「唐辛子の芽が!」

頂き物の「染付小紋 薬味小鉢」の唐辛子の種を蒔いておいたら、こんなに立派な芽が出て来てくれました!

癒されますねぇ。実に!

この後は、間引きして丈夫な苗を選び、大切に育てねば!

花が咲き実が付き始めたら、肥料を与え成長を見守るつもりです。

そして実が赤く色付いたら、わが家のハーベスト!

ペペロンチーノでも作って、白ワインでハーベスト祭と洒落込んでみようかと、今からワクワクです。

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「不要不急ではなく、必要火急の用があり亀山へ!」

先だって外出自粛の折ではありましたが、不要不急ではなく「必要火急」の所用で、三重県の亀山市を訪ねました。

すると蔦の絡まるこんな廃屋のようなビルの前に、ちょっと不思議な自販機を発見!

恐る恐る近付いてみました。

なんじゃこの「POTATO BOY」って?

さては昔あった、あの家族計画用のゴム製品の販売機かしらん?と、さらに近付いてみると!

なんと、ちゃんとポテトチップではありませんか!まあ、それはそれで、駄菓子屋に子供たちが群がり密にならなくて良いのかも知れません。

それよりもぼくは、3番の「チョコあ~んぱん¥130」の方が、気になって気になって仕方ありませんでした。しかし¥130を投じて買ってみる勇気がなくって・・・。

ちょっと気になる街角ウォッチングでした!

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4/21の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「Honey Babeの味噌ステーキ&とんがりコーンと男爵ポテトにホウレン草のディップ添え」

長野県飯田市のハヤシファームで、遠山郷のハチミツを与え、大切に大切に210日前後育てられた、雌豚だけにその名が冠される、ご存知「Honey Babe」。そのトンカツ用ロース肉を、今回は一晩赤味噌と日本酒で漬け込んでみました。

ハヤシファーム Honey Babeはこちらをどうぞ!

https://hayashifarm.jp/info/1105784

その味噌漬けHoney Babeをソテーし、付け合わせにとんがりコーンと男爵ポテトとホウレン草のディップを添えて見ました。

男爵ポテトは皮を剥き、シリコンスチーマーで約8分ほどチンして蒸かし、フードプロセッサーに。お浸し用に茹でてあったホウレン草もフードプロセッサーに入れ、少量の顆粒のコンソメ、塩、ブラックペッパー、白ワイン少々を振り掛け、ホイップモードで攪拌し、こんもりとポークソテーの傍らに盛り付け、子供だましにとんがりコーンを添えれば完了。

とんがりコーンで男爵ポテトとホウレン草のディップを掬っていただいてみました。ちょっとしたナチョス感覚で、なかなか楽しめましたよ。

一方メインのHoney Babeの味噌ステーキは、キリン一番搾りにドンピシャな美味しさで、Honey Babe独特の脂身の仄かな甘みと味噌味で、ビールが進むこと進むこと!

炊き立てご飯の丼飯の上に、千切りキャベツを敷いて、Honey Babe味噌ステーキ丼にしても美味しいだろうと思った次第です。今度やって見なきゃ!

それと男爵ポテトとホウレン草のディップですが、何も別段チーズとかも加えていないのに、男爵イモをホイップモードで攪拌したら、トロットロに仕上がり、とっても美味しくいただけました。

皆様からのご回答、誠にありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 87」

今日の「天職人」は、愛知県田原市の「金物屋」。

日曜の朝目覚めると ランニングシャツ一枚で       父は鋸引き鉋掛け 咥え煙草も様になる          捨て犬見つけ連れ帰り 昨日は父にどやされた       家じゃ飼えんと言ったのに 犬小屋造りに精を出す

愛知県田原市の金物屋「ナゴヤミセ東店」二代目の、山崎昇さんを訪ねた。

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「家は売れんもんしか、置いてないだぁ」。昇さんは農耕牛用の蔓(かずら)で出来た鼻環を差し出した。

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昇さんは高校を出ると直ぐ、地方都市の小さな百貨店、タマコシに勤務。「毎日毎日、明けても暮れても、女もんのパンツばっか売っとっただぁ」。しかし体を壊し一年で帰郷。

家業の傍ら、左官材料の販売から風呂桶の設置、配管工事まで手掛けた。「ほんでもわしが配管やったら、間違いなく絶対漏るで、ちゃんと職人雇っただ」。

とは言えまだまだ二十三歳の多感な青年の心は、ブラジルへの移民の夢に憑りつかれていった。「本気で店閉めて船に乗り込むつもりやったで、勘当寸前だっただぁ。でも『いっくら貧乏してもええ。どうか行かんでくれ』と、母に泣きつかれてまっただ」。敢え無くブラジルへの移民の夢は潰えた。

すると二年後、見合い話が持ち上がった。「いっぺん行き会って見るか」と、ドライブに。「それがねぇ、初めてのデートが、女もんのパンツ売っとったタマコシだっただ。色気も無いらぁ」。帳簿付けの手を止め、妻のまり子さんが笑った。そして三回目のデートで結納。知り合ってから四ヶ月目、四回目のデートが結婚式だった。

「わしが二十二歳の頃だっただぁ。家で仕入れとる左官屋が、どうやら暮れに夜逃げするらしいと、仲間の左官屋から聞いたもんで、親父に相談しただ。そしたら親父が『まあええから、餞別持たしたれ』って。そんなん、泥棒に追い銭じゃないかって言うと『騙すよりも騙される方がましだ』と。親父が頑固だもんで左官屋に『あんた、どこぞか行かれるそうやなぁ』って、餞別渡してやった事があった」。さすがにそこまでされると、夜逃げの足も鈍る。左官屋は後々までかかって、少しずつ返済を続けたそうだ。

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「これ何かあんたら分かるか?」。そう言うと、直径2㎝ほど、長さ1.5mほどの、ガラス管の先がラッパのように開き、反対側が球体になった「ガラス蠅捕り棒」を取り出した。球体部に水を入れ、ラッパの口で天井の蠅を覆うと、蠅が球体に吸い込まれる仕掛けとか。「家の店は、無い物以外なら何でもほとんどあるだ。でも何万点商品があるかは、誰も知らんだらぁ」。

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所狭しと渦高く積まれた埃塗れの商品の中から、昭和を逞しく生き抜いた人々の、暮らし振りや息遣いが聞こえるようだった。

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「天職一芸~あの日のPoem 86」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「駅弁屋」。

売り子の声に伊勢訛り 身を乗り出して品定め       松阪一の駅弁は 天に名高い牛弁当            売り子の台詞につい釣られ 折を解けば香り立つ      肉に絡んだ醤油垂れ 酒も限(き)り無し汽車の旅

三重県松阪市の駅弁屋新竹(あらたけ)商店の三代目、新竹日出男さんを訪ねた。

「そりゃあんた、家(うっ)とこの元祖特選牛肉弁当は、発売当初の昭和34(1959)年に、幕の内弁当の三倍の価格。百五十円もしよったんやで、まったく売れやんだ」。日出男さんは記憶を辿るように目を閉じた。

元々松阪駅前で食堂を営んでいた初代が、明治28(1895)年に旧国鉄参宮線の開通に合わせ、駅構内に売店を開設。当時の駅弁は、竹皮におにぎり二つと沢庵漬け二切れの慎ましやかなものだった。

日出男さんは同県神戸で、海苔養殖と貸し舟業を営む貧しい漁村育ち。二十歳になると地元の会社に入社。四年後親類から、婿入り話が持ち込まれた。「写真を貰(もろ)たんやさ。またそれが豪い別嬪ってな」。トントン拍子で縁談話が進み、昭和33(1958)年に二代目の長女、育子さんと祝言を挙げた。

婿入り後は、毎朝誰よりも早く寝床を抜け出し、竈に火を熾し四升(約7.2ℓ)釜の飯炊きに専念。「何でも自分が先頭立ってせやんと、人なんて誰も付いてこやん」。

翌年先代夫婦が「本物の松阪牛使こて、旅情を掻き立てる日本一高い弁当拵えたろ」と、冷めても味の落ちないミニ・ステーキを考案。独特のタレを絡めて牛肉弁当を発売した。今の価格に換算すると、三千円以上の代物。苦戦を強いられることに。

ところが翌年、大阪の有名百貨店から、駅弁大会で実演販売をやってみないかと持ち掛けられた。「『どうせようけ持ってったところで売れやせんで』と先代がゆうてな。百五十食分だけ用意してったら、開店二時間で売り切れやさ。まぁ、おしっこ行く暇もないんやで。食道楽とは聞いとったけど、そんなんなるとは夢にも思わんさ」。連日千五百食を超える大盛況。大阪での成功は、松阪牛肉弁当の名を、瞬く間に全国に広めた。

「父は本当に働き者です。婿養子って事もあってか、実の両親が亡くなった時も、お線香を上げに戻っただけ。だから家族揃って泊りの旅行に出掛けた記憶なんてありませんし・・・」。傍らで長女の浩子さんが、感慨深げにつぶやいた。

今でも(平成十六年三月六日時点)日に二~三千食製造する弁当は、一~十まで全て昔のままの製法にこだわり続ける。

今のような気忙しさや煩わしさとは無縁だった、昭和半ばの何もかもが緩やかでまったりとした時間が、肉汁と共に口の中に広がった。

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「天職一芸~あの日のPoem 85」

今日の「天職人」は、岐阜県坂祝町の「雛鑑別師」。

雪洞浮かぶ桃の宵 夜店賑わう浅い春           裸電球燈されて ピヨピヨピヨと雛の声          黄色い産毛あどけない 小さな命の大合唱         「どれが卵を産むかしら」 娘の問いに苦笑い

写真は参考

岐阜県坂祝町の雛鑑別師、木村秀雄さんを訪ねた。

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「四十年ほど前(平成十六年二月二十八日時点)は、海外行って一年鑑別したら、家が一軒建ったほどやて」。孵化場の入り口で、靴底を消毒しながら白衣姿の秀雄さんが笑った。

「外国へ行きたて鑑別師になったんやて」。地元の農林高校を出ると直ぐ、可児市の孵化場に就職。鑑別師を夢見、下働きを続け二十一歳で孵化場を辞し、鑑別師養成所へ入所。

明けても暮れても雄の雛鳥の首を、小指と薬指で挟み、親指と中指で保定し、肛門を睨み続けた。雄にしかない麻の実のような突起を観察するためだ。その甲斐あって五ヶ月後、普通鑑別師の資格を取得。ついに孵化場に鑑別師として入社。夜毎仕事を終えてから、より高度な練習を積み、岐阜県下八人という高等鑑別師の資格を取得した。九割以上の正確さが求められる海外考査にも合格。二十五歳で念願の海を渡った。

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旧西ドイツを起点に、オランダ、ベルギー、フランスを股に掛け、三年間ヨーロッパ各地で鑑別に取り組んだ。そして一旦帰国し、再びスウェーデンへ。「そりゃもう、ホテル暮らしの豪華な生活やったって」。

大正時代末期、東京帝国大学教授の増井清獣医学博士等によって研究が始まった、初生雛鑑別技術は、昭和2(1927)年にカナダで開催された第三回万国家禽(かきん)会議で発表され、世界中の注目を集めた。そして昭和7年には、鑑別の信頼性が100%に達した。途中、戦争で一時中断したものの、世界中から鑑別師派遣が要請され、戦後は外貨獲得の花形産業の一翼を担った。

秀雄さんは二十九歳で妻を迎え、翌年妻と誕生間もない長女を伴い、再びスウェーデンへ。「まあ家族三人、海外旅行気分やて」。

しかし昭和も五十年代後半になると、鑑別技術が各国に普及し、海外からの派遣要請も次第に減少した。現在秀雄さんは岐阜県に腰を据え、二ヶ所の孵化場を受け持つ。

「生後四~五時間の雛が、一番見分けやすい。でも一日に八千羽もやっとると、途中でフッと気が抜けてまうんやて」。確率は99.5%とか。

一年に二百万羽。三十年以上雛鳥の尻ばかりを見続けたベテラン鑑別師が照れ臭げに笑った。

世界中を震撼させた鳥インフルエンザ。誰よりも騒動の鎮静化を祈る鑑別師の指先は、一羽二.五秒の神業的な正確さで雌雄を選り分けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 84」

今日の「天職人」は、愛知県小坂井町の「布団綿入れ職人」。

親許離れ初めての旅 修学旅行胸躍る           古都の名刹数あれど 枕ぶつけが待ち遠しい        狸寝入りも束の間だけで 枕一つで大騒ぎ         教師の渇で静まれど 枕違いで寝付かれぬ

愛知県小坂井町の昭和4(1929)年創業の、丸文中村ふとん店、三代目の綿入れ職人、中村重蔵さんを訪ねた。

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「昔の人らにとって、布団はひと財産だぁ。今でもおとましい(もったいない)って、戦前の布団を打ち直しに持ってくるらぁ」。重蔵さんは、打ち直し前の弾力を失った綿を取り上げた。

重蔵さんはこの家の長男として誕生。「店は弟に任せるつもりで、元々継ぐつもりはなかっただ」。大学へ進学し、農学部で育種を専攻。奈良県の農業試験場で園芸用苺の栽培に従事。しかし三年後。弟が店から独立し、止む無く家業を継ぐ決心を固めた。

二年に及ぶ見習い修業を終え、静岡の布団屋を後に店へと戻った。それまで店の綿入れを一手に取り仕切っていた叔母が、高齢のため引退したからだ。

打ち直しの場合、綿生地を検めて製綿機でほぐしながら、新しい綿を加える。次に布団生地の中に綿を重ね、耳を整えながら中心が舟形を描くよう丸く高く盛り付け、全体を仕上げ綿で覆う。「そのあと口の開いた生地をくける(縫う)らぁ。そうして袋状の中の綿を慣らして、移動せんように生地と綿を一緒に縫い込んで閉じるだ。

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座布団なんかは、手前から見ると真ん中が『人』って言う字になるように閉じるじゃんねぇ」。最後の仕上げは、綿が逃げず偏らぬよう、四隅の耳に房を取り付ける。「木綿は重たいが、吸湿性に優れとる。だけどお年寄りは軽い方がええで、ポリエステルの綿を芯にしたり。人それぞれの好みを聞いて打ち直さんとかんだぁ」。

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綿と一口に言っても、原産地と用途によって異なる。敷布団には、繊維が太く短めのインド・アッサム地方の手摘み綿。掛布団には、繊維が細長く肌着(はだつ)きの良い、アメリカやメキシコ産が最適とか。「いい綿は、五十年経っても変色一つせんだ。だもんで昔の人は、布団を財産のように大切にしたんだらぁ。綿は打ち直せば、四~五回は生き返るだで」。

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大地に根を張り、実を結ぶ綿は、摘み取られた後も、暮らしの中で息づく。

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「今や不況産業だで、年々手作り布団の専門店も店じまいだぁ」。人生の三分の一は布団の中。その土地の気候を熟知し、心地良い眠りを誘う綿入れ職人。しかし大量生産の影が、ここでもまた一つ伝統の技を蝕んでいるようだ。

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「ありがとうエミリー」

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夕暮れの空港が、ぼくは好きでたまりません。それはテイクオフでもランディングであっても!

特にランディングの時は、空港を取り巻く街の明かりが、散りばめられた無数の宝石のようで。機体が徐々に高度を落とし、飛行場に規則的に並ぶアプローチ・ライトを目にした時は、その美しさに見とれてしまう程です。

逆に夕暮れ時に、テイクオフしてゆく機体を眺めていると、もの悲しさを感じてしまうのはなぜでしょう。黄昏に吸い込まれるように舞い上がってゆく機体。地上には無数の誘導灯だけが、いつまでももの悲しく瞬いているようで。

ぼくは列車も駅も好きですが、それ以上に飛行機や、各国様々な空港の雰囲気が好きでなりません。

30何年か前。あの尾翼にチューリップのシンボルマークが描かれた、ユナイテッド・エアでニューヨークのジョンFケネディー空港に向かったことがありました。

ちょうどビック・アップル上空に差し掛かったのは夕暮れ。窓から煌びやかで巨大な街明かりが眺められ、この世のものとは思えぬほどの美しさに、つい固唾を飲んでいたものです。

機体がビック・アップル上空で、着陸の指示待ちか、何度か旋回を続けていた時、機内に耳馴染みのある曲が流れ出したのです。

そうです!あのクリストファー・クロスの名曲、「ニューヨークシティー・セレナーデ」だったのです。もう全身鳥肌状態!実に記憶に残る、ワンダフル・フライトでした。

今日はそんな夕暮れの空港が舞台の、「ありがとうエミリー」をまずは弾き語りでしっとりとお届けしたいと思います。

「ありがとうエミリー」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

夕闇を引き裂いて 舞い上がる君を見てたAir Port

また逢えるね覚えたての 言葉を君は置き忘れた

 See you again エミリー 結ばれるすべてが 愛だとは限らないよ

 Good by my エミリー 生まれ代われたなら もう君を離さないよ

君が去った南の空 一筋の星が流れ消えて行く

語り尽くせぬ幻だけ 遠ざかる距離埋め尽くす

 See you again エミリー 力ずくで君を 奪い去ってしまえたなら

 Good by my エミリー 生まれ代われたなら もう君を離さないよ

君の声 君の笑顔 君の涙 君のぬくもり

 See you again エミリー 結ばれるすべてが 愛だとは限らないよ

 Good by my エミリー 生まれ代われたなら もう君を離さないよ

君の声 君の笑顔 君の涙 ありがとうエミリー

続いてはやっぱり30年近く前にレコーディングしたものを、CDに再集録いたしました「ありがとうエミリー」です。ぜひお聴き比べください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「春祭りのお楽しみ!」。本来ならば、昨日一昨日は、飛騨古川起し太鼓と古川祭でしたが、新型コロナの影響で、残念ながら中止となってしまいました。見えない敵のウイルスには、さすがの古川やんちゃといえども、太刀打ちが出来そうにありません。それはそうと、子供の頃こんな時期には、各地でも小さくても春の祭礼が行われ、子供ならではの春祭りのお楽しみもあったものです。ぼくは中でも、地元の祭礼の直来だったのか、子ども会だったかからもらえるベッコウアメの板飴が、楽しみでならなかったものです。長方形の薄っぺらな、ベッコウアメには型抜き状で動物が描かれ、周りの飴を舐めたり割ったりしながら、型押しされた動物を抜き出そうと試みたものです。ところがどっこい!あと少しでっと言うところで、パキッと割れてしまって悔しい思いをしたものです。皆々様の春祭りのお楽しみは、どんなことだったでしょうか?

今回はそんな、『春祭りのお楽しみ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.04.21「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントと言うよりも、写真上部の緑色のこんもりとした、付け合わせの上にある角のようなものは、決して八墓村とかをイメージしたものではありません。脂身の甘みが特徴の、長野県飯田市はハヤシファームが育てた、生後210日の雌豚、Honey Babeをアレンジして見ました。これまたキリン一番搾りがグビグビと進んでしまう、相性の良い酒の肴となりました。

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 83」

今日の「天職人」は、三重県津市の「削り節職人」。

おっちゃん削った鉋屑(かんなくず) 何でそんなにええ匂い                           思わずうどん喰いとなる 黒い棒切れ何の木や       そないな魚あるかいな 子供騙して面白(おもろ)いか   少し摘んで喰うてみよ 出汁がジュワっと口ん中

三重県津市の「鰹節きよしや」へ、削り節職人の山下清さんを訪ねた。

「芯まで飴色しとる近海もんが、最高にええ出来の本節やさ」。清さんが拍子木ほどの大きさをした、背節を取り出した。

三重県大王町の波切で生まれ、母の勧めで削り節職人の修業へ。

新鮮な生鰹を仕入れ、頭・骨・血合いを取り除き、背割りで二分、背と腹も二分し四つに切り分け、下から火を入れ十分に乾燥させる。日陰で十五日間寝かせ、青い粗目の一番黴を付け、丸一日天日に晒す。そして再び十五日間、日陰で二番黴を付着させ、また天日干し。さらに十五日間、今度は細かい茶褐色の三番黴が付くまで、延べ五十日間作業を繰り返す。「煤けて真っ黒んなった本節を、小刀で滑らかな肌になるまで削ったるんさ。そん時の滓もええ出汁出るんやで」。黴付けから煤の削り落としまでが、削り節職人の腕の見せ所。

清さんは三年の修業を終え、四国へと渡った。「電気関係の仕事が好きやってさ、発電所に勤めましたんさ」。そして一年後郷里へと戻ると、役場から赤紙が届けられた。「まぁ、母が泣いて泣いて」。同県久居市の連隊で三ヶ月間の俄か教育を受け、中国の最前線へ送り出された。「なともならんわ。毎日毎日、人殺しばっかり教えよって」。昭和17(1942)年、内地に無事復員。「このままやとまた招集される言うて、嫁を世話されて海軍工廠に入ったんさ」。同郷のきみえさんを妻に迎え、戦闘機製造に従事し終戦を迎えた。

「この店は戦後間もないころ、ぜんざい屋やったんさ。一杯喰うたろ思て店入ったら、今日で店仕舞(しも)て四日市の人に売るんやと。そんでわしがな『こないな時代に誰が買いに来るもんかさ。まあ、あかなんだらわしが買(こ)うたろ』って、啖呵切ってもうてな」。そしたらその晩、ぜんざい屋が清さんを訪ねて来た。「あんたがゆうた通りやったわ。さあ買うとくれ」と。清さんはなけなしの金を搔き集め、食料品店を開業した。

昭和25(1950)年、鮮魚類の統制廃止を待って、鰹節専門店に鞍替えした。品揃えは、鰹の本節、二つに割いた小振りの亀節、銀ムロ節、ムロ節、鯖節、メジカ節。板場の職人用から家庭使いまで、削り節の混合配分は、清さんの目利き一つ。「所詮化学調味料では、絶対真似出来やん」。

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海の豊かな恵みに囲まれて、この国独自の進化を遂げた鰹節。天然素材の旨味を完全に封じ込める、頑なな古来の製法故に成し得る逸品。

八十路半ばの職人魂から、削り節に勝るとも劣らぬ、味わい深い人生の出汁の香が漂った。

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