クイズ!2020.08.25「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回はまったくもってベジタリアンな作品です。

トマトと一部の●製品を除けば、ほとんどがアルモノから作られているものを使用しております。

このアルモノは、とてもスグレモノで、ぼくらの食卓には欠かせぬ食品です。

まぁ、これがヒントでしょうか?

でも観察力に富んだ皆様には、お見通しかも知れませんけどね。

さあ、皆様の頭には、どんなモノが浮かびましたでしょうか?

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「天職一芸~あの日のPoem 190」

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の「映写技師」。(平成十八年五月十六日毎日新聞掲載)

お煎キャラメル買(こ)うたるで 父は幕間に売り子呼び ぼくの機嫌を取り成して 仁侠映画もう一本       肩で風切る帰り道 父は銀幕役者まね         「今帰(けえ)った」と粋がるも 仁王を前に頭垂(こうべた)れ

愛知県西尾市の西尾劇場。三代目館主であり映写技師の青山弘樹(こうき)さんを訪ねた。

駅前に聳える真っ黒な甍。裏通りには、浮世を隔てる昭和の残像。

「映画見た老夫婦が帰り際、『初めて婆さんと、ここでデートした日を思い出したわ。ありがとう』って」。

思い出は、風景や建物に人の表情や言葉が重なり、記憶の片隅へと刻み込まれる。

「『お母さんもお爺ちゃんに連れられて、ここでよく映画見せてもらったわ』って、息子連れのお母さんがあっちこちキョロキョロ眺め回して。まるで面影でも探すように」。 弘樹さんは、所狭しと駄菓子の広がる、タイル張りのロビーの小さな椅子に腰掛けた。

西尾劇場は昭和十五(1940)年九月二日、関西歌舞伎の女形(おやま)、片岡仁左衛門の柿落(こけらお)としで幕を開けた。「廻り舞台はもう動きませんけど」。

翌年真珠湾攻撃が始まると、娯楽の殿堂は一気に軍による戦意高揚の場として利用された。

戦後はGHQの監視下に置かれ、戦意喪失を目的にアメリカ映画の上映が奨励された。

ハンバーガーとジーンズ、ポニーテールにツイスト。

豊で自由奔放なアメリカ文化が、銀幕を通して日本中を席捲した。

昭和二十六(1951)年、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本の独立が回復。

邦画制作が活況を帯び始めた。

「当時は映画もやれば歌謡ショーも。立会演説会から旅芝居まで。美空ひばりが来演した時には、特別列車が出る騒ぎだったほど」。

弘樹さんは昭和三十七(1962)年、三人姉弟の長男として誕生。

「裏が自宅なんで、小さい時からモギリやビラ貼り手伝ったり。でも毎日毎日、友達の誰よりも早く新作が見られましたし。サーカスが来たり、カンガルーのキックボクシングや、ストリップに女子プロレスまで、映写室からこっそり盗み見たもんですわ」。

まるでシチリア島を舞台にした名画「ニューシネマパラダイス」の日本版のような少年時代だった。

地元高校を出ると、東京の大学へ。

「学者を志し、大学院を十年掛けて二つも梯子してまして」。研究に明け暮れる中、「父倒れる」の知らせが。

すぐさま帰郷。脳梗塞で半身不随となった父に代わり、そのまま映写機を回した。

「二台の映写機で、交互にフィルムをかけかえて。画面の右上に出る黒いポッチの一回目が予告で、二回目が終わりの合図。それにピタッと合わすのが、技師の腕でね」。

時代劇に怪獣物、仁侠物から恋愛物へと、時代と共に名作が生まれては、人々の記憶の彼方へと消えて逝った。

昭和三十三(1958)年当時、全国に映画館は八千館。

映画人口は、年間十二億人だったとか。

「昔は仁侠映画の主役が、悪者をバッタバッタと切り倒すクライマックスに、『いよーっ!鶴田!』って、歌舞伎の大向こうのような粋な掛け声が上がって」。

年季の入った真空管のアンプを、弘樹さんがそっと労わる。

「何とも心地いい音なんです」。

ふと「結婚は?」と問うて見た。

「研究と映画に明け暮れ、まだ一人身のままです。誰かいい人いたらいいんですけど」。誰よりも映画館で上映する、映画を愛した男は照れ臭そうに笑った。

たった三十五㍉の小さな小さなフィルムは、映写機を通し、視界の全てを覆う迫力で、途方もない大きな夢や愛を描き出す。

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「天職一芸~あの日のPoem 189」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市の「土鍋陶工」。(平成十八年五月九日毎日新聞掲載)

七輪の上ゴトゴトと 土鍋が音をたて出せば       母は包丁トントンと 葱を刻んで振り掛ける       風邪をこじらせ寝込んだら 母の得意な味噌おじや   フゥーフゥー冷まし口元へ 妙にこそばいやさしさが

三重県伊賀市で明治中期頃創業、五代目土鍋陶工の稲葉直人さんを訪ねた。

「土鍋は、手取りの感覚が一番。次に芸術的な意匠ですね。料理を作りたくなったり、思わず蓋を上げ炊き上がりが見たくなる様な」。 直人さんは、粘土でカサカサに荒れた手を擦り合わせた。

直人さんは昭和三十五(1960)年、二人兄妹の長男として誕生。

「父の代は、型物の量産が主で、萬古焼きの製造卸でした。だから子供の頃は、焼物に興味がなかったんです」。

しかし高校へと進学した二年目に、父が他界。

「どうにも跡を継がんといかんのやろなぁって」。 母と祖父母が家業を切り盛りし、京都の夜間大学へと進学。昼間は陶房で雑用をこなした。

二十二歳で京都市立工業試験場に入り、陶芸の基本を学んだ。

「九州や萩の立派な由緒ある窯元の息子やら、脱サラして陶芸を志す者やらと一緒で、刺激を受けましてねぇ。それまで焼き物っていったら、型物とばっかり思ってましたから」。

一年後に京都府立陶工訓練校へと進み、轆轤(ろくろ)の回し方から土練りを学んだ。

「その頃ですね。焼き物に可能性があるんだって感じたのは」。

翌年二十四歳で帰省し、家業である土鍋の型物量産製造に従事した。

「これやない!もっと他のもんをやりたい!」。

休みを返上し自問自答を繰り返し、土鍋の一品物への挑戦が始まった。

「ここらの土は、木節(きぶし)粘土と言って、伊賀独特の黒い土なんです。大昔ここらは、琵琶湖の底やったとかで。吸水性が高く、耐火性に優れ火に掛けても割れず、焼き締まりにくい。だから鍋には最適でも、器には不向きでね。それやったら誰もやっとらん、土鍋の一品物を目指したろうって」。

心地良く、そして美味しく炊けて、料理を作りたくなるようなそんな土鍋。

家族で鍋を囲む団欒を想い描き、直人さんは轆轤を回した。

「上手く炊けるか?掴み易いか?、重過ぎず蓋は取りやすいか?洗い易いか?」。直人さんの試行錯誤は重ねられた。

「戻って二年程、そんな日々の繰り返しで」。

直人さんの土鍋造りは、まず木節粘土の土練りに始まり、鍋と蓋を轆轤で成型。

一~二日ほど陰干し。

鍋の底を鉋(かんな)で削り落とし、一日置いて鍋の耳と、蓋の取っ手に水を塗って取り付け、形を削り出す。

再び天日で四~五日乾燥させ、七百度で素焼き。

釉薬を掛け、筆で細部に絵付けを施し、内蓋の真ん中に『直』の一文字をしたため焼成へ。

ガス窯で十四時間かけて焼き上げ、同じ時間をかけ冷却。

最後に紙やすりをかければ完了。

「ご飯を炊くんやろかとか、野菜を煮るんやろかとか、まず使う人の用途を考えて。次に何人で鍋を囲むんだろうかと想い描き、それを意匠に反映して轆轤を回します。だって使ってもらってなんぼですから」。

市松模様に日月、黒織部の鯰柄と、直人さんの土鍋は団欒の要として、家族の笑い声に囲まれる。

平成十(1998)年、三十八歳で東京出身の聡子さんを妻に迎えた。

「毎日ぼくの作った鍋を使って、ご飯から味噌汁まで。自由な発想で鍋料理を愉しんでくれてます」。

一番良き理解者だ。

鍋と蓋は二つで一つ。

夫唱婦随。

土鍋一筋の陶工は、日常の暮らしの中に芸術を極め続ける。

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8/18の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「心太のなぁ~んちゃって冷製スープボンゴレ」

ちょうど心太職人のブログ記事をアップしていたこともあり、それと日置江のヒロちゃんからも「この暑さで食欲もゲンナリ↓たまにゃあアッサリしたクッキングもお願い!」とリクエストもあり、だったらチュルチュルっと心太を使ってやれぃ!ってなもんで挑んで見たのが、この「心太のなぁ~んちゃって冷製スープボンゴレ」です。

まず深めのフライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立て、よく砂出しをしたアサリをさっと炒め、次に白ワイン、水、コンソメ(ぼくはコンソメもブイヨンも切らしておりましたので、鶏がらスープの素で代用して見ました)、ハーブミックス、ブラックペッパーでお好みに調味し、サラダ用のミックスビーンズを入れて一煮立ちさせます。

次に冷水でフライパンごと粗熱を取り、具とスープをボールに移し替え、冷蔵庫でヒンヤリするまで冷やします。

スープのボンゴレビアンコが冷えたら、後は心太を冷水で水洗いし、スープボウルに移して上から冷やしたスープボンゴレの具とスープをたっぷり注ぎ入れれば完成。

これがまた甘酸っぱい心太とは異なり、何とも言えぬイタリア~ンな海藻パスタとなり、ついついキリン一番搾りも進んでしまいましたぁ!

今回も観察力に長けた皆様の回答には、唸らされるばかりでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 188」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「栗粉餅職人」。(平成十八年五月二日毎日新聞掲載)

病の床の母の手が 日毎小さく成り果てる        庭の毬栗眺めては 秋はまだかと繰り返す        毬が色付き落ち出せば 母の好物栗粉餅         初物買うと励ませど 彼岸待たずに召され逝く

岐阜市神田町、明治三十七(1904)年創業のベンテンドー。四代目栗粉餅職人の高井啓光(よしみつ)さんを訪ねた。

「家は代々、高富町(現山県市)大桑(おおが)の土田さんちの栗だけしか使っとらんのやて」。 啓光さんは、鼻先でずり落ちそうになった眼鏡を、指先で持ち上げた。

店内には繰り返し耳馴染みのいいメロディーが流れる。

「♪ベンテンドーの栗粉餅 ベンテンドーの栗粉餅♪」。

懐かしさが漂う曲調に、つい聴き入ってしまう。

「昭和三十四(1959)年頃には、もうテレビやラジオで宣伝に流しとったらしいですわ。久里千春さんが歌って」。

啓光さんは昭和三十五(1960)年、三人姉弟の長男として誕生。

地元小学校を上がると、静岡県の中学へ。

「男の子は外へ出さなかん」とする、先代の厳しい掟の前に、十二歳のいたいけな少年は、親許を離れ寮生活を余儀なくされた。

大学を出ると今度は、愛知県岩倉市の洋菓子店で修業を開始。

「元々創業時は和菓子一本。戦後、父の代から洋菓子も始めて。昔は二階でパーラーって言うか、珈琲屋もやっとってね」。

三年の修業を経て、二十六歳の年にドイツへ武者修行に。

「本当はフランスに行きたかったんやて。でも当時のヨーロッパは失業が多くって。貿易関係の義兄の紹介で、西ドイツのシュツットガルト郊外の『カッツ』という洋菓子店が『三ヶ月だけなら引き受けてもいいぞ』って」。

ドイツ人の兄弟弟子と、二人部屋で寮生活が始まった。

例え三ヶ月とはいえ、言葉も通じぬ異国での修業から、啓光さんは多くの技を学び取った。

「ドイツ菓子は、他のヨーロッパのように、見た目の派手さを競うんじゃなくって、生地自体の美味しさにこだわるんやて」。

ドイツでの修業を終える頃、一人の日本人女性が「カッツ」を訪ねた。妻、朝代さんだ。

「元々両親が知り合いで、見合いみたいなもんやて。婚約中にドイツで修業して、それを終える頃妻が合流し新婚旅行へ」。そのまま二人は、ヨーロッパ各地を一ヶ月かけハネムーン。帰国後に式を挙げ、男子二人を授かった。

ドイツから戻ると、父の元で本格的に名代の「栗粉餅」を始めとする和菓子作りを学んだ。まず栗を蒸し、半分に切ってスプーンで実を掘り出す。実を潰して荒簁(あらどおし)から細簁(ほそどおし)へと順に目を細かくして栗粉へ。

白餡の栗蜜をつなぎ程度に加え、裏漉(うらご)しして粉状に。

搗きたての一口大の餅を、栗粉の上に転がし満遍なく塗せば出来上がり。

「毎朝六時から蒸し始め、一日二千個ほど。売り切れたら終いやて」。

年間三㌧の栗が、啓光さんの手を経て珠玉の逸品「栗粉餅」へと生れ変わる。

「昔の生栗は、九月から二月までやて。でも今は冷凍技術もようなったで、年中ありますわ。でも毎年天候によって、栗の甘味も採れる量も違ってくるし。中国の栗では硬すぎて。やっぱり大桑の栗が一番向いとる。その土地の恵みを素材に、その土地に生きる者の手で、お菓子に加工させて貰うのが一番」。

「井の中の蛙たるな」。

先代の教えと家伝の栗粉餅は、井の外に出た四代目に確(しか)と受け継がれた。

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「天職一芸~あの日のPoem 187」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「製本師」。(平成十八年四月二十五日毎日新聞掲載)

父が綴った日記から 喜怒哀楽が零れ出す        一つページをめくる度 家族模様がよみがえる       「還らぬ父を野辺送り 形見の皮のジャンパーで     父の日記を装丁す」 新たな日記筆はじめ

名古屋市中区の恒川製本所、二代目製本師の恒川雄三さんを訪ねた。

写真は参考

繁華街に埋もれる様な町屋。茶の間の奥の作業場には、製本前の学術論文が渦高く積み上げられ、大型の断裁機や箔押し機が周りを取り囲む。

「野依さんがノーベル賞をとった時の、あの論文の製本は、2日で仕上げたんだわ。ほらあ職人冥利だったわさ」。 雄三さんは、機械と材料の谷間に胡座(あぐら)をかいた。

写真は参考

「ここがわしの指定席だで」。何とも柔らかな笑顔は、そのまま人の良さを表す。

雄三さんは昭和十三(1938)年に、四人姉弟の長男として誕生。

小学一年の三月に空襲で焼け出され、母の在所の岐阜県各務原市へ。

「焼夷弾三発も喰らってまって。学生帽に戦闘帽、おまけに防空頭巾まで三つも被っとったのに、身体中火傷してまったて。意識失って気が付いたら、目と鼻と口だけあけて、包帯でぐるぐる巻きだわさ。ミイラみたいに」。

戦後名古屋へと舞い戻り、中学を出ると父の元で修業を始め、夜間高校へと通った。

「東京の岩波文庫で金文字押しの勉強したんだわ。たったの二週間だったけど」。

ほとんどが手作業の製本作業は、簡易に綴じられた論文の分解に始まる。

そして余分な箇所を取り除き、余白を糸でかがって背をボンド付け。

ボンドで厚みが増した背は、ハンマーで叩き均(なら)す。

「おんなじ高さにせんとさいが」。

一冊分の原稿を均し終えたら、それを包むようにきき紙と呼ぶ見返しを貼る。

天(あたま)と地(けした)、そして背の反対側の小口の三方を断裁し、背の丸みを出しながら膠(にかわ)とボンドで背固め。

表紙の芯となる段ボールの四隅を、ハサミで丸く切り落しクロスや鞣革(なめしがわ)をボンドとうどん粉糊で表紙貼り。

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題字や背文字に合わせて凸版の活字を組み、二百度に熱した箔押し機で印字。

見返しと表紙を貼り付けて、背の両端に溝を焼き付け五分ほどプレス機へ。

「表紙の角に丸みをつけるのんは、誰(だあれ)もよう真似せんですわ」。

昭和三十八(1963)年、岐阜出身の絹代さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「両親と子供、おまけに住込みの職人の面倒見ながら、ジグザグミシンで綴じを手伝ってねぇ」。絹代さんが懐かしそうに微笑んだ。

「昔の職人の日当は、にこよん(二百四十円)で、製本一冊が三百二十~三百三十円。そんな頃は何とかなったけど、今はもう日当も出んて。世の中バブルとかって浮かれとっても、私ら一冊もんだでそんなもん儲かれへんて」。

雄三さんは己が言葉を笑い飛ばした。

「この国の和綴じは、湿気の多い風土に適して、大したもんだて。水にも滲(にじ)まんええ墨さえ使ってあれば、和本は水に浸かってもちゃんと修復が利くんだで」。

和本を箱型に包み込むような「帙(ちつ)」は、洋書の硬い表紙に当たる。

「たまあに、革装を頼まれる方がおるけど、『湿気(しけっ)てまって直ぐに黴(かび)るでやめときゃあ』って言ったるんだわ」。

この道四十年の職人は、何の気負いもなくやさしく笑った。

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「本を読む人らは、読まん人より出世が早いんだて。ほんとに」。

数多(あまた)の研究者達が紡ぎ出した論文。

老製本師は今日も、人類の知産として黙々と綴じ上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 186」

今日の「天職人」は、三重県桑名市多度町の「心太(ところてん)職人」。(平成十八年四月十八日毎日新聞掲載)

多度の大社の参道で 軒を並べて涼を売る        テンツクテンと心太 椀に突き出し一啜(すす)り    床几に座した二人連れ 椀を片手に箸を割り       二本に分けてテンツクテン 甘く酸っぱい恋の味

三重県桑名市多度町の鳥羽屋。二代目心太職人の大平善正さんを訪ねた。

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昭和の半ば。

ランドセルを玄関に放り出すと、十円玉一つのお小遣いを握り締め、お好み屋へと一目散に向かった。

お目当ては、一文籤(くじ)や駄菓子に心太。

水を張った木桶には、小さな羊羹大の一本物の心太。オバちゃんは桶からそいつを掬(すく)い上げ、天突きに流し込む。

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そしてかき氷と兼用のガラスの小皿に向かって、天突き棒で一気に細長い心太を突き出す。

酢醤油にゴマを振りかけ、一本だけの割り箸を使ってあっと言う間に、喉へと流し込んだものだ。

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「昔は多度祭の時に、心太を食べる風習があったんやて。参道の店はもちろん、あっちこっちの民家でも、軒先で心太出して」。善正さんは、大きなお腹を揺らしながら、大声で笑った。

善正さんは昭和二十四(1949)年、六人兄弟の末子として誕生。

高校を出るとそのまま、両親と共に心太造りを始めた。

「上から順に出てってまうもんで、俺が継がんなんわさ。だでこの歳まで、いっぺんも他人様から給料なんて貰ったことないって」。

伊豆半島の稲取から天草を仕入れて乾燥させ、養老山脈の伏流水を満たした対流釜で五時間かけて煮る。

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トロトロの糊状になったところで搾り、型枠に流して冷却させれば出来上がり。

「昔はそのまま桶に入れといて、客の目の前で天突きに入れて突くのんが風流やったけど、今は衛生面がうるさいでのう。せやで日持ちするように酢に浸して、綺麗に包装せんと」。

食物繊維が豊富でありながら、カロリーはほとんど無く、高カロリー高蛋白に気を揉む現代人にはもってこいの食材だ。

「やっぱ三杯酢が一番旨い。関東ではそれに辛子を混ぜるし、京都では黒蜜で食べるし。まあ好き好きやろなぁ」。

海の恵みの海草と、養老山脈が濾過した水だけが原料。

「何でもそうだけど、水が命やて。ここから東へ揖斐川と長良川越えてみ、養老の水がソブケ(濁り)だらけやで」。

昭和四十五(1970)年、善正さんは二十一歳の若さで、近隣から一つ年下のゆき子さんを娶った。

「姉んたあが早よ結婚せえって、見つけてきたんだわ。だってお袋は仕事で忙しかったもんで、中学高校と弁当なんて作って貰えんかったんだで」。

一男二女を授かり、家業に奔走した。

「昔、多度大社の前で店出しとったんだわ。そん時に客が『スイマセン!これ箸一本しかありませんが』って、怪訝な顔するもんだで、『箸二本で食べると「痛風になる」って言い伝えがあるで止めときゃあ』って教えたったんだて。まあ今の人らは、心太の食べ方を知らんでかん。箸二本使ってうどんみたいに食べようとするで、ブツブツ切れてまうんだわ。心太は箸一本。椀の縁を口に宛がって、流し込むようにツルツルッと飲み込まんと」。

多度の杜に上げ馬神事の歓声が揚がれば、夏はもうすぐ。

「自分が毎日食べれんもんを、人様にはよう売れん」。

誰よりも心太を食べ続けた頑固職人。

ヒンヤリ、ツルッとした、庶民の涼感を絶やしてなるかと。

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「ついに南蛮の実がつきましたぁ!」

白いちっちゃな花が咲いて、楽しみにしておりましたら、ついについに!

御覧ください!

この可愛らしい南蛮の実!

自分で育てて見て初めて気が付きました!

実は、上に向かってなるものだと!

てっきり実が下に垂れ下がるものだと、勝手に思い込んでいたのです(汗)

収穫祭がとても楽しみです!

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「天職一芸~あの日のPoem 185」

今日の「天職人」は、岐阜市日の出町の「履物屋主人」。(平成十八年四月十一日毎日新聞掲載)

数奇屋草履をつっかけりゃ 飛び石の庭春朧(おぼろ)  淡き桜の可憐さに 時の経つのもつい忘れ        茶の湯一服野点(のだて)傘 早咲き桜風に舞う     前髪に降る一片(ひとひら)を 茶椀に浮かべ春爛漫

岐阜市日の出町、履物屋の末広屋。二代目主人の増田寿さんを訪ねた。

「もう縄文時代には、農作業用に履く田下駄(たげた)があったそうやて」。 寿さんは、店の一番奥で鼻緒を挿げる小さな作業場に腰掛けた。

創業は昭和二(1927)年。

「当時は柳ヶ瀬にも、芸子衆がようけおった色町で始めたんやて」。

再開発に伴い、現在の日の出町へと移転した。

寿さんは昭和十一(1936)年、五人兄弟の長男として誕生。

高校を上がった昭和二十九(1954)年、東京浅草の下駄屋へ修業に。

「穂積で柳行李買って、荷物を岐阜駅からチッキ(託送手荷物)で送ったんやて」。

下駄屋の倅ばかりの弟子四人と、住込み生活が始まった。

「それが大変やったんやて。柱の割れ目とかに、小豆より一回り小さい南京虫がおって、そいつに刺されて腫れてまって。だで寝る時は、布団の回りにクリークっていう、U字型の枠を巡らすんやて」。

U字に落ちた南京虫は、二度と這い上がることが出来ない仕掛け。

「親方が、落語を聞きに行け、歌舞伎を見に行けって、切符をくれるんやて」。

客の面前で鼻緒を挿げ替える間の、客あしらいの話題にでもと、親方の粋な計らいだった。

「たまの休みには、映画と日劇のダンスを見て、夕方からは寄席とストリップやて」。

何事にも大らかだった昭和の半ば。貧しくも輝いていた若き日。寿さんは表通りを見つめた。

三年の修業で鼻緒の挿げ方を学んだ。

まず、鼻緒の端の綿を抜いてしごき、後緒の先を縛り止め金槌で打つ。

鑢(やすり)のついた「やすりくじり」で鼻緒の穴を広げ、後緒と前緒を通し結ぶ。

「つぼ引き」で前つぼ(二本指の部分)を伸ばし、前緒の具合を確かめ、後緒のゆるみを決める。

草履の天に使用される材料は、鶏の足を剥いだものから、鮫の皮、蓑(みの)虫の巣、藁、白竹(しろうちく)、烏表(からすおもて/黒く染めた竹皮)、筍の皮、布、ビロード、コルクと様々。

「このお茶席の庭履きに使われる数奇屋草履は、筍の皮で編み込まれとるんやて。もう職人は、秋田にしかおらんのやと」。

一方下駄には、駒下駄、右近下駄、千両下駄、高下駄、日和下駄、庭下駄と、様々な意匠と用途に別れる。

昭和三十二(1957)年、新岐阜百貨店への出店にあわせ、寿さんは修業を切り上げ帰省。

「最初に採用した従業員が、女房なんやて」。

四年後、淑江(すみえ)さんと熱愛を実らせ結婚。

一男一女を授かり、今尚、和服姿の愛妻と二人、仲睦まじく店に立つ。

「こんな柾目で一本もんの、桐の下駄は少ななった。昔は柾目一本千円って言われたもんやて。一本の角材から、左右の下駄を切り出すのを『合い目取(あいめど)り』って呼んで、昔は『これ合いですか?』なんてよう聞かれたもんやて。でも、もう今ではそんな粋な人もおらんわ」。

写真は参考

縁は異なもの。

最初の従業員と、終生添い遂げることになろうとは。

桐の柾目にも勝る、合い目取りの似たもの夫婦。

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「君への讃歌」

「君への讃歌」は、名古屋の今池にあった今池芸音劇場で、ぼくが3か月に渡って開催した、Liveのために作り、Liveの最後を締めくくる曲として歌ったものです。

東京の音楽事務所からお誘いがあり、夢と希望を持っていざ上京を、と言う直前の3か月での出来事でした。

これが当時のチラシです。

このチラシによれば、1980年のこと。

ぼくが23歳の頃です。

各Liveを「助走」「滑走」「離陸」と位置づけた、三部構成のLiveで、チケットはぼくが唄っているイラストを手拭いに摺込み、それを三等分したものが各回のLiveのチケットでした。

とは言え、一つのイラストを三等分した手拭いなど、意味を成しませんから、ほとんどのお客様は、三回の通しチケットとして、一枚の手拭いチケットをお求め下さったものです。

まあ、三回のLiveに足を運んでいただきたかったぼくは、それが狙いでもありました!

って、どこぞかの落ち武者殿のように「腹黒」ではありません。

ただ、ぜひとも三回すべてのLiveにお越しいただきたかった、それが本音だったのです。

今夜は、バラード風の弾き語り「君への讃歌」をお聴きいただこうと思います。

「君への讃歌」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

サヨナラ愛したこの街とそして君とも 綴りかけた物語のペンは今置くよ

アリガトウ君は誰よりやさしかった 酔いにまかせた夜はきっと逢いたくなるはず

 出逢いはただそれだけで 罪深いものだね

 こんな別離と知れば 逢わなきゃよかった

サヨナラサヨナラ心やさしき人たち いつまでもぼくは忘れない素敵だった日々を

アリガトウアリガトウ心を言葉に代えて 君だけには本当のことを言えたら良かった

 夢さえ捨て去れたなら 歯痒い想いも

 しないですべて君だけに 生きて行けたのに

 サヨナラ愛していたよ 本気さ今でも

 サヨナラ愛すればこそ 別離は辛いね

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品とはややことなりますが「捩じり鉢巻きで大奮闘!おぞましき夏休みの宿題」。

ぼくが小学生の頃は、夏休みの宿題なんて後回しにして、三重の田舎の従兄妹の家で川遊び三昧でした。

そしてお盆に両親が墓参りにやって来て、そして嫌々名古屋へ連れ帰られたものでした。

そうしてお盆が明けると、夏休みの宿題のツケがどっさりと待ち構えているという、おぞましいものでした。

でもお母ちゃんの目を盗んでは、夏休み最後の日まで、遊びっからかして、ついには夏休みの宿題なんてほとんど手付かずで、二学期の始業式には玉砕覚悟で腹を括って登校したものでした。

今回は、そんな「捩じり鉢巻きで大奮闘!おぞましき夏休みの宿題」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。