「天職一芸~あの日のPoem 93」

今日の「天職人」は、岐阜県羽島市の「料亭花板」。

三味に浮かれる無粋な客の 酒の戯れ心を抉(えぐ)る   どうせ叶わぬ板場の恋よ 粋な花街戻り川         源氏名じゃなく名前で呼んで 腕の枕でそうつぶやいた   叶わぬ想い身を焼きながら 逆さに流る戻り川

岐阜県羽島市の料亭西松亭、三代目女将の西村智恵子さんを訪ねた。

「家の裏を流れる川は、逆川(ぎゃくがわ)と言って、この辺り一帯は堤に咲いた花の町だったんやて」。確かに川面は、下から上へと向かって流れる。誰が名付けた「戻り川」。智恵子さんは、懐かしそうにつぶやいた。

女将は三人姉妹の長女として誕生。昭和45(1970)年、東京の料亭で花板を張っていた夫を婿養子に迎えた。

この辺りは昔旭町と呼ばれ、二軒のダンスホールと十軒以上の料亭が軒を連ね、芸者置屋からは三味の音が川面を遡る風と戯れたとか。

「朝の八時くらいに旦那衆が上がり込んで、芸者を揚げてはドンチャカドンチャカ。疲れ果てて一寝入りして酔いが醒めれば『おおい!空いとる芸者、全部総揚げや』って。一万円札が初めて発行された時なんて、『これが一万円札や!お前らにも見せたろ』って、芸者衆や仲居にまでご祝儀ばらまいて」。

昭和2(1927)年創業の西松亭は、三十年(平成十六年五月一日時点)ほど前から二代目と三代目が試行錯誤を繰り返し、スッポン料理に挑んだ。「『おおぃ、ドチ(スッポンの方言)あるか』ってお客様が、最初の頃は一年に一組あるかないかやった」。それが今や看板料理の一つに。

四代目の花板を継ぐ永根(ひさね)さんは、高校を出ると京都祇園の高級料亭、円山菊乃井に住み込み五年に及び修業。「円山公園が枝垂桜で一番賑わう時に見習いに入り、毎朝四時から翌深夜三時までぶっ通しで洗い物ばかり」。同期入店の十人の板場見習いは、あまりの厳しさに耐え切れず、次から次へと店を去った。しかし高校在学中に調理師免許を取得した程の永根さんは、五年の苦行にも耐え、煮方の脇鍋に。当時一ヵ月の給料六万円は、勉強の一つとして食べ歩く費用に費やされた。

現在、永根さんが腕を揮うスッポン料理は、赤ワイン割りの生血に始まり、絶品のゼラチンと呼ばれる甲羅の縁側の水煮、肝、胸肉、脾臓(ひぞう)、心臓のお造り、皮の唐揚げ、骨で出汁を取った鍋、締めは雑炊。

「六十年ぶりに生まれた男の子やと、お爺ちゃんに可愛がられて。だから店を継ぐのも当たり前。『店はお前が守るんやない。お客さんが守ってくださるんや』って、お風呂で毎晩聞かされてましたから」。白衣も板に付く若き花板は、歴史に阿(おもね)ることもなく、客が守りたくなる程の味の追及に挑み続ける。

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4/28の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「筍とHoney babe!気分はメキシカ~ン小豆のチリビーンズ煮込み」

ゴッド君からいただいた筍で、筍ご飯、焼き筍の味噌田楽、筍とHoney Babeの和風煮など、一通り思いつくまましっかりといただきました。

そして食べきれない分は、あく抜きをして瓶詰にして冷蔵保存してありました。その筍で、ちょっと一工夫をと捻り出しましたる作品がこの「筍とHoney Babe~小豆のチリビーンズ煮込み」です。

長野県飯田市でHoney Babeを生産するわが友は、「オラの作ったHoney Babeと筍を炊いてみぃ、こんなうめぇもん他にないらぁ」と、いつも自画自賛しておりました。それもそのはず、本当にHoney Babeの独特の脂身の甘さが筍全体に染み渡って、和風出汁とお醤油味にドンピシャで、酒のあてにもご飯のおかずとしても絶品で、この時期ならではのぼくの楽しみの一つです。

その筍のためにあるような、Honey Babeのトンカツ用ロース肉と、ゴッド君から頂戴した掘り立ての新鮮な春のご馳走の筍ですから、むろんまずかろうはずなどありません!

まあ一通り、筍のスタンダード料理はいただいてしまいましたので、今回はこんな変わり種にチャレンジです。

まず筍とHoney Babeのトンカツ用ロース肉は、一口大程度の大きさに乱切りにし、たっぷりのバターを溶かして深めのフライパンでソテーし、塩、ブラックペッパーを振っておきます。

そしてそこにトマト缶一缶と、前の晩から水に浸けておいた小豆を水切りして加え、白ワインとコンソメ、塩、ブラックペッパー、タバスコでピリ辛のお好みの味に調え、しばらく筍とHoney Babeを煮込みます。

ほどよく煮込んだら皿に盛り付け、生クリームを注ぎ入れれば完成。

さすがに本物のチリビーンズのうずら豆と小豆では、そもそも豆自体の大きさも味も違いますが、しかしこれがどっこい侮るなかれ!なかなかどうしてな、なぁ~んちゃってチリビーンズ擬きになるからたまりません!

しかもゴッド君の筍と、わが友のHoney Babeとのコラボレーションが実に巧みなものとなり、和風の筍料理とはまた趣の違った味わいを楽しませていただけました。

今回もやっぱり、キリン一番搾りでぷっはあ!極楽極楽!でした。

皆様方も、和風の筍料理にちょっと飽きちゃったかなってな時に、お試しくだされ!

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「天職一芸~あの日のPoem 92」

今日の「天職人」は、三重県津市の「時計職人」。

肩に回したぼくの腕時計 何度見つめても時は止まらない  だけど君を抱いたあの夜から ぼくの人生を刻む時は    君の前に立ち尽くした                  二人で一つの時を刻みたい 心の速度がずれないように

三重県津市の林時計舗、四代目の林俊一さんを訪ねた。

「これは曾お爺ちゃんが、戦争中に付けた傷。そっちはお父さんが、まだ学生やったころのもん。本当にいい時計って奴は、そうやって家族の年輪と想いを刻み込んでくもんやさ」。俊一さんはショーケースの中の一角にある、年代物の懐中時計と腕時計を指さした。

伊勢商人発祥の地とされる分部町(わけべちょう)。林時計舗は、明治23(1890)年に開業。俊一さんは、創業当時の林時計舗を描いたという、錦絵を広げて見せた。俊一さんはこの店の三代目の弟であった教師の父の元に誕生。そして中学を卒業と同時に、子供に恵まれなかった三代目の養子として迎えられた。

高校を出たその日から、祖父の丁稚仲間であった愛知県津島市の時計店へ修理技術の修業へ。一年で帰郷すると今度は、東南アジア七ヵ国を巡る船旅へと向かった。一ヵ月の給料がわずか一万円の時代、五十五日間の船旅の食費に、五万五千円もの大金を費やした。「本当はなぁ、スイスに行きたかったんさ」。

俊一さんの心に、四代目としての自覚が芽生えようとしていた。

来る日も来る日も、機械式時計を三十分でばらしては、また三十分で組み立て上げる練習の繰り返し。「あの頃の時計は、給料の二~三倍。親子三代が使えやんと価値もないでなぁ」。

小さな水晶が振動し、一定の力を歯車に伝えて秒針を運ぶ。「機械仕掛けは、時計職人が産んだ芸術みたいなもんやさ」。

しかし様々な技術革新は、時計産業にも変化をもたらせた。小さな電池一つで動き続けるクォーツの到来で、先代時代からの時計職人が姿を消していった。「ある日のことやさ。記念にもうたクォーツ時計が壊れたゆうて、修理に持ってこられたんやけど、家(うっ)とこでは出来やんでメーカーへ送ったんやさ。で、そん時に『これではあかん』、そう思てな」。俊一さんは、クォーツからデジタルへと日々進化を遂げる近代路線への決別を覚悟した。

「精密な時計は、みな戦争用に作られたもんやでなぁ。すぐに壊れたら、兵士や国の命に係わるで」。

アナログな機械仕掛けにこだわり、精密度を高める時の番人は、三十歳の冬に恋に落ちた。「初めて飲みに行った場所でプロポーズして、一週間断られ続け、ついに八日目にOKをもうたんさ」。妻、恵理子さんと共に、運命の時を刻み始めた。

「時計は生き物。頭と同じで、いつも回転させてやらんとなぁ」。

目を閉じて耳を澄ます。店内のあちらこちらから、小さな小さな振り子の音が聞こえる。

一人に一つの人生という、確かな時を刻む音が。

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「天職一芸~あの日のPoem 91」

今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の「染み抜き師」。

心の渇きで眠れぬ夜は 寝酒に君の面影浮かぶ       星の雫が頬を伝えば 叶わぬ想いは闇を渡る        心に染みた涙の痕は 誰にも消せるわけじゃない      微かに明日を燈す君の 小さな約束あればいい

名古屋市昭和区の染み抜き師、二代目の青木昇さんを訪ねた。

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「顔の染みと、心の染みだけは、よう取らんでな」。昇さんは冗談めかしてつぶやき、霧吹きを口に咥えて、着物の裾に噴き掛けた。

六畳一間の作業場には、四つの座卓が置かれ、それぞれに天井から蛍光灯が長く吊り下がっている。

昇さんは男四人兄弟の次男として誕生。ちなみに長男と三男は紋付け師。昇さんと四男が染み抜き師として、男兄弟四人が狭い作業場で黙々と技を揮う。「まあ紋付けと染み抜きは、合わせ鏡みたいな関係だて。だって紋付けをうっかり間違ってみい、えらいこっちゃ。まあいっぺん元に戻さなかん。そんだで染み抜きの技術も磨かれたんだて」。

昇さんは高校を出ると、先代が修業した老舗に住み込み、修業に励んだ。当時初任給の相場は、一万三千円。しかしそこは修行の身。食住付きで三千円の奉公だった。五年の修業を終え、幼馴染の美代子さんを妻に迎え、二人の娘の父親に。

「大阪万博の頃までは、まんだ着物を着る人も多て、紋付け染み抜きも忙しい時代だったわ」。しかしその後は、着物から洋装全盛の時代へと。

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「襟や袖口は食べこぼし。後ろは月の物。特に女の人は『胸(だき)』って言って、乳房んとこに汗染みが出来る。肉眼で見ても見ええへんけど、霧を噴き掛けたると汚れに反応して染みが泣く(滲む)んだて。でもボールペンのインクみたいな油性のもんは泣かん。染みも時代と共に変わってまったって。この頃は化学薬品の染みが多いで手間も掛かるって。まるで探偵の謎解きのように、あれやこれやと知恵絞って、染みを取ってくんだて」。

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水にアンモニアを一~二滴落とし霧を噴き付け、棕櫚のポンポン刷毛で染みを叩き出し、晒しを当て汚れを移し取り、熱した鏝の上で乾かす。柄の上の染みを抜くと、柄そのものも色が落ちる。落としてしまった柄には、マッチ棒の先を削り、染料を付けて染め直す。

「お客に『手間賃三千円です』って言ったら、『何でや、一分もかかっとらんがや』って訝(いぶか)るもんだで、『いいえ!わしの手間は、三十九年と一分かかってます』ってゆうたるんだわ」。確かにその言葉は、昇さんの道具が物語る。修業当時長さが十二㎝もあったポンポン刷毛は、わずか三㎝に。十五㎝あった象牙のヘラも四㎝だ。

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「染みは怒らせたら終いや」。小さな染みの感情さえも読み取る。誤魔化し美学こそが、一端の染み抜き師の証なのだ。

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「唐辛子の間引き!」

先日の薬味小鉢の唐辛子を説明書を見ながら、間引きして一番大きなものだけにしてみました。

とは言え、他の苗を捨ててしまうことなどできず、ホームセンターで土と肥料と鉢を買い込んで、苗も今流行りの「密」はいけませんので、それなりの間隔を開けて植えておきました。

また成長記録をご紹介いたします。

どんな色の花が付くのか、毎朝愉しみでなりません。

以前、オンブバッタの肥後ニャンが居たころ、肥後ニャンの定位置だった出窓の日当たりの良いところが、薬味小鉢さんの居場所となりました。

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「天職一芸~あの日のPoem 90」

今日の「天職人」は、岐阜県明智町の「紙芝居師」。

童の声に導かれ 自転車劇場坂登る            村の鎮守の境内は 五円握った子らが待つ         太鼓と銅鑼の幕開けは 子供心を釘付けに         正義が悪を倒す度 手に汗握る腕白も

岐阜県明智町で「豆腐のつねさ」の異名を持つ紙芝居師、伊藤恒一さんを訪ねた。

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半ズボンにランニングシャツ。毬栗頭に草履履き。真っ黒に日焼けした少年が、触れ太鼓を打ち鳴らしながらお宮へと向かう。辻々から子供らが涌き出で、五円玉を握り締めたまま、紙芝居屋のオッチャンの後を追う。「こらぁ!ただ見したらあかん!」。前口上の途中、必ずオッチャンは大声を張り上げた。

そんな四十年近く前の記憶が、一人の柔和な老人の顔を通して、鮮明に思い出された。それが恒一さんだ。

恒一さんは尋常高等小学校を上がると、鉄工所へ小僧に出た。二十歳になると戦闘機の製造に従事しやがて終戦。戦後は職もなく、地元で木工作業に携わり、昭和25(1950)年に結婚。それから二年ほど、魚の行商で家族を支えた。

「子供の頃、農村歌舞伎をやっとったのが縁で、村の先輩紙芝居師に誘われたんや」。そして無声映画の活弁士に学び、紙芝居の配給元であった松竹や日活から、紙芝居のネタを仕入れ、毎日山道を二十㌔近くも自転車を漕いでは、瑞浪市や土岐市の駄知町まで営業に回った。

「日曜日やと一日で千円ほど稼げよった。平日やと学校が終わってからやで、三百~五百円ほどや」。当時は大工の手間賃が一日三百五十円。配給元に一ヵ月千五百円支払っても、優に稼げた時代だった。

大きな練り飴が一本五円、小さいのが三円。人気の出し物は、「黄金バット」「怪人二十面相」「鞍馬天狗」。いずれも続き物のため、子供らは連日目が離せない。

「そんなもん、毎日五円玉持って来る子は、裕福な家の子だけやて。後の子らはみんなこっそりただ見やわ」。恒一さんは、子供らの家庭の事情も汲み取り、一応大声でただ見を牽制するものの、後は見て見ぬ振りを決め込んだ。「みんな首に風呂敷巻いて、棒っ切れの刀振り回して」。子供らの喜ぶ顔が何よりの宝だった。

しかし漫画雑誌の発刊や映画の普及により、見る見るうちに紙芝居屋は街角から姿を消していった。

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恒一さんは見よう見真似で「豆腐のつねさ」を開業。家族を支え続けた。

それから四半世紀。大正村の発足に伴い、昭和の終わりを目前に、紙芝居師として六十七歳の年に再び返り咲いた。

「誰もが貧しかった。でも皆逞しく生きとった。ただただ、明日を信じてな」。穏やかに老紙芝居師が笑った。まるで昭和の残像を、額の皺に刻み込むように。

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「天職一芸~あの日のPoem 89」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「飴細工職人」。

田舎歌舞伎の触れ太鼓 幼子連れて楽屋を見舞う      お父さんよと教えても 足がすくんで泣き出す娘      時代がかった髷頭 白い襦袢に隈取顔じゃ         誰が見たって大悪党 こんな父親知らぬと叫ぶ

名古屋市西区の歌舞伎飴本舗、初代の神谷佐恵子さんを訪ねた。

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「ちょっと寸は足らなんだけど、これがまた中々の洒落もんやったって」。佐恵子さんは、夫であった春吉の遺影を見つめた。

愛知県知多市出身の初代春吉は、大須門前町の飴屋で奉公。昭和23(1948)年に同郷の佐恵子さんを妻に迎え、独立して店を構えた。

「まあ畳も入っとらんし、満足な屋根もない家やったわ。そんでも飴を作る端から、行商さんが裏から持っていきよった」。戦後の混乱が続く統制時代。人々は甘いものに生きる希望を託した。

翌年には長男の二代目、近藤博司さんが誕生。「今と違って、夜なんて他にやることもあれへんし、直ぐにこの子が出来ちゃった」。佐恵子さんが屈託なく笑う。すると隣で博司さんが釘を刺した。「またいらんこと、口に出す」。しかしそれもどうやら糠に釘。「そんでもあんたが産まれた言うたら、知多の実家まで満面の笑み浮かべて飛んで来たって!あんな嬉しそうな顔、見たことないわ」。

二年後、春吉の独創的な歌舞伎飴が、世に送り出された。人気の高い助六、暫(しばらく)などの隈取を、金太郎飴の要領で見事な細工を施した逸品。砂糖と水飴を火にかけ、冷ましながら食紅で着色し、隈取に必要な部品に仕分ける。それを海苔巻きの要領で、切り口が隈取を表すように組み立て、直径1.5㎝程の細さに引き伸ばし、1㎝程の幅に切り落とす。全てが手作業。しかし全国各地の歌舞伎小屋で飛ぶような売れ行きとなった。

博司さんは慶応大学へと進学。しかし家業の都合で中退を余儀なくされ、東京の菓子問屋に就職。「せっかく名古屋へ戻って来ても、家をつん抜けてまって嫁の家へ上がり込んどったらしい」。博司さんが思わず咳払いを一つ。六年間の交際を続け、妻久恵さんとの愛を育んだ。ところが久恵さんは近藤家の大事な跡取り娘。博司さんは婿入りを決意したものの、頑固一徹な父を前に心が揺らいだ。「この人、そんで胃に穴が開いてまったんだて」。母が大声で笑った。博司さんは悩みぬいた末、弟で工場長を務める和雄さんに打ち明け打開策を思案。結局、婿入りしても家業は継ぐという条件で、頑固親父を説き伏せたそうだ。

「今や海外の安い大量生産品に押されて・・・」。博司さんは、先代が歌舞伎飴に添えたという、隈取の意匠を表した栞を眺めた。

「敗戦後の子供たちを、甘いもんが勇気付けたように、いつの日かイラクへ行けたら、現地の子供らに飴を食べさせてやりたいわ」。佐恵子さんが風のようにつぶやいた(平成十六年四月三日時点)。

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「最後のプロポーズ」

婚約指輪の歴史は、はるか古代ローマ時代にまで遡るとか。

古代ローマでは、約束を果たす誓いの印として、互いに鉄のリングをはめる習慣があったそうです。

それが2世紀頃になると、金でリングが作られるようになり、恋人同士の愛の証に用いられるようになったのだとか。

一方エジプトでは、象形文字で表す結婚という言葉は、永遠という意味合いを持つ「円」で描かれていたそうで、指輪の円の形には「永遠に途切れない」という、そんな深い意味と願いが込められていたそうです。

婚約指輪というと左の薬指ですが、これにも古くから意味があるようです。

古代エジプトで左手の薬指というのは、心臓につながる太い血管が通っている指、と考えられていたそうです。そこから永遠の 愛を誓うために、左手の薬指に指輪をはめるようになったとか。

永遠の愛の証の指輪が親指では、ちょっとなんだかなぁ・・・ですよね。

今夜は、「最後のプロポーズ」と言う曲を、まずはぼくの拙い弾き語りでお聞きいただこうと思います。

えっ!最後のプロポーズって何よ!と、首を傾げられる方もおいでのことでしょう。

確かに、最初で最後のプロポーズのまま、人生の幕が下ろせたら、そんな幸せなことはありません。ところがどっこい!そうそう理想通りに行かないのが、人生の綾なのではないでしょうか?

皆々様のプロポーズは、いかほどの物でしたでしょうか?

「最後のプロポーズ」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

これが最後の ぼくのプロポーズ

君の心に届くだろうか 遠回りばかりしたけど

 ああ 流れる 星 よ  ぼくの願いを

 叶えてよもうこれ以上は  何も望まぬ代わりに

こんな安っぽい 細いリングでも

指を通してくれるだろうか ぼくの愛の証として

 ああ 煌めく星に 君となりたい

 そして永遠に何億光年も 彼方へと旅立とう

これが最後の ぼくのプロポーズ

君の心に届いたろうか ぼくの愛を受け止めて

ぼくの愛を受け止めて

続いては、CDに収録された「最後のプロポーズ」をお聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「端午の節句のお楽しみ!」。ぼくの子供の頃は、鯉幟なんてものは買ってもらえませんでした。と言うよりも、大きな竹竿を立てて、優雅に鯉を泳がせられるほどの庭が無かったというのが、正直なところです。でも同級生の農家の子の家には、それはそれは立派な鯉幟が揚がっていて、羨ましくてならなかったものです。ぼくの端午の節句のお飾りは、武者人形が一体で、慎ましやかにガラスケースに入っていたものです。まあ子供の頃なんて、食べられるわけでもない、腹の足しにもならない、鯉幟や端午の節句の飾りより、粽や柏餅がそれはそれは愉しみでならなかったものです。だから漢字も知らない子供の頃ですから、「端午の節句」を『団子の節句』とすら勘違いしていたほどでした(汗)。さて皆々様の端午の節句のお楽しみは、いかがなものでしたか?

今回はそんな、『端午の節句のお楽しみ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.04.28「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

あのゴッド君から春のおご馳走が送られてまいりました。これがヒントと言えばヒントですが、写真を見りゃわかっちゃうか!

でも侮るなかれ!もちろん和風ではなく、ちょっとメキシカン風とでも言いましょうか?

さあ、お目が高い皆様は、お分かりになられましたでしょうか?

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 88」

今日の「天職人」は、岐阜市一日市場の「渡しの船頭」。

長良のほとり桜の並木 花嫁乗せて船出す船頭       流れをかわし櫓(ろ)を切りながら 世の荒波へ漕ぎ出す門出                           川面に揺れる金華の山と 白い小さな花嫁の顔       水面の鏡小指の先で そっと紅注す小紅(おべに)の渡し

岐阜市一日市場の小紅の渡し、船頭の棚橋正己さんを訪ねた。

片道たった二分の船旅。それが小紅の渡しだ。春まだ浅い長良川の川面を、対岸の鏡島弘法(乙津寺)裏の、土手を目指し滑り出す。「弘法さんの四月のご開帳ん時は、朝から晩まで櫓を漕いで、五百人ぐらい渡しとるんやて」。正己さんは船頭小屋の窓から、対岸の船着き場を眺めた。

正己さんの一家は、終戦の前年、旧本巣郡本田村から一日市場に移り住んだ。中学を出ても戦後の混乱で満足な仕事もなく、土木作業や農作業に従事。十七歳になって小紅の船頭を務めた。

「今は、誰も乗りゃあせんけど、ここは川の中の生活道路やったんや。だで糞尿入りの桶積んだリヤカーや自転車乗せたり、鏡島に野菜持ってって物々交換する人らをよう渡したもんやて」。小紅の渡しは、歴(れっき)とした県道、文殊茶屋新田線だ。

昭和31(1956)年、正己さんは繊維関係の会社に就職。それから五年後、高知県出身の静子さんと結ばれ、定年まで勤め上げた。「従兄弟がここの船頭やっとったで、毎月弘法さんの命日だけ、わしも手伝っとったんやて」。

従兄弟の引退で、正己さんが船頭を引き継いだ。「川が好きな出来んよ。川の流れと風向きを読んで、櫓を繰り出すんやで。たとえそれが片道二分の渡しでも、年間七~八千人の命を預かるんやで」。正己さんは日に焼けた赤ら顔を綻ばせ、窓から対岸を覗き見た。「向こう岸から手を振るもんがおると、迎えに行ったらなんでな」。

小紅の由来は、昔の女船頭の名とか、紅花を栽培していたからとか、嫁入りの渡しで、花嫁が水面に顔を映して紅を注し直したとか諸説ある。「わしはやっぱり、花嫁が紅注し直した説を、一番気に入っとるんやけどな」。

定員九名の渡し船の座席に腰を下ろし、周りの景色を見渡せば、土手の高さに高層ビルも遮られ、浮世離れした昔日と出逢う。

「でもまああかんて。昔と比べると水量も減っちまって、水位も下がりっぱなしやで」。長良川の流れを誰よりも愛し、半世紀に渡り小紅の風景を見守り続けた、老船頭の言葉が川面に舞った。「長良川は、わしの人生そのもの。命の源やて」。

船を舫(もや)う手を止め“いのけるうちは、まあちょっとやろかな”と、正己さんはまるで長良川に聞かせるかのように、そう呟いて穏やかに笑った。

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