5/12の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「アラビアータソース& Mozzarellaチーズの山菜満載PIZZA!」

今年も郡上から届いた、「タラの芽」「コシアブラ」「アズキナ」をたっぷり載せ、モッツァレラのピザにしてみました!

今回は、ほとんど多くの皆様が正解でした!

正式には、市販のピザ生地にアラビアータの残ったソースを塗り、その上にたっぷりモッツァレラチーズを敷き詰め、山菜を盛り付けて焼き上げただけの、超簡単手抜きクッキングでございました。

しかしモッツァレラチーズと山菜が見事な美味しさを醸し出してくれまして、春酣の山の幸をちょっとイタリア~ンな気分で、お気に入りの白ワインと共にペロッといただいてしまいました!

ありがたや、ありがたや!

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「ちょっとちょっとあんた!マスクしなさいよ!」

先日、必要火急の用を済ませ、越前花堂駅から名古屋へ戻る途中、敦賀の駅で乗り換えることになりました。

北陸線の次の列車に乗り換えるホームに向かうと、こんな新型コロナが心配されている中、マスクをしていないけったいな方が、ホームのベンチに!

さすが恐竜王国福井といえども、とてもお隣に腰掛ける勇気もなく、傍観しておりました。

異常に口が大きくて長い恐竜には、あの「ア〇ノマスク」が仮に届いたとしても、それでなくとも言い出しっぺのあの方が着けても小さそうですから、恐竜にしたら口の先っちょだけしか覆えそうにありませんよねぇ。

嗚呼ビックリしたなぁ!

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「天職一芸~あの日のPoem 103」

今日の「天職人」は、愛知県飛島村の「筏師(いかだし)」。

沖行く船に背を向けて 丸太操る軽業師                        広い海原自在に翔(か)けて 丸太の文字を海に浮かべた  スキと二文字の片仮名を 海に描いて手を振れば      岸辺に揺れる影一つ 筏乗りから海の恋文

愛知県飛島村の名古屋港木材倉庫に勤務する、親子二代の筏師、加藤勝三さんを訪ねた。

写真は参考

 「わしら筏師の道具は、この身体一丁と竹竿だけだて」。潮焼けした赤ら顔の勝三さんは、人懐っこそうな笑顔を見せた。

写真は参考

「わし、勉強が嫌いだったんだわ」。昭和三十九(1964)年、中学を出ると直ぐ、父が筏師の親方を務める会社に入社。筏の一本乗りを始めた。「そんなもん、直ぐには乗れぇせんて。一日に二~三べんはぶち落ちてまって、助けてまうんだて」。

落ちても落ちても這い上がり、七年の月日を経て一人前の筏師に。 「冬場に落っこちると、銭いらんで帰ったろかと思うほど、冷たて痺れよるんだて」。

入社一年目、筏の一本乗り大会新人戦で、見事優勝。

晒しに紺の半纏、白足袋に鉢巻きの出で立ち。約二間(三.六m)の竹竿。根元には、丸太を引寄せるトビと、押し出すトッコ、ロープを切る鉈(なた)の三種の金具が取り付けられている。

写真は参考

特殊作業の筏師は、一般の給与の二倍を得たという。 昭和四十六~四十七(1971~1972)年の全盛期には、名古屋だけで筏師も千人を越えた。

翌、昭和四十八(1973)年に、港区出身のしな子さんを嫁に迎えた。「姉(あね)さが洋裁の先生で、おっかあが生徒だったもんで。それが逢ったら、ええ女だでかんわ」。

しかしオイルショックの影響からか、一次加工済の外材が、筏師たちから丸太を奪い始めていった。

今では筏師もわずか三十人足らずとか。 筏師たちの仕事は、本船から丸太を下ろし、全方位型のロータリーボートで集める。カンと呼ぶ金具を打ち込み、ロープをかけ、長さ十二mの丸太を五十~百本ほどにまとめて筏を組む。そして引船で一時間かけて貯木場へと曳(ひ)く。

検査を経た丸太に等級別の標が付けられ、筏師が材木商の注文に応じ、貯木場に浮かぶ丸太を一本乗りで寄せ集める。

「自然の風や潮の加減に逆らったらかん。毎日の下げ潮と込(こ)み潮の時間を、身体が覚えとるんだて」。

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海は穏かな優しい日ばかりではない。時には時化(しけ)に荒れ狂い、稲妻が海原を駆け抜ける。エンジンも櫓(ろ)も持たぬ竹竿一本の筏師は、海と対話し、竹竿一本で海と陸(おか)との間を自在に翔(か)ける。

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「越前花堂(えちぜんはなんどう)駅で見かけましたぁ!」

またしても必要火急な用があって、日帰りで越前花堂駅にまいりました。

用を済ませ名古屋へ戻るため米原方面のホームに行ってみると、そこでこんな案内板を見かけました!

確か小さな巨人と言われた、あの大先生の歌にあった「越美南線」の長良川鉄道ではなく、「越美北線」ではありませんか!

越美北線は、福井駅と岐阜県の美濃太田駅の間を、岐阜県郡上市白鳥町石徹白(旧福井県大野郡石徹白村)を経由して結ぶ鉄道、越美線の一部として建設されたものの、その計画は果たせなかったものだそうですねぇ。

越美北線は、福井駅から九頭竜湖駅を結んでいるそうですが、乗ってみたいものの乗ってしまえば九頭竜湖で途方に暮れてしまいます。

乗り鉄かも知れないぼくではありましたが、断念してローカル線を乗り継ぎ、4時間半を掛けて戻ってまいりました。

おかげで気分転換の小旅となりました。

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「縁起木の栽培!」

「縁起木栽培セット」の南天の種を、栽培セットの小鉢に種植えいたしました。

説明書によると南天の種を冷蔵庫で一ヵ月休ませ、その後一晩水に浸してから、セットに付いている土に植えるよう書いてありました。

ちゃんと指示通りに一ヵ月冷蔵し、一晩水に浸したのが、写真右手の小鉢の中に浮かんでいる南天の種でして、翌朝さっそく中央の鉢に植えてあげました。

早く発芽しないものかと、楽しみでなりません。

先に間引きして植えた唐辛子も、スクスクと成長を続けており、花が早く付かないものかと、こちらも毎朝眺めるのが楽しみでもあります。

難を転じて、唐辛子で厄除けとでもまいりたいものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 102」

今日の「天職人」は、三重県御薗(みその)村の「手筒花火師」。(平成十六年七月十日時点)

夏の夜焦がす花火でも いつか枝垂(しだ)れて消えるもの 土手に寝転ぶ君の声 目尻を伝う花火の雫(しずく)    闇を切り裂き天翔(あまか)けて 見事に華を咲かせ散る  儚き定め花火にも 心震える君を想えば

三重県御薗村に代々続く、手筒花火師の山崎力さんを訪ねた。

写真は参考

「手筒花火を自分で作って、それを打ち上げてこそ、一人前の男やさ」。力さんは、葡萄棚の下で缶ビールを煽った。両親と兄・姉夫婦を交え、焼肉を肴に酒宴の真っ最中である。

御薗村には三百年ほど昔から、お盆に先祖を供養する念仏踊りと、送り火としての手筒花火が今も伝わり続けている。

この村に生を受け、この村を愛して育った力さんは、代々村の手筒花火を受継ぐ大念仏羯鼓(かんこ)保存会に十五歳の年に入会。父も兄もそうであった様に、手筒花火師を目指した。

とはいえ、職人であっても商人ではない。年に一度の念仏踊りの一晩のためだけに、秘伝の手筒作りを学んだ。 「事故が起こったらあかん。せやで自分で花火を作るんやさ。でも何時の間にか、その危なさに、みな取り憑かれてもうてな」。力さんは空の手筒を取り上げた。

手筒の太さは、二寸半(約七.五七㎝)。竹(現在は紙管)筒の底部には新聞紙を詰め込み、跳(は)ねと呼ばれる爆発力の強い黒色火薬を詰め、その上から先祖伝来の火薬を叩いて詰め込む。この叩き入れる時の感覚は、すべてが永年の勘だより。最後に噴出し穴の開いた木栓で塞げば完了。一晩のために二百本強の手筒が仕込まれる。

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打ち上げ時には、手筒と自分の腕をチェーンでつなぎ、ゴー、シューと音を立て火花の吹き上がる手筒を、両手でしっかと掲げ持つ。「打ち上げの最後んなあ、物凄い音を立てて筒の底が抜けたるんやけど、それが黒色火薬に燃え移って爆発する時の音なんやさ」。力さんは身振り手振りを交え、夢中で手筒の魅力を語った。 「わしの作ったんは、吹き上げる勢いも違(ちご)てな、音も高(た)こうてええ音さすんやさ」。傍らに寄り添う妻が、頼もしそうに力さんを見つめた。思わず奥さんに話かけようとすると、力さんが遮った。

写真は参考

「これなあ、まだ嫁とちゃうんやさ。わし前に一度離婚してなあ、今度これと一緒んなるんやさ。それで家族に紹介しよ思て。なあ皆そういうこっちゃで、一つ宜しゅう頼むわな」。何の衒(てら)いも無く力さんはそう告げ、ビールを飲み干した。

取材の席は一転、大家族の祝宴に。男たちは酔うほどに、手筒の武勇伝を、何とも誇らしげに語り続けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 101」

今日の「天職人」は、岐阜市の「油紙師」。

鯉の昇りに舟下(ふなくだ)り 父と延竿(のべざお)垂れながら                          想わぬ釣果(ちょうか)期待して 母の悦ぶ顔浮かべ    母のむすびを頬張れど ビクとも浮きは動ぜぬに      父と二人で浮かぬ顔 母の溜め息風運ぶ

岐阜市で慶長年間(1596~1615)創業の油紙製造・小原屋商店、十二代目油紙師の河合良信さんを訪ねた。(平成十六年七月三日時点)

 「わし、特攻隊に憧れとったのになあ、赤紙ちっともこうへんのやて」。良信さんは、火の無い火鉢の前に座した。

「元々、信長公の御用商人から始まり、雨合羽や火縄銃の雨避けのため、油紙を納めとったんやて」。その歴史は四00年を溯る。

油紙は、美濃和紙に柿渋を塗って手で揉みしだき、皺を寄せ荏胡麻(えごま)油と桐油(きりゆ)を混ぜ合わせて塗り込む。そして長良の辺で石の上に広げ天日に干し、乾燥まで五~六日を要する。

良信さんは四人兄妹の長男として、代々続くこの家に誕生。尋常高等小学校を出ると、有無を言わさず家の手伝いが待ち構えていた。十八歳の年、軍事徴用で航空機製造工場へ。日に日に激しさを増す空襲で、延焼を食い止めようと、先祖代々の家屋敷も強制取り壊しの憂き目に。慶長の世から受け継がれたこの家の歴史は、愚かな戦の犠牲となって音を立てて崩れ去った。

飛行機乗りの夢も破れ、戦後はひたすら家業に打ち込んだ。「昭和三十(1955)年頃までは、同業者が十二~十三軒もあったんやて」。 昭和三十二(1957)年に、静岡県の三ケ日から一目惚れの妻を娶(めと)った。「でも亡くなってもう三年。わし独りぽっちやて」。良信さんは、かつて妻が座した座敷の一角を、こっそりと見やった。

「ビニールが世に出てからは、油紙は衰退の一途や。みんな同業者は、別の紙産業へと転じるし。家はなまじ先祖代々続いたもんやで、灯を消したらかんって。気が付いたら、残っとるのは家だけやったって」。

今となっては、何時売れるとも知れぬ油紙。生計など成り立とうはずも無い。 良信さんは油紙の応用とも言うべき、のぼり鯉作りも手掛ける。徳川吉宗の享保の改革で、絹の鯉のぼりが禁じられ、和紙で模られたのぼり鯉が作られたとか。型取りから絵付けまで、良信さん独りぽっちの作業が続く。 「体が太過ぎると鮒になってまうし、尾っぽが長いと金魚になってまうんやて」。

大きな真鯉に、菖蒲を鉢巻きに挿した金太郎が跨(またが)る勇壮なのぼり鯉。 見渡せばどこもかしこも、伝統を蹴散らすように、新たな技術や商品が世に溢れかえっている。

この世にたった一人の油紙師が、時代の速度を憂いて、重い溜め息を落とした。

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「まあちゃんのママゴト」

写真は参考

ぼくが小学校の低学年の頃は、近所回しにたくさん子供たちがいたものです。

特に家のお隣やらご近所には、なぜか同じ年の女子がたくさんいて、藁縄一本を輪っかにして電車ごっこや、花いちもんめやゴム跳びにと、それでなくとも少ない男坊主どもは、引っ張りだこの遊び相手でした。

中でも最もぼくが苦手としていたのは、「ママゴト遊び」。

そのお相手となるのは、最もご近所に住んでいた、お隣の「フミちゃん」、その3軒向こうの「タカちゃん」、それに「マアちゃん」が、それぞれに自慢のママゴトを玄関先で広げて、ぼくを待ってるんです。

今となって思えば、その小学校低学年の頃が、ぼくの人生の中で最もモテた時期だったようです。

しかし当時は、なんせ酸いも辛いも噛分けられるほどの人生経験なんてありませんから、3人の女子たちのなすがまま!

やっぱり男坊主どもよりも女子は、そんなに小さな頃であってもおませなものですねぇ。

どこで覚えたんだか、ママゴト遊びのシナリオがそれぞれにちゃんと描かれていて、ぼくの役柄と台詞まで指定されるのですから、たかがママゴトと侮っちゃあいけません。

きっと3人それぞれに、お母さんとお父さんの会話をそっくり真似たものなのでしょうが、ぼくは順繰りに3人のママゴト屋敷に「ただいま!」と、会社から帰って来た夫を演じさせられるのですから、とても人も羨むハーレム状態というわけじゃあありません。

だいたい3人のシナリオには共通点がありました。それはママゴト遊びの道具が、「ママゴト(飯事)」というくらいですから、炊事道具のフライパンや鍋に、プラスチックのオムレツやらハンバーグにウィンナーといったものが大半。よって旦那役のぼくが会社から「ただいま」と帰ってくるところから始まるという筋書き。すると女房役の女子が「あら、あなたお帰りなさい!お風呂になさいますか?それともご飯になさいますか?」と歯の浮くような台詞を並べ立てるという設定。でもそこで間違っても、「じゃあ、ひとっ風呂浴びてくるか!」なぁ~んて宣うものならさあ大変!

だってママゴト遊びには、キッチンとダイニングはあっても、お風呂はあくまで物の例えとして、飾り物のように添えられた言葉でしかありませんし、お風呂場の設定などどこにもないわけですもの。

「じゃあご飯をいただくとするか」とかなんとか言わされて、手垢塗れの汚れが付いたオムレツなんぞを、さも旨そうに食べるふりをせねばならないのですから、たまったもんじゃあありません。

皆様もそんなママゴト遊びのご経験、きっとおありになったのでは?

今夜は、ちょっとメルヘンチックな「まあちゃんのママゴト」を、弾き語りでお聴きください。

昨今の新型コロナの感染予防で「Stay Home!」がスローガンのように聞こえてまいりますが、大切な命を守るため、一人一人が出来るのは、やっぱり「うつらない」「うつさない」ことですよね。

そんなぼくのStay Homeは、もっぱら趣味でもある「残り物クッキング」で、大人のママゴトに精を出しております。

それでは幼い頃を思い出していただきながら、「まあちゃんのママゴト」お聴きください。

「まあちゃんのママゴト」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

垣根に背伸びぼくを呼ぶのは ドングリ眼のまあちゃん

ラジオ体操に遅れるわと おませな口ぶりを真似た

 お昼寝の後は決まって 自慢のママゴト広げて

 プラスチチックのオムレツ差し出し 「さあ、召し上がれあなた」

今夜は娘も夢の中さ たまにゃ二人でどうだい

当たり目安酒酌み交わせば 娘が起き出し「私も」

 起き抜けの後は決まって 自慢のママゴト広げて

 塩化ビニールの海老フライを 「さあ、召し上がれあなた」

 ねぇまあちゃんやっぱり 遺伝子は侮れないね

 小さな君と瓜二つの おませな横顔愛しい

この「まあちゃんのママゴト」も、どうでしょう、今から約40年近く前の作品だったと記憶しています。

近所の同じ年の女子の、「フミちゃん」「タカちゃん」「マアちゃん」の3人の中で、なぜ「まあちゃんのママゴト」になったかと言うと、それほど深い意味合いがあったわけではありません。

単に、「フミちゃん」「タカちゃん」よりも、「まあちゃん」の方が、メロディーに載せやすく、座りがよかったからです。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「ザリガニ釣り!」。なんでも今日5月12日は、「ザリガニの日」なんだとか。昭和2(1927)年に、食用蛙の餌としてアメリカザリガニが20匹持ち込まれたそうです。ところがそれが逃げ出し、あっという間に日本国中で繁殖したのだとか。ぼくが小学校の低学年の頃、昭和40年頃にはわが家の周りの田んぼの用水路とかに、アメリカザリガニがウジャウジャといたものです。ぼくはそこらへんで拾った棒っ切れにタコ糸を結わい付け、学校給食で出た魚肉ソーセージの残りを、糸の先に結び付けてアメリカザリガニの目の前へと放ってやったものでした。すると大きなハサミで器用に魚肉ソーセージを掴むので、それっ今だってな感じで釣り上げたものです。魚肉ソーセージの餌が無くなると、釣り上げたアメリカザリガニを一匹犠牲にして、殻を剥いた尻尾を餌にしたものです。

今回はそんな、『ザリガニ釣り!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.12「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、先日郡上から届いた、山の幸をたっぷり使ってみました。

お目の高い皆様は、もう既にお分かりでしょうねぇ。今回は、なぁ~んの捻りもありません!直球勝負です!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 100」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「矢師(やし)」。

出逢いを恨む仲ならば こんなに辛いはずは無い       叶わぬ想い身も焦がす 弓に番(つが)えて君を射る     どうして二人出逢ったの 苦しいだけのこれも愛       願えばいつか叶うはず 弓を番えて君を射る

愛知県岡崎市に、五代目矢師の小山金一さんを訪ねた。

写真は七代目泰平氏(小山矢公式HPより)

「親父の仕事振り、いっつも見とったらぁ。だもんで簡単だと見下しとっただぁ。そしたら僕の矢だけが、全部返品されて来るらぁ。そりゃもう不良品の山ばっかじゃんねぇ」。金一さんは、矢竹(やだけ)を撓(しな)らせ、にこやかに笑った。

元々先代までは、愛知県豊橋市に居を構えていたが、空襲で焼け出され岡崎へと移り住んだ。金一さんは中学を上ると、時計製造会社に就職。十年間のサラリーマン生活で、職場の華であった清子さんを手に入れ退社。

父の下で矢師を目指した。だが冒頭の如き不良品の山。「だもんで、給料もなけりゃあ、休みも全然貰えんらぁ」。 矢竹は、寒の頃に切り出される三年古(こ)と呼ばれる中から、太さと節の位置が近い物を選り分ける。

矢竹の長さは、射手(いて)の身長の半分に、指四本分を足す位が最適。一本の矢は、矢尻に続き「居付(いつ)け」「箆中(のなか)」「袖摺(そでず)り」「羽中(はなか)」と、四つの節が入り、弓を番(つが)える「筈(はず)」へと続く。

(小山矢公式HPより)

丸一年、寒晒しに耐えた竹を切り揃え、重さも一本七匁(もんめ/約二六g)に揃える。「弓は撓(しな)りが命だもんで」。次に矢竹の太さを、四千本・千組に選り分ける。一手が二本。二手分四本の矢で一組となる。そして竹の脂を炙(あぶ)り出し、節の曲りを起こし、袖摺り節から矢尻に向け、真っ直ぐになるように削って、川砂で粗磨き。

写真は七代目泰平氏(小山矢公式HPより)

「次は中火にかけて、焦げ目を付けながら真っ直ぐ伸ばすだぁ。そうすると竹が締まって強くなるもんで」。本磨き、本火入れ、艶出し、防水性を高めるために漆を摺り込む。

「そうして四本一組にして切り揃え、四ッ矢で仕上げるだぁ」。弓に番えるための、水牛の角で作られた筈を入れ羽付(はねづけ)へ。一枚の羽を二つに割いて、羽軸(はねじく)の中の髄(ずい)を取り除き、三枚の「矧(はぐ/矢に付けられた鳥の羽)」を膠(にかわ)で矢竹に貼り付け、フクマキと呼ぶ絹糸で巻きつけ固定する。

(小山矢公式HPより)

最後に矢が真っ直ぐ的を射抜くよう、矢師は祈りを込めて矢尻を板付(いたづ)ける。 「三ヶ月で出来た試しがないだぁ。早くて半年、下手すりゃあ一年らぁ」。千組の内、満足の行く矢は二十組足らずとか。

家康公が元康を名乗っていた時代から、三河の地では農工商に至るまで、戦時に備え弓が奨励されたとか。その伝統が今に息衝く。

膨大な時間と手間とを引替えに、矢師が鍛えた一本の矢。射手の心を載せ、一途に的を射ぬかんと飛べ。

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