今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「模型屋」。(平成十九年三月十三日毎日新聞掲載)
入り江に浮かぶブイ目掛け 模型ボートが波を切る スピード上げて旋回し ゴール目指してまっしぐら 老いも若きも入り混じり 少年のよな瞳して 操縦桿(そうじゅうかん)を握り締め 船の行方に無我夢中
愛知県蒲郡市のちどりや模型、店主の酒井正敏さんを訪ねた。

「飛行機はちょっと間違うと、直ぐに逃げてってまうだ。これまでに三回も逃がしたったわ。いっぺんは警察から。まあいっぺんは、遊覧船が拾って来てくれただわ。それに比べりゃあボートは、操縦が効かんようになったって、沈まんときゃあ浮いとるだで」。ラジコン模型に呆けて早や、半世紀と二年。正敏さんは、少年のように澄んだ瞳を輝かせた。

正敏さんは昭和三(1928)年、海運業を営む家に五人兄弟の長男として誕生。
やがて家業は、海運から石炭販売へ。
尋常高等小学校を上がり、勤労動員の豊川工廠で終戦。
しばらく家業の石炭販売に従事することに。
「昔っから模型が好きで、特にラジコンのスピードボートに夢中だっただぁ」。

挙句に好きが講じて昭和三十(1955)年、石炭販売の傍ら模型店を開業。
「あんな当時模型屋なんて、豊橋と岡崎に一軒ずつあった程度だわ。だったら自分で店開いたろかって。だもんで模型の品揃えは、み~んな俺の欲しいもんばっかだっわさ」。またしても年老いた少年は、悪戯っ子のような笑顔を向けた。
「だって模型屋なんて、日曜日と平日の晩にしか客は来んだで」。
この年、市内から妻を迎え二男を授かった。
その後昭和三十七(1962)年から、家業の廃業に伴い建築会社に勤務。
「名古屋の会社だったもんで、仕事の合間に抜け出しては、明道町まで行って仕入れてくるだぁ」。
ラジコンのスピードボートは、真鍮(しんちゅう)板をハンダ付けして船体部分を形作り、エンジンを取り付ける。
次に甲板を被せて塗装。
後は無線を取り付ければ完了。
「ラジコンでも飛行機は操縦が難しいだぁ。何でかって?そりゃあ飛行機は上下左右に操らなかん。けど船のレースは、片っ方に舵切っとりゃあええだで」。
昭和四十(1965)年当時、ラジコンヘリ一台で二十万円だったとか。
大阪万博で大忙しだった日本食堂の駅弁が、二百円の時代のことだ。
「それが十万円のヘリじゃあ飛ばんだぁ。中には大会出場に入れ込んでまって、田畑み~んな売り払ったのもおっただぁ」。
全盛期の自慢は、全長一.二㍍、重さ七㎏、ガソリンを燃料とするボート。
平均速度七十~八十㎞のスピードで、三河湾のさざ波を我が物顔で蹴散らしたほど。

「そんでもまあかんわ。年取るとそんな重たい船、危ないで抱えられん。海に落っこちてまったら一貫の終いだで」。
今ではマニアに、複雑な模型の作り方を手ほどきする毎日。
「まあそれにしても、万引きはしょっちゅうだわ。酷いのは、箱だけ残して中身を根こそぎ持ってってまうだで。今じゃあゲーム感覚みたいなもんらしい。もう歳も歳だし年金暮らしだで、呆け防止に店開けとるだけだわ」。
海を渡る春一番が、ほんの一瞬凪いだ。

一生物の遊びと出逢い、半世紀以上を惜しげも無く、ラジコン模型に捧げた。
店先に立つ七十八歳の万年少年は、飽きることなく遊びなれた港を静かに見つめ続けた。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。