今日はまず、弾き語りやCD音源をお聴きいただく前に、今日の一曲「誰よりも誰よりも」の歌詞からお読みいただければ何よりです。
「誰よりも誰よりも」
詩・曲・唄/オカダ ミノル
昨日の君まで 好きでいたいなんて 身勝手過ぎることなど 百も承知だけど
もう止まらない 君を愛し過ぎて 出逢う前の君さえも 独り占めにしたい
ああ出来ることなら 君の記憶さえ すべてぼく一色に 塗り替えてしまいたい
昨日の君さえ やっぱり好きなんだ 誰よりも誰よりも 君に愛されたい
昨日までの日々 流した涙の分 君は幸せになる 権利がきっとある
ごらん足跡(あしあと)を昨日が今日に向かって 真っ直ぐにこのぼくへ歩み続けている
ああ今日を限りに 記憶を閉じて すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか
今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい
ああ今日を限りに 記憶を閉じて すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか
今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい
誰よりも誰よりも 君に愛されたい
この歌詞にあるように、どなたかの事が好きで好きで、どうしようもないほど、狂おしくてたまらなくなったと言う、そんなご経験はございませんでしょうか?
ぼくは誰にでも、誰かを好きになった瞬間、この歌詞にあるような想いを抱かれるものだと思っています。
ただそれがどれだけの大きさであるかは、人によってそれぞれ違いがあるとは想いますが・・・。
それとこの歌詞にあるような気持ちを、仮に一瞬でも心の何処かで想い描いたとしても、それを素直に相手にぶつけることもままならず、むしろ恋だとか愛だとかについて、自分は十分に酸いも辛いも知っているかのような、そんな真逆な素振りをしてしまう。きっとこんな方もおいでのことでしょう。
確かにこっばずかしかったり、柄じゃないとか、ついつい素直に心の内を打ち明けられず・・・。
それでも互いに心が十分に通じ合えれば、それに越したことはありませんが・・・。
如何なものでしょうかねぇ。
ぼくならば、ぶきっちょなもどかしい言葉を繋ぎ合わせてでも、どんなにこっぱずかしかったとしても、やっぱり胸の内を吐露したいものです。
それだけ言葉ってぇのは便利な一方で、煩雑でもどかしくって、何もかも洗いざらいに根こそぎ相手に伝えきるには・・・。ぼくの場合は、いささかいまだに語彙が不足しているかも知れません・・・。
でもきっと、お相手もこちらが必死に心の内を曝け出そうとしていれば、わずかな顔の表情の変化や目の動き一つが、言葉以上にモノを言ってくれるだろうと、そう信じています。
それではまず拙いぼくの弾き語りで「誰よりも誰よりも」をお聴きください。
続いては、CDに収録されている「誰よりも誰よりも」と、お聴き比べいただければ幸です。
★4月8日の明日は、噛み噛みシンちゃんのお誕生日です。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。
★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)
今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めてのランドセル!」。ぼくが小学校に入学したのは、昭和39年の東京オリンピックの年でした。戦後復興の象徴と言われた東京五輪でしたが、今と比べたらまだまだ貧しい時代でした。ですから入学式のランドセルだって、兄弟や姉妹が沢山いる家の子供たちは、兄や姉のお下がりが普通でした。それは何もランドセルだけに限ったわけでは無く、洋服にしても文房具にしたって同様でした。ぼくは一人っ子だったため、何もかもが新品で友から散々に羨ましがられたものでした。しかし今にして思うと、何もかも新品で揃えなければならなかった両親の負担は、なまなかなものでは無かったことでしょう。しかしそれでも一応曲がりなりにも、何不自由なくそれらを用意してくれた両親に今更ながら感謝感謝です。とは言えまあ、いずれの備品や持ちモノも当然ながら「上」ではなく「並」でしたが!新型コロナの影響もあり、真新しいランドセルを重そうに背負った新一年生を見掛けませんが、懐かしさだけが込み上げてまいりました。
今回はそんな、『初めてのランドセル!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。
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