4/07の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「きしめんのなぁ~んちゃってシーフード・フィットチーネ~ほうれん草のクリームソース添え」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

正解は、レンジでチンすればOKなマルチャンのきしめんを、フィットチーネに見立て、冷凍庫の使いかけで保存してありました、エビとイカに厚切りベーコン、そして湯がいたほうれん草をクリーム味に仕立てたのが、この「きしめんのなぁ~んちゃってシーフード・フィットチーネ~ほうれん草のクリームソース添え」です。

実はほうれん草をおひたし用に茹でた残りが、冷蔵庫に保存してありましたので、それをフードプロセッサーですりつぶしました。そして小鍋にすりつぶしたほうれん草と生クリーム、そしてコンソメと塩コショウに白ワインを加え軽く一煮立ちさせ、味を調えておきます。

厚切りベーコン、海老、イカと、おひたし用に湯がいてあったほうれん草の半分をバターソテーしておきます。

あとは、マルチャンのレンジでチンするだけのきしめんを加熱し、オリーブオイルを掛けて麺をほぐし皿に盛り付けます。

そしてバターソテーした具材を盛り付け、ほうれん草クリームソースを掛ければ完了。

きしめんのもっちりとした食感が、ほうれん草仕立てのクリームソースによく合い、バターソテーした具材ともベストマッチな一品となり、新緑の春が感じられるランチとなりました。

キリン一番搾りにも白ワインにもピッタリで、ついついランチタイムからグビグヒとやってしまいました。

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「天職一芸~あの日のPoem 74」

今日の「天職人」は、三重県鳥羽市の「海女眼鏡職人」。

磯笛響く石鏡(いじか)の浜に 海女舟揺れて鳥が鳴く   濡れた磯着で空見上げ 漁終え外す海女眼鏡        海女の眼鏡に映る景色は 陸(おか)では見れぬ竜宮城   白い磯着で禊して 海棲む神に無事祈る

三重県鳥羽市石鏡町の海女眼鏡職人、二代目の城山巳治夫(みちお)さんを訪ねた。

世界の海に認められた「海女眼鏡」。文字通り海女専用に開発され特許も取得した「城山式水中眼鏡」だ。「ここいら海女の本拠地みたいなもんやで。鳥羽の鉄工所に行っとった親父も、潜りが好きやってなぁ。二十五歳の時にゴムと真鍮に平面のガラス板を組み合わせて、発明したんがこれやさ」。巳治夫さんは、昔の氷枕を思わせる橙色のゴムに、金色の縁取りのある水中眼鏡を取り出した。

ちなみに昔の海女用水中眼鏡は、ニッケル製でレンズが丸く膨らみ、一人一人の海女の顔型に合わせると言う難儀な代物。その難点を改良し、巳治夫さんの父が試行錯誤の末に発明した。

毎日の重労働で、最盛期の海女は顔が細る。それを見越した微調整の機能と、海底から水面が見やすくする工夫も取り入れた。海女の本拠地ならではの細かな気配り。それが口伝となり、全国各地の海女から注文が殺到した。最盛期には年間千個も出荷。とは言え、全ての部品を手作りで組み立てるから大変だ。ガラスを丸く切り出し、枠用の真鍮が弧を描くように曲げて叩き出す。鼻の部分のゴムを削り、小物金具と紐ゴムを取り付ける。「設計図はじぇ~んぶ頭ん中や。木槌も手製やし、なんぼでも出来るわ」。

中には度付きの特製海女眼鏡の注文もあった。さらにはオーストラリアの木曜島やハワイからも注文が寄せられたとか。「そんでもなぁ、とにかく丈夫に出来とるで、海女さんらの方が早うに亡くなるんやさ」。巳治夫さんが冗談交じりに笑った。

巳治夫さんは四男坊として誕生。終戦間際には予科練を志願した。そして復員すると漁船の機関士を経て、父の跡を継いだ。

「なんや爺やん、ここやったんか」。五十年前、巳治夫さんに嫁いだ、現役海女の千代子さんがやって来た。半世紀の間、夫はコツコツと海女眼鏡を作り、妻は夫が作った眼鏡を着け海へと潜り、立派に三人の子を育て上げた。「もう今日び、海女になる人がおらんでなぁ」。夫の言葉に千代子さんもうなづいた。

「もう今し、作っても年間で二百個ほどや」。それでも海に身一つで命を張り、大自然の恵みを糧(かて)とする、逞しい素潜りの海女に愛され続ける城山式水中眼鏡。「まんだ材料はこんなに仕入れたるんやさ」。巳治夫さんは、真鍮の束を重そうに引き摺り出して笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 73」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「切花職人」。

生家の庭の片隅で 今年も忘れず咲く花は         床伏す母の目の保養 幼い娘と植えた秋桜         蕾の開花待ち侘びて 母は静かに旅立った         墓前に手向けた秋桜が 行く秋惜しみ揺れている

岐阜県大垣市で創業百年を越す、西田花店に勤める水野芳子さんを訪ねた。

「求人の貼り紙見てからもう三十二年(平成十五年十一月二十九日時点)。花の勉強からお勝手仕事に花嫁修業まで教わり、おまけにここからお嫁に出してもらって」。芳子さんは感慨深げに語りだした。

芳子さんは昭和27(1952)年、北海道の十勝平野の農家に生まれた。「母は花が大好きで、家の周りは四季折々の花でいっぱい」。

しかし小学五年生の年、大好きな花に囲まれ母が他界。幼い弟妹の面倒を見ながら、父と農作業に明け暮れた。そして北海道生まれの母が亡くなり、父の故郷であった岐阜県養老町へと移住。十八歳になった芳子さんは、大垣市の紡績会社に勤め家計を支えた。「でも毎日同じ仕事の繰り返しばかり。息が詰まっちゃって」。広大な北の大地の大らかさが恋しく感じられた。

翌年春、店先にあった求人の貼り紙に、買い物帰りの足が止まった。そのまま西田花店へ入社。住み込み生活が始まった。「これで毎日、大好きな花に囲まれる」と意気込んだものの、一年間は先代のお婆ちゃんに付き、お勝手仕事と花嫁修業の手習いばかり。二度目の春が巡って来ると、大好きな花が彩を添え芳子さんを迎えた。

花市場から荷が到着すると、余分な葉や棘を取り、水揚げや湯揚げで花に新たな命を与える。牡丹などの特殊な花は、根元を火で炙り真っ黒に焼いてから冷水に。一度は摘み取られた命が、切花職人の手により見事に蘇る。

昭和53年、長野県出身のご主人勝さんと結婚。先代のお婆ちゃんは、まるで我が子の晴れ姿でも見るような想いで、白無垢に打掛姿の芳子さんを送り出した。「滝のような、三段組のキャスケードブーケも自分で作って」。花屋で嫁入り支度を調え、手製のブーケを携える。花嫁を「花の嫁」と呼ぶに相応しい門出であった。

写真は参考

しかし中々子宝に恵まれず、七年目にしてやっと一人息子を授かった。「家族の縁が薄いのかなあ?でもその分、この店の人たちが家族みたいに温かくて」。忙し気に立ち働く同僚を、芳子さんは見つめた。

「福寿草が好き。だって一生懸命に咲いてるでしょ」。まるで愛しい我が子の様に、切花に新たな命を授ける切花職人。

店先の花に癒された三十二年前。まるであの日の花の心に、報いるかのようだ。

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「Friday Walking きまぐれ Shot!~もしや貴人がお忍びで?鄙びた酒場がご本陣?」

新型コロナの影響に伴う緊急事態宣言下で、夜の居酒屋などには、休業の貼り紙が見かけられました。

そんな中、締め切ったシャッターの前に、こんな歓迎看板が!!!

「水戸黄門ご一行様」に「徳川家ご一行様」、そして「尾張宗春ご一行様」とあるじゃないですか!

尾張宗春とは、おそらく尾張徳川家第七代当主の徳川宗春公の事でしょうが。

こんな貴人方がこの小さな居酒屋で鉢合わせとは・・・。これまた如何に!

しかも水戸黄門様である徳川光圀公の世は、江戸時代前期のこと。徳川宗春公の世は、江戸時代中期であり、仮にこの店が掲げる歓迎看板が事実であるとすれば、ここはこの世ではないあの世かと(汗)

それに徳川家ご一行様とありますが、徳川を名乗る親藩まで含めると、大変な人数であったことでしょうから、これまた無理が・・・。

なんとも理解不能に陥りましたぁ・・・。

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「天職一芸~あの日のPoem 72」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「寄席芸人」。

小さな君が笑うたび どれほど勇気を得たことか      客もまばらな寄席に立つ 儚き浮き草寄席芸人       「紹介したい人がいる」 年頃になった君が言う      出囃子の音に舞台に上がりゃ 花道脇に二人連れ      「初めましてお義父さん」 楽屋でそのまま嫁入り話    今じゃ孫が笑うたび 心でテンツク寄席囃子

名古屋市中区の寄席芸人、伊勢元気(本名/南端繁希・みなみばたしげき)さんを訪ねた。

「今日も昼まで、ビル掃除のバイトしてきましてなぁ」。元気さんが苦笑い。

元気さんは芸名通り、三重県伊勢市で漁師の長男として誕生。高校卒業後、県内の会社に就職。昼休みの食堂で、テレビに目が釘付けとなった。同僚たちはコント55号(萩本欽一さん、坂上二郎さん)に夢中。「初めて欽チャン見て『こんなん俺も出来る!』って。それが間違いの始まりや」。

欽チャンへの弟子入りを目指し上京。所属事務所で座り込んだ。「ハトバス乗ったら国へ帰れ。コント目指すならまずは芝居だ」と言われ、その足で大阪へ。寿司屋に住み込み吉本新喜劇の団員募集に応募。研究生としてコッテコテの新喜劇を学んだ。そして「東京で一旗揚げたい」と、二十五歳で再び上京。浅草のストリップ劇場やキャバレー廻りの日々。「だって女の裸もただやしな」。吉本の後輩と結成した「天突天(てんつくてん)のコンビが人気を呼び、大手芸能プロに所属。和田アキコ主演の映画「お姐(ねえ)ちゃんおてやわらかに」に出演。次から次へと仕事も舞い込んだ。「金も仕事もあってすっかり有頂天」。ついに芸能プロの社長から「もう少し勉強しようか」と遠回しな解雇通達。

二十九歳で名古屋に戻り、大須演芸場で「劇団Now」を旗揚げ。そして翌年、劇団員を妻に迎えた。一男一女に恵まれたものの、鳴かず飛ばず。家族を引き連れ伊勢の実家に戻り、アサリ漁で生活を支えた。

子供も成長しゆとりも出ると、テレビの芸人が目に付いた。「こいつら、違う」。家族を年老いた母に託し、劇団伊勢を結成。再び大須の舞台に。とはいえ、所詮金にはならない。朝一から昼まで喫茶店。昼からは靴屋の販売員。店番の隙を見ては、演芸場の舞台に立ち、深夜まで居酒屋の調理場で、酔客相手に話芸で盛り上げた。

「やっと子供も一端になった途端、女房に逃げられてもうてなぁ」。窓の外、子供の手を引く幸せそうな家族に、元気さんは目を細めた。

「奥の席から笑いの波が押し寄せる。それをもう一度味わうまでは・・・」。男はしたたかに明日を見つめた。

寄せては返す波のような人生。「馬鹿にされても、舐められたくはない。せめて舞台の上ではなぁ」。初めて見せた厳しい眼差しで、寄席に命を張る小柄な芸人はつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 71」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢うどん職人」。

お伊勢詣りに賑わう参道 暖簾犇めく伊勢うどん      溜まり醤油の出汁の香が 詣でる前から鼻を惹く      帰りは何処に寄ろかしら 妻は今から気も漫ろ       今食べたいと子は愚図り 溜りませんわ伊勢うどん

三重県伊勢市で大正末期から続く、名代伊勢うどん、山口屋の二代目山口浩さんを訪ねた。

「晴れの日の食事やったんさ。正月とか祭りの日は、必ず伊勢うどん喰うて」。浩さんは前掛けを外して腰掛けた。

浩さんは陸軍航空部隊の地上勤務に就き、旧満州への出兵寸前に終戦を迎えた。戦中戦後の物資不足に、軒を連ねたうどん屋は、暖簾を畳み休業状態に。復員した浩さんは、先代と共に近所の配給粉を預かっては麺にして、伊勢うどんの灯を細々と守り続けた。

昭和25(1950)年の朝鮮特需を境に、翌年のサンフランシスコ講和条約による日本の「独立」回復へ。やっと平和を実感する日々が訪れた。

昭和29(1954)年、同級生の妹貞子さんと結ばれ、うどん作りに精を出した。「わしは、ようもてよったんさ」。傍らの貞子さんが鼻先で笑った。

山口屋の伊勢うどんは、自家製のタレと、一時間かけふっくらと茹で上げる太麺が命。溜り醤油に煮干しと鰹節を入れじっくり煮出し、創業以来受け継がれる秘伝の味を加え、麺と相性の良い芳醇なコクを醸し出す秘伝のタレが完成する。

「学生時代によう通うてくれよった人らが、ひょっこり立ち寄って『昔のまんまの味や。丼も一緒やし』言うて。今し皆偉ろうなった人ばっかやけどなぁ」と、貞子さん。

金毘羅さんの讃岐うどんと、お伊勢さんの伊勢うどん。いずれも似て非なる郷土が誇る素朴なうどんだ。麺も出汁も、食し方まで違えども、いずれの神々を詣でる参詣客には「まぁ遠路よう詣でてくれた。さあ帰りにうどんでもたべてき」と、参道に漂う溜り出汁の香が、神々の有難いお告げとなって袖を引く。

三代目を継ぐ敦史さんは、銀行に就職してからも、週末には店の手伝いに明け暮れた。入行から六年目を迎えた頃。異動の辞令が下りた。「配属先がこの店の三軒隣の支店やって・・・。家へ戻れってことかと・・・」。年老いて行く両親の姿に、跡取りの責任を感じ銀行を辞した。

そして伝統を守りつつ、現代人好みの新商品も考案。「『ごちゃ伊勢うどん』言いましてな、お揚げに焼き麩、蒲鉾の加薬に、肉と海老の天麩羅を添えた具沢山の代物ですんや」。どこからどう見ても、元バリバリの銀行員とは思えぬ若大将だ。

ふっくら茹った太麺に、磯の香漂う溜りダレ。溜まらずお代わり、もう一杯。

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「誰よりも誰よりも」

今日はまず、弾き語りやCD音源をお聴きいただく前に、今日の一曲「誰よりも誰よりも」の歌詞からお読みいただければ何よりです。

「誰よりも誰よりも」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

昨日の君まで 好きでいたいなんて 身勝手過ぎることなど 百も承知だけど

もう止まらない 君を愛し過ぎて 出逢う前の君さえも 独り占めにしたい

 ああ出来ることなら 君の記憶さえ  すべてぼく一色に 塗り替えてしまいたい

  昨日の君さえ やっぱり好きなんだ 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

昨日までの日々 流した涙の分 君は幸せになる 権利がきっとある

ごらん足跡(あしあと)を昨日が今日に向かって 真っ直ぐにこのぼくへ歩み続けている

 ああ今日を限りに 記憶を閉じて  すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか

  今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

 ああ今日を限りに 記憶を閉じて  すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか

  今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

  誰よりも誰よりも 君に愛されたい

この歌詞にあるように、どなたかの事が好きで好きで、どうしようもないほど、狂おしくてたまらなくなったと言う、そんなご経験はございませんでしょうか?

ぼくは誰にでも、誰かを好きになった瞬間、この歌詞にあるような想いを抱かれるものだと思っています。

ただそれがどれだけの大きさであるかは、人によってそれぞれ違いがあるとは想いますが・・・。

それとこの歌詞にあるような気持ちを、仮に一瞬でも心の何処かで想い描いたとしても、それを素直に相手にぶつけることもままならず、むしろ恋だとか愛だとかについて、自分は十分に酸いも辛いも知っているかのような、そんな真逆な素振りをしてしまう。きっとこんな方もおいでのことでしょう。

確かにこっばずかしかったり、柄じゃないとか、ついつい素直に心の内を打ち明けられず・・・。

それでも互いに心が十分に通じ合えれば、それに越したことはありませんが・・・。

如何なものでしょうかねぇ。

ぼくならば、ぶきっちょなもどかしい言葉を繋ぎ合わせてでも、どんなにこっぱずかしかったとしても、やっぱり胸の内を吐露したいものです。

それだけ言葉ってぇのは便利な一方で、煩雑でもどかしくって、何もかも洗いざらいに根こそぎ相手に伝えきるには・・・。ぼくの場合は、いささかいまだに語彙が不足しているかも知れません・・・。

でもきっと、お相手もこちらが必死に心の内を曝け出そうとしていれば、わずかな顔の表情の変化や目の動き一つが、言葉以上にモノを言ってくれるだろうと、そう信じています。

それではまず拙いぼくの弾き語りで「誰よりも誰よりも」をお聴きください。

続いては、CDに収録されている「誰よりも誰よりも」と、お聴き比べいただければ幸です。

★4月8日の明日は、噛み噛みシンちゃんのお誕生日です。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めてのランドセル!」。ぼくが小学校に入学したのは、昭和39年の東京オリンピックの年でした。戦後復興の象徴と言われた東京五輪でしたが、今と比べたらまだまだ貧しい時代でした。ですから入学式のランドセルだって、兄弟や姉妹が沢山いる家の子供たちは、兄や姉のお下がりが普通でした。それは何もランドセルだけに限ったわけでは無く、洋服にしても文房具にしたって同様でした。ぼくは一人っ子だったため、何もかもが新品で友から散々に羨ましがられたものでした。しかし今にして思うと、何もかも新品で揃えなければならなかった両親の負担は、なまなかなものでは無かったことでしょう。しかしそれでも一応曲がりなりにも、何不自由なくそれらを用意してくれた両親に今更ながら感謝感謝です。とは言えまあ、いずれの備品や持ちモノも当然ながら「上」ではなく「並」でしたが!新型コロナの影響もあり、真新しいランドセルを重そうに背負った新一年生を見掛けませんが、懐かしさだけが込み上げてまいりました。

今回はそんな、『初めてのランドセル!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、麺が決め手です!

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 70」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「筆軸木管師(ふでじくもっかんし)」。

泥んこ顔のお転婆が 見違えるほど奇麗だ         打掛に身を包んで 姉ちゃんが三つ指を着いた       親父は冷酒を煽り 古びた筆を取り出した         「孫の名はこれで記せ お前の名付け筆だ」と       「娘はやがて巣立つものと 父さんは深い愛を注いだ    笑顔で送り出せぬ訳 分かっておやり」と母の声

愛知県豊橋市の鈴木木管製作所に、二代目筆軸木管師の鈴木欽一さんを訪ねた。

写真は参考

「一生毛皮は買ってやれんだろう。でもその代わりお前が寒くないよう、死ぬまで一緒に寝てやるだぁ」。何とも乱暴な台詞が、プロポーズだったと、欽一さんは妻の由紀子さんを盗み見た。

鈴木木管製作所は、「木管屋の神様」と讃えられた、初代清一が昭和10(1935)年に創業。紡績用糸巻きの芯を彫る技術を、木管の筆軸や筆鞘(ふでざや)に応用する、画期的な技術だった。だが日毎戦局は悪化。欽一さんが九歳の年、豊川大空襲で一家は工場もろとも焼け出された。

写真は参考

終戦から九年。高校卒業と同時に、名古屋の轆轤師(ろくろし)の元で一年間奉公し、父の元へと戻り修業を始めた。

硫酸鉄を溶いた湯で、竹を小一時間煮立て茶に染める。次に電熱器で竹を炙り、曲がりを矯正。先代が発明した軸切機で両端を切断する。面を取り、溝を彫って木綿糸を巻く。そして木骨(きこつ)を貼り、周りを削って表面を塗装。仕上げは、木骨にリリアン糸の輪を通す。「筆の穂先の吸った湿気が、リリアンを伝って逃げるだぁ。竹は生きとるらぁ」。

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修業から十年を迎えた朝のこと。「今から岡山へ、お前の嫁さん貰いに行ってくるだ」。父が旅支度をしながらつぶやいた。

欽一さんの愛妻由紀子さんは、十六歳で郷里の岡山を離れ、豊橋の病院長宅で行儀見習いをしながら看護師を目指していた。

ひょんな出逢いが二人を紡いでいった。「あの頃はよう風邪ひいただぁ」。傍らで由紀子さんが咳払いを一つ。何のことはない。欽一さんは、とにかく由紀子さんに一目逢いたいばかり。風邪をひいただの腹が痛いだのと言っちゃあ、白衣の由紀子さんに注射を打ってもらいに、ひたすら病院通いの毎日。そんな二人の仲を知った父が、嫁取りへと旅立った。

鈴木家の寿ぎは、一男一女の誕生へと続いた。しかしその喜びも冷めやらぬ四年後。煙草の火の不始末から出火し、自宅と工場が全焼。煙草を一切口にしない欽一さんだったが、最後の最後まで自分の不始末だと押し通したと言う。

「筆軸なんて所詮黒子。筆師さんが穂先を埋めてくれんと物にならんらぁ」。欽一さんの言葉を、三代目を継ぐ美宏さんが引き取った。「でも軸がなければ、筆にはなりません。私も父の様に、筆師さんの信頼を早く得んと!」。

写真は参考

日本一の六甲矢竹(ろっこうやだけ)は、陽の当たらぬ深い谷で、遥かな天空を睨み真っ直ぐに育つ。まるで筆軸木管師父子の頑なな生き様のように。

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「Monday Walking きまぐれ Shot!~これって盆栽ならぬ、Terrace Bonsai?」

一見、「わー可愛らしい、ミニチュアガーデン」と思われましょうが、ところがドッコイ!よく見れば、暖炉の薪置き場の上に設えられている、ミニチュアのガーデンテラスのようです。

盆栽の域を遥かに超えた大きさで、開放的な窓枠よりも大きなものです。

ちょっと小洒落た裏通りにある、隠れ家風のカジュアルバーのようでした。

そう言えば、そうそう。

30年ほど前に初めてカカポの仕事でニュージーランドに行った時、友人のアラン・ソーンダース氏が笑い話として教えてくれました。

今から35年ほど前までは、ニュージーランドのカジュアルバーはどここかしこも、午後8時の閉店だったそうで、午後8時になると店の店主が客を追い帰さんとばかりに、床にホースで所かまわず水を撒き散らして掃除を始めたとか。

とても当時のニュージーランドは、今よりももっともっと健全だった証ですよね。

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