「天職一芸~あの日のPoem 117」

今日の「天職人」は、三重県長島町の「金魚職人」。(平成十六年十一月二十日毎日新聞掲載)

ビードロ鉢の小さな世界 小春日和の縁側で        赤い金魚もユラユラと 水を枕に浮寝かな         何することも無い日曜日 時折りそよぐ紅葉(くれないば)  眺めて君の酌を受け ついうたた寝の膝枕

三重県長島町の金魚職人、阿部稔さんを訪ねた。

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「金魚は水が空気やで。水を青して(青くして)酸素と餌を豊富にするのが秘訣やさ」。稔さんは、何とも親しみ溢れる顔で笑った。

稔さんは一町八反二畝(せ)(約一.八ha)を有す専業農家の三代目。

稲作に従事し昭和三十四(1959)年、愛知県弥富町から妻を迎え三人の子をもうけた。

しかし昭和四十五(1970)年から始まった減反政策で、稔さんは四反七畝(約0.四七ha)を減反し、金魚養殖へと転じた。

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「家(うち)のおっかあの在所が、金魚の仲買と養殖やっとったもんやで」。 田んぼに畦を盛り、コンクリートの柵板で一反を四分の一に分割し、金魚池を造成。

春先、窒素系の肥料を入れ水を張る。「ツムシ(ミジンコ)が湧いてきて、水が青なるんやて」。 最初の年は、鮒のような薄墨色をした、和金の小赤(こあか)で稚子(みずこ)と呼ばれる稚魚を放流。

一池四万匹以上の稚子が、一年後の出荷時には、二万五千~三万匹程度に共食い等で減少する。

やがて夏の訪れと共に、薄墨色の稚子は、その身を紅く染め上げる。 「でも台風はあかん。水路から溢れ出た水が、池に入ってくると、魚の習性で水に向かって飛び出してってまうんやで」。 またゴイやシラサギといった野鳥の被害も深刻だ。「夏場の明け方、池が酸欠状態になって金魚が水面に浮いてくるんやて。ゴイは夜目が利くんかして、それを啄(つい)ばんでくんやで」。

今では池の上にテグスを張りめぐらす念の入れよう。

年が改まると、小赤も二歳と呼ばれ、春先に全国各地へ向け観賞用に出荷される。

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今では種金魚も飼育。「産卵期になると、鰓(えら)の所がオスはデコデコんなって、メスはツルッとしてくるんやて」。四月初旬頃から、カツラと呼ばれる藻に産卵させ、水槽で十日前後かけ稚子を孵化させる。

「それまでに、池の水にツムシを湧かせ青しるんやて」。逆に湧きすぎても、酸素不足に陥る。

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「今まで何百万匹と育てたけど、今でも生きとんのやろかなぁ」。老金魚職人は、柄杓(ひしゃく)に餌を汲み取り、青い池に撒いた。水面に小さな気泡が広がる。深紅の和金が我先にと浮かび出で、水面を紅に染め上げた。

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5/26の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「エビとアボカドの真薯(しんじょ)入り和風出汁のなぁ~んちゃって洋風椀物!」

名立たる日本料理の料亭の味とは比べ物になどなりませんが、冷凍のブラックタイガーとアボカドが冷蔵庫にありましたので、たまにゃあ和風のお出汁で椀物に挑んで見ました!

名付けて、これまった長ったらしいタイトルの「エビとアボカドの真薯(しんじょ)入り和風出汁のなぁ~んちゃって洋風椀物!」でした。

まずは背ワタを取り除いたブラックタイガーとアボカドを乱切りにし、フードプロセッサーで磨り潰し、ボールに移し替え片栗粉を加えて、ボール状に丸めます。

しかしぼくの場合は、片栗粉の分量が少なかったのか、ネチャネチャになってしまいましたが、それでも何とかかんとか丸めました。

その餡をシリコンスチーマーに入れ、レンジで約7分スチームしておきます。

後は、鰹の荒節と昆布で煮出した出し汁を温め、ほんの少しだけ白醤油と酒を加え、そこに蒸した餡を加えて一煮立ちさせたら、ボールに盛り付け、最後にサフランをパラパラッと散らせば完了。

出汁にサフランの色が出て、まるでコンソメスープのような色合いとなりました。

エビとアボカドの真薯の風味と食感は、名立たる日本料理店定番の海老真薯とは異なり、ちょっと洋風な味わいを醸し出してくれました。

和風出汁との相性もなかなかなもので、さっぱりとしたちょっぴり洋風擬きな椀物となりました。

良く冷やした白ワインとの相性も、これまた抜群な取り合わせでした。

皆様も、ちょいと意外な真薯にチャレンジしてみませんか?

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「天職一芸~あの日のPoem 116」

今日の「天職人」は、岐阜県岐阜市の「渋団扇(しぶうちわ)職人」。(平成十六年十一月十三日毎日新聞掲載)

豆炭炙り夕餉の支度 母の手伝い任せとけ       ビュッと唸る北風の笛 負けじと団扇煽ぐだけ       チリチリチリと音立てながら 熾(おこ)りて色を赤く染め 豆炭一つ小さき暖に 心ほっこり癒される

岐阜県岐阜市の住井冨次郎商店、四代目の渋団扇職人、住井一成さんを訪ねた。

「まあ戸板一枚だけで、何とかこの世に浮かんで、凌(しの)いどるだけやて」。一成さんが刷毛を持つ手を止めた。

京都出身の曽祖父は、深草団扇の職人だった。明治末期、揖斐を経由して京の職人が、この地に移り住んだ。豊な竹と美濃和紙に恵まれ、提灯・蛇目傘職人が、材を求めるには最適だった。

腰のある美濃和紙は、団扇に強度を与え、柿渋が防水効果を高める。その昔、どんな破れ団扇(やれうちわ)であっても、台所の火熾しには欠かせない必需品だった。

「祖父の時代は、家で竹を割いとったんやて」。しかし今は、山裾の竹林が宅地に変わり果て、四国の真竹で竹骨に加工された材を求める。「川沿いの竹は、色が枯れてまうし、風に虐(いじ)められた竹でないと、粘りが出んのやて。それに暑過ぎた年の竹は、成長が早いで人間でいう骨粗鬆症(こつそしょうしょう)みたいに、中身がサクサクんなっちまうで」。一成さんは、竹を擬人化した。

作業はまず、竹骨への柄塗りと紙巻き。次にささくれを取り、柄の上に弧を描く弓の糸幅を決める。試し台と呼ぶ作業台には、団扇の横幅を決める溝が。それに合わせ弓の幅を一定に保つ。

そして図柄を抜いた伊勢型紙で美濃和紙に手刷りし、麩糊で貼り込む。続いて馬蹄形の鋼の型抜きで骨を裁ち、団扇の形を整える。仕上げに縁紙を貼り、柄の付け根を大山と呼ぶ扇型の紙で補強。弓の糸尻を小山で補強し柿渋を塗り込む。

「臭っせえなあ!お前んち、医者かなんかか?」。一成さんは子供の頃、仲間から冷やかされた。漆や柿渋の匂いが、何時の間にか服に染み込んでいたからだ。「でもこれが生まれた時から、家の匂いやったで。『ただいま』って帰れば、祖父と父母がこの作業場に座して、『お帰り』って言うんやで」。一成さんはそう言って、遠くを見つめた。

大学を出て就職をするものの、父の他界を境に家業へ。母に付いて三年の修業。二十八歳で妻を得、一男一女をもうけた。

「自分と同じやて。ランドセル背負って子供らが帰ってきては、作業場で邪魔するんやで」。 子の成長に、遠き日の自分を透かし見る、渋団扇職人。

七輪を団扇で炙りながら「お帰り」。不意に遠くで母の声がしたようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 115」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「ロープ職人」。(平成十六年十一月六日毎日新聞掲載)

大漁旗を追うカモメ 漁港に上る鬨(とき)の声      父が手を振り寄せる船 子らは駆け出す艫綱(ともづな)目掛け                          ロープ一本それだけで 電車ごっこに大小波(おおこなみ)  八の字引きと綱登(つなのぼ)り 漁が終わればロープも遊具

愛知県蒲郡市のロープ職人・石田敏雄さんを訪ねた。

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「形原の町は、ロープ作り日本一らぁ」。敏雄さんは、凛とした姿勢で迎えた。

ロープ産業の興りは、小島喜八が明治七(1874)年に撚糸機械を開発。高品質な麻糸撚(よ)りの成功にさかのぼる。

石田さんは尋常高等小学校を出て、運送会社に勤務。とは言え、当時は自転車の人力運送が主力だった。「だもんで、自転車はうまいもんらぁ」。

二十歳で中国南京へ出征。しかし肺結核で送還され、戦渦を免れた。

病も癒えた昭和十九(1944)年、製綱工場を営む石田家の次女と結ばれ婿入り。軍需ロープの生産に追われた。

麻に柔軟剤をかけ、麻梳機(あさすきき)で梳き返し、スライバーと呼ぶ細い麻糸を撚る。それを何本か撚糸機に送り込み撚糸に。

次にロープの種類に応じて、指定本数の撚糸を製綱機にかけ、撚糸を撚り合わせストランドに。再び指定本数のストランドをクロッサーにかけ、撚り合わせてロープとなる。

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少しロープ作りが身に付き始めた時、大地が大きく揺らいだ。「三ヶ根山が真っ赤に光って、工場はペチャンコらぁ」。昭和二十(1945)年一月十三日、マグニチュード六.八の三河地震が直撃した。東南海地震から、わずか三七日後のこと。死者二千三百六名、住宅全壊七千二百二十一戸の大惨事となった。だが敏雄さんは幸い、一命を取り留めた。

終戦の翌年には、めでたく長女が誕生。復興に向け工場を再興し、ロープ作りに明け暮れた。一日に直径十㎜のロープであれば、一丸(まる)二百mを一人で十五丸、三千m分を撚り上げ、昭和の高度経済成長期を駆け抜けた。

しかし幸不幸は、背中あわせ。四十八歳の年に、二十五年連れ添った妻が還らぬ人に。

その後周りの計らいで、数々の見合い話が持ち込まれるものの、なかなか首を縦に振らなかった。 「私がちょうど十人目やったんやて」。翌年、岐阜県八幡町から後妻に入った芳枝さんが、夫の傍らで照れ臭そうに笑った。

「一緒になって三十三年、朝起きると毎日主人の髪を解くの。この人、未だに少年の心が六割も残ってて、小さなことにもすごく感動して」。 現役引退後も、町の子供たちにロープの結び方を教える老ロープ職人。夫婦仲の良さなら、町一番の鴛ぶりとか。

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いつまでも、解(ほど)けちゃならぬ老松結び。

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「Walking雑観」

ウォーキングの途中、中学校の横を歩いていると、一羽のムクドリ?のような野鳥が、何かを咥えてぼくの前方の歩道に舞い降りて来たのです。

何を捕まえたのかと思って、そっとちょこっと近付いてみると、ウニョウニョと体をくねらせるミミズではありませんか!

さすがに一口で呑み込めないのか、ぼくがちょこっと近付くと、ミミズを咥えたままムクドリもちょこっと離れてしまいます。

その一定の距離感を縮められないまま、同じことを3回ほど繰り返し、もうこれが限界かとカメラを向けました。

これがぼくとムクドリの互いの不可触領域であったようです。

ちなみにシャッターを切り終えたところで、ムクドリはミミズを咥えたまま飛び去ってしまいました。

ウォーキングでたまたま通り掛かったぼくは、彼か彼女のランチタイムのお邪魔だったのかも知れません。

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「天職一芸~あの日のPoem 114」

今日の「天職人」は、三重県津市の「竹細工職人」。(平成十六年十月三十日毎日新聞掲載)

鎮守の杜の境内は いつも子供の声がした         竹馬乗りに通りゃんせ 花一匁(いちもんめ)竹とんぼ   大きなはずの境内も 今は小さくビルの底         子供のはしゃぐ声も無く 花一匁竹とんぼ

三重県津市の竹細工職人・清水幸一さんを訪ねた。

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「ここらは元々、孟宗竹(もうそうだけ)の産地やでなあ。家(うっ)とこも、筍作る藪があってな、毎年四~五月に土から顔出す寸前に掘ったるんやさ。放(ほう)とても筍は、毎年毎年よう忘れやんと生えて来んやで」。幸一さんは、土間の上り框(がまち)に座した。

幸一さんは大正十一(1922)年、津市の西外れにあたる片田町で生まれ、尋常高等小学校を出るとすぐ、父の営む酒屋を手伝った。しかし戦争と言う名の暗雲が、やがてドップリとこの国を覆い、主力商品であった清酒までも、配給を打ち切られる始末に。

その後、幸一さんは大阪へ出て、海軍工廠(こうしょう)の徴用へ。

戦後郷里に戻り、三重県工芸指導所竹工芸科の第一期生として基本を学んだ。

もともと江戸時代、藤堂藩では孟宗竹の産地であったことから、片田町近郊の竹細工を庇護し、代々竹細工師を藩が抱えたほどだ。

幸一さんはその後、藩お抱えの竹細工師の末裔、加藤藤昇斎に付いて伝統的な竹細工を学んだ。

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昭和三十(1955)年に三十三歳で独立。「竹の玩具で、羽根を回すと鉄砲のような音がする『バリバリ機関銃』や、竹とんぼ。それに花籠から果物籠、さらに輸出向けの竹製ハンドバッグ作りで、大忙しやったさ」。 昭和三十五~三十六(1960~1961)年の最盛期には、十五~十六人の従業員と共に、三尺(約九十.九㎝)の竹材を型に合わせてハンドバッグに編み上げた。一日かけても五十~六十個がやっと。経済にも明るさが兆した。しかし、やがてこの国を襲う高度経済成長の波は、思いも寄らぬ速度で伝統的な産業を追い越していった。

「昭和四十(1965)年代に入ってからは、東南アジア産の籐に代わって、竹製品はさっぱりやわ。従業員も五人ほどに減らしたんやさ」。その後も衰退化に歯止めが掛からず、今から十三年前に閉鎖の憂き目に。

今は近隣の公民館に出かけ、籐籠作りを教えるのが愉しみとか。

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筍の旬の収穫が愉しみですねと、水を向けてみた。「それがさ、家(うっ)とこにあると思うと、誰も食べやんのさ」。

失われ逝く技。もう何人(なんぴと)たりとも、手出しは出来ぬ。近い故、筍の旬の有り難味も失せる。されど遠くにあれば如何に?

まさに今、失い逝く技も然りかな。

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「天職一芸~あの日のPoem 113」

今日の「天職人」は、岐阜県養老町の「瓢箪細工師」。(平成十六年十月二十三日毎日新聞掲載)

切立つ崖と滝の壺 水面に揺れる紅葉(くれないば)     囀る鳥を指差して 老婆の手引く孝行者(こうこうじゃ)   茶店の軒に揺れるのは 黄金に染まる瓢箪と        養老山の木漏れ日に 浮かんで消える母の影

岐阜県養老町の瓢箪細工師、松本建樹(たてぎ)さんを訪ねた。

「一本の蔓から二つと同じもんは出てこんのやて。どんな瓢箪に育つんやろかって。孫蔓なんて可愛いもんや。それが証拠に、一日に三度も眺めに行くんやで。まるで本当の孫と一緒やて」。建樹さんは、脳梗塞で麻痺した左手を庇うように、壁の瓢箪を取り上げた。

兼業農家の長男として生まれ、高校を卒業した昭和二十五(1950)年、名古屋のメリヤス問屋に住み込みで就職。外商や店番に明け暮れたものの、会社が敢無く倒産し養老町へと舞い戻った。

昭和三十三(1958)年に農協の職員として採用され、翌年妻を迎え二男をもうけ定年まで勤務した。 「ちょうど定年の一年前や。近所で瓢箪を作っとる人の所へ遊びに行って、表情豊な瓢箪に出逢って一目惚れやて。作り方習って種までもらって」。定年後の愉しみを見付けた気がした。

「初めての収穫は、一m四十五㎝もある長瓢箪が十本と、千成瓢箪やった」。瓢箪は雑交配を繰り返すため、千成瓢箪を植えたつもりが、実は百成瓢箪だったということも多々起るとか。

三月に種を蒔き、本葉が三つ出た時点で四月に定植。親蔓が一mほどに伸び、下から十葉目の天辺を摘み取る。

次に出た葉を子蔓として花を摘み取り、そのまた次に出る孫蔓に、盆過ぎまで瓢箪を成らす。その成長たるや、一日に五㎝とも。

千成瓢箪は一株で約五十個。百成瓢箪なら、一株に約二十個が、盆明けに収穫を迎える。 真っ白な瓢箪の蔓が切り取られ、蔓の付け根に穴を開け、十日間ほど水に浸け込む。そして瓢箪の中身を腐らせ、種を取り出し乾燥。すると不思議にも、黄金色に飴焼けした、瓢箪独特の天然色を身にまとう。

真ん中がキュッと括(くび)れた、なんとも妖艶な瓢箪独特の形状。昔の人は、瓢箪の中に植物の種を入れ、保存容器にしたり、それを腰にぶら下げ、マラカスの様な音を発することで、獣除けとしても活用されたとか。

「瓢箪は、連作を嫌いよるんやて。だで三年目は、別の場所へ移してやらんとかん」。一語一語に瓢箪への情愛が滲む。

瓢箪は、真っ白な花を夜になって咲かせ、蛾が実を結ぶとか。 定年直前、第ニの人生に、やっと巡り逢うことのできた、老瓢箪細工師そのもののように。

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「天職一芸~あの日のPoem 112」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「人形職人」。(平成十六年十月十六日毎日新聞掲載)

小さな君の瞳に揺れた 雪洞燈る雛飾り          やがて君待つ殿様は 父よりやさしい人だろか       小さな君は瞳を濡らし 何で雛様仕舞うかと        「嫁入り話遅れても 父母と一緒」と君が泣く

名古屋市千種区の大手人形、二代目人形職人の大手邦雄さんを訪ねた。

「このお姫様、お顔の汚れ落としたものの、着物の染みが抜けないんで、よう似た生地の着物を見繕(みつくろ)って着せ付けたんだわね」。何ともやさしい眼でお雛様眺め、いたわるような手付きで邦雄さんが人形を掲げた。

邦雄さんは 高校を出ると、腰掛け程度の軽い気持ちで家業に。「あの頃は景気がよくって。子供も多かったし、オリンピックも終わって、どの家も暮らしに余裕が出始めた頃だったでねえ」。それがいつしか天職に。

「親父も他の職人も、誰もなんも教えてくれんのだわ。だで、見よう見真似ってやつだわさ」。人形の首から下の半製品を仕上げ、問屋に納めた。

問屋の友人の紹介で、昭和四十九(1974)年に、瀬戸市出身の幸子さんと結婚。一男一女に恵まれた。さぞや立派な雛祭りと、端午の節句人形であったろうと水を向けてみた。「それがなあ。家は年がら年中、お雛様と武者人形に囲まれとるで、ありがたみも薄いんだて」。

昭和五十(1975)年代に入ると、顔も挿げる完成品を手掛け始めた。西陣織の反物を裁断し、ハトロン紙を裏張りしてミシン掛け。姫には雅を、殿には凛々しさ、そして武者には勇壮さを装い、命を吹き込むかのように着せ付けた。

「着せ付けも、上手く行く時と行かん時があるんだて」。特に藁の胴から左右に伸びる針金の、肩折れ・肘折れと呼ぶ角度決め一つで、人形の表情がまったく異なる。 「姫は撫で肩、殿は怒り肩。気分がむしゃくしゃしとる時は、折ったらかん。やり直せんで。やさしい気持ちの時でないと」。

一端の人形職人までには、十五年の歳月を要すとか。 平成に入り需要が落ち込み始めた。住宅事情が変化し、雛壇を組む場所も奪われ、三人官女や五人囃子も徐々に失業の憂き目に。今では人形師も、最盛期の三分の一。「昔は、子供の成長を願い、贈ったり贈られたりがあったけど。もう少子化で先細りだて」。

今は人形修理に力を注ぐ。「人形に重ねる想い出や愛着を、できるだけそのまま留めておけるよう、必要最低限だけ手を入れるんだわ」。

人形師の匠の技で、化粧直しを終え、人形は再び新たな命を宿し、それぞれに愛される、我が家へと戻ってゆく。

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「君が生まれた夜は」

わたしたち人間には、一人に一つ、何人にも、お母さんが苦しい思いと引き換えに、この世にわたしたちを産み出してくれた、大切な記念日があります。

でもそんなとても尊い誕生日を、子どもの頃はただ単に、「バースデープレゼントが貰え、バースデーケーキが鱈腹食べられる日」くらいにしか、思っていなかったのも事実でした。

とは言え、当時のバースデーケーキは、今のような生クリーム仕立てで、新鮮なフルーツがたっぷり飾り付けられているようなお洒落な物とは程遠く、こってりねっとりとしたバタークリーム仕立てで、中はパッサパサでモッサモサなスポンジだったものです。

卓袱台の上にそんな丸いケーキが据えられ、オレンジジュースかサイダーで乾杯が定番だった記憶があります。

ああっ、そうそう!茶の間の天井には、お母ちゃんお手製の、折り紙の輪飾りならぬ、新聞チラシの輪飾りが垂れ下げられていたものです。

しかしそうしてとても尊い神聖な誕生日でありながらも、思春期を迎えた頃には妙に反抗的になっていたのか、家族三人でバースデーケーキを囲んでお祝いなんて事がこっぱずかしくって、それ以来そんな誕生会も開かれなくなり、バタークリームのバースデーケーキを囲むことも無くなってしまった気がいたします。

ところが時が経ち、両親が亡くなった齢に年々近付くにつれ、せめて一度だけでいいから、なんで自分の言葉で、「お母ちゃん、この世に産んでくれてありがとう。お父ちゃんとお母ちゃんの元に産んでくれて、本当にありがとう」と、言ってやれなかったんだろう・・・。

毎年自分の誕生日を迎えるたびに、そんな後悔ばかりが脳裏をよぎります。

今ではぼくの守護星として、天から見守ってくれている両親ですが、ぼくがやがて両親の元へと戻っていったなら、あの卓袱台の上にもう一度バタークリームの小さなバースデーケーキを広げて、三人でしみじみと味わいたいものです。

今夜は、後程ご紹介いたしますが、ハートさんのお誕生日のお祝いを兼ね、ヤマもモさんのリクエストにお応えしつつ、「君が生まれた夜は」をフルコーラスで歌わせていただきます。

「君が生まれた夜は」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君が生まれた夜は二人だけで祝おう 遠い夜空の果ての君の両親と

ワインでも傾けて君のアルバム開こう 泣きべそ幼い日の君がいとおしい

 Happy birthday この世に生まれて来てくれて

 Happy birthday 二人巡り逢えてありがとう

 これからは二人で一緒に キャンドルの灯を燈そう

君の生まれた夜もこの星空のように 守護星たちが君を見守ってたろう

今日からはこのぼくが 君の守護星となり  どんな時であろうと 君を守り抜く

 Happy birthday この世にただ一人の君と

 Happy birthday やっとやっと巡り逢えた

 これからは二人で一つの キャンドルの灯を守ろう

君が生まれた夜は二人だけで祝おう 遠い夜空の果ての君の両親と

ワインでも傾けて君のアルバム開こう 泣きべそ幼い日の君も抱きしめたい

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「もう一度食べたい一文菓子屋の駄菓子!」。ぼくが子どもの頃は、近所にあった「トシ君家の一文菓子屋」が、腕白坊主やお転婆娘たちの社交場のような存在でした。当時のお小遣いは、一日当たり10円玉一個。だいだい一文菓子屋の駄菓子は、くじ引き付きの物が多く、一回5円が相場だったものです。ですから5円は、駄菓子のくじ引き!紐の付いたアメ玉や、黒ん坊とか、くじ引きの運が良ければ、大きなアメ玉や黒ん坊をゲット!例え外れても、子供騙しな一番小さいサイズの駄菓子が手に入るため、子供らには人気でしたねぇ!そして残った5円で、友達と5円ずつ出し合って、持ち手が二つ付いていて半分ずつに出来るよう真ん中でパキッと割ることの出来る、ソーダ味のアイスキャンディー10円を買って、二つに割って分け合ったものでした。当時のぼくは、マー君といつもアイスキャンディーを分け合っておりましたねぇ。もしもう一度あの頃に戻って、トシ君家の一文菓子屋で5円のくじが引けたら、やっぱり黒ん坊のくじで一等賞を引き当て、菱形に切られた縦10cm横20cm近くの、巨大な黒ん坊を手に入れて独り占めにして食べてみたいものです。皆さんは、どんな一文菓子屋の駄菓子がお気に入りでしたか?

今回はそんな、『もう一度食べたい一文菓子屋の駄菓子!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.26「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は和風っぽいスープです。まあ和食では、椀物なんて呼ばれますが、問題は椀種!ちょっとこの写真じゃあ、分かりにくいですかねぇ。

ヒントは、椀種としてはよく使われるアレと、つなぎに緑色した洋物の野菜と言うか実と言うかを使ってみました。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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