「天職一芸~あの日のPoem 231」

今日の「天職人」は、三重県津市の「銅板表札職人」。(平成十九年五月八日毎日新聞掲載)

カンカラカンと槌音を 響かせながら思い出す      初めて君を抱いた時 晴れ着白粉(おしろい)七五三   銅板叩く表札は 君が選んだ人の姓           いつの間にやら大人びた 巣立つ娘に幸あれと

三重県津市、建築板金の小堀工房。二代目建築板金士で、銅板表札を手掛ける小堀昇市さんを訪ねた。

写真は参考

「銅板細工は風雨に晒され、長い年月を経る度に表情が違(ちご)てくるんさ。まるで子供が成長するみたいに、酸化して緑青(ろくしょう)をまとってくんやさ」。昇市さんは、叩き出したばかりの表札を取り上げた。

昇市さんは昭和三十七(1962)年に、二人兄妹の長男として誕生。

中学二年の時に父が建築板金士として独立した。

「高校二年の時に銅板細工の魅力に取憑かれたんさ。工場の職人が銅板叩き出すのんに見とれて。そしたらなんや見よう見真似でも出来る気がしてきて。当時付き合っとった彼女の誕生日に、ミッキーマウスの銅板プレートを二ヵ月掛けて叩き出して、時計を付けてプレゼントしたんやわさ。材料はなんぼでも売るほどあったもんやで、それにただやったしなぁ」。昇市さんは照れくさそうに笑った。

高校を出ると精密機械製造の仕事に従事。

「フライスとか旋盤の仕事やで、ミクロの精度が求められる世界やさ」。しかし六年後に退職し家業へ。

「寡黙な作業やったし、なんやも一つ魅力がないんさ。中でも一番嫌やったんは、中間管理職にさせられて若い者と上司とのサンドイッチ状態になったでやさ。ストレスやわ。体重なんか二十㎏も減ってしもて」。

家業に戻ると父と共に建築の外装関係の施工を担当した。

「小さい頃はプラモデルが大好きで、部品を溶かしては改造するほどやった。それで小学校五年の時、将来は大工になりたいって言うたら、担任が『それでは駄目だ。なるんやったら建築士になれ』って。なんや先生にみんな見透かされとったみたいやわさ」。

建築板金の仕事は、雨樋や水切り、外装や屋根の金属部までと幅広い。

「古い神社の屋根とかの銅に緑青が葺いとるやん。そうなるまでに最低三十年はかかるんやさ。気の遠くなるような時間をかけて、自然が手を加えてやがて美しい緑色へと変わってくんやで。大自然は偉大な芸術家なんさ」。

平成元(1989)年、中学の同級生だった輝美さんと結婚。

花嫁道具の一つには、ミッキーマウスの銅板プレートが。

十年の時を経て、作者の元へと舞い戻り新居の壁に飾り付けられた。

「今はもう、時計は壊れてもうて動きませんけどなぁ」。

二人の愛の歴史を刻んだ時計は、その役目を終えた。

やがて二男一女が誕生。昇市さんは忙しい家業の傍ら、三十五歳の時に一級建築士の資格を取得した。

小学校の恩師の助言通りに。

「設計を請け負った家が完成するまでに、銅板で表札を作ったんやさ。自分のサイン代わりに」。

引渡しの晴れの日に、施主の苗字が浮かぶ銅板表札は取り付けられる。

写真は参考

まるで建築士の銘を刻むように。

銅板表札一枚に丸一週間。

手袋をはめポンチと鏨と金槌だけの道具で、裏側からコツコツと文字を叩き出す。

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新品の銅板は、素手で触れるだけで指紋が残るほどデリケートな金属とか。

「表札一枚作るのにいくらも貰えるもんと違いますやろ。まあ、趣味みたいなもんやろな。でもいつかは、子供に自慢できる作品遺したいしなぁ」。

壁の処女作を見つめ、照れくさそうにつぶやいた。

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クイズ!2020.10.06「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ちょっと今回の残り物クッキングは、ぼくの下手糞な写真だけでは、中々判断しずらそうな気がいたします。

赤っぽく見えるソースのようなものは、イタリア~ンなソースではなく、イタリア料理には欠かせない赤い野菜のカット缶に、ナマステな各種のスパイスパウダーを加えて煮込んだものです。本来は、茶色や黄色っぽい色が定番ですが、今回はカット缶の赤い野菜の色の方が勝ってしまっています。

またその上に添えられた直角三角形の物が、これまたちょっと厄介な代物でしょうか?これは、ご飯でも無く、ナンやチャパティー、それにロティーと言ったものの代わりにと、付け添えたものです。

それとこげ茶色のものは、前の晩の酒のつまみの残り物を二度揚げしたものです。

さて、観察眼の鋭い皆様には、どんなものに映りましたでしょうか?

皆様からのご回答をお待ちいたしております。

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本日、22:00の深夜ブログのアップは、明日10月07日22:00に変更させていただきます。

都合により、火曜日を今週だけ、水曜22:00のアップとさせていただきます。

誠に申し訳ありません!

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「天職一芸~あの日のPoem 230」

今日の「天職人」は、岐阜市金園町の「切符売り」。(平成十九年五月一日毎日新聞掲載)

夜の柳ヶ瀬灯が燈る 浮かれ男が酌婦連れ        車乗り付け颯爽と 一張羅着て見栄を張る        夜更けのバス停酔いどれが 夢から覚めてスカンピン   財布の小銭掻き集め どうにかバスの切符買う

岐阜市金園町、岐阜バスの広瀬屋発売所。広瀬治子さんを訪ねた。

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かつて全国にその名を轟かせた日本一の歓楽街、岐阜市柳ヶ瀬。

東西南北に路面電車と路線バスが走り、地方の町から多くの人々を柳ヶ瀬へと送り込んだ。

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その一角、徹明町のバス停。

郡上・関方面へと向かう路線バスが発着する。

ビルの軒下歩道脇。ひっそり佇むように七十五㌢四方ほどの木箱が置かれている。

「店番しながら街灯の零れ灯で新聞読んどると、スーッと掌が伸びて来て『いくらですか?』って、聞かれたんやわ。回数券渡そうとしたら『取りあえず一回見てもらえばいいんです』って。どうやら辻占と間違えとったみたいなんやて」。治子さんは、二代目を継ぐ夫の直巳さんを見つめて笑った。

夫婦はバスを待つ老人たちに、気さくに挨拶を交わす。

まるでそれが日課のように。

直巳さんは、大島家の二男として昭和二十四(1949)年に誕生。

高校二年の年に、親類の子供に恵まれなかった広瀬家に養子入り。

菓子屋を営む広瀬屋は、昭和二十六(1951)年頃よりバスの券売も始めていた。

「本当は大学へ行きたかったんやて。でも養子に出されたで、菓子屋と券売も手伝わなかんし」。だが養子とは名ばかり。

「それから十年は、実家で暮らしとったで『通い養子』の手伝いやて」。直巳さんは懐かしげに嘯(うそぶ)いた。

昭和五十(1975)年、親類の紹介で治子さんを娶(めと)り、二男一女を儲けた。

「新婚当初は、主人の在所の新家で一年。でも流産しかかって、広瀬のこの家に同居になったんやて。だから親が二世帯分も花嫁道具用意して。三種の神器から茶碗に茶箪笥まで、トラック二台分も。父は物入りやったわ。まるで二回も主人のとこへ、嫁入りしてまったみたいなもんやて」。治子さんは子育ての傍ら、夫と交代で店先の券売に精を出した。

「昔のバス代は今の十分の一ほどやったけど、当時にしたら高い乗物やて。子供会の潮干狩りとか、デパートに買い物とか。取って置きのお出掛けの日に乗る、晴れの日の乗物やったんやで」。

しかし高度経済成長に乗じ、やがてマイカーブームが到来。

乗り合いバス離れが加速していった。

「昔は朝七時から夜の十時まで店出しとったんやて。バスを待つ人らでこの歩道が通れんほどの賑わいやった。だで夜の十時になるとうまいことタイミング見て店閉めんと、いつまでたっても客が絶えんのやで」。直巳さんはバス通りを見つめた。

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「それが今では夜の八時過ぎたら、二~三人なんやて」。治子さんはバスを待つ老婆に笑顔を向けた。

「まあこの商売も近々終いやて。柳ヶ瀬も衰退したまんまやし高齢化やで」。直巳さんは寂しげに笑った。

「もう回数券もICカードに代わってまった。バス会社の合理化か知らんけど、年寄りには使い難(にく)いんやて。だってこれまでズーッと一番バスに乗ってくれとった人らが、いつの間にか年老いて高齢者になっただけやのに。ICカードなんてもんは、バス会社が年寄り切捨てた証しなんやて」。

切符売り夫婦は日がな一日券売所に座し、年老いた馴染み客がバスの乗り降りを無事終えられるまで、我がことのようにそっと見届け続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 229」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「鋸目立て職人」。(平成十九年四月二十四日毎日新聞掲載)

シャカシャカシャカと庭先で 大工の棟梁鋸を引く    メリヤス一丁地下足袋で 首に手拭い鯔背だね     シャカシャカシャキン次々と 同じ長さに材を切る    そよ風吹いて大鋸粉(おがこ)舞い 春の陽浴びてキラキラリ

愛知県岡崎市、今泉鋸目立の今泉幸人さんを訪ねた。

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「鋸の目が落ちて『洗濯板』になると、引き肌が荒れて電鋸の音も変わって来るだぁ。目立てを済ませたばっかだと、おとなしく『シーン』と回っとるだで。それと目に木垢(きあか/脂)が付いてまうと『カッスカッス』と鳴くだぁ。まあ半世紀もこの仕事しとるで、鋸の音聞くだけで目の具合も手に取るようにわかってまうだわ」。幸人さんは、輪になった長さ七~八㍍の製材用大型鋸刃を撓(しな)らせた。

幸人さんは昭和十六(1941)年、鳳来町の農家で五人兄弟の二男として誕生。

中学を出ると材木屋を営む叔父から、「手に職を付ければ食いっぱぐれも無いで、目立て職人になれ」と。

「当時、豊橋は材木の町で、ようけ加工場があったじゃんね」。

昭和三十一(1956)年、夜具と衣類を持って製材所へ住み込み修業に入った。

「毎日、親方の自宅の掃き拭き掃除ばっかりだわ。見習いだもんで、給料なんか一銭も貰えんだで」。

それから半年。目立て職人の師匠が退職。

近所の鋸加工所へと移り、幸人さんも師匠に付き従った。

そこでも一年半は無給のまま。

「来る日も来る日も自転車の荷台に、輪になった長さ七~八㍍・幅二十㌢の刃を折り畳み、十枚ほど積んで三軒ほど製材所へ配達するだぁ。毎日十~十五㎞も自転車漕いで」。

夜七時に工場へ戻ると、兄弟子たちの使い走りが待ち受けていた。

「配達の途中でクリーニング屋の小僧とすれ違うだぁ。あいつらはいいだぁ。糊の効いたパリッとしたYシャツ着て。わしらぁ、黒ずんだ作業服でよれよれなんだで。わかるらぁ」。

無給の見習い修業から二年が過ぎた。

「やっとひと月に五百円貰えるようになっただぁ」。

しばらく後、同級生らと再会した。

「あいつら月に一万九千円も貰っとんだて。だもんでピシッとした背広着て、吊りバンドに白黒コンビの革靴履いて颯爽としとんだわ。恥ずかしいでわしは、裏返しにジャンパー着とったって」。

目立ては手鋸と、製材所の電動用帯鋸に分かれ、幸人さんは帯鋸専門の目立てを学んだ。

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「まずは、刃先の広がり具合を整える『アサリ出し』を学んで、切り出す材に応じた刃と刃のピッチを覚えるだぁ。杉や檜は刃のピッチが細かい方がええし。一端になってやっと、刃の抜き型のコマで帯鋸の鋼を打ち抜いて目を立てるだぁ」。

昭和三十六(1961)年。それでも二十歳の頃には一端の目立て職人に成長。他所の鋸目立て加工所が、職工として引き抜いた。

「昔は製材所が、それぞれ目立て職人を抱えとっただ。でも徐々に合理化とかで、職人を置かんようになってまった」。

昭和四十四(1969)年、三重県尾鷲市出身の節子さんを妻に迎え、一男二女をもうけた。

その翌年に独立、現在も得意先の製材所の目立てを請け負う。

「鋼の腰が悪いと『ゼコゼコ』言うし、黒檀や欅みたいな堅い木だと『キャンキャン』と鳴くだぁ。まあええかげん年だし、身体はいっつか定年だて」。

目立て一筋、早や半世紀。

幸人さんは鋸が発する鳴き声一つで、刃の状態を誰よりも正確に読み取る。

天晴れ耳が命の目立て職人!

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9/29の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「広東風のなぁ~んちゃって海鮮朝粥」

昨年7月の夏休みに訪れた香港。帰国日の翌日には、ぼくが滞在していた九龍の尖沙咀のメインストリートで、ついに大規模な民主化デモが行われたものです。

つまりそう考えると、自由だった最後の香港のラストシーンに、ぼくは居合わせたことになったのです。

そしてその後は、新型コロナが!

香港滞在中の朝は、尖沙咀の裏路地を巡っては、色々な店の朝粥を味わったものです。

そこで胃腸にも優しい朝粥を真似てみようと試みたのが、この「広東風なぁ~んちゃって海鮮朝粥」でした。

まず具材に使えそうなものは無いものかと、冷蔵庫の中を眺め回し、油揚げ、万能ネギ、冷凍のブラックタイガーを取り出して見ました。

油揚げは賽の目切りにして、カリッカリになるまで油で素揚げしておきます。

そしてブラックタイガーは、殻を剥き背ワタを取り、4等分に切り分け、しばらく紹興酒に浸しておきます。

次にお米をといで炊飯器に入れ、おかゆモードの目盛まで水を張り、鶏がらスープの素と紹興酒に浸した海老を紹興酒ごと入れて、お粥モードで炊き上げます。

炊き上がったら丼に盛り付け、小口切りの万能ネギと、カリッカリに素揚げした油揚げを上からパラパラッと振り掛ければ完了。

わが家には残念ながら、松の実や干し海老に干し貝柱、そしてキクラゲなんぞが底を突いており、使えませんでしたが、それらの残り物があったら、炊飯器に投入するだけで、美味しい風味と味わいが醸し出せるはずです。

それと今回は大いなる手抜きで、炊飯器のお粥モードで炊いたため、お粥のスープがほとんどなくなってしまったのが、唯一の心残りでもありました。

時間と手間を惜しまず、鍋で生米からお粥に仕上げれば良かったと、悔やまれてなりませんでしたが、とっても胃腸には優しい朝ご飯となりました。

不思議にもお米のパワーが全開で、すっかり夏バテ気味だった胃腸の調子も元通りとなりました。

今回もお目の高い皆々様には、すっかり見抜かれてしまったような、お見事なお答えもお寄せいただけました。

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 228」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「舞踏衣装屋」。(平成十九年四月十七日毎日新聞掲載)

華麗なドレス靡(なび)かせて 優雅にワルツ君が舞う  ステップだけを目で追って 心は君と踊り出す     ホールの隅で黙々と 慣れぬステップ繰り返す     「踊りましょう」と突然に 舞姫の手に身を委(ゆだ)ね

三重県四日市市、舞踊衣装専門店のハイファッション光。三代目の店主、長谷川進さんを訪ねた。

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「日頃はよう着やんような派手な服着て、人前で優雅に踊るんやで。そりゃあライト浴びて緊張感が出るし。皆に見られとる思(おも)たら、心が高揚して来ますやろ。一日中テレビの前で、ボーッとしとったら老いてまいますやん」。進さんは豪快に笑い飛ばした。

「祖父が端切れや糸偏関連の商いを始めたんやさ。それから戦後は、既製品の婦人子供服へ」。

昭和二十九(1954)年、進さんは三人兄弟の長男として誕生。

やがて地元の工業高校へと進んだ。

「当時、鉄鋼関係が好況やったんで、鉄の勉強をしようと思とったんやさ。そしたら、あれよあれよと言うとる間に鉄鋼が冷え込んでしまって、洋服の勉強に切り替えたんさ」。

高校を出ると岐阜市の婦人服メーカーに就職し、生産部門を担当した。

「ファッションは季節が一般と反転してますやろ。せやで大変やったわ。呆れるほど暑っつい時に、冬場のウールを汗びっしょりかいて運ぶんやで」。

二年後、やがて家業に戻った時のためにと、岐阜市内の婦人服小売店に職場を移し修行を重ねた。

翌、昭和五十(1975)年。進さんが二十一歳の年に父親は病に倒れ、急遽暇乞いをして家業に舞い戻った。

「まだ若造やったし、父の病気が平癒するようにと、神頼みの教会通いやさ」。

やがて神頼みに新たな願いが加わった。

いつしか教会長の娘に惹かれていたからだ。

「私らの業界は派手やけど、彼女は保母をしていていつも質素で、おまけに親切で優しかったんやさ」。

昭和五十六(1981)年、輝美さんと結ばれ一男一女を授かった。

間も無く訪れたバブル景気に乗り、事業は拡大の一途。

最盛期には十三店舗を構え大忙しの毎日が続いた。

「とにかくよう売れた。百貨店がよう売らんような、ちょっと際どい物を売るんやさ。ディスコのお立ち台娘のボディコン系とか。それでもあかんわ。バブルが弾けてもうて。大手百貨店が入って賑わっとったビルも、ビルごと閉店してまうんやで」。

後退する景気の余波で、いくつかの店は閉店に追い込まれていった。

「この店は元々ダンス好きやった母親が、ダンスやカラオケ用の衣装を専門に扱ってましたんや。私も何かしら特徴のある店作りしてかんとと思(おも)とったとこやったもんで、次第にこっちに力を入れるようんなったんさ」。

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普段着からは到底かけ離れた、煌びやかな非日常的な原色の衣装が所狭しと並ぶ。

「試着して出てきて『ねぇねぇ見て見て』って言う人もおれば、ダンスやっとる人は鏡みながらステップ踏んでみたり。似合(にお)とるもんは似合とると言えるけど、似合とらんとはやっぱ言えやんで、別のもんを着てもらうんやさ。それで『こっちの方がもっとよう似合とるわ』ってな具合に、上手いこと誘導せやんと」。

進さんは娘の貴子さんと、ラテンのペアを組んで三年になる。

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「せやけどもうじき娘が嫁ぐもんやで、相手失ってまうんやさ」。

貴女もエプロンをドレスに着替えて。

さあ、シャルウイダンス!

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「天職一芸~あの日のPoem 227」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「鮎菓子職人」。(平成十九年四月十日毎日新聞掲載)

蓮華畑の向こうには 農家の庭で泳ぐよな        緋鯉に真鯉風に揺れ 菖蒲の風呂に柏餅         長良の夏を告げるよに 鵜飼提灯火が燈りゃ       鮎菓子求め人の列 手土産提げて千鳥足

岐阜市美殿町、慶応元(1865)年創業のおきなや総本舗。五代目鮎菓子職人の林昌尚さんを訪ねた。

「和菓子屋は和菓子作りだけに精出しとればそれが一番なんやて。あれもこれもと欲出して、和洋折衷のような菓子作るようになったら終い。客の味覚の変化には敏感やないといかん。けど、売れるからと時代に阿(おもね)って、洋風の和菓子作りに走ったらいかん。長男の嫁がアメリカ人なんやて。その嫁も言うんやわ。『和菓子を洋風にしたら、折角の和の美しさがなくなる』って。嫁は茶華道も習う、日本人以上に日本人らしい人や」。昌尚さんは、店の奥の坪庭を見つめた。

昌尚さんは昭和十八(1943)年、四人兄弟の三男として誕生。

大学卒業が間近に迫った頃、三代目の父が体調を崩し、卒業と同時に店へと戻った。

そして既に四代目を継いでいた十歳年上の長兄、英太郎さんの元で修業を開始。

「初めの頃は、明けても暮れても洗い物ばっかり。前の晩に小豆を洗って、翌朝鍋にかける毎日」。そんな単調な毎日であったが、自然と火加減や季節毎の砂糖の分量の違いを敏感に感じ取って行った。

昭和四十五(1970)年、同市出身の八重子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「ちょうど鵜飼開きの日が、結婚式やったんやて」。

当時店先には路面電車が走り、関市や美濃市からも岐阜一番の繁華街柳ヶ瀬を目指し、多くの人々が押し寄せた。

「夜の十一時頃まで人が溢れかえって、店も遅くまで開けとったもんやわ。名古屋からタクシーで乗り付ける人らもおったほどやに」。柳ヶ瀬の栄華は、バブル時代の前半まで続いたそうだ。

昭和六十一(1986)年に五代目を襲名。「兄が体調を崩したもんだから」。

戦前から続く名代の鮎菓子は、端午の節句の柏餅と入れ替わり、鵜飼開きに合わせ店頭に九月末まで並ぶ。

そして暑い暑い岐阜の夏は、やがて終わりを告げる。

鮎菓子の皮は、小麦粉・卵・砂糖に重曹を混ぜ合わせ、一文字と呼ぶ銅板の焼き台で横に四つ、縦に三つを一度で焼き上げる。

「鮎を腹から二つに開いた大きさに、お玉の底で水溶きした小麦粉を、お好み焼きの要領で広げるんやて。最初の皮を一つ焼けば、銅板に焼き跡が付くから、後はそれに合わせて焼いてくだけ」。

一方、求肥(ぎゅうひ)は、餅粉を水で戻して蒸し、砂糖を混ぜて粘りを出して羊羹舟に空け、一晩おいて固める。

「皮が焼けたら棒状に伸ばした求肥を皮で包み、尻尾をキャッと折り曲げて、焼き鏝で口と目を入れるんやけど、どれも手でやるもんやでみんな顔が違うんやて」。昌尚さんは照れくさげに笑った。

一日に多い日は千匹。

ひと夏でおよそ四万五千匹を焼き上げる。

「添加物は一切使わないから、賞味期限は三日。砂糖の分量一つで、日持ち具合も変わる。まあ何でも美味しい物は、日持ちせんもんやて」。

一番の喜びは、出来立てを求めた客が、店の前で頬張ってくれる瞬間とか。

「いつまで経っても、一端の職人になれたとは思えんのやわ」。

老職人は居住まいを正し、自分に言い聞かせるよう謙虚につぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 226」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「墓石職人」。(平成十九年三月二十七日毎日新聞掲載)

父の背中を流すよに 手水(ちょうず)をかけて墓掃除  問わず語りに無沙汰侘び 伸び放題の草むしり      母の好物餡コロに 父に煙草を供えては         線香代わり火を燈し 彼岸の入りに手を合わす

三重県桑名市、墓石の石市商会。根来英太郎さんを訪ねた。

「残念やけど、家に鉄砲の術は伝わっとらんのやさ」。根来衆を祖とする、十五代目の墓石職人は、柔らかな笑顔を向けた。

写真は参考

無造作に後ろで束ねた白く長い髪。

鋼のように引き締まった細い身体。まさに老獪な根来法師としての遺伝子が、何気ない風貌に宿っているようだ。

根来寺

「代々根来市蔵を、家は四百年以上に渡って襲名してきてましたんさ。まあ私もそろそろ市蔵に改名して、息子に跡を譲らんと」。

英太郎さんは昭和十一(1936)年に、七人兄弟の末子として誕生。

「真ん中の五人が病死して、二回り違いの姉と二人なんさ」。

初代根来市蔵が、和歌山県北部から桑名の地に移り住んだのは、元和(げんな)六(1620)年のこと。

東別院の建立に合わせ、石工としてこの地に根を下ろした。

「祖父も父も養子続きでしてな。祖父母の間には子が出来やんだもんで、祖父と芸者の間に出来た娘を養女に迎えたんが母ですんさ。でもそのまんまやと、根来市蔵の血が絶えますやん。それじゃあと、ご先祖の地から根来市蔵の血を受け継ぐ者を探し出し、婿養子に迎えたんが父ですんやさ」。

気も遠くなるような根来一族四百年の系譜は、語り尽くせぬ苦難の歴史でもあった。

昭和二十九(1954)年、英太郎さんは高校を出ると、石都岡崎市で住み込み修業に入った。

「本当はサラリーマンになる気でおりましたんやけどなぁ」。

三年後、桑名へと舞い戻り家業に従事。

「東京オリンピックの昭和三十九(1964)年前後から、石屋にも機械化の波が押し寄せて来て。だんだん昔ながらの職人がいらなくなてってさぁ。もう今では、墓石を据え付けさえすればええんやで」。

昔の重労働に比べれば、トンボ(石を運ぶ荷車)での運搬もなく、鑿による手彫りも空気彫りや機械彫りへと移行し、作業効率は飛躍的な改善を見せた。

「おんなじように見える墓石でも、桑名までは名古屋型、桑名から先は伊勢型に分かれるんさ。名古屋型の三段に対し、京都・大阪型は二段組みと違てくるし。中央の大きな竿石の上んとこも、陣笠型とか二方丸・四方丸・丸面と色々やで」。

参考

中央の竿石の正面に水入れ、その下に香立、両脇に花立と配置し墓地に設置される。

「あの昔の陣笠型の石見てみ。角が欠けとるやろ。あれなぁ、昔の有名な博打(ばくち)打ちの墓石なんさ。せやで博打好きが、あやかりたて墓石削(はつ)ってったんやさ。清水一家の森の石松の墓みたいに」。

昭和四十(1965)年、地元農家からたづ子さんを嫁に迎え、一男一女を授かった。

「どえらい立派な身上になっとったら、もういっつか潰れてもうとるわさ。四百年も永い間、なんとか潰れやんとやってこれたんは、大きくもなくそこそこの商いで来た証やさ。そやでよう息子にも言うたるんやさ。『自分からは絶対に名門やとか言うんやない。それは同等以上になってから言わなかん。それと、昔は良かったとか言うたら愚痴になるだけやで』と」。

「どえらい」立派な身上を誇示した徳川家は、十五代を持って我が世を明け渡した。

だが桑名の根来市蔵は、既に十六代。

驕る事無く謙虚に、今も家業を受け継ぐ。

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「天職一芸~あの日のPoem 225」

今日の「天職人」は、岐阜市美園町の「乳母車屋」。(平成十九年三月二十日毎日新聞掲載)

ガタゴト揺れる畦の道 妹乗せて背伸びして       押し手操りバス停へ 父のお迎え乳母車        「籠にしっかり摑まれ」と 父は勢い走り出す      奇声を上げて角曲がりゃ 門前の母仁王立ち

岐阜市美園町、明治後期創業の河村ウバ車店、三代目女将の河村慶子さんを訪ねた。

写真は参考

ショーウィンドー越しに籐製の乳母車が並ぶ。

そう言えば一度も私は、乳母車に乗った記憶が無い。

だから幼心にも羨(うらや)んだものだろう。

昭和三十四(1959)年、伊勢湾台風が東海地区に襲来。

当時名古屋市の南区で暮らしていた両親は、二歳にも満たない私を抱えたまま、家財道具を全て流されながらも命からがら逃げ惑ったそうだ。

だから高価な乳母車などもっての外。

家族三人の日々の暮らしが手一杯であった。

それに小さな小さな共同アパート暮らし。

仮に乳母車があったにせよ、留め置く場所にも窮したはずだ。

「みんな多かれ少なかれ、あんな時代はそんなもんやて。そこにある藤四重の乳母車なんて、それこそ立派な門構えのあるような、農家のお家でしか必要ありませんでしょう」。慶子さんは、頑丈な籐製乳母車を指差した。

写真は参考

慶子さんは昭和十六(1941)年、紙関係を商う小関家の二女として誕生。

短大を出ると直ぐに家業の手伝いに。

それから二年後、嫁入り話しが持ち上がった。

「実家の母の知り合いと、姑が同級生やったもんで」。

当時、鉄鋼関係の会社に務めていた吉夫さんと結ばれた。

「嫁に来た頃は、まだ義父が籐細工の職人をしてまして。私が接客と店番担当」。

しばらくすると、吉夫さんは会社を辞し、慶子さんの実家の仕事に従事することに。

「まるで主人と私が入れ替わったみたい」。

慶子さんは義父と共に店を守った。

藤四重に藤三重。

乳母車の籠の両脇が、四重三重に太く編み上げられ、側面に鶴や宝船等、縁起物の意匠が施された日除けの幌付きという超豪華版。

「昔はこの殿町にも、塗りの紋描屋(もんかきや)があったんやて。孫の初立(ういだ)ちにお里が乳母車用意して、藤四重の両脇に嫁ぎ先の家紋を入れて贈ったもんやわ」。

戦後のベビーブームは、昭和四十(1965)年代前半へと続いた。

「それでも昭和四十五(1970)年頃からは、頑丈な乳母車からだんだんベビカーへ。乳母車では折り畳んで、車に入れられんでねぇ」。

写真は参考

乳母車の籠は籐製。ほとんどがインドネシアからの輸入品だ。

「籐はシャムとかボケという種類に分かれるんやわ。シャムは横に使う弾力性のある硬いもの。台座の周りに使うのがボケ。皮を剥いで太い方から順に、太民(ふとみん)・中民(ちゅうみん)・幼民(ようみん)と呼ぶんやて」。

今では一つの県に一人いるかいないかまでに減ってしまった籐職人が、力を込めて編み上げた籐製乳母車。

ほとんどが注文生産とか。

慶子さんは乳母車が納品されると、籐籠の内側に赤ちゃんが怪我をしないようにと、冬はキルトに夏は木綿のカバーを取り付ける。

明治から昭和の初めまで、一人の乳母が数人の子供の面倒を見ることもしばしばだった。

それに最適なのが籐製の深い籠で、一度に数人の子供を運んだことから「乳母車」とも。

「やはりお子さんには四重の乳母車でしたか?」と問うた。

「残念ながら子宝に恵まれなくって。でも子供が出来ても、新品はおろしませんて。商売もんやで」。

三代目女将はこっそり笑った。

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