クイズ!2020.06.30「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回も残り物ではありませんが、ちょいとイタリア~ンな、『クイズ!「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ちょいとイタリア~ンな料理にしようかと作り始めてビックリ!

いつも常備しているカットトマトの缶詰が品切れじゃありませんか!

ある程度下拵えを始めていたので、今更急に後戻りも出来ません。何かそれに代わるものはと、保存庫と睨めっこをしていたら、名古屋メシのレトルトパック入りのソースがあるじゃないですか!

ならばそれを代用してしまえってなもんで、今回はこんな作品になりました。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 142」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「鼻緒職人」。(平成十七年五月二十四日毎日新聞掲載)

浴衣の君の手を引いて カランコロンと下駄鳴らす     鎮守の杜に燈が灯りゃ 祭囃子も夏を呼ぶ         綿飴を手に駆け出して 目当ての夜店(みせ)で屈み込む  針金細工紙のタモ 金魚掬(すく)いの君が夏

愛知県蒲郡市のこばやしはきもの店、三代目の鼻緒職人・小林和徳さんを訪ねた。

橋の袂。鼻緒の切れた下駄を片手に、困惑顔の町娘。

「お嬢さん、あっしの肩につかまりなさい」。若い手代が娘の前に屈み込み、手拭を引き裂き鼻緒を挿げ替える。時代劇によくある出逢いの場面だ。

「両親が亡くなって、女房が店の面倒を見るようになった時、『下駄の挿げ方なんて、俺らあ知らん』って、惚(とぼ)けとったじゃんね。まだサラリーマンやっとっただで」と和徳さん。傍らで妻がくすりと笑った。

明治四十二(1909)年創業のこの店に、和徳さんは三人兄弟の長男として昭和十六(1941)年に誕生。地元の高校を上がり東京の大学を出て、コンピューターのシステムコンサルティングの職に就いた。

とは言え、昭和四十(1965)年のこと。

まだ前年に初の国産高速コンピューターが、開発されたばかりの時代である。

昭和四十一(1966)年に名古屋へ転勤となり、それから四年後に豊橋市出身の清子さんを妻に迎えた。 一男二女を授かり、昭和五十五(1980)年に実家へと戻り、先代親子と共に同居へ。

「親父が亡くなってから、母が女房に仕入れと、下駄の挿げ方を教えただよ」。しかしやがてその母も他界。和則さんが定年を迎え、店を継ぐ決心を固めるまでの間、妻は細腕一つで暖簾を護り抜いた。

「来る時が来たら、そん時は店閉めればいいかなって思うとっただあ」。平成十四(2002)年、晴れて定年退職。店をどうすべきか、思案に暮れている頃だった。

「がまごおり商店ご自慢コンクール」への出品話が持ち上がり、昔取った杵柄を、腕試しとばかりに振り上げた。

地元の三河木綿を鼻緒に誂(あつら)え、それを挿げた下駄を出品。見事、受賞と相成り、眠っていたはずの鼻緒職人としての遺伝子が目を覚ました。そうなると、後はもう止まらない。これまでの空白の時間を取り戻すかのように、和徳さんは子供の頃の記憶を手繰り寄せ、鼻緒作りに励んだ。「幸い道具は、残っとったじゃんね」。

写真は参考

鼻緒作りの工程は、多岐に渡る。まず、客が持ち込んだ思い出深い生地を表面に、甲に当る裏側には本絹三越織りの生地に裏打ちし、表を内側に重ねて裁断。

両脇をミシン縫いし、巨大な耳掻きに似た、先端の曲がった自転車のスポークでひっかけ裏返す。 次に海苔巻の要領で、海苔の代わりのハトロン紙に、シャリのように綿を広げ、干瓢(かんぴょう)の様にボール紙の芯と、縄芯と呼ぶ麻と化繊の紐を載せ巻き上げる。

そして、細長く筒状に縫い上げた鼻緒の中へ、巨大な耳掻きを差し込み、真ん中で二つ折りに。

「この前壺をかがる二つ折りが、鼻緒の命じゃんね」。 鼻緒に前壺をかがり、アイロンで熱を加え押さえ込む。前壺とは、足の親指と人差し指の付け根に当る鼻緒の先端部で、鼻緒と同じ要領で細工される。

男物三十八㎝、女物三十六㎝の鼻緒の仕上げは、両端を糸で〆込む。

「子供の頃は盆暮れになると、何百足って鼻緒の挿げ込みを手伝っただあ」。和徳さんはそうつぶやきながら、鼻緒の端に目打ちで穴を開け、縄芯の端を通して絞り込む。 それを今度は、下駄の三つの穴に通し、鼻緒が挿げられる。

前壺の裏側には、兎や花の裏金を打ち付けて縄芯の結び目を隠す。踵側の二つの縄芯は、両方を一つに結んで巻き上げる。

写真は参考

「鼻緒を挿げる時は、その人の歩き方の癖を聞いて、足の形を見ながら甲高に合わせて挿げるだて」。とても、四十年に及んだ会社勤めの隔たりなど、先ず持って感じさせぬ堂の入り様。

「所詮、下駄も鼻緒も日用品だで、どんなに高価な物でも、何時かは磨り減らして捨てるだあ。だもんで、美術品や工芸品になったら終いだて」。

鼻緒職人は、傍らの妻を見つめ、まるで自分を諭す様につぶやいた。

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「見る見る大きく成長中!」

昨日の朝、西側に当たる玄関の通路に、山椒の鉢植えとアゲハの幼虫を移動させてやりました。

するとわずか1日2日ばかりで、こんなにも大きくお育ちじゃあないですか!

感動しながら3匹の幼虫を探したものの、2匹は直ぐに見つかったのに、もう1匹がどこにも見当たらないじゃないですか!

ええっ、カラスにでもやられちゃったか?と案じながら、山椒の鉢植えを隈なく探して見ると・・・

あらら?

黒っぽい体のアゲハの幼虫に、こんな緑色の幼虫が混ざっているじゃないですか!

違う種類の蝶か蛾が、アゲハのお母さんと同じぼくの山椒の鉢植えに卵を産み付けていたのかぁ!これぞ正に、アゲハと他の蝶か蛾のお母さんたちが、ぼくの山椒の鉢植えで鉢合わせになっていたのか!なぁ~んて思ったほどです。

まあ、羽化して蛾ならビックリですが、こうなったら一緒にサナギになって羽化するまで付き合ってやるつもりです。

そうして午前中に出掛けて、家に戻って幼虫君たちの無事を確認して、これまたビックリ!

ずば抜けた食欲のご様子で、枝の葉っぱが丸坊主です!

そして幼虫君を探して見るとナント!

3匹ともさっきまでの黒っぽかった体の色が、緑色に変化しているじゃあないですか!

他の蝶か蛾の幼虫化と思った緑色の幼虫は、一番上のお兄ちゃんかお姉ちゃんだったようです。やれやれ!

どうやらこれからしばらくは、幼虫君たちの成長ぶりから目が離せそうにありません。

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6/23の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「追い鰹出汁のなぁ~んちゃって鍋揚げ冷凍うどん~郡上産辛味夏大根と梅肉クラッシュの薬味添え!」

今回は、冷凍庫のスペースを占領していた冷凍のさぬきうどんを使って、●亀製麺のいかにも美味しそうなCMから刺激を受け、ちょっと真似てみた、「追い鰹出汁のなぁ~んちゃって鍋揚げ冷凍うどん~郡上産辛味夏大根と梅肉クラッシュの薬味添え」でした。

蒸し暑い夏に、釜揚げならぬ鍋揚げうどんに、昆布と鰹の出汁に追い鰹を効かせた汁につけ、さっぱりといただいて見ました。

薬味には越前そばを真似、郡上から送っていただいた辛味の効いた夏大根おろしと、熱中症対策を兼ね梅干しを包丁で叩いてクラッシュしたものと、小ねぎを添えて見ました。

普段あまり好んで梅干しを食べる方ではありませんが、辛味の効いた夏大根と鰹出汁、それに梅肉の酸味がほどよく絡み合い、とてもサッパリと美味しくいただけてしまいました。

もちろん額に汗しながらのキリン一番搾りを忘れちゃーいけません、いけません!

たまにゃあ、こんなさっぱりとしたものも、いいものですねぇーっ!

皆様のご回答もほぼほぼ当たっていたのにゃー、さすがだなぁと感心しきりでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 141」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「一文菓子屋女主人」。(平成十七年五月十七日毎日新聞掲載)

一つ違いのまあ君と 十円持って駄菓子屋へ        五円で籤を一つ引き 十円アイス半分こ          学校帰り田んぼ道 五円の籤で何引こう          大物狙う算段は いつも狸の皮算用

三重県桑名市の駄菓子屋、佐藤房商店の二代目女主人、佐藤節子さんを訪ねた。

写真は参考

「おばちゃん!これなんぼ?」「おおきになあ」駄菓子の封を切りながら、少年が駆け出した。

四十年近く前の、我が身が少年の後姿と重なる。

「家(うち)とこはレジがあらしませんのさ。せやでこれが家のレジなんさ」。節子さんは、割烹着のポケットを揺らし、小銭の音を響かせながら親しげに笑った。

写真は参考

節子さんは昭和四(1929)年、隣町で七人兄妹の六番目として誕生。

「主人の家が隣やってん。せやで毎日、魚釣やトンボ捕りに連れってもうた。夏休みは、絵や工作の宿題やってもうたし」。節子さんは目を輝かせながら、遠き日を見つめた。何とも牧歌的で安穏とした、昭和初期の光景である。

しかしそれも束の間、高鳴る軍靴の響は、いつしか長閑な営みを封じ込めた。昭和二十(1945)年三月、女学校の卒業は軍の徴用で延期。七月の桑名大空襲で焼け出され、幼馴染の夫とも散り散りバラバラに。

同年十二月、日本貯蓄銀行に入行し、銀行事務の職に就いた。

それから数年後、左官職人となっていた夫・故房一さんとの縁談話が持ち上がった。「あんまり近くやったし、小さい頃から何もかも知り過ぎてて嫌やってん。せやでそん時は、一回振ったったんさ」。

しかしそれからしばらく後、今度は親の薦めで再び嫁入り話が持ち上がり、昭和二十八(1953)年に幼馴染の元へと嫁いだ。

夫は腕の良い左官職人。義母が営む日用雑貨品店を手伝い、一男二女の子育てに追われた。

「せやけど、段々スーパーが出来てきて、日用品がさっぱり売れやんようになってもうて」。五十歳を目前に控えた1970年代終盤。子育てにも目途がつき、「子供時分、よう一文菓子屋へ通とったの思い出して」、駄菓子屋への鞍替えを決意した。

「名古屋駅から明道町まで、一日おきに歩いて。両手一杯に、籤や駄菓子を抱えて、電車で通とった」。ウエハースの籤や、ラーメン当てに黒棒籤が人気を呼んだ。

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「おばちゃん、おばちゃんゆうて、毎日子供らが並んで買いに来るんやで」。しかし中には、狡賢い子もいた。「籤の当りが出るまで、何枚もめくっては、箱の下にこっそり隠したんのやさ」。そのため外れ籤が不足し、その都度めくられた籤に紙を貼って元に戻すという、鼬(いたち)ごっこが繰り返された。

「それでも男の子は、その程度やで可愛らし。女の子はえげつないで。すました顔して、箱ごと持ってくんやで」。

間も無く三十年を迎えようとする駄菓子屋の店先には、三十年分の子供たちの小さな歴史が刻まれているようだ。「中には、自分の子供や彼女を連れて、訪(たん)ねて来る子もおんやさ。『おばちゃん、ぼくのこと覚えとるか?』ってゆうて。しばらく話しもって顔を眺めとると、そのうち『ああっ、いっつも泣かされとったあの子や』ってな調子で」。

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特に遠足前は大忙し。店のあちこちから「おばちゃん、これなんぼ」の声に振り回される始末。「忙しいて小骨が折れるわりに、なんぼも儲かれへんのやさ」。

町内の子供の成長を、我子のようなやさしい眼差しで見守り続け、家族も皆も平等に齢を重ねた。

幼馴染の夫は、七十七歳まで左官を勤め上げ、よく年他界。「店番は苦手やったけど、母を大事にする父やったんさ。職人の癖に、酒も煙草も博打もしやんと、洗濯したり米砥ぎ手伝(てっと)うたり。ほんま仲がようて。せやで父が死んだ途端、母はしばらく呆(ほう)けたようになってもうたんさ」。近所に住む長女が、店番を手伝いながらそう言って笑った。

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「あらっ、いらっしゃい」。小学生の男女があれこれ品定めを始めた。

「あの子らほんま仲ええなあ。いっつも二人で手えつないで」。節子さんは店先の子供たちを見つめた。

幼馴染の夫に手を引かれ、一文菓子屋に出かけたあの遠い日。まるで在りし日の二人の面影を、重ね合わせるかのように。

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「山椒の木にナニコレ!えっ、モスラの幼虫???」

頂き物の筍に添えようと思い、スーパーで購入した山椒の小さな鉢植え。

田楽やらにも添えて存分に楽しませていただいたものです。

ところがいつしか新芽はどんどんと成長を続け、もう新芽とは呼べないほど硬い葉っぱになってしまい、ベランダの片隅に置いてありました。

するとある日のこと。

わが家の11Fのベランダを、ユラユラとアゲハチョウが舞っていたのです。

へぇー、こんな上までよく上がってきたものだ、なぁ~んてその優雅な姿に見とれたものでした。

そして先日、鉢植えにいつものように水を撒いていると、アレレ?????

山椒の葉っぱが随分無くなっているではありませんか!

まるでどなたかの、あの〇武者様の頭頂部のような惨状です!

どうしたものかと、顔を近づけて、も一つビックリ!

何やら葉っぱの上を我が物顔で占領しているではありませんか!

それがこの、モスラの幼虫ならぬ、アゲハチョウ?の幼虫三匹なんです!

聞くところによると、アゲハチョウのお母さんは、山椒やカラタチやミカンなどに、卵を産み付けるものとか。

そしてわが家の小さな鉢植えの山椒の葉の茂り具合から、卵三個が妥当と考え、我が子を産み付け、また空へと帰っていったようです。

つまり卵が幼虫になり、サナギに成長でするまでの幼虫君たちの食料が、わが家の山椒の鉢植えの葉の茂りからすると、卵三個分が妥当と踏んだようです。いつの世も、どんな世でも、母は我が子の事を片時もぞんざいには扱わないものですねぇ。

ご覧のように枝の葉っぱは、どんどん幼虫君たちに蝕まれて行っています。

でも毎朝見ると、毎朝葉っぱが無くなった分だけ、幼虫君たちは確実に成長して大きくなっているのです!

そこでぼくは考えました。

三匹の幼虫君たちがサナギになりそうになったら、山椒の鉢ごと部屋の中に入れ、サナギからやがて羽化するまでを大切に育て、羽ばたいたら窓を全開にして、大空に返してあげようと思っています。

オンブバッタの肥後ニャンに続いて、また一つ楽しみが増えました!

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「天職一芸~あの日のPoem 140」

今日の「天職人」は、愛知県常滑市の「醤油団子屋」。(平成十七年五月三日毎日新聞掲載)

今は名残の土管坂 煉瓦煙突役目終え           青葉の梢鳥も鳴く 古窯(こよう)常滑五月晴れ      炭火に爆ぜる溜りの香 道行く人の足を惹く        我も一串みたらしを 常滑焼きの団子茶屋

愛知県常滑市で団子茶屋を営む、村田昌弘さんを訪ねた。

赤茶けて滑らかな、土肌が特徴の常滑焼。日本六古窯の中でも、最も古い歴史を持つ。 「『何で常滑には、小さいカラスがおるんか』って、よう言われただあ。そんだけ昔は窯元が多て、煙突から真っ黒な煙が立ち昇るもんだで、雀がカラスみたいになってそ」。 昌弘さんは、紺の作務衣姿で紺地の手拭を頭にちょこんと載せ、大きな身体を揺らしながら笑った。

元々村田さんは、祖父が創業した土管の窯元の二男坊として、昭和十三(1938)年に誕生。地元の高校の窯業科を出て、兄と共に家業に従事した。

「兄貴は出来がええけど、わしはてんであかん。いっつも兄貴に比べられるそ、だで面白ないし。『まあかん、愚連たる』って思とっただあ」。

戦後急成長を遂げた昭和三十(1955)年代の日本にあって、下水管の需要は引きもきらず、常滑焼きの土管製造も大車輪での操業が続いた。長さ六十㎝、太さ三十㎝の並管は、まず土を土練機にかけ、練り上げられた土が土管機を通り、心太(ところてん)の要領で形成され押し出される。それを土管一個分に切り離し、窯へと運び込む。

「まんだ若かったもんで、一個三十五㌔ほどの土管を、難なく担いどっただあ。まあ今は、ようやらんて」。

昭和三十八(1963)年、高校の一年後輩でもあった、たつ代さんを嫁に迎え二人の息子をもうけた。「常滑の嫁さは、よう働くでねぇ」。

しかし急激な国の成長の前に、公害問題が大きく立ちはだかった。やがて窯元に対する、煤煙規制も厳しさを増し、常滑焼きの風情溢れる土管は、無機質で安価なコンクリート製に取って代わられた。

そんな時代の訪れを兄が見越し、昭和四十六(1971)年に草々と廃業。

「兄貴は出来が違うで、さっさと税理士になっちまって。工場を空けとってももったいないでって、今度は植木用に九寸の駄鉢作りだて」。 しかしそれも束の間。五年後には、駄鉢から盆栽鉢へと、商品を切り替え時代の求めに応じた。

だが富める国を目指し、今度は海外から安価な輸入品が大量に押し寄せる。「まあかんて、えらて儲からへんそ」。

二年後、昭和五十三(1978)年には、急須作りへと転換。二人の子供の育ち盛り。夫婦は共に焼物の里、常滑に生を受けた者の務めであるかのように、時代の中をうねりながら懸命に生きた。

しかし常滑の煉瓦煙突から、往時を偲ばせる程の煙が舞い上がる事は無く、無情にも二十世紀の幕が降りた。

平成十三(2001)年、親会社の廃業で、ついに村田さんの窯から火が消えた。「どうせ沈没する船なら、最後まで付き合って、そこで辞めりゃあええそと」。

すぐさま翌年一月には、やきもの散歩道脇で団子茶屋を開業。

「嫁さが醤油団子焼いて、わしはもっぱらお客さん相手の営業」。

一串に五玉、直径二㎝程のみたらしが、醤油の焦げる匂いを漂わせて焼きあがる。「自家製のタレは、地元の醸造元で一番高い醤油と溜りを混ぜたんの」と、妻が焼きたてを差し出した。「一本六十円の団子売っとったって、儲かれへんて。だけどこれやっとりゃあ、遊びにも行けへんし、金遣わんそ」。二本以上注文の客には、お茶も付く。  

焼物の里に生まれ、常滑の土と関わり続けた生涯。大きな土管から急須へ、そして今では常滑焼そっくりの、小さな醤油団子をせっせと焼き続ける老夫婦。

「なんか泥団子みたいそ」。土管坂へと続く人波を見つめ、こっそり笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 139」

今日の「天職人」は、岐阜市真砂町の「秤屋(はかりや)女主人」。(平成十七年五月十日毎日新聞掲載)

計り知れない思いの丈を 文に託した初恋は        春にそよ吹く風まかせ 揺ら揺ら花を巡る蝶        君の便りを待ち侘びながら 明日は届くと言い聞かす    郵便受けを覗き込み 我に帰れば蝉時雨

岐阜市真砂町でハカリ・モノサシ・マスを扱う、小林清計量器店二代目夫人の小林照子さんを訪ねた。

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「まあ、月にせいぜい五~六人しかお客さんも無いし、もういつ店閉めても何んともないんです」。いきなり廃退的な言葉が飛び出した。

照子さんは、旧本巣郡神戸村に大地主の四女として、昭和二(1927)年に誕生。

三つも蔵のある豪農の実家では、庄屋のお嬢様として何一つ不自由のない幼い日を送った。

しかし平穏な日々にもやがて陰りがさし始め、昭和の暗黒期へ。

高等女学校を出ると、専攻科へと進学した。「挺身隊逃れやったんです」。既に時代は、引き返すことの出来ない、戦争の渦へと巻き込まれていた。

昭和二十(1945)年七月九日、B29の大編隊が岐阜市に襲来。無数に降り注ぐ焼夷弾に、人々は逃げ惑った。「岐阜が燃えとる」。照子さんは長良川の堤の上から、対岸で真っ赤に燃え上がる、岐阜の惨状を呆然と見つめた。

ラジオから玉音放送が流れ、多くの人の命と引換えに、忌まわしい戦争が終結。終戦と同時に、戦勝国アメリカの価値観が、GHQと共にこの国を支配した。

昭和二十一(1946)年十月、第二次農地改革案が成立。国は低価格で農地の所有権を、地主から強制的に譲渡させた。

もちろん照子さんの実家でも、大半の農地を解放。実家は一夜にして、大地主からただの農家へと没落。その時の心労が祟ったのか、実父は程なく息を引き取った。

昭和二十四(1949)年、縁あって計量器店を営む小林家に嫁いだ。「商売屋さんは、親戚中一人もいなかったの。だから不安で。でも、主人の学歴に惚れてね。だってそれしか、他に頼るものがなくって」。ご主人の故一さんは、当時岐阜大で講師を務めていた。

「だから店の切り盛りは、すべて主人の両親」。戦時中、度量衡器(どりょうこうき)を扱う計量器店の開業は、信用を第一とし、三代前の家系まで調べられる有り様であったとか。

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「私は今でも、この商売に興味にゃあです。だから私の仕事は、炊事洗濯に子育て。それと口述筆記で、主人の論文執筆をお手伝いしてた程度」。やがて一男一女を授かった。

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まるで昭和の後半で時代が止まった様な店内には、竹の物差、差金、計測器、量器、枡(ます)、秤(はかり)、ノギス、折り畳み式物差など、三百種類の計量器が居並ぶ。

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今から十三年ほど前、義母が高齢で引退。已む無くその後を、照子さんが引き継いだ。「店に入って来るお客さんは、必要に迫られて買いに来るんだでねえ。私はただ売るだけ。買いに来る人の方が、商品のことをよう知っとるくらい」。照子さんは、なんともあっけらかんと笑い放った。

商品の仕入れも売価も、卸屋まかせ。「売れよが、売れまいが、あんまり気にならんでねえ」。お客に値切られても、あっさりと応じる始末。「だってそれも愛想もんだから。気は心やし」。

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世が世であれば、何の不足もない大地主の娘。しかし時代の天秤ばかりは、右に左に吉凶を乗せ大きく揺れた。

商家に嫁ぎ半世紀。岐阜大名誉教授として退官した、惚れた夫の論文を、照子さんはまるで自分の作品でもあるかのように、誇らしげに手にした。

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「天職一芸~あの日のPoem 138」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「ビンロージ職人」。(平成十七年四月二十六日毎日新聞掲載)

ゴンチキチンの鉦の音に 桑名に暑い夏が来る       祭りの夜を待ち侘びて 力もこもるビンロ―ジ       ゴンチキチンの鉦の音に 心も騒ぐ桑名衆         夏が儚く尽きぬうち あの娘に響けビンロ―ジ

三重県桑名市の平屋樫材(かたざい)、八代目ビンロージ職人の廣川禎一(よしかず)さんを訪ねた。

「石取祭は、喧嘩祭やでなあ。狂ったように鉦と太鼓を打ち鳴らすんやで。鉦叩くこのビンロージの八角頭も、石榴(ざくろ)のようにパックリ開いてもうて、へっしゃけてまうんやで」と、禎一さん。

狭い作業場に、春の柔らかな陽射しが差し込み、大鋸粉(おがこ)が宙を舞う。

去年の石取祭を見事に務め上げ、原型を失い柄から抜き取られた、八角頭のビンロージを愛しそうに眺めた。

禎一さんは昭和四(1929)年に、七人兄弟の末っ子として誕生。「一番下の末子(ばっし)で、終いの子やさ」。六代目の父の跡を、長男が継いだ。

「鍛治町の実家には蔵が二つもあって、豪商やったんさ。そやで、これでも昔は『坊っちゃん、坊っちゃん』言われて、大事に育てられたんやさ」。

名古屋理工高等学校へ進むものの、すぐさま学徒動員の徴用。いつしか桑名の町からは、ゴンチキチンの鉦の音が消え、祭の主役を務める若衆の姿も戦地へと消えた。

昭和二十(1945)年七月、B29の大編隊が神々の御座(おわ)す伊勢湾を堂々と北上。桑名の城下町は、一瞬にして焦土と化した。

鍛治町の本家を焼け出され、現在の新家に身を寄せ終戦。

「いのくと腹も減るし」。しばらくは、家業を手伝い農具作りに従事する毎日が続いた。

それから五年。鍛治町に本家が再興し、農具・大八車・如雨露(じょうろ)・リヤカー作りが始まった。

昭和三十(1955)年、愛知県一宮市出身の妻を得、二人の息子が誕生。この頃から再び山車作りも盛んになり、ゴンチキチンの鉦の音が、桑名に暑い夏の訪れを告げ、高らかと鳴り響いた。

禎一さんは、家業が軌道に乗ったのを確認するかのように、昭和三十八(1963)年、名古屋のブラザー工業に入社。それからいつしか日々が過ぎゆき、間も無く定年を迎えようとしていた矢先のことだった。

昭和六十二(1987)年、七代目を継いだ兄が、高齢のため引退。禎一さんは早期退職の道を選び、五十八歳から再び家業を手伝った。

「兄貴が亡くなって『辞めよかな、辞めよかな』って内心迷ったんやさ。せやけど、周りの皆が『ボツボツでもやってや』ってゆうやんか。それも先祖の御陰やし、ビンロージは桑名の誇りの一つやで」。

八代目ビンロージ職人を継ぎ、ゴンチキチンの鉦の音を守り抜く決心を固めた。

ビンロージは、樫の木を材とする尺六寸(約四十八㎝)の柄に、長さ四寸二分(約十四㎝)の八角の頭を組み込んだもの。

昔は樫の木を部材の寸法に落とし、鉋がけで八角に加工し、柄を組み込む枘(ほぞ)を鑿で刳り貫いた。 「樫はかったいで、一日に十五~十六丁仕上げるんがやっとやったんさ」。

五月~六月が、ビンロージの最盛期。

「桑名の男衆は、物心付く時分から、ゴンチキチン聞いて育っとんやで。儲けなんて考えとったら出来やんて。欲得抜きやないと」。

年に一度の石取祭。浮かれて踊る者あれば、ゴンチキチンと囃す者あり。鉦を造る鋳物師(いもじ)あらば、鉦打つためのビンロージ職人あり。

そして今年も、一人に一つの石取祭が、蝉の鳴き声と共に、忘れず桑名の町に帰って来る。

*2020年は、新型コロナの影響で開催の有無は、桑名市にお問い合わせください。

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「宵火垂る」

思えば、去年も一昨年も、ホタルを目にすることがありませんでした。

そろそろホタルの恋の季節がやって来ているのでしょうか?

今日お聴きいただく「宵火垂る」は、深夜番組を始めて間もない頃に作った曲です。

その年にある小さな川沿いで、幻想的にホタルの乱舞する姿を目の当たりにすることが出来ました。

恐らくこれまで生きて来た中で、一番たくさんのホタルが見られた、実にファンタジックな夜のひとときでした。

出来うれば、観光化したホタルのスポットではなく、人気のない静かな場所で、藪蚊に喰われるのを覚悟で、ぼ~っといつまでも眺めたいものです。

以前、とある温泉に泊ったところ、近場のホタルスポットへマイクロバスで案内いただける機会がありました。

浴衣姿で下駄を鳴らして、人気のない細い車道を歩いてすすむと、何と群れからはぐれたのか、1匹だけ迷ったかのようにフラフラと舞うホタルを見ることがやっと出来たものです。

案内くださった旅館の方は、1匹だけでもホタルが舞ってくれてほっとされたように安堵されていたのが、とても印象に残っています。

ところがところが!

夕餉の折にしたたかにお酒を飲んだからか、前をはだけてしまう浴衣のせいか、もう体中藪蚊に刺されっぱなし!

急いで売店で虫刺されの薬を買ったものでした!

藪蚊は酒の匂いに寄って来るって、やっぱり本当のようですね。

それよりも感心したのは、土産物の並ぶ旅館の売店のレジ前に、虫刺され用の塗り薬が、大きなPOPの前にデーンと並んでいたのは、ホタル観賞のぼくのような酔っ払いたちが慌てて買い求めるからなんでしょうねぇ。

また今年ホタルがご覧になられた方は、教えてくださいね!

そんなわけで今夜の弾き語りは「宵火垂る」をお聴きください。

「宵火垂る」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君のうなじに 淡い灯りが そっと舞い降りた 宵火垂る

清か瀬音に 君のため息 肩に回した 手を握る

 わずかな命ゆえに 愛おしい 淡い灯りを賭け 燃え尽きる

 宵火垂るよ 今宵一夜 二人の行く末 そっと照らせ

君をどれほど 愛してるか どんな言葉でも 言い尽くせぬ

淡 い 月 影 君の横顔 見詰めるぼくを 振り返る

 わずかな命だから 心のまま 君を思いの丈 愛し抜こう

 宵火垂るよ 今宵一夜 愛し合う二人を そっと灯せ

 二人の夏の初め 彩って 儚く燃え尽きようと 忘れない

 宵火垂るに 想い重ね 君との愛を 永遠までも

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めて手にした自動車運転免許証の思い出!」。なんでも明後日25日は、「指定自動車教習所の日」なんだとか!1960年、つまり昭和35年の6月25日に道交法改正法が施行され、公安委員会が指定した自動車教習所を卒業すれば、技能試験が免除される制度が誕生したそうです。ぼくの子どもの頃の記憶や、映画Always 三丁目の夕日で見ると、まだまだ昭和39年の東京オリンピックの時代ですら、交通量が少なかったわけですから、この法律はやがて訪れるモータリゼーションに先んじて誕生した、いわば画期的な法律だったのかも知れませんね。

家の父は車の免許を持っていなかったため、わが家ではぼくが車に乗るまで、車はありませんでしたねぇ。ですからどこに行くのもバスや電車の交通機関ばかり。でもやっと車が持てるようになり、通勤する父を助手席に乗せ、ぼくも毎朝バイトに出掛けていた頃は、父も嬉しそうにして、時折なけなしの小遣いから、千円札をぼくのポケットにねじ込んでくれたものでした。今思えば、仕事帰りに飲みに行くわけでもなく、会社と家を行き来するだけの父は、わずかばかりのなけなしの小遣いで、大好きな煙草を買うお金さえ節約して、ぼくにそんな送迎代金をくれたのやも知れません。ありがとう!お父ちゃん!

今回はそんな、『初めて手にした自動車運転免許証の思い出!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。