「天職一芸~あの日のPoem 123」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「結納屋」。(平成十七年一月八日毎日新聞掲載)

着物姿でしおらしく いつもの姉も違って見える      媒酌人の口上に 目頭押さえ吉事寿ぐ           鶴の夫婦が睦(むつ)むよに 幸多かれと友白髪(ともしらが)                          松竹梅に願い添え 水引結わう二人の門出

三重県桑名市の小林結納店、小林欣哉さんを訪ねた。

「結納飾りの宝船は、反物一反で拵(こしら)えたるんやで、解いて着物にしたもんやさ。昔のんはなあ」。欣哉さんは、立派な結納飾りを指差した。

欣哉さんは昭和五(1930)年、箪笥職人の父の長男として誕生。しかし小学校に上がる直前、日華事変で父が戦死した。

欣哉さんは戦後、面影の薄い父を慕うように、箪笥職人を志した。五年に及ぶ修業で、一端の桐箪笥職人に。

しかし「朝早よから夜遅うまで、働き詰や。これではあかん」と見切りを付け、二十一歳の年に地元の機械工場に勤務した。そこで愛妻秋子さんと巡り会い、社内恋愛の末、昭和三十四(1959)年に結婚。

昔の結納は、家具屋が片手間に手掛けていた。「箪笥職人の親方から『結納は一代で一ぺんはやるもんやで、これからの時代はええぞ』って」。独立の二文字が頭をもたげた。長男が誕生するや、三十一歳で結納店を旗揚。

資金も伝手(つて)も無い。傘と小物の小売をしながら、細々と結納飾りを作り続けた。「石の上で三年辛抱しても、売れませんわ。七年程してやっと」。

昭和四十(1965)年代に入ると、戦後に誕生した団塊の世代が婚期を迎え始めた。「桑名は田舎やったで、みんな人よりええもん持たそと」。桑名周辺の村々を訪ね歩き、長老から各地の結納の仕来りも学んだ。 「ある時、モンペ姿のお婆さんが『これで揃えたって』って、お札を一束持って来てなあ。釣銭の方が遥に多かったけどなあ」。

戦時中、物の無い時代に婚期を迎えた親の世代。せめて息子や娘だけには、不憫な想いをさせるまいと。 一組の結納品に、都合四回の飾り付けと片付けが、無料で繰り返された。

まず納品日に婿方で飾り付けと説明。結納前日には、婿方で一旦片付けて嫁方へ。結納当日、嫁方で飾り付け、式の段取りと司会進行を行い、再び片付ける。後日改めて嫁方で飾り付け。

この細やかな対応は、口伝(くちづて)に広がり、多い年は四百件以上をこなした。

しかし昭和も五十(1975)年代を下ると、結婚の様式にも変化が現れた。「昔は家と家とのつながり、今は本人同士やで」。

一つ一つの結納品に、「幸あれ」と込められた、昔ながらの言い伝え。後何年、語り継がれると言うのか。

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「天職一芸~あの日のPoem 122」

今日の「天職人」は、岐阜市彌八町の「味噌ステーキ職人」。(平成十六年十二月二十五日毎日新聞掲載)

初めて知った大人になって テキがステ―キだったって   子供の頃のご馳走は 千切りキャベツトンテキ二枚     初めて君に作った料理 引っ越し間際何も無く       味噌を絡めてトンテキを 母の手付きを真似て焼くだけ

岐阜市彌八町で昭和七(1932)年創業、元祖味噌ステーキ・レストラン「ライオン」二代目の味噌ステーキ職人岩田満さんを訪ねた。

「家の先代は、戦後間もない頃から、下駄履きでハーレー転がしとったほどの、洒落者やったらしいんやて」。満さんは懐かしげに眼を細めた。

満さんは、昭和十四(1939)年に飛騨金山で、警察官を父とする家庭に誕生。終戦時は大垣で玉音放送に接した。

貧しくも平穏な日々が訪れ、新制中学から高校へ。卒業後は、金型部品を製造する工場に就職し、十年近くの歳月が流れようとしていた。「そんな折、これとの見合い話が持ち上がったんやて」。満さんが妻を指差した。

見合い話はトントン拍子でまとまり、二十八歳の年に岩田家の婿養子として迎えられた。

「鉄から今度は、いきなり柔らかい物(もん)相手やでね。毎日親父にしごかれっぱなし」。とにかく先代の手付きを、ひたすら見て覚える毎日の連続。「覚えんならんでね。跡継がんなんのやで。肝心なのは、豚(とん)の捌き方やねぇ」。

豚の肩ロースの脂を取って、一枚を百㌘に切り落す。「目方を量りながら、包丁で目盛を付けるんやて。でも肉をなぶらせてもらえるようになってから、勘で目方がわかるまでに3年はかかった」。今ではその誤差も、百gでわずか二.五~五g以内の正確さ。

「昔はここの彌八地蔵の界隈に、芸者置屋が六軒ほどあったんやて。線香の煙でもうもうとなって。昼はお地蔵さんのお参り、夜は綺麗どころと旦那衆らで賑わったもんやて」。

地味噌に香料と秘伝の調味料で味付けした、特製味噌だれを豚肉に絡めて、次から次へと鉄板で焼いた。「あの頃は、一日に二百枚ほど出る日も、ざらやったて」。路地に漂う線香の煙と、焦げる肉汁と味噌の香ばしさが絡み合い、道行く人も想わず足を止めたことだろう。

肉の捌き方もやっと身に付いた昭和四十五(1970)年、長男の誕生と入れ代るように先代が鬼籍(きせき)に。

「岩田の家は女系やったで、まあ何とか責任果したって感じやね」。長男誕生と同時に、二代目を襲名。以来三十四年、庶民のご馳走「味噌ステーキ」の味を守り抜く。

昭和初めの柳ヶ瀬を、気取って闊歩したモボ・モガ。伊達男と洒落女が連れ立ち、今にもこぞってやって来そうな、そんな気がした。

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6/02の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「冷静春雨のなぁ~んちゃってボロネーゼ~フレッシュレモン絞り!」

春雨好きなぼくには、ちょっとだけこだわりがあります。

それは、瓢箪印の春雨と決めている点です。

何とも噛み応えの弾力感がたまらず、お鍋やサラダにスープと、欠かせぬ脇役として常に買い置いているほどです。

今回はその名脇役に主人公を務めていただこうと、ありあわせを使って編みい出したる作品が、この「冷静春雨のなぁ~んちゃってボロネーゼ~フレッシュレモン絞り」です。

実は冷蔵庫の中に、口を開けた使いかけの2種類のメーカーのアラビアータが残っていたので、それらをひとまとめに処分してしまえと、まぜこぜにして使ってみました。

まずフライパンでオリーブオイルを熱し、ニンニクの微塵切りで香りを立て、牛のひき肉を炒め軽く塩とブラックペッパーを振り、市販のアラビアータソースを加えてお好みの味に調えます。

後は瓢箪印の春雨をお好みの食感に茹で上げ、冷水で冷やして良く水を切って皿に盛り付け、その脇に彩り用のスクランブルエッグ、キュウリの千切り、レモン1/2個を添え、ボロネーゼソースをたっぷり注いで、最後に飾りのひよこ豆を散らせば完了。

このところの暑さで、ついついのど越しさわやかな物を求めてしまいますが、そんな折にピッタリな春雨パスタとなりました。

特にフレッシュレモン1/2を、惜しみなく絞ることで取り分けさっぱりとした味に仕上がり、夏バテ予防にもなりそうで、キリン一番搾りにもピッタリすぎる逸品となりました。

冷たい春雨とレモンの相性は、もう病みつきになるほどの美味しさでした!

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「天職一芸~あの日のPoem 121」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「豆腐職人」。(平成十六年十二月十八日毎日新聞掲載)

おぼろ月夜も明けやらぬのに 家並みに響くラッパの音   豆腐豆腐と犬も遠吠え 寝ぼけ顔した腕白どもが      鍋を抱えて路地をゆく 母の手伝い朝餉の支度

愛知県蒲郡市で昭和六(1931)年創業の丸キ豆腐店、三代目・豆腐職人の鈴木雅久さんを訪ねた。

 「今日作った豆腐は、今日しか出さん。その日に食べて欲しいでな」。雅久さんは、きっぱりとつぶやいた。

雅久さんは、小中高を地元で過ごし、北海道大学の農学部・林産学科に学んだ。「自分が何に向いているのかもわからず。まあ、物見遊山的な気持ちだったんだろうな」。

大学を出ると、木材会社に就職。仙台から八戸、そして青森に五年と、東北地方での勤務が続いた。 仕事が終わると、一目散で市の主催する、文化セミナーへ。やがて運命を共にする、青森美人の妻も通っていたからだ。

晴れて二十九歳の年に結ばれ、三年後に実家へ。ちょうど一年前に、先代が病に倒れていたからだ。

「親父の豆腐は、食べて美味いだぁ。『そう想ってるのは、きっと俺だけじゃない!このまま無くしたら、親父の豆腐を喜んでくれた人らが可哀想らぁ。なら、俺がやらんと!』そう考えた時、守るべき物と、俺の居場所も見つかっただ」。

帰省後一週間、先代に付きっ切りで豆腐作りを学んだ。「後はすべて自分だけ。失敗の繰り返しばっからぁ」。

豆腐屋の朝は早い。三時半には起床。前日から脱気水と呼ぶ、空気を抜いた水で浸された大豆を擂り、釜に火を入れる。搾り機から濃い目の豆乳を寄桶に入れ、苦汁(にがり)を加え櫂(かい)で寄せ、固めて型へ。

手際よく、絹ごし・木綿の順で交互に豆腐を仕上げ、五時半の開店を目指す。

近くの魚市場で仕入れを終えた客が、帰りがけに立ち寄り豆腐を求めてゆく。それも多い日は、百人を超すほどだ。 味へのこだわりも強く、大豆は大分県安心院(あじむ)特産の、選ばれた豆だけが使われる。「豆は生きとるだぁ」。

中でも本苦汁を使用した、飾らない寄せ豆腐には、職人の手の温もりが漂う。 雅久さんは、豆腐に季節感を添えたいと、月替わりで変わり豆腐も手掛ける。

柚子、緑茶、桜、紫陽花と、食卓を彩る豆腐の華。

パックに収まった一丁の豆腐。しかしパックの上部は、賞味期限を印字した透明フィルムで封じない。『今日作った豆腐は、今日食べて欲しいだぁ』を信条とする、一徹な職人の誇りにかけて。

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「天職一芸~あの日のPoem 120」

今日の「天職人」は、三重県上野市の「落雁職人」。(平成十六年十二月十一日毎日新聞掲載)

濡れ縁越しに鳥の鳴き声 一陣の風舞う落ち葉       庵(いおり)に座せば君との四季が 茶器に泡立ち浮かんで消えた                          濡れ縁越しに四季も移ろう 静けさを裂く鹿威し      君の点前(てまえ)と季節の茶菓子 吉事落雁鶴と亀

三重県上野市で慶長(1596~1615)年間創業の桔梗屋、十七代目・落雁職人の中村英三さんを訪ねた。

「養子に入ったら『さぞかし甘い物たらふく喰えるやろ』言う気持やったんさ」。英三さんは、白衣姿のまま帳場奥の客間に座した。

英三さんは、同市中町で羊羹漬(ようかんづけ)屋を営む、宮崎家の三男坊として誕生。

工業専門学校機械科を経て自動車製造会社に入社し、タンクローリーのタンク等、鉄板物の製造を手掛けた。

一方桔梗屋は、先の大戦で十六代目を継ぐはずの一人息子が戦死。十五代目も終戦直前に他界。跡取りを失った女将を、職人が細々と支え続けていた。

昭和三十一(1956)年、英三さんは周りの勧めで養子入り。「昨日までは硬い鉄板相手やったのに、今日からはいきなり柔かな和菓子相手でっしゃろ、そりゃあ面喰(めんくら)いましてな」。

古参の職人について、英三さんの修業が始まった。「和菓子は何と言っても餡が命やで、小豆選びも一苦労やさ」。

昭和三十二(1957)年、同市寺町から昌子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

落雁は型物と呼ばれ、押し物と打ち物に分かれる。半生状の生地に餡を詰めるものが押し物。型に打ち完全に乾燥させるのが打ち物。

寒梅粉(かんばいこ)と呼ばれる伊賀地方独特の、香ばしい粉が原料となる。 寒梅粉は、もち米を搗いて薄く延ばし、煎餅状にして焼き上げ、再び粉砕した風味漂う粉。そこにシトリと呼ぶ作業で、細かな上白糖に秘伝の液体を混ぜ、しっとりと練り上げ、型放れを促す為に少々の片栗粉をまぜて木型に押し込む。

桜や朴の木に、花鳥風月が彫り込まれた木型の数は、この店が刻んだ歳月に比例する。「ここらは山間僻地(へきち)やったで、落雁のような保存食が好まれたんやろなあ」。 養子入りから十年。英三さんは、阿波徳島産の和三盆を使った落雁「偲翁(しおう)」を生み出した。

天然の甘味が、茶請けの逸品として、贅を引き立てる。

その名も翁を偲ぶ。

縁に導かれ、四百年に及ぶ重き暖簾を受け継いだ老落雁職人。一度も教えを乞う事も叶わなかった先代に、まるで自ら生み出した味を問い掛けているかのようだ。

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「今日のウォーキング雑観」

いつもと違うコースを当てもなくブラブラとウォーキングをしていると、何とこんなモノが目に飛び込んできました!

鳥居の脇には、どこからどう見ても、大きな大きなお釜が!デーン!

さてはその昔、この辺りに魑魅魍魎なんぞが現れ、人々に害をなして、ついに見かねた神々が釜茹でにでもなさったという、そんな伝説でもあったのやらと思い、鳥居を潜って見ることに!

鳥居中央上部に掲げられたお社の名前は、長い年月の風雪で文字が読み取れないほど、擦れてしまっておりました。

境内に入ると説明版があり、「鹽竃(しおがま)神社」とあります。

「しおがま神社」と言えば、ここ中川区西日置とは別に、確か八事にもあったはず。

説明版をよく見て、謎解きが出来ました!

なるほどなるほど!

陸奥好きなぼくには、何だかとっても良いお社に伺えたものだと思い、ご本殿にも参詣させていただいてまいりました。

また近いうちに、お詣りにお邪魔しようと思っているところです。

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「天職一芸~あの日のPoem 119」

今日の「天職人」は、岐阜県岐阜市の「湯葉職人」。(平成十六年十二月四日毎日新聞掲載)

母の忌明(きあ)けの法要は 在りし日母の面影巡り    喜怒哀楽の日捲(ひめく)りか               精進落とし花の膳 在りし日母の煮しめの味が      ほっこり浮かぶ結び湯葉

岐阜市本町で慶応三(1867)年に創業された、湯葉勇(ゆばゆう)五代目の山田正雄さんを訪ねた。

「湯葉の原料は大豆と、清らかな長良の清流だけやて」と、正雄さん。

引き戸の奥には、歴史を感じさせる藍染の暖簾と、細長い湯葉釜からほんのりと湯気が立ち上る。

仏教伝来と共に伝えられたとされる湯葉。「ここは城下町やで、寺社が多いこともあって、精進料理に湯葉は欠かせんかったんやて」。

二男坊ながら、高校卒業の頃には跡継ぎを決心し、大学へと進んだ。「少しは世間を学んで来い」。先代は世間の厳しさに身を晒すよう導いた。

二十五歳で店に戻り、口数の少ない先代について修業を開始。勘が頼りの湯葉職人ゆえ、勘所を言葉で教える術など無い。自ら勘所を会得する毎日が続いた。「あんまり長時間湯葉を放っとくと、下の豆乳が煮えすぎて張り切れ(強度を損なう)になる」。

一晩かけ伏流水に浸け込んだ大豆を、午前三時半に起き出し、水を絡ませながら薄目のヨーグルト状になるまで臼で挽く。そこに水溶きした粉末のウコンを加え、圧力釜で煮あげる。次に大きな木綿の絞り袋に落として、豆乳を絞り出す。 続いて豆乳を湯葉釜に流し込み下から加熱。五分ほどで釜の表面に膜が張り、湯葉串で引き上げて干す。半生程度に乾燥させたら、裁断して結び湯葉としたり、巻湯葉に仕立て上げ、再びカリカリになるまで乾燥。生湯葉ならば、釜から引き上げたままとなる。

ウコンで黄味を帯びた、中部地方独特の湯葉の誕生だ。「湯葉は大豆とウコンと水だけ。何にも足さず、大豆の持つ天然の甘味と旨味を、しっかりと引き出すだけやて」。

大豆への拘りも半端ではない。「岐阜の大豆だけでは、張りと色合い、それに旨味に欠けるんやて」。 年末から二月初旬にかけて、各地の国産大豆が出揃うと、一ヶ月かけて試作を繰り返す。その年の岐阜県産と組み合わせるに相応しい大豆を、納得行くまで吟味するために。

「この店の湯葉じゃないと納得せんと言う、そんなお客さんを裏切れんだけやて」。

何も足さず、何も引かないから、誤魔化しようなどない。あまりに潔い、天晴れ湯葉職人。

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「天職一芸~あの日のPoem 118」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「ちゃらぼこ太鼓職人」。(平成十六年十一月二十七日毎日新聞掲載)

ちゃんちゃんちゃらぼこ 祭りの太鼓           山車を率いて町練り歩く 年に一度の神への遣い     ちゃんちゃんちゃらぼこ 揃い半纏(ばんてん)      山車が舞台のちゃらぼこ太鼓 あの娘に届け撥捌(ばちさば)き

愛知県岡崎市で江戸末期創業の三浦太鼓店、五代目ちゃらぼこ太鼓職人の三浦彌市(やいち)さんを訪ねた。

「家(うち)は日本一小さい太鼓屋だもんで」。彌市さんは、革の匂いの立ち込める作業場で屈託無く笑った。

創業期から昭和初期まで三河一帯では、ちゃらぼこ太鼓を用いる祭りが各地で盛んに行われ、三浦太鼓店も大いに栄えた。

しかし敗戦が忍び寄ると同時に、東南海地震に三河地震と天変地異が相次ぎ、隆盛を極めたちゃらぼこも、各地で規模が縮小する事態へと。

ちゃらぼこ太鼓とは、高音を発するよう、極限まで革を張り詰めた小〆太鼓と、胴回りの小振りなコンコロ太鼓の二種類からなる。

彌市さんは中学の時、先代が大病を患ったことで、太鼓作りを手伝いながら学んだ。既に高校を卒業する頃には、一通りを身に付けるほどの腕前に。

卒業後は、隣町の製薬会社に勤務し、四年後に社内恋愛の末、愛妻を得三男二女をもうけた。しかし、三十二歳の年に先代が他界。「平日はサラリーマンで、週末だけの太鼓職人。でも急ぎの注文には、会社終ってから夜なべで革張っとっただぁ」。

小〆太鼓の特徴は、金胴にあり、雌牛の背の革を極限まで締め金具と呼ぶ太いボルトで締め上げるのが特徴。まず乾燥して丸められた、一枚物の牛革を水に浸し、厚さ四㍉はある背の部分を、太鼓の直径に合わせて鋏で切り抜く。腹の部分は柔らかく、太鼓に適さないからだ。革の裏側の滑(ぬめ)りを剥鉋(すきかんな)でこそぎ落とし、これ以上伸びる余地も無いほど、締め金具で張り詰め乾燥。

ちゃらぼこ太鼓は、町々で高い音質を競い合う。 「だで一年で革が破れるだぁ。革は生きとるでなぁ。缶の中に籾殻入れて、仕舞うほどだて」。〆太鼓は「縫い物」と呼ばれ、職人の数も少ない。一つの太鼓を三~四時間で縫い上げる。

二足の草鞋生活は、三年前まで続いた。「なかなか、太鼓一本の生活にふんぎれんかっただぁ」。その背中を押したのは、六代目を目指す二男の和也さん(二十四)だった。

一つの太鼓に一つの音色。やがて巡り逢う、一人に一つの天職一芸。

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「紫陽花の花嫁」

紫陽花って、他の花たちとは異なり、雄しべや雌しべが無いものだと、つい最近までそう思い込んでおりました。

ところがそうではなく、このブルーの飾り花を掻き分けると、その奥にちゃんと花弁が開いて雄しべや雌しべが露出した、このブルーの飾り花とは似ても似つかぬ、小さな花が隠れているんだそうです。

残念ながらぼくは、その不思議な紫陽花の飾り花の奥に潜む、雄しべや雌しべを突き立てた小さな花を、まだ実際に自分の目で見たことがありません。

今年こそは、近所の紫陽花が見ごろを迎えたら、探し出してみたいと思っているほどです。

ですからぼくらが紫陽花が色付いたとか言って眺めているのは、飾り花の方です。でもその飾り花たちは、子孫を遺す大切な使命を持った、ちゃんと雄しべと雌しべを持った小さな花を取り囲んで、雨の日は傘になりその小さな花を健気に守っているのです。

それを知って、ぼくは益々紫陽花が好きになってしまいました。

この紫陽花にも、「辛抱強い愛情」「一家団欒」「家族の結びつき」といった、花言葉があるようです。

そのいずれの花言葉にも、雨に打たれる紫陽花を眺めていると、妙に頷かされる思いがするものです。

時として植物たちは、言葉が通じぬが故、互いに言葉を解せぬが故、じっと眺めるだけのこちら側の心象一つで、人生の気付きを悟らされることもあります。

紫陽花からは、どんなに雨に打たれようとも、雨を全身でひたすら受け止める、その果てしない忍耐強さや、一雨ごとに色を深めてゆくその気高さに、考えさせられることもしばしばです。

そんな紫陽花の頃に嫁ぎ行く、新婦へのメッセージ曲が、今日お聴きいただく「紫陽花の花嫁」であると同時に、新婦に贈るエールの歌詞は、自らに向けたものでもあります。

梅雨前線も南から徐々に北上を始めたようでもありますので、今日は「紫陽花の花嫁」を弾き語りからお聴き願います。

「紫陽花の花嫁」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

雨に打たれる度に その色を深め 見事に咲き誇る 紫陽花のように

白いドレスを揺らし 一度振り向いて 真紅の道を行く 君にどうか幸あれ

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 今日からこの先は どんなことがあっても

 決して振り返らずに お互いをいつの日も信じて

雨に打たれる度に 心強くあれ 命を懸けて咲く 紫陽花のように

幸せは比べたら 直ぐに色褪せる 君が信じた道 目を逸らさないで

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

 紫陽花の花嫁よ 誰よりも幸せであれ

 月並みな言葉だけれど いつまでもお互いを信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

続いては、CDから「紫陽花の花嫁」をお聴きください。

★まんさくさんから、「今日6月2日は「ゴッド君」のお誕生日です!ぜひお祝いの歌をお願いします!」とメッセージをいただいておりました。

もちろん喜んで「ゴッド君」のお誕生日のささやかなお祝いをさせていただきましょう!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「昭和の洋食のおご馳走!」。ぼくが子どもの頃のお母ちゃんの洋食と言えば、ソースをドボドボに掛けた焼き飯か、モヤシばっかりの中にわずか~にひき肉が散りばめられたオムレツと、相場は決まったものでした。ランドセルを背負って、「行って来ま~す!」と玄関を出ようとすると、お母ちゃんは得意満面な表情で、「今夜はお父ちゃんのお給料日やで、おごっつぉやで!楽しみにしとりゃあね!美味しい洋食やで!」と、毎月25日だったか月末だったかに、見送られたものでした。でも毎回焼き飯やモヤシばっかりのオムレツか、せいぜい薄っぺらなハムカツくらいのものでした。ちなみに何でもかんでも、ソースをかければ洋食と言った、そんな塩梅だったと記憶しております。皆様のお宅の「昭和の洋食のおご馳走」は、いかがなものでしたか?

今回はそんな、『昭和の洋食のおご馳走!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.06.02「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回はちょっと麺がポイントです。一見中華っぽい感じの、冷やっこい作品です。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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