった直好さんが帰省。オートメーション化の波が押し寄せ、職人から手仕事を奪い取っていったからだ。「今更、会社員にもなれんらぁ」。直好さんは父の跡を継ぐ決心を固め、修業を始めた。

掛軸の主役となる書画を、大和和紙で二回裏打ちし、周りを装飾する金蘭などの布(きれ)にも「着物着せたらんと」と、労わる様に二回裏打ちを行なう。次に布継(きれつぎ)と呼ばれる工程で、書画を引き立てるため布の柄や色合いと配置を決める。「一に色彩、二に技術。まあどれもこれも、持って生まれた勘だらぁ」。最後に揚裏(あげうら)と呼ぶ仕上げの裏打ちが施され、柴の木の軸棒を巻き、上部には風帯(ふうたい)を垂らし無地の部分に風合(ふうあ)いを飾り、軸先を取り付け一幅の掛軸が完成する。

参考

「国宝級の物だったら、まず一年はかかるらぁ。四季を通してゆっくりと仕上げたりゃあ、何百年先もこの国の湿気に耐えられるだ」。直好さんの言葉に、京都で修業積んだ三代目の国男さんもうなづいた。「孫を仕込むまでは、死んでも死に切れん」と、口癖にしていた初代好光であったが、その願いも虚しく昭和57(1982)年、仕事中に倒れ還らぬ人に。だが大経師の心根は、孫子の代へと見事に受け継がれた。

参考

何百年もの時の彼方で滲んだ、一幅の墨痕。親子経師は今日も、刷毛を片手に永久へと続く新たな生命を、一幅の掛物に注ぎ込む。

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「Happy Birthday 多治見のウナちゃん!~君が生まれた夜は」

17日火曜日の22:00に、動画をアップするつもりで用意しておりましたが、ウッカリして失念しておりました。

多治見のマンちゃんから、14日に多治見のウナちゃんがお誕生日を迎えられたので、Happy Birthdayのお祝いをとリクエストいただいていたのです。ところがうっかり・・・とほほ。

ゴメンネ!多治見のウナちゃん!ちょっと遅くなりましたが、ここに動画をアップさせていただきます。

★3月14日は、多治見のウナちゃんのお誕生日でした。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

マンちゃん、ウナちゃん、失礼いたしました。

「桜風」

先日東京で雪催いの中、桜の開花宣言がありました。

わが家のすぐ近くの交差点にある、桜はまだまた蕾が堅そうです。でもこれまたご近所の寺院の枝垂桜は、一つ二つ蕾が開きかけています。

いよいよ桜のシーズン到来です。しかし今年は、残念ながら新型コロナの影響もあって、夜桜を眺めつつの一杯もままならぬようですから、ちょっと意気消沈なぁ~んて方もおいででしょう。

でもお花見は、何も人が多く集まる桜の名所でなくとも、桜並木でなくとも、あちらこちらで愉しめますから、それを愛でるのもいいものです。

ぼくは桜の淡いピンクの花びらを見ると、ついついあの桜餅の匂いを感じる気がするから、不思議でなりません。決して名所の桜並木を歩いても、そんな匂いは実際に感じないのですが、どうしてもあの桜餅の薫りを感じてしまいます。

日本人が愛して止まない桜は、わずかな期間しか眺められないからでしょうが、美しさと同時に儚さや切なさを同時に感じてしまうものでもあります。

まあよくよく考えて見れば、それは桜だけではなく、人間の一生だってそんなものかも知れませんよね。

ぼくの楽曲の中で、桜を描いた作品は、本日お聴きいただく「桜風」と、桜が散り初めた時を唄った「花筏」しかありません。まさに季節商品のような、そんな楽曲でもあります。

今夜は、まず弾き語りで「桜風」をお聴きいただきます。不思議とこの曲を唄うと、郡上白鳥の「元文」が無性に飲みたくなってしまいます。と言うのも、郡上白鳥の原酒造場の中庭でいただいた、花酵母の「さくら」の味を思い出してしまうからです。

それでは先ずは弾き語りで、「桜風」をお聴きください。

「桜風」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君の心に降り積もった雪も 淡い日差しにやがて溶け出す

鳥が囀(さえず)り草木も芽吹き春は もうすぐそこで君を待ってる

 桜風舞い君を明日へ 導いて行く哀しみの淵(ふち)から

 君の頬を伝う大粒の涙  大地に伝い落ちてやがて花咲け

誰かを信じ頼った分だけ やがて傷つき嘆くものなら

独りぼっちで生きていたいと君は 心閉ざして塞(ふさ)ぎ込んでた

 桜ひとひら君の心へ 風に煽(あお)られ舞い降りる

 君は気付くだろうかひとひらの花が  君を見守り続けたぼくの想いと

 桜風舞う君の明日が 陽だまりのように穏やかなれ

 ぼくはいつもいつまでも君だけを見守り 君がくじけそうならばこの手を差し伸べ

 よう

そして続いては、CDより「桜風」をお聴きいただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「桜の花びら型『たいへんよくできました』の判子!」。小学校の低学年の頃って、テストの答案用紙に桜の花びら型の『たいへんよくできました』の赤い判子が押されていると、ランドセルを背負って家路を急いだものです。だってあわよくば、「よくできたねぇ!」なぁ~んてお母ちゃんに褒めてもらって、そいでもって一文菓子屋に行くお駄賃が加算してもらえないものかと・・・。嗚呼、なんて打算的なこと!これってもしかして、まるであの落ち武者殿の幼児期のような!でも正直ぼくも、そんな下心満点で、稀にしかいただけない『たいへんよくできました』の判子が貰えると、鼻高々でお母ちゃんに見せびらかしたものです。ところがお母ちゃんはもう一つ上手。「やりゃあ出来るんだから、この次も頑張らなかんよ」の一言で幕引き!嗚呼、なんて浮かばれない幼少期を過ごした事やら!ぼくなんぞよりは、遥かに出来の良かった皆様方は、『たいへんよくできました』の判子をさぞや沢山貰われたのでは?

今回はそんな、「桜の花びら型『たいへんよくできました』の判子!」。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~広東風しらたき焼きそば」

スーパーでお値打ちなしらたきを見付け、日持ちもすることからついつい余分に購入してしまっておりました。

さすがに肉じゃがばかりじゃ、ちょっと食傷気味で、これで焼きそばの代用にしたら、ローカロリーでいいかも!ってな調子でトライして見ましたのが、この「広東風しらたき焼きそば」です。

作り方は焼きそばそのまんま。

まず冷蔵庫にあった、キャベツとニンジン、そしてピーマンをざく切りにしておきます。

続いて、Honey Babeのしゃぶしゃぶ用もも肉に小麦粉を塗します。

そしてフライパンにごま油を大さじ2杯程入れ、しらたきを炒めつつ、鶏がらスープの素、酒、醤油、塩、ブラックペッパーで薄味に調味し、蒟蒻の水分と調味料の水気を炒め飛ばし、フライパンの中でしらたきが爆ぜるくらいになるまで炒めておきます。

次にもう一つのフライパンに油をひき、ニンニクの微塵切りで香りを立て、豚肉を8分ほど炒め野菜を投入し、軽く塩、ブラックペッパーを振ります。

豚肉と野菜がほどよく炒まったら、炒めたしらたきを加え更に炒めつつ、オイスターソースを塗して最後に天かすを投入して混ぜ合わせれば完了。ぼくは天かすが無かったものですから、スナック菓子の「横綱」をクラッシュして加えましたが、これがなかなかのワン・ポイントとなりとてもお勧めな一品となりました。

ごま油で炒めたしらたきの食感が何とも言えず、なかなかどうしてな、なぁ~んちゃって「広東風しらたき焼きそば」となり、キリン一番搾りがグビグビと進んでしまいました。

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「天職一芸~あの日のPoem 53」

今日の「天職人」は、三重県名張市の「薬師(くすし)」。

病の床の 母の背を そっと擦って 夜を明かす     微かな寝息 響くたび 幼き日々が 蘇る        風邪に咳き込む ぼくの胸 母は夜通し 手を添えた   世に妙薬は 数あれど あの温もりが 天下一      母の痛みは 取れぬとも せめて孝行 真似てみた

三重県名張市で二百三十年(平成十五年六月十七日時点)以上続く、田中余以徳斉(たなかよいとこせ)薬局、九代目田中トミエさんと、十代目の英樹さんを訪ねた。

「この人なぁ。二十年も前から決まって、月に一回京都で勉強や言うて、一泊で出掛けるんやさ。最初は嫁も『京都に女でも出来たんやろか』って、皆が怪しんでなぁ」。トミエさんが秀樹さんを指差し、いきなりそんな話を切り出した。

屋号に冠した余以徳斉とは、「余りを以って徳を斉す」の意。創業当時より紀州徳川家への出入りが許され、婦人病に効果のある「白水龍王湯(はくすいりゅうおうとう)」を御側目女衆(おそばめしゅう)向きに納め続けた縁で、藩主から拝領したとか。

トミエさんは奈良県榛原町で誕生。昭和24(1949)年、大阪の帝国女子薬専を卒業後、戦後初の国家試験に合格し薬剤師となった。翌年田中家に嫁ぎ、その明くる年に英樹さんを出産。「嫁いで見るとこの家は、天井から薬草の入った油紙の袋が一杯吊り下がっとって『きったないな』言うてみなほかしてもうたわ」。トミエさんが懐かし気に大笑い。

敗戦は日本人の価値観を、悉く豹変させた。漢方一筋を歩んだ田中家の歴史も、最新の薬学を学んだトミエさんの前では、どれもこれも時代遅れの産物にしか過ぎなかった。トミエさんは早速店を現代風に改装。入り口に掲げられた漢方薬製造元の金看板は、見事に取り払われた。「廊下の渡し板代わりに丁度ええし、風呂の焚き付けにつこたった」。

英樹さんは、昭和薬科大を経て国家資格を取得し帰省。二十七歳で嫁を迎え、家業の行く末を思案した。同時に対処療法中心の近代医学に限界を感じ、京都に出向き漢方の権威、渡邊武薬学博士の門を叩いた。「漢方には終わりがない。学ぶことは無限大やで」。以来二十二年(平成十五年六月十七日時点)、漢方に恋した男は、月一回の師との逢瀬を未だ待ち侘びる。

余以徳斉二百三十年(平成十五年六月十七日時点)の歴史の中で、激変に塗れた昭和の半ば。店の生き残りを賭け、漢方を追いやるしかなかった空白の時間は、英樹さんの誕生で埋め合わされた。

「ご立派な跡取りで」と水を向けたら「はい。日本一の孝行者(もん)ですわ」と、トミエさんがにっこりと母の顔を覗かせた。

「薬剤師が患者と向き合わず、処方薬を売るだけでは・・・」。別れ際そう呟いた平成の薬師の言葉に、妙に心が揺さぶられたものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 52」

今日の「天職人」は、岐阜市柳ケ瀬の「眼鏡士」。

何度眼鏡を新調しても 老いた父はその都度失くし    古びた昔のロイドメガネ 箪笥の隅から取り出した    父の形見を片付けながら ロイドのケースに目を止めた  古びた紙片に「ご苦労様」と 在りし日 母の面影筆運び

岐阜市柳ケ瀬の賞月堂、三代目木方(きかた)清一郎さんを訪ねた。

「昔は印判屋(いんばんや)が片手間に、舶来品の眼鏡を扱っとったんやて」。清一郎さんは背筋をピーンと伸ばし、柔らかな物腰で語り出した。

明治7(1874)年生まれの初代、千代五郎は十一歳で印判屋に奉公に上がり、明治26(1893)年に賞月堂を創業。

清一郎さんは大正14(1925)年に誕生。名古屋工業専門学校(現、名古屋工業大学)電気工学部へと進学。しかし日増しに戦況が悪化する中、昭和20(1945)年1月に出征。

敗戦後無事復員し学校に戻ると、無残な学び舎の残骸を目にした。「いつから授業が再開出来るかわからん。もう校舎もあれへんで、あんたもう卒業だわ」。そう言われ藁半紙の卒業証書を受け取った。授業を受けたのは、たったの一年足らず。物も人も何もかもが不足していた。とは言え、例え藁半紙とは言えども、曲がりなりにも工業専門学校の、電気工学部の卒業証書には違いない。さっそく技術者不足に喘ぐ企業が、全く技術の無い清一郎さんに、一月二百二十円の高給を提示した。「ちょうど家も空襲で焼かれ、そんなに貰えるんやったら勤めに行けといわれてなぁ」。

昭和23(1948)年、焼け跡から復興した賞月堂に戻り、妻を迎え家業を継いだ。「昭和30年代は一番忙しかったもんやて。特に花火と盆暮れは。番号札配るほどやったわ」。高度経済成長と歩調を合わせ、店も拡大していった。「戦前はもっぱらロイドメガネ。戦後はマッカーサーのレイバンばっかやった」。しかしやがて時代は、大型専門店化へ。三世代続く老舗といえども、もはや安堵などしていられない。

写真は参考

清一郎さんはそんな危機感から、長男の大学卒業を待ち、英国留学へと送り出した。当時の日本では、まだ誰も取得していなかった、英国の国家資格であるオプトメトリスト(眼鏡士)の資格を取らせようと。「眼鏡をモノとして扱った時代は終わりました。眼鏡を必要とする人が網膜に感じる<自覚>と、検眼師が測定する客観的な数値による<他覚>とを組み合わせ、最適なレンズでどう視力を補うか。それが今求められています」。まるで学者のように、穏やかな口調で語る四代目の言葉に、清一郎さんは黙って頷いた。

印判屋の眼鏡屋に始まった賞月堂は、日本に一握りのオプトメトリストを擁し、鮮明な視力回復に貢献すべく、百年以上を経た今も頑なに挑み続ける。

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