「昭和Nostalgia」(549)

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今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

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小学校の運動場の、トランペットスピーカーから、行進曲や次の種目の案内放送が聞こえてくると、67歳になったと言うのに、ついつい心が騒ぎ出しちゃってなりません。

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ぼくの通った小学校では、運動会と言うと町内の一大イベントのようなもので、小学校に通っている子がいない近所のご隠居さん達も、皆が一緒になって声援を送ったり、お重の弁当を摘まんだものでした。

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中にゃあ赤ら顔で、湯呑で冷や酒を煽り、茶碗を箸で叩いて声援を送るオッチャン達もおりました。

ぼくは両親やお婆ちゃんと一緒に、大好きなお稲荷さんを夢中で頬張ったものです。

そんなお昼休みが終わると、見学に来ている大人たちが参加する、余興のようなプログラムが始まり、場を盛り上げてくれたりして、ぼくも大声で声援を送った覚えがあります。

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中にゃあ、湯呑の冷や酒を飲みすぎた、赤ら顔で千鳥足のオッチャンなんぞもいて、周りの失笑を買っていたものです。

でも令和の今の運動会じゃあ、そんなほのぼのとした昼食風景も、見かけられなくなっちゃっているんでしょうねぇ。

いや待て!

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仮に運動場で家族みんなで食事の出来る、そんな昭和チックな小学校があったとしても、手作りのお重の弁当なんかではなく、ウーバー〇ーツとかで出前を取るご家族もいらっしゃるかも?


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「昭和Nostalgia」(548)

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今日は、昭和時代に親しまれた「体育の日」ですねぇ。

ぼくなんかのように、コッテコテの昭和人にして見ますと、どうにもこーにも今の「スポーツの日」ってぇのに、トコトン馴染めなくっていけません。

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まぁそんなことはともかく、幼稚園や小学校の側を通ると、運動会の練習風景なんぞを目にする季節となってまいりました。

そんな運動会で思い出されるのが、白線引き!

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運動場に石灰でトラックのコースを描く、あの「ライン引き」!

ぼくが通った小学校では、用務員のオジサンか先生が、車輪の付いたライン引きを引っ張りながら、白線を運動場に描いていったものでした。

ぼかぁ、あのライン引きが一度やりたくってやりたくって、どうにも仕方なかったものでした。

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とは言え、用務員のオジサンにしても、先生にしたって、そんなことを小学生の子どもにやらせちゃあくれませんから、ますますぼくの憧れは募るばかりでなりませんでした。

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運動会の当日には、誰にも踏み荒らされていない、奇麗な白線で競技用のトラックが描かれていて、それはそれは圧巻だったものです。

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そう言えば、車輪の付いたライン引きが登場する前までは、こんな感じでライン引きをしていたんだとか。

誠にご苦労様でございました。


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「昭和Nostalgia」(547)

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子どもの頃、こんな蒸しパンが卓袱台の上に置かれ、折り畳み式の蝿帳が被せられているのを目にすると、学校から帰ってランドセルを背負ったまま、小躍りしたほどぼくは大喜びでした。

蒸しパンの中でも、こんな色をした黒糖味の蒸しパンにゃあ目が無かったものです。

それから半世紀以上が過ぎた頃だったでしょうか?

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コンビニかスーパーで、こんな大きな黒糖蒸しパンを見かけ、ついつい衝動買いをして、子どもの頃の味を堪能したことがありました。

何故、それほど恋しい味だったのやら?

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気になって調べると、蒸しパンの類は、母の出身地鹿児島や宮崎辺りでは、「ふくれ菓子」と呼ばれる郷土のお菓子だったとかで、それを想い出してお母ちゃんが黒糖味の蒸しパンを作っていたんでしょうか?

後に山崎パンから昭和62(1987)年に発売され、超ロングセラーになったと言われる「黒糖フークレエ」は、時代も異なっていて、とてもそれが子どもの頃のわが家の卓袱台に上がったとは考えられません。

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やっぱりお母ちゃんが、大きなアルマイトの蒸し器で、蒸しパンをせっせと作ってくれたんでしょうねぇ。

大人になってぼくが思わず懐かしさのあまり手にしたのが、山崎パンの「黒糖フークレエ」だったのかも?

あ~あ、また無性に食べたくなって来ちゃったぁ!


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「昭和Nostalgia」(546)

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昨日に引き続き、中学生になってからの、お母ちゃんの弁当のオカズの定番として、これまた君臨したのがこの「タコちゃんウィンナー」でした。

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ところが最初に赤いウィンナーが弁当のお供として登場したころは、こんな風にただウィンナーを炒めただけか、

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茹でただけのものでした。

しかし同じクラスの友の弁当には、赤いウィンナーに切り込みが入れられ、可愛らしい「タコちゃんウィンナー」となっているじゃないですか!

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家に帰ってそれをお母ちゃんに話してしばらくすると、ぼくの弁当箱にもいつしかタコちゃんウィンナー」が添えられるように!

きっとお母ちゃんも、パート仲間のオバチャンにタコちゃんウィンナーの作り方を聞いて来たのかも知れません。

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そしてぼくも、やめときゃあいいものを、ついつい「タコちゃんウィンナー美味しかったぁ!」とうっかり言ってしまったものですから、これまた二日と空けず弁当箱に添えられ続けることに!

まったく身から出た錆でした!

でもそんなことを想い出していたら、無性にタコちゃんウィンナーが食べたくなってくるから不思議です。

今度スーパーで赤いウィンナーを買い込んで、タコちゃんウィンナーでも作って、キリン晴れ風のおつまみとして、プッハァ~ッとやって見ますかぁ!


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「昭和Nostalgia」(545)

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ぼくは中学生になった年から、弁当持参での登校となりました。

それと同時に、それまでの内職仕事からお母ちゃんも、近くの工場へとパート勤めが始まったものです。

ぼくが小学生の頃は、鍵っ子にしちゃあならぬと、頑として外勤めには出ず、内職に励んでいたお母ちゃんでしたが、ぼくが中学へと上がって環境が一変したように、お母ちゃんの環境も一変し、工場まで自転車に乗って颯爽と出掛けて行ったものでした。

お母ちゃんは毎朝早くから、ぼくの弁当を作ってくれたものです。

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特に1週間のオカズの中でも群を抜いて多く登場したのが、このご存知「マルシンハンバーグ」でした。

弁当を持参するようになって最初の頃、本当にマルシンハンバーグが「美味しい!」と、その都度口にしたせいか、「まぁええっ!」ちゅうくらい頻繁に、二日に一度くらいで登場し、「なんだ、またかぁ・・・」となってしまったものです。

とは言え、そんな事口が裂けてもお母ちゃんに言い出せず、我慢した覚えがあります。

周りの生徒の弁当のオカズを盗み見て、マルシンハンバーグが入っておらず、煮物なんかばかりの男子生徒の弁当を目にすると、ハンバーグと煮物を物々交換したり!

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でもある時、いつものマルシンハンバーグとは異なる、トマトケチャップのようなソースが絡んだ、「イシイのチキンハンバーグ」なるものが登場したのです!

一日おきに登場したマルシンハンバーグとは異なり、「イシイのチキンハンバーグ」はそれはそれは真新しく映り、これまた禁句である「美味しかったぁ!」と、ついついお母ちゃんに告げてしまったのです。

そしたら今度は、一日おきに「イシイのチキンハンバーグ」の連投と成り果ててしまって、我ながら自分の迂闊さと学習能力の無さをホトホト呪ったほどでした。

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何事も、口は災いの元って言いますものねぇ!

そう言えば、物心ついた頃からお父ちゃんは、お母ちゃんに先立たれるまで、一度たりとお母ちゃんの手料理を「不味い!」なんて口にしたことがありませんでした。

どんなものであれ、お母ちゃんが拵えた料理は、「美味しい美味しい!」とそればかり口にする父でありました。

そんなお父ちゃんのDNAとやらを、ぼくも紛れも無く引き摺っていたってことなんでしょうかねぇ?


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小学生だった頃、一文菓子屋でぼくが毎回やった籤と言えば、1回5円(当時)だった甘納豆の小袋の籤でした。

ぼくが子どもの頃は、こんなオモチャが当たる様な、そんな類の籤ではなく、ただの甘納豆の小袋だけが連なっていたものです。

そして一口サイズの甘納豆が入った小袋の裏側に、確か「あたり」「はずれ」と印字されていたような?

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数回に1回くらいの割合で「あたり」籤を引き当てると、そりゃあもう天にも昇る歓びだったものです。

とは言え、「あたり」を見事に引き当てたとしても、甘納豆籤がもう1回引けると言うだけのこと。

それでも嬉しくって、続けざまにもう一回当たってくれと念じながら、小袋を引いたものです。

とは言え、そうそう柳の下に2匹とドジョウがいるはずも無く、束の間の喜びも悔しさと入れ替わっちゃったりしたものです。

皆さんも甘納豆籤を引かれましたか?


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「昭和Nostalgia」(543)

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小学生も半ばの頃、近所に暮らしていたM君家に、当時の草野球少年にしたら、まさに垂涎の的としか言いようもないほどの、ピッチングマシーンとやらがお目見えしたと、瞬く間に噂が飛び交ったものでした。

そして腕白坊主共は、M君家の前にたむろし、一目だけでもそのピッチングマシーンとやらを拝したいと願ったものでした。

そう言えばそのM君家は、近所でも評判のお金持ちのようで、玄関先には新車のトヨペット・コロナがピッカピカで、燦然と輝きを放ちながら置いてありました。

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M君家は、一つか二つ年上のお姉ちゃんと、いつも背広姿でビシーッとしたお父さんの三人暮らし。

M君もお姉ちゃんも思い返せば、そこらの腕白共やお転婆娘とは異なり、身なりも良かった記憶があります。

でもそんな当時は、腕白共もお転婆娘たちも、まだまだファッションになど全く持って関心も無く、M君やM君のお姉ちゃんが、どこよりも真っ先に買ってもらう、新しいオモチャの方に興味津々だったように思います。

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ぼくもやっとのことで、M君家の座敷に上がり込み、ピッチングマシーンから繰り出されるプラスチック製のボールを、やはりプラスチック製の擂粉木を少し長くしたようなバットで、バッティングをさせていただきはしましたが・・・。

やっぱりブニョブニョの生ゴム製の軟球を、木製バットで打ち返す時の、あのリアルな感触とは一味も二味も違って感じられ、ちょっぴりガッカリしたものです。

当時、昭和43(1968)年に任天堂から発売されたと言う「ウルトラマシン」は、1.480円だったと記録されていますから、今の価値にしておいくらくらいのモノだったでしょうかねぇ?

少なくともぼくの周りでは、M君家で見掛けたキリでした。


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大人になってパブやらスナックなんぞに通い始めた頃、グラスの下にこんな厚紙やコルクのコースターを敷いてもらっていたものでした。

それぞれのお店オリジナルのモノもあれば、酒造メーカーの商品名が入ったモノやら、まぁ様々だったものです。

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ぼくがパブやスナックなんぞに通うようになった頃なんて、まだまだ洋酒は高嶺の花!

とてもジョニ黒やジョニ赤なんてぇ代物は、先輩からのお下がりに縋るのがやっと!

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サントリーレッドやブラックニッカ、それにサントリーホワイトが精々のところ。

それでもコースターの上で汗を垂らす水割りの入ったタンブラーは、大人の仲間入りを果たした象徴であった気がします。

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でも厚紙のコースターは、グラスが汗を滴らせるたびに、ブニョブニョになってしまったものです。

お気に入りのコースター見かけると、お店の方に頼み込んで家に持って帰り、部屋の壁とかに飾ったりしたこともありましたっけ!

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皆さんもそんなお気に入りのコースターって、ございませんでしたか?


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「昭和Nostalgia」(541)

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こんな吸盤だらけのボールで、遊ばれた事はありませんか?

ぼくも子どもの頃に、遊んだような気がします。

ぼくらはこの吸盤ボールを、確か「手裏剣ボール」とかって、呼んでいたような?

でもぼくが持っていたわけではなく、腕白仲間の誰かが持っていたような?

窓ガラス目掛けて投げつけると、ひっつくのが愉しくって、みんな夢中で遊んだ記憶があります。

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ところが昭和半ばの、引き戸の窓ガラスは、薄っぺらなスリガラスで、今のような頑丈なサッシに組み込まれた分厚いガラス板ではないため、薄っぺらなガラスを割ってしまうこともしばしば。

そりゃあもうどれだけ叱られた事やら!

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その後ぼくは、窓ガラス相手ではなく、タンス目掛けて借り物の「手裏剣ボール」を投げて、赤影ゴッコなんぞをしていたような?

遠い日の記憶は、霞むばかりでなりません!


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「昭和Nostalgia」(540)

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小さな一口大の大きさで、鈴の形をしたカステラを召し上がった事はありませんか?

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ぼくは子どもの頃に、頂き物だったのか、お母ちゃんが買って来たのかは不明ですが、この三重県津市発祥の「美鈴のかすていら」を美味しくいただいた事を今でも鮮明に覚えています。

或いは三重県出身のお父ちゃんが、同郷の懐かしさから買い求めた物だったでしょうか?

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徳用袋に20個ほど入っていたでしょうか、ぼくは牛乳を飲みながらパクパクと口の中へと、次から次へと放り込んだものです。

一口食べきりサイズが丁度よくって、割とわが家の卓袱台の上の菓子鉢に入っていたような?

そんな懐かしい味をもう一度と、調べてみると三重県津市で昭和29(1954)に誕生したもののようで、以来半世紀以上に渡り、庶民に愛され続けた銘菓のようです。

しかし一説によれば、コロナの煽りを受け、令和2(2020)年に廃業されてしまったとか。

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でも通販サイトでは、今なお販売されているようですから、どこかが事業を継承されたのやも知れませんですねぇ。

ぼくも懐かしみながら、今度は通販サイトで手に入れ、子どもの頃を懐かしむことといたします。


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