「昭和Nostalgia」(436)

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しかしまだ6月の半ば過ぎだと言うのに、もうすっかり真夏並みの猛暑に見舞われ、体がとても追い付いて行きそうにありません!

こんな時こそ、お母ちゃんに泣いて縋って買ってもらった、家庭用のかき氷機の出番ですねぇ!

写真は参考

って言ったって、当時お母ちゃんが買ってくれたかき氷機は、時の彼方に置き忘れて来てしまってますから、いやはや何とも仕方がありません!

わが家に家庭用のかき氷機がやって来たのは、ご近所のご家庭のほとんどで見かけるようになって、さらにしばらく経ってからのこと。

それでもかき氷機がわが家に配備された日は、放課のチャイムが鳴ると、ランドセルを背負って大急ぎで家路を走り抜けたものでした。

そして冷蔵庫の製氷機から氷を取り出し、かき氷機の受け皿に入れ、上部のハンドルをクルクル!

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するとかき氷機の下にセットした、ガラス製の器に淡雪のようなかき氷が小山を築いたものです。

そしてイチゴ色したかき氷用の蜜を掛けるのはいいんですが、「こらっ!ハイッ、そこまで!掛け過ぎやぁ!」とお母ちゃんに見咎められ!

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ぼくは少しでも多くイチゴの蜜を掛けようとするのに対し、お母ちゃんはそんなに贅沢に蜜を掛けさせてなるものかと、母子の攻防戦が繰り広げられたものでした。

しかし、そんな昔話を想い出したところで、現実として涼が取れるものでも無し!

かくなる上は、コンビニやスーパーで見かける、カップ入りのかき氷や、鹿児島天文館むじゃきの名物「しろくま君」でもお取り寄せするか!

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それはそれで喉元を通る間は、この世のモノとは思えぬ至福を感じられても、どうにもその後、口の中と喉に甘さが居残り、子どもの頃とは異なり、どうにもこーにもすっきりしないのも事実!

やっぱりこーなったら、とっておきのキリン晴れ風で喉を潤すしか術がないかぁ!


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「昭和Nostalgia」(435)

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これをご覧になって、思わず懐かしい!と、心の中でつぶやかれた方は、これまた押しも押されもせぬ、昭和の腕白坊主だったに違いありません!

どこででも手に入った、使用済みの割り箸と、肉や野菜が包んであった新聞紙を止めた輪ゴムさえあれば、立派な割り箸ゴム鉄砲が完成!

って言ったって、手先の不器用なぼくには、こんな立派な割り箸鉄砲など出来るわけもありません。

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まぁせいぜいぼくが、仲間たちの作品を真似て作ったとしたら、この程度がやっとこさ!

果たしてここまで自力で出来たであろうかと、今さらながら己の不甲斐なさを痛感するばかりです。

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もしかしたら仲間たちのゴム弾を被弾しながら、こんな奥の手の指鉄砲で応戦していたやも知れませんねぇ。

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だから日曜日を待ち侘びて、ぼくとは裏腹に手先の器用だったお父ちゃんにせがんで、仲間に負けぬほど立派な、割り箸ゴム鉄砲を拵えてもらい、広場へと駆け出し自慢のゴム鉄砲を連射して、憂さを晴らしたような気がいたします。

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TVゲームもゲーセンも無かった昭和の半ば。

そこら辺に転がっていた廃材を利用しては、自らの遊び道具を工面していたものでしたですねぇ。

果たしてお父ちゃんは、日曜日を待ち構え、割り箸ゴム鉄砲作りをせがんだぼくを、どう思っていた事でしょう?

せっかくの日曜日なのに・・・と心の中で思っていたのやら?

はたまたお父ちゃんを頼って縋ったぼくを、お父ちゃんは心ならずとも、嬉しく思ってくれたことやら?

ぼくにして見たら、お父ちゃんお手製の、割り箸ゴム鉄砲は、仲間たちの誰よりも立派な、自慢の割り箸ゴム鉄砲だったはずです!


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「昭和Nostalgia」(434)

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小学生の頃の通学路は、子どもたちにとって宝物の宝庫でした。

カエルやザリガニ、蝶にトンボにバッタ、ヘビイチゴやらカタバミ。

その中でも、一際不思議でならなかったのがこの「オジギソウ」。

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指先で葉の先っちょを突くと、葉が閉じて一本の枝のように縮まり、まさにその名の通りお辞儀するかのように頭を垂れてしまいます。

参考

学校帰りの通学路で見かけると、道端に屈みこんでオジギソウと、飽きもせず戯れたものでした。

子どもの頃は、植物が動くことをそれほど気にもしていませんでしたが、今頃になってそのメカニズムがどうにもこーにも気になり、調べてみました。

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するとオジギソウは、葉をバッタなどの昆虫に齧られると、大急ぎで葉を閉じるんだそうです!

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葉を閉じて一本の枝のように変化することで、バッタなどの昆虫は葉を食べられなくなり、あきらめて別の場所へと移動していくんだとか!

まるで謙虚にお辞儀をするかのようなオジギソウは、頭を垂れながらもしたたかに、種を絶やさぬよう努めていたんですねぇ。

天晴れ!天晴れ!


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「昭和Nostalgia」(433)

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小学校の工作の時間に、こんなスティック状のきびがらを切って竹籤に刺し、動物や人形を作ったことがありませんでしたか?

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手先が不器用で図工の時間が苦手だったぼくではありましたが、このきびがら細工の時間だけは大好きだったように記憶しております。

確か近所の一文菓子屋にも、きびがらのスティックが売られていて、それを買い求めては家でも何かかしら作って遊んだものです。

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でももう今ではすっかり見かけなくなりましたですねぇ。

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ぼくが工作で使っていたきび(黍)は、茎の元のほうの皮をはいだ髄の部分を染め、工作に用いたものだったようです。

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大正末から昭和10年代にかけては、小学校低学年の教材とされていたものの、現在では郷土玩具の製作に用いられているのだとか。

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だとすると、昭和40年代初頭の頃まで、ぼくの通った小学校では、きびがらを図工で使っていたってぇ事になりますから、ずいぶん昔からあった教材を四半世紀後の世でも、現役として活用していたってぇ事なんでしょうかねぇ?

同時にその時代までは、一文菓子屋の店先でも販売されていたんですから、ぼくらはきびがらが教材として使われた最後の世代だったのかも知れません。

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あのきびがらの感触、いまでもしっかりと覚えています!


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「昭和Nostalgia」(432)

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秋になってドングリを拾うと、こんなやじろべえ作りなんかしませんでしたか?

軸の竹籤は、確か火鉢の上で炙って曲げたような?

支点を人差し指の先に載せると、たちまち左右にゆっくりと傾き出す。

例えば右に傾ききると、今度は反対の左側へとゆっくり傾きだす。

参考

そんな単調な動きをただ眺めるだけの、極めて静かな遊びではあったものの、不思議とその動きに見入ってしまったものでした。

こんな伝統玩具のやじろべえは、江戸時代の享保の頃の浮世絵にも描かれているとか。

ある説によると、振り分け荷物を棒の先に吊るし、肩に担いで振り分け荷物を運ぶ弥次郎兵衛(東海道中膝栗毛の登場人物)に由来するんだとか。

写真は参考

なるほどなるほど。

今になってやじろべえが、左右に揺れる姿をながめていると、ついつい様々な感情が沸き上がってまいります。

貧富貴賤・喜怒哀楽・勝ち組負け組、とその時点では、例え恵まれたものが最上部に上り詰めたとしても、そのままその場所に留まる事は決して許されず、いつしか最下部へと下り詰め、それまで恵まれていなかったものが逆に、今度は頂点を極める。

右へ左へ、やじろべえは振れ続ける。

まるであたかも人の業を体現するかのように。

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勝ってもいい、奢らなければ。負けてもいい、腐らなければ!

例え今、最下部にいたとしても、必ずいつかやじろべえのように、再浮上するはずだから!

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ぼくはやじろべえが、支点を中心に、左右が一直線となって停止した時点で、可もなく不可もなくこの世に暇乞い出来ることを願ってやみません。


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「昭和Nostalgia」(431)

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昭和半ばの小学生時代。通学路の畦道の周りで、こんなカタバミの果実が枯れたように、少し茶色く変色して実が膨れているのを見かけると、手で突いたりしませんでしたか?

すると実の殻が弾けて、小さな種子がパ~ッと飛び散るのが、もうそれはそれは愉しくって!

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ついつい時間も忘れて、地面に屈みこんだまま、次はあっち、今度はこっちといった調子で、茶色く変色して今にも弾けそうな果実を、突き回ったものでした。

実は、この種を飛ばす草の名前は、今になって「カタバミ」と言う名であったことを知りました。

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何とこのカタバミ、少しなら食べることもできるようです!

葉っぱを齧ると酸味があり、その酸味はシュウ酸と呼ばれるもので、ホウレンソウに豊富に含まれているんだとか。

確かにネットには、サラダとして食べるなぁ~んてぇのも散見されました。

まぁ確かに、小さな小さな「オクラ」に見えなくもありませんよねぇ。

またこの酸味の素であるシュウ酸には、サビを落とす力もあるようで、青銅や真ちゅう製のものをカタバミの葉で磨くと、サビが落ちピカピカになるんだとか!

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それはそうと「カタバミ」の種子は、何と何と最大1mをも飛ぶんだそうです!

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自分ではどこにも歩いて移動できない、そんな植物ならではの秘策。

種を保存し継承してゆくため、種子を飛ばすと言う、独自の進化を身に付けたってぇことなんでしょうねぇ。


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「昭和生まれだい~っ!」と、憚ることなく仰れる方なら、きっとこんなゲーム機をご存知のことでしょう!

ぼくは正式にこのサッカーゲームで遊んだことはありませんが、選手にボールをキックさせるバーを、背伸びしながら回した記憶があります。

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しかもそれはまだ、小学校も低学年の頃。

なんでそーなったのかは、すっかり思い出せませんが、父と同郷の父の後輩にあたる「おーい中村君」に、当時金山にあったナゴヤスポーツガーデンへ連れて行ってもらった時だったはず。

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なんでその人が、「おーい中村君」って名前なのか、それはお父ちゃんが当時流行った歌謡曲を真似、その後輩の事をよくそう呼んでいたからです。

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だからきっとその方は、「中村なにがし」さんであり、わが家に遊びに来ていて、物の弾みからかぼくをマイカーに乗せ、夜のナゴヤスポーツガーデンへと連れ出したんだと思います。

なぜそれが夜であったか覚えているかと言うと、中村君自慢の車のメーターが、淡く光っていたからです。

それはそうと、スポーツガーデンでは、お兄さんお姉さん方が嬉々としてボーリングに興じられており、賑わっていたものです。

そしてその傍らにあったゲームコーナーに立ち寄った時、ぼくはこんなサッカーゲーム機を初めて目にし、ついでに背伸びしてバーを回したんじゃないかと思います。

写真は参考

その後の事はもう何一つ思い出せそうにありませんし、それ以降もわが家に「おーい中村君」がやって来たものかも、定かじゃありません。

時としてそうなんですが、遠い記憶も夜中に見た夢も、所々しか鮮明ではなく、それらの前後のストーリーが全く持って不鮮明過ぎて、記憶が一本化されず、ついつい夢か現の狭間の出来事のように感じてしまうばかりです。

でもお父ちゃんはあれ以来、そんなに♪おーい中村君♪の鼻歌を歌ってなかったようにも思えますが・・・果たして真相や如何に?

って、まぁそんなどーでもいいような記憶の真相なんぞ、今さら追い求めて見たって、何かがどうにかなるものでも無し!

得てして人の記憶とは、そのようなものなんですよねぇ~っ!


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「昭和Nostalgia」(429)

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滅多に来客も無かったわが家でしたが、こんな干菓子と言うか落雁を詰め合わせた折り詰めの手土産を、子どもの頃に頂戴したことがありました。

と言っても、幼いぼくが戴いたものなどではなく、お父ちゃんかお母ちゃんの客人が携えられた品に違いありません。

しかし、果たしてどなたがお持ちになられたのか、どのような理由でこのように高価な品がわが家にもたらされたものなのか?

もう記憶を手繰り寄せる術もありません。

その客人が帰ってから折り詰めを開けてビックリ!

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とても色鮮やかな、干菓子やら落雁が、きれいに並べられているじゃありませんか!

なんせそれまで干菓子や落雁と言っても、駄菓子に毛の生えた程度の紛い物しか、目にも口にもした試しがありませんでしたから、両親共々おっかなびっくりで手を伸ばしたことを覚えています。

本格的な干菓子や落雁に違いないのでしょうが、子どものぼくにはどうにもこうにも、甘みもにっすく(名古屋弁で「弱い」の意)どっちつかずではっきりせず、見た目の興奮とは裏腹にガッカリしたものです。

まぁ、本格的なお抹茶でも立ててくれたらまだしも、出涸らしの番茶じゃあ、せっかくの銘菓も台無しだったものです。

「落雁」の由来とやらは、唐の菓子「南落甘(なんらくかん)」が転じたとされるようで、いつしか「南」が略され、「落甘」となったとか。

琵琶湖の浮御堂に舞い降りる、雁の情景を描いた千菓子が、そもそも「落雁」の始まりともいわれているようです。

参考

近江八景の一つ堅田落雁。

黒胡麻を雁の行列に見立て、水面に舞い降りる雁の群れを擬したとも。

写真は参考

高山市の下二之町にある「分隣堂」さんには、こんな塩落雁があります!

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いつの日か機会があれば、静謐とした茶室の躙り口を潜り、和三盆の落雁をいただきつつ、お点前のご相伴をさせていただきたいものです。


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「昭和Nostalgia」(429)

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この梅雨が明けると、各地で花火大会やら、夏祭りが行われることでしょう。

昭和半ばの頃は、お洒落なキッチンカーじゃなくって、夜店の露店が軒を連ねたものでした。

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そんな数ある露店の中でも一際目を引いたのが、このリンゴ飴でした。

とは言え子どもの頃は、そうそうおいそれと買ってもらえぬ代物でした。

当時としてもリンゴ飴は、やっぱり他のたこ焼きやお好み焼きなんぞに比べたら、一文も二文も高かったんでしょうかねぇ?

当時リンゴ飴1個がいくらしたのか、それさえまったくもって闇の中です。

随分大人になってから初めて、子どもの頃の念願でもあった、露店のリンゴ飴を口にしたものです。

写真は参考

でも・・・。

やっぱり色鮮やかなリンゴ飴は、子どもにとって魅力的な味覚であって、決してビール片手に口にするものじゃないって思い知ったものです。

写真は参考

子どもから大人への階段を登ってしまうと、あれほどキラキラと輝きを放っていたリンゴ飴より、醤油ダレが塗られた茶色黒いイカ焼きの方に、ついつい手が伸びてしまうものなんだと思い知った事がありました。

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梅雨が明けたら、どこぞの夏祭りでも、キリン晴れ風を片手に、漫ろ歩いてみようかなぁ?


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「昭和Nostalgia」(428)

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土曜の半ドンの日は、終業のチャイムが鳴ると同時に、ランドセルを背負い一目散に家路へと、駆け出したものです。

「お昼ご飯に、どうかハムカツが添えられていますように!」と、そう念じながら!

「ただいま~っ」と玄関の引き戸を開け、茶の間へ飛び込めばやっぱり!

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内職仕事のお母ちゃんの傍らに置かれた、ストーブの上に掛けられたアルマイト製の鍋がグツグツと煮え立ち、部屋中を味噌の香りが覆い尽くしていたものです。

特に冬場の土曜の午後は、まずもって九分九厘間違いなく、朝の残りの味噌汁に、これまた残り物の冷ご飯を入れて煮込み、最後に溶き卵を流し入れただけの、味噌おじやと相場は決まっていた気がします。

それはもう既にいつもの事として、ぼくの中でも織り込み済みのことでしたから、さて置くとして、問題は卓袱台の上にぼくの大好物だったハムカツが、デーンと添えられているかどうかが最大のポイントであったのです。

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まぁ、今にして思えば、土曜の半ドンの昼ご飯に、ハムカツが添えられていたのは、おそらく月に1度程度の割合だったのかも知れません。

向こうが透けて見えそうなほど薄っぺらなハムに、これでもかってぇほど肉厚な衣を纏ったハムカツ!

そんな大半を衣が占めたようなハムカツこそが、当時のぼくにとっては最大のご馳走でもあったものです。

今となっては肉屋の揚げ物コーナーでも、そんな衣が大半を占める薄っぺらなハムカツなど、もう見かけられはしません。

そう思うとどうにもこうにも、あの衣ばっかりのハムカツが食べたくなってしまうのも人情。

ならばと自分で試してみても、そんなに分厚い衣など纏わせられません!

子どもの頃の肉屋さんは、どうやってあんなに分厚い衣を薄っぺらなハムに纏わせられたのやら?

貧しかった昭和の半ば、少しでも薄っぺらなハムを分厚く見せようと、苦心惨憺な策だったとは言え、その巧みな技に今更ながら舌を巻くばかりでした。


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