「天職一芸~あの日のPoem 130」

今日の「天職人」は、岐阜県福岡町の「曲げわっば職人」。(平成十七年三月五日毎日新聞掲載)

卒業式の姉ちゃんは 袴姿で艶やかに           お転婆娘何時の間に 頬にほのかな薄化粧         家族の宴祝い膳 蒸した赤飯待ちきれず         「摘み食いよ」と曲げわっぱ 蓋を開けたら玉手箱

岐阜県福岡町の丹羽木工所、二代目曲げわっぱ職人の丹羽昭二さんを訪ねた。

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「柾目のわっぱは、もう出来んのやて」。 昭二さんは、早春の陽だまりの中で、山裾をぼんやり眺めた。

昭和三(1928)年、名古屋市中川区で誕生。しかし昭和二十(1945)年五月、一家は空襲で工場もろとも焼け出された。

総てを失い、母の在所を頼って福岡町へと移住。板壁の古い倉庫が仮住まい。天井からはお月様が見え、冬になると容赦なく雪が舞い込んだ。

「カボチャが盗まれたと言うと、直ぐに『あいつらや』と、余所者扱い」。その苦しさをバネに、掘っ立て小屋で工場を再興。景気の上潮に乗り、本格的に曲げわっぱ製造を開始した。

まず丸太を柾目になるよう、蜜柑割りに割く。昔の材は蝦夷松、今は東濃檜。次に蜜柑割りの材を立て、「く」の字の一遍と平行に二分(約六㎜)の薄さで、独特なわっぱ包丁を打ち込み、手槌で捻(ひね)るようにへぐ(剥ぐ)。

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「へげる木かどうか、その見極めが肝心や」。六割は、へぎにくい外れ材。これらは折箱の材料として利用される。続いて腹当てをして、へいだ薄い平板の幅を合わせ、セン(鉋)で削る。「三年ヘボヘボ言うて、センで削れるようになるまで、楽に三年はかかったほどやて」。

次に三十分ほど釜で煮て、柔らかくなった材を縦長に置き、丸太の轆轤(ろくろ)を手足で押して板を巻き上げる。その後、型に組み込んで、天日で三~四日自然乾燥。底板に桟(さん)を取り付け、腰板を当て桜樺(さくらかば)で板を縫い上げ、曲げわっぱの蒸篭は完成する。

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昭和三十三(1958)年に妻を得、二人の男子に恵まれた。「でも跡取りはもうおらん」。二人の倅は、医者に育て上げた。

「よう割れる木ほど、へぎやすい。トイゴ(木の性質)は一本ずつ違うんやで」。材木の仕入れは、目利が肝心。「博打はようせんけど、材木選びもそんなもんやて」。

やがて中国産の蒸篭が輸入され、柾目の曲げわっぱは衰退の一途。「もう柾目にへげる職人がおらんのやで、仕舞いやて」。昭二さんが寂しげに笑った。

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たかが日用品。柾目で無くとも、赤飯やもち米は蒸せる。しかし職人は、曲げわっぱの胴に横たう、柾目という自然美に己の技を託す。

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6/09の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「Honey Babeの冷しゃぶ~野沢菜と梅肉のさっぱり浸けだれ&キュウリの辛子マヨネーズ和えwithスモークサーモンとズッキーニのカレー風味ソテー添え」

なかなか今回も、皆々様の鋭い観察眼には、驚くばかりでした。

今回は、ぼくの大好きなポーク、Honey Babeの夏向きメニューにぴったりの冷しゃぶです。

長野県飯田市のハヤシファームさんが、遠山郷のハチミツで大切に育てた、生後210日の雌豚だけに冠される商標の「Honey Babe」。

https://hayashifarm.jp/info/1105784

http://hayashifarm.shop-pro.jp/?pid=89862680

中でも一番ぼくの大好きな、しゃぶしゃぶ用のバラ肉を使って、さっと湯通しして冷水で絞めて水を切って皿に盛り付けます。

そして浸けだれは、長野県飯田市生まれのHoney Babeには、やはり長野県の名産「野沢菜」だぁ~ってなもんで、野沢菜に白ワインをお好みで入れ、フードプロセッサーですりおろしたグリーン色の浸けだれが一種類。

そしてもう一種類の浸けだれは、熱中症予防も兼ねて梅干しの実をこれまた白ワインをお好みで入れ、フードプロセッサーですりおろします。

これで二種類の漬物ベースの浸けだれが完成です。

後は、薄切りにしたキュウリを辛子マヨネーズとブラックペッパーで和え、スモークサーモンを一口大に切って、彩で添えて見ました。

また冷蔵庫にズッキーニが転がっていましたので、それを輪切りにしてオリーブオイルをひいたフライパンでソテーして、塩コショウで味を調え、最後にSBの赤缶カレーパウダーを振り掛け一炒めすれば完了です。

しゃぶしゃぶというと、ポン酢やゴマダレが相場ですが、身近にある野沢菜や梅干しでも、大変美味しくさっぱりといただけ、夏バテ解消に役立ちました!

もちろん夏場は特に絶好調の、キリン一番搾りは欠かせませんね!

皆様もぜひ、お家の冷蔵庫に眠っている食材で、オリジナルなしゃぶしゃぶの浸けだれを考案していただき、新型コロナと酷暑に負けぬように!

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「天職一芸~あの日のPoem 129」

今日の「天職人」は、三重県津市の「骨董屋」。(平成十七年二月十九日毎日新聞掲載)

観音様の境内に 骨董市が店開き             古びた茶碗手にして君に 知ったかぶりで薀蓄語る     君が驚くその度に 「お眼が高い」と店主から       丸め込まれて茶碗引き取る 君との食事お預けのまま

三重県津市の古美術商「五六」の主人、奥野秀和さんを訪ねた。

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「一から十の数の内で、五と六は丁度真ん中でバランスもええやろう。片っ方が奇数やし、もう一方が偶数やで」。 秀和さんは、親しげに屋号の由来を語った。

秀和さんは、昭和十三(1938)年に四男坊として誕生。「上三人の兄が流行り病で亡くなり、よう皆(みな)から『お前は、死(四)なん坊や』ってからかわれたもんやさ」。

五歳になった昭和十八(1943)年、父の仕事で北朝鮮の平壌へと渡った。しかし戦局は日増しに悪化。やがて終戦と同時に、ソ連兵が北朝鮮へと侵攻。一家は命からがら三十八度線を越え、米軍に保護され引き揚げ船で祖国へと舞い戻った。

しかし無残にも小さな妹二人は、栄養失調で還らぬ人に。

昭和三十二(1957)年、秀和さんは地元の商業高校を上がると、名古屋のテーラーで外交見習として勤務。かつて津市の百貨店で総支配人を務めた父が、息子を商売人にしたいと願ったからだ。

二年後、秀和さんは帰郷し、父と共に洋服店を開業。父の得意先が多い、尾鷲市を中心に外交を重ねた。「この頃から骨董の素人市に出入りして、のめり込んでもうた」。それを知った父は猛反対。「家はもともと、松阪で代々続いた紙問屋やってん。それを十一代目の祖父が晩年、骨董に手を出して身上(しんしょう)仕舞(しも)たったんさ」。しかし隔世遺伝の因果か、骨董への熱が冷めることはなかった。

昭和三十八(1963)年に妻を得、一男一女が誕生。

昭和四十八(1973)年には、洋服店も兼業ながら、念願の古美術商「五六」の創業に漕ぎ着けた。「親父の形見が鼠の伊勢根付けやって」。以来、伊勢根付けの研究では、秀和さんの右に出る者は無い。

「そんでも十年経っても真贋(しんがん)はわからん。それを見極めようと、また研究の為に買(こ)うてまう」。

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店内に堂々と居座る「大日本伊勢国、棚村造」と銘打たれた、幕末の作品、津銅器の虎だ。上体を伸び上がらせた虎は、遥か虚空を見つめる。 「絵に描いた餅を売らんでもええように、損しても勉強せんと」。悪戯っ子のように照れ笑い。

宝の山も、がらくたの山も紙一重。しかし、現(うつつ)に受け継がれた古美術品には、古(いにしえ)の職人たちが注ぎ込んだ、命が宿り続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 128」

今日の「天職人」は、岐阜市久屋町の「柿羊羹職人」。(平成十七年二月十二日毎日新聞掲載)

北風に                         軒の連柿たわわに揺れて                 ぼくの帰りを待ち侘びる                 里帰り                         母の自慢の柿羊羹は                   今も変わらぬ仄かな甘さ

岐阜市久屋町の柿羊羹元祖「両香堂(りょうこうどう)本舗」、三代目の羽根田十四治(としはる)さんを訪ねた。

「ハソリ鍋(『端反(はたぞ)り鍋』柿を煮る銅製鍋)の最後に残ったんを、スプーンですくって食べるんやて。これが一番美味しいんや」。十四治さんは、いつもの味見の仕草を真似た。

両香道本舗は、明治十六(1883)年、大垣で祖父が創業。

十四治さんは、大正十四(1925)年に誕生し、東京の大学へと進んだ。しかし戦火が激しさを増す昭和十九(1944)年、中国大陸へ自動車部隊の一員として出征するものの、程なく終戦を迎えた。

「シベリアへ連行されたら大変やと、免許証をほかって」。 昭和二十一(1946)年に無事復員。

しかし統制経済下、店は休業を余儀なくされ、市役所の厚生課に勤務した。

戦後の復興が進み、統制品も解除された昭和二十七(1952)年、満を持して先代が現在地に店を再興。十四治さんも役所を辞し、父と力を合わせ柿羊羹作りに精を出した。

羊羹に用いる柿は、渋柿の中でも、最も柿羊羹に適す堂上蜂屋柿。「甘味が多く、色が濃いんやて」。祖父が十数回も接木を重ね産み出した逸品。「川の際にある、屋敷内の柿が一番ええ」。

十一月頃、千切り取ったばかりの柿の皮を剥き、連柿の要領で吊るし、真冬の寒風に晒しながら天日に干す。次に種と蔕(へた)を取って、再び四月頃まで天日に干し、渋を抜き取る。

乾燥状態を指で確かめ、一斗缶の中へ鈴なりに柿を入れ、蔵の中で一年半から二年程熟成させる。

そしてやっと、カチカチになった乾燥柿を、水の中に一晩浸け、元の大きさに戻して、ペースト状に磨り潰す。次に寒天が煮えるのを待ち砂糖を加え、舌で糖度を確かめながら上品な甘さに調え、磨り潰した柿を加え一煮立ち。

冬場に切り出した真竹を煮て油を抜き取り、二つ割にした竹舟に柿羊羹を流し込めば、橙(だいだい)色に透き通る果肉の至宝「元祖柿羊羹」の出来上がり。

防腐剤など一切無用。それでも一ヶ月半は、十分日持ちするとか。

「誤魔化せる味は出さん」。三代に渡る天然の味は、一歩も妥協を許さぬ、厳しき職人技の結晶だ。

「火を入れれば入れるほどに、柿は色を深めるんやて」。昭和二十九(1954)年に岐阜県養老町の和菓子屋から嫁いだ、世話焼き女房の福子さんが、傍らで微笑んだ。

柿羊羹一筋の老夫婦は、齢(よわい)という名の人生の色を染め上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 127」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「画廊女主人」。(平成十七年二月五日毎日新聞掲載)

君が選んだ引越し記念 異国の街の風景画         「二人旅した事にしよ」  壁に掲げて君は笑った      さよならさえも言葉にならず 君が記念の絵を外す     壁に浮かんだ額の跡 二人で生きた時の刻印

名古屋市千種区の企画画廊「ギャラリー安里(あんり)」に、女主人の門万暉(かど まき)さんを訪ねた。

「とにかく、若い人が好き!だって人間なんて、日々衰えて行くものだし」。 どこにも隙の無い品の良さで、万暉さんは微笑んだ。

万暉さんは岐阜県多治見市に生まれたが、三歳の年に両親は離別。母と二人で名古屋へと移住した。

やがて椙山女学園へと進むものの、暗黒の時代は大東亜戦争へと雪崩れ込んで行った。「でも嬉しくってねぇ。だって英語の勉強しなくっていいんだから。敵性語だし」。 六十年前の女学生かと、思わず見紛うほどの初々しい笑顔。

終戦後は事務職に就いたものの、ドイツのモダンバレエに興味を抱き、プロの舞踊家を志した。

しかし母一人、子一人の身の上。「母が嘆いてねぇ」。已む無く二十七歳で結婚。 「本当は背の高い人が良かったのに、夫は極めて小柄。これも親孝行と言い聞かせて。でも一つだけ、お洒落のセンスが気に入ったの」。

すくすくと成長する一男一女が、学校へ上がると心が騒ぎ出した。

「主人が転勤族だったから、パン屋さんや花屋さんとか、とにかく何かやってみたくて」。近所に住む、仲の良い画商夫人の運転手代わりを務め、もともと絵に興味もあり、画家や陶芸家を訪ね歩いた。

子供の手が放れると、画商夫人の勧めもあり、昭和四十六(1971)年、夫の大反対を尻目に画廊を開店。 「主人は、三年で辞めると思った見たい。私は反対に、石の上にも三年と言い聞かせて。だから、お客さんが無くても、何の不安も無し。ただ心だけが燃え盛ってたの」。

開店から一年。池田満寿夫画伯のコレクターから作品を借りて、第一回目の小さな企画展を開催。それが評判を博した。

「当時は名古屋第一号の、マンション画廊って呼ばれてね」。以来、若手の画家や陶芸家などが、まるで何かのエネルギーに惹き寄せられるかのように集まった。企画展の予定も、作家が自主的に次々と埋めてしまったほどだ。

「作家の卵たちは、ものすごいエネルギーを発散するの。私は何の才能も無いからよかったのかも。ただ感性だけで、来る者を拒まずで」。傍らで、二代目の晃弘さんと、年上女房の博子さんが、顔を見合わせて笑った。

時として文化は、慈愛に満ちた母性の、懐深くに息衝くものかも知れぬ。

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「天職一芸~あの日のPoem 126」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「おぼろ昆布削り職人」。(平成十七年一月二十九日毎日新聞掲載)

朧月夜の春の宴 薦(こも)に車座母のご馳走       父は冷酒傾ける さくら一片(ひとひら)湯呑に浮かべ   母はほんのり頬染めて もっとお食べとお重を開く     中でもぼくの好物は おぼろ昆布を巻いたお結び

三重県伊勢市の酒徳(さかとく)昆布、三代目おぼろ昆布削り職人の酒徳憲一さんを訪ねた。

まるで綿菓子のよう。紙より薄いおぼろ昆布が、次から次へと掻き削られ、真っ黒だった昆布は、新たな姿形を与えられ生れ変わる。辺りには、ほんのりと酢の薫りが、静かな時の間をたゆたう。

「おかか入りのおにぎりを、これで巻いて食べてみ。思わず舌打ちしとなる、なとも言えやん旨さやさ」。 昆布のグルタミン酸と、カツオのイノシン酸が口中で交わり、八倍の旨味成分を放つ。憲一さんは、静かに語った。

酒徳昆布は、明治四十五(1912)年に祖父が創業。

おぼろ昆布は、平安時代から帝への献上品とされ、京や大阪で高級食材として消費された。

憲一さんは中学を出ると、稼業へと従事。

おぼろ昆布は、北海道沿岸の北の寒流で鍛えられた、道南・利尻・青森の大間昆布に限る。肉が厚く耳の薄さが決め手だ。長さ一~二m、島田折に乾燥された昆布を仕入れる。

まずは漬前(つけまえ)と呼ぶ、防腐の酢漬け作業。丸一日酢に漬けて昆布をしならせ、再び十分ほど二度漬けして酢を切る。

次に昆布の皺を広げ、根から先端へと巻き上げながら、直径六十㎝ほどになるまで何十枚と昆布を重ね巻く「巻前(まきまえ)」へ。

三日間寝かされ、巻物の真ん中から昆布を解(ほぐ)し取り、耳を落とす「耳打ち」へ。

まずは箱台に座し、麻裏草履で昆布の先端を踏みつけ、左膝の上に添えた手で根元を握る。そして 右手に昆布包丁を持ち、昆布の先端部分に刃を当て、右膝で腕を押しながら、左上へと向かって掻き削る。

片側だけが薬焼刃の、特殊な昆布包丁。酢に漬かった昆布を削るため、十枚も削れば刃先が錆びてしまう。 その都度砥いでは、ミクロの薄さで昆布を掻けるよう、薬焼刃の片側を僅かに曲げる。

大きな昆布一枚からわずかに五十gしかおぼろ昆布は取れない。一枚一分の早業で削り作業を続け、一日に八~十㎏掻く。

「物が不足しとった時代は、製造が追い着かんのやさ」。スーパーが登場すると、大量生産の幕開けとなり、不遇な時代を迎えた。

「それでも何とか、手作りを貫いてきたんやさ。そのおかげで、今があるんやろなあ」。

温かご飯に、おぼろこんぶのおすまし。

何より心のご馳走は、家族皆が元気で『よろ昆布』笑顔。

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「天職一芸~あの日のPoem 125」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「機械時計修理職人」。(平成十七年一月二十二日毎日新聞掲載)

母の箪笥の形見分け 引き出し奥に腕時計         とうの昔に役を終え 母の記憶を今に留める        もう動かない時計の針に ドシャブリの夜を想い出す    母に叱られ飛び出して ぼくを探したずぶ濡れのせい

岐阜市日ノ出町のたった二坪の小さな店、『おじいさんの時計屋さん』。機械時計修理職人の中川立(たつる)さんを訪ねた。

「♪今はもう動かないこの時計♪ そんなもん動かんなら、動かしたろかって」。 立さんは、発条(ぜんまい)時計の心臓部を愛しそうに見つめた。

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昭和七(1932)年に義父が、岐阜県大垣市で中川時計本店を創業。その後、父は家族を連れ満州へ渡った。

しかし立さんが四歳の時に結核を患い、昭和十八(1943)年に引揚げた。すると父はその年の十月、還らぬ人に。後を追うかのように、今度は七歳になった立さんを遺し、母が他界。立さんは父の得意先に、養子として貰われた。

「坊さんか時計屋かと問われ、決断したんやて」。中学を出ると豊橋の時計店で、住み込み修業に就いた。

「時計なんてちっとも触らせてなんてもらえん。明けても暮れても拭き掃除と、先輩職人のピンセットの研ぎ出しばっかやて」。いずれもミクロの精度が要求される道具。「これが上手く研ぎ出せんで、怒られっ放しやったて」。

一年後、『掛け時計直して見るか』と。「こっちはもう、時計に触りたいばっかやて」。

修理の始めは分解。ベンジンで部品の汚れを落とし、再び組み立て。ミクロの軸の根元に、メビス油を注ぐ毎日。

その後高山に移り修業を重ね、髭発条(ひげぜんまい)を手で巻き直す職人と出逢い、百分の一㎜に挑む世界へとのめり込んでいった。

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昭和三十七(1962)年、二十二歳の年に大垣へと戻り、顔さえ想い出せぬ、父の無念を晴らすかのように店を再興。

「景気が上向きで、時計が売れ出した頃やった」。昭和四十二(1967)年には妻を得、二人の愛娘も授かった。

昭和四十九(1974)年には、クォーツ時代の幕開けとなり、我世の春を謳歌。しかしバブル崩壊と同時に、売上げも低迷。

平成九(1997)年、五十八歳の年に遂に閉店。「親父のように、修理の行商して、原点に戻ろうと想って」。

しかし、かつての得意先も代替わり。困り果て、悶々とした日々が続いた。

ところが 捨てる神あらば、拾う神あり。柳ヶ瀬商店街の理事長から誘いの声が。「三ヶ月の予定で修理を始めたら、四ヶ月分の予約が入って。キツネに抓(つま)まれたようやて」。

中学時代から合唱を続ける立さんは、迷わず屋号を決めた。「おじいさんの時計屋さん」と。

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何十年と時を刻むことを忘れ、埃を被った古時計。立さんの魔法の指先で、再び命が注ぎ込まれ、新たな時を刻み始める。

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「天職一芸~あの日のPoem 124」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「碁盤師」。(平成十七年一月十五日毎日新聞掲載)

歌留多(かるた)羽子板福笑い 七草までは子の天下    家族みんなも赤ら顔 遊び相手に事欠かぬ         負けるものかと兄相手 碁盤の前に腕組んで        五目並べの手を思案 呆れて兄は大あくび

名古屋市中区の黒田碁盤店、三代目・碁盤師の黒田二郎さんを訪ねた。

「碁盤になる榧(かや)の木は、床の間に上げてまえるだけ幸せもんだて」。二郎さんは、隣の妻を見つめた。

囲碁は明治以降になって、庶民の娯楽として定着。創業当時は、指し物の片手間に碁盤や将棋盤を手掛けた。

二郎さんは昭和十九(1944)年に、二男として誕生。高校を出ると、父の下で碁盤師としての修業を始めた。「最初は、四角のもんをただ黙々と削るだけの荒仕事ばっか」。

碁盤師の仕事は、九州日向地方の木主(きぬし)の元へと出向き、樹齢三百~五百年、胴回り三尺~五尺(約九十~百五十㎝)の、榧の原木選びから始まる。「榧は石当りがええ。それに弾力があるで、打っても指が疲れんで」。樫や欅は硬すぎ、桐では柔らかすぎる。

「榧は木の芯から色を深めてくでなあ」。最初は淡い色合いの木肌が、年月を経るたびに飴色の光沢が深まるからだ。

次に、数百年大地に根を張り続けた、原木の癖に合わせて墨かけをし、木取りした材に割れ止めの和蝋を塗り自然乾燥へ。「早ても遅すぎてもかん。染みがわくで」。 何度となく乾燥状態が吟味され、十年に及び榧の木は眠り続ける。

「芯の部分が乾燥するまで、狂いたいだけ狂わせたるんだて。だで最初四十㎏あった材が、十年で十二~十三㎏にまで痩せるんだて」。

碁盤師は代々、次の代に譲るために、材を乾燥させるほどだ。 永い眠りから覚めた材は、すべて手鉋(てがんな)で木口が削られ、盤の裏側に石の音を反響させる臍(へそ)を掘る。

そして下地膠(にかわ)が塗られ、表面に染み止めをかけ、専用の刀に漆を付け縦横に線を乗せる。

次に九星を打ち、和蝋で艶出しを施し、盤に見合う足を、三日がかりで彫り上げる。

仕上げは、枘(ほぞ)に足を差し込むと隠れてしまう、大入(おおい)れに銘を墨書。

「これ、よう見てみやぁ」。正方形と思い込み疑いもしなかった碁盤が、わずかに長方形だ。縦が一尺五寸(四百五十五㎜)、横が一尺四寸(四百二十五㎜)。

「座して碁盤を見ると、ちゃんと正方形に見えるんだて」。「眼の錯覚なのよ」。傍らで愛妻悦子さんが、言葉を添えた。「石だって、黒い方が白より一回り大きくて分厚い。白は膨張するでなあ」。

碁盤師は、対局者の目線の先に広がる、錯覚と言う名の小さな世界の歪みを、己の技を持って征す。

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「Mammy’s Forest」

ぼくは朝一番の、日の出の頃の森が好きです。

とは言え臆病者ですから、森に棲まう獣たちや虫たちが怖いこともあり、森の奥深くに抱かれつつ一晩過ごすなど、到底できません。

ですから森の中にある高原の宿とかで一夜を過ごし、翌朝日の出の頃に寝床を抜け出し、森の入り口辺りを彷徨うのが正直せいぜいです。

森の木々たちが一晩かけて、淀んだ空気を浄化して、わずかにひんやり感じられる真新しい清浄な空気に身を委ねると、浮世の穢れさえ洗い落とされる気がするものです。

森の奥深くからは、早起き鳥たちの何種類もの鳴き声が聞こえ、時折吹き渡る風に揺れる葉擦れの音と重なり合い、まるで爽やかなヒーリングミュージックの様にも感じられてしまうものです。

海には海の、潮の満ち引きの音に癒されますし、森には森の癒しパワーが満ち溢れているものですね。

だからなのか、ウォーキングの途中でお社の杜が目に入ると、ついつい足を向けてその場でしばらく瞑想にふけってしまうのも、森の癒しを欲している証の様でもあります。

今日は、まず弾き語りで「Mammy’s Forest」をお聴き願います。

「Mammy’s Forest
詩・曲・歌/オカダ ミノル

Oh Mammy Forest 傷付いた羽根を ほんの少し休めさせてよ

Oh Mammy Forest どれだけ強がっても 泣きたい日はぼくにもあるさ

 やわらかな 木漏れ日よ やさしくぼくを包んでおくれ

 風奏でる葉擦れの音 まるで母の子守歌

Oh Mammy Forest あなたに抱かれたら 辛い雨も風さえ凌げる

Oh Mammy Forest 囀る鳥の声が 心地よいからもう少し眠ろう

 やわらかな木漏れ日よ やさしくぼくを包んでおくれ

 風奏でる葉擦れの音 まるで母の子守歌

Oh Mammy Forest 傷付いた羽根を ほんの少し休めさせてよ

Oh Mammy Forest どれだけ強がっても 泣きたい日はぼくにもあるさ

続いては、CDに収録されている「Mammy’s Forest」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「百貨店の屋上遊園!」。ぼくが子どもの頃は、月に一度だったでしょうか?恐らくお父ちゃんのお給料日の後の日曜だった気がいたします。家族三人が朝から余所行きの服に着替え、バスに揺られ名古屋駅の名鉄百貨店へと連れて行ってもらったものでした。ぼくのお目当ては、屋上遊園のドライブゲームと噴水型のオレンジジュース!

後は百貨店の食堂でお子様ランチと決まったものでした!それが何よりの楽しみでした!皆さんにもそんな百貨店の屋上遊園の思い出、ありますよねぇ!

今回はそんな、『百貨店の屋上遊園!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.06.09「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、ぼくの大好きな豚肉料理です。

長野県飯田市のハヤシファームさんが、遠山郷のハチミツで大切に育てた、生後210日の雌豚だけに冠される商標の「Honey Babe」。

https://hayashifarm.jp/info/1105784

http://hayashifarm.shop-pro.jp/?pid=89862680

暑い夏を目前に、夏バテになるものかと、ひんやりとしゃぶしゃぶ用バラ肉をメインにいたしました。

今回のクイズは、Honey Babeの冷しゃぶ用に作った、2種類の浸けだれを当てていただこうと思います。

左のグリーンなものと、右の赤っぽい浸けだれです。

グリーンの浸けだれのヒントは、長野県産の豚肉Honey Babeに長野県産のホニャララ!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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