「未知しるべ」

人生とは、その要所要所で、常に右へ行くか左へ向かうかを選択し、その結果として今があるのでしょうね。

だからあの時、あっちの道を選んでさえいたらとか、今更考えて悔いて見ても詮無いことです。

逆にどんなに名声や地位を欲しいままにした方であったとしても、すべてが完璧に自分の思い通りになることなんて無いのではないでしょうか?

まるで弥次郎兵衛のようなもの。

何かを得れば、その分気付かぬだけで、ちゃんと何かを失っているものではないでしょうか?

この世にいつか暇乞いをする日が訪れた時、せめて弥次郎兵衛の振り子が真っすぐになり、穏やかに人生を締めくくることが出来れば、それが何よりのように思えてきます。

しかし邪な考えや、妬みや嫉み、そんなものに心を奪われたまま、人生の幕を引かなければならぬ人もいることでしょう。

失うことを恐れるよりも、失った時にまだ自分には余分なものがあったんだと思いたいものです。

未知は、どこまで行っても未知のままです。

誰にもどうなるか分からないから未知なのでしょうね。

皆様の目の前に現れる「未知しるべ」が素敵な未来へと続きますように!

今夜は「未知しるべ」お聴きください。

「未知しるべ」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

背中越しに君を抱けば 甘い髪の馨りがした

腰に回した指先 震えるほど愛しい

力ずくで君を奪い 地の果てまで連れ去りたい

戯れと笑われようと それしかぼくに出来ない

 未知しるべなき二人の道 幸せは追うものじゃない

 二人で泣いてそして笑えば それだけでも幸せは訪れる

たとえ二股の分かれ道が 行く手を惑わそうと

君の手握り締めて 信じた道を行くだけ

急な岩場が続くならば ぼくは君の翼になろう

この世の風を集めて 君と二人羽ばたくだけ

 未知しるべなき二人の道 幸せは追うものじゃない

 明日を祈り今日を生きよう それだけが二人だけの未知しるべ

 未知しるべなら二人生きた その証の足跡でいい

 明日は今日を思いのまま 生きた者への褒美だと信じて

続いては、長良川国際会議場大ホールでのLive音源から「未知しるべ」お聴きください。

★今夜お誕生日をお迎えの、オータムオキザリスさんに、ささやかなお祝いソングを歌わせていただきます。

お誕生日本当におめでとうございます!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「駄菓子屋の思い出」。

ぼくの子供時代の家の近くには、お好み焼きも焼きそばも、ついでに味噌おでんからトコロテンまで、なんでもありの「トシ君家のオバチャン家」と呼んだ、駄菓子屋がありました。

そこには日用品のチリ紙から文房具に、一文籤までなんでもござれの、子どもたちの楽園でした。

たまぁ~のたまぁ~に、よっぽどお母ちゃんが機嫌がいいと、一緒にオバチャンのお好み焼きを食べに連れて行って貰ったものでした。

ある日の事。お母ちゃんとお好み焼きが焼きあがるのを、大きな鉄板台の前に陣取り、オバチャンの手さばきを見ていた時でした。

真っ黒な鉄板を拭く雑巾のような台拭きを眺めていると、何処からどう見ても股引の社会の窓が見えるのです!

こっそりお母ちゃんにその事を告げると、それを見た途端お母ちゃんはぼくに「あれはオジチャンの股引やで。もう古くなったから、台拭きに格下げになったんやわ」と大笑い。

今の時代だったら、そんな物を見つけたら・・・。

昭和の時代は、緩やかだったものですね。

今回は、そんな「駄菓子屋の思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.01「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、フードロスを無くそうと取り組んだ、究極の残り物クッキングです。

和食の基本中の基本とも言える、ある物を出した後の残り物を使って、ちょいと韓国風にして、ごま油とお醤油でキリン一番搾りのあてにして見ました。

ところがどっこい、侮るなかれ!

これがまたまた絶品の掘り出し物となっちゃったんですから、何事もやって見るべきですねぇ。

って、そんなところがヒントでしょうか?

さて、お目の高い皆様のお答えや如何に!!!

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「天職一芸~あの日のPoem 196」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市足助町の「カステーラ屋女将」(平成十八年六月二十七日毎日新聞掲載)。

瀬音涼しき足助川 岸の紫陽花雨に咲く         昔家並の軒先で 雛の燕が母を呼ぶ           茶でも如何と暖簾越し 噂話に講じつつ         茶請け一切れカステーラ 味噌の風味に里心

愛知県豊田市足助町、和菓子の加東家(かとうや)、初代女将の加藤綾子さんを訪ねた。

「そこら中、江戸時代からの埃が積っとるだに」。そう言って老婆は、座布団を勧めた。

嫁の美子さんを傍らに従え大笑い。

「江戸の頃この家は、造り酒屋で、幕末の加茂一揆ん時に、あの床柱が切り取られて、蔵から酒が川のように流されたらしいだぁ。私ら戦後にこの家買ったで知らんだけど」。

綾子さんは大正十(1921)年に、近隣の旧阿摺(あすり)村に生まれた。

そして昭和十五(1940)年、和菓子の渡り職人として腕を磨く、故・正四さんの加藤家へと嫁いだ。

新婚間もない二人をまるで引き離すかのように、翌年夫は招集され戦地へ。

「今の北朝鮮へ行ったきり。その後、復員者から『加藤さんは夏服着とったで、恐らく南方へ行っただぞ』って」。

日毎敗戦色も深まり、やがてラジオから流れる玉音放送に、この国の総ての民が咽び泣いた。

「主人が終戦を迎えたソロモン諸島は、皆餓死して一割も生きとらんと聞かされて、そんでも諦め切れんだぁ。だもんで近くの抱き地蔵さんへ毎日通っただて。そしたらある日、お地蔵さんが『夫は生きとる』って言わっせるだぁ。それから三日後、主人からの手紙が届いただわ」。

先に戻った傷痍軍人に、夫が託した手紙だった。

「しばらくしたら、ガリッガリに痩せた夫が、ひょっこり帰って来ただぁ。地獄から」。綾子さんの瞼が微かに潤んだ。

翌年には長女が、続いて二人の男子が誕生。

代用物資を調達しては、菓子作りの真似事が再開された。

「香嵐渓のお土産にと、芋飴を餡にした最中を作っただて。でも満足に包装紙も紐も無いだに。だで、楮(こうぞ)の皮が入ったシベ紙に包(くる)んで、竹皮裂いて紐にして。あまりに情け無い時代だったわ」。

昭和二十六(1951)年、戦後の配給時代が徐々に終わりを告げようとしていた。

「キューバ糖しか手に入らん時代。中に虫が入っとるだで」。正四さん考案の、味噌風味のカステーラ、名代の逸品「かえで路」がこの年、産声を上げた。

「香嵐渓の参道に、紅葉が散る風景を、心に描いて作り上げただに」。

今尚、看板商品として、先代の味は二男哲久(のりひさ)さんに受け継がれる。

小麦粉に水で溶いた白味噌と、砂糖と蜂蜜を混ぜて練り上げ、型に流し込み芥子の実を振り掛け、オーブンで一時間かけて焼き上げる。

「夫は最後に息引き取る寸前まで、焼き菓子の試作品を作り続け、名前まで考えとっただわ」。享年五十八。正四さんは、戦争に蝕まれた職人人生を、少しでも取り戻さんとばかりに、今際の際まで菓子作りに専念したという。

「あっ、あれが三代目を継ぐ泰幸(やすゆき)だわ。あの子が高校の頃、夫が戦地で作って持ち帰った、檳榔樹(びんろうじゅ)の箸を持たせてやっただ」。綾子さんは得意げな表情で、孫へと振り向いた。

「あの子は小さい頃から、お爺さんの戦時中の話が好きやったで。他所へ修業に出た時も、ちゃんと持ち歩いて、今も大事に使っとるだに」。母美子さんも自慢げ。

硬質な材とも言われる檳榔樹の箸は、素朴な味噌カステーラの味を、三代に渡って護り続ける職人の気骨。

陰を日向にそれを支える、天晴女将二代の朗らかさ。

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「天職一芸~あの日のPoem 195」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「魚屋」。(平成十八年六月二十日毎日新聞掲載)

夕立過ぎた店先は 前掛け姿主婦たちが         刺身に煮物塩焼きと 我先群れる安売りに        へいらっしゃいの掛け声と 捻じり鉢巻きゴム長で    客の注文手際よく 出刃振る粋な魚屋さん

三重県桑名市の鮮魚店、魚良(うおりょう)の二代目店主水谷茂良さんを訪ねた。

「『おい、娘おるかぁ?』って、お客さんらがやってくるんさ。誰の事やろって思たら、家の婆さんの事なんやさ」。幾分額の後退した、大きなおでこをピカピカ光らせながら、男はあっけらかんと大笑い。

「親父が良平やったで、魚良なんやさ」。

茂良さんは赤須賀の、浅蜊・蛤・蜆を主とする漁師町で、昭和二十九(1954)年に誕生。

「親父は復員後、駅前の闇市で魚屋はじめて。その後、昭和四十八(1973)年に駅前再開発でここへ」。

長男故の反撥心か?

工業高校から大学は経済学部へ。「まあ、今となっては何の役にも立てへん」。

この店に移転した十九歳の頃から、それでも毎日店を手伝った。

「魚捌くのなんて半年やさ。魚なんてどれも、骨組みは皆一緒ですやん」。

魚屋の朝は早い。日も明けやらぬ四時起き。

名古屋市熱田区の中央卸売市場で、四季折々に水揚げされた活きの良い魚を見極める。

「秋の魚が一番。値も安いし脂も乗って、とにかく旨い!魚屋が食べたいって思える魚を買(こ)うとかんと」。いくら新鮮で眼がギラギラしていても、肝心の身が細っていては駄目。

「わしら年がら年中、魚の良し悪しを見とんのやで、お客さんも安心やさ」。

道具は出刃に刺身庖丁と切身庖丁。三本の庖丁で、仕入れたばかりの魚が手際よく捌かれて行く。

写真は参考

「百㌘千円も二千円もする高級魚なんかより、わしは一匹二百円もせんような鰯や秋刀魚が一番ええわ!」。

仕入れから戻ると、午前中は刺身や切身を捌き、皿盛りや値付けに追われる。

それが終われば今度は、魚を焼いたり煮たり。一日中立ちっぱなしの作業は夜八時まで続く。

茂良さん三十歳の昭和五十九(1984)年。実家から歩いて一分の距離に育った直美さんと、目出度く結ばれ一男一女を授かった。

「これの実家の母親に、よう遊んでもうて。『三十歳になっても独り者じゃあかん。しゃあないで家の娘、嫁にやろか』って」。茂良さんは照れ笑い。

「私、ボランティアで嫁いだみたい」。桑名の真っ黒な蜆を、見事な手付きで選り分けながら、直美さんも笑った。

「家の実家は蜆捕りの漁師やったでな」。直美さんは片手に乗せた蜆を振り、その音だけで良し悪しを聞き分け、傷んだ蜆を弾き飛ばす。

「この幻の『桑名の身蜆』は、もうそこらじゃ売ってないんさ。手間やでなぁ」。茂良さんが剥き身のパックを指差した。

赤須賀で水揚げされた蜆を、一晩水道水に浸けて砂を出し、翌朝湯がいて剥き身に。

「昔の時雨煮は、赤須賀で揚がった蜆やったけど、今はもうほとんど輸入もんやさ」。

だからこそ、「幻の桑名の身蜆」と言われる由縁だ。

「ああ、あれが家の看板娘なんさ」。茂良さんは店先で客と親しげに話す、母千代子さんを指差した。

「ああやってお客さんと、他愛も無い話するんが、一番愉しいんやさ。仕事はキッツイけど、その分こうして潮の香りに包まれとんやで」。

小さな店内に、三人の屈託の無い笑い声が、いつまでも響いていた。

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8/25の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「高野豆腐のバターソテー&夏野菜の味噌クリーム煮」

今回もお目の高い皆様からは、ニアピンのお答えが多数寄せられました。

中には、見事に「高野豆腐」を見抜かれた方もおいでになったほどです。

封を切ったまま、保存庫で随分眠っていたままの高野豆腐がございました。

いかに保存食とは言え、そろそろ何とかせねばとずっと思っていたものです。

そこで今回は、冷蔵庫の野菜室に入っていたトマトと、前の晩のビールのお供の枝豆を使って、こんな「高野豆腐のバターソテー&夏野菜の味噌クリーム煮」に挑んでみました。

といっても、まったくなぁ~んてこたぁない、簡単な残り物クッキングです。

まず高野豆腐をお湯で戻し、よく絞って水を切り、一口サイズに切り分け、フライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立てて、高野豆腐をソテーしブラックペッパーを振っておきます。

次にそのフライパンでトマトと鞘から取り出した枝豆を軽く炒め、そこに掛けて味噌付けて味噌と生クリームを入れて一煮立ちさせたら完了。

ぼくは「角久の味噌カツソース」しか無くって、それと生クリームで間に合わせて見ました。

なかなか仄かな甘味噌と生クリームがいい仕事をしてくれまして、高野豆腐もモッチリとバター風味をまとい、キリン一番搾りにゃあなんともピッタリなおつまみとなりました。

これだったらお子様にも喜んでいただけそうなお味です。

ぜひぜひお試しあれ!

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「ええっ?滋賀県にも『愛知』が???」

これは幟で「愛」の文字が隠れてしまっていますが、近江鉄道の「愛知川駅」のちゃんとした駅舎です。

ちょっと野暮用があり、初めて米原から近江鉄道に乗って見ました。

なかなかのローカルさを満喫しながら、車窓からの眺めも随分楽しませていただけました。

そこで「愛知川」と書いて「えちがわ」と言う駅を知り、地名を知ることが出来たのです。

何とこれは、愛知川の駅舎の前にある郵便ポストです。

愛知川の伝統工芸「びん細工手毬」を模したポストとか!

こちらが本物の、「びん細工手毬」ですが、実に奇麗な物でした。

明治の初期に始まったものとか。

係りのオバチャンに聞くと、綿をボールのように真ん丸に丸め、その表面に刺繍をあてがい、球体の手毬から中の綿を抜いてビンの中に入れ、再びセッセセッセとビンの中の手毬に綿を詰めて真ん丸にしてあるんだそうです。

明治の初期と言えば、ビードロがガラスと呼ばれ、多少は庶民の手が届くようになったとはいえ、まだまだ高級品だったのでしょうね。

なかなかリフレッシュできた小旅でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 194」

今日の「天職人」は、岐阜市今川町の「印判彫刻師」。(平成十八年六月十三日毎日新聞掲載)

初めて筆を走らせた 雨の紫陽花絵手紙は        切なさだけの初心(うぶ)な恋 ただ求め合い砕け散り  郵便受けの絵手紙に 懐かしき日々滲み出す       結びの落款(らっかん)印影は 二人で彫った仮名一字

岐阜市今川町の周山堂、二代目印判彫刻師の栗山宜久(よしひさ)さんを訪ねた。

「『モクの注文は、心入れて彫れ』って、父によう言われましたわ。象牙と違って手抜きするからやて。『安い物ほど手を抜くな』。今も大切な戒めと、心に刻んでます」。

「父は血友病で、体が弱く学校へも行けず。足も不自由だったため、印判彫刻師として昭和十一(1936)年に開業したそうです」。

開業後も毎週夜行列車に揺られては、東京の篆刻(てんこく)師の門を叩く努力家だった。

写真は参考

そんな父の元、四人兄弟の長男として、宜久さんは昭和二十(1945)年に誕生。

半年後に終戦を迎えると、この国は驚異的な復興を現実のものとしていった。

「大学出ても最初は、跡継ぐつもりもなかったんやて。ある日父から『継ぐか?』と聞かれ、しばらく考えて頷くと、父がニコッと笑って。よう忘れませんわ」。

昭和四十二(1967)、新米彫刻師見習として宜久さんの修業が始まった。

「私もそれから毎週日曜になると、東京の大家の元へと勉強に通いました。行きは新幹線で。夜九時に修業を終え、夜行列車で岐阜へと」。弛まぬ地道な努力の積み重ねが、彫刻師としての天性を開花させた。

「『もうお前は俺を越えた』って、父からそう言われまして」。二十五歳になったばかりの年だった。

その二年後父が切り出した。「俺はお前が九歳の頃から、嫁さん決めとる」と。

宜久さんは育子さんを妻に迎え娘二人に恵まれた。

先代の話を間に受けるとすれば、育子さんはたった三歳で嫁ぎ先を決められたことになる。何と頑固一徹な先代であったことか。

しかし上の孫娘の誕生を翌月に控え、無念にも先代は五十七歳の生涯を閉じた。誰よりも、初孫を一目みたいと祈りながら。

最高級な印材と言えば象牙。

中でも硬く艶があり、骨の目の密度が濃い物が絶品とか。

「象牙海岸(コートジボアール)辺りのもんが一番硬く、南下するほど柔らかくなってくんやて。彫ると直ぐにわかりますわ。硬いとバリバリ言いますし、柔らかいとサクサクと彫れますから」。

一本二㍍、約二十㌕の象牙から、最高級とされる印材は三%足らずしか取れない。

牙の真ん中、神経の先端より先が最も良質とされる。

「外へ行くほど目が粗くなります」。

印判彫刻の手順は、鑿(のみ)を入れる印面が水平になるよう、砥石で研ぎ上げる「面磨り」に始まる。

次に印面に逆さ文字を配字。

続いて鑿の小刀で粗彫りし、片刃で凸面を仕上げ。

写真は参考

凸部を支える土手を、鑿の小刀で「浚(さら)え彫り」。

「土手を浚える時には、呼吸を止めんと字が躍るでね。だから途中で息が切れるんやて」。宜久さんが笑った。

坊主と呼ぶ丸型の綿入れで右手を支え、印挟みで印材を挟んで彫り進む。

鑿の先を支える左手親指の第二関節には、大きく硬い胝(たこ)。

鑿を握り締める右手中指の第二関節は、四十年に及ぶ作業で大きく太く変形してしまった。

「印は個人の信用を守る鍵やで。スッキリと綺麗な印影を出さんと」。

一本に四時間。

印判彫刻師は、直径二㌢にも満たないような小さな世界に挑む。

わずか一.五㍉の深さに息を凝らし、際立つ印影を心に描き今日も寡黙に鑿を揮(ふる)う。

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「天職一芸~あの日のPoem 193」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「串かつ屋夫婦」。(平成十八年六月六日毎日新聞掲載)

首のタオルで汗を拭き プハアとビールを一息に     へいお待たせと黄金色 頑固親父の串かつ屋      ソースの海に沈めたら アツアツのままかぶりつき   ビール一気に飲み干せば 今宵の憂い泡と消え

名古屋市千種区の串かつの多古八(たこはち)、二代目店主の加藤清司郎さんを訪ねた。

覚王山日泰寺へと続く参道。

毎月二十一日の弘法様の縁日は、今尚多くの人で賑わいを見せる。

「最初は店先で、持ち帰りように串かつ揚げとったんだて。親父が『小遣い銭拾いだ~』って言うで」。 清司郎さんは、ロイド眼鏡を外しながら笑った。

「串かつだけだったのに、知らんとる間にお客さんが『ご飯食べたい』とか、『大根おろしくれ』『野菜炒め作ってちょ』って。だからこの献立は、みんなお客さんが勝手に作ったの」。傍らで妻の孝子さんが壁の献立を指差した。

清司郎さんは昭和七(1932)年に誕生。

戦後新制中学を上がると、路面電車の架線工事に職を得た。

五年後の昭和二十七(1952)年に退職し、今度は旧スバル座の映画技師に。

「社長と仲よかったでな」。 戦後復興を朝鮮特需が後押しする中、本格的な邦画ブームが到来した。

連日の大入り満員。参道には人が溢れ出した。

誰もが明日を信じ、ささやかな未来を託し、今日を倹(つま)しく行き抜いた。

昭和三十五(1960)年、父が多古八を定年後の小遣い稼ぎにと開店。

「当時串かつ一本八円だったで、多古八だって」。

昭和四十二(1967)年、岐阜県羽島市出身の従姉妹を妻に迎え、一女を授かった。

その三年後、映画技師を辞し父に乞われ店を継ぐことに。

「まんだ映画全盛の頃だったで、俺りゃあ串かつ屋なんてやりたなかったわさ」。

持ち帰り専門のはずが、客の要望に応え、いつしか店内も拡張。

「どえらけねぇ満員で。そんでも儲かれへんでかんわさ。えりゃあばっかで」。清司郎さんは妻を見つめて笑った。

多古八名代の串かつは、赤身の腿肉だけを使用。

肉を串に刺し、うどん粉と卵を混ぜた衣を付け、パン粉を塗してラードでカラッと揚げる。

「揚げたての串かつに、どての味噌を絡めて食べるのが一番人気だわさ。カレーのソースもあるけど、それもお客さんの発案」と、孝子さん。

「あの『ピータマ』ってのは、ヤーサンって渾名(あだな)のお客さんの好物。ピーマンと卵の炒め物だけど、何だしゃんこいつがまたよう売れるでかんわさ」。

昭和四十(1965)年代から五十(1975)年代にかけ、多古八の絶頂期は続いた。

「弘法さんの縁日には、一日千五百~二千本くらい揚げとったて。だで縁日の一週間前から、家族皆総動員して仕込んで」。

しかし昭和が終わりを告げる頃から、参道を行き交う人波にも翳りが生じた。

「昔はお客さんも家族同然で、和やかだったでねぇ。三日も顔見んと、『久しぶりだねぇ』って。それに比べたら、今は何だか世の中全体が、ギスギスしてまった感じだわ」。孝子さんが夫を見やった。

店に通い詰める学生が、郷里に戻ると、帰りがけに両親から多古八のもう一人の両親へと、土産を持たされることもしばしば。

「実の娘は一人っきり。でも大学に通っとる間の四年間、我子のように育てた子らは数え切れんて」。夫婦は見詰め合って思い出し笑い。

「まあわしで終わりだわ。こんなえらい仕事」。

「でもお金に代えられん物を、お客さんからようけ貰ったもんね、お父さん」。

開けっ放しの店先。

参道を梅雨の湿った風が吹き抜けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 192」

今日の「天職人」は、三重県津市の「生ハム職人」。(平成十八年五月三十日毎日新聞掲載)

土曜の昼の放課後に 母から十円貰っては        市場の中を肉屋へと ハムカツ買いに一目散       千切りキャベツ従えた ハムカツ様のお出ましだ     たっぷりソース振掛けて 丼飯でかぶりつく

三重県津市の松阪ハム、工場長の橋本覚さんを訪ねた。

「元々動物が好きでなあ。子供の頃はよう豚相手にお医者ゴッコしたもんやさ」。

覚さんは同市の兼業農家で、四人姉弟の長男として昭和二十一(1946)年に誕生。

久居農林高校畜産科に学んだ。

「当時は動物性蛋白をよっけ取れって時代やったし」。

昭和三十九(1964)年、卒業後松阪ハム(旧伊勢湾飼料畜産)へ入社。

東海道新幹線が開通し、第十八回オリンピックが開幕。

「ハムの製造は一年前に始まったばかりで、技術的に未熟やったもんで、冷蔵庫が不良品で一杯になっとんさ。『これじゃあかん!なとしても独り立ちせんと』って」。

ハムを覆うビニール製のケーシングの中で、肉とつなぎの魚肉がくっつかず加熱の度に離水した。

昭和四十(1965)年頃の主流は、豚・マトン・馬肉に、メバチマグロやカジキマグロを主原料としたプレスハムと、真っ赤なウインナーソーセージ。弁当のおかずには欠かせぬ一品だった。

ところが昭和四十年代も後半には衰退期へ。

「徐々に品質が低下して、お客離れんなってさ」。入れ替わるように、ロースハム・ベーコン・粗挽きウインナー・焼き豚が主力の座へ。

日本人の食への趣向が変わり行く中、橋本さんは昭和四十六(1971)年に妻を得、二人の男子をもうけた。

「昭和五十五(1980)年頃には、欧州式の本格的な商品が求められるようんなってな」。

三十五歳になった昭和五十六(1981)年、本場西ドイツのシュツットガルトの地、キューブラー社で七ヶ月に及ぶ修業に就いた。

「最初の半年間は、プッツェン言うて、器具の洗物と骨抜き、それに骨場へ捨てに行かされる雑用ばっかやさ。ほんで日本へ帰る一ヶ月前んなって、やっと技術的なことをやらせてもうて」。

満足に言葉も通じぬ異国。

朝五時から夜六時までの過酷な作業。雑用の隙にマイスター達の仕事振りを盗み見ては、夜毎日記に綴った。

『日本に帰ったら、日本人好みの生ハムを作ろう。まだ日本には無いものを』。

帰国後、さっそく生ハム作りに着手。

「ところがこれが全然売れやん。時代がも一つ早すぎたんやろな」。

しかしその後も改良を重ね、現在の製品へと松坂ハムを導いた。

生ハム作りの基本は、永年の目利による豚肉の仕入れ。

骨抜きをして脂と筋を取り除き、ロース・バラ・腿・腕・ヒレに分割。

次に赤肉から脂肪を切り落し、円筒形に成型し塩と発色材を肉にすり込む塩漬(えんせき)作業へ。

百㌕の肉に三㌕の塩がすり込まれる。

そして二~三℃で一週間冷蔵。

次にピックレーキと呼ばれる旨味付け。

塩と五種類のハーブと香辛料が調合され、二時間煮込んで抽出された液体に肉を付け込み再び一週間。

次の充填では、円筒形で通気性のあるケーシングに肉を入れ、室温十五℃湿度七十五%でぶら下げて丸一日乾燥。

さらに十八℃前後のスモーク室で丸二日。仕上がりまでゆうに三週間。

松阪牛のハムは無いかと問うた。

「松阪牛は良すぎるで、そのまま食べた方が旨いやろ。まあこれ食べてみ。今、試作中やけど」。

橋本さんの秘蔵作品。

松阪牛の霜降り生ハムだ。

初めて味わう未知なる食感。

しかし後数年もすれば、名高い高級レストランの前菜として、再びお目にかかるかも知れない。

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「天職一芸~あの日のPoem 191」

今日の「天職人」は、岐阜市金町(こがねまち)の「茶屋店主」。(平成十八年五月二十三日毎日新聞掲載)

寝惚け眼の朝ご飯 卓袱台囲む父と母          海苔に味噌汁生卵 割れば双子に大騒ぎ         母は湯飲みに茶を注ぎ 茶柱立ったと浮かれ顔      思えば貧しい昭和だが いつも茶の間に笑い声

岐阜市金町の明治屋茶舗、二代目の茶屋店主の藤森春美さんを訪ねた。

「♪夏も近付く八十八夜♪」

立春から疾(と)うに八十八夜も過ぎ、季節は早入梅の到来を予感させる。

新暦五月二日頃の八十八夜は、日本独特の暦日で、古来より茶摘や養蚕、それに野良仕事にとっての一つの目安とされた。

「今は一年でも一番重要な、荒茶の買い付けをしる季節ですでねぇ」。春美さんは、妻が差し出した茶を旨そうに口に含んでつぶやいた。

初代は岐阜市御浪町の茶舗で修業を積み、昭和三(1928)年に高野町にて創業。春美さんは昭和六(1931)年、二人兄弟の長男としてこの家に生まれた。

子宝に恵まれ、家業も順風満帆。

それから三年、初代は岐阜駅から北に延びる金町の一等地に、新店舗を構えた。

しかし時代の荒波は、何人たりとも諍(あらが)うことも出来ぬ、忌まわしい戦争という渦の中へと引き込んで行った。

「岐阜空襲で店も何もかも、みんな丸焼けやて」。

春美さんは遠くを見つめるように笑った。

戦後は俄仕立てのバラックで営業を再開。戦後の復興の槌音に合わせ、家業も再び隆盛を極めた。

「戦争や敗戦で身も心も荒んどっては、いいお茶なんて飲む気にもなれませんて」。

東京の大学を卒業すると、跡継ぎとしての帰省を前に、静岡県の牧の原茶園で製茶の工程を修業。

「と言っても、わずか三ヶ月半やったけど」。春美さんは品よく笑った。

「八十八夜に手摘みされた一番茶を、深蒸しとか中蒸しに分けて蒸す。次に機械で茶葉を揉み、形揃えしてバスケと呼ぶ真っ赤に熾った炭火の上の鉄板で、火入れして乾燥させれば荒茶の出来上がり。今はみんな機械がしるんですけどね」。

昭和二十八(1953)年、茶所の本場で修業を終え家業に就いた。

「茶葉の産地は、地元の揖斐茶に白川茶。それに静岡茶や宇治茶と、伊勢茶に九州の八女茶。抹茶や玉露はかぶせって言って、茶を摘む二十日程前から黒いビニールで覆って直射日光を抑えるんやて。昔は藁掛けやったけどね。だから円やかな味になる」。

一方、太陽の陽をしっかり浴びる煎茶。煎茶を摘んだ後に残る、大型の葉や茎で作る番茶。店先で芳ばしい香りを振りまく、番茶を高温で煎るほうじ茶。

「お茶の種類はまだまだありますよ。後はお客さんの好みに合わせ、荒茶を買い付けて低温倉庫に保存して、次の年の八十八夜まで大事に寝かせとかんと」。

春美さん二十五歳の昭和三十一(1956)年、羽島市出身の圭子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「私は田舎の出やで、最初は商売が苦手やったんやて」。今年金婚式を迎えた妻は、すっかり堂に入った手付きの茶筅捌き。「まあ一服どうぞ」。

店の奥には、茶と墨書された張り紙の茶箱が居並び、明治初期頃まで使われたと言う茶壷が、茶葉へのこだわりを信条とする茶屋の姿勢を裏付けるようだ。

茶溜りに残る翡翠の雫。

小さな泡と泡が隣り合わせ、やがて静かに消えて逝く。

まるで最高の茶飲み仲間を得、四方山の茶飲み種(ぐさ)に明け暮れた一日を、静かに終えるように。

金婚式を迎えた老夫婦。もう十三年連れ添って、共に米寿を祝いつつ「八十八の升掻(ますか)き」と洒落こめば、茶屋商いも大繁盛。

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