「天職一芸~あの日のPoem 224」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「模型屋」。(平成十九年三月十三日毎日新聞掲載)

入り江に浮かぶブイ目掛け 模型ボートが波を切る    スピード上げて旋回し ゴール目指してまっしぐら    老いも若きも入り混じり 少年のよな瞳して       操縦桿(そうじゅうかん)を握り締め 船の行方に無我夢中

愛知県蒲郡市のちどりや模型、店主の酒井正敏さんを訪ねた。

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「飛行機はちょっと間違うと、直ぐに逃げてってまうだ。これまでに三回も逃がしたったわ。いっぺんは警察から。まあいっぺんは、遊覧船が拾って来てくれただわ。それに比べりゃあボートは、操縦が効かんようになったって、沈まんときゃあ浮いとるだで」。ラジコン模型に呆けて早や、半世紀と二年。正敏さんは、少年のように澄んだ瞳を輝かせた。

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正敏さんは昭和三(1928)年、海運業を営む家に五人兄弟の長男として誕生。

やがて家業は、海運から石炭販売へ。

尋常高等小学校を上がり、勤労動員の豊川工廠で終戦。

しばらく家業の石炭販売に従事することに。

「昔っから模型が好きで、特にラジコンのスピードボートに夢中だっただぁ」。

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挙句に好きが講じて昭和三十(1955)年、石炭販売の傍ら模型店を開業。

「あんな当時模型屋なんて、豊橋と岡崎に一軒ずつあった程度だわ。だったら自分で店開いたろかって。だもんで模型の品揃えは、み~んな俺の欲しいもんばっかだっわさ」。またしても年老いた少年は、悪戯っ子のような笑顔を向けた。

「だって模型屋なんて、日曜日と平日の晩にしか客は来んだで」。

この年、市内から妻を迎え二男を授かった。

その後昭和三十七(1962)年から、家業の廃業に伴い建築会社に勤務。

「名古屋の会社だったもんで、仕事の合間に抜け出しては、明道町まで行って仕入れてくるだぁ」。

ラジコンのスピードボートは、真鍮(しんちゅう)板をハンダ付けして船体部分を形作り、エンジンを取り付ける。

次に甲板を被せて塗装。

後は無線を取り付ければ完了。

「ラジコンでも飛行機は操縦が難しいだぁ。何でかって?そりゃあ飛行機は上下左右に操らなかん。けど船のレースは、片っ方に舵切っとりゃあええだで」。

昭和四十(1965)年当時、ラジコンヘリ一台で二十万円だったとか。

大阪万博で大忙しだった日本食堂の駅弁が、二百円の時代のことだ。

「それが十万円のヘリじゃあ飛ばんだぁ。中には大会出場に入れ込んでまって、田畑み~んな売り払ったのもおっただぁ」。

全盛期の自慢は、全長一.二㍍、重さ七㎏、ガソリンを燃料とするボート。

平均速度七十~八十㎞のスピードで、三河湾のさざ波を我が物顔で蹴散らしたほど。

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「そんでもまあかんわ。年取るとそんな重たい船、危ないで抱えられん。海に落っこちてまったら一貫の終いだで」。

今ではマニアに、複雑な模型の作り方を手ほどきする毎日。

「まあそれにしても、万引きはしょっちゅうだわ。酷いのは、箱だけ残して中身を根こそぎ持ってってまうだで。今じゃあゲーム感覚みたいなもんらしい。もう歳も歳だし年金暮らしだで、呆け防止に店開けとるだけだわ」。

海を渡る春一番が、ほんの一瞬凪いだ。

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一生物の遊びと出逢い、半世紀以上を惜しげも無く、ラジコン模型に捧げた。

店先に立つ七十八歳の万年少年は、飽きることなく遊びなれた港を静かに見つめ続けた。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 1話」~「だからもう」「守ってあげる」

今週から毎週火曜日の夜10時には、「昭和を偲ぶ徒然文庫」と題して、過去に新聞に掲載した雑文をご紹介させていただきます。

どうかよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

「日本初、美濃電女性車掌」 2011年2月24日

♪汽笛一声新橋を♪ とは、のちの世で謳われた鉄道唱歌。

それも明治5(1872)年9月12日(グレゴレオ暦10月14日)、新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通したればこその賜物である。

当時、新橋―横浜間の所要時間は、約一時間。現在の二倍以上を要した勘定だったとか。

それから時代を下ること約半世紀。

大正7(1918)年4月18日。

岐阜県の美濃電気軌道(通称/美濃電)に、日本初の女性車掌が登場したというではないか!しかも元号が大正に改まったとは言え、まだまだ男尊女卑の風潮を色濃く残す時代に。

いやはや天晴れ!美濃電。

つまり昭和61(1986)年施行の男女雇用機会均等法より半世紀以上も前に、美濃電ではいち早く女性車掌の導入に踏み切り、全国の鉄道会社に先鞭をつけていたのだ。

♪私は東京のバスガール発車オーライ♪

コロムビア・ローズの歌でお馴染みの「東京のバスガール」は、はとバスのガイドさんがモデルとか。

その元祖の誕生は、東京青バスが全国初として、バスガール25名を採用した大正9年のこと。

美濃電の女性車掌より、遅れること2年。

しかしこうした女性登用の裏には、避けて通れぬ時代背景もあった。

美濃電の女性車掌誕生の年には、第一次世界大戦が終結。

国土が戦火に塗れなかった日本は、大戦景気に沸き、乗務員が不足。

その解消手段が、女性車掌の登用だったのだ。

しかし、とは言え日本初の女性車掌導入が、岐阜県の美濃電であった事と、それが女性の地位向上に一役買った史実も、岐阜県の誇りの一つとして、決して忘れてはならぬ。

ぼくが子どもの頃は、まだまだバス通りとは言え、都心部を離れると概ね砂利道で、しかもレトロなボンネットバスでした。

ウインカーは、矢印の矢が下向きに格納されている所から、木製だったのかプラスチック製だったかの⇒が、右へ左へと90°左右に飛び出す仕組みの物でした。

もちろん乗降口は一か所で、ドアの後部の小さな小さな仕切られたスペースに、女性の車掌さんが乗り合わせていたものです。

黒い車掌鞄を斜めにかけ、器用に改札鋏を操る姿に、子どもながらに憧れたものでした。

ワンマンカーも交通系ICカードも無い時代。

中には、改札鋏を西部劇に出てくるような、早打ちガンマンのように、トリガーガードに指を通してガンスピンを繰り返すかのように、改札鋏をものの見事に何度も回転させ、颯爽と切符を切る車掌さんもいたものです。

お母ちゃんにせがんでせがんで、やっと買って貰った車掌さんセット。ブリキ製の改札鋏で真似たものですが、本物の車掌さんの腕前には到底敵いっこなかったですねぇ。

ボンネットバスの木製の床からは、いつも油の匂いが立ち込めていたことも、今思い出しました。

そんな昔話はさておき、今日の弾き語りでは「だからもう」と「守ってあげる」をお聴きいただきます。

「だからもう」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

何も言わなくていい ぼくが側にいるから

自分を責めてみても 昨日は何一つかわらない

長い旅の途中の 港で立ち尽くして

ぼくが漕ぎ出す船を 君が選んでくれただけ

 今さら出逢いが 遅すぎたなんて 心欺(あざむ)き 続けて生きるよりも

 だからもうぼくだけを 信じ続けて  生きてごらんよ 君が君らしく

人が何を言おうと 君は君でしかなく

ぼくもぼくでしかない ふたりで一つを生きるだけ

有り余る時間もなく 微かな残り灯だけ

だから片時でさえ 愛しく心が求め合う

 いつかふたりが この世を去ろうと  君を愛した 記憶は消せはしない

 だからもうお互いを 想い続ければ  何もいらない 君さえいてくれたら

 月明り頼りに 沖へと向おう 君が生まれた 星座を目指しながら

 だからもういいよ すべて哀しみは 泪と共に 海へと還(かえ)せばいい 

「守ってあげる」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

今日は昨日の続きじゃない 明日へと続く大切な一歩

君の踏み出すこの道の先が 石ころだらけならぼくが取り除こう

 恐れる事など何も無い 信じる物さえ見失わなきゃ

 何時でもどんな時でも君の側には 誰より君を愛するこのぼくがいる

たとえ誰かが君を責めても この世の誰もが君を詰(なじ)ろうと

世界中を敵に回そうと 君一人になろうとぼくは君の味方

 恐れる事など何も無い 二人の心を信じ合えば

 何時でもどんな時でも君の側には 誰より君を愛するこのぼくがいる

 人目気にして生きるより 身構えながら怯(おび)えるより

 君は心の向くまま君らしくいて 必ずぼくがいつでも守ってあげる

 君は心の向くまま君らしくいて 必ずぼくがいつでも守ってあげる 守ってあげるよ

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「路面電車とボンネットバスの思い出」。

ぼくも子どもの頃は、市電の運転席の真横に陣取り、シルバーのポールにしがみついて運転士さんの一挙手一投足に見入って憧れたものでした。

皆様は、路面電車やボンネットバスにどんな思い出がございますか?

ぜひコメントをお寄せ願います。

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クイズ!2020.09.29「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

季節の変わり目ってぇのは、こんなノー天気なぼくでさえ、時として体調の微妙な変化を感じる時があります。

特に胃腸の具合がちょっとなぁ、なぁ~んて時には、もっぱらこんな朝食を用意することもあります。

しかしこれがまた沢山できちゃって、ついつい残っちゃうものなんです。

するとぼくは、小麦粉やら卵を混ぜて、フライパンでお好み焼みたいに薄っぺらく焼いて、チヂミのようにしてビールのあてにしちゃいます。

さあ今回は、とても分かりやすい気がいたしますが、皆様のお答えや如何に!

皆様からのご回答をお待ちいたしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 223」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「餅匠」。(平成十九年三月六日毎日新聞掲載)

ホイサホイサの掛け声に 杵振り降ろす若衆の      頬にほんのり赤み差し 真白き湯気が立ち上る     ふっくら餅が搗き上がりゃ 椀を片手に子が並ぶ     大根卸し小豆餡 黄粉黒糖お好みで

三重県桑名市、お餅の大黒屋。三代目餅匠の後藤泰雄さんを訪ねた。

「黒棒とか餅菓子は、元々『朝生(あさなま)』ゆうて、朝作ったもんをその日の内に食べるもんやったで、保存料とかは今も一切使こてません」。

大黒屋は昭和七(1932)年創業。

泰雄さんは昭和四十八(1973)年に三人兄弟の長男として誕生。

「父は商売人と職人が半々。祖父は不器用なほど一徹な職人。だからお婆さんは祖父を店頭によう出さんかったほどですわぁ。何でって?お愛想もできやんし、お客さんから『これ焼き立てですか?』と聞かれると、『そんなに冷たいんが欲しけりゃあ、明日の朝また来てくれ』って平気で言うような人やったらしい」。傍(はた)で聞いているとまるで喧嘩を売っているようだったとか。

泰雄さんが中学三年になった年、初代の頑固職人はこの世を去った。

泰雄さんは大学へと進学。しかし大学二年の暮れ、父の胃癌が再発。

已む無く中退し、家業に従事することに。

「三つ子の頃から店ん中チョロチョロして、まあ門前の小僧みたいなもんですわぁ」。

入退院を繰り返し闘病を続ける父に付き、餅匠としての極意を学び取ろうと必死。

しかし父の身体は日に日に蝕まれていった。

病室に商品を持ち込んでは、小さくした餅を父の口に運び入れ「どうや?」と問いかける。

「駄目出しばっかやさ。とうとう最後の最後まで、褒めてもらえやんだ。『巨人の星』の父、一徹みたいな人でしたから。『見て覚えて、技を盗め』が口癖やったし」。

翌年、若干二十一歳の泰雄さんに店を託し、父は還らぬ人となった。

大黒屋創業当時から続く名代の逸品「黒棒」。

幅約七㌢、高さ約五㌢、長さ約四十五㌢。艶光する焦げ茶色。巨大な海鼠のような棒状の餅菓子だ。

「北勢地域特有の、農家に伝わった冬場のおやつとか。だから『懐団子』とか、懐に入れるから『ネコ』とか、色んな呼び名があったらしい」。

上新粉と沖縄産黒砂糖だけの天然無添加。素朴で懐かしい味わいの逸品だ。

まず上新粉に湯を入れ、練りながら蒸し上げる蒸練機(じょうれんき)で生地作り。

次に熱々のうちに黒砂糖を生地に馴染ませ、上白糖を加え甘みを調える。

そうして完成した生地を、今度は臼で一分半ほど搗き、取粉を入れた半切りで成形。半切りとは、盥(たらい)状の浅く広い桶。

「ぼくも黒棒が大好きで、学校帰りに友達が遊びに来ると、必ず皆して食べよったほど。…でももしかしたら、それ食べたさでぼくん家に遊びに来とったんやろか?」。

とにかく朝生ゆえ、出来立てが絶品。

だが冷めて硬くなっても、一㌢ほどの厚さに切り、ホットプレートで焙ればこれまた香ばしさが引き立つ。

「一~二月が一番売れますわ」。毎年十一月から春の彼岸までの限定品。

泰雄さんは二十六歳の年に、東員町出身の妻知美さんと結ばれ、二人の娘を授かった。

「『帰りに黒棒持って来て』って、よう女房から電話が入るんやわ。娘らにも人気やけど、女房が一番黒棒好きかも知れやんわ」。

素朴な味ゆえ、どんなまやかしも一切通じぬ。

ただただ呆れるばかりの直向さ。

三代続く黒棒作り。

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「天職一芸~あの日のPoem 222」

今日の「天職人」は、岐阜市今小町の「化粧品屋」。(平成十九年二月二十七日毎日新聞掲載)

ヨチヨチ歩き七五三 君は晴れ着に紅注して       カランコロンと下駄鳴らし 得意満面千歳飴       お宮参りのその後は 帯も曲がって裾開(は)だけ    みたらし団子頬張れば 紅もいつしか醤油色

岐阜市今小町、化粧品の白牡丹。店主の白橋政子さんを訪ねた。

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鼻をくすぐる甘い香り。入り口を一歩跨げは、そこは女の園。政子さんは、明るい笑顔を惜しげもなく振りまいた。

とても齢(よわい)八十には見えぬ達者な岐阜美人。

「私なんて田舎の娘やで、ボワ~ッとしとるだけ。そりゃあ化粧品や道具は売るほどあるけど、元の土台がこれやで綺麗になるにも限界があるんやて」。再び愛らしい笑顔を広げた。

政子さんは大正十四(1925)年に、同県美濃市で酒屋を営む後藤家の、六人兄姉の末っ子として誕生。

高等女学校から専攻科を卒業し、十九歳で国民小学校の教壇に立った。

それから三年。見合い話が持ち込まれた。

「あんな頃は、男一人に女はトラック一杯の時代やで。好きな人なんて選べませんわ」。たった五分のお見合いで、交わした言葉は一言「コンニチワ」。

実家の父が諭した。

「運命は命を運ぶと書くやろ。自分で運ぶもんや」と。

昭和二十二(1947)年、白橋敏夫さんと結ばれ、三女に恵まれた。

「稲葉神社で結婚式挙げたんやて。でも同じ日に三組も結婚式があって、どれが主人なのかわからへんのやわ。今でも娘に言われます。『何で他の婿さんに付いてかんかったの』って」。

翌年、店を開店。

「まだ配給の時代でした。ちょこちょこっと化粧品や石鹸が入って来ても、あっと言う間の一時間で売り切れ」。

資生堂に当時、権利金三千円を納め、登録番号六番を得た。

「銀座の資生堂まで年二回、美容の勉強会に」。しかしその無理が祟ってか、早産で最初の子を亡くした。

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徐々に統制が解除され、戦後の復興も本格化。

「まああの当時は、朝六時に店開けて夜十時まで。休みはたったの元旦一日。娘を背負って店番したもんやわ」。

年に一度の待ちに待った休日となる元旦。決まって朝早くに一人の女性が訪れた。

「歌手の中条清さんのお母さんなの。よりによって元旦の朝やって来て、お遣い物の化粧品や石鹸の詰め合わせを買いに。本当はありがたいんやけど、こっちはやっと訪れた年に一度の公休日やで。それでも邪険にするわけには行きませんでしょう」。政子さんは懐かしそうに笑った。

昭和三十(1955)年代に差し掛かると、化粧品も飛ぶような売れ行きに。

「当時五千円したヘアブラシが、一日で百本売れたんやわ」。昭和四十(1965)~五十(1975)年代がピークとなった。

来年で開店六十年。今では客も二代目三代目に様変わり。

「やたらと暗~い顔して、まるで家出?って格好で入って来て。ご主人と喧嘩したとか、姑とやりあっちゃったとか。色々聞いてあげて宥(なだ)めたり。夕飯でも食べて行きなさいって言うと『あっ、帰ってご飯の仕度せんと』ってすっかり元気になって急いで帰って行くんやて」。

人それぞれに抱えた悩みや憂い。

女は苦悶を化粧で覆い隠し、まるで悩み知らずのような慈悲深い笑みを湛(たた)える。

「『化粧品も買えたけど、お母さんの話し聞けて元気も買った気がするわ』って言われるのが一番嬉しいんやわ」。

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八十一歳現役の美容部員は、顔の化粧だけじゃなく、心の奥のくすんだ滲みさえ見事に消し去る。

持ち前の笑顔と人柄という、心の化粧法で。

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9/22の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「お焦げ風揚げ餅 on 冷蔵庫一掃の八宝菜」

天気が悪いと、中々買い物に出るのも億劫な物です。

そんな時こそ、溜まりに溜まった冷凍庫や野菜室内で、登板の機会を今か今かと待ち侘びつつ、日に日に萎れてきたり、オヤジ臭ならぬ冷凍臭が染み付いてしまいそうな、そんな材料を一絡げに調理台に放り出し、あれやこれやと頭を捻った結果がこの「お焦げ風揚げ餅 on 冷蔵庫一掃の八宝菜」でした。

ざっと冷凍庫と野菜室に残っていた材料は、Honey Babeのうで肉スライス、餅(白・蓬)、乾燥貝柱、チンゲン菜、ピーマン、ニンジン、コンニャクでした。

まずは乾燥貝柱を水で戻し、貝柱は水を切っておき、戻し汁はスープ用としてボールに残しておきます。

次に白と蓬の餅を賽の目切りにし、油でこんがりと揚げておきます。しかし残念ながらぼくの場合は、せっかく賽の目切りにしたにも関わらず、油を切っている間に互いにくっ付いてしまいました。

そして中華鍋にサラダ油とごま油をたっぷり注ぎ、八宝菜の具材を炒め、貝柱の戻し汁を注ぎ入れ、鶏がらスープの素、塩、ブラックペッパー、紹興酒で味を調え、水溶き片栗粉で餡にし揚げ餅にたっぷり掛ければ完了です。

紹興酒のオンザロックにレモンを絞り、それはそれは腹一杯になるまで、ペロリといただいてしまいましたぁ!

今回も皆々様の、目を見張るような推理力に驚き桃の木山椒の木でした。

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 221」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「庭飾り師」。(平成十九年二月二十日毎日新聞掲載)

寺の山門日も暮れて 屋形提灯火が燈る         ぼんやり家紋浮かび出で 母の在りし日偲ぶ通夜     僧侶の経に甦る 母のいつもの口癖が         「人を嫉(ねた)むな羨(うらや)むな 常に謙虚に世を渡れ」

名古屋市中村区、ツノダ花重中村の角田好一さんを訪ねた。

どこからどう見たところで、世辞にも花屋には見えぬ佇まい。

「だいたい花屋だって一口に言ったって、お祝いもありゃあお弔いもあるんだで。そんなもんどっちが多いかで、店の色合いなんて決まってまうわぁ」。

好一さんは弔事の際、屋形提灯下に、弔問客を迎える庭飾りを手掛ける。

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好一さんは昭和八(1933)年に、七人兄弟の末子として誕生。

「若い頃親父は、近衛兵のエリート。俺が生まれた時は退役して、近所の娘相手に生け花を教えとったんだわ。その娘んたあがまんだ生きとりゃあ、まあいっつか百歳ぐらいだわさ」。

華道師範も務めた父は、自宅で芝居を上演させるほどの粋人。

だが好一さんがわずか五歳の年に他界した。

昭和二十四(1949)年、新制中学を卒業。

しかし職に就くわけでもなく、大好きな野球三昧に呆けた。

「百姓しもって、二~三チーム掛け持ちで野球ばっかだて」。

その三ヵ月後。「田植えで『ああ腰が痛ってぇ』って伸びしとったら、一番上の兄貴が向こうから『お前、明日から今池の花屋行け』って言わっせるもんだで」。

翌日から今池の花屋まで、自転車に跨り一時間かけて通い続けた。

「雨降りの日が唯一の休みだわ。癪だけんど、なっかなか雨が降りやがらんだ」。

それでも毎朝、中区大須の花市場に立ち寄っては花を仕入れ、自転車に積み込んだ。

「やっと給料もらって兄貴に見せたら、『多すぎるわ』って言って返しに行ってまうでかんわ。そんなもん無茶だって」。

またもや三ヶ月後。

「いつまでも人の銭儲け手伝うことないで」。

わずか十六歳の秋に、長兄の出資で独立開業。

「兄貴に店番してまって、俺が仕入れから配達まで外回りだあさ」。

十六歳の少年社長が誕生した。

歯に衣着せぬ下町の名古屋弁で、年配者から「コーチャ・コーチヤ」と親しまれ可愛がられた。

それから十年。

やんちゃな少年も、いつしか青年へ。

「母親がそろそろ嫁を貰えって。俺、結納金なんてあれせんで、母親の言うなりだあさ」。

昭和三十四(1959)年、安子さんと結ばれ、二男に恵まれた。

「俺もそんな昔の親父の話なんて、初めて聞いたわぁ」。傍らで二代目を継ぐ、長男の都司之(としゆき)さんも呆れ顔。

その三年後、甥に店を託し再び独立。

公設市場の花屋として小売に専念し、一家を支えた。

「長男が中学三年の年に、やがては花屋継ぐって言うもんだで。このまんまんではかん。なんとかせんとって」。事業拡大を思案。

その行き着いた先が、葬儀の屋形提灯下への庭飾り。

写真は参考

「屋形が風でよう倒れるんだわ。だったら屋形の足を押さえて倒れんようにしてまって、弔問客を迎える庭飾ったりゃあええがやって」。

幅約一.二㍍、奥行き約九十㌢の台で屋形の足を押さえ、背面に矢来垣、外側に光悦垣を配し、杉や黄楊の木と盛り花、蹲(つくばい)、立石で小さな庭を描き出した。

昭和五十三(1978)年、大手葬儀社の屋形下に庭飾りを開始。

「まあ全国で一番最初だったって。それでもかんわ。一ヵ月もしたら他所もみーんな物真似始めてまうで」。

だが自宅飾りから葬儀ホールの時代を迎える昭和の終わりまで、「コーチャの庭飾り」は、愛知県内約五万軒以上の仏を彼岸の岸へと見送り続けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 220」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「バーマダム」。(平成十九年二月六日毎日新聞掲載)

紫煙が燻(くゆ)る止まり木は 儚い恋を幾つ知る    今宵も扉軋ませて 傷心者がまた一人          頬杖付いて物憂げに 男はジンを飲み干した       マダムの酌に酔い痴れて 砕けた恋の傷癒す

三重県四日市市のバー、舶来居酒屋「エルザ」。マダムの浜田横子(ようこ/仮名)さんを訪ねた。

店先の看板に柔らかな灯りが燈る。

重たい木製ドアを開けると、一直線にバーカウンターが続く。

ハイチェアーは背もたれに糊の効いた純白のカバーを纏(まと)い、客の来店を待ち構えるよう入口に座席を向け整然と居並ぶ。

「椅子が『いらっしゃいませ』って、言ってるようでしょう」。少女のように愉しげに、老婆はコトリと笑った。

横子さんは昭和四(1929)年に横浜で誕生。

激化する戦火を避け、父親の海軍工廠(こうしょう)赴任に合わせ、三重県津市へと疎開。

女学校の高等科に学び、和裁にも打ち込み終戦を迎えた。

「和裁の先生が好きでして、ご夫婦が東京へ引っ越されちゃったの。だからしばらくして私も追うように上京しちゃったの」。

しかしそれが人生の転機に。

和裁の先生が縁談話を持ち込んだ。

「戦後間も無い頃だから、男性がいなくってね。必死で探したって八つや十は離れてるわけよ。その中でも一番若かったのが主人だったわけ」。

昭和二十四(1949)年、万平さん(仮名)と結ばれ、二人の子供を授かった。

「サラリーマンの夫が希望だったの」。しばらくは横浜で平穏に、親子水入らずの暮らしが続いた。

昭和三十(1955)年代に入ると、高度成長経済期へ。

そんな頃、万平さんに名古屋への転勤が命ぜられた。

「兄夫婦が四日市にいましてね。しばらくすると、兄嫁と私と妹の三人で、バーを開こうって話になりまして」。

とは言え、誰もが素人。名古屋の人気バーから、バーテンダー三名を引き抜き、昭和三十三(1958)年に開店。

「最初は『カトレヤ』って名前で、マッチも名入りで作って案内状も印刷して。開店一週間前って時に、すぐご近所に『カトレヤ』って店名のタバコ屋さんがオープンしちゃってね。慌てて店の名前を変えたわけ」。

四日市一お洒落な店の誕生に、店は大賑わい。

ところがその半年後、兄夫婦が離婚。店から兄嫁が去った。

それから程なく、今度は妹が結婚で退職。

「私はおしぼり巻きとか、下働き専門の約束だったのよ。カウンターの中が苦手で、いつも隅っこに隠れてたわ」。二人のパートナーが去り、ついに横子さん一人っきりに。

「それで困り果ててたら、主人が退職してこの世界に飛び込んで来てくれたの」。

現在も店内は開店当初そのまま。

柱は磨き上げられた、無垢のラワン材。

デコラ貼りのカウンターも椅子も。

中でもカウンターと椅子高のバランスは絶妙。故に不思議なほど落ち着く。

だから未だに半世紀通い続ける客や、三代目に世代交代した客が訪れる。

「酒は売るけど、媚は売りませんから。それが私の信条。だから一滴たりとも飲みません」。ともすれば容易に、どこまでも流されかねぬネオン瞬く世界。マダムは厳しく己を戒め、半世紀を生き抜いた。

「来年九月で満五十年ですから、皆でお祝いをしましょうって愉しみにしてたの。でも二年前に主人が他界して」。目を細め、カウンターの一箇所を見つめた。

恐らくそこがマスターの立ち位置だったのだろう。

「だから私は、少女からいきなり老女になっちゃったのよ」。

乙女から妻として生きた半世紀の記憶は、最愛の伴侶の死をもって永遠に封印された。

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「天職一芸~あの日のPoem 219」

今日の「天職人」は、岐阜市加納栄町通りの「パン職人」。(平成十九年一月三十日毎日新聞掲載)

棚に並んだ菓子パンは まるでぼくらの玉手箱      餡にジャムパンコッペパン あれこれ思案品定め     パン屋親父は呆れ果て 貧乏揺すり床軋(きし)む    悩んだ末に神頼み 人差し指の言うとおり

岐阜市加納栄町通りのサカエパン。二代目パン職人の高木康雄さんを訪ねた。

JR岐阜駅から南へわずか。主婦用自転車が引きも切らず、入れ替わり立ち代りやって来る繁盛店。

昭和の風情が色濃く残る引き戸を開ければ、焼き立てパンのやさしい香りにたちまち包み込まれる。

「戦後は四十軒ほどあったけど、今じゃあもうたったの三~四軒やろなぁ」。康雄さんは、品定めに夢中の客を眺め渡しながらつぶやいた。

康雄さんは昭和十三(1938)年に七人兄弟の長男として誕生。

「子供のころ父は、菓子やゲンコツ飴に、野菜や果物をリヤカーに山盛り積んで、犬に曳(ひ)かせて売り歩いとったんやて」。

しかしやがて軍事色も深まり敗戦へ。

サカエパンは昭和二十二(1947)年に、サカエパン食品工業として創業された。

「戦後の混乱で物資の手に入らん時代やったで。父は仕入れルートを作るために、材料問屋の人と一緒に会社を興したんやて。パンの作り方も知らんで、どっからか職人を三~四人ほど連れて来て。機械は名古屋からの中古品。見よう見真似で始めたらしいわ」。  

康雄さんは高校を出るとすぐ、父の元でパン職人を目指した。

昭和三十一(1956)年、敗戦の傷も少しずつ癒え、この国の民にも明るさが兆し始めて行った。

「ところが今度は、東京や名古屋から大手の製パン会社が乗り込んで来て。俺らぁみたいな小さなパン屋はコテンパンにやられてまうんやて」。昭和三十年代の急速な復興期は、パン屋が生き残りをかけた戦国時代でもあった。

「これではあかんと思っとったら、宅配で売らせてくれって業者がやって来て。ロバパンみたいなもんで、販売専門の業者やわ。それで何とか、バブル崩壊までは息を繋いだって」。

昭和三十七(1962)年、紀子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「結婚したら直ぐに出来てまったんやて」。康雄さんは照れくさそうに、傍らで忙しそうに立ち働く三代目の芳継さんを盗み見た。

その後バブル経済の破綻により、宅配が低迷し売り上げは半減。

「その前から店頭売りをしたいなぁって、頭ん中で考えとったんやて。宅配の業者が、いろんな余所のパンを持ってきて『次はこういうの作れんか?』って。それで研究しとったでなぁ」。

平成六(1994)年、工場の店先で店頭売りを開始。

最初は一日に、五百個も売れればと半信半疑だった。

「そしたらTVの取材はやって来るし、お客さんは倍作れって言うし」。わずか三年ほどで、店頭売りの焼き立てパン一本へ。

今では平均三千個。多い時は四~五千個にも及ぶ。

毎朝四時からの仕込み作業。

基本のあんパン作りは、準強力粉に砂糖・卵・塩・イースト・粉乳・マーガリン等に水を混ぜ合わせることに始まる。

それを一時間発酵させ、生地を分割して丸め置き、次に成形し餡を入れ胡麻を付け再び焙炉(ほいろ)で発酵。

「ほてから卵黄を塗って、へてからオーブンで焼き上げるんやわ」。

こうして天下一のアンパンが、えも言われぬ香りを発し焼きあがる。

何ともパンのように柔らかそうな手である。

「毎日マーガリンで、生地捏(こ)ねとるでやろなぁ」。

半世紀をパン作りに捧げた老職人は、照れくさそうに柔らかな手を揉み合わせた。

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「天職一芸~あの日のPoem 218」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「甘味茶寮女将」。(平成十九年一月二十三日毎日新聞掲載)

小豆の香り袖を引く 観音様の帰り道         ちょっと一杯善哉(ぜんざい)を お腹の虫が大騒ぎ   椀に浮かべた焼き餅を 先に食べよか啜(すす)ろうか  身も溶けそうな甘さゆえ 小梅一つで口直し

名古屋市中村区名駅で、大正十一(1922)年創業の御菓子司養老軒。三代目女将の西脇千穂さんを訪ねた。

「周りが高層ビルばっかりでしょう。だから最初ここに来た時、下から見上げるとビルが傾いて見えて、今にも倒れて来そうな気がして、両手を頬に当てたままボーッとしてたもんよ」。千穂さんは、通りを眺め懐かしそうに笑った。

千穂さんは昭和二十八(1953)年に、岐阜県郡上八幡町で金物工場を営む清水家の三女として誕生。

「毎日野山を駆け巡って筋肉モリモリ、おまけに日焼けで真っ黒。冬はスキー、夏は川で魚を突いて」。豊富な自然を相手に少女時代を送った。

やがて千穂さんも中学生になった夏休み。隣の家に名古屋から高校生の男子五人が避暑に訪れ、泊り込みで受験勉強に励んでいた。

「都会に憧れてたから、興味を持ってたのかしら」。いつしか男子高校生とも打ち解け川遊びに高じた。

「専門学校に通ってインテリアデザイナーになりたかったの。でも卒業間近に今の主人がやって来て、両親を説得して名古屋に連れて来られちゃったの」。ご主人の隆夫さんは、名古屋から避暑に訪れていた男子高校生の一人だった。

「本屋に住み込まされて。夕方五時になると主人が迎えに来て、毎日デートなの。それも今思えば、洋裁やらお茶のお稽古、それに料理教室。毎日門限の八時半までビッシリ」。そんな軟禁状態のような花嫁修業は、二十一歳で結婚するまで続いた。

プロポーズの言葉は、「バスや地下鉄の乗り方すらわからんのだから、もう嫁に来るしかないだろう」だったとか。やがて一男一女に恵まれた。

子育ても一段落した昭和六十一(1986)年、老舗の隣に茶寮を開店。

「甘味処の商売とか、何にも知らないから、京都に出かけて勉強して。私は餡蜜(あんみつ)の寒天がどうにも苦手で。だから家の餡蜜は寒天じゃなくって、蕨(わらび)粉と葛(くず)粉で作った京都風なの」。

いかに菓子作りは専門と言えども、茶寮の営業とは異なる。

「開店から一~二年は、皆でトランプしたり五目並べの毎日」。

しかしテレビのグルメ番組に取り上げられると、それが追い風となり雑誌にも紹介されるほどに。

「OLや女子高生で一杯。ちょうどバブル時代の幕開けだったから、女子高生がタクシー横付けでやって来るんだから」。夏場はかき氷目当ての客が、ズラリと表通りに並ぶ状態が続いた。

「すべて私の口に合わないと駄目。私は餡子の豆がだめだから、お饅頭も嫌いなの。だから家の商品はどれも甘さ控えめ」。品書きを指差しあっけらかんと笑った。

「ずっと世間知らずの箱入り女将だったでしょう。だから今、青春を取り戻したって感じ。昔はディスコもバイトの子たちに連れてってもらったほどなんだから。だから今でも世間のことは、み~んなバイトの子に教えてもらうの」。

善哉は、仏典によれば仏が弟子の言葉に賛意して褒める言葉とか。

「善哉善哉!何はともあれ、箱入り女将は今が青旬(せいしゅん)」。

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