「天職一芸~あの日のPoem 111」

今日の「天職人」は、三重県桑名市多度町の「和菓子職人」。(平成十六年十月九日毎日新聞掲載)

四季を彩る和菓子の華が 菓子器の中に咲き誇る      晴の日祝うお茶請けは 松竹梅に鶴と亀          両親の脇和服の君が ぼくの言葉に伏し目がち       「嫁に下さい」震う声 後は野となれ山となれ

三重県桑名市、多度大社の参道脇にある、和菓子の丸繁、七代目和菓子職人の蒔田(まいた)美喜代さんを訪ねた。

流鏑馬(やぶさめ)で賑う多度大社の参道脇。折からの雨が、多度の杜(もり)を洗い清めるようだ。雨乞いの神として知られる社に、木陰に宿る鳥の鳴き声がこだました。山門前を通り過ぎる、農具を積んだ軽トラック。山門に差し掛かると、運転手の農夫はハンドルを切りながら、頭(こうべ)を垂れて行き過ぎた。

「ここらに住んどる者らは、みな車で通りながらも、ああして頭下げてくんさ」。美喜代さんが店先から山門を見つめた。

もともと丸繁は、旧街道の宮川で江戸末期頃に創業され、五代目の時代に大社前へと移転した。代々当主の名には、「繁」の一字が受け継がれる。

しかし六代目は、男子に恵まれず、長女の美喜代さんが家業を継いだ。

短大を卒業すると、名古屋の和菓子屋で、当時女性としては珍しい製造部門へと、住み込みで勤務。男性中心であった菓子職人の世界に飛び込んだ。 「若かったから、怖いもん知らずやさ。あの人らの方が、気遣こてたんと違うやろか」。

幼い頃から両親の仕事振りを間近に見て育った分だけ、菓子作りの飲み込みは早い。和菓子細工に欠かせぬ、細い竹の箸も、使い勝手を良くするため、自らの手で削った。 「細工の飾りをキュッと摘んで、ヨイショッと載せるんやさ」。

四季折々の歳時記に応じ、縁起物から季節を愛でる品まで、甘味をまとった日本の四季が、一口大に仕上げられる。

一年半の住み込み修業を終え、多度へと帰省。両親と共に、参拝客相手の和菓子作りに精を出した。

二十四歳の年に銀行員の夫に嫁ぎ、桑名市内に新居を構えた。とは言え、実家の家業を放ってもおけず、通いで手伝いながら、妊娠・出産・子育てに追われた。 女和菓子職人は、妻として、母として、娘としての、四つの顔を使い分けながら、来る日も来る日も多度へと通い続けた。

「ある人に『毎日、子供ら連れて帰って来るんやったら、ここで暮らしたらええやんか』って、言われて。それもそやなあって」。三年前に、再び蒔田姓へと。

半世紀近く前、先代は雨乞いの神を讃え、最中「雨(あま)ごひ笠(がさ)」を発売。今尚、当時の製法を美喜代さんがしっかと受け継ぐ。

軒を伝う秋の長雨も、雨ごひ笠のご利益か。

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「天職一芸~あの日のPoem 110」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「檜桝(ひのきます)職人」。(平成十六年十月二日毎日新聞掲載)

笛と太鼓の祭囃子が 鎮守の杜に木霊せば         豊作祝う獅子が舞い 子供神輿も畦を練りゆく       祭り直来(なおらい)馳走(ちそう)も並び        宴を前に紅を注す                    君に見惚れたおっちゃんが 桝酒こぼし息を呑み込む

岐阜県大垣市の衣斐量器製作所、四代目の衣斐(いび)弘さんを訪ねた。

「いかに世界広しといえども、飲み物入れる器で四角いのは、この桝だけやて」。弘さんは、赤味がかった一合桝を差し出した。檜特有の柔らかな薫りが何とも言えず、気持ちを和ませる。

岐阜県垂井町出身だった初代は、明治初期、木曾檜が集まる名古屋の熱田に住み着き、桝作りを学んだ。そして後に、東海道本線の大垣駅開業に合わせ現在地へ。

工場の裏手には、当時木曾檜を貯木した牛屋川が、わずかに名残を今に留める。

弘さんは大学受験に失敗し、浪人の傍ら家業を手伝いそのまま跡取りへ。

まず、製材した檜を風雨に晒しては、陰干しで乾燥させ、夏目(なつめ)が伸び縮みを繰り返すことで収縮率を抑え、桝に適した状態に整える。「木は一旦死んでも、生きとるんやて。同じ檜でも、芯に近い赤味の柾目(まさめ)が一番やて。性がやさしい(狂いが少ない)でな」。

次に部材に切り分け、桝に組み上げるため、木殺(きごろし)をする枘(ほぞ)を切り込む。枘に組み合わせる窪みは0.四㍉ほど小さく、組み合わさったときに木殺の圧が加わり、凹凸部を強固に固定する仕組みだ。「昔は柾目ばっかやったで、やさしくて割れんかったんやて。でも今は柾目ばっかやないし、枘が0.二㍉大きいだけで割れてまうんや」。

最後に底板を貼り付け、水を付けながら仕上げの削り。水を付けると、檜の艶が増し、鉋切(かんなぎ)れが良くなり、木殺が脹(ふく)らむ。「柾と柾の、なおかつ一本の木から取ったらものやったら、ピタッと見事なほどくっつくんやて」。

一人前の桝職人までには、十五~二十年を要する。

弘さんは昭和四十八(1973)年に、見合いで羽島市から嫁を迎え、三人の子供に恵まれた。 しかし時代は、一人の桝職人を仕上げるまでの、悠長な時間を待てぬほど気忙しく時を刻み始めていた。「木曾の檜も、昔は平坦な山で、ぼんやり育つもんばっかやったんやて。でももう今は、急な斜面に育つ性の悪いもんばっかや。材料は集まらんし、日本酒自体の消費が落ち込んだままやで、桝も同じ運命やて」。

写真は参考

木曾檜の桝に並々と注がれる日本酒。桝の隅に盛られた塩を舐め、五穀豊穣に感謝し、捧げられた神からのお下がりのご酒に酔う。この国に生まれし者の、特権として。

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5/19の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「なぁ~んちゃって、イタリア~ンな青椒肉絲パスタ!」

筍の水煮にした保存版とピーマンで、Stay Homeに則り我流で青椒肉絲にチャレンジしました。

お手軽なクックドゥのソースもないため、八丁味噌と豆鼓醤に甜面醤を適当に混ぜ、酒と紹興酒を注ぎ入れ、鶏がらスープの素を加えたものをよく混ぜ合わせ、Honey Babeの薄切り腿肉と筍の水煮、そしてピーマンを加え、前の晩の酒のあてとしていただきました。

その残り物が、タッパーに入ったままでしたので、いっそのことランチ用に、イタリア~ンなパスタにしてしまうかってぇのが、今回の「なぁ~んちゃって、イタリア~ンな青椒肉絲パスタ」です。

作り方なんておこがましい位、超簡単!

まずお好みの茹で加減でパスタを茹で上げ、オリーブオイルを塗して、オリーブオイルをひいたフライパンに投入。

ざっとパスタを炒めたところで、タッパーの青椒肉絲を入れてよく混ぜ合わせ、皿に盛り付けて上からパルミジャーノレッジャーノを摩り下ろして振り掛ければ完了。

何ともお手軽ながら、イタリア~ンな中華擬きに仕上がり、ご機嫌な味についついキリン一番搾りを真昼間っから煽ってしまいましたぁ!

皆様のご家庭でも、青椒肉絲の残り物が出来た時は、ぜひ一度騙されたと思って、超簡単なパスタにチャレンジして見てください!

なかなかどうして、侮れぬ充実のランチとなること請け合いです!

今回も皆様からお寄せいただいたお答えの中にも、大正解に近い方もお見えでしたので「やられたっ!」って感じでございました!ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 109」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡の「バナナ問屋女将」。(平成十六年九月二十五日毎日新聞掲載)

お昼ご飯はバナナ三本 どれも傷んだお値打ちバナナ    中から一つ選び抜き あの娘の席にそっと忍ばす      昼飯代わりバナナが二本 連れにどんなに笑われたって   食事の後にぼくを見る あの娘の笑顔 胸一杯

愛知県蒲郡市の鈴木バナナ店、二代目女将の鈴木道子さんを訪ねた。

「嫁入り話が持ち上がった時、相手がバナナ屋だって聞いて、すっかりその気になったじゃんねぇ。だってバナナ好きだっただもんで。洋裁学校へ行っとった頃なんて、バナナ五本とジュース一本がお昼ご飯だぁ。だもんで、行きがけに隣の果物屋で、ちょっと傷んで安なっとるバナナ、買っとくだ」。道子さんが懐かしげに笑った。

鈴木バナナ店は、先代が戦前、問屋として開業。とはいえ当時もバナナは、すべて輸入に頼る高級品。戦争の激化と共に、入荷も途絶えがちに。

昭和十九(1944)年、道子さんは豊橋市の染色業を営む家庭に誕生。戦後は、誰もがひもじさと向き合った統制経済下の時代。栄養価の高いバナナは、果物の王様として君臨し続けた。

時代も昭和三十(1955)年代に移ろうと、統制解除と輸入の自由化が、庶民の暮らし向きを徐々に上向け始めた。

そしてついに昭和三十八(1963)年には、バナナの輸入自由化が実施され、輸入量の急増に伴い価格が下落。バナナは徐々に、王様としての地位を明け渡していった。「それまでは、儲かって儲かって、お金の使い道に困るほどだったじゃんねぇ」。

昭和四十三(1968)年、道子さんは「大好きなバナナがたらふく食べられる」と舞い上がり、二代目主人の伊佐雄さんの元へと嫁いだ。「ここへ来た端は、ようバナナをたらふく食べただぁ」。

当時は毎日真っ青なバナナが、店の地下に設けられた七つの室に、二百箱ずつ詰め込まれた。室の温度は年中十六℃に保たれ、真っ青なバナナが黄色く色付くまで、エチレンガスを入れ五日かけて渋を抜く。「室を開けイキリ(ガスで息が切れる)を抜いて出荷だもんで」。一房十五~十六本、一箱五房入りのバナナが、三河の各地に向け出荷された。

「昭和五十五(1980)年にこの家建ててから、商売さっぱりじゃんねぇ。だってバナナと卵だけは、値上がりせんらぁ。だもんで今は、お父さんも勤めに出とるじゃんねぇ」。

道子さんが一本のバナナを差し出した。「このホシ(茶色の点)が出た頃が食べ頃じゃんね」。

バナナ喰いの達人の言葉に嘘は無い。『確かに美味い!』。あの日、母にねだって無理やり買ってもらった、遠い日の甘さが口の中に広がった。

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「天職一芸~あの日のPoem 108」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢玩具刳物師(くりものし)」。(平成十六年九月十八日毎日新聞掲載)

子供の世界 スターはいつも               独楽(こま)にヨーヨー 匠な手技            どんなやんちゃな 奴だって               一目置いた ひ弱なぼくに                みんながぼくの 技知りたいと              やんちゃな奴も 弟子入り志願              独楽の違いが 技となる                 父の刳物 独楽の出来栄え

三重県伊勢市の、二代目伊勢玩具刳物師の畑井和生さんを訪ねた。

「進駐軍のやつらは、五本の指にヨーヨー付けて、両手で一遍に回すんやさ。あれじゃあ、戦争にも負けたはずや」。和生さんが両手で真似て見せた。

和生さんは、尋常高等小学校を上ると、軍事徴用で戦闘機のプロペラを製造。戦後は伊勢に戻り、先代に付いて轆轤(ろくろ)を回した。

戦後も落ち着きを取り戻すと、中断されていた「伊勢おおまつり」が再興され、平和博覧会も開幕。 「あの頃は、進駐軍にヨーヨーがよう売れたんやさ。進駐軍の奴らは、両手で十個のヨーヨーを、器用に回すもんやで、それ見て日本人も『なにくそ』ってなもんで、真似るもんやで、飛ぶようにようけ売れよったんやさ」。

この地の刳物業者五軒が、先を競うように足踏み轆轤を回し続けた。

伊勢の神域、神路(かみじ)山から、百日紅やチシャノキ、椿を切り出し、天日に晒し二年間据え置く。「半生のまま作ると、後で黴が来るんやさ」。刳物師たちの先祖は、神路山を神宮林として拠出。その見返りとして、立ち木の払下げが今尚許されている。

戦後間も無く、和生さんは「バット型連発ポンポン鉄砲」なる、コルクの鉄砲を考案し意匠登録を申請。「これが当時の野球小僧にバカ売れや。本当はポンポン銃にしたかったんやさ。せやけど進駐軍から、えらいお叱りもうて(もらって)なぁ」。

最盛期の昭和二十七~二十八(1952~1953)年頃は、ヨーヨー・ケン玉・達磨落しが輸出品として持て囃された。轆轤五台の稼動に、弟子十八人。昼夜を問わず作業に追われた。

昭和二十九(1954)年、同郷の妻を迎え、一男二女が誕生。満ち足りた明日の訪れを、疑うことなどなかった。

しかし昭和四十六(1971)年、ドル・ショックが日本中を直撃。「ドルの値が下がって、儲けあれへんし。あほらしてなぁ」。そこで今度は、修学旅行客向けに販路を求めた。しかし濁流のような時代の流れに抗うことなど出来ず、やがてその客足も絶えた。

「所詮子供騙しみたいなもんや。せやけど独楽もなあ、軸との釣合が取れとれば、ちゃんと行儀よういつまでも回っとるんやさ。今しは玩具の多さを、豊かさと勘違いしとるんやで」。

六十年片時も休むことなく、回り続けた轆轤。まるで刳物師の人生を刻む時計のように。

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「天職一芸~あの日のPoem 107」

今日の「天職人」は、岐阜県瑞穂市の「柳行李(やなぎごうり)職人」。(平成十六年九月十一日毎日新聞掲載)

春秋二度の衣替え 柳行李を引きずり出せば         暑さ寒さが忍び寄る                   空(から)の行李は子供らが 隠れて遊ぶ小さな世界    疲れて眠り高いびき

岐阜県瑞穂市の柳行李職人、三代目松野好成さんを訪ねた。

写真は参考

「もうわしで仕舞やて。柳の灰汁(あく)で手が黒なるし、汚こいでな。おまけに食えんで、誰もせえへんて」。苔生す土間に面した作業場で、好成さんは完成したばかりの柳行李を軽々と抱え上げた。

旧、穂積町一帯の農家では、明治時代に農閑期の副業を求め、兵庫県豊岡市の柳行李作りを学ばせようと、農民を派遣し技術の取得を図った。「米取ってまったら、他に働き口もねぇんやで」。

稲刈りも終わり十二月になると、柳の枝を切って田んぼに挿し、春先に芽が吹くのを待つ。芽が出ると、柳の皮が剥きやすくなるからだ。芽吹いた柳は、明治時代のY字金具の脱穀機で、枝が白むまで皮を剥く。そして部材の寸法に切り分け、水に三時間ほど浸し、柳に粘りが出たところで、一気に二時間程かけて編み上げる。

写真は参考

普及品の行李は、長さ二尺四寸(約七十三㎝)、幅一尺二寸(約三十六㎝)、深さ七寸(約二十一㎝)。周囲は十㎝幅程のズック(麻・木綿の繊維を太く縒った糸で織った布地)で、二~三時間かけ凧糸の手縫いで纏る。

軽くて頑丈な柳行李は、兵隊の私物輸送用に利用され、戦前は一大産地にまで成長した。「学校から帰って来ると、三百本ほど皮剥いて十円の菓子パン一個の駄賃やて」。松野さんは懐かしそうに笑った。

中学を出ると同時に、父の元で職人として腕を揮った。しかし戦後の急速な生活様式の変化は、この国の様々な手仕事を奪い去った。柳行李も例外では無い。昭和三十(1955)年代後半からは転廃業が続出。今では松野さん只一人。

「プラスチックの衣装入れはかん。衣類が湿気吸ってまって、直ぐに黄ななるで。だってこの国は、湿気の国やでな。今では、衣装を大切にする日舞の先生やお寺さん、それにタカラジェンヌに愛用される程度やて」。

今でも宝塚歌劇団では、入団時に衣装入れとして、ピンクのズックで縁取られた一尺(約三十㎝)四方の柳行李を購入するとか。(平成十六年九月十一日時点)

柳は白色から飴色に褪せても、二~三代は十分に使える耐久品だ。「もう柳自体も手に入らんし、身体もえらいで、頑張っても年に十本から二十本程度しか出来んて」。

写真は参考

柳行李一筋に半世紀と五年。節くれ立った指に凍み込んだ柳の灰汁。土間に立って見送る姿は、まるで吹き抜ける秋風と戯れる、小川の辺で揺れる一本の老いた枝垂れ柳のようであった。

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「天職一芸~あの日のPoem 106」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「陶器問屋女将」。(平成十六年八月二十八日毎日新聞掲載)

大きな背負子(しょいこ)荷を解き 行商さんが汗拭う   軒先揺れる風鈴が 夏の終わりの風誘う          絵皿をかざし品定め 父は厳しい表情で          ほならこんだけ貰(もう)とこか 行商さんに笑み浮かぶ

三重県伊勢市、創業三百年とも言われる陶器問屋の和具屋、十四代目の女将、大西とよのさんを訪ねた。

「うちも骨董品なら、店も骨董品やでさ。まあ、お上がり」。御年八十七(平成十六年八月二十八日時点)になるとよのさんは、蔵を改造した自室で手招いた。

ここ河崎町は、伊勢湾へと注ぎ込む勢田川沿いに、商家の問屋が建ち並び、伊勢の玄関口として栄えた。和具屋は全国で産する陶器を一手に扱い、志摩・熊野方面へと出荷。間口こそ京都の町屋同様の狭さながら、昔は奥行き六十mに渡り蔵が建ち並んだ。今でも店の片隅には、奥の蔵へと続くトロッコのレールが敷設されている。

とよのさんは、昭和十(1935)年に、十八歳で故・弥一さんの元へと嫁いだ。女子二人を出産後、夫が召集に。しかし軍事演習中の怪我で帰省。程なく長男を身篭った。「まるで子供作るために、帰してもうたみたいやさ」。

しかし翌年、お腹の子を見ることも叶わず、再び南方洋へと出征。 終戦の翌年、夫が無事激戦地から復員した。「義父は息子が戻ったと、えらい号泣してさ。よっぽど嬉しかったんやろなあ」。大西家十三代は、代々女系続き。弥一さんが初めての跡取息子だった。

戦後は、復興の勢いに乗り、寝泊りの丁稚五~六人、通い番頭二人を抱え、商い一筋に奔走。「家は旅館相手が多(おお)て、師走んなるともうテンヤワンヤ。夜が白むまで糸尻を砥石で擦(こす)とったんやさ」。

しかし昭和も四十年代以降になると、窯屋(かまや)から直売するブローカーが現れ、問屋飛ばしが始まった。

「それがすべての狂いかけやわさ」。とよのさんは、世の移ろいを恨むでもなく、穏かに笑った。

「まあ、あんたら折角来たんやで、めったに見られんもん見といな」。とよのさんは、一抱(ひとかか)えもある、大きな風呂敷包みを取り出した。

見事な歌麿の春画が、綴じ込まれた蛇腹折りの本。

卑猥さなどまったく感じさせぬ、堂々と当時の世相を描き出した美術書のようだ。傍らには、御師(おし)が携えたとされる、日本最古の紙幣・山田羽書(はがき)。

一番奥の蔵には、二百年以上封印を解かぬ品々も眠るそうだ。「三百年続いとるもんを、そのまま遺すのが伝統を守る者の務めと違いますやろか」。

とよのさんは、壁に掛かった漢詩を見つめた。

「歳月(さいげつ)不待人(ひとをまたず)」

東淵明(とうえんめい)の詩が、悠久の時を駆け抜けていった。

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「天職一芸~あの日のPoem 105」

今日の「天職人」は、岐阜市河渡の「靴職人」。

キュッキュと音を立てながら 君が初めて歩み出す      背中に餅を負いながら 得意満面有頂天           ホラホラ言わぬことは無い 調子に乗ってもつれ足     尻餅搗いて泣き出した 忘れぬ君の歩き初め

岐阜市河渡の靴職人、大澤安則さんを訪ねた。

写真は参考

「足全体、足首で履く、先の広い靴が、日本人には合うんです」。安則さんは、何とも人懐こそうな眼で笑った。

安則さんは、昼間電話工事に明け暮れて、夜間の短大へと通った。「器用貧乏なんです」。その言葉通り、幾つもの職を渡り歩いた。車の木型作りからディスプレー職人、居酒屋の板前とホールの接客から、土木の施工監理技師、おまけに美容師を経て、やがて靴職人へと続く岐路の連続。

「癖毛専門の美容師やってた時に、身体のバランスに関心を持ち、一番肝心な足へと。調べてみると、外反母趾に悩む女性が多くって」。

二十九歳の年、美容師や土木の技師を片手間に、靴作りを学んだ。とは言え、もともと手先が器用なことでは天下一品。三~四ヶ月も通う頃には、インターネットでブーツの注文を受けるまでに。

靴職人として自らの技量を問うた。 「大阪から注文があって直ぐに飛んで行きました。相手は、えらいおデブさんの女性と、ふくらはぎの周りが四十㎝もあるオカマさん。そりゃあ見よう見真似ですから、最初は苦情だらけ。でも履き心地を気に入ってくれる方も増えて」。

翌年自宅に、靴の手作り教室を開講。今年七月(平成十六年八月十四日時点)には、現在の工房とショップを開いた。

靴作りは、まずデザイン画を描くことに始まり、型紙をおこして革を裁断。手縫いとミシン縫いで縫製。靴の木型に合わせて形を作る、釣り込みを経て、糊と手縫いで底付け。汚れを落として、ワックス掛けで仕上げる。一足の完成までに丸二日。

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「左右の足の大きさが異なる、整形靴も手掛けました。これ一筋と言うのではなく、どんな注文にも応えられる、そんな応用の利く職人になりたい」。安則さんは、傍らに積み上げられた夥(おびただ)しい量の木型を見つめた。「小手先のデザインではなく、靴をまとった足全体が、力学的にも無理の無いような、美しい自然な流れを描く靴が作りたい」。

写真は参考

靴は地球と人を結ぶ接点。どんなに偉い人でも、わずか一平方メートルたらずの面積を、たった数十年地球からお借りするだけ。だが欲に目が眩み、大きな靴など履けぬのに、地球を独り占めしよう等と思い上がる輩も時として現れる。

明日(平成十六年八月十四日掲載)は五十九回目の終戦。敗戦に泣いた国、歓喜に酔った国。昭和の悲惨なあの日の証人は、確実に遠退いてゆく。しょせん大きな靴など履けもせぬのに、まるで地球を独り占めしたような錯覚に酔い、平和なこの世を踏み躙る愚かな輩よ、二度と現れ出でるな。

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「TASOGARE」

「黄昏」「たそがれ」「TASOGARE」。

同じ意味の「たそがれ」ではあっても、文字にしてみると漢字やひらがな、そしてぼくの曲のタイトルでもある、ローマ字にするのとでは、見た目的にも随分印象が異なって感じられるものです。

高層ビルが影絵のように黒ずみ、やがて地平線の彼方が美しいオレンジの光に包まれてゆく一瞬。

マンションのベランダに出て、缶ビールを片手に、夜の帳が下りてゆくまで、感慨深くその日一日の出来事を振り返りながら、ぼんやりと眺めている時間がぼくはとても好きです。

差し詰め南国の孤島にでもいられたなら、一日の内で最もご褒美のような、そんな美しいひと時に潮風を体中で受け止めながら、シャンパンなんぞをかっこつけて傾け、まったりと「たそがれ」てゆく水平線を見送りたいものです。

さすがに肴は「炙ったイカ」では、とてもシャンパンに似合いそうにありません。ですからそこは一つ、プリティーウーマンのリチャード・ギアを真似、カクテルグラスに入れたストロベリーなんぞを指先で摘むのがお洒落なんでしょうねぇ。

そんな光景を眺めながら、独りで思いに耽るとするならば、やっぱり今日一日の様々な出来事や、これまで生きて来た、様々な心の葛藤なんぞが、独り語りの話し相手にゃお似合いなんでしょう。

だって期待に満ちて躍動感が溢れる、そんな日の出とは一味違い、「日没」間近の「たそがれ」には、昼と夜とが入れ替わってゆく、何とも切ない気分を掻き立てられるものです。

だからでしょうか。

曲がりなりにもここまで生きて来られた人生を、ついつい日の出から日没になぞらえたりしてしまうのは・・・。

でも何と言っても太陽は、水平線や地平線の彼方へと沈み切る寸前に、この世の万物には代え難い美しさを、ほんの一瞬だけ見させてくれる点が最高に嬉しいじゃないですか!

それはそうと皆様は、朝日と夕日、どちらがお好きでしょうか?

今日は、「TASOGARE」をまずは弾き語りでお聴きください。

「TASOGARE」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

黄昏の街を行けば 北風が頬を撫でる

君と一つの コートに包まった遠い日よ

黄昏が燃え尽きたら 暗闇に溶けて染まる

知ってはいても 君と二人なら怖くなかった

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

黄昏は物悲しい 君がそう言い残し

灯る町明かり 君の背が浮かんで消えてゆく

黄昏は燃え尽きても 明日はまた生まれ変わる

君とぼくの 恋が宵の中へと溶けてゆく

 今だけに全てを賭け 生きただけのあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

続いては、ガラリと雰囲気を変えて、CD音源から「TASOGARE」をお聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「粉末ソーダ!」。いよいよ夏日がやって来るような季節になると、ついつい子供の頃の「春日井の粉末シトロンソーダ」を懐かしく思い出してしまいます。って言っても、もうどんな味だったのかもさっぱり思い出せませんが・・・。まだ昭和半ばの頃の事。チクロなんてへっちゃらだった時代でしたねぇ。グラスに氷をいれて粉末ジュースをお洒落に作ったりなんてせず、袋の端を歯で噛み千切って、そのまんま粉末ジュースの素を口に放り込み、口中シュパシュパになったものでした。ネットで調べて見たら、どこからどー見ても絵はメロンなんですが、それだけが「シトロンソーダ」の名で、イチゴの絵はイチゴのままで、その名もそのまんま「イチゴソーダ」でした。ちなみにネットで見た1袋10円の5袋が縦に繋がったセットには、上から順に「シトロンソーダ」「オレンジ」「イチゴソーダ」「オレンジ」「パイン」となっていたようです。オレンジとパインは、粉末ソーダではなく、ジュースのようです。しかし遠い昔の記憶ってぇのは、どうにも曖昧なものです。ぼくなんてずっと「シトロンソーダ」ばかりだと思っていましたし、家のお母ちゃんは、もっと大きなお徳用袋入りのシトロンソーダを買ってきてくれてあり、それでソーダを作ってくれようものならソーダの粉をケチるもんだから、シャビッシャビで飲めたものじゃなかった苦い記憶まで蘇ってしまったほどです。皆様もシトロンソーダ、お飲みになりませんでしたか?

今回はそんな、『粉末ソーダ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.19「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これは写真だけじゃあ、ちょっと分かりにくいかも知れませんねぇ。

ヒントは、春の旬の食材を使った、中華風のイタリア~ンな作品です。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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