クイズ!2020.08.11「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

さてさて、このセンスの欠片も無い盛り付けと、これまたセンスの無い写真で、どこまで皆様が答えを導き出せるものやら?

真ん中の緑色っぽいものは、冷凍して保存していた四角い物を、一先ずオーブンで焼いて、さらにバターソテーしたものです。まあ、完全な和風のモノです。

それと妙ちくりんな形をしたものは、アヒージョにした残り物です。

まあ、ヒントはこんなところでしょうか?

これ以上をヒントを申し上げると、観察眼の鋭い皆々様には、すっかり見破られそうですしね。

さて、観察力の高い皆様のお答えや如何に!

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「天職一芸~あの日のPoem 177」

今日の「天職人」は三重県多度町の「八壺豆(やつぼまめ)職人」。(平成十八年二月二十四日毎日新聞掲載)

一の鳥居へ続く坂 古い家並みの多度詣で         清めの池で身を禊(みそ)ぎ 浮き世の垢を削ぎ落とす   お多度の神のお告げなら 吉凶占筮(せんぜい)流鏑馬(やぶさめ)か                        春まだ遠い養老で 茶受け所望(しょもう)す八壺豆

三重県多度町の西大黒屋、十一代目夫人の蒔田(まいた)登美子さんを訪ねた。

「『八壺豆はなあ、女子の肌に触るように、そうっと優しい触らんならんぞ。何べんも何べんも、納得行くまで作っては捨てよ』って、寝たきりの主人の口癖やったんさ」。 登美子さんは、在りし日の夫の言葉を真似た。

創業は、徳川五代将軍綱吉の宝永年間(1704~1711)。

多度名物の八壺豆は、その昔八壺峡(現、多度峡)の辺(ほとり)で、老婆が倹(つま)しい郷土菓子として作ったのが始まり。

登美子さんは昭和十三(1938)年、桑名市の港町で三人姉妹の二女として誕生。

「十月三日生まれやもんで登美子やと」。

中学を上がると直ぐ、親類の料亭の下働きに上がった。

「元々商売が好きやって」。登美子さんの労を惜しまぬ働きぶりを目に留め、知り合いが蒔田家への縁談を薦めた。

「海の方で育ったもんやで、ここの嫁やったら、台風に遭わんでええしと思てなあ。せやけど最初にお婆ちゃんに言うたんさ。働くのは一向苦んならんけど、気性が男勝りやで、着物縫ったりとか家事は出来やんって。そしたらなあ『ミシン持って来んでええ』って言わしたんさ」。

昭和三十九(1964)年、故・敏晴さんの元へと嫁いだ。

「三日目には、もうお饅頭包みましたもん」。二年後に一人息子が誕生。

口の中でフワッと砕け、甘い黄粉が口中に広がる八壺豆は、厳選された大豆が命。

まずは特別な焙烙(ほうろく)で、丁寧に大豆を、次いで黄粉を炒る。

水に黒糖を溶かし、中白糖を入れ弱火で炊いて蜜の濃さを整える。

次に大豆に蜜を絡め黄粉をまぶす。この作業は、蜜の濃度を薄めながら、十五~十六回繰り返し続く。

そうしてやっと、小さな大豆が実を肥やし、直径二㎝ほどのふっくらとした名代の八壺豆が出来上がる。

来る日も来る日も参拝客を相手に、妻は子育ての傍ら桑名訛りに愛想を添え、夫の作った一日四升を越える八壺豆を売り捌(さば)いた。

いつしか昭和も、第四コーナーを廻り始めた昭和五十九(1984)年。一人息子が大学進学を迎えた。

「『多度に執着するな。しっかり勉強して都会へ出ろ』って、主人の決めやでな」。息子は関西へと旅立ち、静かな暮らしが始まった。

それから六年。平成二(1990)年に夫は脳出血で倒れ、その後も入退院を繰り返し、十年後に還らぬ人となった。

当然主が倒れてからは、登美子さんが豆作りも受け持った。

「最初の頃は、蜜の濃さがようわからんで。お客さんに『これ奥さんが作ったでしょう』って見透かされて。布団被って何度も泣いたもんやさ」。

ある日病の床で、悔しそうに夫がつぶやいた。

「頼むから、機械で作るんやったら、もう店閉めてくれ。店閉める時は、多度祭ん時に作るだけ作って、皆に感謝を込めてただでパーッと振舞ったるんやぞ」と。

遺言を守るか問うと、「私は女やで、主人のように豪気にはよう出来やん。だからせめてもの恩返しにと、消費税は貰(もう)とらんのやさ」。

ふらり立ち寄る、客との逢瀬。

八壺の豆が、縁(えにし)を運ぶ一期一会。

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「天職一芸~あの日のPoem 176」

今日の「天職人」は、岐阜県山岡町の「糸寒天職人」。(平成十八年二月七日毎日新聞掲載)

四方(よも)の山並み迫り来て 里に吹き込む空っ風    好いた女房と糸寒天 天筒(てんづつ)突けば日本晴れ   冬枯れ田んぼ葦(よしず)敷き 一面覆う糸寒天      春まだ遠き山岡は 雪も降らぬに干場(ほば)白む

岐阜県山岡町の山サ寒天、三代目・糸寒天職人の佐々木善朗さんを訪ねた。

冬枯れの水田に、ロジと呼ばれる木枠が整然と並ぶ、糸寒天を乾燥させる干場(ほば)。

山岡の盆地に、零下十℃を下回る空っ風が吹き抜け、絶品の寒天が身を絞る。

「寒天はえらいばっかで、儲からんでのう」。妻が入れた茶を一啜り。男は寒風に凍てた、赤ら顔を崩しながら笑った。

山岡町の糸寒天は、昭和十一(1936)年に祖父が三人の仲間と共に閑農期の副業として始めた。「爺さんたあは、この空冷(からび)えする気候風土が、寒天作りに最適やって知っとったんやろか」。

善朗さんは昭和三十二(1957)年、この家の二男として誕生。

名古屋の大学を出るとホテルに入社。夜景を見下ろす最上階のバーラウンジで、バーテンダーとしてシェーカーを振った。

「商売が好きやったでのう」。

しかしわずか一年後、父が腰を患い跡取問題が急浮上。「證券マンの兄は『俺は帰れんでお前継げ』って言うもんでのう」。

二十三歳の年に郷里へと戻った。その変わり身の潔さを訝(いぶか)ると、「これのせいかのう」と。善朗さんは照れ臭そうに、茶請けを運ぶ妻に顎を向けた。

大学四年の夏、善朗さんは地区のバレーボールで、里花(りか)さんを見初めた。

「小中と同じ学校やったけど、その頃は気にもしとれへんかったでのう」。何時の間にか大人びた里花さんに、心を奪われ昭和五十八(1983)年に結婚。三男に恵まれた。

「そりゃあもう、寒天作りには兵隊がいるもんでのう」。

が、親の思惑は丸外れ。

「それがどいつも役にたっとらん。そんだけ重労働なんやて」。

糸寒天の原料は、北緯三十六~三十七度線水域で、春から秋にかけ水揚げされる天草。

写真は参考

毎年二十~三十tを仕入れる。乾燥したままの天草から、塩分や貝殻を取り除くため、水槽に二昼夜浸して洗浄。

釜で半日煮上げ、濾袋(ろぶくろ)にくみ出して搾り出す。

それを凝固舟と呼ばれる箱に注ぎ入れ、丸一日かけて凝固させる。

次に固まったところを巨大な羊羹状に切り、ロジ台によしずを広げ心太(ところてん)を筒で突くように天筒で突き出す。

写真は参考

日も暮れ氷点下零℃を下回り始めると、よしずに広げた糸寒天の上から、氷を砕いて振りかけ、凍結と乾燥を二週間繰り返す。

気の遠くなる営みが繰り返され、完全に水分を蒸発させた天下一の糸寒天が、日本国中の製菓業者に引き取られる。

「天気がいい時で二週間だでのう。暮れの十二月は雪が多かったで、一ヶ月もかかったって」。

完膚無きまで水分を奪われた糸寒天は、ひとたび水に戻せば百倍の水分を蓄えるとか。

「寒天は優れもんだに。ご飯炊く時、糸寒天をパラパラっと入れたってみい。艶々でもっちりと炊き上がるって」。

忙しそうに立ち働く、愛妻の背中を見つめ目を細めた。

山岡の郷と空っ風。

青く高い空に鳶が輪を描く。

風が凪ぐ。

わずかに陽射しも強まった。

もう直ぐ春はやって来る。

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8/04の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「ビーフンのアラビアータ ~ Honey Babeのピカタ添え」

わが家の保存庫の奥に、台湾ロケの帰りに自分用に買い込んだビーフンの使い残しがございました。

およそ2年も前のもので、しかも使い残しだから、どんなものかと袋から取り出してみました。

ところがどっこい!

さすがは乾麺の保存食。どうーってこたぁありません。

ならばと、一捻りしてみたのがこの、「ビーフンのアラビアータ~ Honey Babe のピカタ添え」でした。

って、なぁ~んのこたぁない、アラビアータの使いかけと、Honey Babe のこれまた使いかけの、しゃぶしゃぶ用の腿肉があり、しかも郡上から送ってくださったミニトマトもたっくさんありましたので、ひとまとめにしたまでの話です。

まずはビーフンを大きめのボールに水を張って、そこに投入しておきます。

次に小鍋にアラビアータの残り物と、白ワインを入れ弱火にかけ、鶏ガラスープの素と塩コショウで味を調え、最後にミニトマトを加えて一煮立ちさせておきます。

続いてフライパンにたっぷりとオリーブオイルをひき、溶き卵を潜らせた Honey Babe の薄切り腿肉を焼き上げます。

Honey Babeは↓コチラ

https://hayashifarm.jp/info/1105784

そしてオリーブオイルをたっぷりとひいたフライパンに、水に浸しておいたビーフンを投入し、コップ半分ほどの水を入れ、その水気が蒸発するまで炒め混ぜます。

フライパンの水気が無くなったら、小鍋のアラビアータソースを投入し、ビーフンに絡めて炒めたら皿に盛り付けます。

後はその上に、 Honey Babe のピカタを添えれば完了。

どなたか観察眼の鋭い方のお答えにもありましたが、ピカタで使った溶き卵の残りを、スクランブルエッグ状にして、皿の傍らに添えて見ました。これもすっかり見抜かれてしまっていたことになりますねぇ。

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「天職一芸~あの日のPoem 175」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「弾き語り小屋主」。(平成十八年一月三十一日毎日新聞掲載)

小さな椅子に腰掛けて ギター爪弾(つまび)き物語る   憂いを秘めた歌声に グラスの氷溶け出した        君と初めて聴いたのも 甘い囁(ささや)きラブソング   何故こんなにも切ないの 隣に君がいないから

愛知県岡崎市のライブハウス八曜舎(はちようしゃ)、小屋主の天野正人さんを訪ねた。

ガタンゴトーン ガタンゴトーン。

名鉄東岡崎駅にほど近いガード沿い。赤いペンキも剥がれかけた、木製のドアを開ける。薄暗い店内の照明。徐々に目が馴染むにつれ、心は時代をさかのぼる。

「日本のフォークやブルースのシンガーは、ほとんどここで唄ってっとるでね。友部正人とか高田渡とか、中川イサトに斎藤哲男。あんたら、知っとる?じゃあ、歌謡曲フォークってわかる?ああいう、ベストテンとかのテレビに出るような『売れセン』とは違うよ。ここで弾き語る連中は、誰~れも売れとれせん。皆自分の生き方そのものを、自分の言葉で、ず~っと唄い続けとるだけだもん。だから凄いんだて」。正人さんは、黄ばんだLP版のレコードに手を伸ばした。

正人さんは昭和二十八(1953)年、市内で不動産業を営む家の長男として誕生。

高校を上がると、喫茶学校へ通いながら開業を夢見た。

「学生の頃はGS(グループサウンズ)のバンドやっとった。でもラジオの深夜放送から、アメリカのフォークソングが流れてきて。ボブディランとかジョーンバエズ。いっぺんに虜になっちゃった」。

二十二歳になった昭和五十(1975)年、小さな八曜舎を開店。

「父に『家賃が安くて、一人で切り盛りできる店がいい』って言われて。従業員使っとっては、やってけんで」。開店当時を知るであろう、指で回すダイヤル式のピンクの公衆電話は、いつしか煙草の脂(やに)に染まった。

「まだあの頃は、ライブハウスも少なかったでねぇ」。

八曜舎最初のライブは、いとうたかお。

「最初は知り合いなんて、何処にもおれせんもん。直接事務所に電話して呼んだわさ」。

以来三十年、毎週土・日の週末には、西洋の吟遊詩人のように全国各地を唄い歩くフォークシンガーが、東海道を上り下る途中で立ち寄った。

言の葉を紡ぎ合わせ、己(おの)が節回しに乗せ、人生の喜怒哀楽を謳(うた)い上げる。

店内の壁一面には、夥(おびただ)しい数のサイン色紙。ここを訪れた現代の吟遊詩人たちの足跡だ。

「皆、伝説の八曜舎で唄ったことを、誇りにしてくれとるんだわ」。

開店から十年の歳月が流れた。

天野さんは、音楽仲間の一人と恋におちた。「音楽の話だけ無責任にしとるならいいだけど、一緒に暮らすとねぇ。四年で離婚したんだ」。

フォークに夢中な万年青年の顔が、心なしか歪んだ。

急な階段を二階へと上がる。壁をぶち抜いただけの、十二畳ほどの部屋。まるで三十年前の、学生アパートの一室よう。

突き当たりの窓を背に、物悲しげなマイクスタンドが、週末を心待ちにする。

それでも最高六十人を、一度に収容したとか。

「売れないから三十年経った今でも、彼らは現役のまんまで唄ってられるんだって。だからぼくだって、死ぬまで続けなきゃ」。

一週間が七日ではなくもう一日あったら。

果たしてぼくは、何をして過ごすのだろうか。

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「こんなに大きく!そしてついに南蛮の花がぁぁぁ!」

アゲハ三兄妹の幼虫が食べた、山椒の葉の一連の騒動の陰にすっかり忘れ去られてしまっていた、南蛮の葉ですが、ところがどっこい、見事に大きく成長し続け、白い小さな花を付けてくれましたぁ!

説明書にあったように、いよいよ肥料を与えてやらねばなりません!

でも小さな蕾がたくさん次から次に出来て、そのタイミングをどのように見計らうか、思案しているところです!

白くって実に可愛らしいですねぇ。

南蛮=唐辛子が実ったら、郡上の「なぁ~んちゃって葉南蛮」でも作ってみようかなって思っているところです!

愉しみ愉しみ!

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「あの名曲の学校がぁ!!!」

「♪めだかの学校は 川の中 そっとのぞいて みてごらん そっとのぞいて みてごらん みんなで おゆうぎ しているよ♪」

覚えていますか?この名曲!

つい先日、所用で岡崎市の外れの町を歩いていると、なんと住宅地の一角でホンモノの「メダカの学校」を見つけちゃったんです!

でもどう見ても民家のようですが・・・。

塀にはメダカを撮影した写真と、生態についてキャプションが掲示されています。

折からの暑さもあり、ましてや住宅地の中ですから、不審者と思われても適わないと、急ぎ足で眺めただけでしたが、もっとゆっくりと観察したいほどでした。

帰ってからネットで検索すると、この「メダカの学校」ってぇのは、結構全国各地にもあるようでした。

バスを待つ間の、束の間の町角探訪でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 174」

今日の「天職人」は、三重県木曽崎町の「山車宮大工」。(平成十八年一月二十四日毎日新聞掲載)

田植えの前の春祭り 山車蔵開き飾り付け         幾百年の昔から 村を見守る破風(はふ)の反り      修繕終えた宮大工 山車の甍(いらか)を仰ぎ見た     咥え煙草で腕を組み したり顔して満足気

三重県木曽岬町の山車を手掛ける宮大工、竹内建設二代目の竹内源一さんを訪ねた。

「こんなん設計図も組立図もありませんさ。みんなここん中に仕舞(しも)たるで」。 源一さんは、毬栗頭を指先で小突いた。

源一さんは昭和六(1931)年、宮大工の父の元で四人兄弟の長男として誕生。やがて尋常高等小学校へと進んだ。

軍事色が日毎深まる昭和十八(1943)年、父は海軍軍属として徴兵され、幼い妹達を遺し南方方面へと出征。

しかし終戦を目の前にしながら、昭和二十(1945)年一月四十一歳の若さで南方沖に散った。

終戦の翌年十五歳になった源一さんは、父方の本家でやはり宮大工であった叔父の元で修業に就いた。

「普通の大工で五年、宮大工やとさらに三年は修業せんと」。

先輩職人の使い走りから、道具を研いだり鋸の目立てや手入れに明け暮れた。

一角(ひとかど)の修業を積み、二十二歳の若さで棟梁へ。

「最初っからは、そんな大仕事なんてあらせんわさ。みんな空襲で家焼かれてもうて、まずは住む所(とこ)が先やったでな」。

誰もが食うが先の時代を経て、次に住みかを確保し、衣を求めた。

「せやでみんなが落ち着いてからやさ。神社仏閣の再建は」。

昭和三十(1955)年、四日市出身の敏子さんを仕事先で見初めて求婚。

「四日市で立派な御殿の解体しとったんさ。そこへ日曜毎に花嫁修業兼ねて手伝(てった)いに来とったもんで」。しばらく後、長女が誕生。

だが昭和三十四(1959)年九月、未曾有の被害をもたらした伊勢湾台風が直撃。

「娘引っ担いで、そりゃあもう必死で逃げましたんさ。家はどうにか建ってましたが、畳から箪笥までみな流されてもうて」。

翌年には長男も誕生し、水害復興の特需に追われた。

その後は、驚異的な成長を続けた時代の波に乗り、百棟以上もの神社仏閣を手掛け、宮大工の本領を発揮。

「十年ほど前からやろか。山車の修理が持ち込まれるようになったんわ」。

写真は参考

氏神様のお社の修復を終え、やっと奉納する祭礼へと豊かさが巡った。

「先ずは土台から順に全部一旦ばらして、折れたり割れたりして、朽ちとる部材を取り替えるんさ」。

桑名地方の石取祭に見られる三輪の土台から、登り高蘭(こうらん)、台座、台輪、柱、唐破風、欄間へと。

塗師(ぬし)、彫金師、箔押(はくおし)、木彫師など、十種類以上の熟練職人が、宮大工の采配に技を揮う。

「まあざっと五十種類は、細工の仕事(しぐち)があるでな」。

約半年の修繕作業を経て、頭の中の組立図を基に細工組が完了する。

山車に平成の世の職人技が注ぎ込まれ、新たな息吹を宿す。

写真は参考

「屋根裏の見えやん所に、建立時の年月と、棟梁の名が墨書されとるんだわ。天保何年とかって」。

屋根裏にひっそり認(したた)められる修復の足跡。

棟梁源一の銘が次に明かされるのは、何時の世だろう。

「まともな指は、もうありませんわ」。昭和の宮大工は、両手を広げた。

皺に紛れた無数の傷跡が、棟上(むねあげ)の数を刻む。

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「天職一芸~あの日のPoem 173」

今日の「天職人」は、岐阜市大宝町の「有平糖(あるへいとう)引き飴職人」。(平成十八年一月十七日毎日新聞掲載)

風邪引きさんのお見舞いと 隣の席のマアくんが      ランドセルから取り出した 丸めた答案藁半紙       中を開けば有平糖 キラキラ光り夢のよう         一つ手に取るその度に 赤いインクのバツ印

岐阜市大宝町の柴田飴本舗、二代目引き飴職人の柴田忠夫さんを訪ねた。

「この透明感を出すのんが、引き飴職人の腕の見せ所なんやて。もたもたしとると、直ぐに糖化して久作(きゅうすけ/半端物の意)ばっかになってまうで」。

柴田飴本舗は昭和六(1931)年に、初代が修業した名古屋市昭和区で創業。

その二年後、忠夫さんは産声を上げた。

真珠湾攻撃以降、戦局が悪化。食料統制で物資も不足し、一家は故郷の岐阜市へと引揚げた。

「戦後も各務原の飛行場を横切って、闇で芋飴の材料を仕入れに行くんやて。砂糖なんて手に入らんで、サツマイモの黒色した絞り汁を」。

忠夫さんは新制中学を出た昭和二十三(1948)年、名古屋市昭和区の飴屋へ住込み修業に。

わずか一年足らずの修業もそこそこに、家へ戻って父と飴を引いた。「当時、穂積の柳行李(やなぎごうり)作りが盛んやったもんで、柳の小枝を貰ってきては、そいつを串にして『串飴』を作ったんやて。砂糖も不足して十分な水飴も出来せんで、きな粉混ぜたような飴を。でも柄には、色取り取りの美濃和紙を飾りに巻いて。よう売れたわ。食べるもんもない時代やったでなあ。飴作って問屋へ持ってくと、小売屋が待ち構えとって、直ぐに担いでくんやで」。

昭和三十三(1958)年、秋田県出身の千代さんを妻に迎え、四人の子を生した。

「長男は生後直ぐに亡くなって、残った三人兄弟のぼくは三男です」。三代目を継ぐ幸芳さんが、両親の傍らに腰掛けた。

幸芳さんは、名古屋の専門学校を卒業し、デザイン会社に勤務。

二男の病死を機に、十年前家業へと身を転じた。

「依頼を請負ってデザインすると、自分の意思とは裏腹に、どんなに自信がある作品でも、ボツになることもあるでしょ。丁度そんなことに矛盾を感じてたんです。だったら飴屋で、自分が作る商品を自分でデザインして、世に出してやろうって。妻も同じデザイナーでしたから、二人でそう話し合って」。

妻との二人三脚で産み出したその代表作が、「信長有平糖」。語源は、ポルトガル語のalfeloa=アルフェロア(砂糖菓子の意)。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、織田信長に献上したのが始まりとか。

「飴屋が作る有平糖と、信長が食べたであろう有平糖とは、砂糖の比率が違うんです」。 普通の飴は、砂糖と水飴が一対一。ところが有平糖は、砂糖七~八割に水飴が三~二割。砂糖と水飴を水で溶かし、百五十℃の高温で二十分ほど煮詰める。

それを冷却板に流し、香料で味付けして天然色素で色付け。

伝来当時そのままの素朴な風合いの純糖、そして空気を含ませるように何度も引き飴したハッカ、それにこくのある黒糖の三種類。

直径一㎝、長さ二㎝ほどの円柱状に切り落せば、南蛮渡来の有平糖が、四百年の深い眠りから今目覚める。

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「Marionette」

マリオネットって、なぜかもの悲しげだとは思われませんか?

それは紐で手枷足枷を強いられ、ただ人間の思いのままに、操られているからだけでしょうか?

マリオネツトは、童話や寓話の世界とは異なり、意思も感情も言葉すら持ち合わせていません。

だからマリオネツトを操る人間の意志だけで、マリオネットはぎこちない動きで、人間の姿態を演ずるしかないのです。

でもマリオネットの動きを見ている観客の目には、人になり切れないぎこちないマリオネットの動きが、時にはどこか可笑しく映ったり、はたまた物憂げに映るものなのではないでしょうか?

しかしよくよく考えて見れば、マリオネットは紐で操られますが、マリオネットとは違い自分の意思も感情も、そして自らの言葉を発することだって出来るぼくらだって、目に見えぬ何者かに操られている事があるように思える時があります。

それは複雑に絡み合う人間関係だったり、会社や社会の上下関係であったり、もちろん両親であったりもするでしょうし、或いは恋人や夫婦の相方だったり、子どもたちだったりと。

ともかくこの世においては、「袖すり合うも多生の縁」とやらで、神や仏や身の回りの人間関係に操られ、苦悶しながらこの世の修業を積まねばならぬという、厄介なマリオネットが自分自身でもあるように思える時があります。

皆様はそんなお気持ちを抱かれたことはありませんか?

しかしともかく、邪な心の持ち主に操られるのだけは、ご遠慮願いたいものです。

今夜は、「Marionette」を弾き語りでお聴きください。

「Marionette」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

この胸のときめきも すべてあなたの仕業

もどかしくもあなたの周りで 踊るわたしはマリオネット

着飾り紅の色も すべてあなたの好み

思い通り操られるまま そうよわたしはマリオネット

 サテンドレスに銀の指輪 あなたしだい光を纏うの

 踊れマリオネット今夜の舞踏会 きっとあなたは釘付け

口説き上手なあなた 悪い人ねとウィンク

振り向きざま唇奪われ わたしはあなたのマリオネット

うぶな女じゃないわ 誘いに乗るような

でも身体は操られるまま 妖しく燃えるマリオネット

 サテンドレスに銀の指輪 見つめられて光を纏うの

 踊れマリオネット今夜の舞踏会 きっとあなたを釘付けにするわ

 踊れマリオネット燃え尽きそうな夜 きっとあなたを釘付けにするの

 踊れマリオネット夜が明けるまで きっとあなたは釘付け

★東京にお住いのゆっぴーさんが、明日8月5日にお誕生日を迎えられるそうで、いつものようにささやかな「Happy Birthday」の歌と、ぼくの「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

ゆっぴーさん、お誕生日おめでとうございます!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「蚊に喰われながらの屋外映画大会の思い出!」。ぼくが子どもの頃、近所の公園に大きなスクリーンが樽木で張られ、屋外映画大会なるものが、子ども会の主催で行われていました。どんな映画の作品が上映されたか、すっかり忘れてしまいましたが、蚊遣り豚の蚊取り線香を足元でくゆらせながら、子ども同士で映画なんてそっちのけで、ふざけ合ってばかりいた記憶があります。

あっちもこっちも蚊に刺されながら!

でも公然と夜に友達と一緒に遊べるのが楽しくって仕方なかったものです。

それとクラスのマドンナが風呂上がりの浴衣姿で現れると、みんな呆然と見とれたものでした。夜風に乗って石鹸の匂いがしたのを覚えています。

今回は、そんな「蚊に喰われながらの屋外映画大会の思い出!」をぜひお聞かせください。

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