先週の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「残り物クッキング~春の彩和風ミモザパスタ」

皆様からも写真を見て、様々にご想像を膨らませて、コメントをいただきました。見事に正解に近い方もお見えになりビックリ!

確かに写真だけでは、その真実を伝えきれるものでは無いと、改めて感じたものです。ましてや食べる物となれば、視覚から得られる限られた情報では、過去の実体験の記憶の中から、その画像に近い物を検索し、それに近い食感や匂いの物を想像するのがやっとです。やっぱり食べ物は、五感をフルに使って感じなければ、その真実は確かめられないものかも知れませんね。

そこで前回の「残り物クッキングクイズ」の正解です。

正解は、「春の彩和風ミモザパスタ」でした。

実は保存庫の片隅にあった、賞味期限切れの「アサリの時雨煮」真空パック詰めを何とかせねばと編みい出したる作品です。

作り方は簡単なものです。

まず固ゆでのゆで卵を2個作り、黄身と白身を分け、白身はざく切りにしておきます。

次に真空パック入りのアサリの時雨煮をそのまま湯煎します。

続いてフライパンでたっぷり目のバターを溶かし、茹で上げてよく水切りしたパスタと、ざく切りにした白身を加えて、軽くブラックペッパーを振り、醤油と酒少々で炒めて皿に盛り付けます。

そしてその上から、湯煎したアサリの時雨煮を添え、最後に卵の黄身をこしきで粉々にしながら振り掛け、山椒の葉を彩で添えれば完成。

黄身をこす、こしきなぁ~んて洒落たものなどありませんから、ぼくは味噌をこすステンレス製の網目を代用しました。また、山椒の葉は、スーパーで見掛け思わず購入してしまった、鉢植えのちっちゃな山椒の木を育てており、その新芽をちょいと摘まんだものです。

なかなかどうして、皆様からお寄せいただいたコメントの素材でも、パスタ代わりに使えるものがたぁ~くさんございました!ありがとうございました。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 63」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「箔押(はくおし)」。

納屋の古びたランドセル 最後の時間割のまま      埃に塗れた教科書広げ 遠くに翳むあの日と出逢う    ページの隅を埋め尽くす 小さな文字の落書きは     あの娘(こ)の名前の繰り返し 栞代わりに四葉の押し花 パパッ ゴハンデシュ 妻に抱かれた娘の声       四葉の願いが現実に あの娘の笑顔も大と小

名古屋市中川区の小柳商店、二代目箔押の小柳正勝さんを訪ねた。

写真は参考

久しぶりに、今生家族で共にいられることを、心底楽しんでいる一家と出逢った。輪廻転生、ソウルメイト。人間は何度も今生に於ける役柄を変え、生まれ変わるとする説が、最も身近に感じられた瞬間である。親が子を、子が親を他愛も無い事で殺める事件が相次ぐ中、命の重さを改めて感じた。「家は女房がええで。毎晩長女長男の四人、この仕事を終えて晩酌するのが一番の愉しみだぁさ」。正勝さんが煙草に火を点けた。一見、ジャズ界の重鎮、世界のナベサダを想わせる、ジーンズとTシャツの似合う還暦過ぎの職人だ。

元々初代は、段ボールの小箱製造工場として開業。「あんまり勉強が好きじゃなくってさ」。正勝さんは高校を出ると、父の工場の跡継ぎを決意。昭和35(1960)年、日米安保阻止を旗印に全学連の若者が、民主主義の存亡を懸け燃え尽きた年だった。しかしその後、国民の関心は政治から遠ざかり、物質的な豊かさに惹かれモーレツな時代へ。昭和41(1966)年、小柳商店も転換期を迎えた。手貼りの本金箔押ではなく、機械により転写する箔押。ホットスタンピングと言われる業態への転換だった。「機械を入れたものの、親父も私も箔押なんて初めて。注文受けてから、何度断ろうと思ったことか」。正勝さんはその年、同い年の恋女房和代さんを娶った。新婚生活が始まったばかりで、後戻りなど許されない。

1センチ四方に最大で30トンの圧力と熱を加え箔を転写する。凸版の受け軸を手作りで工夫し、難易度の高い箔押を続けた。

写真は参考

昭和44(1969)年には長女麻子さんが誕生。翌年には、三代目を襲名する長男英司さんを授かった。

写真は参考

「女房との出逢いも、酒呑み仲間の紹介。仕事も酒の仲間にどんだけ助けられたやら」。正勝さんの言葉に、箔押機の前で黙々と手先を動かす麻子さんと英司さんが、見つめ合ってこっそり笑った。事務所の入り口で来客の相手をしていた恋女房も、これまた然り。「難しい注文に悩んで『どうしよう』と闇の中を彷徨い歩いとっても始まらん。原点に戻るが一番」。平成の箔押がつぶやいた。箔押一家四人の原点は、家族の絆そのものだった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 62」

今日の「天職人」は、三重県名張市の「寫眞(しゃしん)師」。

晴れのち曇り時々豪雨 子供還りに彷徨う父を      妻といつも天気に例えた せめて父への尊厳として    褪せたアルバム広げては 縁で船漕ぐ小さな背      モノクロ写真の母が笑む 時代繰る手も夢の中

三重県名張市の「写真の川地」、五代目の川地清広さんを訪ねた。

「爺さんはハイカラな人やった。出張撮影に出掛けるんも、馬ん乗って颯爽とな。昭和二十年代後半までは、医者や髪結い、それと寫眞師くらいや。馬なんて乗れたんわ」。清広さんはコーヒーカップを傾けた。

写真の川地は、明治10(1877)年に久居市出身の川地長七により創業。

日本の国産写真の夜明けは、安政4(1857)年に遡る。長崎の舎密(せいみ)試験所にて、オランダ人軍医ポンペと長崎出身の門下生上野彦馬、そして上野の先輩に当たる津藩士堀江鍬次郎が、手製の写真と湿版写真用感光乳剤、更に現像用のコロジオン液を見よう見真似で完成させた。堀江の影響で、津藩主藤堂亮猷(とうどうたかゆき)が、当時最高級だった英国製人物写真機を購入。後に津の藩校に舎密学の講師として上野が招かれた。その頃長七は産声を上げ、十代後半の若さで写真館を開業した。

写真は参考

余談ではあるが、後に上野は長崎へと戻り「上野撮影局」を開業し、勝海舟や坂本龍馬など、幕末を駆け抜けた志士たちの雄姿を、歴史の一コマとして撮り続けた。

「これがその頃の硝子湿版写真や」。

写真は参考

清広さんは桐の箱を開いた。硝子の大きさは、縦十センチ、横七センチほどの手札サイズ。当時は硝子板に塗布した感光乳剤が濡れている間に撮影。肖像写真の場合、三十分ほどは動いてならず、首や頭がぶれないように托頭器(たくとうき/ヘッドレスト)を使用した。不動の姿勢を強いられた被写体たちは、まるで写真機に魂を吸い取られたかの様にグッタリだったとか。

写真は参考

硝子湿板に淡く浮かぶ、明治初期の裕福そうな家族。しかし家族の視線はいずれもバラッバラ。「昔の女性は袖に手を隠し、寫眞機に魂を抜き取られんよう、眼を合わさんだらしい。今や普通の人らがカメラの前で、堂々と肌を露わにする時代やのに」。隣で六代目を継ぐ長女美貴さんもうなづいた。

「自然の光に敵うもんはない。その光の中で生きる人々を、六代に渡ってファインダー越しに覗いて来たんやでなぁ。時代を切り取るようにな。まぁ、寫眞機持ったまま死ねたら本望や」。清広さんが穏やかな笑顔を向けた。

スタジオの中庭で、過行く夏を惜しむように、蜩が再び鳴き始めた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「も一つおまけに、ウォーキング雑観」

ちょっといつもより時間が遅れて、ウォーキングで足を延ばして見ました。

すると港の交差点にこんなモニュメントが!

名付けると「怒りのサンセット!」ってぇのが浮かんできました。でも別に嫌なことがあった訳でも、心がささくれ立っていた訳でもありません。

妙に水面に移る西日と、干潮で海水が引いてしまった後に浮かび上がったイカリのシチュエーションに、新型コロナで海外渡航もままならなくなってしまった事への怒りがこみあげてしまって・・・。って、さりとてぼくなんぞ、どこにも海外渡航の予定なんぞありませんが(汗)

でもとても奇麗でした!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

ウォーキング雑観」

久しぶりに聚楽園の大仏様にお逢い出来ました。

これは、ブラリ電車旅の賜物。

子供の頃、両親と潮干狩りに向かう電車の中から、この大仏様を目にしてさぞやビックリしたものでした。

当時と変わらぬお姿に、心の中でそっと手を合わせました。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 61」

今日の「天職人」は、岐阜県川辺町の「猟師」。

隣のジッチャは大酒のみで いつも昔を自慢する     村一番の鉄砲名手と 湯呑み持つ手も震える癖に     田畑を荒らす大猪が 月夜の里を駆け回る        ジッチャは長筒獣に向けて 手先の震えもピタリと止んだ

岐阜県川辺町に狩人の渡辺富男さんを訪ねた。

「まぁかん!年取ると的がはずる(外れる)で!」。富男さんは今年の狩猟期間明け(平成十五年八月十九日時点)に銃を破棄すると言う。

十人兄弟の四番目に生まれ、尋常高等小学校を出るとすぐ、名古屋の材木屋へ奉公に上がった。

昭和19(1944)年戦火拡大の最中、たった一枚の赤紙で否応なく出征。何の恨みも無い人間に銃口を向け、己の命を守るがために引金を弾き続けた。戦場では、殺すか殺されるかの二つに一つ。生死を分かつ緊張の呪縛は、玉音放送によりやっと解き放たれた。

復員後郷里に戻り、馬車曳きで農家の大家族を支え、昭和23(1948)年、狩猟免許を取得。

「一発でええ。十七貫目(約六十四キロ)くらいの猪やったら」。当時は、一丸弾のSKB(日本製の猟銃)が主流だった。その同じ年、ウズベキスタン抑留から復員した長兄が他界。妻と子二人を遺して。富男さんは周りの薦めもあり、兄嫁と所帯を持った。それが家族を守ろうとする、昭和元年生まれの頑なな男の姿だった。

「権現山の猟場で、二十五年ほど前までは、ようけ大物仕留めたもんやて。これまでで一番は、四十貫目(約百五十キロ)の大猪やった。ほんでも紀州犬の向こうっ気の強い花子が前足噛まれてまって。そんでも五連発のブローニングの散弾一発分、弾代の二百円が牡丹鍋やで安いもんやて」。現在の狩猟期間は、十一月十五日から二月十五日までのわずか三ヵ月。「まあ狩人だけじゃ喰えんて。それに猟場も年々失われる一方やで」。

昭和23年頃は、川辺町だけで百人を下ら、なかった狩人も、今は趣味のハンターが二十人を切る程度となった。森が狭められ、獣たちの生息域も狭められたせいだ。時の移ろいは、一発(数丸から十数丸)で広範囲を射止める散弾の世へ。

昔の一丸弾時代は、獣に対する木守りの精神が受け継がれていたのだろう。森に暮らす獣たちの明日までも、根こそぎ奪い去るのではなく、彼らの犠牲を最小限に抑えるための。

富男さんは銃を返納した足で、真っ先に鳥獣慰霊碑へ向かい、線香と花を手向けた。

「君だけにMorning」

唐突ですが、ぼくは朝が好きです。昼間よりも夜よりも。

しかも海辺とか山裾の高原などで迎える、誰にも穢されていないような、無垢な朝がとても好きです。

朝焼けに染まった東の空を眺めていると、何だかとっても素敵な事が起きるような気がして、ついついワクワクして心が弾んでしまいます。

人にはそれぞれで、朝型の方も見えれば、夜型の方だってお見えになります。これをお読みの貴方は、どちらでしょうか?

ぼくはどちらかと言えば、朝型の部類に属すると思います。子供の頃から今でも、朝早いのは一向に苦になりませんが、夜っぴて原稿を書いたり、曲を作ったりといった事は、まずもって出来ません。

それよりも心地よく酒を愉しむと、後は勝手に睡魔が手招きをしてくれますから、もうベッドに潜り込んで高鼾です。「まっ、後は明日やればいいや」ってなもんで。

ところが朝はどんなに早くても、ピシッと起きれちゃうから不思議です。朝が弱い方には、申し訳ない限りですが・・・。

今日お聴きいただく「君だけにMorning」は、やはりぼくがまだ22~3歳の頃の作品だったと記憶しています。この曲もセンチのアレンジによる作品と、ヤマハのスタジオミュージシャンによるアレンジ作品3種類があり、それぞれにお聴きいただければ幸です。

まずはぼくの拙いギターの弾き語りで「君だけにMorning」をお聴きください。

「君だけにMorning 」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

 君だけにMorning 目覚めた朝に弾ける あどけない笑顔に 口付けを贈るよ

 君だけにMorning やわらかい陽射しを 独り占めして君は 輝いている

ざわめく街を抜け出して 二人で夜を駆け抜ける

海沿いをただひたすらに 朝焼けが見たいから

君への愛を語るには 波打つ調べ聞きながら

朝焼けのライトを浴びて 砂浜のステージで

 君だけにMorning 目覚めた朝に弾ける あどけない笑顔に 口付けを贈るよ

 君だけにMorning やわらかい陽射しを 独り占めして君は 輝いている

透き通る風を感じて 裸足で駆け出す君の

セピア色に輝く肌 眩しいほど素敵だよ

 君だけにMorning 目覚めた朝に弾ける あどけない笑顔に 口付けを贈るよ

 君だけにMorning やわらかい陽射しを 独り占めして君は 輝いている

セピア色に輝く肌 眩しいほど素敵だよ

君だけにMorning Good Morning I Love You

君だけにMorning Good Morning I Love You

若い頃は朝陽を無限大に感じられていたのに、「あとどれだけ朝陽を、拝めるだろうとそんな数を数えるような人生も晩年。だからこそ、毎日毎日当たり前のように昇ってくれる朝陽を、それがあたかも当たり前のことなどとは決して思わず、感謝の心で拝めるようになって来ていることに、はたと気付いております。

続いては、深夜放送でもお聴きいただいておりました、ヤマハのスタジオミュージシャン版のアレンジによる「君だけにMorning」をお聴きいただきましょう。

そして薄れゆく記憶を手繰り寄せつつ、古びたカセットテープから、センチメンタル・シティー・ロマンス版のLive音源の「君だけにMorning」を発見しました。

こちらもぜひ、お聴き比べください。

そして何と何と、ヤマハのスタジオミュージシャンとデモ・レコーディングする前の、パイロット版のような別のアレンジの「君だけにMorning」も古びたカセットにありましたので、こちらもお聴き比べいただけたらと思います。

アレンジ一つで、同じ曲であっても、随分雰囲気が変わるものです。懐かしい限りです。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「野イチゴ?蛇イチゴ?」。ぼくの小学生の頃の通学路は、田んぼの畦道のような、舗装もされていない凸凹道の細い農道でした。だからこの頃になると、農道の両脇にもレンゲ草にタンポポ、シロツメクサなどが芽吹き、春の景色を彩ってくれたものです。レンゲは花びらを取って蜜を吸ったり、女の子たちはシロツメクサの花冠作りに夢中だったり。そんな中、毎年腕白坊主どもの間で話題になったのが、「野イチゴって蛇イチゴ?」「食べられるんだろうか?」と。さすがに小心者のぼくは、「蛇イチゴ」って名前に怖気づいて、食べたことはありませんでした。でも調べて見ると、とても美味しいものでは無いものの、食べられなくは無いそうですねぇ。それに「蛇イチゴ」と言う名からして、毒でもありそうな気がしますが、これまた全く無毒だとか。「蛇イチゴ」の由来は、どうやら湿った草地や畦道など、如何にもヘビが出て来そうな場所に生えるからとか、蛇イチゴを食べにくる小動物を、蛇が狙いにやって来るから、などとも言われているようですねぇ。皆様は、って女子にはそんなご経験はきっと無い事でしょうが、年季の入ったかつての腕白坊主の方は、召し上がったことがあるやも?

今回はそんな、『野イチゴ?蛇イチゴ?』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

今回の「残り物クッキング」は、一先ず写真をご覧いただき、「なんやろう?」とご想像を巡らして頂く、「残り物クッキングクイズ」とさせていただきます。


今回の「残り物クッキング」は、こちらです!

さて、お分かりになりますでしょうか?

正解は、近日中にアップの予定です!実はこのクイズ。苦肉の策でして、よんどころない事情で原稿が間に合わなかったのです(汗)

でもたまにゃあ、こんな趣向もいいかも知れません!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 60」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「蒟蒻職人」。

母の煮しめが恋しくて 市場であれこれ品定め      牛蒡人参椎茸と プルプルグニャリ平蒟蒻        色も香も瓜二つ どんなもんよと味見れば        何か一味足らぬのは 母の慈愛の一匙(さじ)か

愛知県岡崎市の池田屋、四代目蒟蒻職人の長坂信一(のぶいち)さんを訪ねた。

「平蒟蒻は手で千切り取って、鷹の爪入れてから八丁味噌でコッテコテになるまでイビル(煎る)じゃんねぇ。そうすると味がよう染みて一番美味いだ」。信一さんが身を乗り出した。

池田屋は明治15(1882)年の創業。初代は跡取りに恵まれず、大門(だいもん)の遠縁から婿を得た。しかし三代目も跡継ぎを得られず、池田屋の往く末に一抹の不安が。

信一さんは池田屋二代目を送り出した大門の家に生まれ、農業一筋に休む間も惜しんで働き詰める父の背を見て育った。そして岡崎北高へと進学。背広に革靴姿の銀行員に憧れたと言う。同じ学び舎には、同い年であった池田屋三代目の愛娘、久子さんも通っていた。まさかその後の人生を共に歩む伴侶になろうとは、努々(ゆめゆめ)思いもしなかった。「あの頃は色気も出始め、アレとすれ違っても、眼もよう合わさんかっただぁ」。

それから間もなく池田屋の二代目から、婿入り話を持ち掛けられた。「『米糠一升あったら養子に行くな(「小糠三合あるならば入り婿すな」の変形。男はわずかでも財産があるなら、他家へ入り婿せず、独立して一家を構えよ。男は自立の心構えを持つべきであることのたとえ。また、入り婿の苦労の多いことのたとえ)』って言われとった時代やったで、やっぱりそりゃあ躊躇っただ」。しかし隔世遺伝の成せる業か。二代目同様大門の家から、久子さんの美貌に惹かれ婿入りを果たすことに。背広と革靴は敢え無く白衣に取って代わった。

蒟蒻作りは早朝から、蒟蒻芋を蒸しては摩り下ろす作業に始まる。そして水を加えて凝固剤を入れ、バタ練り(バタンバタンと音を立てながら機械で芋を練る)を繰り返し、型に流して茹で上げる。午前中に仕込みを終え、午後からは配達に追われた。「昔はよう儲かった」。昭和29(1954)年当時、高卒の初任給は三~四千円。しかし信一さんのポケットには、常時一万円ほどが捻じ込まれていたそうだ。「伝票なんてあれせんし、小遣いには不自由せんかっただぁ。でも年がら年中、山葵下ろしみたいな荒れた手しとったで、他所の女の手なんてよう握らんかったじゃん」。昔は石灰を使う水仕事のため、酷い手荒れに悩まされたとか。

「群馬県下仁田の種芋を取り寄せ、作手村で有機栽培した無消毒の蒟蒻芋を使用し、離水せぬよう芋を多く使い硬めに仕上げます」。名大農学部出の五代目光司さんは、優し気な眼を輝かせた。

秋風に乗り天神様の祭囃子が聞こえると、蒟蒻作りも酣。伝統の蒟蒻作り一筋に、半世紀を共に生き抜いた老夫婦。金婚式ならぬ、金蒟蒻式まで後二年(平成十五年八月五日時点)。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 59」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「ラムネ職人」。

湯浴みの髪を束ね上げ 暖簾の奥から浴衣の君が     素顔ほんのり赤く染め 「待った?ゴメン」と上目がち  下駄がカランと音たてりゃ ぼくの心もイチコロン    夏の夜彩る打ち上げ花火 一花咲く度君の声       夜店のラムネ回し飲む 間接キッスに胸躍る

三重県伊勢市で戦前から続く五十鈴鉱泉(いすずこうせん)、二代目の濱口隆生さんを訪ねた。

「昔は、ラムネ瓶の飲み口が証紙で封印してあってな、皆物品税を払(はろ)とったんやさ」。隆生さんは昭和50年頃まで続いたと言う、証紙を差し出した。

初代の濱口九一(くいち)さんは、昭和5(1930)年の十八歳の年、長兄が出資してサイダー製造を開始。名古屋のサイダーメーカーに勤める長兄の肝煎りが、五十鈴鉱泉の礎を築いた。サイダーとラムネ。戦後復興と発展への道を突き進む、昭和の庶民にとって一本のラムネは、爽やかな喉越しとともに、生きる希望が湧き出すような、キラキラ光る小さな泡を吹き出した。

隆生さんは大学を出ると直ぐ、父の元でラムネ作りを学んだ。駄菓子屋に銭湯、昭和の高度経済成長期を支えた庶民の居場所には、必ずラムネの栓を抜く生活音がした。

しかし思いの外の速度で成長を極めたこの国からは、やがて庶民の居場所が蹴散らされ、町中を清涼飲料の自販機が埋め尽くした。飲み口の下が括れたエクボの玉止めを持つラムネ瓶は、無駄の多い形状が祟り自販機時代の波に取り残された。

「十年ほど前から、代々続いた鉱泉も皆、店たたんでもうて。ラムネ瓶も採算が取れやん言うて、十年前(平成十五年七月二十九日時点)から台湾製になったんさ。でもそれも去年までで終いや。ラムネの玉は真ん丸やないと、ガスが抜けてまうでなぁ。せやで玉だけ日本から真ん丸のを送っとったんやで、そりゃ高(たこ)つくわさ」。サイダーよりもガス圧の高いラムネならばこそ、瓶の中のガラス玉を押し上げ固定するからだ。

「子供の頃、家は友達の溜まり場みたいやったわ。朝昼晩と友達がやって来ては、ラムネを呑み放題。あれって俺の人気があったんとちごて、単にラムネ飲みたて集まっとったんやろか?それになぁ、父は九十超しても未だにラムネ飲みやしなぁ」。

百五十年ほど昔、英国に生まれ王侯貴族に愛飲されたラムネは、ペリーの黒船で日本に上陸。炭酸レモネードが訛ってラムネとか。まあ由来はともかく、昭和を必死に生き抜いた庶民の暑気払いには欠かせないものだった。

写真は参考

夕涼みの縁側、線香花火と蚊取り線香、瓶に触れるビー玉のちょっぴり涼し気な音色。記憶の片隅に追いやられた遠き時代は、今ほど便利じゃなかった。だが誰にも平等に、今よりもっと輝く明日が感じられた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。