クイズ!2020.07.28「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、残り物を使って、こんなフィンガーフーズにチャレンジしてみましたぁ!

でも実は、この作品、ちょっと前に作ったもので、2種類はなんだったか覚えているのですが、ちょっと色の黒いのが何だったのか、さっぱり思い出せないんです!

そこで観察眼の鋭い皆様からのお答えを参考に、思い出せるだろうかと、1種類の中身が思い出せないまま、ちょっと無責任な残り物クッキングクイズを出題させていただきました。

どうか皆様、寛容なお心でご覧いただければ幸いです!

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「天職一芸~あの日のPoem 165」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「町角の面打師(めんうちし)」。(平成十七年十一月十五日毎日新聞掲載)

秋風孕(はら)む篝火が 肌を突き刺す夜気払う      能管(のうかん)の音に舞う翁(おきな) 在りし日父の影揺れる                          苦楽浮かべる翁面(おきなめん) 月の明りに影法師    憤怒(ふんぬ)露(あらわ)の般若面 情も仇(あだ)なす人の世か

三重県桑名市の「益生新楽堂」、町角の面打師の鈴木亨さんを訪ねた。

写真は参考

どこからどう見ても、紛れも無く年季の入った薬局である。能の面を打つ職人を「新楽堂」に尋ねたはずだ。しかし店先には、時代と共に色褪せた、製薬会社のマスコット人形と、「新薬堂」の看板。「楽」と「薬」を間違えたかと思っていると、「いらっしゃい」の声。老眼鏡をずらし、上目遣いに穏かな老人が迎えた。

「ある時、地図に新楽堂と間違われて書かれてもうてな。まぁ、それもええ名やと思って、能面の仕事の屋号にしたんやさ」。

亨さんの旧姓は田中。桑名市出身で国鉄技師であった父の下、長野県で五人兄弟の三男として誕生。父の転勤で各地を巡った。

しかし小学六年となった昭和二十一(1946)年、戦中から北ボルネオ島で鉄道開発に従事していた父が急死。

間も無く、亨さんの実家の一部であった現在地に、「新薬堂」の鈴木夫婦が幼い娘を連れて店を移転して来た。

亨さんは、中学高校と演劇に入れ込んだ。「高二の頃からは、演出や裏方に興味が湧いて」。

進路が問われる高校三年の年、鈴木薬局の長女、当時十三歳のとし子さんとの養子縁組が交わされた。

亨さんは急遽志望校を変更し、東京の薬科大へと進学。しかし三年後、鈴木家の事業の不振で中退し、ブラシやハケの製造販売会社に勤務した。

昭和三十四(1959)年、高校を卒業したばかりの、妻とし子さんが上京。

晴れて新婚生活が始まった。「だから結婚記念日がないんやさ」。三人の男の子を授かり、昭和四十一(1966)年から名古屋に引越し、医療事務の仕事に従事した。

「子どものカブスカウト活動の手伝いで、木彫を始めるようになって」。ロープタイやブローチといった小物から、やがては仏像へと、木彫の魅力に取り憑かれていった。

そして昭和六十二(1987)年、能面作りを趣味とする人物と出逢い、教室通いへ。

写真は参考

能の面打は、半世紀近く寝かせた檜を、鑿(のみ)で粗彫りすることから始まる。

次に彫刻刀に持ち替え、中彫りから仕上げ彫りへ。そして紙やすりで磨き、檜の含む樹脂を抜き取る為、メタノールに一週間ほど浸け込む。

次にそれを取り出し熱湯に潜らせ、表面に浮き出た樹脂を洗い落とし、二週間ほど陰干しし、再び紙やすりをかける。

そして七百年前の能面の風合いを出すために、カマンガン酸カリの水溶液を塗って下地を焼き上げる。いわゆるエイジングの手法だ。

写真は参考

「最初は真っ紫になって、十秒程で今度は真っ茶色に変わる」。

下塗りでは、貝殻を粉砕した、胡粉(ごふん)と呼ばれる白い粉を、膠(にかわ)液に溶いて三~四回塗り、乾いたところを紙やすりで磨く。

この下塗りを二~三回繰り返し、中塗り上塗りと粒子の細かな胡粉に変えながら、全工程二十回ほどの塗りを重ねる。

仕上げは松煙(しょうえん)で眉と髪を毛描きし、小面(こおもて)の表情を決める紅を差す。

「いつも同時に最低三個ずつ、同じように彫るんやけど、三つともちょっとずつ違ごてくるんやさ」。

斑(むら)を出し、わざと汚して古さを醸し出す。

「唇の両端の上げ下げ一つで、年齢も大きく変わる」。

写真は参考

手掛ける小面は、五つ。いずれも未完成だ。

「究極の能面やでなあ。彫らんでも、毎日話し掛けたるんさ」。

能の面打に分業は無い。一から十まで、一人の面打師の手業一つの物種。

町角の老面打師は、両切りピースに火を灯した。

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「天職一芸~あの日のPoem 164」

今日の「天職人」は、岐阜県北方町の「茗荷(みょうが)ぼち職人」。(平成十七年十一月八日毎日新聞掲載)

シュワシュワシュワと湯気上り 蒸し器の蓋もガタゴトと  待ち遠しくて童らも 茗荷葉(みょうがば)広げお手伝い  初夏の我が家の名物は 盥(たらい)に浸けた麦の茶と   深い緑にくるまれた 仄かな薫り茗荷ぼち

岐阜県北方町で「みょうがぼち」を作り続ける恵比須屋。三代目の生菓子職人、河村正彦さんを訪ねた。

「『お前とこには、売るほどあるやろが』って、夏の初めになると大婆さんの家から、みょうがぼち持って来てくれるんやて」。正彦さんが、大きく笑った。

「昔は田植えも終わり野休みになると、空豆の餡を包み茗荷葉で巻いて、各々の家々でよう作ったもんやて」。

正彦さんは真正町の農家で、昭和十(1935)年に林家の二男として誕生。中学を出ると、岐阜市の生菓子屋で、七年半の修業を積んだ。

「在所の父が、ここへようお菓子を買いに来とったんやて」。そんな縁から、跡取り娘との縁組へ。

昭和三十四(1959)年、河村家へ婿入りし恵美子さんと結ばれ、三人の子どもを授かった。

「昔の菓子屋は、夏場が暇で暇で、さっぱり売れんのやて。義父は『夏はゆっくり休めばいい』って言うもんの、遊んどってええんやろかと。何かせんとと思っとったんやて」。

時代は高度成長期へと。減反政策で専業農家が減少し、若者は職を求め大都会を目指した。兼業農家が増加し、農閑期を過す郷土の風習もいつしか廃(すた)れ往く。

「最初は『みょうがぼち』なんてありきたりの菓子が、売れるんやろかと半信半疑だったんやて。ところが店に並べて見たら、飛ぶ様な売り行きで。もう農家でも作らんようになってしまっとったんやて」。

最盛期には、一日二千個が売れた。毎年茗荷の葉が出る、五月の二十日頃になると、垂井町や大垣市、果ては東北からも注文の電話が鳴り止まぬ。

「みょうがぼち」の「ぼち」とは、餅ではなく小麦粉を使った蒸し菓子を指し、「餅」とは呼べず「ぼち」と呼んだ方言とか。

作り方は、小麦粉と米粉に砂糖を練り合わせ、空豆の餡を詰め込み蒸し上げる。別に二分ほどサッと蒸した茗荷の葉に包めば出来上がり。

「毎年四人がかりで、空豆の皮をむかんならんで大変やて。でも手間隙惜しんだらかん。中には機械で空豆の皮を削ったのもあるけど、やっぱり味が違うんやて。手塩にかけた餡の美味さは」。

冷蔵庫で冷やしても、餅と違って硬くはならない。

茹だるような夏の昼下がり。団扇片手にみょうがぼちを頬張る。汗をかいたコップの麦茶を一息に飲み干せば、透き通るような茗荷葉の香りが、仄かに涼を呼び来たる。

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7/21の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「メカジキのソテーとファルファッレのトマトクリームソース with 夏野菜オリーブオイルソテー」

これまたスーパーの特売で買い置いていた、冷凍メカジキを使って、白ワインにピッタリなパスタディナーを作って見ました。

ちょうど郡上から、もぎたてのミニトマトと茄子、それとちょっと面長なピーマンをどっさりお送りいただいていたので、それをせっせと使って見ました。

皆々様のお答えは実に見事な観察眼で、概ね正解の方が続出でしたものねぇ!

この「メカジキのソテーとファルファッレのトマトクリームソース with 夏野菜オリーブオイルソテー」は、既に皆様もお分かりの通り、超簡単な時短クッキングでした。

まず解凍したメカジキをジップロックの中に入れて、白ワインとハーブミックスをパラパラッと振り掛けて、冷蔵庫の中で寝かせておきます。

そして一時間ほどメカジキを寝かせたら、ジップロックから取り出し、キッチンペーパーでワインを拭き取り、フライパンにオリーブオイルをたっぷりひき、ニンニクの微塵切りで香りを立ててから、メカジキを投入し塩コショウと白ワインを振り掛け、多少焦げ目が付くまでソテーし、皿に盛り付けます。

またファルファッレを程よく茹で上げ、よく湯切りしてオリーブオイルと和えて皿に盛り付けます。

次に小鍋にカットトマト缶を投入し、鶏ガラスープと白ワイン、そしてブラックペッパーと、NZ産のマーマイトと生クリームで味を調え、ファルファッレの上から流しかけます。

去年のNZロケで買った、野菜のエキスで出来た、酵素の塊のマーマイトがありましたので、ぼくはコクを出そうと使って見ましたが、マーマイトが無くたって全然大丈夫です!

さらにミニトマト、面長なピーマン、茄子をオリーブオイルでソテーし、塩コショウしたものを彩で皿に盛り付け、最後にクラッシュしたミックスナッツを振り掛ければ完了です。

洗い物もたったの一枚で、何とも手間いらずなディナーとなり、白ワインがグビグビと進んでしまいました。

夏野菜も一度にドッと採れるので、一工夫しながら味わいたいものですね!

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「天職一芸~あの日のPoem 163」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「琴調弦師」。(平成十七年十一月一日毎日新聞掲載)

木々も色付くお社に 大輪の華野点傘           琴の調べも艶(あで)やかに 酒盃に揺れる紅葉(くれないば)                          重を開ければたけなわの 秋を寿ぐ幸尽(さちづ)くし   木洩れ日の中膝枕 眠りを誘う十三(とみ)の弦

愛知県岡崎市の吉田屋琴三味線店、店主の中木邦雄さんを訪ねた。

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「『とにかくバス通りに店を出さなかん』って、寝ても覚めてもそればっか」。邦雄さんは、立てかけられた琴の前に座し、昔話を懐かしむように目を細めた。

邦雄さんは昭和十一(1936)年、名古屋で三人兄弟の長男として誕生。

父の転勤に伴い、小学一年の年に岡山県へ。そして終戦。

昭和二十四(1949)年、父は鶏舎を建て配合飼料の製造に着手。しかし僅か半年足らずで統制は解除。忽ち売れ行きが悪化した。

二年後、邦雄さんの中学卒業を待ち、親類を頼り一家で静岡県浜松市へ。

両親は小さな食堂を開業し、邦雄さんは叔父が営む三味線店に、見習い小僧として奉公に上がった。

「それが難しすぎて、三ヶ月で逃げ出して」。

今度は車の修理工場へ。「ここもやっぱり三ヶ月しか勤まらんかった」。

家に戻って食堂を手伝っていると、再び三味線屋の叔父から「もう一度、戻って来い」と情けがかけられた。

「何処へ行っても使い物にならんで、我慢せんとかん」と、邦雄さんは自分を戒め、和楽器の道へ。叔父である親方に付き、三味線の革張りや修理、琴の糸締めから調弦を学んだ。

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それから九年半が過ぎた昭和三十五(1960)年も暮れ。「それまで六千円の給料やって、『一万円に上げてくれんと喰うてけん』って直談判したら『気に入らな出て行け』と」。

捨てる神あらば、拾う神り。

親方の弟であるもう一人の叔父から、「道具も揃えたるで、独立してみろ」と促され、昭和三十六(1961)年にJR岡崎駅前に間借りして独立開業。

翌年には浜松市から妻を得、三人の子供に恵まれた。

しかし「何としても売れんだぁ。何度辞めようと思ったか」。

近隣の温泉街や花柳界を訪ね、必死に売り歩いた。そんな邦雄さんに時代は、高度経済成長という追い風を与えた。

家庭のラジオやテレビからは、連日民謡の歌声や三味の音が響く。

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邦雄さんの努力が報われ、昭和四十六(1971)年には、バス通りに移転し悲願を達成した。

邦雄さんは遠い昔の出来事を、正確な年月日で澱みなくスラスラと答える。何故かと問うて見た。

「何処の地で生きるのもみんな苦しかった。苦しんだ分だけ、想い出となって鮮明に記憶されとるだぁ」。

苦労を誉れに挿げ替えて、激動の昭和を生き抜いた老調弦師。

まるで裏連奏法の「サ~ア~ラリン」と、穏やかな風のように。

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「天職一芸~あの日のPoem 162」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「ロバのパン屋」。(平成十七年十月二十五日毎日新聞掲載)

横丁曲がりやって来る ロバのパン屋のおっちゃんが    母に縋って駄々捏(こ)ねて 十円握り駆け出した     ロバパンの歌口ずさみ どれにしよかと品定め       ジャムにチョコパン結局は 母の好物餡子(あんこ)入り

三重県四日市市で、今尚ロバのパン屋を営む松田俊彦さんを訪ねた。

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♪ロバのおじさんチンカラリン♪チンカラリンロンやって来る♪

「昔は売れて売れてかなんだもんやて。一日に千五百個も売れよったんやで」。言葉の端に、三重と岐阜の訛りが混じる。 俊彦さんは、軽のワゴンの運転席から顔を出し、人懐こそうな笑顔を向けた。

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俊彦さんは昭和十九(1944)年、岐阜県で産声を上げた。

地元の中学を出ると名古屋の段ボール工場に就職。四年後、姉夫婦と共に四日市に移り住み、一念奮起でロバのパン屋を開業した。

「あの頃は各市に一つで、チェーンの本部から営業する場所を決められるんやて。それでわしらは四日市へ流れ着いたんやさ」。

ロバのパン屋でパート勤めをする姉から、製造技術を学んだ。「一年ほどあかなんだわ。作ってはパーにして、また作っての繰り返しやて」。

どうにかロバパンの特徴である、パックリと頭の表面が割れ、中身が見えそうな技術を取得。

翌昭和三十九(1964)年、日本中が五輪ムードに沸き返る中、軽のワゴンにロバパンを満載し各地を流し歩いた。

「へそくり奮発して軽自動車買うて。さあ、これから稼ぐぞ!って。でもそれが売れやんで、往生したもんやて」。

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記録によればロバパンの最盛期は、昭和三十五(1960)年頃から四年ほどがピークだったとか。俊彦さんの参入は、ほとんど峠を過ぎた頃であった。

しかし、今更後戻りは出来ぬ。「パン売りのロバさん」の音楽と共に、各地を巡った。その甲斐あって、やがて一個十円のパンが、飛ぶような売れ行きに。

「子供らが学校帰りに飛んで来るようんなってさ。中には『家まで乗っけてって』と。『アホ言え。オッチャン、スクールバスとちゃうで!』って。中には買ってもらえやんと、泣いて泣いて地団駄踏んどんのもおったほどやて」。

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昭和四十八(1973)年、兄の世話で同郷から房枝さんを妻に迎え、二人の子供を育て上げた。

今でも毎朝三時にはパンを焼き始め、明け方には積み込みを終える。

しかし六年前、脳梗塞に倒れた。だが「ロバパンのオッチャン」を待つ、子供らに支えられ復帰した。

「好きで始めた商売やでな」。

運転席で麻痺の残る左足を擦り、オッチャンは照れ臭げに笑った。

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「久方ぶりの高山だぁ!あれれ?ええっ???」

よんどころない事情で、新型コロナ騒動のさなかではありましたが、久方ぶりに高山にほんの1時間ほど立ち寄ることとなりました。

しかーし!

御覧ください!これが7月21日火曜日のお昼前の11時過ぎの乗鞍口です!

人っ子一人いないじゃないですか!

昨年の今頃なら、観光客やインバウンドの外国人の旅行客で大変な騒ぎだったのに!

高山の中心部もバスの車中から眺めましたが、本当に閑散とした状態でした。

益々持って、コロナを恨めしく思ったほどです。

ワイドビューもガラッガラで、高速バスもガラッガラ!

今しばらくこんな状態と向き合わねばならないのでしょうね。

それはそうと、こんな可愛らしい、高山っぽいバスを見かけました。

闘鶏楽が描かれた街中巡りのバスのようです。

コロナが鎮静化したら、こんなバスで高山をグルリと巡って見たいものです。

それと高速バス乗り場に、桜山八幡宮の疫病退散の護符の貼り紙が!

どうか桜山の八幡様、疫病コロナから皆様をお守りあれ!

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「天職一芸~あの日のPoem 161」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「田楽職人」。(平成十七年十月十一日毎日新聞掲載)

季節を愛でる旬ならば 春夏秋冬それぞれに        味わい深い恵みあり 菜めし田楽里の秋          濡れ縁越に虫たちも わずかな秋を惜しみ鳴く       遠くに響く笛太鼓 豊年祝う村祭り

岐阜市神田町、木の芽でんがく処「むらせ」の三代目主人、村瀬善紀さんを訪ねた。

「家の田楽食べて、後十五年は生きるんやて」。 義紀さんはそう宣言した。

「祖母が明治三十五(1902)年に、岐阜公園の中の茶店で、田楽を焼き始めたんやて」。

善紀さんは昭和十(1935)年に、煎餅職人の父と、祖母と田楽屋を切り盛りする母との間に、長男として誕生。

地元高校から東京の大学へ。寮生活が始まった。母は息子の食生活を案じ、田楽味噌を送った。「寮で奴が出たから、味噌付けたんやて。そしたら皆が俺もって、あっと言う間に売り切れ」。

大学を出ると名古屋で就職。社会人チームで、サッカーボールを追いかけた。堅物で不器用なスポーツマン。そんな善紀さんに転機が訪れた。

毎日仕事で顔をあわせる、娘のことがどうにも脳裏から離れない。堅物男が勇気を出して放った、純な想いのシュートは、娘心のゴールネットを揺らした。

昭和三十七(1962)年、名古屋出身の英子さんを嫁に迎え、二男一女が誕生。

やがて昭和も五十(1975)年代へ。父が病を発病し、わずか一年で他界。焼き手を失った煎餅屋は、他所から仕入れ妻が子育ての傍ら店番を担当。

昭和五十二(1977)年、善紀さんは四十二歳で会社を辞し家業を継ぐことに。

「でも主人は、直ぐに調停員の仕事についてしまって」。

煎餅屋を建替え、田楽処の二店舗目を開き、結局英子さんが店を切り盛り。

「私はもっぱら、妻の田楽で一杯やりながら接客担当。それと代々続く、家の田楽の味の監視人やて」。

代々地元の豆腐を仕入れ、三分の一丁を六つに切って串を打ち、まずは素焼き。

八丁味噌に秘伝の味付けを施し、四時間かけて細火で煮込んだ味噌を塗り、再び竈(くど)で炙る。

「家の田楽がやっぱり一番旨い」。義紀さんは、各地の田楽を食べ歩いた。

「『味噌分けてもらえんか?』って言うお客さんも見えますが、『味噌だけ売るべからず』を信条に、お断りしとんやて。やっぱりこの土地の恵みは、ここで食べてもらわんと」。

「さあどうぞ」。英子さんが熱々の豆腐田楽を差し出した。

串から焦げた味噌の香が立ち込め、鼻をくすぐる。

口中に田の恵み、豆腐と味噌の、共に大豆の絶妙な魔法が広がる。

媚びるような甘さなどいらぬ。ただ辛口の、冷酒一献あればいい。

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「天職一芸~あの日のPoem 160」

今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の「人形焼職人」。(平成十七年十月四日毎日新聞掲載)

巨人大鵬卵焼き どれもぼくらの好物で          朝も早よから相撲取り 日が暮れるまで草野球       市で賑う参道に 仄かに甘いカステーラ          人形焼の一番は 王のバットでホームラン

名古屋市昭和区の小判堂、三代目人形焼職人の石浜政雄さんを訪ねた。

「夏は暑て暑て。えらいばっかり」。 白衣の正雄さんが苦笑い。

小判堂は明治四十(1907)年に同市中区で、政雄さんの叔父が創業。父が二代目を継いだ。

政雄さんは昭和七(1932)年、七人兄弟の二男として誕生。時代は、戦争の渦の中へ。

「当時は、軍艦や戦車、それに戦闘機形の人形焼に、人気があったんでしょうな」。政雄さんは、先代が遺した鋳物製の鏝(こて)を見つめた。

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悪化の一途をたどる戦局と食糧事情。配給制の前に止む無く休業へ。

政雄さんが小学六年生の年、一家は岐阜県養老町へと疎開し、そのまま終戦。

中学を出ると農業に従事し、父と共に小判堂の再興を期した。

昭和二十九(1954)年、縁者の世話で現在地にて店を再興。「当時は静かな町でね。夜音がすると言えば、興正寺の鐘の音と、夜回りの拍子木くらい」。

二十二歳になった政雄さんは、父の鏝捌きに学んだ。「手先の呼吸で焼くんだわ」。店も再興し、幼い兄弟を支えようという矢先、母が四十八歳の若さで急死。末の妹は、まだ小学五年生だった。

しかし政雄さんは悲しみに暮れる間も無く、鏝を握り続けた。

人形焼の材料は、卵、小麦粉、砂糖。それを三同割(さんどうわり)で混ぜ合わせ、後は型に流し込んで焼き上げるだけ。

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昭和四十三(1968)年、妹婿の紹介で真澄さんを妻に迎え、翌年一人息子が誕生。父はまるで孫と入れ代るように他界。

「一生職人として。亡くなる直前まで、人形焼いとったでね」。

高度経済成長期を迎え、興正寺参道の市には、参拝者が溢れ人形焼も飛ぶように売れた。「売れて売れて。ご飯も食べずに焼いて焼いて」。政雄さんは、懐かしそうに妻を見つめた。

一つの鏝で九個。二時間で約七百個を焼き上げ、またタネ作り。それを一日四~五回繰り返し、約三千個とか。

「『おじさんの人形焼の味、我が子にも食べさせたいから』って、買いに来てくれたり、老人ホームに入った方が、よう買いに行けんでと言われて届けに行ったり」。

明治・大正・昭和・平成。庶民に仄かな甘さと、幸せな風味を届け続けた老人形焼職人夫婦が、初秋の風のように何とも爽やかで、そして穏かな笑顔を向けた。

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「八幡様のお百度」

今年は新型コロナの影響で、いつもの夏とは様変わりのようです。

あれほど暑い暑いと嘆いてばかりだったいつもの夏でしたが、コロナの無いあのいつもの夏がどれほど尊いものだったか、改めて感じさせられるばかりです。

盆踊りに花火大会と、着慣れぬ浴衣に袖を通して、団扇片手に下駄を鳴らして夕涼みがてら漫ろ歩き、居並ぶ夜店を覗いているだけでも、夏の歳時記を大いに堪能できたものです。

まぁぼくの場合は、焼き鳥つついてキリン一番搾りを煽っていられたら、それだけで十分幸せですけどねぇ。

つくづく思うのは、踊りのセンスさえあれば、郡上や白鳥の徹夜踊りで夜を明かしたいと思うものの、これがからっきしで・・・。

でも浴衣姿の踊り手さんたちを眺めているだけでも、十分すぎる酒の肴にゃあ違いありませんが!

それに花火大会もコロナの影響で中止が続出し、コロナに「日本の夏を返せ!」とどやしつけたい心境です。

しかしもしかすると、コロナでの花火大会中止をこれ幸いにと、それでなくとも不景気に喘ぐ花火大会の主催者は、挙って何食わぬ顔で今後も中止にしてしまわないか・・・。実しやかに心配でなりません。

どうやら今年は着る機会もなく、袖も通さぬまま夏が終わってしまうのだろうかと、いささか寂しくなり、押し入れから浴衣を引っ張り出して、今夜はほろ酔い気分で「八幡様のお百度」を弾き語って見ました。

「八幡様のお百度」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

八幡様のお百度は 二人結ばれるように あとどれだけ 願えばいいの

人目忍んで俯いて 川面を眺めながら 浮かぶ月明かり あなたの笑顔

 祭囃子がお城山から 過ぎて行く夏惜しむのか

 次の夏にはあなたと二人 相の下駄鳴らし踊れますか

八幡様のお百度に 二人の行方たくし 今日も一人で 祈りを込めて

郡上踊りの人の輪に いないと知りつつ あなたの背中を 探してしまう

 祭囃子に合わせて踊る あなた恋しい宮ケ瀬橋よ

 次の夏にはあなたと並び 相の下駄鳴らし踊れますか

 桐の下駄なら相目取(あいめど)りのよに この世に一つだけあなたと私

 次の夏にはどうかあなたと 手を取り合いながら結ばれますように

続いては、CD音源から「八幡様のお百度」、お聴きください!

そして長良川国際会議場でのLive音源の「八幡様のお百度」、お聴きください!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「昭和の盆踊りの思い出!」。子どもの頃の盆踊りの季節がやってくると、近所のご隠居たちが俄然張り切りだし、片肌脱いだ捩じり鉢巻き姿で、盆踊りの櫓を組み立てる姿に見入っていたものです。

真昼間っからコップ酒を煽り、いつものしみったれたような感じは微塵も感じさせず、鯔背な爺ちゃんに早変わりで、ビックリしたものです。

それも立派な祭り男なんでしょうねぇ。

踊りのセンスのからっきし無いぼくではありましたが、浴衣姿の母の後ろを付いて回りながら、炭坑節なんぞを見よう見真似で踊った、というかヘンテコな調子っぱずれな踊りを踊ったものでした。

子どもの頃の盆踊りは、踊りの途中に仮装大会やら、演芸大会なんぞもあり、隣のオッチャンのヘンテコな仮装姿に腹を抱えて笑ったものでした。

今年はコロナの影響で、そんな盆踊りも中止になるのでしょうか?

今回は、そんな皆様の「昭和の盆踊りの思い出!」をお聞かせください。

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