今日の「天職人」は、岐阜県安八町の「鍼灸師」。(平成十八年二月二十八日毎日新聞掲載)
春の彼岸の里帰り 祖母の好物手土産に 母はあれこれ世話を焼く 普段叶わぬ親孝行 雪見障子の向うでは 春告げ鳥が歌い鳴く 祖母は座敷に臥したまま ああ極楽と繰り返す 背中に赤い火を燈し 百草(もぐさ)を母が右左
岐阜県安八町の羽生(はにゅう)鍼灸治療院、鍼灸師の羽生道治さんを訪ねた。
「家に来られる患者さんは、みんなハンサムで美人さんばっかりやと、自分でそう思い込んでます。『ああ、吉永小百合さんだ、高倉健さんだ』ってな調子で」。道治さんは、サングラスの奥で瞼を閉じたまま笑った。
道治さんは昭和二十五(1950)年、長野県高森町で公益質店を営む家に、七人兄弟の末っ子として誕生。
地元高校を出ると、東京の会社で洋食器の営業職に就いた。
職場にも慣れ、仕事に脂が乗り始めた二年後。新卒で入社して来た、一人の女子社員に目が止まった。
「たまたま偶然にも、同じ高校の後輩だったんです」。
いつしか二人の間に恋が芽生え、将来を誓い合った。
昭和四十九(1974)年、同郷出身の祥子さんと結婚。
まるで世界中が、二人を中心に回っているような、甘い幸せの絶頂。
しかし新婚ひと月目にして、神は想像を絶する試練を二人に与えた。
「医者から『やがて失明する』と宣告されまして。真っ先に頭を掠めたのは、妻のこと。この先どうしようってそればっかり」。 とは言え、今日の明日で視力を失うような、差し迫った状態では無かった。
日々衰える視力を、同僚に悟られぬように勤務し、一縷の望みを託すべく名医探しを続けた。
やがて二人の娘が誕生。
刻々と失われ往く視野に、二人の愛娘の姿を克明に刻んだ。
「いよいよ見えなくなって来て、会社へも行けません。仕事にならないから。でもそんな事言ったら、女房が悲しむ。子供たちもまだ小さいし、会社には隠し通さなきゃあ。だから山手線に乗ったまま、一日中グルグル回ってばかり」。しかし間も無く会社は、妻に電話で解雇を告げた。
道治さんは最後の望みを手術に託そうと、愛知県一宮市の名医を頼った。しかし入院待ちの間に炎症が悪化し、手術は不可能と診断された。
「こうなったら、何時までもくよくよしとっても始まらん。手に職を付けるしか無い」。
昭和五十四(1979)年、岐阜県立盲学校に二十九歳で入学。
家族を呼び寄せ、貯金と障害者年金を食いつぶしながら国家試験に挑んだ。
その甲斐あって二年で按摩・マッサージ・指圧を、三年目に鍼灸の資格を得た。
昭和五十七(1982)年、現在地で晴れて独立開業。
「黄帝内経(こうていだいけい)や素問霊枢(そもんれいすう)といった二千年も前の古典の医学書から、人体に巡らされる十四の気の道と、三百六十一に及ぶツボを学んで」。
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灸による温熱効果で、血流と気の流れを促進する。「昔の灸は、石を温めたものだったそうです」。
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地肌に百草を置く、昔ながらの直火から、地肌と百草の間に六~七㍉の空間を空け、刺激を和らげる温灸まで。患者の症状に合わせ、治癒力を最大限に高め得るツボを、一点に全神経を注ぎ込み灸師の指先が探り当てる。
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今でも愛娘の顔は、幼き日のままかと問うた。
「周りの皆が、中山美穂に似てきたとか教えてくれるけど。せめて眼が見えた頃までの、女優に例えてくれんとわからんわ」。
失ったが故に得(う)る物。
『汚いもんが見えんでいいよ』。
指先と言う第ニの視力を得、男は何とも幸せそうに笑った。
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