4/14の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「鯉魚門(レイユームン)の石斑(セッパン)ならぬ!なぁ~んちゃって鯉魚門風メカジキの炒め煮」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

昨年7月の夏休み。まだ民主化デモも、新型コロナウイルス騒動も無かった、平穏な香港に旅した折。かつて友人のリーさんご夫婦に、よく連れて行ってもらった鯉魚門を訪ねました。

こんな小さな港町に魚屋さんとレストランが犇めいています。

しかしその折は、リーさんご夫婦とお目に掛れず、従って広東語もさっぱりわからぬまま、魚屋の水槽を覗き込んでは、身振り手振りで石斑と思しき魚を購入。

とにかく新鮮です。

そして昔リーさんご夫婦とお邪魔したレストランに魚介類を持ち込み、これまた身振り手振りでぼくが希望する調理法を伝え、何とかかんとか熱望した石斑を食べることが出来ました。

夢にまで見た「石斑」
ご飯の上にのせていただくのが醍醐味

先日無性に石斑が食べたくなったものの、折からの外出自粛要請もあり、冷凍庫内を見渡してみました。

すると特売の日に買い込んで、冷凍してあったメカジキを発見。しかしハタ科の石斑のようにちょっとネットリとした脂分の少ないメカジキですから、蒸した石斑を炒め煮する手法では、メカジキの身が締まってパッサパサになっては身も蓋もないと思い、苦肉の策で編みい出しましたる作品がこの、「鯉魚門の石斑ならぬ!なぁ~んちゃって鯉魚門風メカジキの炒め煮」です。

作り方は超簡単!フライパンでサラダ油を熱し、ニンニクの微塵切りと千切りショウガで香りを立て、解凍したメカジキを焼きながら、手早く醤油、味醂、紹興酒でちょっぴり濃いめに味を調え、最後にごま油を加えて炒め煮、皿に盛り付けます。

その上から白髪ねぎと千切りショウガ、そしてパクチーの代わりに三つ葉を載せ、炒め煮た煮汁を上からたっぷりと振りかければ完了。

もし蒸したハタを使っていれば、ハタ自体の脂分が解け出ますから、ごま油は必要ありません。

まあ確かに、魚の種類が違いましたから、本場の石斑とは似て非なるものとなりましたが、味付けは非常によく似て出来上がったと思います。

ぼくは丼鉢のご飯の上に乗せ、よく冷えたキリン一番搾りでぷっはぁといただきました!

「天職一芸~あの日のPoem 81」

今日の「天職人」は、名古屋市瑞穂区の「三味線皮張師」。

鄙びた家並三味の音響く 名残伝える花街通り       宵の座敷が掛かるまで 端唄にのせる撥捌き        宵に花咲く花街あたり 粋な芸妓がシャナリと歩み     白い項も艶やかに 照れて隠れる朧月

名古屋市瑞穂区の浅田屋三味線店、六代目皮張師の井坂繁夫さんを訪ねた。

「母は名妓連(めいぎれん)の芸妓で、笛専門。叔母もやっぱり芸妓で、小さい頃から三味線や笛の音を子守唄代わりに育ちましてね」。繁夫さんは渦高く積み上げられた、三味線の胴を背に笑った。

江戸末期。浅田屋三味線店は、加藤仙右衛門改め常吉が創業。二代目が浅田屋で修業し、暖簾分けで屋号を浅田屋に。しかし三代目の早逝で、年端も行かぬ四代目は、叔父の故山田隆利に五代目を譲った。

繁夫さんは、隣で暮らす母の姉の夫であった五代目を、父親代わりに育った。「高校を出て直ぐ、何のためらいもなく、親父の下で修業を始めてました」。

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三味線は、「棹師」「胴師」「張師」による分業制。張替えの場合、胴が割れぬよう紐を掛け、破れた皮を剥ぎ糊を落とす。次いで、弾き手の特徴を思い描きながら、皮を吟味し水に浸した布巾で数分湿らせ、肉眼では見えない薄皮をニベと呼ぶ紙で擦り落とす。そして寒梅と呼ぶ糊粉を胴に塗り、巨大な洗濯挟みを模した木栓(きせん)で張り伸ばす。さらに弾き手の好みの音を脳裏に浮かべ、木栓の上から紐を掛け、台座に木製の楔を打ち込み張り具合を補正する。

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さらに微妙な鳴り具合は、モジリと呼ばれる象牙の棒で、紐の締まりを調整。温風器の前に立てかけ、二時間前後乾燥させる。奏者がいつどこの舞台で、演目は何かまでを考慮し、その舞台に相応しい状態で鳴るよう乾燥具合を調えるのだ。「特に歌舞伎座は、乾燥がきついんですわ(平成十六年一月三十一日時点)」。

現在、文楽の太棹奏者は十五人。その皮張を引き受けられるのは、日本に唯一人、繁夫さんしかいない。

「演目と弦の高さを調整するコマを『二匁八分で』と、たったそれだけの注文」。まさに奏者と張師の信頼と、阿吽の呼吸だけが唯一の頼り。

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修業が始まってから十年を迎えようとしていたある日。文楽三味線の人間国宝、六代目鶴澤寛治師から電話が入った。「『これ、ぼくが張ったでしょう。若いから力一杯に張って、強弱がちょっと足りないねぇ。でも良く鳴るよ』って。それまでは親父が張ってましたから、でもその一言で自分の未熟さを知ったと同時に、自信もいただけて。粋な計らいでした」。

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今はそれぞれに、伝統を受け継いだ七代目の奏者と、六代目の張師が、日本の音曲を後世に伝える。

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「天職一芸~あの日のPoem 80」

今日の「天職人」は、三重県二見町の「酒素饅頭職人」。

縁に面した硝子窓 長閑小春日忍び込む          お炬燵(こた)の舟を肩で漕ぐ 老船頭の夫婦舟      幼い頃の楽しみは お炬燵で剥いた蜜柑の香        七輪炙る酒饅頭 若き日父母の笑い声

三重県二見町で大正2(1913)年創業の、旭家酒素饅頭三代目女将の晝河(ひるかわ)笑子さんを訪ねた。

磨き込まれた引き戸を開けると、ほんのりと酒の香が鼻先をくすぐる。「昭和も30(1955)年頃から大阪万博の頃まで、ここらあはよう賑わいましてな。気が付くと客が、広間に上がり込んどるほどやったんさ」。笑子さんが往来を眺めた。学校帰りのランドセル姿が、ふざけ合って屈託のない笑い声を上げながら通り過ぎて行く。

同町生まれの笑子さんは、十六歳も年上の三代目饅頭職人の久男さんの元へと、十八の娘盛りに嫁いで来た。「せやけど祝言は、戦時中やったでモンペ姿で嫁入やさ。当時は憲兵隊が目え光らせて五月蠅(うるそ)うてかなんで、見つからんよう夜遅うにわずかばかり親戚のもん呼んでな。それで固めの盃やったんやさ。何やまるでコソコソと悪い事でもしとるみたいで、味気のうてなぁ」。

当時は統制経済の影響で、小豆も砂糖も極端に不足し、何処も彼処も暖簾を下ろしていった。久男さんはわずかに背丈が足らず、徴兵検査に落ち銃後の守りとして国鉄に勤務。

「戦争も終わったで、先代が達者なうちに修業を積もう」と、昭和24(1949)年に国鉄を辞し、三代目を継ぐための修業が始まった。

まず何はともあれ、真夜中十一時頃から、酒素を一夜仕込みで寝かせ、翌早朝から蒸気が立ち込める中で饅頭を蒸し上げる。季節により酒素を寝かす時間も、蒸し加減も微妙に異なり、饅頭一つ一つに職人が命を吹き込む。「昔の人らは、お伊勢さんと二見の興玉さんでお詣りして、夫婦岩拝んでから、家の饅頭を買(こ)うて帰るんが愉しみやったんさ。この饅頭食べて大きいなっていかれた方は、今でもわざわざ立ち寄ってくれるほどやに」。

昔と何一つ変わらぬ手法で、大正の味をそのまま今に受け継ぐ。翌日には餡子を包む薄皮が固くなるのも、酒素饅頭ならではの特徴だとか。それこそ昔なら、七輪の上でさっと炙るだけで、何とも芳ばしい皮の焦げる匂いと、仄かな酒の香が立ち込める。

「『自分が旨いと思えんような饅頭は、絶対にお客さんに売ったらあかん』ゆうて、息子は毎日二~三個ずつ、『家の饅頭は日本一や』言うのが口癖なんさ」。笑子さんの笑い声に混じって、玄関口から「ハ、ハッ、ハクション!ああっ、誰ぞ噂しよったな」。四代目を継いだ大の餡子好き、智也さんのお帰りだ。笑子さんが息子を背にしてこっそり笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 79」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「桐箪笥職人」。

娘が生まれた祝いにと 庭先植えた桐の木は        泣いて笑って喧嘩した 想いの数だけ枝を張る       嫁入り話が決まった日 桐に礼述べ斧を振る        嫁入り箪笥に姿変え 娘の幸せ託す寂しさ

岐阜県関市の杉山タンス店、三代目桐箪笥職人の杉山弘さんを訪ねた。

「図面なんて頭ん中やで、どこにもあれせん。この検竿(けんざお)一本で、桐箪笥一棹(ひとさお)作っちまうんやで」。長めの胴縁(どうぶち)には、尺寸分の単位で三面に目盛りがビッシリと刻み込まれている。弘さんは使い込まれた検竿を繁々と眺めた。

杉山タンス店は、明治末期に弘さんの父が創業。「親父は最初、大阪で警官になったんや。でも『人に嫌われるで』いうて、直ぐに大工の見習いへ」。修業が身に付くと、これぞという箪笥を購入しては分解し、こっそり技術を盗み取って箪笥屋を開いた。「岐阜の箪笥は、作るのんも早いが、壊れるのんも早い。そこで親父は尾張の良さを取り入れたんや」。

やがて二代目を継ぐ長男と、二男坊の弘さんに恵まれた。しかし、そんなささやかな幸せを嘲笑うかのように、時代は戦争のうねりの中へと突き進んで行った。昭和18(1943)年、父が他界。そしてまるで後を追うように、二代目の兄がマリアナ諸島に散った。弘さんは悲しみに打ちひしがれる余裕も無いまま、各務原の陸軍航空工廠で戦闘機の整備に借り出された。

玉音放送と共に、貧しくも平安な日々が訪れ、父の一番弟子であった職人が箪笥屋を開業。弘さんはその職人の下で修業を積んだ。

そして若干二十三歳の若さで、父と兄の無念を晴らすべく、杉山タンス店を再興。それから五年、悦子さんを嫁に迎え二男一女を授かった。

一棹三年と言われる桐箪笥職人の多難な修業。砥粉(とのこ)と夜叉液(やしゃえき)で、独自の色合い出す最後の仕上げは、未だ弟子に明かすことのない秘伝の一つ。

「昔は娘が生まれると桐の木を植え、嫁入りの時に箪笥にして持たせたもんや。桐はええ木やて。金槌で叩いても元へ戻るし、ぶっつけた傷があっても蒸気吹きかけりゃあ元にもどるんやで」。弘さんは洗濯のために戻って来た、桐箪笥の引き戸を開けた。裏側には擦れた墨書で初代の銘が。「桐は水分の調節が上手く、衣類の湿度管理に最適。火事の時でも水を掛けてやれば、水を吸収してなかなか燃えません」と、四代目を継ぐ康弘さん。

初代が手塩にかけた戦前の桐箪笥に、往時を偲ばせる美しい柾目が蘇る。弘さんはまるで亡き父を偲ぶかのように、引き戸をそっと閉めた。

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「天職一芸~あの日のPoem 78」

今日の「天職人」は、愛知県田原市の「潜水夫」。

人は海から来たのだろうか                海の中に潜るたびそう感じてた              進化の記憶などあるはずも無い              なのに身体は何かを感じてる               母の胎内(おなか)で浮遊した記憶の欠片         遠くで優しい声がした至福の時              海の闇も不思議なほど怖くない              いつも母さんが側に居る様で

愛知県田原市赤羽根町の潜水夫、松本成広さんを訪ねた。

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「行って来る」。全身黒のドライスーツに身を包んだ男は、船上の息子にそう一言告げると、藍よりも深い海の闇へと吸い込まれていった。それが成広さんだ。

成広さんは、海から遠く隔たった京都の街中で、中学を出るまで過ごした。「岡山の叔父が、韓国産のサザエやアワビを輸入して、生簀で生かしとったんやけど、ようけえ桟橋の下とかにも落っこちとってな。それを素潜りで拾うのが、あの頃の生き甲斐やった」。

そして叔父から父親を説き伏せてもらい、十七歳の年に潜水会社に助手として入社。酸素ボンベの代わりに、潜水夫に空気を送るフーカーホースの介添えを続け、三ヵ月後には潜水免許を取得した。

それからは鳴門大橋の下部工事、対馬、長崎の大村湾、渥美半島と各地の海中を巡った。

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水深十メートル以内で一日八時間。五十メートルなら一日一時間の潜水時間となる。「海の中にはトイレがないでな。朝は水分控えとかんと、えらいこっちゃ」。

十九歳の年にフリーダイバーとして独立。翌年、岡山県出身の佐久美さんと結ばれ、三人の子に恵まれた。「まぁ、現地調達みたいなもん」。佐久美さんが照れ臭そうに笑った。

昭和59(1984)年から三年間、二十世紀最長となった瀬戸大橋建設では、橋桁の基礎となる海中六十八メートルでの下部工事にも携わった。「毎分十メートルずつしか浮上したらかんのやで、命懸けやわなぁ」。その頃から年々赤羽根町での仕事が増え、昭和63年頃には、年の内十カ月も赤羽に出張する有様に。一家は平成元年十二月に、岡山からの移住を決意した。

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「熊野灘の水深十五メートルんとこで、いっぺんフーカーホースが抜けてもうてなぁ。二十キロのウエイト外して緊急浮上したこともあったわ。それとか体長一.五メートルほどのハンマーシャークに遭遇したこともあったし」。成広さんは潮焼けた顔を綻ばせた。

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危険と背中合わせの仕事故、さぞや妻も心配であろうと水を向けた。すると「父も潜水夫だったんだけど、あんまり仕事の事はよう知らんし。最初の頃は、傘でも差して潜っとんやろと思ってたくらい」。佐久美さんが屈託なく笑った。「まぁ、空気の無い場所で仕事しとるでねぇ」。夫が苦笑い。

今は船上に次男が乗り込み、命綱であるフーカーホースを巧みに操る。海中から日本を支える、潜水夫の父を夢見て。

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「天職一芸~あの日のPoem 77」

今日の「天職人」は、三重県志摩町の「真珠養殖人」。

波間に揺れる月明かり 星と漂う沖の漁火         夜空と海の境界が 溶け出すほどに夜は更ける       月の雫を受け止めて アコヤは深い眠りについた      宇宙(そら)の欠片を身に宿す 至宝の光真珠貝

三重県志摩町で昭和29(1954)年から真珠養殖を営む城山勇さんを訪ねた。

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「アコヤ貝の貝柱は、生のまんま酢味噌で喰うのが一番やさ」。勇さんは筏の上に組まれた、作業小屋の中から身を乗り出した。臨時のお手伝いさん達の笑い声が、英虞湾を臨む入り江に響く。「ここらあのお手伝いさんらは、日当も大事やけど、一番のお目当ては貝柱のお土産やさ」。

勇さんは志摩町の水産高校(現、県立三重水産高校)を卒業後、半年間の陸軍生活を経て、終戦後郷里に復員。程なく三陸沖の遠洋漁業に従事し、カツオやマグロを追った。

昭和23(1948)年、妻ヤチ子さんと結ばれ三人の娘を授かった。「ここらあは、子どもが生まれるとオコゼを食べさす風習があってな。家も娘が生まれる度に、喰わしたもんやさ」。勇さんの養殖場のあるオコジ浦は、「奥地下」が訛ったとも、オコゼが沢山取れるからとも言われる。

「昭和27(1952)年頃になると、親戚のもんらあは、景気も上向いてきたし外貨も稼げるでゆうて、みな真珠養殖に乗り出しよってなぁ」。勇さんも親戚の家で真珠養殖を学び、二年後に独立開業した。「親父がセッセと貯め込んだ、なけなしの百万円が軍資金。不味いもん喰うて、着るもんも着やんと頑張ったもんやさ」。

真珠養殖はアコヤ貝の母貝に、ドブ貝やシロチョウ貝で作った核を埋め込む。そしてそれを沖に出し、十日に一度の割で引き揚げ、付着した汚物を取り除く。寒さも増した十二月の中旬、待ちに待った水揚げ期を迎える。

しかしあくまで大自然が相手。これまでに伊勢湾台風や、チリ地震の津波で、壊滅的な被害を被ったこともあった。また海水が汚染され、プランクトンが減ったり、貝柱が赤く変色する赤変病(せきへんびょう)が発生することも。「真珠の巻きが悪うなって、色が翳んで真珠が死ぬんやさ」。海中に石灰や改良剤を撒いて対策を講じても、「海は広いでなぁ」と苦笑い。「せやけど楽しいよ。玉が光輝いとると。女房に宝石を買(こ)うたったことは一度も無いけど。でも水揚げして一番出来のいい真珠は、毎年こっそりポケットん中へ仕舞い込んどんやで。まぁええやろ」。

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五十四年の歳月を連れ添い、真珠と共に歩んだ老夫婦。ならばいっそあと六年後。酢味噌和えの貝柱を肴に、二度目の真珠婚式を大真珠婚式と洒落込んで欲しいものだ。

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「TOKYO SILHOUETTE」

ぼくがまだ若かりし、22歳前後の頃だったでしょうか?

レコードデビューなんぞを夢見て、縁のあった東京の事務所に籍を置いていたことがありました。

当時のぼくは蒲田にあった友人の実家と、道路一本隔てた5.5畳一間のアパート暮らし。そこから毎日京浜東北線と山手線を乗り継いで、事務所のあった原宿まで通ったものでした。

そんな頃、名古屋のC局で水谷ミミさんが深夜番組を担当されており、ぼくも週に一度その番組に出させていただいておりました。

中でも「電話deデート」だったかのコーナーでは、スタジオのミミさんとぼく、そしてリスナーさんが電話越しに加わり、ショートショートのラジオドラマを演じるというものがありました。毎週ミミさんから、おおよそのドラマのお題をお聞きし、それをドラマ仕立ての台本に仕上げたものです。ところがそんな昔は、PCはおろか携帯メールもあろうはずもなく、すべて手書きです。ましてやまだまだFaxも一般には普及する前でしたから、リスナーさんに台本を電話で伝え、それをリスナーさんが筆記して、それをぶっつけ本番で演じるという、今考えたら恐ろしくなるほどの展開でもありました。

そのC局さんのラジオ生放送に出させていただいていた関係で、毎週東京駅から新幹線に乗り、名古屋へと通ったものでした。

そんな頃に出来たのが、この「TOKYO SILHOUETTE」でした。

今日はまず弾き語りで、「TOKYO SILHOUETTE」をお聴きください。

「TOKYO SILHOUETTE」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 見納めに軽く手を振るよ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE Good-by 君の東京City

君のこと忘れない 受話器越しに言い捨てたら

缶ビールポケットに 北へ行く汽車に乗る

 この広い街の中で 君だけが見えなかっただけさ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 見納めに軽く手を振るよ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE Good-by 君の東京City

君のこと忘れない 輝いた日々をありがとう

缶ビール飲み干して 甘い夢握り潰す

 君は今もこの俺の 心の街東京そのものさ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 窓越しに今は消えてしまえ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 少し君が気がかりさ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 見納めに軽く手を振るよ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE Good-by 君の東京City

続いては、ラジオの深夜放送でもよく流しておりました、センチとの「TOKYO SILHOUETTE」をお聴きください。

そしてこちらも深夜放送でよくお聞きいただきました、ヤマハスタジオミュージシャン版の「TOKYO SILHOUETTE」もお聴き比べいただければ何よりです。

そしてこちらは、昔のカセットテープから発掘した、一宮勤労会館でのセンチとのライブ音源から、「TOKYO SILHOUETTE」をお聴きください。

★4月18日は、高山の井坂十蔵さんのお誕生日です。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「フルーツ味の歯磨き粉!」。初めてイチゴ味とかの、チューブ入りの歯磨き粉、と言っても本当の粉ではなく、クリーム状の物を買ってもらったときは、さすがに嬉しかったものです。だって煙草好きだった父は、細長い缶に入った煙草吸い用の歯磨き粉「TABACCO」でしたから、この世にこんなお洒落な歯磨きがあるもんだと驚いたものです。友達の中には、チューブ入りのチョコレート代わりに、食べちゃう輩もおりましたねぇ。皆々様はどんな歯磨きでしたか?

今回はそんな、『フルーツ味の歯磨き粉!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.04.14「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、和風のようですが、ちょっと違った魚料理です。でも本物の現地の魚が手に入りませんので、代表品を利用してみました。

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 76」

今日の「天職人」は、岐阜県美並村の「竿師(さおし)」。

長良の流れ腰に受け 囮(おとり)の鮎に穂先をまかす   胴に伝わる微かな当り 釣り名人と郡上竿         霞垂れ込む川面から 幾重も伸びる釣り人の影       長尺竿を岩場にかざし 我に釣果の誉れあれ

岐阜県美並村の二代目竿師、福手福雄さんを訪ねた。

「ポン、ポン、ポン」。何とも小気味良い音が、竿の継ぎ手から響いた。「この音が郡上竿の命なんやて」。福雄さんは真鍮が巻かれた継ぎ手を差し出した。

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釣り好きの初代、俵次(ひょうじ)は昭和の初め、関東の釣り客が携えた組み立て式の竿に目を留めた。そして直ぐに見よう見真似で竿作りを開始。戦争の影が忍び寄る中、今のような真鍮(しんちゅう)は手に入らず、継ぎ手には空き缶を利用した。「わしもわしも言うて、皆空き缶持参やって」。

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福雄さんも父に劣らず大の釣り好き。昭和25(1950)年、中学を上がると父と共に竿作りを始めた。「昔は鮎も値が張って、竿も売れて売れて!」。

禁漁期は竿作りで稼ぎ、解禁を待ち鮎釣りでもう一稼ぎ。十月初めからは竹切、十一月に入ると大きなトタン板の鍋に灰を入れ、竹の油取りに追われた。そして年の瀬を天日干しに費やし、年が改まるといよいよ竿作りの開始。

四間(約七.二メートル)物の五本継は、穂先-穂持ち-三番-二番-元台と組む。「早く出る竹は重い。逆に遅いと軽くなるんや。枝が三つ出た所で切り出すんが一番なんやて。あんまり竹も、みあいて(ひねて)まうと、しなりが悪なる」。半世紀を費やした、竹選びの目は厳しい。

管継ぎが定まると、真鍮版を何度も火で炙って真っ直ぐ伸ばし、二枚重ねで継ぎ手を取り付ける。次に絹糸を何度も竿に巻き付け、漆で留めて柄を描き出す。さらに元台には、藤蔓(ふじつる)が滑り止めに巻き付けられる。「一本の竿に、九百メートルも絹糸を巻いたこともあった。人が来ると、糸が弛んでまうで、店閉め切ってやらなかんて」。

福雄さんが、自慢の柄の入った竿を取り出した。飴色焼けした光沢の中に、幾何学模様のように巻き付けられた一本の絹糸が描く竿師の意匠。しばらくその美術品とも呼べる美しさに魅せられた。

元台に打たれる釣師の誉れとも言うべき「福作」の銘。「ほんでも使ってもらわな、何にもならん。所詮魚釣るための竿やでな」。何の気負いもなく、竿師はつぶやいた。

今ではカーボン製の竿が主流となり、一年に五十本の生産がやっと。「鮎釣りには、竹竿が一番。でも跡継ぐもんもおらんし、わしで終いや」。

店の前を悠然と流れる長良川。誰よりも長良の流れを愛し、釣りを愛した竿師二代。かつて生活を支えた道具は、美術品と見紛う美しさを手に入れ、やがて儚く消え入ろうとしている。

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「天職一芸~あの日のPoem 75」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「女釘師」。

お給料日はひと月で 父が一番偉い日だった        百円握ってスマートボール 母も渋々送り出す       両手に抱えた紙袋 卓袱台の上で店開き          お煎にキャラメル金平糖 父は得意げ赤ら顔

愛知県豊橋市のアサクラスマートボール、女釘師でもある店主の朝倉文子さんを訪ねた。

「ガラガラガラ」。店内のあちこちで、大きなビー玉がスマートボールのガラス板を転がる。試しに百円で挑戦。だがすぐには、うんともすんとも言わない。三秒ほどして、二十五個のちょっと大きめのビー玉が手元へと転がり落ちて来た。「あかんて!まっと左半分に玉を落とさんといかんじゃんねぇ」。前掛けをした文子さんが、台の向うから声を張り上げて笑った。

文子さんは生後間もなく、朝倉家の養女として迎えられ、女学生時代を名古屋で過ごした。しかし終戦間際の空襲で焼け出され、一家は文子さんの実父を頼り豊橋へと移り住んだ。

「戦後間もない頃にこの店借りて、野菜や果物に、かき氷も売っとっただぁ」。昭和23(1948)年、重三さんが婿入り。

それから二年後に、店を借りたいと浜松の男が訪れ、スマートボール店を開業した。「その人の息子が店番任されとったんだけど、売上持っては夜遊びばっか。とうとう一年もせんうちに店仕舞いらぁ」。結局文子さん夫婦が、そのままスマートボールの営業を引き継いだ。

当時は十円で玉が五個。バチンコ屋の大将の勧めで、遊技場組合に加盟し、出玉を景品や現金に換金した。「それが流行ってないだよ。だってパチンコは、玉が真っ直ぐ下に落ちてくけど、これは台が斜めだで、玉がなかなか落ちてけへんらぁ。だで売り上げだってちっとも増えんじゃんねぇ」。

やがてパチンコは手打ちから自動へ。最新のデジタル技術を取り入れ、射幸心を煽って我が世の春よとばかりの隆盛期へ。しかしそれとは裏腹に、スマートボールは衰退の一途を辿った。昭和60年頃には、スマートボールの台も製造が中止に。現存する二十六台が、薄れ行く昭和の名残を今に留める。

「もう全国でも、家と大阪通天閣の二軒だけらしいわ」。最新のコンピュータ制御によるパチンコとは違い、出玉の予測も立たず天候次第とか。

「もうやめようかと思いながらも、結局僅かばかりの年金まで景品代に注ぎ込んどるらぁ。でもやめたら呆けるかと思うじゃんねぇ」。文子さんは愛しそうに店内を見回した。

ついに最後の一個となってしまった玉を弾く。玉はゆっくりと盤上を転がり落ちながら、五と十五の当たり穴の上を行ったり来たり。思わせぶりな玉は、散々迷った挙句、五の当たり穴に吸い込まれた。

「釘師の腕がええで、そう簡単にようけ出る方へは入らんらぁ」。台の向うで女釘師はしてやったり。たった百円玉一枚の戯れ。緩やかな昭和半ばの時間が、心地よく流れていった。

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