クイズ!2020.08.18「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

先日、日置江のヒロちゃんから、「たまにはこんなにも暑い日に、サッパリと食べれるクッキングをお願い!」と、そんなリクエストをいただいておりました。

今回は冷製のなぁ~んちゃってイタリア~ンな、スープ多めの作品にチャレンジしてみました。

ポイントは、パスタの代わりのアレ!

ヒントは、一本箸で食べるのがお似合いなアレ!

さあ、その答えや如何に!

でもヒンヤリしながらもコクがあって美味しかったですよ!

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「天職一芸~あの日のPoem 184」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「麹職人」。(平成十八年四月四日毎日新聞掲載)

風邪を引くのも満更に 悪くはないと思ってた       普段ガミガミ小言いう 母もなんだか優しくて      「これを飲んだら大丈夫」 大きな湯呑差し出した     柚子の香りの甘酒は 母の十八番(おはこ)の御呪(おまじな)い

愛知県岡崎市、創業百三十八年のとりた麹店。六代目の麹職人、池嵜公子さんを訪ねた。

住宅街の一角。

飾り気の無い看板。

隙間から漂う麹の香。

「店を畳むは簡単。でも新たに興すのは難しいでしょう」。 公子さんは、座敷ではしゃぐ長男の心也くんを抱きしめた。

「先代は母方の祖父で、一年前の春に他界しました。だから亡くなる三年前からは、私一人で細々と」。

先代の故鳥田長男(ながお)さん享年八十四には、一男一女があった。

公子さんの叔父にあたる長男は、整体師となり島根県へ。

長女は市内の飲食店に嫁ぎ、一男一女を出産。その一女が公子さんだ。

「両親は店の仕事で忙しくて。幼稚園の頃から兄と一緒に、祖父母の元に預けられてました。私、お爺ちゃんとお婆ちゃんが大好きで。まるでもう一組のお父さんとお母さんみたいに」。 母の周りをクルクルと回りながらはしゃぐ、心也くんを見つめ、遠い日の自分を重ねるようにつぶやいた。

少女は、二つの家と二組の両親の元を行き来し、やがて専門学校を上がって就職。

それから間も無く、母のように慕った祖母が病に倒れた。

「ちょうど島根の叔父の家に遊びに行ったまま」。後遺症も残り、連れ帰ることも叶わぬ。遠い島根の地なれば、頻繁に見舞うこともならず、まるで生き別れのように。

「会社から真っ直ぐこの家に帰っては、お爺ちゃんに晩御飯食べさせて、それで次の日の朝と昼の分も用意して」。 そんな暮らしが、二年程続いた。

周りの娘達が、ショッピンクやデートにと浮かれるのを尻目に。

「お爺ちゃんが『生涯を麹屋で終えたい。もうお前しかおらんのやで』って、泣きながら言うもんだから」。公子さんは二十二歳の秋に会社を辞し、祖父を師と仰ぎ冬季の仕込みの下準備に取りかかった。

「最初は、お爺ちゃんが死ぬまでの奉公かなって。それに小さな頃からお金や物じゃない、素晴らしいモノを沢山貰ってましたし。でも給料は、半分以下でしたけど」。公子さんは屈託なく笑った。

京都の麹屋から麹菌を仕入れ、毎年九月から五月頃まで仕込み作業が始まる。

製品は、金山寺麹、米麹、豆麹の三種。

中でも麦と豆が材料となる金山寺麹は、最も手がかかる。

まず麦は、夜十時に水を張って浸け込む。

次に深夜零時を迎えると、大豆を炒って水に浸け込み、翌朝五時から三時間かけて蒸し上げる。

そして朝十時になるのを待って、三十分程麦を蒸す。

蒸し上がった麦と大豆を手で混ぜながら、満遍なく麹菌を付け、室の中で三日間寝かし、一日かけて乾燥。

すると真っ白な麹の花が咲く。

公子さんは弟子入りから五年。元の職場の、一つ年上のご主人と結ばれた。

「子供がいても、ここなら誰にも気兼ねなく、自分のペースで仕事ができるし」。

豆麹と米麹で赤味噌。

米麹は白味噌に。

金山寺麹と米麹で合せ味噌、豆麹だけなら八丁味噌に。

「家の味噌は毎年色が変わるんです。だって余りものの麹を使ってるから」。

麹一筋に生きた、先代夫婦の遺影が見守る。

公子さんと言う名の麹は見事に熟し、穢(けが)ない白き大輪の花と咲いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 183」

今日の「天職人」は、三重県鈴鹿市の「小女子(こおなご)屋主人」。(平成十八年三月二十八日毎日新聞掲載)

おぼろ月夜が明ける前 神々住まう海原を         キラキラ揺れて小女子が 浅き春連れ渡り来る      鼓ヶ浦(つづみがうら)の砂浜は 年に七日の白一面    釜茹で揚げた小女子も 春の陽射しを待ち侘びる

天保十三(1842)年創業、三重県鈴鹿市白子やまちょう水産の七代目、尾崎好宏さんを訪ねた。

「小女子漁は、一年の内で今の一週間が勝負なんやさ。一日過ぎるだけで、大きなってしもて。あっという間に、商品価値も下がってしまうんさ」。好宏さんは茶請けにと小女子を差し出した。

好宏さんは昭和二十二(1947)年、長男として誕生。

高校を上がった昭和四十(1965)年、父と二人の叔父が切り盛りする、家業の下働きを始めた。

「中学の頃から休みになると、嫌やっても手伝わされたもんやさ」。

二月末頃から五月初旬までと、小女子漁の期間は短い。

「夜が明ける頃、取れたのが『青口』。極上もんや。せやけど、水温が高いと『腹赤』ゆうてなぁ、腹に赤い筋が入るんやさ。油気が出て味も落ち、値段は三分の一」。

写真は参考

小女子の生態は不思議だとか。

「水温の低い方へと、落ちて行くんやでなぁ」。 海面の水温が上昇する初夏になると、小女子は一斉に鳥羽の深みへと身を寄せ、冬場の到来を待つ。そして煙草大の成魚になり、水温が下がると、再び伊勢湾を北上。

一月頃にこぞって出産を迎える。一.五~二㌢程度に成長した稚魚が、最も商品価値を高める。

市場で「青口」を見極めて競り落とし、蒸篭(せいろ)に均等に敷き詰め十段重ねで釜の中へ。

「あんまり鮮度が良過ぎると、茹でたら真丸んなってしもて、商品価値が落ちるんやさ。せやでそこを見極めんとなぁ」。

七~八分茹で上げ、砂浜で天日に晒す。

写真は参考

波打ち際まで数十㍍に渡り、真っ白な小女子が天女の衣のように敷き詰められる。

「手入れ(竹製熊手)で、きあらいで(だまにならぬよう均等にならす)なぁ」。

かれこれ七年。下働きもいつしか、一番の働き手へ。そんな頃、姉が隣で営む雑貨屋に、手芸用品を求めに一人の娘が訪れた。

「暇やと姉んとこで、店番しよったんさ。そいで知りおうてなぁ」。好宏さんは、悪天候で漁が休みになると娘を連れ出した。

昭和四十七(一九七二)年、銀行勤めだった喜代子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「最初はこんなもん、地元の人等が買うてくなんて、思っても見んかったんやさ」。

昭和五十五(1980)年、店先に煮干と海苔を並べ、喜代子さんが小商いを始めた。

「遠方に嫁いだ妹に、煮干やら小女子やらを、ちょっとした化粧箱に詰めて送ってやんたんです。そしたら妹から『えらい煮干も格が上がったなぁ』って笑われて。それからやわ『お遣いもんにしたい』ゆうて頼まれる様になったんわ」。

内助の功、喜代子さんの一工夫が、普段使いの塩干物を、産地直送無添加自然食品として、贈答品の上座へと押し上げた。

写真は参考

「まあこれ抓まんでみ。今朝水揚げされた小女子の釜揚げやで。一年の内でも今しか食べられやんで」。

天日に晒される前の、ふかふかとした何とも言えぬ食感が広がる。

まさに極上。

神々住まう伊勢の海から贈られた、春一番のおご馳走(っつお)。

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8/11の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「砂肝のアヒージョと蓬餅バターソテー with パプリカとコーンのクリーム煮」

冷蔵庫に前夜の酒のあてにした、砂肝のアヒージャの残りがございました。

それと毎年郡上からお雛様の菱餅のお裾分けをと、贈っていただいている白いお餅と蓬餅、そして栃餅の三色のお持ちの残りが、冷凍庫で出番を待っているじゃないですか!

ならばと編みい出したる代物が、この「砂肝のアヒージョと蓬餅バターソテー with パプリカとコーンのクリーム煮」でございました。

まず蓬餅を冷凍のままオーブントースターで、焦げ目が付きぷっくら膨らむ程度に焼き上げ、フライパンでバターを溶かしニンニクの微塵切りで香りを立て、焼き上げた蓬餅をしっとりと焼き上げます。

そして別のフライパンでオリーブオイルを切った砂肝を炒め、そこに生クリーム、白ワイン、鶏がらスープの素、塩コショウ、ハーブミックスで味を調え、そこにバターソテーした蓬餅とパプリカにコーンを入れ一煮立ちさせれば完了。

「天職一芸~あの日のPoem 182」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飴細工師」。(平成十八年三月二十一日毎日新聞掲載)

祭囃子が聞こえれば 娘の笑顔はちきれる         早く早くと手を引いて 八幡様の境内へ          見とれ佇む飴細工 あれこれ悩み品定め         やっと手にした犬の飴 勿体ないと引き出しへ

岐阜県高山市のはりまや製菓、飴細工師の竹田喜一郎さんを訪ねた。

春まだ早い飛騨高山。雪解け水が宮川を下る。

堤に並ぶ朝市。観光客が思わず足を止め覗き込む。

「あったあった、これやこれ」。竹串の先に咲く、色鮮やかな花の飴細工。

写真は参考

「前にこれと同じの買うたんやけど、何や食べるのんが惜しいなって、飾っといたるんさ」。年配の婦人は、お目当ての飴細工を手に声を弾ませた。

「ああやって言うてもらうのが、職人冥利に尽きるんやさ」。喜一郎さんは絵筆を止め、何とも優し気な瞳を向けた。

「店番の間暇やもんで、下手の横好きで好きな絵書いとんや」。中々どうして堂に入ったもの。大地の恵みの野菜たちが、柔らかなタッチと色遣いで見事に描かれている。竹の節を利用した、『喜』の落款も押された立派な作品だ。

店先には色取り取りの飴細工が並ぶ、一足早い春の百花繚乱。

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喜一郎さんは昭和二十一(1946)年に、農家の長男として誕生。

高校を出て電子部品製造会社に入社。「二十歳の頃、怪我して辞めたんや」。絶縁体が掌の内側に入り込み、切開して取り除く始末。

その後、知り合いの紹介で有平細工の飴菓子工場へ。 「手先仕事が好きやったでな」。それに元々持ち得た絵心も加わり、職人としての技に磨がかかった。

ある日の事。道端に自転車を止め、外れたチェーンに困り顔の娘がいた。直ぐに手を差し延べ、チェーンを元通りに。

「よう見たら、同じ工場の後輩で。それがこれなんやさ」。喜一郎さんは照れ臭そうに妻を見つめた。

「最初は優しいお兄さんみたいやったのに、何時の間にかこんなんなって」と、妻の妙子さん。

それが縁で二人は、昭和四十七(1972)年に結ばれて一男一女を得た。

そして二年後、喜一郎さんは二十八歳で独立。

「最初は車庫を工場に改装して、夫婦二人してどんな飴作ろうって」。試行錯誤が続き、販路の開拓にも追われた。

「高山らしい飴があってもええなあって思ったんや」。昭和五十三(1978)年、ついに代表作となる「名所飴」が完成。

「お土産用に朝市や中橋、それに飛騨の里の四季を、飴細工で表現したんや」。

飴作りは、水三に対しグラニュー糖七の割合で、手鍋で一時間かけて煮る。

百五十~百六十℃になったら火を止め、冷却板の上で冷やしながら食紅で色付けし、図案の部品を手作り。

赤・青・黄・オレンジ・紫・茶・黒と、七色の食紅を絵の具のように混ぜ合わせ、多彩な色を生み出す。

「飴の仕事は好きや。家事は嫌いやけど」。妙子さんが笑った。

「この朝市は、母が農産物を売っとったんや。でももう歳やもんで、三年前から飴に替えたんやさ」。毎年冬場を除く、三月から十一月初旬頃まで、竹田さんの飴細工が朝市を彩る。

「『また来たよ』って、何回も遠くから見える方や、外国の方は珍しがってくれて。ここはええよ。お客さんの反応が、そのまま直に伝わって来るで」。

怒った事など、これまで一度も無いかと疑わせるような柔らかな笑顔。

そんな人柄が加味され、いつしか食品としての飴は、甘美な作品となった。

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「天職一芸~あの日のPoem 181」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「大正琴職人」。(平成十八年三月十四日毎日新聞掲載)

娘を膝に座らせて 母はとっても嬉しそう         娘の指に手を添えて 大正琴の鍵を押す          トンツンシャンと琴が鳴り その度キャアと声上げて    「ばあ婆すごい」を繰り返す 孫可愛さに母が笑む

名古屋市西区のナルダン楽器、二代目大正琴職人の岩田廸弘(みちひろ)さんを訪ねた。

「琴や三味線は、音出し三年。大正琴は三ヶ月辛抱すりゃあ、澄んだ音が出せます」。 廸弘さんは、左の指先で鍵盤を押さえ右手で軽く爪弾いた。

哀愁を帯びた音色が、心の奥の古傷に染み込む。

ナルダン楽器は、初代初由がシベリアから復員し、昭和二十二(1947)年に創業。「弾いて鳴るの鳴る弾(だん)で、クラッシックギターや大正琴の製造を始めたんです」。

大正琴はその名の通り大正元(1912)年に誕生。

名古屋市中区大須の旅館「森田屋」の息子、森田吾郎がタイプライターのキーからヒントを得、二絃琴に音階ボタンを組み合わせ、誰もが簡単に演奏できる楽器として世に送り出した。

その後、幾たびも改良され、現在の五弦が主流となった。

「戦前まで大正琴は、鍵盤のボタンがブリキ製でしてねぇ」。

戦後ようやくプラスチック製へ。先代が設計を担当し、木工・糸巻き・弦・鍵盤・譜板(ふいた)の絵付け・組み立と、様々な職人たちの手を経て完成へ。

「譜板の絵付けは、二本の筆を同時に使って、巧みに富士の山を描くんです。昭和三十(1955)年代前後、絵付け一枚が十一円程でしたかな」。

共鳴孔を兼ねた胴には、桂・桐・山桑(やまぐわ)の材が用いられる。「柔らかくも無く、硬くも無い材が一番。桂材は、パンチ力のある音が出るんです」。

長さ二尺二寸(約六十六.六㌢)。「この大きさが、一番いい音で響く」。

二十六の鍵盤に、メロディーを奏でる四本の弦と、ベースの開放弦一本。

「鍵盤の数字は、一がドで二がレ。わかりやすいでしょ。こうしてトン・ツン・シャンと」。廸弘さんが爪弾いた。窓から差し込む、柔らかな春の陽が揺れた。

廸弘さんは昭和十二(1937)年、港湾技師を務める父の元、台湾で生まれた。

敗戦による引揚げで、父の郷里鹿児島を目指すはずが、父の姉が暮らす名古屋市中区松原へ。ちなみに大正琴の発祥地大須とは、隣り合わせだ。

高校を卒業すると、貿易商社に勤務。楽器の輸出業務を担当。

入社六年。徐々に仕事にも自信が現われ始めた。そんな頃、楽器の取引で岩田家を訪問。

「相手の目を見て話すのが、先代は気に入ったようで」。岩田家への出入りも増し、やがて一人娘の敏子さんと共に、トラックで楽器の運搬と称しては逢い引きを重ねた。

「初めて逢ってからたったの四十日でスピード結婚です」。

先代は廸弘さんを、取引先の社員として気に入ったのではなく、一人娘の伴侶として、ナルダン楽器の二代目を託す男として、見抜いていたのかも知れない。

昭和三十七(1962)年に婿入りし、一男一女を授かった。

「結婚したての頃は、正月の三が日で四百本も売れましてねぇ。東京は浅草の縁日で。当時は一台、二千円ほどでしたかな」。

現在愛好家の数は、全国で四~五百万人を数えるとか。

和と洋の狭間に揺れる時代、庶民の町で産声を上げた大正琴。

哀愁漂う旋律は、どれだけ多くの人々の、喜びや哀しみを奏で上げたことだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 180」

今日の「天職人」は、三重県津市の「牧場主」。(平成十八年三月七日毎日新聞掲載)

子牛たわむる牧場(まきば)には 春を彩る淡き花     そよ吹く風に身を委ね 可憐な仕草舞い踊る        子牛を追って牧童(ぼくどう)は 煙たなびく牛舎へと   夕餉(ゆうげ)の馳走に想い馳せ お腹がグウで牛はモウ

三重県津市の中村牧場、二代目牧場主の中村孝さんを訪ねた。

「牛は自分の骨身削って、人間さんが欲しいだけ乳を出しますやろ」。 孝さんは、真っ黒に潤んだ瞳で見つめる、子牛の頭をそっと撫で付けた。

孝さんは昭和十一(1936)年、四反(約四十㌃)の田畑を持つ農家に、男五人兄弟の長男として誕生。

「それがさ、食い盛りの男ばっかりやったもんやで、牛乳買(こ)うてもあっと言う間にあらしませんのさ。『これではもたん』と、親父が近所の人から山羊を一頭譲ってもうて」。 大きく張った山羊の乳房からは、一日に五合の乳が搾り取れ、育ち盛りの兄弟の胃袋へと消えた。

「それでも足らんもんやで、今度は隣の部落から乳牛を四~五頭分けてもうて」。

昭和二十七(1952)年、それがそのまま牧場の創業となった。

「いかに男五人兄弟とゆえども、牛五頭分の乳はそりゃあ飲めやんで。せやで今度は乳が余って来ますやんか。それからやさ、牛乳売るようになったんわ」。

中学卒業と同時に、父と共に農作業と牧場経営に携わった。

満タンにした乳缶を自転車に積んで、来る日も来る日も製乳会社への道程を走り続けた。

当時は一頭の牛で、一日に十八㍑。朝夕五升(約九㍑)ずつが、大きなホルスタインの乳房から搾り出された。

「畦草や藁に、トウモロコシの茎と葉に実も全部。この栄養分の高い餌をやると、乳房の張りが違いますやん」。二束の藁約四十㌕と、麦やトウモロコシの実に麩(ふすま)や大豆滓(かす)等の濃厚飼料約四㌕が、一頭約一㌧の体重を維持する一日の餌。

まだそれに夏は、ドラム缶半分の水も飲む。

「安濃川の水が、良い藁を育て、やがてそれが美味しい牛乳に生れ変わるんやさ」。

昭和三十六(1961)年、隣村からユキ子さんが嫁ぎ、二男を授かった。

「牛は種が付かんとお終いや」。

生後十三~四ヶ月の育成牛に、人工授精で種付けが行われ、約十ヶ月で出産を迎える。

「初産が難儀なんさ。お腹ん中へ手突っ込んで、子牛の姿勢を確認すんやさ」。

破水と共に前足・頭・胴・後足の順に、この世に生を受ける。

「五分ほどもしたら、直ぐに自分で立ち上がりますに」。

生後と言えども、四十~四十五㌕の身体を四本の足で踏ん張って立ち上がる。孝さんはこれまでに、千頭を越える子牛を取り上げた。

「昔は十五年程の寿命で、十二~三産。今は昔の三倍乳が出る品種に改良されてもうて。そのかわり四~五産したら七~八年の命も終いやさ」。

孝さんが儚げにつぶやいた。

現在牧場には、搾乳牛が四十一頭。大きな身体を横たえ、真っ黒な眼(まなこ)を見開き口を絶えず動かす牛たち。

「食っちゃ寝、食っちゃ寝しとると牛になるぞってようゆわれたもんや。牛の腹ん中には、食べた餌を発酵させる虫がおって、練りを返しとるうち栄養になってさ。血液が白うなって乳房へ行く。これはわしがそう思とるだけで、学術的な裏なんてあらせんけどな」。

牛は田畑の産物を体内に取り込み、日長一日かけて反芻(はんすう)を繰り返しては、穢れを知らぬ純白の乳を産み出し続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 179」

今日の「天職人」は、岐阜県安八町の「鍼灸師」。(平成十八年二月二十八日毎日新聞掲載)

春の彼岸の里帰り 祖母の好物手土産に          母はあれこれ世話を焼く 普段叶わぬ親孝行        雪見障子の向うでは 春告げ鳥が歌い鳴く         祖母は座敷に臥したまま ああ極楽と繰り返す       背中に赤い火を燈し 百草(もぐさ)を母が右左

岐阜県安八町の羽生(はにゅう)鍼灸治療院、鍼灸師の羽生道治さんを訪ねた。

「家に来られる患者さんは、みんなハンサムで美人さんばっかりやと、自分でそう思い込んでます。『ああ、吉永小百合さんだ、高倉健さんだ』ってな調子で」。道治さんは、サングラスの奥で瞼を閉じたまま笑った。

道治さんは昭和二十五(1950)年、長野県高森町で公益質店を営む家に、七人兄弟の末っ子として誕生。

地元高校を出ると、東京の会社で洋食器の営業職に就いた。

職場にも慣れ、仕事に脂が乗り始めた二年後。新卒で入社して来た、一人の女子社員に目が止まった。

「たまたま偶然にも、同じ高校の後輩だったんです」。

いつしか二人の間に恋が芽生え、将来を誓い合った。

昭和四十九(1974)年、同郷出身の祥子さんと結婚。

まるで世界中が、二人を中心に回っているような、甘い幸せの絶頂。

しかし新婚ひと月目にして、神は想像を絶する試練を二人に与えた。

「医者から『やがて失明する』と宣告されまして。真っ先に頭を掠めたのは、妻のこと。この先どうしようってそればっかり」。 とは言え、今日の明日で視力を失うような、差し迫った状態では無かった。

日々衰える視力を、同僚に悟られぬように勤務し、一縷の望みを託すべく名医探しを続けた。

やがて二人の娘が誕生。

刻々と失われ往く視野に、二人の愛娘の姿を克明に刻んだ。

「いよいよ見えなくなって来て、会社へも行けません。仕事にならないから。でもそんな事言ったら、女房が悲しむ。子供たちもまだ小さいし、会社には隠し通さなきゃあ。だから山手線に乗ったまま、一日中グルグル回ってばかり」。しかし間も無く会社は、妻に電話で解雇を告げた。

道治さんは最後の望みを手術に託そうと、愛知県一宮市の名医を頼った。しかし入院待ちの間に炎症が悪化し、手術は不可能と診断された。

「こうなったら、何時までもくよくよしとっても始まらん。手に職を付けるしか無い」。

昭和五十四(1979)年、岐阜県立盲学校に二十九歳で入学。

家族を呼び寄せ、貯金と障害者年金を食いつぶしながら国家試験に挑んだ。

その甲斐あって二年で按摩・マッサージ・指圧を、三年目に鍼灸の資格を得た。

昭和五十七(1982)年、現在地で晴れて独立開業。

「黄帝内経(こうていだいけい)や素問霊枢(そもんれいすう)といった二千年も前の古典の医学書から、人体に巡らされる十四の気の道と、三百六十一に及ぶツボを学んで」。

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灸による温熱効果で、血流と気の流れを促進する。「昔の灸は、石を温めたものだったそうです」。

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地肌に百草を置く、昔ながらの直火から、地肌と百草の間に六~七㍉の空間を空け、刺激を和らげる温灸まで。患者の症状に合わせ、治癒力を最大限に高め得るツボを、一点に全神経を注ぎ込み灸師の指先が探り当てる。

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今でも愛娘の顔は、幼き日のままかと問うた。

「周りの皆が、中山美穂に似てきたとか教えてくれるけど。せめて眼が見えた頃までの、女優に例えてくれんとわからんわ」。

失ったが故に得(う)る物。

『汚いもんが見えんでいいよ』。

指先と言う第ニの視力を得、男は何とも幸せそうに笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 178」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「あぶら屋主人」。(平成十八年二月二十一日毎日新聞掲載)

今日のおかずは何だろう そっと炊事場覗き込む      蓮根牛蒡海老に烏賊 菜種赤水黒い鍋           宿題さえも手に付かず 聞き耳立てる炊事場に       ついにジュワッと油の音(ね) 今日は天麩羅給料日

愛知県岡崎市の太田油脂、四代目主人の太田進造さんを訪ねた。

「昔から『油は冬売るな』って。何でって?同じ目方でも、夏は油が膨張するでしょう。だから今ではグラム標示」。 進造さんは、眼鏡の奥で優しそうな瞳を瞬かせた。

創業は明治初年。

曽祖父が愛知県二川に水車式油工場を建てた事に始まる。

祖父の代へと移り、菜種や桑苗などを扱う、現業の前身となる農作物問屋を明治三十五(1902)年に開業。

進造さんは昭和十一(1936)年、七人兄弟の二男として誕生。

翌年、二代目となる祖父が、菜種の本格的な搾油(さくゆ)業に乗り出した。

「油に関する記念館の、この『あぶら館』が生家です。こんな狭い所で当時は十三人が寝起きしてたんだから、高校まで勉強部屋も貰えんかったはずですわ」。

そして進造さんは、名古屋の大学に進学し、まるで運命にでも導かれたかのように山岳部へ入部。

そこで一つ年上の美しい女性と巡り逢い、彼女への想いを募らせながら剣岳や穂高を制覇した。

昭和三十三(1958)年、東京の商事会社に就職。五年に及び、油の流通分野に身を晒して帰郷。

「今の時代と違いますから、長距離電話も高いし、Eメールもありませんでしたから、もっぱら妻とは文通でしたかねぇ」。ちょっと照れ臭そうに、若き日を振り返った。

昭和三十九(1964)年、進造さんは遠距離恋愛を成就し、陽子さんを妻に迎えた。

東海道新幹線が開通し、東京五輪に日本中が沸いた。「新婚旅行は東京へ。開通したての新幹線に乗って。でもお金がもったいなくて、自由席で。せめて指定にしとけばよかったのにねぇ」。

その後一男一女が誕生。家業に就いた進造さんは、製造から全ての作業に従事した。

「子供の頃から見て育ったからね。当時は、家も工場も一緒でしたし」。

搾油作業は、菜種を篩(ふる)いにかけ、異物や鞘、それに小石や土を払い落とすことから始まる。

次いで大きな炒り釜で十分ほど乾煎り。圧搾機(あっさくき)にかけて油を搾り出す。

「昭和三十(1955)年頃まで使用していた油圧式の圧搾機で、一日に一台で二百㌕搾ってその二割が菜種の赤水(菜種油)に。今は機械も進歩したから、四割程の油が搾れるんかなあ」。

代々地元産の菜種にこだわり続けた。「愛知の菜種は、鹿児島・青森と、三大産地の一つでしたから」。昭和三十一(1956)年の全国菜種作付番付によれば、愛知は堂々の大関。 搾油業が隆盛を極めた昭和二十五(1950)年から三十(1955)年頃にかけては、愛知県内だけでも二百社を下らなかった。

しかしそれが現在は、たったの三~四社とか。

戦後の急激な産業の発展は、その代償として農地を工場が蝕んでいった。「その結果、原料も輸入に頼るように。でも家は、出来る限り国内物にこだわって、創業時の精神を守って行きたいんです」。

赤水と呼ばれる菜種油。

その名の通り橙色(だいだいいろ)に近い。

瓶の底には気温が低いため、レシチンの白い蝋(ろう)分が漂う。

まるで菜の花畑の向うに揺れる、春の陽炎のように。

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「もしも生まれ代われたなら」

今日はもうすぐお盆と言うこともあり、アゲハのサナギのお弔いを済ませました。

お母さんアゲハが3個の卵を産んでいった、わが家の山椒の木の根元に。

3匹とも無事に何とかサナギにはなったものの、1匹だけが羽化して大空に羽ばたくことが出来ましたが、残念ながら後の2匹は、とうとう羽化できずサナギのまま黒ずんで小さくなってしまっていました。

それでもまだ微かな望みを捨てきれず、毎朝「おはよう。頑張るんだぞ!」と必ず声を掛け、出先から戻ると真っ先に「いま帰ったよ!頑張れよ」と、語りかけたものでした。

しかし・・・。

同じように同じだけ山椒の葉を食べ尽くしながら、3匹の内1匹しか成虫になれなかったという、自然界の過酷な掟をまざまざと見せつけられた思いです。

そこでお盆を前に、葉っぱが丸坊主になるまで食べ尽くした、大好きだった山椒の木の根元に葬って、灯明を備えてやったのです。

向こうの世界に行って、再びお母さんアゲハや、羽化していったお兄ちゃんだかお姉ちゃんと、ちゃんと巡り合えますようにと、手を合わせてやりました。

幼虫からサナギになるまで、ほんの束の間ではありましたが、物言わぬアゲハの幼虫たちと、ほんの少しだけでも心が通じ合えていれば良いのですが・・・。

でも本当に自然界の力は偉大です。

あれだけ丸坊主になるまで、幼虫君たちに葉っぱを食べ尽くされた山椒の木ですが、ご覧ください!

再びこんなにも葉を広げています。

こんなに丸坊主になるまで食べ尽くされながらも!!!

でもまたいつの日か、お母さんアゲハが卵を産んでくれたとしても、今度はどんなに山椒の葉が丸坊主にされようとも、ゴッド君家にも大きくって立派な山椒の木が二鉢、ちゃんと育ててくれているから、心置きなくどんだけでも食べてくれたって平気です!

とても心優しい人間たちだって、ゴッド君のようにこの世にはちゃんと居るものですから!

どうかどうか安らかに!

いよいよ明後日は迎え火です。

ぼくもキュウリの馬と、茄子の牛を拵えて、両親の好きだった好物を備え、お迎えしてあげようと思っています。

今夜は、弾き語りで「もしも生まれ代われたなら」お聴きください。

「もしも生まれ代われたなら」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

もしも生まれ代われたなら あなたよりももっと若く

今とは逆に生まれたいわ そしてあなたを看取ってあげる

 ゴメンネ独りにさせて でももう逝かなくちゃ

 わずかな時間だったけど 幸せだった誰よりも

顔や形は違っても あなたのやさしいその声を

次の世でもきっときっと わたしの心が覚えているわ

 ゴメンネ独りにさせて でももう逝かなくちゃ

 幸せは永さじゃなく 心震えた記憶の数

だからもう泣かないで わたしがこの世で愛したあなた

哀しい顔は似合わない もう一度最期に笑い掛けて

 ゴメンネ独りで逝くけど 心に響くあなたの声を

 次の世でもわたしの心が 覚えているからあなた探す

もしも生まれ代われたなら あなたよりももっと若く

今とは逆に生まれたいわ そしてあなたを看取ってあげたい

続いては、CDに収録されている「もしも生まれ代われたなら」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品とはややことなりますが「お盆の一番の楽しみ!」。ぼくは一人っ子だったため、お盆になると父の在所で従兄妹と一緒に過ごせるのが、何よりの楽しみでした。

が、しかし!ぼくが子どもの頃の従兄妹の家は、まだ古い建物で、便所が家の中には無く、外の濡れ縁を伝って行った先にあったものです。

しかも当然当時はぼっとん便所!

もう怖くって怖くって、従兄妹のお姉ちゃんを叩き起こして、便所まで一緒に付いて来てもらったものでした。

ああ懐かしい!でも62になった今でもやっぱり、夜中のぼっとん便所は、チト怖いかも!

今回は、そんな「お盆の一番の楽しみ!」をぜひお聞かせください。

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