「天職一芸~あの日のPoem 146」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「鵜籠職人」。(平成十七年六月二十一日毎日新聞掲載)

川面を焦がす篝火に 小瀬の鵜飼も幕が開く        鵜籠開けばホーホーと 黒装束に鬨(とき)の声      我先競い鮎を追う 手縄捌(たなわさば)きも鮮やかに   艫(とも)で鵜匠が声上げりゃ 川面に踊る水飛沫(みずしぶき)                          千代の昔をそのままに 今宵も映す長良川

岐阜県関市の二代目鵜籠職人、石原文雄さんを訪ねた。

「竹っちゅう奴はなあ、『ミオキのハチステ』言うくらい、三年はまだまだ青いで見送って、八年以上は陳(ひ)ねて来るで見捨てるんやて」。それが竹選びの基本とか。 文雄さんは、幅八㎜長さ二mの竹籤(たけひご)を鉈でせっせと割き続ける。

文雄さんは、五人兄弟の長男として誕生。新制中学を出ると、定時制高校へと進学し、昼間は父と共に竹細工に明け暮れた。「お婆が『勉強せるなよ』ほんでのう『学校行くなよ』って毎日念仏みたいに唱えるんやて。ここらあは、貧乏集落やったもんで、『学校行く暇あったら家の仕事せんか』って、よう怒鳴られて。当時は養蚕が盛んやって、繭籠(まゆかご)作っとったんやて。籠は資本もいらんで、それなりに儲かったもんだて」。

農家に現金収入をもたらす、ありがたい養蚕は、蚕の幼虫に「お」を付け「お蚕様」と崇め、座敷の特等席にお蚕棚を据え置いた程とか。

「毎朝お蚕様に『ご機嫌はどうですか?』って言いながら、桑やって褥(しとね)るんやわ。自分たあわねぇ、物置小屋で寝るんやて」。

鵜籠作りは、まず竹選びに始まる。冒頭の「ミオキのハチステ」で、四~七年ものの淡竹(はちく)を、十一月~十二月に切り出し、竹小屋で1年間寝かす。

「竹と話しせんと。ほうすっとさいが、硬いか柔こいか教えてくれるんやて。竹も百本百色やで」。

頑なな職人の眼に、見初められた淡竹は、鵜匠が櫂(かい)を天秤棒にして担ぐ、鵜籠に生れ変わる。

「何と言っても、籤作りが命やて」。職人技の配分は、籤作りに六割、編みに四割とか。「籤は鉈で割くだけやなしに、小刀で鉋かけるように竹の内側を削るんやて。そうするとさいが、水切れも良く汚れも黴も付かん。本当は、そんなもん作らん方がえんやで。すぐ壊けてまう方が儲かるし」。

まずは、幅八㎜、長さ二mの竹籤四十八本で底を編み、長さ三mの籤で胴回りを、十二段積み重ねるように編み上げる。仕上げは、縁巻き。籠の上部を芯竹で円形にして、別の籤で芯竹を巻き上げる。

「籠の部分と縁巻きは、生い立ちが違う竹を使わんとかん」。

鵜籠の直径から高さまで、いちいち寸法を測りながら編み上げるわけではないのに、一㎝と違わぬ神憑(かみがか)りな技。鵜籠一つに、丸二日が惜しみなく費やされる。

一端に鵜籠が編めるまでは、十年とか。職人らしさも身に付いた昭和三十九(1964)年、文雄さんは二十九歳で岐阜市から妻を迎え、一人娘を授かった。

「オッカアとは、未だに朝から晩まで喧嘩しとるんやて」。夫婦の馴れ初めを問うと、照れ臭げに笑い飛ばした。

「竹編みは、二十年目でやっと愉しくなって、三十年やったら止められんくなる。これまでは生活のためにやっとったけど、これからが本当の愉しみやて。自然の材料で、自分の創意工夫で作り上げてくんやで」。

鵜籠には、鵜を四羽入れる「四つ差し」と、二羽入れの「二つ差し」があり、鵜が鮎を吐き出すための「吐(は)け籠」も手掛ける。

「鵜飼はお大尽(だいじん)が行くもんやで。俺んたら見たいな貧乏人は、鵜籠作っとっても、肝心の鵜飼は新聞やテレビのニュースでしか、見たことなかったんやて。でも七十歳を前に、初めて今年鵜飼開きに招待してもらったんや。狩下りの時に『ああっ!俺の作った鵜籠や』って。まさに職人冥利に尽きるっちゅうやっちゃ」。

長良川、小瀬の川原。腹を空かせた鵜が、鵜籠の中で漁の瞬間を待つ。鵜舟に篝火が灯る。

腰蓑(こしみの)姿の鵜匠は、ゆっくり漁場へと鵜舟を駆(か)る。

鵜籠が開く。手縄を付けた鵜が一斉に放たれ、水飛沫を上げ、月影揺れる川面へと消え入った。

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6/30の「残り物じゃないクッキング②~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「餡かけニョッキ&なぁ~んちゃって揚げラビオリwith もっちりクリーミーマッシュポテト クコの実添えと、ボイルド小松菜~それに一昨年のなぁ~んちゃってマロングラッセ」

賞味期限が刻々と迫ったニョッキと餃子の皮があり、こいつを何とか出来ぬものかと頭を捻り、思い付いたのがこの「餡かけニョッキ& なぁ~んちゃって揚げラビオリwith もっちりクリーミーマッシュポテト クコの実添えと、ボイルド小松菜~それに一昨年のなぁ~んちゃってマロングラッセ」でした。

しかもお手軽、ワンプレートランチです。

最初はちゃんとイタリアンっぽく、トマトソースも作るつもりでいたのですが、いつも切らしたことのないカットトマトの缶詰が品切れ!

とは言え、それだけ買いにスーパーへ向かう気にもなれず、いかがしたものかと保存庫をチェ~ック!

すると以前、無性に餡かけパスタが恋しくなり、買い込んでおいたレトルトのソースがあるじゃないですか!

もうこうなったらこれで代用だ!ってな塩梅で料理に取り掛かりました。

まず、フライパンにオリーブオイルをひき、ニンニクの微塵切りで香りを立て、合挽ミンチを炒めつつ軽く塩コショウをしておきます。

そして粗熱が取れたところで、餃子の皮でミンチの餡を、巾着のように包み、それをカリッカリになるまで揚げてしまいます。

そしてニョッキを茹で上げ皿に盛り付け、なぁ~んちゃってラビオリを添え、湯煎した餡かけパスタソースをドロッと掛ければ出来上がり。

さらにジャガイモを乱切りにしてシリコンスチーマーで約6分チンして、フードプロセッサーに生クリーム・コンソメ・塩コショウを入れて、ホイップすれば、もっちりしっとりとしたクリーミーマッシュポテトの出来上がりです。それをプレートに盛り付け、クコの実を振り掛けました。

後は彩でボイルしただけの小松菜と、一昨年ラム酒で煮た、なぁ~んちゃってマロングラッセを添えて完了です。マロングラッセは瓶詰にして冷蔵庫で保存していますが、水を一滴も使わずラム酒だけて贅沢に仕上げたからか、まったく風味も損なわれず、美味しいままでした。

皆々様も今回は、ぼくのアマノジャククッキングに手古摺られ、随分迷われたようでした。

そりゃあぼくの素人写真では、識別不可能かもしれませんよね。

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「天職一芸~あの日のPoem 145」

今日の「天職人」は、三重県鈴鹿市の「伊勢型紙彫師」。(平成十七年六月七日毎日新聞掲載)

コツコツコツと音たてて 伊勢型紙を彫り上げる      父の背中も丸くなり 蝉の抜け殻夏が行く         細かい柄を透かし彫り 眼鏡をずらし陽に翳(かざ)す   軒先揺れる風鈴が チリリトと鳴りて涼を呼ぶ

三重県鈴鹿市寺家(じけ)。江戸時代から続く、六代目伊勢型紙彫師の大杉石美(いしみ)さんを訪ねた。

写真は参考

「『出逢いもんがあるさかい』って、釣仲間に見合いをすすめられてなあ。鈴鹿の表具師っさんの娘貰(も)うて」。男は照れ隠しか、妻との出逢いをそう嘯(うそぶ)いた。

石美の名は、石積神社から拝命したとか。

俗に伊勢型紙の創始者は、江戸時代前期の型屋久太夫(かたやきゅうだゆう)とか。寺家の子安観音境内で、年がら年中咲く不断桜を眺め、虫食い葉から伊勢型紙の技法を思いついたのが、その発祥と伝えられる。

写真は参考

石美さんは昭和十一(1936)年、親兄弟全てが伊勢型紙に関わる家に、五人兄弟の末っ子として誕生。新制中学を卒業すると同時に、それが寺家に生まれし者の務めであるかのように、家業の修業を始めた。

先ずは、小刀砥ぎ。「刀(とう)が切れやんと、仕事んならんでなあ」。丸一年かけて砥ぎを身に着ける。この間、白紙の美濃和紙に穴を開ける「丁稚彫(でっちぼ)り」で練習を重ね、古本から図案を写し、彫り修業は進む。

写真は参考

やがて砥ぎの技術が上がり、刀が切れるようになると、八~十枚の型紙を重ねて彫る「突き彫り」へ。上から刀を直角に突き刺し、刃を上下させながら前へと彫り進む。突き彫りが一端と認められるまでに、凡(およ)そ三年。

ちなみに、型紙一枚だけを彫る作業は「引き彫り」と呼ばれる。

さらに五年近くの年月をかけ、厚重ねの突き彫りへと技を極め、その後(のち)一年のお礼奉公を務め上げ一端の彫師となって一本立ちへ。

昭和四十二(1967)年、冒頭の釣仲間の紹介で嫁を得、翌年一人娘が誕生。まだ当時の寺家のあちこちからは、彫師の繰り出す刀が、型紙を穿(うが)ち穴板に当って発する、コツコツコツと規則正しく刻まれる、小さな音が聞こえた。

往時の寺家は、全戸数の九十五%が型紙産業。紙屋、絵師、彫師、それに型紙に紗(しゃ)の網を漆で裏張りする紗職人が、軒を連ねるように技を競い合った。

一枚の着物に、柄を彫り抜く型紙は、前身頃(まえみごろ)、衽(おくみ)、襟(えり)、肩山(かたやま)と最低でも十六~二十枚が必要。

粋筋の江戸小紋ともなれば、色数によっては二百~三百枚の型紙を必要とする。

柄も様々。一つとて同じ柄ばかりを彫り続けることなどない。毎日新たな柄と、彫師の細かな指先の格闘が続く。

「夕食を八時頃に食べたら、それから明け方まで八時間ぶっ通し。夜型なんやなあ」。丸一日十二時間座りっぱなしでも、苦痛ではないとか。

写真は参考

「これ見てえな」。石美さんが取り出した一枚の型紙。陽に翳(かざ)してみると、細かい穴がびっしりと穿たれている。

「通し柄ゆうて、小さな丸い穴と穴の間が、髪の毛一本分も無いほどなんさ」。僅か一寸(三.0三㎝)角の中に、針の先程の穴が約八百個。ミクロの世界に迷い込んだかの錯覚に陥る。

しかし江戸時代から続いた寺家の反映にも、昭和も四十(1965)年代後半に差し掛かると、大きな陰りが生じた。

「思い切って、足袋から靴下へ履き替えて見ようかと」。

昭和五十一(1967)年、石美さんは着物の型紙から、暖簾や風呂敷にインテリア小物へと、彫師の技術を転用した。

「もう今し、寺家の型紙産業は、最盛期の十分の一程度になってもうて。ご先祖が護り抜いてきた技術も、やがて消え入ってしまうんやろなあ」。 石美さんは、段ボール箱に無造作に詰め込んだ、止め柄の型紙を引きずり出して陽に翳した。

「失のうてまうんは、簡単なこっちゃ。せやけど、伝え遺してくんはしんどいことやさ」。

南に向いた窓。窓辺から手前に傾く、畳一枚ほどの作業台。彫師が畳に座し、小刀に体重を預けて彫り進むに、都合の良い高さが保たれている。

昭和という時代を、伊勢型紙に刻み続けた老彫師は、窓辺を染める夕陽を眺め、作業台の傷の跡に指先を這(は)わせた。

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「ななな、なんたるこっちゃあああ!!!」

一昨日ゴッド君が走り回ってやっと手に入れてくれた山椒の葉も、昨日の朝クール宅急便で届いた、郡上の知人の隣家の山椒の葉で、わが家は山椒農園のような有様。

「こうなったら、どんだけ食べてもいいからね!」と、サナギになりかけている一匹を除いた二匹を、山盛りの山椒の葉の上に乗せてやったものの、あらら???

いったいあの食い気はどこへやら・・・。

あまり口を動かさず、じっとしてばかり。

いささか気にはなりながらも、所用で出かけ深夜帰宅してビックリ!

ぼくの道具箱に引っ付いていた緑色だった幼虫君は、まるでミノムシのように変色してしまっているじゃありませんか!

ややや、もしやして???そう思って山椒の葉の中から、あとの二匹を探してもどこにも見当たりません。

こりゃあとの二匹たちもどこぞかで、サナギになる準備を始めたかと、部屋中探し回りました。

すると!

一匹は天井に!

もう一匹は、箪笥の奥の壁にへばり付いちゃってるじゃないですか!

でももう触って動かすことも出来ません!

後はこの三匹たちが無事に羽化して、大空を舞う日だけ夢見て、見守ってやるつもりです!

ああ!それにしても、皆さんの善意でやっとこさ手に入れた山椒の葉!どうすりゃあいいのよ!

なんなら、落ち武者殿!召し上がりますか?

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「やっとやっと手に入れた山椒の葉なのに~ぃ・・・」

協賛/松風苑

電車で国府宮へと向かい、夕方ゴッド君家へたどり着きました。

と言っても、矢合観音でバスを降りてから道に迷い、ゴッド君に迎えに来てもらう羽目になってしまったのですが・・・。

ゴッド君はこのように立派な、山椒の木を二鉢分も探し出してきてくれていたのです。

「ところであんた、どうやって持って帰るの?」とゴッド君に問われ、あまりの立派さに答えに窮してしまったほどです。

さすがにこんな立派で大きな木を、二本もエコバッグに詰めて帰宅時間に重なる夕方の電車に乗るのも憚られ、葉がよく茂った一鉢分の枝を持ち帰ることにしたのです。

さすがに満員電車の中で、山椒の枝の棘がどなたかに刺さっても、そりゃあ大変ですもの。

さぞや腹を空かしてぼくの帰りを待っているだろうと、急ぎ足で家路を急いでみると!

一番身体がまだ小さく、お腹を空かせて右往左往していた幼虫が、ぼくの道具箱に張り付いてじっとしているじゃないですか?

ええっ?????

よく見ると体から糸を出し、ぼくの道具箱に張り付いてサナギになろうとしているようです。

とは言え、まだお腹がすいているのではと、新鮮な山椒の葉を口元に運んでやると、オレンジの角を出して、もういらないとでもいうような素振りです。

あとの二匹の幼虫も、随分動きが緩慢になり、食欲もグンと落ちているようです。

後の二匹も間もなくサナギになるのでしょうね。

何ともお騒がせな一日でした。

ゴッド君、ありがとう!

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「えらいこっちゃー②!またしても緊急事態勃発!!!」

昨日の朝は、花屋さんやホームセンターに電話をかけまくり、やっと堀田にあるホームセンターに山椒の苗木の売れ残りが2鉢あると探し当て、取り置いていただき電車を乗り継ぎ、写真の手前に写っている2鉢を手に入れました。

しかしアゲハ?三兄妹のすこぶる旺盛な食欲に、いささかこれじゃあ足りないのではと、不安がよぎったものです。

でもさっそく山椒の苗木を与えると、もうご覧のような食べっぷり!

これにゃあさすがのヒロちゃんでも敵いませんか?

そしてそれなりに胸を撫で下ろし、眠りに就いて今朝起きたらまたもやビックリ!

一抹の不安が見事に当たってしまったのです!

昨日追加した山椒の苗木も見事に丸坊主!

ヒロちゃんのコメントにキャベツでもとあり、与えてはみたものの、キンカンの葉はおろかキャベツに見向きもせず、丸坊主になった山椒の枝に未練たらしくつかまっているじゃありませんか!

そこでコーヒーを一杯飲んだその足で、松原の花市場を巡って山椒の木を探しました。

しかし花問屋の方にお尋ねしても、虫が付くから扱ってないとか、2月頃には並んでいたけど、もう何処にもないねぇと・・・。

そこで奥の手だ!と、あのゴッド君に電話を入れ、緊急事態を告げ、どこぞかに山椒の葉が茂った木が無いかと問うてみました。

ゴッド君も仕事の前の忙しい時であったでしょうが、親身になって聞いて下さり、お仲間の方に聞いてやるとのこと。随分救われた思いがしたものです。

とは言え、ゴッド君をあまり当てにしてばかりいて負担をかけてはいけないと思い、いつも野菜やお米、それに山菜などを送ってくださる、郡上の知人に電話を入れて見ました。

すると奥方がちょっと探して見るからと、何とも期待の持てるご返事が!

それからしばらくすると、隣の家に山椒の木があったから、葉の良く茂った枝を分けてもらったから、宅急便で早速送ってやると!

なんとなんと、嬉しい限りです。

こうなったら何が何でも見事に羽化させてやって、大空に放してやらねばなりません!

皆々様の心温まる姿にただただ感謝です!

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「天職一芸~あの日のPoem 144」

今日の「天職人」は、愛知県額田郡の「石窯職人」。(平成十七年六月十四日毎日新聞掲載)

木立ちの中の煉瓦小屋 薪がパチパチ熾(おこ)り出す   胡桃を練った生地丸め 石窯パンを焼き上げる       頑固パン屋にお似合いの 飾り気の無い丸いパン      見場は兎も角頬張れば 素朴な風味舌鼓

愛知県額田町のエトセ工房、石窯職人の磯貝安道さんを訪ねた。

「石窯で焼いたパンに、二つと同じ焼き上がりなんてないらぁ。それくらい窯に騙されるだよ。だから奥が深くて面白いだぁ」。新緑の森の営み、鳥たちの歌声と風に戯れる梢の若葉。 安道さんは、石窯を背に振り返った。

安道さんは、昭和二十四(1949)年に愛知県高浜市で陶器瓦製造業を営む家の、八人兄弟の末っ子として誕生。高校を出ると直ぐ家業に入った。

「黙々と働くばっか。お金使うとこもないし、直ぐに貯金も百万円ほどに」。

独学で英語を学び、二十二歳の年に船便で、ハバロフスクからシベリア横断鉄道でヨーロッパへと向かった。半年に渡り欧州各国を巡り歩き帰国、再び家業へ。

「いつまでこんな仕事、続けるんだろうって」。じっとしては居られぬ衝動が、日々心の中で増殖した。関東には兄弟も多く、頼ってはならぬと、敢えて見ず知らずの大阪へ。若干二十四歳の新たな旅立ちだった。

「絵を描くのが好きで、画廊勤めを始めたんだけど」。明けても暮れても営業ばかりの毎日に、『何かが違う!』と半年で辞し、今度はネオンの瞬くクラブで、バーテンダーの職に就いた。

シェーカーが描く八の字振りが様になり始めた一年後、幼馴染と再会。外国貨物船の船員であった、幼馴染の話にすっかり夢中。直ぐに海運会社に職を求め、タンカーの賄夫(まかないふ)として乗り込んだ。

「自分への投資の時代だと決めていたんでね」。

二十七歳の年に再び実家へ舞い戻った。明治生まれの老いた両親が、定職も持たぬ息子の行く末を思案。両親の援助で、コーヒーと紅茶の専門店を開業。翌年には同級生の妻を得、二人の娘を授かった。

子供の成長に合わせ、安道さんの考えと生き方に変化が生じた。喫茶店開業から七年目、店を譲り渡して岡崎市内に木工製品の店「エトセ」を開店。木製品の手作り玩具から家具まで。まるで娘の成長に、歩調を合わせるかのように。いつしか『何かか違う』の台詞は消えていた。

天職を求め続けた流転の旅は、いつしか家族の絆に堰き止められた。 しかし興味は尽きない。販売だけで物足らず、見よう見真似で製造へ。とは言え、ずぶの素人。大工・木型屋・建具屋を巡り、材の選定からイロハを学んだ。

「今の三~四倍の労力費やしても、出来は今より数段劣った」。

やがて長女も小学校へ。「もっと自然豊富な環境で、子供たちを育てたい」。そんな思いで現在地へ。本格的な創作活動が始まった。家具作りから部屋作り、やがては建物のデザインまで。

「女房がパン好きで」。十年ほど前に山梨県のレストラン脇で、石窯焼きの武骨なパンと出逢った。

「石窯見とったら、出来そうな気がしてきて。だって子供作って育てるのに比べたら、何だって出来るらぁ」。妻は、石窯を欲しいとせがんだ。

ヨーロッパの文献を漁り、半年後、工房脇に煉瓦組の石窯を造り上げた。

「出来たぞ!って女房に言ったら、『何で自宅の脇じゃないのよ』って。だから石窯パンは、今もぼくが焼いてるじゃんね」。

総重量十tを越える石窯。約二m四方で、高さも約二m。まず地盤を六十㎝程掘り、鉄筋を入れステコンを流し込んで固める。次に赤煉瓦を腰高まで積み上げ、中に残土を詰めて搗き固め、鉄製窯を設置。

半球体の鉄製窯の直径は一.一m。片方にだけ四十㎝の口が開き、薪の出し入れや、パンの出し入れに使用。石窯の保温性を高めるため、窯の上に川砂や、火に当っても割れないと言われる雌石(めいし)で覆って蓄熱率を高める。

半球の奥半分で薪を燃やし、熾きを掻き出してから手前半分にパン生地を入れ、熱せられた窯の余熱だけでパンを焼き上げる。だから薪の量や季節、そして石窯全体が前の日に焼いた余熱を残しているかが鍵となる。温度計の数値は同じでも、パンの焼きあがりは別。それが冒頭の「窯に騙される」由縁とか。

 分け隔てなく育てた筈の子供も、例え同胞と言えど性格は異なる。パンも然り。パン焼きが商売なら、異なる焼き加減に苛立つ。

されど、「さて、今日の出来栄えは?」と、子供の成長を見つめる心境で愉しめば、そのすべてが愛しい筈。

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「えらいこっちゃー!緊急事態勃発!!!」

まずはこちらをご覧あれ!

今朝見てビックリ!

山椒の葉がすっかり、落ち武者殿以上に丸坊主じゃないですか!

おかげでアゲハ?三兄妹はスクスクお育ちなんですが、これじゃあ餌の葉が足りないかもしれません。

ぼくはこれから、何はともあれ、山椒の苗木を探して、花屋さんや種苗店、そしてホームセンターを巡って、三兄妹の餌の買い出しに行ってまいります!!!

それまで頑張れよ!アゲハ?三兄妹よ!

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「天職一芸~あの日のPoem 143」

今日の「天職人」は、岐阜県笠松町の「志古羅(しこら)ん職人」。(平成十七年五月三十一日毎日新聞掲載)

卓袱台の上菓子折りは 誰が手向けた物やろか       蓋をずらせば肉桂(にっき)の香 そこはかとなく匂い立つ 父の帰りを待ち侘びて 蓋をずらして一つまみ       あれあれ別の手が伸びて 母もちゃっかり茶を啜る

一年前の夜。「もう在庫も無いで、明日は志古羅ん作らんなんで、早よ起きるわ」。

岐阜県笠松町で永禄五(1562)年創業の笠松志古羅ん、十六代当主、若き太田屋半右衛門(本名/高橋裕治)は、妻にそう告げると早めに床を取った。生後五ヶ月の愛娘に、風邪を移すまいと。

しかしそれが今生の別れの言葉となった。

享年三十八歳。早すぎて酷すぎる、突然の死であった。

「いつもなら朝五時半には、もう仕事を始めてる筈やのに、おかしいなあと思って。そしたら布団の中で冷たくなってしまって」。妻、真紀子さんは、伏目がちにつぶやき、込み上げる無念の涙を悟られまいと、一歳七ヶ月の未朋(みほ)ちゃんを抱き上げた。

夫の死から一週間。不幸があったことなど知らぬ遠来の客が、志古羅んを求めて訪れた。

「もう在庫も底を付いて。けど誰一人、作り方も知らんし。わしがいっぺんやってみよかって」。故・裕治さんの父勝一さんが、家業の危機を見かね腰を上げた。

元々、十四代太田屋半右衛門に子は無く、姪の故・洋子さん(後の十五代目女将)を養子に迎え家業を託した。

志古羅んの由来は、戦国の世に溯る。

時の太閤、豊臣秀吉が上洛の途中、木曽川堤で憩うた折り、家伝の米菓子を献上。「風味豊で、蘭の香気が鼻を打つ」と愛(め)で、その形が兜の錣(しころ)に似ていることから「しこらん」と名付けられたとか。

一方勝一さんは、愛知県木曽川町で誕生。中学を卒業すると、和菓子職人を目指した。しかし隣の一宮から聞こえる、ガチャマン景気に沸く声に誘われ、姉の家の毛織工場へと職替え。その後、叔母の世話で二十六歳の年に、高橋家へと婿に入った。

「家内が細々と、暖簾を守っとっただけやて」。

三男一女を授かり、六十三歳で毛織工場を退職。 既にその頃には、大学卒業後京都に上り、五年に及ぶ和菓子職人の修業を終えた、故・裕治さんが実家に戻って十六代太田屋半右衛門を名乗り、志古羅ん作りに励んでいた。

平成十三(2001)年、友人として付き合いのあった、岐阜市出身の真紀子さんが嫁ぎ、何もかもが順風満帆に見えた。

しかしそれから僅か一ヵ月後。息子に家伝を引き継ぎ、まるで安堵したかのように、十五代洋子さんは他界。先代を亡くした悲しみに暮れる暇も無く、裕治さんは創作和菓子の通販へも乗り出し、寝る間を惜しんで菓子作りに精を出した。

それから二年後、未朋ちゃんが誕生。一家に明るさが広がった。

悠久の銘菓志古羅んは、まず吟味された餅米を蒸す事に始まる。それを天日干し。頃合を見計らって炭火で水飴と砂糖を煮絡める。程良く絡まったところで平らに延ばし、肉桂を加えて自然乾燥へ。

「郷土の身近なお菓子やでね。志古羅ん切った時に出る粉を、買いに来る方もあるほどやて」。勝一さんは、在りし日の息子の遺影を見つめた。

「わしはやっぱり十五代目の家内の連れ合いやて。十六代目の女将が嫁で、何時の日か孫が十七代目を名乗ってくれたらええなあ」。取材の冒頭、勝一さんに『何代目になられますか?』と尋ねた回答が、重い口からやっと零れ出した。

複雑に絡み合う、人生の幾何学模様。

何人たりとも、一言で語り尽くせるものなど無い。

「夫の死で、消えかかった志古羅んの伝統を、義父が見事に護り抜いてくれたんです」。真紀子さんは、未朋ちゃんをあやしながら菓子器を見つめた。

水飴に輝く、素朴な風合を留める志古羅ん。まるで亡き夫の面影を忍ぶかのように。

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「紫陽花の花嫁」

先日26日は、娘の誕生日でした。

満27歳です。

いよいよ結婚も近付き、今は将来の旦那様と一緒に、式場選びにテンヤワンヤとか。

一番いい時だから、この時間を大切にするんだよと、メールを送っておいたものです。

まさにこの「紫陽花の花嫁」を、そっくりそのまま持たせてやりたいものだと、そう想う今日この頃です。

今夜は、このシーズン二度目になりますが、先週ブログのコメント欄にも、ヤマもモさんからリクエストを賜りました「紫陽花の花嫁」をお聴きいただきたいと思います。

「紫陽花の花嫁」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

雨に打たれる度に その色を深め 見事に咲き誇る 紫陽花のように

白いドレスを揺らし 一度振り向いて 真紅の道を行く 君にどうか幸あれ

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 今日からこの先は どんなことがあっても

 決して振り返らずに お互いをいつの日も信じて

雨に打たれる度に 心強くあれ 命を懸けて咲く 紫陽花のように

幸せは比べたら 直ぐに色褪せる 君が信じた道 目を逸らさないで

 紫陽花の花嫁は 誰よりも幸せになると

 月並みな言葉だけれど 二人していつの日も信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

 紫陽花の花嫁よ 誰よりも幸せであれ

 月並みな言葉だけれど いつまでもお互いを信じて

 もし辛い出来事に 打ちのめされたとしても

 紫陽花の花のように 叩きつける雨さえも受け止めて

続いては、CDの音源から「紫陽花の花嫁」お聴きください。

ところで、わが家のベランダの真っ白な紫陽花はとても元気ではありますが、この所もっぱらマイブームに火を付けてくれたのが、山椒の木の鉢植えに巣食った「アゲハの幼虫?三兄妹」君たちです。

今日は、すっかり緑色に変色を遂げ、益々日々成長を続けている「アゲハの幼虫?三兄妹」の動画をご覧いただきたいと思います!

題して「お兄ちゃんは爆睡中!ワタシは、色気より食い気のランチタイム!」です。

日に日に逞しく成長を続ける、アゲハの幼虫?三兄妹には、癒されたり笑わせてもらったり、子どもの頃の接し方とは随分違ったものです。

そう言えば、ちょっとふざけて三兄妹の誰かはわかりませんが、頭をちょっとだけ触ってやったら!

いっちょ前に「何だよぉ!」ってな感じで、こんなオレンジ色の可愛らしい角を振り上げ威嚇してくれました。

これからも目が離せそうにありません!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めて買ってもらったトランジスタラジオの思い出!」。なんでも今日は、トランジスタの日なんだとか。ぼくが初めて買ってもらったトランジスタラジオは、中学に上がってからの事でした。一応カセットテープで録音もできるもので、横30cm、縦25cm、幅7cmほどの大きさで、片側にワイヤレスマイクが付いていた気がします。今思うとあの渋ちんなお母ちゃんが、よくもまあそんな当時のわが家に取っちゃ高価なものを、買い与えてくれたものだと改めて感心するばかりです。そのラジオで深夜放送を聞くようになり、マイクを使ってラジオ番組の真似事を録音したりしたこともありました。そう言えば、あの大切だったはずの、ぼくのトランジスタラジオ、何処へやっちゃったか!落ち武者殿はご存知ありませんか???

今回はそんな、『初めて買ってもらったトランジスタラジオの思い出!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。