「My Fanny」⇒「All My Family」

表題の「My Fanny」⇒「All My Family」って、なんのこっちゃーって疑問を抱かれるのも確かでしょう。

実は以前のラジオの深夜放送でも、幾度かお話しした記憶がありますが、「My Fanny」も「All My Family」も歌詞こそ違えども、メロディーはまったく同じものです。

これらの曲が出来たのは、23~24歳の頃であったと思います。

最初に出来たのが「My Fanny」です。

これは名古屋の柳橋にあったちょっと英国風のパブの店名「My Fanny」だったかただの「Fanny」だったかを、ちょっと仮想の国境を超えた国の恋人の名に拝借したものです。

当時もぼくは無知だったため、英国における「Fanny」にはちょっと卑猥な意味合いが含まれているとも知らず、その音感の響きの良さと、「Fanny」の持つ良い方の意味合いだけで、仮想の恋人の名に拝借してしまったものでした。

もしかすると柳橋の英国風パブは、洒落を利かしてそんな卑猥な意味合いで命名されていたのかも知れませんが!

いずれにせよ、そんな異国の美女「Fanny」との、仮想Love Songでした。

ところが当時、ぼくのワンマンコンサートをプロデュースしてくれ、デモ・レコーディングなどにも力を貸してくださっていたプロデューサー氏から、「もっとさぁ、フヘン的な歌詞じゃなきゃダメだよ」と言われたものでした。

さてこれまた厄介な、「フヘン的」ですが、「普遍的?」「不変的?」「不偏的?」???

同じ「フヘン」の発音ながら、こんな3つもまったく別の意味の言葉があるわけですから、口で言われたら???えっ、それって「普遍」「不変」「不偏」となってしまうものです。どうせならば、紙に文字を書いて説明して下されば良いものを!

ですからぼくなりの解釈で歌詞を作り直したのが、後発版の「All My Family」です。

今日はまず弾き語りで、本当のオリジナルだった「My Fanny」をお聴きください。

「My Fanny」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

夜空を駆ける流星よ あいつを連れ去る船の

行く先を照らして 遥かなる海を越え大陸まで

 Oh My Fanny 出逢った時から 別れが来ると 気付いていたさ

 Oh My Fanny 生まれ変われたら 青い瞳で 愛せたらいいね

短い命を散りばめて 夜を渡る流星よ

お前にわかるはずさ この俺のやるせなさそして愛しさ

 Oh My Fanny 俺の人生に ひときわ輝く 出逢いと別れ

 Oh My Fanny 抱き合えばただの 所詮男と女でしかない

 Oh My Fanny 俺の人生に ひときわ輝く出逢いと別れ

 Oh My Fanny 生まれ変われたら 青い瞳で愛せたらいいね

そして続いては、ヤマハのスタジオウイングで収録した、まだ歌詞を変更する前の「My Fanny」のデモ・レコーディング音源をお聴き願います。が、しかし!ぼくの操作ミスで前半を少し消してしまったため、不完全なままで申し訳ありませんが、大目に見ていただければ幸いです。

そして続いては、弾き語りの「All My Family」です。

「All My Family」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

恋人よ君の頬伝う 一筋の光は きっと夜空に降る

煌めく星になると信じておくれ

恋人よ君の哀しみは 今風に抱かれ 果てしない宇宙(そら)へ

旅立つよだから泪見せないでよ

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

恋人よ君の口笛に 星たちも集う 寄せる波の調べ

真夜中に響き渡る風のシンフォニー

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

続いては、ラジオの深夜放送でもよく流させていただきました、ヤマハオールスターズ版の「All My Family」をお聴き願います。

★そして今日は、9月14日月曜日にお誕生日をお迎えになられます、ウメピョンさんからお祝いソングをリクエストいただきましたので、ささやか~なお祝いをさせていただきます。

もちろんウメピョンさんより数分前に産声を上げられました、「ほうずき」さんのお祝いも併せてさせていただきます。

お二方、お誕生日おめでとうございます。どうか素敵な1年をお過ごしください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが、「怖いながらもちょっぴり愉しかった台風の思い出」。

ところで皆様は、台風10号の被害はございませんでしたか?続けざまに押し寄せた、台風9号、そして10号で被害に遭われた奄美地方や沖縄、そして九州の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

まさにわが家は伊勢湾台風で家財道具のすべてが浸水し、命からがらアパートの二階へ避難して、なんとか助かった経験がありましたから、台風が近付いているとなると、そりゃあもうお父ちゃんもお母ちゃんもただ事じゃありませんでした。

お父ちゃんも台風が上陸しそうだと知ると、会社を早引けして家に戻り、家の玄関から全ての窓に戸板を打ち付け、胴縁で補強したものです。

あまりに慌てて、自分が家に入る勝手口まで戸板で封じてしまい、ずぶ濡れになってまた戸板を外して、家の中へと飛び込んできたことも、一度や二度じゃなかった気がいたします。

安普請な家でしたから、台風が近付くと風の唸り声やら、家のあっちこっちが軋む音に脅かされたものです。

それに今よりももっと簡単に停電になり、真っ暗な茶の間に夏目ロウソクを燈し、三人家族が身を寄せ合うように、ささやかなおにぎりとみそ汁の夕餉に舌鼓を打ちつつ、台風が無事に通り過ぎるのを祈ったものでした。

その時の両親の気持ちまではわかりませんが、ぼくは家族三人が寄り添って、息を殺すようにラジオに耳を傾け、おむすびを頬張っている時が、台風の日の密かな楽しみでもありました。

でももう、二度とそんな事は出来ないと思うと、どうにも懐かしさが込み上げせて仕方ありません。

皆々様は、台風直撃の日は、どんな風にお過ごしでしたか?

今回は、そんな「怖いながらもちょっぴり愉しかった台風の思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.08「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回のヒントは、『9月1日の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!』の中にありました!

これまた頭頂部の薄毛でお悩みの、落ち武者殿にデリバリーして差し上げたいほどの逸品でした。

もうきっと勘の鋭い皆様には、お見通しでしょうねぇ。

皆様からの鋭いお答えをお待ちしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 203」

今日の「天職人」は、三重県津市の「朧染(おぼろぞ)めタオル職工」。(平成十八年九月十二日毎日新聞掲載)

小さな君は横向いて すやすやすやと夢心地       ピンクのタオル口に寄せ 時折り吸って満足げ      いつしか君も中学生 クラブで疲れうつ伏せ寝      布団を掛けて覗き見りゃ 顔の下にはあのタオル

三重県津市、おぼろタオルの職工の小林正さんを訪ねた。

「娘がまだ小さい時、乳離れするまでタオルの端っこをよう吸うとったもんやさ」。正さんは、懐かしそうな表情を浮かべて笑った。

正さんは会社員の家庭で、昭和十五(1940)年四人兄弟の長男として鈴鹿市に誕生。

高校の紡織科に学び、卒業後は縁あって昭和三十四(1959)年に、おぼろタオルへと入社した。

「当時はガチャマン景気も終わった後の、鍋底景気の時やったで、就職口があらへんでなぁ」。とは言え、当時は現在の三倍、百八十名の社員数を有した。

おぼろタオルは、明治四十一(1908)年創業。

創業者の森田庄三郎が、文字や図柄を横糸だけで描き出す織り方「元祖朧染め」の専売特許を得たことに始まった。

その名の通り、文字や図柄がおぼろげに浮かび上がる、独特な織り加工技術で、タオルが水分を吸うと意匠が色鮮やかに浮かび上がった。

「伊勢型紙と伊勢木綿をひっつけて、何かええもんが出来やんかと、それが発明のきっかけやったらしい」。

正さんは入社後、機織・加工の一貫工程の現場で一年間実習に明け暮れた。

その後三年、織りの製織部門を経て現場管理へ。

管巻(くだまき)と呼ぶ、ビームに糸を揃えて巻く整経作業や、動力織機の整備と修理に追われた。

昭和四十二(1967)年、二十六歳で職場恋愛を実らせ、洋子さんを妻に迎え娘二人を授かった。

「今じゃ、孫が五人もおるんやで」。好々爺(こうこうや)が微笑んだ。

「昭和四十五(1970)年までは、朧染め一本やったんさ。企業の社名を刷り込んだものや、慶弔事に使てもうて」。

しかしその後は時代の波もうねり、ファッション性が問われ、刺繍入りやブランド商品が台頭。

「濡れた顔や身体拭けれたらよかったもんが、次第に付加価値が求められるようになってったんやさ」。

昭和四十八(1973)の最盛期には、一日で一万枚を製造。

しかしオイルショツクを境に、中国等からの輸入品に押され、次々と国内のタオル工場は閉鎖を余儀なくされていった。

「それでも海外の技術では、極細四十番手の高級綿糸による加工が出来やんのさ」。

細番手の糸を使うほど、ボリューム感が出て、柔らかく肌触りも良く、吸水性も高まる。

「太番手は綿の質が悪いんさ」。

国内のタオル生産は、愛媛県で六割、次いで大阪府南部の泉州で三割、残りの一割が三重県とか。

「三重県にも昔は二十社ほどあったけど、今しは三~四軒ほどやろか」。

平成十二(2000)年、小林さんは晴れて定年退職。

しかし会社は、タオル作りの熟練工を引き止めた。

「今はタオルの設計やら、問屋にデザインの提案したり。これしか出来やんでなあ」。

巨大な自動織機が居並び、規則的な音を刻みながら綿糸が織り込まれてゆく。

純白の小さな綿埃が、工場の上空へと舞い上がる。

そしてやがて梁や柱に、ゆっくりゆっくりと舞い降り、雪のように静かに降り積もる。

「タオルはその家その家で、家族の匂いが染み込むもんやで。娘が小さい頃、タオルの端っこ吸うとったんは、母親の匂いを感じて、安心しとったからやろなぁ」。

タオル一筋に約半世紀。

老職工は今日もせっせと、穢(けが)れを知らぬ純白のタオルを紡ぎ上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 202」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「精肉屋」。(平成十八年九月五日毎日新聞掲載)

御節も飽きた三箇日 呑んで食っちゃ寝また飲んで    父は炬燵で高鼾き 母は丹前羽織らせた         鉄鍋ジュッと音立てて 霜降り肉と醤油の香       父は炬燵を抜け出して 早くもビール煽り出す

岐阜市神田町、飛騨牛の岐阜屋。五代目店主の石原達已さんを訪ねた。

「岐阜屋の飛騨牛生レバーは、私のコレステロールを高めた好物で、医者から『食うな!見るな!』って言われた逸品もんなんやって」。友人が自慢げにそう断言。

「それは嬉しい評判です。もっとも飛騨牛の生レバーは、そうそう小売されてませんから。家でも週に二回しか、店頭に並ばない貴重な商品です」。達巳さんは、得意客の評判に満足げ。

元々岐阜屋は、大垣藩士であった初代が、明治初頭に髷を落とし、岐阜市小柳町へと移り住んで牛鍋屋を開業。

やがて明治末期に精肉の小売へと転じた。

達已さんは、昭和二十三(1948)年に岐阜屋の一人息子として誕生。

「二代目以降、養子ばっかで、初めての男子やったんやて。だから小さい頃から、後継ぐもんだと擦り込まれてました」。

名古屋大学経済学部を卒業し、愛知県岡崎市の精肉屋へと修業に。半年後に岐阜屋へと戻り、家業に就いた。

一頭の牛を背割りした半頭分は枝肉と呼ばれ、そこから部位毎に切り落す脱骨作業へ。

さらにすき焼き用やステーキ用にと、用途ごとにスライス。

「昔は馬喰(ばくろう)さんが、産地で牛を買い、生きたまま持ち帰って屠殺場へ。それをバラして、二週間から一ヶ月くらい、白黴が生える頃まで熟成させたもんやて」。

飛騨牛とは、県内で十四ヵ月以上肥育された黒毛和牛を指し、日本食肉格付協会が肉質の等級を定める。

AとかBは、脂の付き具合が薄いとA。厚いものはB。

さらに霜降りの度合が多いものを五等級。四等級から下がるほど、霜降りの度合は少なくなる。

この格付の中でも飛騨牛は、A・Bいずれかで五等級から三等級までを呼ぶ。

「家はいずれも、Aの五か、Bの五しか置いてません」。

創業百年以上を誇る、『飛騨牛の岐阜屋』を名乗る者の誇りにかけて。

「昔はよう高山と岐阜の競りを往復しては、枝肉を仕入れたもんやて」。

岐阜市内にある、県の畜産公社の競りは月曜。高山市では毎週木曜に競りが開かれた。

昭和四十九(1974)年、達已さんは道路を一本南に下った隣町から、同級生の伸子さんを妻に迎え、一男二女に恵まれた。

「友達の友達やったで。結婚するまで女房の実家では、隣町のライバル店の肉屋が贔屓だったんだわ。でも女房が嫁いでからは、家の肉に変わったもんだで、ライバル店から『得意先を奪われた』って、よう嫌味を言われたもんやて」。

ショーケースの向うで、客と対座する妻をこっそり盗み見、達已さんは照れ笑い。

高度経済成長からバブル期へと、高級な飛騨牛は引く手数多(あまた)。

「最盛期の暮れは、一ヵ月で二十頭ほど捌いたろうか。正月のすき焼き用にな。冬場は脂が乗って、肉自体の甘味も増すもんやで」。

しかしバブル崩壊や、O-157にBSE問題と、風評被害の余波を受け売上げも半減。

飛騨牛の生産にも狂いが生じ、ここ二~三年は逆に高騰傾向へ。

「冷蔵庫に何にも無いと、すぐ肉料理やでなぁ」。

妻に悟られぬよう、こっそり声を潜めた。

「一番食べ盛りの時には金が無い。逆に歳いってお金が出来た頃には、量より質で美味しいお肉がちょっとあればよくなるし」。

良質であればあるほどに、肉の水気は少なく、仄かに甘味をまとう、王道を行く飛騨牛。

何はともあれ、特別な日のおご馳走(っつお)だ。

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9/01の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「なぁ~んちゃって、アンニョンハセヨ!出汁昆布のチヂミ with Honey Babeのしゃぶしゃぶ用薄切りバラ肉ソテー」

今回は皆様、緑色の物体に随分とお悩みになられたようでした。

和風出汁をひく時に、ぼくの場合どうしても鰹の荒節と昆布の出汁殻に困ってしまいます。

これまでにも鰹の荒節の出汁殻で、なぁ~んちゃって鰹のフリカケに挑んで見たり、昆布の出汁殻を佃煮にしたりしましたが、いつもいつも中々手間を掛けて二次加工するのも難儀な代物です。

しかし食品ロスを減らしたいとの思いもあり、何か突拍子もない利用法が無い物かと編みい出したる作品がこの、「なぁ~んちゃって、アンニョンハセヨ!出汁昆布のチヂミ with Honey Babeのしゃぶしゃぶ用薄切りバラ肉ソテー」です。

いつにも増して、長ったらしいネーミングですが、作り方は超簡単!天晴手抜きクッキングです。

まず和風出汁をひいた後の昆布を、小口切りにしてフードプロセッサーの摺り下ろしモードで細かくします。

それをボールに移し、白ごま、鶏ガラスープの素少々、小麦粉と片栗粉を少々入れ、よく混ぜ合わせます。

次にフライパンにごま油をひき、薄っぺらなお好み焼のように焼き、少し焦げ目が付いたら皿に移します。

別のフライパンにもごま油をひき、Honey Babeのしゃぶしゃぶ用薄切りバラ肉を焼いて、昆布チヂミの上にのせ、紅ショウガを彩で添えれば完了。

Honey Babeはこちらを↓

https://hayashifarm.jp/info/1105784

ぼくはタレを餃子の浸けダレのように、醤油、酢、ラー油でいただいて見ました。

これがまあ、摺り下ろした昆布がなんともモッチリとした食感となり、表面がカリッカリで中はモッチリお餅のようで、しかもゴマのプチプチ感も加わり、なんとも嬉しい仕上がりとなりました。

当然ながらキリン一番搾りにドンピシャな逸品となり、ついついグビグビとグラスを空けてしまったものです。

しかしよくよく考えて見ると、昆布の摺り下ろしがメインですから、身体にもよさそうですし、髪の毛にもよさそうな気がしたものです。

今回は、何が何でも落ち武者殿にデリバリーして差し上げたい気になったものです。

皆々様のご回答も、随分お悩みになられながらも、とてもニアピンの方もおいでになり、お目の高さにはビックリでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 201」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「男川やな女将」。(平成十八年八月二十九日毎日新聞掲載)

つくつく法師夏は逝き 梁場(やなば)の木々も色付けば 川面の落ち葉追うように ゆらゆらゆらと秋茜      聖なる川で身篭って 梁の川床落ち跳ねる        我が子だけでも護らんと 儚き定め鮎の母

愛知県岡崎市、男川(おとがわ)やなの女将、梅村成美さんを訪ねた。

「主人は、川の上(かみ)の方から流れて来ました」。旦那との馴れ初めを尋ねると、まるで落ち鮎のことのようにバッサリ。成美さんが笑った。

成美さんは、昭和二十二(1947)年、梅村家の一人娘として誕生。

短大を出ると、市内の小学校四校で教鞭を振るった。

昭和四十五(1970)年、冒頭の落ち鮎のように例えられた亘さんと結婚。

「同じ町の人だったから、何となく見知ってはいて。それよりも忙しくて、恋愛する暇なかったし」。見合いからわずか七ヶ月、岡崎城の竜城(たつき)神社で挙式。

「当時は洋風の結婚式場なんて無くって、白無垢に文金高島田。本当はウエディングドレスが着たかったんだけどねぇ」。挙式を終えると父は、成美さんだけを車に乗せ、実家へと連れ帰った。

「父は私を、新婚旅行に行かせたくなかったんだ」。成美さんはそう思った。

一人取り残された新郎も、周りの列席者も、呆気に取られるばかり。

ただ九州へと旅立つ、飛行機の搭乗時刻だけが刻々と迫っていた。

「家に着いたらビックリ。父がウエディングドレスに着替えろって。慌てて着替えて、庭で記念撮影して」。その後、大慌てで空港へ。何とか事なきを得、その後二人は、二女二男を授かった。

男川やなは、昭和五十一(1976)年、国・県・旧額田町が出資する、自然休養村整備事業の一環として、梅村家の土地に漁業権者十名が組合を発足し開業した。

それから十年。

もともと観光施設経営とは、畑違いの船頭ばかり。来場者の減少で翳りが。しかし公的資金の投入された施設。閉めたくも閉められない。

平成二(1990)年、成美さんの父で当時漁業組合長を務めていた百(ひゃく)さんが、脳梗塞に倒れた。

「『誰もやなを継ぐ者がおらんでも、他所者だけにはやらせん!』って、病床の父が知人に。それが教員を辞めてやなを継ぐきっかけかなあ」。成美さんは、川面を見つめた。

翌年、教職を辞し男川やなの女将に転身。

「でも大変だったわよ。何もかも別世界だから。今までどれだけ世間知らずだったか、思い知らされたもの。あの頃はよく、やなの上で一人泣いたものだわ」。

板場の調理人さえ雇うこともならず、見よう見真似で鮎に串を打った。

「最初のお客さんは、そりゃあ酷いもんよ。尻尾の跳ね上がった焼き上がりじゃなくって、ノッペーっと平ったい焼き上がりだもん」。

だが、それでもと通う客が、成美さんを支え続けた。

「はいっ!いらっしゃい!」。

引っ切り無しに訪れる家族連れ。客捌きの巧みさに、元教員の面影は無い。

「この川にどれだけ淋しさや哀しさを流して、代わりに上から嬉しさや喜びを運んでもらったことか」。

時折り店を訪れる教え子。誰もが必ずこう口にする。「私、わかる?」。

成美さんは、記憶の糸を手繰り寄せ、化粧の奥に面影を探す。

「タカちゃんやない?」。その一言は、時の隔たりを瞬時に埋め合わせる。

一年魚とされる鮎。

その身を切り刻むように遡上し、子を成し儚き生涯を終える。

まるで成美さんの人生そのもの。

教員と言う仮の姿をまとい、町という河口に下りて子を育て、また再び魂の故郷へと遡上した。

訪れるべくして訪れた定め。

遅い早いではない。

いつか本物の自分と、巡りあう瞬間さえ見逃さなければ。

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「天職一芸~あの日のPoem 200」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「漬物屋主人」。(平成十八年八月十五日毎日新聞掲載)

母のいつもの割烹着 抜け殻のよに脱いだまま      買い物にでも行ったかな 宵が迫れば哀しくて      電気も点けず玄関で 母の抜け殻顔埋め         仄かに匂い感じてた あれは漬物野菜の香

岐阜市美殿町、大正年間の創業・漬物佃煮の美殿屋。三代目主人の加藤実さんを訪ねた。

店先の看板に『キャベツの塩漬けあります』。

「直ぐに売れちゃうもんやで、一番食べ頃のもんしか出しとかんのやて」。実さんは、漆塗りの桐溜めと呼ぶ陳列箱の傍らで微笑んだ。

三代続くキャベツの塩漬けは、全国に数多(あまた)ある漬物屋の中でも、美殿屋だけのオリジナルとか。

古くからある柳ヶ瀬の呑み屋でも、重宝がられる逸品だ。

実さんはこの家に長男として誕生。

やがて東京の大学へと進んだ。しかし四年生の年、父が胃潰瘍による輸血で肝炎を患い、一年休学して家業を手伝った。

父の復帰を待ち復学し、二十四歳で帰郷。そのまま家業に従事した。

キャベツの塩漬けは、二種類。

夏場は一ヶ月、冬場には三ヶ月を費やし、常温の塩漬けで自然に乳酸菌が発酵した深漬け。

それと一週間の塩漬けで冷蔵する、まだ緑が残る浅漬けもある。

父が塩を振り、実さんは石の上げ下ろしを行い、見よう見真似で漬け方を学んだ。

「暮れのキャベツが一番やて。年が明けると硬くなるし、梅雨時は傷む」。

四斗樽一杯分のキャベツは、やがて二斗樽三分の二にまで体積を減らす。

昭和五十九(1984)年、市内の百貨店に勤める清美さんと結ばれ、二男を生した。

「そんなもん、両手両足の指使っても足らんほど見合いしたんやて」。それでも一つとして、ものにならなかった。

そんなある日。友人から清美さんを紹介された。

「ご縁なんやろねぇ」。二人はまるで引力の赴くまま互いに惹かれあい、わずか半年で添い遂げた。

ある日のこと。ネット上で、キャベツの塩漬けを販売しないかとのお誘いが。

「よくよく考えると、真空パックに詰めたら味が変わるし、そもそも賞味期限なんてよう付けんし」。

寒くなれば漬け上がるまでに、三ヶ月も要する商品。それを量販すれば、これまで一ヶ月かけて販売していた商品が、あっと言う間に品切れとなってしまう。

実さんは悩み抜き、結論を出した。

「家の客は祖父の代から続いとんのやで、売り切れになってお客さんを待たせたらいかん。それに対面販売じゃなきゃあ、漬物本来の値打ちも下がる」。ネット販売を見合わせた。

「こればっかし見とるでしょ。だからものの見方まで、キャベツの塩漬けと同じになってまうんでしょう」。前掛け姿に、何とも人懐っこい笑顔。

「お節介やけど、『キャベツの塩漬けは、塩水に灰汁(あく)が出とるで、水洗いしてから食べてや』って。それにもう一言『漬物をお守りしてやってや』と、必ず付け添えるんやて」。

店先には、今が食べ頃、完璧な状態の漬物が並ぶ。

「漬物を悪くするには、一日もいらんのやて。漬物は生きとんやし。だから空気に触れたばかりの最初の味と、二~三日経ってからでは味も変わる。それが漬物好きの、本来の楽しみ方やて」。

三代に渡って極め抜いた、素朴なキャベツの塩漬け。

素朴さゆえ、紛い物など通用せぬ。

今日も職人は、思いの丈を込め一握りの塩を振る。

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「天職一芸~あの日のPoem 199」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「玉子サンド職人」。(平成十八年八月八日毎日新聞掲載)

テルテル坊主軒に下げ  リュックにおやつ詰め込んで   遠足前は大わらわ 明日天気になるように        玉子の焼ける音がして 寝惚け眼で台所へ      ちょっと歪(いびつ)な出来だけど 玉子サンドのお弁当

名古屋市西区、創業昭和七(1932)年の喫茶西アサヒ。二代目玉子サンド職人の加藤順弘(まさひろ)さんを訪ねた。

「玉子サンドなんて、そう、美味しいもんじゃないって。そのかし手間はかかるけど。二人連れが二つ頼もうとするもんで、『まあ、一つにしときゃあ。一つ食べて足らんかったら、もう一つ頼みゃあええがね』って言ったるんだて」。何とも商売っ気の無い口ぶりだ。

「ごっつおさん!」。隣の席の客が誰にともなくつぶやいた。そして飲み終えたコーヒーカップをカウンターへと片付け、小銭をバラバラッと広げて店を出て行った。 順弘さんは、入れ替わるように来店した客が、おしぼりを自分で取り出し、いつもの席へと着く姿を見送りながら、黙って軽く頭を下げた。

「皆昔からの顔馴染ばっかだで。放っといても、好きにしとってくれるんだわ」。

順弘さんは、昭和十五(1940)年に、六人兄弟の次男として誕生。

「おふくろの手料理なんて、食べた記憶がないわ。昔は夜中の十二時頃まで店開けとったでなぁ。菓子工場に問屋、それにメリヤス工場と商人の町だったで、ここが情報交換の基地だったんだわ。だで毎日忙して、家族揃って食事した記憶なんてあれへんて」。

名物女将として角界や芸能人にまで、幅広く慕われた母きぬゑさんは、店を切り盛りしながら六人の子を育て上げた。

昭和二十八(1953)年。街頭テレビから吠える力道山の勇姿に、人々は足を止め歓喜の声を上げた。

「家にもカラーテレビがやって来てなぁ。まだカラー放送が、一日たったの五分程度しかなかった時代だて。力道山のプロレスが始まる頃には、超満員で劇場と一緒だわ。だで始まる前に木製の丸椅子を五十脚ほど運び込み、それを並べてからそろばん塾へ行ったもんだわ」。

順弘さんは東京の大学を出ると、帰郷し家業に就いた。

「当時七~八軒店があって、やらざるを得んかったんだて」。

名物玉子サンドの卵焼きは、一人前に玉子三個。

玉子に塩を加え、玉子本来の甘さを活かし、ふんわり焼き上がるよう、四十数回掻き混ぜる。「二十五回だと白身が残るし、百回だと今度は白身が崩れてまうで、四十回ちょっとが一番は跳ねっ返りがあってええんだわ」。

次にフライパンにバターを強火で溶かし、溶き玉子を加え、永年の勘だけを頼りにふっくらと焼き上げる。

「熱に負けると玉子がペラペラんなるし。玉子を可愛がらなかんて!空気玉が出来て割れたらかんし、玉子の吹き上がりを見ながら素早くまとめ込んでかんとな」。

見事ふんわり焼き上がった、厚さ三㌢もある玉子焼き。

写真は参考

次は、いよいよサンドイッチの組立作業だ。

まずは薄切りパンの上に、玉子サンドの名脇役、キュウリのマヨネーズ和えが敷き詰められる。

とは言えこのキュウリも、なかなか手間の掛かったものだ。

塩揉みし、丸一日おき、それを絞ってアメリカ製のマヨネーズ「ダーキー」で和えたシロモノ。

そこに真打ち、フカフカ玉子を載せ、真っ白なパンを被せれば七十年前の魅惑の味が出来上がる。

「七十年前は、これがハイカラな味だったんだわさ」。

平成の玉子サンド職人は、何の気負いも無く只照れ臭そうに笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 198」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「帳簿屋店主」。(平成十八年七月二十五日毎日新聞掲載)

色鉛筆のピンクだけ いつも一番先に減り        とても哀しい顔で泣く お絵描き好きの妹が       泣き疲れたら夢の中 寝てる間に入れ換えよ      こっそりぼくの鉛筆と 目覚めて笑顔戻るよに

岐阜市神田町の加木鉃(かぎてつ)帳簿店、三代目店主の中村鉃正さんを訪ねた。

夕暮れの柳ヶ瀬バス停前。

バスを待つ勤め帰りの人たちが列をなす。

その頭上には、恵比須さんと大黒さん、それに大福帳の描かれた、大きな浮き彫り看板が横たわる。

まるで移り行く時代の変遷を、しっかと見守り続けるように。

「この『箸取らば 主人と親の恩を知れ 己(おの)が力で喰ふと思ふな』は、父が遺した我が家の家訓なんやて」。鉃正さんは、額入りの墨書を指差した。

「加木鉃の『鉃』は、お金を失ってはいかんと、金偏に『矢』と書く『鉃』やし」。

創業明治三十(1897)年。

初代の祖父の時代には、障子紙・筆・蝋燭から雑貨や果物までを取り扱った。

しかし鉃正さんの父が、十四~十五歳の年に祖父は三十八歳の若さで他界。

「今の高校生にも満たない年やし、父は果物の競りも出来ずに、それで帳面一筋に。祖父の時代の屋号『柿鉃』を改めたんやて」。

鉃正さんは昭和三(1928)年、五人兄弟の長男として誕生。

「戦時中は品物が入らず、空箱でも売れたし、ちり紙積んどくだけで飛ぶように売れて売れて。それだけ貴重品やったでねぇ」。

昭和二十二(1947)年、高校を上がるとそのまま家業に従事した。

「まだまだ和帳(わちょう)や大福帳の時代やった。それに金津園の遊郭があった当時は、大福帳買いに来ては『奥さん、表紙の上書きしてまえん』って言うんやて。奥さんが上書きする方が、お金も子を産むから縁起がええと」。鉃正さんは、往時を振り返るように笑った。

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戦後の統制経済も解除され、町に復興の兆しが見え始めた。

「昭和二十七(1952)年頃からやろか。徐々に商品が供給され出したのは」。

昭和三十(1955)年、重子さんを妻に迎え一男一女を授かった。

「当時は柳ヶ瀬も、全盛期やったんやて。店も映画館の終わる、夜十時頃までは開けとったし」。一宮のガチャマン景気が後押しした時代。

「昔は年度末になると、入学やら就職やらで高価な万年筆を揃えたり、鉛筆をダース単位の箱で買ったり。ノートも十冊単位で飛ぶように売れたもんやて。でももう今は、そんな事もない。年がら年中お祝いみたいな時代やし」。

時代の変遷に合せるように、帳簿も和帳から洋式帳簿へ。そしてリーフ型と呼ばれる、穴開き式の帳簿からコンピューター出力へと。

「帳簿専門やで、学生は少ないんやて。今では算盤も年にほんの少ししか売れませんし。電卓の時代ですしねぇ。縮んでってまう一方ですわ。こんな商売」。鉃正さんの横顔に淋しさが浮かんで消えた。

「それでも最近では、大福帳を扱う店が減ったせいか、遠くからでもわざわざ買いに来てくれる方もおるんやて」。

大福帳の長帳は、長さ約四十㌢、幅約十二㌢。郷土が誇る美濃和紙で綴じ上げられた逸品。

古来からの大福帳の用途を越え、インテリア小物の一つとしてや、展覧会の芳名録とするなど、新たな用途が広がり始めている。

商売の基本は、お客様との信頼関係の履歴そのもの。

客の顔を思い浮かべ、帳簿に手書きする手間こそが、客を顧みると書く「顧客」への第一歩なのかも知れない。

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「天職一芸~あの日のPoem 197」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「羅紗(らしゃ)張り職人」(平成十八年七月十八日毎日新聞掲載)。

ビリヤード台横座り 葉巻くゆらす伊達男        点取る女給に目配せて ツバをもたげるハバナ帽    キューを巧みに操れば ハイカラモガが遠巻きに     台を囲んで大歓声 ナインボールのマス割りに

名古屋市千種区で、ビリヤード用品全般を扱う日本玉台本社。ビリヤード台の羅紗張り職人、加藤大一郎さんを訪ねた。

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「昔のビリヤードは、呉服屋さんや料亭のご主人とか、旦那衆の粋な遊びだったでねぇ」。

大一郎さんは昭和十八(1943)年、五人姉弟の末子として誕生。

ビリヤード用品の製造から輸出入を手掛ける家業、多くの職人たちに囲まれて子供時代を過した。

昭和三十四(1959)年には、直営のビリヤード場も開業。

大一郎さん十六歳、青春時代が幕を開けようとしていた。

「まだあの頃は、ゲーム取りさんとか、点取りさんと呼ばれる女給さんが沢山おってねぇ。時給よりもチップの方が多い、そんな風俗営業の時代だったで」。

大学の頃から職人の手伝いを始めた。

「しばらくすると、ポール・ニューマン主演の映画『ハスラー』が公開され、ボーリングブームに引っ張られ、全国各地でビリヤードブームも巻き起こったんだわ。だから関東や九州まで、台の設置で出張ばっかり」。

一台四百㌕にも及ぶ台を、分解してトラックに山積みし、全国各地を巡った。

「現地に着いて台を組み立て、水平取ってからいよいよ羅紗張り」。

まず石板(せきばん)の水平を確かめ、台の脚の水平を取り直す。

そしてウール七十%、ナイロン三十%の羅紗布を使用して石板を包むように張り込む。

「この羅紗生地の割合が、一番玉も滑るんだわ。逆にウール百%では、キューの先が当たると破れやすいし、ナイロン五十%だと、今度は玉が滑りすぎるで」。

羅紗の織目が真っ直ぐになるよう、縦目と横目を水平に張り、石板の土台に釘で打ちつけて止める。

石板の多くは、厚さ二十五㍉のブラジル産スレート。

現地ブラジルでの磨き方が荒いと水平は狂い、台の設置時に磨き直すこともしばしば。

「スレートは、湿気を吸っても水平が狂うでね」。

永年の勘だけを頼りに、四方に羅紗を張る力を加減する。

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昭和四十二(1967)年、北海道出身で名古屋の短大を出たばかりの弥生さんが、大一郎さんの元へと永久就職。

「姉の旦那と家の主人が友達だったから、それで」。二人は、一男一女を授かった。

しかしオイルショックと共に、一世を風靡したボーリングもビリヤード熱も、アッと言う間に失墜。

それから苦難の時代は十四~十五年も続いた。

昭和六十一(1986)年、映画「ハスラー2」が封切られると、瞬く間に各地にプールバーが出現。

深夜営業も解禁となり、オールナイトで酒を飲みながら、ビリヤードを楽しむ若者等で賑わった。

「ビリヤードは、運動神経と記憶力のスポーツ。玉がどこに当たって跳ね返って、次にどう転がってどこへ当たったか。そんな何十万通りもあるコースと、キューを打ち出す時の力加減。それを身体で覚えんとねぇ」。 大一郎さんがキューの先で、玉を狙う真似をした。幾つかの大会で賞を手中に収めた兵(つわもの)だ。

「七十万円程のビリヤード台を、一台買うくらい練習すれば、少しはモノになるかしら」。妻が傍らで笑った。

ナインボールを順に、ローテーションで入れ込む技を「マス割り」。

完全無欠の技を目指すハスラーの憧れだ。

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羅紗張り職人の狂いのない目と勘は、ハスラーが繰り出す玉筋とボールの行方を占う。

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