クイズ!2020.08.04「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回もこりゃあもう、ノーヒントでお答えいただきましょうか?

きっと麺の種類で、皆様悩まれてしまうかも?

小麦粉ではなく、アレですよ、アレ!

随分前にロケで出掛けた、あの国で自分用の土産に買った乾麺が、使いきれずにそのまま残っていたものを、食品ロス追放とばかりに、えいやーっと挑んで見ました。

さて、観察力の高い皆様のお答えや如何に!

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「天職一芸~あの日のPoem 172」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「大判焼親爺」。(平成十八年一月十日毎日新聞掲載)

母に貰ったお年玉 後生大事に腹巻へ           初売りに沸くアーケード 何を買おうか品定め       所詮子供のお年玉 どれも高嶺の花ばかり         手の出る物は焼き立ての 大判焼を家族分

名古屋市西区、大判焼の富久屋(ふくや)。店主の家田擴資(ひろし)さんを訪ねた。

「大判焼みたい、餡も皮も何処も一緒だて!違うのは、わしの腕一つ!」。家田さんは、鉄板に手を翳しながら笑った。

写真は参考

家田さんは、愛知県一宮市で撚糸を営む兼業農家の二男として、大正八(1919)年に誕生。

尋常高等小学校を上がると、名古屋へ出て洋服の製造に就いた。そして四年後、大阪の繊維卸問屋へ。「商売を覚えようと思ってな。営業したり裁断したり」。

元々あまり身体が丈夫な方ではなく、徴兵検査ではギリギリの丙種合格。

「これで兵隊行かんでもええぞって、喜んどった」。 しかし糠喜びも束の間。

昭和十九(1944)年に召集令状が届いた。

「俺んたぁが戦争行かされるんだで、負けるに決っとるわさ」。陸軍歩兵部隊に配属され、そのまま中国中支(現、華中)の激戦地へ。

「こりゃかんって弾の下潜って、逃げて歩いとったって」。

予言は見事的中し、やがて敗戦。

昭和二十一(1946)年に復員すると、再び大阪の繊維会社に勤務した。

それから四年後、三十一歳を迎えた家田さんは、西区那古野の円頓寺商店街に、小さな紳士服小売店「富久屋」を開業。

だがその五年後には、婦人服へと転じた。

「男なんかいっぺん売ったら、まあ買えへんでかんわさ」。

やがて戦後の復興期を経て、朝鮮特需へ。庶民の暮らし振りにも明るさが兆し始めた。

ようやく商売も軌道に乗り出し、昭和三十三(1958)に、知人の世話で貴代さんと結婚。

順風満帆と見えた新婚間もない夫婦の航路を、伊勢湾台風が遮った。「水に浸かった物なんて売れせんで、近所の人等に持ってってもらったり、被害の多かった南の方の方に分けたった」。 損害金額は百万円に上り、全てが借金として残された。

「まあこれからは、在庫持ったらかん。食うもんにしよっ」。家田さんは見よう見真似で、大判焼屋に転業。

「どやって作るかもわからんし、近所の十人が十人とも『こやってせえ』って口出すもんでかんわ」。 商店街の仲間達が、夫婦を支えた。

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翌年、長男が産声を上げ、続けざまに二人の男子も誕生。

貴代さんと二人で子供を背負い、大判焼にみたらし団子、それとたこ焼きを夢中で焼き続けた。

「昭和三十六~三十七(1961~62)年頃は、店開けようとやって来ると、ズラ~ッとお客が並んどるんだて。何かあったんかとビックリするほどだったて」。

しかし昭和三十九(1964)の東京五輪を境に、大判焼に群がった長蛇の列も、徐々に消え始めた。

「あの頃は各地から『大判焼の作り方、教えてくれ』って乞われたもんだけど」。

真丸な窪みが幾つも並ぶ鉄板は、水溶き粉を注ぎ込むと『チュッ』と小さな鳴き声を上げた。

やがてプクプクと気泡が現れ餡を抱(いだ)く。

「ひゃあ、孫を連れてくる客もおるでなあ。またそれがよう似とるんだて」。

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創業当時の大判焼は、一個五円。

庶民の小腹を満たし早四十六年。

今も親爺は鉄板を前に、大判焼を値千金の旨さに焼き上げる。

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7/28の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

~フィンガースナック3種盛り!~『ペンネと蕎麦のアラビアータ』『海老とサーモンとアボカドのバルサミコマリネ』『結局思い出せない何か(トホホ)』

ペンネのアラビアータとざる蕎麦の残り物が冷蔵庫に鎮座しておりましたので、ペンネの残り物にアラビアータソースを追加し、ざる蕎麦の残り物を一緒に炒め、レンジで温めたタルトの生地に乗せたものが、トマト色のものです。

そしてちょっと黒ずんだ緑色の物は、ボイルして冷水で冷やした海老と、サーモンの賽の目切り、それにアボカドをバルサミコで和えたマリネです。しかしやっぱりバルサミコで和えると、残念な色合いになってしまったのが残念です。

同じように温めたタルト生地に乗せて見ました。

そして黒っぽくって納豆の糸のようにも見えるものは、・・・・・どれだけ必死になっても思い出せませんでした。でも間違いなく、納豆ではありません。一体全体なんだったんでしょうか?

ついに日々刻々と着実に老化が始まっているのでしょうねぇ。

タルトの生地はスーパーで見つけた出来合いの物で、何か工夫してみたいと買い置いてあったものです。

しかし!甘っちょろいタルトの生地なんかで、料理に合うのかとお思いになられるかもしれませんが、これまたどうして、なかなかドッコイなお味でしたよ!

普段料理に甘みをほとんど加えませんので、意外な隠し味と風味が楽しめ、けっこう白ワインとの相性もよかったですねぇ。

今回は、正解のないクイズとなってしまい、誠に申し訳ありませんでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 171」

今日の「天職人」は、三重県勢和村の「茶屋女将」。(平成十七年十二月二十七日毎日新聞掲載)

息急(いきせき)白む峠越え ぐずる妹なだめつつ     隣の町にお遣いへ 僅かな駄賃引替えに          峠の茶屋で一休み 泣いた烏も甘酒と           餅を片手にもう笑ろた 街道一のおきん茶屋

三重県勢和村の東外れで天保三(1832)年から続く、峠の頂にあるおきん茶屋に、四代目の永井幸夫さんを訪ねた。

バス停も「おきん茶屋」
昔の佇まい

「家は代々女子(おなご)主人やでな」と、幸夫さんは白衣姿で笑った。

江戸の末期、初代おきん婆さんは、街道を行き交う旅人を相手に、手製の蓬餅でもてなした。

誰が名付けたか、いつしか「おきん餅」と呼ばれ、街道一の名物として今に受け継がれる。

幸夫さんは昭和四(1929)年、七人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出た翌年、終戦を迎えた。「物資もあらせんし、百姓したり、さつまいも茹(う)でて売ったり」。

伝統のおきん餅も、戦中戦後の統制が解けるまでは、代用品を利用し細々と製造が続けられた。

昭和三十二(1957)年、従姉妹のたけさんを嫁に得た。

「父同士が兄弟やってさ、嫌々貰(もう)てな」。 幸夫さんが照れ笑い。

「今はそう言うてますがな、それは私の方でしたんさ。『電気も来とらんような所(とこ)、行きとない』言(ゆ)うて。あんな当時、十km四方に家もたったの四軒。そりゃあ寂しい所(とこ)やったんさ」。四代目女将のたけさんは、暮れ行く峠の街道を見つめた。

その後、三女一男が誕生。「電気も点かん暗がりやったで。他にやることあらへんしなぁ」。幸雄さんがまたしても照れ笑い。

昭和三十八(1926)年に念願の電気が通電し、翌年には国道四十二号線が開通。

「馬車や自転車、牛の姿が消え、土埃を上げてトラックがやって来るようんなって。駐車場がトラックの物置みたいやったんさ」。

その頃から本格的におきん餅が復刻し、昭和四十〇(1965)年代に入ると、土産物として評判を博した。

「那智勝浦へ向かう観光バスが、数珠繋ぎになるほどで、どんどん売れそめて。バスまで運んでっては、売りよったんさ」。多い日は、一日千箱が飛ぶように売れた。

江戸末期の最初のおきん餅は、『しらいと』と呼ばれた。

米粉を練って蓬を入れ、餡をつけてまぶしたもの。

それが三代目のちよ婆さんの代で『さわ餅』と呼ぶ四角いものへ。

そして現在では、大福餅の形に。

「昔から家のおきん餅は、ちょっと他所より高(たこ)てな。他所が十円なら、家は三十円ってな調子で」。それでも取材中、引っ切り無しに客が訪れる。

「今ではブラジルやアメリカへ送ったり。海外の家族に送られる方もおいでんなって」。 五代目を継ぐ良浩さんが、言葉を添えた。

良浩さんは、大阪の料亭で六年の修業を積み、幸夫さんの大病を機に家業を継いだ。

こちらが現在の佇まい

跡取りも決って円満ですねと水を向けると「それがなぁ、まだ一つ足りませんのやさ。私の跡目、五代目おきん婆さんとなる、嫁の来てがないもんやで」。

四代目おきん婆さんこと、たけ婆さんは、自慢の息子を案じながらも、『何とかなるやろ』とでも言わんばかりに、屈託無く笑った。

釣瓶落しの夕闇が迫る。

峠の茶屋から暖かな明りと、飾らぬ親子の笑い声がこぼれ来たる。

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「天職一芸~あの日のPoem 170」

今日の「天職人」は、岐阜県本巣市の「真桑瓜(まくわうり)農婦」。(平成十七年十二月二十日毎日新聞掲載)

広間彩る盆提灯 回る影絵の走馬灯            母の好物真桑瓜 供えて燈す松明(たいまつ)を      御下り子らは待ち切れず 早く早くと急かしたて      妻は包丁持ち来たる 年に一度の真桑瓜

岐阜県本巣市上真桑で代々真桑瓜を作り続ける農家。二十代当主の小川与司彦さんと、妻の満佐子さんを訪ねた。

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「ちょっと大袈裟ですが、江戸時代に街道を行き来した旅人たちの間で『真桑瓜の放つ涼やかな甘い香りが、中仙道の美江寺宿まで届いた』と言われたらしい」。与司彦さんが、郷土をこよなく愛する学者のように、穏かな口調で語り出した。「でも作り手は、代々女系やで」。茶を入れる傍らの妻を見つめた。

満佐子さんは昭和二十一(1946)年、隣の大野町で加納家の長女として誕生。

高校を上がると岐阜市の会社に就職し、事務員を務めた。

三年後、二十一歳の若さで小川家に嫁入り。「この座敷の、丁度そこに座って三々九度して。巫女の代わりが義姉の幼子で、主人の従兄弟が高砂の謡(うたい)をやってくれたんやて」。

豪農旧家の祝言は、昼夜の二回戦。昼は親類、夜はご近所衆が集まり、飲めや歌えのお目出度三昧。やがて二男一女を授かり、四世代同居の暮らしが始まった。

真桑瓜の栽培は、毎年五月末から六月初旬の種蒔きから。双葉から本葉へと五~六枚の芽が出たところで芯を摘み取り、親蔓から実を成らせる孫蔓へと枝分け。畳八畳程の畑に三株が目安。七月下旬頃になると黄色い花を付け、それから二週間程で長さ十五㌢、太さ十二㌢程に生長。

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黄色に黄緑色の縦縞模様、俵型した真桑瓜は、まるで頃合を知ってか知らずか、蔓から首がポンッと落ち、大地に実を横たえる。

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「落ち瓜系やで。それを拾って収穫するだけ」。何とも手間要らずな潔さ。

切り溜箱と呼ばれる木箱五段に納められ、ひと夏約百個を収穫する。

「二~三日置いて箱の蓋を開けると、何とも甘い香りが部屋中に立ち込めるんやて」。

嫁いで以来、この道三十八年の満佐子さんは、香りを思い出すかのように眼を閉じた。

「お婆ちゃんがよう言うとったんやて。『大きな花柄で、お尻もしっかりした俵型がいい種を残す』って。皮を剥いた時、果肉が黄緑色しとるのが、美味しい瓜の種を取る秘訣なんやて」。

小川家の女たちは、先祖が長い年月をかけ改良に改良を重ねた、真桑瓜原種の種子を守り続ける。

「真桑の土地の気候と風土が、この瓜作りに適しとったんやて」。

夫は郷土史を広げた。「真桑瓜の名で文献に初めて登場するのは、織田信長の時代の頃」。

以来、真桑瓜は、真夏に涼を呼ぶ水物の王として、時の権力者たちの元へと献上され続けた。

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「昔は、他に甘い果物が少なかったんやて。今は糖度の高い果物が多く出回とるもんやで、真桑瓜も甘く感じられんようになったんやろな」。妻が広げた今年の種を見詰め、夫はそうつぶやいた。

「でもこの自然の甘さが本物。昔ながらの真桑瓜の甘さなんやで」。妻は愛(いとお)しむように種を掌に載せた。

米粒よりもわずかに小さな種。真桑の女たちは、天然の甘さを宿す種を、子々孫々へと守り伝えて行くことだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 169」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「革長靴(かわちょうか)職人」。(平成十七年十二月十三日毎日新聞掲載)

枯葉舞い散る林抜け 愛馬を駆って丘を越え        長靴の先で右左 胴に伝えて風を切る           風に追い着き追い越され 鬣靡(たてがみなび)く夕映えに 星降るまでに帰ろうか 長靴の踵胴に入れ

名古屋市中区の堤乗馬靴店、三代目の革長靴職人、堤昭夫さんを訪ねた。

「何でもっと若い頃、馬に乗らなんだろう」。 昭夫さんがボソッと呟いた。

祖父が明治四十(1907)年に創業。「昔は陸軍将校の長靴と、乗馬専門だわ」。

昭夫さんは昭和二(1927)年に、この家の三男として誕生。

旧制中学を卒業すると、父の下で修業を始めた。 「もうあの頃は、長靴も少なかったでねぇ」。

日毎敗戦色が深まり、乗馬を愉しむような悠長な時代ではなくなっていた。

「それでも終戦後は、駐留軍の連中が、ライディング・ブーツを求めてやって来たでね」。

とは言え、敗戦国の民にとっては、誰もが食うだけで精一杯。乗馬に勤(いそし)しむ事など、よほどの者にしか許されぬ。「苦難の時代は、昭和の三十(1955)年頃まで続いたねぇ」。

戦後の復興期から高度成長期へ、僅かながら明るさが兆し始めた。

昭和三十五(1960)年、長野県から親類の紹介で、妻の佐知子さんを妻に迎え、三人の息子を授かった。「じゃあ、跡取りの心配は無用ですね」と問えば、「やるだか、やらんだかわからん」と。昭夫さんは、少し寂し気に顔を曇らせた。

堤家伝来の長靴は、左右の足のサイズを採寸し、一つ一つ仕上げるオーダーメイド。

まず注文主が広げた紙の上に裸足を乗せ、外周を鉛筆でなぞる。次に甲高、甲幅、足道、踵と踵の曲がり首の高さ。さらに立った状態で、脹脛(ふくらはぎ)の周囲と踵からの高さ、それに膝骨の下の周囲を、左右それぞれに採寸。

「みんな右左で違う。甲の高さがピッタリ合わんと、踵が浮いて馬に乗り難いんだわ」。

次に新聞紙で型紙を作り、実寸より細めに革を裁断し、筒の部分と甲革を縫製。

「木型を二本入れて、真ん中に楔(くさび)を打ち込んで、筒の部分の革を伸ばすんだわね」。

水で湿らせた革は、天日で乾燥。仕上げは、中底と甲革とウェルト(足の外周を巻く細い革)を縫い上げ、さらにウェルトと靴底を縫い合わす。このスタイルは、グッドイヤーウェルド式。

松脂(まつやに)を十分に吸った太い丈夫な糸を使い、強力な専用ミシンで機械縫いする手法だ。

丸二日が費やされ、百年の歴史に裏打ちされた革長靴は、黒く鈍い光を放つ。

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「鐙(あぶみ)を踏む、親指の付け根で馬にサインを送るんだでね。足のサイズにピッタリしとると、馬への伝達も良くて乗り易い。ここ二~三年かなあ。やっと納得いく靴が仕上げられるようになったのは」。

革長靴職人は、全国でも六~七人。

「お~いっ」。昭夫さんが奥に声を掛けた。

奥からエプロン姿の老職人が現れ、靴墨をブラシで伸ばし始めた。「錦さんって言う、同い年の職人さん。もう一緒に底作りやって五十五年だわ」。昭夫さんが悪戯っぽく笑った。錦さんは、我関せずを決め込む。

竹馬の友は、半世紀以上に渡り、いつしか本物の馬の革長靴を作り続ける、職人仲間となった。

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「天職一芸~あの日のPoem 168」

今日の「天職人」は、三重県津市の「茄子団扇(なすびうちわ)職人」。(平成十七年十二月六日毎日新聞掲載)

湯浴みの後の酔い覚まし 盥の西瓜プカプカリ       蚊取り線香燻(くゆ)らせて 茄子団扇で戯(たわむ)れる 濡れた黒髪束ね結い 浴衣姿で横座り           君が団扇を煽(あお)るたび 仄かにシャボン薫り立つ

三重県津市の賀来商店。二代目の茄子団扇職人、賀来智子さんを訪ねた。

「この前も主人と二人で、扇面(せんめん)に貼る伊勢和紙を探しに行ったり、柄の先に取り付ける伊賀の組紐を見に出かけたり」。智子さんは、いきなり惚気(のろけ)出した。

智子さんは昭和三十六(1961)年に名古屋で誕生。

短大を出ると、デザイン関係の仕事に就いた。

二十七歳を迎えた年、津市出身の母の知り合いから、見合い話が持ち込まれた。そのお相手が、夫の隆さん。

見合いを終えた帰り際、仲介人が智子さんに言った。「今度貰いにいくから。それと式は○月○日ね。もう私、この日しか空いてないから」。有無を言わさぬ強引さに両家は押し切られ、平成二(1990)年に賀来家へと嫁入り。

賀来商店は明治二十四(1891)年の創業。空襲で工場が焼けるまでは、マッチ箱の経木製造を専門とした。

その後は時代の変遷に業態を転じ、広告宣伝用品の卸へと。

「父が六十歳を過ぎた頃やったろか。商工会で、津の土産物は、菓子の他に何かないやろかとなってさ。江戸時代から続いとったのに、昭和四十(1965)年頃に途絶えた茄子団扇を、復元しようってことんなって。団扇メーカーに頼んでも、手間やで相手にしてくれやん。そんならしゃあないって、自分が作ることに」。 隆さんは、壁に掛けられた父の遺作を見やった。

とは言え全くの素人。茄子団扇を剥(は)いでは分解し、構造を調べる日々が続いた。

「材料探して何度も京都に出かけて。今思たらそれも父の愉しみやったんやろかなあ」。

見よう見まねで始めた団扇作りも、足掛け十年を数えた。その二年前には智子さんが嫁ぎ、長女も誕生。家業を隆さんに託し、やっとこれで団扇作りに没頭出きると思った半年後、癌を発病。

五年間で六回に及ぶ手術を繰り返し、生死の狭間を彷徨い続けた。

「亡くなる三ヶ月前に、義父が団扇作りの手解きを始めて」。完全に引き継げないまま、先代は平成九(1997)年に他界。茄子団扇もこれで終わったと、誰もが感じた。

「たまに電話があったんです。『茄子団扇ありますか?』って。『ええ…まあ・・・』と。慌てて義父の遺した作り掛けを仕上げたほど。二年程は騙し騙しでした」。

茄子団扇の特徴は、扇面に柄を挿し込む形状のため、炭を熾(おこ)す激しい煽ぎ方には不向き。

優雅に上品に、ゆっくりと煽がねばならない。

作業はまず、杉の柄に鎌穴を開け焼き目を入れる。鎌と呼ぶ太目の竹籤(ひご)の両端を削り、蒸気を当て半円状に。続いて扇面を模(かたど)る極細の竹骨を均等に広げ、付け根を要紙(かなめし)で補強。

次に四十五~四十七本の竹骨を、木綿糸で編み込みながら糸掛け。そして扇面に伊勢和紙を貼って漆を塗り、周りに飛び出した骨を截(た)ち、周囲に縁紙を貼って完了。

気も遠退く細かな作業の全てを、智子さんただ独りでこなす。

「精々、年に三十~四十本かなあ」。智子さんが夫を見つめた。

「休みに夫婦で紙探しに行ったり。結構愉しいもんやさ」。

十七世紀初頭に溯る茄子団扇の歴史。

消えかけた伝統の灯は、秋茄子を食わすなとまで惜しまれた、か細い嫁の手と、それを支える夫の優しさで守り抜かれていた。

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「天職一芸~あの日のPoem 167」

今日の「天職人」は、岐阜県本巣市の「菊花石(きっかせき)研磨師」。(平成十七年十一月二十九日毎日新聞掲載)

川面に浮かぶ浮眺め ついに入日も釣瓶落ち        父の溜め息空の魚篭(びく) 母の小言が目に浮かぶ    茜陽浴びて光る石 せめて母への手土産と         家に帰って大騒ぎ 天下の輝石菊花石

岐阜県本巣市神海(こうみ)、天然記念物菊花石の研磨師、根尾谷観石園の二代目、小沢睦(ちから)さんを訪ねた。

写真は参考

たかが石ころ。されど、ためつすがめつ石を眺め、数億年と言う途方も無い時代に想いを馳せ、何とも愉しそうに語らう親子三代と出逢ったのは初めてのことだ。

石の持論を説く傍らで、妻が要所を補う。すかさず店の奥から、長男が新説を交えた。

「まあ諸説いろいろなんやて」。睦さんが煙に巻く。

「そんな何億年も前の事、誰も見たわけやないし」。妻が助け舟。

睦さんは昭和二十(1945)年九月、満州で印刷会社を営んだ根尾村出身の父の元、五人兄弟の三男として誕生。しかし夢の国満州は、第二次世界大戦の幕引きで幻と消えた。

昭和二十二(1947)年、一家は命からがら実家へと引揚げ、それから十五年の年月が流れた。

「空前の石ブームやったんやて」。

炭焼きに出掛けた祖父母の、斧を研ぐ砥石が石に当り、割れて中から色の付いた部分が現れた。

それを砥石で磨き、台座に載せた五色石は飛ぶような売れ行きに。

「川沿いに十軒ほどが軒を並べ、五色石を売っとったんやで」と妻。

「ぼくが高校の頃は、原石その物で売れたんやで」とは長男。

睦さんは、大学を出ると印刷会社に職を得た。「田舎の事やで、大学出とると、皆がホーホー言うんやて」。将来の幹部と期待されながら、半年で退職。

「サラリーマンが向いとらんかったんやて。土日で親父の手伝いしとった方が、面白いし金になるし」。 睦さんは退職金代わりに、職場から一年先輩の恵美子さんを口説き落とした。

「当時の流行語『家付きカー付き、ババア無し』の、『ババア無し』が私は嫌やったでね。ここは両親も同居やったし。初めて家に来た時、義父が『笑う門には福来ると言う様に、一生笑っとる自信があったら嫁に来い』って」。妻は思い出し笑い。二人の男子と娘を授かった。

「ブームで終わると先細りになるで、高級品で手に入りにくい菊花石に眼を付けたんやて。採掘の許可を得て」。掘り出された菊花石の母岩を仕入れ、永年培った眼で見据え、花の在り処を人工ダイヤのグラインダーで探りながら磨き込む。

「この石に花が付きそうや」と、勘だけが頼り。

菊花石は方解石の結晶とも言われる。母岩は玄武岩が多いとか。花の色は薄墨色から、磨き込むほど白さを増す。

「でも磨き過ぎると、花が萎む。石の硬さも全部違うし、花の咲き加減の見切りが肝心。どれも溶岩の悪戯やでね」。

写真は参考

この土地は、神の海と書いて、神海。数億年の昔、海底火山が隆起したとも。

地球が大地に咲かせた石の花。

研磨師の眼力は、己の勘だけを頼りに、数億年彼方で自然が織り成した美を、現(うつつ)の世に深い眠りから目覚めさせる。

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「天職一芸~あの日のPoem 166」

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の「雲母鈴(きららすず)職人」。(平成十七年十一月二十二日毎日新聞掲載)

父に引かれて初詣 晴れ着でめかしイソイソと       お参り後の楽しみは 御神籤破魔矢雲母鈴         父に引かれて帰り道 カランコロンと鈴が鳴る       荒れた大きな父の手の 温もり今も忘られぬ

愛知県西尾市で雲母鈴を作り続ける、松田民芸店八ッ面焼(やつおもてやき)窯元の二代目松田克己さんを訪ねた。

窓際のトランジスタラジオから、歪んだ声が上がる。

長閑な秋の陽が差し込み、背を丸めた寡黙な男は、掌の土を捏ね続けた。

「まあ今は、昔の五分の一。一日十個ほどだわ」。克己さんは、窓を背に振り向いた。

克己さんは昭和十五(1940)年、農家の三男として誕生。

十歳の年、折からの民芸品ブームに乗り、父が途絶えていた「雲母鈴」の復活を図った。

克己さんは中学を上がると東京へ。

「貧乏だもんで、口減らしで東京へほかられて。丁稚奉公の最後の時代だったで」。酒屋での住込み生活が始まった。

昭和三十五(1960)年、所得倍増計画が叫ばれ、東京五輪を間近に控えた都心には、昼夜を問わず槌音が響き渡る。

「都内のどこを歩いとっても、鉄板だらけ。独立して店を持とうにも、土地が高騰してどうにもならんだぁ」。

二十一歳の終わりに酒屋を辞し、しばらく土地を探し歩き、やっとのことで小さな物件を見つけた。

「家に帰って相談したら『そんな金あるわけない!』の一言で終(しま)いだわ」。

儚く夢は潰(つい)え、父の雲母鈴作りを手伝いながら免許を取得し、タクシー会社に入社。

「当時タクシーの給料は二~三万。非番に作る鈴が、月に四~五万儲かって。どっちが本業だかわからんかっただぁ」。

文字通り、所得倍増が叶えられた。

二年後には、職場で見初めた禮子さんを妻に迎え、三人の娘が誕生。

「手近にアレしかおらなんだで」。隣の部屋から妻が咳払い。

昭和四十(1965)年にはタクシーを降り、雲母鈴作りに専念。観光ブームに沸き、周辺各地の施設で土産物として好調な売れ行きが続いた。

「そんでもオイルショック以降さっぱりだて。知らんどったら何時の間にか、給料はサラリーマンの方が、上へ行っとっただぁ」。

八ッ面山の雲母は良質で、続日本紀によれば朝廷にも献上された逸品とか。

「今では白雲母(はくうんぼ)と呼ばれ貴重だけど、子供の頃は大きな塊の『千枚めくり』がゴロゴロあっただて」。

克己さんは大きな缶の中から、千枚めくりの塊を取り出した。

雲母鈴には、安城市で産出される瓦粘土の赤土が用いられる。

まず粘土を掌にすっぽり収まる大きさに丸め、親指で押し込んで茶碗型から壺型に形成。

次に鈴型に口をすぼめ、小さな丸い球を入れ、表面に細かく砕いた雲母を飾り、一昼夜窯で焼き上げれば直径八㎝ほどの雲母鈴が完成。

「日本一涼しい音がするらぁ」。

窯の温度が高く、鈴の肉が厚いほど、音色は高く美しさも際立つ。

カランコロン。

土鈴特有の鈍い音ではない。金属を感じさせる切れ味の良い余韻を残し、鈴の音が響く。

窓からの陽射しを浴び、鈴はキラキラと、高貴な光の衣(ころも)をまとった。

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「夏花火」

花火大会も盆踊りも無い夏は、正直初めてです。

幸いにも平和な世に生まれ、平和な世が当たり前だとついつい思い、改めて今更平和な世に感謝することも無いまま、この年までのらりくらりとやってこれた気がします。

少なくともぼくの両親は、バリバリの戦中派でしたから、その人生の前半は人が人を殺め合うという、戦争の渦中で過ごしたわけです。

だからきっと、ぼくなんかの何万倍も、平和な世の尊さを身をもって感じられたことでしょう。

ところがどうでしょう!

人が人を殺め合う戦争ではないものの、見たことも無く、肉眼でその姿を捉えることも出来ぬ、小さな小さな新型コロナウイルスが、突如として全人類に牙を向けてこようとは!

目に見えぬ敵に、どう立ち向かえばいいのか!

それと同時に、環境破壊がもたらす異常気象に伴う自然災害の猛威に、なすすべもなくうろたえるばかりです!

そんな一気にどっと押し寄せた社会不安に対し、人々の心は益々疑心暗鬼になるばかりで、人が人を思いやる心も薄れゆく一方なのではないでしょうか?

メディアが報じる新型コロナに対する若者たちの言動を耳にすると、「どうにでもなれ!」とでも言わんばかりな自暴自棄的な発言に、ただただ愕然とするばかりです。

これが21世紀を夢見た「明日」なのでしょうか?

少なくとも昭和半ばの貧しき時代に生まれたぼくなんぞは、もっと違う「明日」を見ていた気がします。

物質的な豊かさよりも、恙無く一日元気で生きていられる、そんな安寧こそが、最も大切でかけがえのない物だったのではないでしょうか?

コロナで失ってしまった、あの穏やかだった日々の営みが、堪らなく愛おしく思えるばかりです。

こうなったら一日も早く、コロナを制圧するというよりも、未知なるウイルスとの共存の道を探り出し、少しでも昔のようないつもの穏やかな日々が再び訪れてくれることを願うばかりです。

やっぱりこんな夏は、浴衣姿で夜空を焦がす花火を見上げながら、よく冷やしたキリン一番搾りをのんびりと煽りたいものです。

今年は線香花火なんぞを買って、迎え火と送り火の日にでも、ベランダでこじんまりと花火大会でもしようかなって思っています。

今夜は「夏花火」聴いてください!

「夏花火」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

盥に浮かぶ打ち上げ花火 スイカ冷やした夏の宵

髪を束ねた浴衣姿の 君のうなじがいとしくて

 夏よ二人の時間(とき)を止めて 今のまま君を閉じ込めたい

 輝き放ち一瞬(ひととき)で散る 花のように短い夏花火

縁に腰掛け団扇で君が 燻らす煙の蚊遣り豚

そんな仕草の一つ一つに ぼくの心は震え出すよ

 夏よこのまま時間を止めて 今のこの君を忘れたくない

 輝いただけ儚くも散る 人の世の定めと夏花火

 夏よこのまま時間を止めて 記憶に君を焼き付けたい

 輝き放ち一瞬で散る 花のように短い夏花火

続いては、長良川国際会議場大ホールでのLive音源から「夏花火」お聴きいただきましょう。前半はちょっとジャズっぽいアレンジです。

そしてCD収録分のオリジナル「夏花火」、どうぞお聴き比べください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「色褪せた昭和の花火の思い出!」。ぼくが子どもの頃は、一文菓子屋のトシくん家で、バラ売りの花火をお母ちゃんからせしめた50円か100円分、あれにしようかこれにしようか、それこそ1時間もかけて品定めしたものでした。

ぼくが好きだったのは、火を付ける時がメッチャ怖かったねずみ花火でしたねぇ。確かお父ちゃんに火を付けてもらってましたねぇ。

でもそれから2~3年もするとちょっと知恵がつき、花火を一緒にやる近所の友達と花火の買い出しに行き、互いの花火が被らないように、より多くの種類を手に入れようとしたものです。

今のような花火セットなんて、小学生の頃なんて無かったきがしますねぇ。

皆さんはどんな種類の花火がお好きでしたか?

今回は、そんな皆様の「色褪せた昭和の花火の思い出!」をお聞かせください。

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