「天職一芸~あの日のPoem 99」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「旅籠女将」。

叩き打ち水涼を呼ぶ 疲れし旅の癒し水          女将の声につい釣られ 不意に口付く「ただいま」と    おかげ詣りの賑わいを 偲ぶ日野町宮街道         草鞋の替えを振舞て お蔭様でと掌を合わす

三重県松阪市で文化年間(1804~1818)創業の旅籠、鯛屋旅館に十代目女将の前川廣子さんを訪ねた。

「わたし結婚式の前日まで、夫を『お兄ちゃん』って呼んでたんやさ」。廣子さんは帳場で上品に笑った。

東京生まれの廣子さんは、強制疎開で母の在所の松阪に。遠縁に当たる鯛屋の、後に夫となるお兄ちゃんに可愛がられた。そして小学一年の年に東京へ。母が教える文化服装学院に学んだ。

「先代の大女将にえろう気に入られ『廣ちゃんを誰かに取られんように』ゆうて、ジャズに目がないお兄ちゃんを上京さして来たんやて。それで二人して、ようベニー・グッドマンとか聴きに行ったもんやさ。その内知らんとる間に『わたしこの人とやって行くんやろなぁ』って思っとったんやさ」。

ついに大女将は、廣子さんの母に「娘として嫁に貰えんやろか」と懇願した。

廣子さんはわずか十九歳で、鯛屋の嫁となった。「着物も自分でよう着やれんと。案山子みたいに、両手を広げて突っ立っとんやさ。後はみんな仲居さんに着せてもうて」。

それからは名立たる歴代の女将に負けじと、一男一女の母として、また若女将として「毎日が宴会」とばかりに、高度経済成長期を駆け抜けた。

やがて大女将は「廣ちゃん。あんたの息子の嫁は、あんたとこの身内からもうといでや。それが何より、安気に商売続けられるコツやで」と言い残し、十三年前に他界。(平成十六年六月十九日時点)

その半年後。廣子さんの長男が、画家である叔父の個展にお祝いを持って上京した。その受付を手伝っていた遠縁の裕子さんと、二十数年ぶりの再会へ。女将の思惑通り、運命の歯車が、ゆっくりと動き始めた。

それからしばらく後。裕子さんが初めて松阪の地を踏んだ。三泊に及び廣子さんの長男と伊勢志摩巡り。和田金で贅を尽くした最後の晩餐。廣子さんは紬の着物で正装し、おもむろに切り出した。

「裕子ちゃん。考えてくれたんでしょうね」と。「さすがに『しまったぁ!』って思いましたよ。だってもう和田金のお肉、ペロツと食べた後だったんですもの」と、若女将の裕子さん。

運命の赤い糸は、女将の廣子さん、長男である若旦那、そして若女将の裕子さん、それぞれの思惑で描かれたシナリオを、見事一つの見せ場に紙縒り上げた。

「大女将に半分、そして旦那に半分惚れて」と、廣子さん。「わたしも!」と、傍らから若女将の裕子さん。

まあ、何はともあれ「メデ鯛屋!」。

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5/05の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「筍とコンニャクの白和えwithジェノベーゼソースと木の芽添え」

筍の水煮にした残り物と、味噌汁の具の残り物の木綿豆腐で、白和えにして見ました。

ぼくの白和えは、すり鉢で豆腐を潰し、湯がいたコンニャクとミックスナッツをクラッシュしたものを加え、練りごまと出し汁と醤油で味付けたゴマダレと混ぜ合わせ、皿に盛り付け市販のジェノベーゼソースと鉢植えの山椒の木の芽を添えて完了です。

ジェノベーゼソースはほんの彩のつもりでしたが、これがまたまた何とも和風の白和えに、オリーブオイルとバジルの香りと風味がピッタリ!

冷やっこくってなかなかどうしてな逸品となりました!

後で気が付きましたが、こんなことなら松の実と彩でクコの実を散らしても、もっと美味しくなっただろうと思ったほどでした。

今年の春は、ゴッド君からと、長野県飯田市のハヤシファームさんから届いた筍三昧で、満足満足な春となりました!

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「天職一芸~あの日のPoem 98」

今日の「天職人」は、岐阜市加野の「岐阜提灯摺込(すりこみ)師」。

病の床を抜け出して 長良の鵜飼訪ねたい         母の小さな願いさえ 叶うことなく四季は逝く       松明燈す庭先で 茄子の馬が母を乗せ           違(たご)うことなく連れ来(きた)る 初の迎え火岐阜提灯

岐阜市加野の岐阜提灯刷込師の、稲見繁武さんを訪ねた。

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「微妙な色が一つずつ入るたび、長良の流れと木々の色合いも深まる。その何とも言えん途中経過が好きやったんやて」。繁武さんは、実直そうにはにかんだ。

繁武さんは中学を上がると、直ぐに鉄工所に入社。しかしわずか一年後に、鉄工所は倒産。知人の勧めもあり、提灯摺込師の元で修業を始めた。

「明けても暮れても、顔料を乳鉢で磨りからかして、型紙切りを覚えるまでに五~六年はかかったもんやて」。八~九色の顔料を親方が調合。「色の作り方をこそっと盗み見るんやて」。一端の摺込師として認められるまでには七~八年が費やされた。

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やっと腕に覚えが付き始めた昭和三十五(1960)年、三つ年上の愛妻、緑さんが嫁いだ。「友達の紹介やったけど、あんまり覚えないんやて」。繁武さんは照れ臭そうに、妻に助け舟を求めた。「どんな仕事しとるかもわからんのに、お父さんの誠実さに惹かれたんやて。だからか学者みたいに気難しい父も『この人なら間違いない』って、太鼓判押したほどやで」。妻が懐かし気に夫を見つめた。

市内の安アパートで、新婚生活が始まった。「六年後に独立するで」と、緑さんへの宣言がプロポーズ代わり。緑さんは洋裁の注文をこなし、安月給の夫を支えながら子育てに追われた。

昭和四十二(1967)年、子供の入学に合わせ、あの日の約束を見事に果たして独立。「まああの頃は、忙して忙して。朝は八時から夜中まで、働き詰めやったって」。源氏絵の雅やかな図柄が摺込まれた一枚の作品を広げた。「これは百二十手かかっとるんやて」。摺込師は、絵師が色付けた絵を見ながら、色の数だけ百二十枚の伊勢型紙を彫り込む。この細かな作業に丸四日。見本付けに二日。完成までに一週間が、惜しみなく注ぎ込まれる。「やっぱり印刷では出せんのやて。薄い和紙に、何度も重ねて摺込むんだで、色が浮き立って来るんや」。

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上品で控えめな色彩が、岐阜の美しい四季の絵柄を一層引き立てる。しかし売れに売れた時代は、バブルの終焉と同時に幕引きを迎えた。「毎日コツコツと。一生こんだけの仕事やて。ようやって来たねぇ」。繁武さんは、苦笑いを妻に向けた。「真面目一筋で、私にはもったいない位の人やて」。妻が夫を見やった。

金の草鞋で手に入れた、姉さん女房の言葉は、ひたむきに生き抜いた老職人への、何よりの誉れとなった。

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「天職一芸~あの日のPoem 97」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「黒七輪職人」。

夕暮れ時の玄関先で 腕白共が団扇を扇ぐ         豆炭熾し母の手伝い 七輪の鍋コトコトと         鍋の湯船で小豆が膨れ 黄金色したザラメも溶ける     白玉浮かぶ母のぜんざい 椀にほんのり甘い湯気

愛知県碧南市で三代に渡り、三河の黒七輪を製造する、杉松製陶に杉浦和徳さんを訪ねた。(平成十六年六月五日時点)

路地を曲がれば、置き去りにされたままの昭和の風景が広がる。風雪に耐え、やや傾いた薄暗い木造の工場から、和徳さんが顔を覗かせた。

「最盛期の頃は、黒七輪の窯元も五十軒はあっただ。んでもかん。プロパンの時代になってからは。だもんで儲かれへんで、皆辞めてってまって、もう家一軒しかのこっとらんらぁ」。和徳さんは黒い指先の、細かい土を払い落とした。

三河の黒七輪は、昭和が四十年代を刻み始めるまで、炊事場になくてはならない脇役として重宝がられた。

七輪には、白い珪藻土で作られるものと、瓦に用いる三河土で作られる黒とがある。白七輪は熱に強い反面衝撃に弱く、中央に巻く真鍮製のベルトが特徴。一方黒七輪は二重構造で、珪藻土の内釜を三河土の外釜がしっかりと取り囲む。

「わしらぁ、真鍮のバンドせんことが誇りやっただぁ。この黒七輪は、海沿いの町でようけ使われとっただ。白七輪はバンドが潮で錆びるらぁ。んだもんで、潮に当たらん内陸が主だらぁ」。和徳さんは、三十年連れ添う恋女房に同意を求めた。妻のさだえさんがことりとうなづいた。

七輪作りは、安城産の三河土を土練機(どれんき)に半日かけ、石膏型に流し込んで形成し天日干しへ。手頃な乾き加減の内に面取りを施し、黒七輪最大の特徴である風窓を切る。団扇で風を送る小窓だ。まず形成した外釜に、角度を変えながら切り込みを入れ、長方形の窓枠の半分を切って取り除く。そして残りの半分を風窓の引き戸とする。実に巧みな鎌型の小刀捌きである。「乾き切ってもかんし、柔(やわ)こいまんまでもかんだぁ」。

乾き切ったところで黒鉛を塗って、那智石で七輪の上部を磨く。そしてだるま釜に二日間入れ焼成。最後の火を落とした瞬間に、秘伝の松脂を入れ釜を密封。すると艶消しの黒光りした三河の黒七輪が、この世に産声を上げる。

「一銭より安い、七厘で買えた」。それが転じて七輪とか。「サナ」と呼ばれる、炭を浮かす受け皿に、七つの穴が開いていたからだとか。一回の煮炊きに要する燃料が、七厘で賄えたからとも、七厘の由来は諸説様々。それだけ庶民の暮らしを支え続けた、古来からの立派な調理器具だった。

夕餉の手伝い。団扇片手に豆炭を熾した日々が懐かしい。昭和の名残がまた一つ、確かな速度で遠退いて逝く。

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「天職一芸~あの日のPoem 96」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「手延素麺職人」。

麦藁帽子虫篭下げて ぼくらは夏を追いかけた       蝉捕り飽いて水遊び 影も短くなった頃          腹ぺこたちの家からは 素麺啜る音がした         井戸水張った盥の中に 大きな西瓜プカプカと       夕立後の茜空 縁の風鈴涼告げた             何故こんなにも恋しいの もう戻れないあの夏が

三重県四日市市で代々素麺作りを続ける、渡邉文夫さんを訪ねた。

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「忙(せわ)しいと、素溜まりでも喰いよった。今しは作るもんも、喰うひとらも減ってもうたでなぁ」。文夫さんは曲がった腰を庇うように立ち上がった。

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戦前の最盛期は、近在だけでも三百五十軒が、農閑期に素麺作りを営んだ。

二百数十年前、旅の僧が素麺作りを伝えたのが始まりとされる。朝明(あさけ)川の辺は、素麺に最適な赤柄小麦の栽培が盛んで、水車製粉の水利も得ていた。特に鈴鹿颪の寒風は、素麺を鍛えるに打って付けの気候風土。いつしか農閑期を支える副業となった。

文夫さんは中学を上がると農作業の傍ら、十二月から三月にかけて素麺作りの最盛期に、夜を徹して働き詰めた。「素麺を竹の棒に絡めて伸ばすと、そこだけ束んなって固まるもんやでな、『ふしこき』ゆうて、子どもらが手伝ってそれをばらすんさ」。文夫さんが節くれ立った指で、その作業を真似た。

手延素麺は、高さ二mほどのハタゴという、上下に竹の棒が刺さる台座に、八の字を描くよう手で伸ばしながら掛けられる。一本の長さは、四百mにも及ぶとか。「塩加減一つやさ。ちょっと暑いと塩を利かせ、寒いと甘くせなかんでなぁ」。

作業は二日工程。初日は昼から大きな桶に、小麦を塩水で練り上げる。そして綿実油(めんじつゆ)を塗り、団子状の生地を大根ほどの棒状に伸ばし、その後小指ほどの大きさになるまで紙縒り続ける。そして翌日は、午前二時に起き出して様々な工程を経て、身体を二つ折りにした体勢から、足元の竹の棒に絡めた素麺生地を、立ち上がりながら伸ばす小引き作業を繰り返し、夜明けと共に乾燥へ。全十三工程、二日間で約二十五時間にも及ぶ。「昔からこんな仕事『手延は親の死に目にも会えやん』って言われたもんやさ」。

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それが証拠に、三百五十軒が犇めいた最盛期の姿は何処にもなく、今は十一軒だけが細々と昔を今に伝える。(平成十六年五月二十九日時点)

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夏の涼味を絶やさず守り続けた半世紀。腰に負担の大きな、永年の小引き作業は、老職人の姿までも変え果てた。まるで竹の棒に巻き取られ、二つに折れ曲がった「ふしこき」の節のように。

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「天職一芸~あの日のPoem 95」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「玉突き屋」。

玉突きの音が子守唄 母の背中で聞いていた        何処に居るより安らいだ 母の項(うなじ)の甘い匂い   小さくなった母の背は ぼくを大人に育てた証し      何故追い着けないのかな 若き日のあの母の元へ

岐阜県大垣市のビリヤード場、エグロ会館の二代目、江黒千鶴子さんを訪ねた。

昭和の残像を封じ込めたような建物。ビリヤードと印された看板にも、隔たってしまった時の長さが滲む。

「『玉突きなんて大嫌いや!』って、息子はそう言って足元に纏わり付いて来たもんやて」。千鶴子さんは孫を連れ、散策から戻って来た大きなかつての息子を指差して笑った。

初代の夫婦は戦前、料亭を営んでいたが、立ち退きに会いこの地へ。子供に恵まれず、遠縁であった時正さんを養子に迎え入れた。千鶴子さんは昭和37(1962)年に、美濃加茂市から時正さんの元に嫁いだ。

四つ玉全盛の時代。会館には朝八時から客が訪れ、深夜三時頃まで賑わった。「昔は娯楽の少ない時代やったで、昼休みでも突きに来よった」と時正さん。夫婦は一男一女を授かった。

「あの頃が一番忙しい時代やった。ゲーム取りさんって呼ぶ女性が三~四人いて、ゲームの点数を数えるんやて。忙しい日は、私も赤ん坊を背中に負んで、ゲーム取りしたもんやて」。玉突きの音が赤子の子守歌代わり。奥の静かな部屋で赤子を寝かせると、烈火の如く泣き出した。やがて物心が付き始めると、仕事に明け暮れる両親に対し、満たされぬ想いが募り、冒頭の不満となって現れた。

しかし夫婦には、そこまでしなければならない、拠所ない事情があったのだ。「戦後間もなく義母が亡くなり、そのどさくさに紛れて、土地建物の権利を詐取されそうになったんやて。結果その皺寄せが百五十万円の大金で、自分の家を自分らで買い取るはめやて」。苦し気に時正さんが苦笑い。

「お父さんはここに、まるで苦労をするために貰われて来たみたいなもんやて」。寝癖の付いた時正さんの白髪を、手櫛で撫で付けながら、傍らで千鶴子さんがつぶやいた。「玉突きが好きやったし、他に能力もないし。もう辞めよう、もう辞めようで・・・。気が付いたらあっと言う間に半世紀やて」。

当時は、仕事を終えた客が自転車を会館に横付けし、寝る間も惜しんで技を磨いたという。しかしそんな昔日の撞球士(どうきゅうし)たちは、一人また一人と昭和の記憶の中へと静かに消え入った。

厚さ四㎝の大理石の台に、アメリカ製の羅紗張り、台の下部には古き良き時代を偲ばせる象嵌が施されている。四つ玉、スリークッション、ポケット。この往年のビリヤード台と共に、コーンという小気味良い音だけを残して、幾つもの青春が弾け飛んで行った。

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「天職一芸~あの日のPoem 94」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「炭焼き煎餅職人」。

縁側ポツリ背中を丸め 母は飽きずに庭を眺めた      風に舞う蝶眼で追って 梢の鳥と語り明かした       母の面影佇む縁で 供物の煎餅封を開いて         パリポリと音を立てれば 心をよぎる母の追憶

三重県桑名市のたがねや、五代目の伊藤巧さんを訪ねた。

「よう他人から、『趣味で商売しとるんやないわ』って、怒られますけどな。やっぱり作り手が美味しいと思えやんもん、店に並べとったらあかんわさなぁ」。巧さんがたがねの包みを開いた。微かに何とも言えぬ溜りの香が鼻先をくすぐった。

たがねとは、この地に伝わる素朴な味わいの煎餅。もち米とうるち米を混ぜて搗いた切り餅に、時雨の溜り醤油を付けて振舞ったものが、やがて煎餅になったとか。

たがねやは、初代濱吉が明治5(1872)年に創業。一枚一枚炭火で炙り、丹精込めて焼き上げる手法は、百三十年(平成十六年五月八日時点)を経た今も何一つ変わってはいない。

「たがね」の由来は、稲を一握り分、供物とした時の「束ねる」が訛って「たがね」になったなど諸説ある。

家業を継いで当たり前の家に生を受けた巧さんは、大学を出ると直ぐに茶道を始め、接客法を学ぶため、名古屋の和菓子店に勤めた。

二十四歳の年に一旦店に戻り、その一年後にはアメリカ放浪の旅へ。「当時は、『一生、煎餅屋でええんやろか」って、ずっと矛盾を引き摺ってましてな。ヒッピー同然に一年ほどアメリカ中を彷徨って。父が病で死にかけたんで、慌てて戻りましたんさ」。

二十七歳の年、大学時代の後輩であった、裕子さんと再会。「この人なぁ、割れちゃあ困る煎餅と同じで、生き方に強さがあったから」。固焼き煎餅を物ともせぬ心根の強さに惹かれ、千葉から遥々桑名へと嫁に迎えた。

たがね作りは、最高品質のもち米と、地元産のうるち米を秘伝の配分で混ぜ合わせ、たがねの生地を作る。次に生地を蒲鉾状に長く伸ばし、薄く切り揃え特注の樫の炭火で炙る。「備長炭では、上手く焼けやん。芳ばしさに違いが出てくるでなぁ」。全体にキツネ色の焦げ目が付けば、初代から続く特注の溜り醤油に付けて炭火で再び乾かす。

「ぼくが一番美味しいと思える、そんな焼け方がなかなか出せやんのさ。どうしても焦げに斑があったりして、ようけ失敗も出ますんさ」。各産業が高度成長に突き進む中、機械化の話も持ち上がった。しかし先代たちは、機械化の手招きには応ぜず、代々伝えられる炭火の手焼きだけにこだわり続けた。

「客に阿(おもね)ってはあかん。自分が一番美味しいと思えることこそが、何より肝心なんやさ」。

商人である前に、職人であろうとする誇りが、老舗の暖簾を今日も守り抜く。

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「忘れないで!」

先日、ヤマもモさん?落ち武者ッチさん?モモッチさん?  あ~あややこしい!もういいや! そんないくつもの名前を持つ、ヤマもモさんから、4月28日のコメントで『オカダさん、心に沁みる歌!機会があったら、「忘れないで!」聴かせてください』と、リクエストを賜りました。

昨年12月のLiveで初お披露目をさせていただいた曲、それが「忘れないで!」でした。

正直言ってあの日のLiveで、一番緊張した曲でした。

それは初めて人前で聴いていただく曲だと言うこともありましたが、それ以上にこの曲に込めた想いが、あまりにもぼくの等身大すぎて、歌の途中でこの曲に込めた想いに、ぼく自身が押し潰されてしまわないだろうか、嗚咽で歌えなかったらどうしよう・・・そんな不安ばかりが頭の中を空回りしていたのを想いだします。

独りよがりの想いを綴ったこの曲が、Liveにご来場いただいた皆様に受け入れていただけるだろうか・・・。そんな想いだったのでしょう。

歌い始めて会場の皆様はどんな感じで聴いてくださっているだろうかと、チラッと覗き見ると、ハンカチで目頭を押さえながら聴いてくださっている方の姿が目に入り、直ぐに視線を譜面台に戻したものです。

そんな姿を目にしたままでは、涙に咽てしまって歌えなくなってしまいそうだったからです。

この曲「忘れないで!」は、そんな意味合いからも、ぼくにとってとても大切な、再出発の曲となりました。

これからは怠け者のぼくではありますが、ちょっとだけ精進して、「忘れないで!」とぼくが皆様に願う歌ではなく、皆様から「忘れられない!」そんな歌となるように、心がけ歌い続けてゆきたいものです。

この「忘れないで!」はCD化されておりませんので、弾き語りでお聴きください。

「忘れないで!」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

忘れないで ぼくのこと いつかきっと戻るから

旅に出たら 気付くはずさ 一番君がやさしかったと

 あー生きる事は  容易くはない

 新しい明日 探して歩こう

忘れないで ぼくのこと 心に刻んで

忘れないで 君だけは いつか必ず戻るから

忘れないよ あの日の事 闇に揺蕩う蛍火を

飽きもせずに 見惚れていた 君が堪らず愛おしかった

 あー美しい 想い出だけに

 立ち止まっては 生きて行けない

忘れないよ 君の事 心に刻むよ

忘れないよ 君だけを いつか必ず戻るから

 あー生きる事は  容易くはない

 新しい明日 探して歩こう

忘れないで ぼくのこと 心に刻んで

忘れないで 君だけは いつか必ず戻るから

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「潮干狩り!」。今年は新型コロナの影響で、潮干狩りもままなりませんが、子どもの頃このくらいの時期になると、何度か潮干狩りに連れて行ってもらったものです。鉄工所で溶接をやっていた父が作ってくれた、お手製の武骨な熊手を持って!人間って言うのは本能的なものか、貝を掘り始めるともう止まらなくなるものなのか、お母ちゃんもお父ちゃんも昼ご飯も食べずに、盥一杯になるまでアサリを掘り続けたものです。たった三人家族では到底食べきれないほどのアサリを!とんでもなく重たいアサリをぶら下げ、名鉄電車で疲れ果てながら帰って来たものでした。お母ちゃんもお父ちゃんも、腰が痛い腰が痛いと愚痴りながら!

今回はそんな、『潮干狩り!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.05「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回も、ゴッド君から送っていただいた、あの旬の食材を使って一捻り!

パッと見、まるで小料理屋で注文しちゃいそうな、酒の肴のアレのようですが、そんな簡単なものでは済まさないのが、アマノジャクなぼくの残り物クッキングです!

和風のようではありながら、実はちょいとイタリア~ンな、ちょいと猪口才作品で~す!

さあ、お目が高い皆様は、お分かりになられましたでしょうか?

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「郡上直送の春のおご馳走!」

郡上から今年も鮮度のとても良い山菜が届きましたぁ!

タラの芽、アズキナ、コンテツ(コシアブラ)と、写真には写っていませんがコゴミと盛り沢山!

さっそくまずは天婦羅でプッハァ、あとはお浸しやらで一杯と、たまりませんねぇ!

それとあく抜きをしたコゴミを、辛子マヨネーズで食べると美味しいと、お手紙に認められておりましたので、言われるがままにいただいて見ると!これがまた、超絶品の旨さ!ますますキリン一番搾りがプッハァとすすんで仕方ありませんでした。

今年もありがとうございました。

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