往く夏を惜しむ「夏花火」と「八幡様のお百度」

今週の土曜日の9月19日は、秋の彼岸の入りでございます。

暑さ寒さも彼岸までとは良く言ったもので、暑さにも少しずつ変化が感じられるようになった気がいたします。

それにしても今年の夏は、って冬の終わりも春もでしたが、産まれてこの方経験したことのない歳時記を過ごすことになろうとは、改めて肉眼ではその姿も見つけられない、ちっぽけなコロナウイルスながらその猛威に、ただただ愕然とするばかりです。

夏の花火も見上げられず、御坊様の盆踊りさえも中止となり、ささやかな楽しみの一つであった、屋台の串カツで缶ビールをプッハァとも参りませんでした。

とは言え、盆踊りが仮に中止にならなかったにせよ、踊りのセンスの全くないぼくは、踊りの輪の外側で缶ビールを傾け、浴衣姿の踊り上手の方々を、酒の肴に眺めるだけでしょうが。

しかしやっぱり、燃え尽きることなく、燻ぶったまま終わってしまった夏に、一抹の寂しさを感じてしまうものです。

昨年秋からyoutubeで週に一曲ずつ、ぼくのオリジナル曲を拙い弾き語りでお聴きいただいてまいりましたが、これで概ね一巡してしまいました。

そこでこれからは、その時々のぼくの気の向くままに、唄いたい歌を弾き語らせていただこうと思っています。

そこで今日は、彼岸の入りまではまだ夏の名残が留まっていると、そう考えコロナとの戦いでとてもやるせなかった夏を今一度偲びたく、「夏花火」と「八幡様のお百度」、2曲続けてお聴き願います。

続いては、CD音源から「夏花火」「八幡様のお百度」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「春のボタ餅も秋のオハギも、どっからどう見たって同じに見えるのに???不思議でならなかった思い出」。

ぼくだけでしょうかねぇ。春と秋のお彼岸に、お供えとして必ずお母ちゃんが拵えてくれた、「春のボタ餅」「秋のオハギ」。どちらもぼくには同じに見えて仕方なくって、どこがどう違っているのか、悩みの種でした。

父も母も餡子にゃあ目が無くって、「やっぱり春のボタ餅は最高やなぁ」と父が言えば、秋になると「秋のお彼岸のオハギは、美味しくってどんだけでも食べれちゃうわ」と母。どこがどう違うのか、さっぱり分からないままのぼくには、ますます不思議でならなかったものです。

たぶんお父ちゃんやお母ちゃんにたずねたことがあった記憶もありますが、なんだか中途半端でとても納得いく回答を与えてはくれなかった気がいたします。「そんなもん、春のお彼岸はボタ餅で、秋にはオハギって昔から決まったるんや」とかなんとか・・・。

たいがい大人になってから、ボタ餅とオハギの真相を知り、「なんてこった~っ」って感じでした。

まあ、どちらも変わらぬ美味しさですものねぇ。

皆様は子どもの頃から、その違いをご存知でしたか?

今回は、そんな、「春のボタ餅も秋のオハギも、どっからどう見たって同じに見えるのに???不思議でならなかった思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.15「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回の残り物クッキングクイズはこちらです。

両脇に乗った丸の1/4の大きさのフライの中身が、究極の残り物なんです。

でもフライの衣をまとっているため、何なのか分かりませんよねぇ。

そこでヒントです。

元々はピザのように丸く大きなものが原型です。まあ、この庶民的な食べ物は、どなたもお好きなもので、子どもの頃から慣れ親しんでいると思われます。

特に関西や広島なんかじゃあ、有名ですよねぇ。ところが東京の下町へ行くと、ぐちゃぐちゃのものを小さなヘラで掬って食べちゃうわけで、ところ変われば品変わるですよねぇ。

こんなぼくでもたまぁ~に無性に食べたくなります。先日もオタフクソースが出しているこの食べ物の材料を購入してしまいました。ところが4人分。仕方なく一度に4人分も作らざるを得ず、食べきれなかったモノは、丸いまま冷蔵庫で保存しておいたのです。

かといってレンジでチンしてみても、最初に作った時とは大違いの味と食感になってしまうため、色々考えを巡らせて、こんな揚げ物にして、なぁ~んちゃって〇かけソースを手作りしていただいて見ました。

ところが片栗粉が多すぎて、ソースがとろ~りを通り越し、だまになってしまったのが心残りでなりませんでした。

さて、観察眼の鋭い皆様の創造力や如何に!

皆様からのご回答を楽しみにしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 210」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「ラジオ屋」。(平成十八年十一月七日毎日新聞掲載)

摘(つま)み捻ればピーガーと 小さな箱が唸り出す   試験勉強そっちのけ 異国の曲に首っ丈         部屋の明かりを全て消し ラジオの声に耳傾げ      何処の国かと想い馳せ 深夜一人の世界旅行

名古屋市中村区椿町、徳田ラジオ商会二代目店主の徳田一博さんを訪ねた。

「昭和前半はラジオの時代だったでねぇ。二二六事件はNHKの深夜放送から。日本中がラジオの前に平伏(ひれふ)した玉音放送や、伊勢湾台風の災害放送」。昭和の生き証人が、とつとつと語り続ける。

写真は参考

一博さんは大正十四(1925)年に誕生。

翌年十月、海軍を除隊した父が、当時の先端事業であった組み立て式鉱石ラジオの販売を開始。

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「丁度まんだ半年ほど前に、NHKの名古屋放送局が放送を開始したばっかだったでねぇ。当時はえらい持て囃されたて。命預かるお医者さんの次ぐらいに。だって最先端の技術屋さんだったで」。

この年の暮れ十二月二十五日に大正十五年は幕を閉じ、激動の昭和が産声を上げた。

「昭和の十(1935)年頃からは、ラジオ部品の卸をやりかけてねぇ」。

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一博さんも旧制中学時代に、電気磁気概論を学んだ。

「後継がなかんって言われて、ラジオの勉強したんだわさ」。

日に日に昭和は、戦争に色濃く蝕まれていった。

「中学五年の卒業を翌年に控え、日米開戦で四ヵ月も前倒し。急遽卒業だわ」。

時代は確実に、破滅に向かってまっしぐらに転がり始めていった。

「当時皆は軍需工場の徴用へ。でも徴用行かんと家で修理の修業しとったんは、俺ぐらいかなあ。商売屋はどこも休業状態。それでも軍は、ラジオで情報流さんなんで力を入れとったんだろうなぁ」。

しかし敗戦色が深まる昭和十九(1944)年十一月、ついに一博さんにも召集令状が。

陸軍に入隊したが、戦地に送り込まれることも無く終戦を迎えた。

「帰って見たら空襲で焼け野原だって」。

疎開先から戻ってみると、かつての創業地にはよそ者が居座り、役所の登記書類も何もかもが焼け果て、渋々泣き寝入り。

それでも昭和二十二(1947)年に家業を再興。ラジオ部品の販売に着手した。

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やがて戦後の復興は、驚異的な速度でこの国と民を凌駕していった。

三種の神器に始まり、マイカーブームへと。その欲望は留まることを知らぬ勢いだった。

「テレビからステレオへ。家もそんな頃は、売れるもんなら何でも取り扱ったもんだわ」。

昭和三十(1955)年、見合いで田鶴枝さんと結婚。だが残念ながら、子宝には恵まれなかった。

「まあ所詮家電品なんて、昭和の初めから安売り商売だで。結局自分で自分の首締めるようなもん。今じゃ流通が変わったから、家が仕入れるよりも量販店の方が安っす売っとるんだで」。

一博さんは広小路へと続く表通りを眺めた。

「でも嬉しいって。『あんたとこで買うやつは壊れんで』って言われると。売るばっかの、こんな使い捨ての時代に」。

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昭和を見届けたラジオ職人。

『ピーガーッ』。

電波の波音を掻き分け、指先でチューニング。

周波帯を探り当てれば、あの頃の素敵な時代が蘇(よみがえ)る。

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「天職一芸~あの日のPoem 209」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「食器屋主人」。(平成十八年十月三十一日毎日新聞掲載)

欠けた茶碗のお下がりに 泥の団子を盛り付けて     蜜柑の箱を卓袱台に 女房気取りのオマセさん      「お風呂それともビールがいい」 女房の声に振り向けば 湯浴みの髪を片方に 垂らすあの日のオマセさん

名古屋市中村区名駅、食器の三輪。二代目店主の高岡勇次さんを訪ねた。

「ごっつおさん!」「また明日な!」。

店先に気さくな声が飛び交う。

ソファーを我が物顔で占拠していた、先代からの馴染み客が席を立ちつぶやいた。「毎朝寄らんと、気い悪なるでな」。

午前八時三十分。名古屋駅前、柳橋市場の朝に一息吐く瞬間が訪れる。

店先に渦高く積まれた瀬戸物。

軒先には、暖簾代わりの急須が垂れ下がる。

「市場に仕入れに来る皆の、茶飲み場みたいなもんやろ」。勇次さんは、手馴れた手付きでインスタントコーヒーに湯を注いだ。

勇次さんは昭和三十四(1959)年、店の創業と同時に瀬戸市で産声を上げた。

「親父は土建屋を辞め、仲間三人と店始めたらしい。三人の輪という意味を込め、食器の三輪らしいわ」。

やがて店の切り盛りは、先代夫婦に委ねられた。

高校を卒業すると同時に、東京は築地市場の場外で、漆器と陶器の販売を学んだ。

「まあ一遍、他所飯食って来いってことだわ」。

修業という大義名分を背に、仕事を終えると赤阪のディスコへと繰り出し、大音量で流れるソウルトレインの曲に合わせて青春を謳歌した。

昭和五十五(1980)年、母の発病で急ぎ帰郷。

「小さい頃から、家を継げ継げって言われとったでな」。

実家の瀬戸で焼き物を仕入れ、毎朝まるで朝陽に追われるように、父と二人柳橋市場へ。やがて母も病が平癒すると、再び店に立った。

「あの頃は親子で愉しかったわ。そりゃあ喧嘩もしょっちゅうやったけど。四六時中一緒におるんやで」。

何時かは訪れる別離を知ってか知らずか。

昭和五十九(1984)年、春日井市出身の真奈美さんを妻に迎えた。

「友達と越前へ海水浴に行って、そいで女房に見初められちゃった」。勇次さんは照れ笑い。どうにも嘘が下手な証だ。

夫婦は一男二女を授かった。

結婚の翌年には、名古屋市北部市場にも店を広げ、勇次さん夫婦が担当し何もかもが順風満帆に。

しかしそれもわずか一年半で、店を畳む憂目に見舞われた。

「母の癌が再発してまって」。そのまま六十歳の若さで還らぬ人に。

昭和を色濃く引きずる、柳橋市場の通路。

両脇には種々雑多な店が建ち並び、まるで小さな町のよう。

「商品の数なんてわっからへんて」。勇次さんの言葉通り、足元から天井までビッシリの商品。

鮨屋用の湯呑から刺身・焼き物・天麩羅用の盛り付け皿、それに茶碗蒸器や土鍋と小鉢に抹茶茶碗まで。

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「まあ一般の方のチョコチョコ買いから業務用までやで、何が売れるか千差万別でさっぱりわからん。だで、高級品ばっか置いとってもかんし、安物ばっかでもかん」。

まるでここは、小さな瀬戸の町。

ついそんな錯覚に陥る。

時を忘れ隈なく覗き込む。

想わぬ掘り出し物への期待に、胸が高鳴る。

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9/08の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「出汁殻昆布の薄味佃煮と海老のクリームパスタ」

先週の続きのようではありますが、今回も食品ロスを減らす残り物クッキングです。

今回取り寄せた出汁昆布は、いつもの昆布とは異なり、全体的にずいぶん柔らかな昆布でしたので、出汁を取った後、薄味で山椒粉をたっぷり利かせ佃煮風に味付けて保存しておりました。

とは言え、毎日毎日明けても暮れても昆布の佃煮ばかり食べるのも・・・。

でも一度に沢山出来てしまうため、あの手この手で少しずつ減らさねばなりません。

そこで今回思い付いたのが、この「出汁殻昆布の薄味佃煮と海老のクリームパスタ」です。

まず小鍋に出汁殻昆布の薄味佃煮と生クリーム、そして日本酒を入れ弱火に掛けておきます。

次にバターをたっぷり溶かしたフライパンに、ニンニクの微塵切りで香りを立て、強火のまま海老をソテーし、フライパンに溶け出したバターと共に海老も、クリームソースの小鍋に移し一煮立ちさせ、茹で上げたパスタに添えれば完了です。

今回は、出汁殻昆布の薄味佃煮自体の醤油味と、海老をソテーしたバターの塩味だけで、十分な旨味が引き出せ、意外なほどあっさりとした味わいで、ペロリと平らげてしまいました。

これがまた真昼間の白ワインにドンピシャで、ご機嫌なランチとなりました。

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「天職一芸~あの日のPoem 208」

今日の「天職人」は、名古屋市西区新道の「嫁入り菓子問屋」。(平成十八年十月二十四日毎日新聞掲載)

今日は大安吉日だ チャリンコ飛ばし隣町        花嫁姿追い駆けて 風呂敷広げ菓子拾い         嫁入り菓子は宙を舞い オバサンの手が頭越し      どんなに背伸びしてみても 棚牡丹(たなぼた)も無く指咥え

名古屋市西区新道の菓子問屋街。嫁入り菓子問屋、苅谷商店の二代目若女将、苅谷美智代さんを訪ねた。

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「ご近所さんに『家の嫁です。これから宜しく』って調子で、タダで見ていただくのはいかんし、それで菓子撒いたんじゃないかしら」。美智代さんは、袋詰の手を休め優しい笑顔で振り向いた。

美智代さんは名古屋市南区で誕生。

サラリーマンの両親と兄の四人家族で、短大卒業を間近に控えていた。

「自動車会社のショールームに就職が決まってたの。そしたら同級生だった主人が、プロポーズするもんだから」。就職を諦め、二十一歳の若さで嫁入り菓子を撒いた。

「私の時は、まず実家を出る時に撒いて。白無垢でこの家に入ってから、お仏壇でお参り済ませて、家の二階からもう一度撒いたもんね」。

ご主人の正三さんには二人の姉がいた。

義母は家事より商売好き。昔から家事は、お手伝いさん任せだった。

やがて二人の姉に家事は引き継がれたが、順に適齢期を迎え嫁いで行った。

「オサンドン係として嫁いだようなもんよね。今考えてみたら」。

やがて男子二人を授かった。

「この辺は、都会のわりに三世代同居が多くって。親類も多いし」。

核家族で育った美智代さんには、何もかもが珍しいことばかり。

「月曜から土曜までは、仕事に追われて。日曜日になれば、親類が集まるからその相手もしなきゃ」。三度の賄い支度から子育て。その合間を縫い家業の手伝いにと追われた。

サラリーマン家庭の平凡な日々は一転、商家の嫁では甘い新婚生活に浸る間も無かった。

「それでも不思議と愉しくってね」。

元々嫁入り菓子の始まりは、餅撒きからの派生とか。

戦後の物資統制も解除され、駄菓子製造が盛んに。

やがて餅の代用として、軽くて日持ちの良い菓子へと。

「昔はお菓子をバラで撒いたようだけど、今では数種類を袋詰して手渡しする方が一般的じゃないかしら」。

たった今、袋に詰め込んだばかりの嫁入り菓子を取り上げた。

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幅四十㌢、高さ六十㌢程の透明なビニール袋。

表には寿の文字と、水引き模様が印刷されている。

「お祝いの品だから、だいたい中身は七色か末広がりの八品。喜ぶの『昆布』にスルメ。サキイカは裂かれるを連想するからご法度でしょう。それとアラレに煎餅、飴や豆にクッキー」。

美智代さんは個々の菓子の色合と、型崩れしない組み合わせを描き詰め合わす。

なんともそのお手並みはお見事。

花嫁に幸あれとの願いを込め、無償の袋詰めが続く。

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「一度だけ破談になった方があってね。納める寸前、式の一週間前に」。

拠ん所無き事情を察し「次にまたご縁があったらで結構ですから」と、袋を解いた。

「そしたら一年半後に『その節は…』って、注文においでになったの。嬉しかったぁ」。

生まれ育った町への礼と、嫁として暮らす新たな町への礼。

嫁入り菓子は花嫁からの挨拶状。

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「天職一芸~あの日のPoem 207」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「昆布問屋」。(平成十八年十月十七日毎日新聞掲載)

グツグツグツと揺れながら 土鍋の蓋を吹き上げて    真白き湯気がシュワシュワワ 秋の夜長に立ち込める   湯豆腐掬う君の頬 お猪口二杯で桜色          虫の音合わせ鍋の中 ヒラヒラと舞う出汁昆布

名古屋市中村区名駅、昆布問屋の木村昆布、三代目主人の木村守良さんを訪ねた。

「浜で空を睨みつけ、旗持ちが大きく旗を振るとそれが出漁の合図。そしたら港から一斉に昆布船が、沖へと向かってくんだわ」。例え予報は雨でも旗さえ揚がれば、雨雲を蹴散らし北の海原に青空が広がる。旗持ちは水揚げした昆布が、その日のうちに乾くと確信した時だけ、威信を掛け旗を振る。守良さんが、昆布漁の写真を指差した。

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木村昆布は昭和元(1925)年創業。

先代夫婦はなかなか子宝に恵まれず、男女の養子を得た。

守良さんは昭和二十二(1947)年、親子ほど年の離れた義兄姉の下に誕生。

父四十六歳、母四十三歳の高齢出産であった。

「もう母親参観日が嫌で嫌で。だって友達から『お婆さん来とるでぇ』っていわれるもんで」。

大学を卒業すると、明治気質の父の厳命で直ちに店へと入った。

「今はこんな恰幅ですが、昔はガリッガリで。仇名も『モヤシ』。学生の頃、伊良湖岬で皆と写真撮影しとったら、私だけ風に飛ばされてまって」。  

昭和四十六(1971)年、隣の西区から洋子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「檀家寺の坊さんの紹介。だで、式は神前なのに仲人が寺の坊さんだわさ」。傍らの妻を見つめて大笑い。

「信号が三つとも青なら、三分で里帰り出来るんだでねぇ。嫁入りの時は、ご先祖様にお参りして、それから嫁菓子撒いたわよねぇ」。妻も懐かしげ。

昭和四十七(1974)年、二十七歳になった守良さんは良質な昆布を求め、北海道の日高・函館と昆布産地に漁師を訪ね歩いた。

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「まあ今では、全体の八割が北海道産だわね」。

日高・利尻・道南・羅臼が、最も良質な昆布の産地。

「高級品は羅臼昆布で、中級が日高昆布だわ。それぞれ揚がる浜によって、等級も違ってくるでねぇ」。店内にはもちろん、一等級中心の高級昆布が居並ぶ。

「この共巻(ともまき)は、広げると昆布が船になるように出来とって、中に具材を入れて昆布の出汁をたっぷり含ませ、料理の器として高級料亭では使うんだわ」。

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昆布の種類は約十三種類。それを加工した商品ともなれば、ゆうに五百~六百種類に。

「下手な品は、暖簾に掛けて置いとけん。家のお客は北海道にもあるんだわ。北海道で揚がった昆布が柳橋まで運ばれ、また北海道のお客んとこへ運ばれるんだで、運賃だけでも二倍だわ」。

昆布は陸に揚がると一斉に、大量消費地を目指す。

だから北海道と言えど、総てが手に入るわけではない。

羅臼昆布

「昆布は健気だわ。岩場に小さな根を付けて、荒波に揉まれながら葉を伸ばすんだで。日照と海水温によるらしいけど、一日で三十~四十㌢も成長するらしいで」。

守良さんは昆布を、まるで我が子のように愛おしむ。

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秋の夜長のように一向に尽きる気配もない、守良さんの楽しげな昆布噺。

そこに昆布一筋八十年の、「商いに飽きない」老舗の秘訣が隠れているようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 206」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「刃物商」。(平成十八年十月三日毎日新聞掲載)

トントントンとまな板の 規則正しい音がする      今日はいいことありそうだ 母の気分も上々で      今日は何だか不規則な 庖丁捌き乱れ気味        ぼくのせいかと気を揉めば 父の帰宅が午前様

名古屋市中村区名駅、料理庖丁専門の萬打刃物商(よろずうちはものしょう)、丸五庖丁店三代目店主の田中義雄さんを訪ねた。

誰もが寝静まったままの未明。

ミッドランドスクエアから、ほんのわずか東。

柳橋の名古屋駅前中央市場には、ひっきりなしにトラックが行き来し、その間を縫うように鮮魚を積んだネコと呼ばれる台車が牽かれて行く。

店先から漏れ出す、裸電球の柔らかな灯り。

大都会の片隅で、夜明け前の営みが今日もまた始まっった。

「家は市場ん中の便利屋だで、人体以外なら何でも売るよ。たまあに『ネズミ捕りあるか』とか『針金分けてくれ』って客もくるけど」。義雄さんは、脚立を椅子代わりに座した。

丸五庖丁店は、福井県武生市で庖丁職人として修業した、祖父五平が明治末期、苦労の末にこの地で創業。

義雄さんは昭和二十五(1950)年、三人姉弟の長男として誕生。

しかし義雄さんが二歳になった年、父は病で他界。

祖父と母の故ひろ子さんが、店の切り盛りに追われた。

だがそれから七年後、祖父も鬼籍に。

「当時庖丁は、お爺さんの弟子が、まだここで作っとったでねぇ」。

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義雄さんは大学を出ると、母を手伝い店を継いだ。

「ぼくが知らんとるうちに『庖丁があるんだったらまな板もいる。それなら鍋も』って。次から次へ、調理道具が増える一方」。

何種類の商品があるかと問うたが、首を傾げた。

「でもさあ、最近の百円ショップは、本当にようやるなあって感心するわ。家なんて鍋の柄一本でも百五十円~二百円はするのに。あそこは鍋そのものが百円だもんねぇ」。

毎朝五時の開店。夕方五時まで、毎日十二時間の営業。

「昔馴染みの県外の客が、たまあに来るもんだで、夕方まで店開けとんだわさ。他所はみんなだいたい、昼で仕舞いだわ」。

昭和五十九(1984)年、中区大須出身の由美子さんを妻に迎えた。

「子供もおらんで、夫婦二人で安気にやってますわ」。妻を見つめ微笑んだ。

結婚から八年。女手一つで、家業と家族を支え続けた母が他界。時代は平成へと移ろい、庖丁人の世界にも変化が生じた。

「まあ最近は、魚もおろせん板前が多なって。バイトでも出来るようにって、刺身でも加工場でもう切ったるんだで、後は盛り付けだけ。昔のように庖丁を使い分ける板前も減ってまって」。

棚に収まる数十種類の庖丁。

出刃、薄刃、柳刃、蛸引き、鱧切り、鰻割き。

いずれの和庖丁にも丸に五の刻印。

「この鰻割き庖丁なんか、地方によって形がみんな違うんだて」。

名古屋型は刃渡り五㌢程の小型。

大阪型は柄のない切り出し小刀。

東京型は薄刃で長く、京都型は鉞(まさかり)型とか。

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土地土地で水揚げされる魚と、その土地の流儀や捌き方で庖丁も異なる。

「旨い」を極める板前は、己が職人魂を庖丁の切先へと委ねる。

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「天職一芸~あの日のPoem 205」

今日の「天職人」は、岐阜県関市板取の「炭焼き職人」。(平成十八年九月二十六日毎日新聞掲載)

沢に煙が立ち昇りゃ 森も紅注し色気づく        長閑な秋の青い空 鳶もヒュルリと輪を描く       炭焼き小屋の職人は 昼の一服手を休め        ワッパの飯を平らげる 色付く森をご馳走に

岐阜県関市板取の、三代目炭焼き職人、長屋善一さんを訪ねた。

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「炭焼き小屋は、沢底辺りで近くに水が流れる場所でないとかん。泥捏(こ)ねて窯を造らんなんで」と、老人は玄関先に腰掛けた。

善一さんは大正十三(1924)年、九人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を上がると軍事教練へ。

昭和十九(1944)年、徴兵で航空隊に入隊。

「福島で防空壕ばっか造らされて、最後は蜜柑畑で受講中に終戦やて」。

「除隊して戻ったもんの、食糧難で十三人の大家族がろくに食うもんもないんやで。百姓したり炭焼きして、何とか凌いどったわ。それでも田んぼが一町歩ほどあったもんで、米だけは何とか自給出来たんやて」。

余った米は供出逃れに、隣の厩(うまや)で飼葉(かいば)の中に隠し込んだ。

板取の炭焼きは、明治後期に始まった。

コナラ・樫を原木に、取り分け高級とされる白炭(しろずみ)を産した。

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「硬い炭やで、黒炭に比べ、火持ちが五倍も違うんやて」。

高級料亭や鰻屋に、重宝がられた。

「でも重労働でえりゃあばっかや」。

戦後復興の槌音と共に、暮らし向きにも徐々に明るさが兆し始めた。

昭和二十三(1948)年、隣の家から米子さんが嫁いだ。

だが子宝には恵まれず、やがて養女を迎えた。

今から五十年前までが、炭焼きの最盛期。

毎年九月末から翌年五月中頃まで、煙が立ち昇った。

「毎朝三時に起き出して、小田原提灯ぶら下げて、真っ暗な山道を一~二時間かけて山へ分け入ったもんや。窯が千度に焼けて暑っいもんやで、丸裸でチンコに蕗(ふき)の葉巻いて前掛け一枚やて。全身真っ黒にして、灰神楽みたいやった」。

炭焼き窯の中で、千度に達した真っ赤な炭。柄振(えぶ)りと呼ぶ、鈎(かぎ)の手状の掻き出し棒で取り出して、炭の粉と土を混ぜた素灰(すばい)を被せ密閉。

一時間ほどで、炭の熱が完全に奪い取られ白炭に。

「萱で編んだ炭俵に出来上がった白炭を詰め、夕方三~四俵も背中に負んで山を下ったもんやて。それから今度は、夜鍋して草鞋編んだもんやで」。

戦後の復興から、成長期へ。

「昭和も三十二~三十三(1957~8)年頃やろか。燃料革命で、炭作ってもぜんぜん売れんくなってった」。

昭和三十四(1959)年、土木会社に入社し作業に従事。

しかし昭和四十(1965)年、現場で負傷し入院。

離職を余儀なくされ、一年近く療養の憂目に。

当時役場では、砂防堰堤(えんてい)を造るため補助監督を探していた。

昭和四十一(1966)年役場に職を得、三年後正職員に採用された。

「まあ、これも怪我の功名やわ」。

養蚕の指導等を経て、昭和六十(1985)年に定年退職。

その後、林業組合に身を置き十年が過ぎた。

「昔炭焼いとった山に、親類が道路を付けるって言うもんやで。そんならって、年寄りの炭焼き仲間で窯造ったんやて」。

半世紀前に火を落とした炭焼き小屋から、再び沢筋に沿うよう煙が棚引いた。

写真は参考

時代が流れるまま、生き抜くため身を任せた人生。

流転の末、流れ着いた先は・・・。

産卵のため清流板取川を遡上した、まるで鮎の如き炭焼き職人。

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「天職一芸~あの日のPoem 204」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「紙屋主人」。(平成十八年九月十九日毎日新聞掲載)

矯(た)めつ眇(すが)めつ千代紙を 眺めて君はうっとりと                          母のお古の雛様に とっかえひっかえ着せ付ける     母の手助け着せ替えも 無事に終わって満足げ      満面の笑み雛を抱き 君はシャッターまたせがむ

愛知県岡崎市、創業百四十八年の安藤紙店五代目主人、安藤寿高(よしたか)さんを訪ねた。

「この道は、岩津天神から足助を通って、長野の飯田へと続く昔の塩街道だったもんで。路面電車が走って、その脇を牛車が荷物積んでガタゴトガタゴトッと。ついでに店の前でボットンっと、糞垂れてくもんだあ」。寿高さんは、交通量の多い玄関先の車道を見つめた。

寿高さんは昭和二十九(1954)年、三人兄弟の長男として誕生。

「紙店になったのは、昭和二十三(1948)年からだわ。昔は、味噌醤油からチリ紙まで扱う萬屋だったで」。

街道を上り下る牛車が、店先で味噌や醤油を渦高く積み上げた。

寿高さんは昭和五十一(1976)年に大学を出ると、商社に入社。

「親父と一緒に仕事しとった叔父が、急死したもんだで一年後には家業に戻っただわ」。

戦後の急速な欧米化の波は、和紙から洋紙へと。

印刷技術も、日進月歩の勢いを極めていった。

「ドンガッチヤ、ドンガッチャと、ギロチン断裁機は、休む間も無く規則正しい音を刻んどっただ。伝票類やチラシにと、印刷用の洋紙加工に追われっぱなしだったで」。

寿高さんは、土間伝いの帳場に腰掛けた。

昭和五十三(1978)年、高校の同級生だった銀行員の幸代さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「それからの十年は、紙屋も印刷屋も、みんな激変の時代だわさ。ワープロからパソコンへと時代が進化して、洋紙も印刷の業務用から、個人のプリンター用紙へと変わってまっただ」。

用途は時代の流れに移ろえど、大量生産が可能な洋紙は、安価で新たな時代に符合した。

「まあこんな生漉(きず)きの多色雲竜紙(たしきうんりゅうし)とか、雅やかな京友禅柄和紙なんて、とんと売れんくなっちまったもんだあ」。

とは言え、和紙がこの世から消え去るわけではない。

「書道の先生やら、手工芸の方。美濃の白和紙なんかは、大凧に使われたり、高級料亭の障子紙に。最近では外国への土産物としてや、観光客の外国人がこぞって買ってくもんだあ」。

大量生産の洋紙に比べ、一枚一枚を手で漉く和紙の価格は、洋紙の何十倍と、なんとも高額な紙だ。

「だけんども、『和紙』と呼ばれるように、日本独特のもんだで、外国の人らには京の雅やかさが感じられて、それでうけるんだろうな」。

もっとも帳場に、洋紙のノートでは如何にも不釣り合いだ。

「こんな水引だって、同じ色のもんでも長さも太さもまちまちで、何十種類ってあるもんだで」。寿高さんは帳場で背伸びして、梁の上に渡した水引入りの箱を引き摺り下ろした。

「最近じゃあ、水引をようけ使ってくれた結納屋さんも、どんどん店閉めてってまうでねぇ」。傍らで母澄子さんが、こっそりぼやいた。

物の本によれば、水引を掛ける風習は、日本独自の礼儀であり、「自分を正しくして、先様を敬い、これに奉仕する」室町時代に花開いた文化の名残とも。

水引を「真結び」にして、その両端を「結び切り」にする弔事。

相対し慶事には、「蝶結び」。

いずれも和紙の熨斗(のし)袋だからこそ似合う、我が日本の奥床しい心配りかな。

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