「昭和を偲ぶ徒然文庫 3話」~「泪にCheers」

「『リンゴの唄』に希望の光」2011年4月21日(オカダミノル著)

 「♪赤いリンゴにくちびる寄せて だまって見ている青い空…♪(歌/並木路子、霧島昇)」。

ご存知昭和の歌謡史を代表する「リンゴの唄」だ。

空襲で家も家族も失い、焼け野原でただ呆然と立ち尽くす人々に、「それでも今日を生き抜け」と、希望の火を燈した不朽の名曲である。

先月十一日、東日本を襲った大震災と大津波。

その惨状を並木さんが目にしたら、きっと直ぐにでも、天国の階段を駆け降りて来ただろう。

かつて阪神淡路大震災の折、被害が甚大であった神戸市東灘区の小学校校庭で、車のヘッドライトをスポットライト代わりに浴びながら、被災者を励まそうとこの曲を歌ったように。

当時の彼女は七十三歳。

「リンゴの唄」のデビューから数え、ちょうど半世紀が経とうとしていた。

オリンピアの聖火が世界平和の象徴であるとするならば、彼女が半世紀を賭け歌い継いだ「リンゴの唄」は、被災者の塞ぎ込んだ心に燈る希望の灯かり、「聖歌」であった。

同時にそのリズムは、復興へと歩み出す槌音だったに違いない。

「♪リンゴは何にも いわないけれど リンゴの気持ちはよくわかる リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ♪」

リンゴの産地東北で、耳を澄ませば春風に乗って、空の彼方から並木さんの歌声が、被災者の耳元へときっと届くことだろう。

「どんな時でも、明日を信じて共に生きよう」と。

幼子は、倒(こ)けつ転(まろ)びつ伝い歩きを始め、やがて確かな一歩を踏み出すもの。

鳴き砂さえ涙を涸らした東北にも、明日はきっと訪れる。

あの日、2011.03.11、ぼくはラジオのスタジオでの生放送中に、あの東日本大震災の瞬間に立ち会うこととなりました。

何とも不気味な横揺れが、結構長く感じられたものです。

それから時を追うごとに、TV画面からは目を覆いたくなるほどの惨状が繰り返し放送され、未だにその残像が瞼に刻まれています。

皆々様はあの日あの時、どこでどなたと何をなさっていらっしゃいましたか?

紙一重の生と死。

あの時は、否が応でも考えさせられたものです。

そして得た結論は!

いつ天に召されるかは、神のみぞ知るものとすれば、今日が、明日がその日であったとしても、悔いることのないように、将来どうありたいかばかり、見果てぬ夢ばかりを描いておらず、今日を、今を少しでも悔いを残さぬように、今日、今出来ることを出来る範囲で果たすことだと、そんな結論を得たものでした。

だから「頑張り過ぎずに頑張りゃあいい」んです。

人は絶望の淵に追いやられても、命ある限り生き抜かねばなりません。

その絶望の淵とは、何も災害ばかりではなく、こんな世の中、一番忌み嫌うべき人災だってあります。人が何気に放った刃のようなたった一言の言葉が、大きく相手の心を抉ってしまうことだって、天災に劣らぬほどの人災です。

避けて通りたくとも避ける事さえ儘ならず、真っ向から受け止めざるを得ないことだってあります。

そんな時皆々様は、どのように傷付いた心を解き放たれようとされますか?

ぼくは知らぬ間に、子どもの頃口ずさんだ唱歌を諳んじながら、大空を仰ぎ見てしまいます。

少なくとも今ほど穢れを知らず生きていた、そんな純真だったころの唄をせめて口づさみながら。

それがぼくにとってのエールソングなんでしょうねぇ。

今夜は、弾き語りで「泪にCheers」をお聴きください。

「泪にcheers」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

こぼれ落ちた 泪の数だけ 幸せが 君を待ってるはず

素直なままの心で  誰の目も気にせず 君は君らしく

戻れない もどかしいあの日 悔やんでも 心晴れやしない

明日だけただ信じて  君の明日は 君だけのもの

 泪にcheers 差しつ差されつ 酒ですべてを 呑み込めばいいだけ

 泪にcheers 酔い潰れても ぼくが傍に いるから

掴み損ね 転げ落ちた夢も 掴めるまで掴み続けれりゃいい

もう駄目と 溜息落とせば 叶うものさえ 潰えてしまうだろう

生きていれば 誰もが夢抱く トキメキに心躍らせては

やがていつか 傷付く怖さに 怯えないで心まで閉ざさないで

 泪にcheers 君の哀しみ 最後の雫   枯れ果てるまで流そう

 泪にcheers 泣き疲れても ぼくが傍に いるから

 泪にcheers 差しつ差されつ 酒ですべてを 呑み込めばいいだけ

 泪にcheers 酔い潰れても ぼくが傍に いるから

続いては、CD音源から「泪にCheers」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、これまた逸品ではありませんが「なぜかふと口ずさんでしまう唱歌の思い出」。

とくに最近、知らぬ間に子どもの頃に習った、唱歌を口ずさんでいる自分に気付くことがあります。

特にウォーキングをしている時や、車を運転している時など。

ぼくの場合は、「みかんの咲く丘」や「ふじの山」だったりします。なぜか薄ら覚えの歌詞を口ずさむと、穢れを知らなかった子どもの頃の純な気持ちが、ほんのわずかですが蘇ってくるようで、なんとも素敵です。

皆々様は、いつどんな時に、子ども心の唱歌を口ずさんだりなさいますか?今回はそんな「なぜかふと口ずさんでしまう唱歌の思い出」について、思い出話をぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.10.13「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

旬のほんのりと甘~い野菜のスープです。

何だか昭和の学校給食のようなランチになりました。

でもどこか懐かしくってほっこりしたランチを楽しめました。

さすがにこのメニューにビールって感じじゃないので、白ワインをいただいて見ました。

今回もお目の高い皆様のニアピンなお答えが続出するのではと、ヒヤヒヤものです。

皆様からのご回答をお待ちしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 237」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「舞踏場小屋主」。(平成十九年六月十九日毎日新聞掲載)

ミラーボールに跳ね返る 光を浴びた舞姫は       ダンスホールに舞い降りて 熱い視線を独り占め     ワルツにラテン舞姫が 軽くステップ踏む度に      ドレスの裾も翻(ひるがえ)り 溜め息落とす男たち

三重県四日市市のダンスホール「シャル・ウィー・トキワ」。小屋主の前川カズエさんを訪ねた。

「毎日がバラ色の舞踏会みたいなもんやね」。カズエさんは、背筋をピンと伸ばした。

カズエさんは昭和三(1928)年、大安町の農家で七人姉弟の長女として誕生。

尋常高等小学校を出た昭和十八(1943)年、名古屋の航空機会社で事務職に就いた。

泥沼と化した戦況は、日に日に悪化の一途。

「三河大地震が収まったと思ったら、今度は空襲の嵐やわ。友達と手ぇ繋いでお宮の境内まで逃げて、大きなご神木に必死んなって抱きついて。いっぺん田んぼ道を逃げ回ってたら、爆弾が落ちて気ぃ失ってもうて。しばらくして顔上げると、友達も泥っぺたけの顔上げて『私らまだ生きとるねぇ』って泣き笑いしたもんやわ。周りには死体がゴロゴロしとったのに」。

熱田大空襲の翌日、命からがら実家へと舞い戻った。

終戦の翌年、地元の電気メーカーの事務職として再就職。

「旦那に上手に見つけられたんやさ」。

同じ職場の故貞一さんと、昭和二十四(1949)年に結ばれ、三人の男子をもうけた。

「生活難の時代やったでねぇ。旦那が勤める会社の電化製品の、銘板作る内職で必死やさ。当時は二十円のイワシ一匹買うのんもやっとこせでな」。

ところが一転、世は高度成長時代へと雪崩れ込み、三種の神器として「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」が飛ぶような売れ行きに。

貞一さんは会社を辞し、常盤工芸を設立。

電化製品の銘板を主力商品に、時代にうねる高波に乗じ家業を安定させていった。

「子供が中学生の頃やったろか。旦那が社交ダンスをかじり出して、『お前もどや?』って誘われて、ほんのちょっとだけ通ったんやわ。でも仕事も大忙しやったもんだからそれっきり」。

どうにか自分の時間が持てるようになったのは還暦の年。

わずかばかりの時間を拾い集め、仕事の合間を縫って夫と連れ添いダンスホールへと通った。

だが今から十三年前、最愛の夫が死去。

それでもカズエさんは、息子に譲った家業に七十歳まで従事した。

翌平成十一(1999)年、ダンスホールを開設。

「周りの友人らもみんな、これから高齢化するばっかりやし私もその部類やで、そんなら自分らで楽しんだろかって。そしたら息子が『最後の人生やで、あんたの好きにしなはれ』ってゆうてくれたもんやで」。

カズエさん所有のビル一階に七十坪のダンスフロアが誕生した。

「最高齢は私やさ。それでも足と頭の運動になるし、呆け防止にもええから」。

小家主の仕事はと問うてみた。

「そんなん、もっぱらおしゃべりとダンスやわ」。カズエさんは少女のように笑った。

「家におるだけやったら、モンペはいてしまいですやろ。でも煌びやかな衣装一枚羽織るだけで、たちまち女に戻れるんやで」。

働きづめの七十年に報いた自身への褒美。

それが舞踏場だった。

ついにこのホールで最愛の夫とステップを踏むことは叶わなかったものの、まるで人生を巻き戻すかのようにカズエさんの軽やかなターンは続く。

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「天職一芸~あの日のPoem 236」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「手燭(てしょく)職人」。(平成十九年六月十二日毎日新聞掲載)

稲妻落ちた停電で 辺り一面闇の中           母は慌てて手探りで 蝋燭見つけ火を燈す        小さな灯かり寄り添えば 父は毎度の十八番       障子に映る影狐 団扇に揺らぐ暑い夜

岐阜県高山市、銅工房滝村。手燭職人の滝村幸次さんを訪ねた。

囲炉裏端。

熾(お)きの残り火と、和蝋燭に燈(とも)し出される柔らかな明かり。

テレビもラジオも無かった静かな時代。

炎に揺れる影を見つめ、網戸越しに虫の音を聞きながら、更け行く夏の夜を見送った。

「蝋燭の火がゆらゆら揺れて、柔らかな灯かりに包まれると、そんだけで何や落ち着くもんや。普段セカセカしとるもんで余計にそう感じるんさね」。幸次さんは、少年のような満面の笑みを向けた。愛妻の冨士枝さんも、これまた夫に劣らぬ笑顔を添える。

幸次さんは昭和二十二(1947)年、靴職人の家の五人兄弟の末子として誕生。

中学を出ると板金屋の見習い修業へ。

「まわりから職人になった方がええぞって言われたもんで」。

屋根、壁、樋(とい)の建築板金を学んだ。

一通り技術も身に着いた三年後、金沢の板金屋へ。

「賃金も良かったし、都会へ出てみたかったんやさ。でも名古屋や東京は好きじゃなかったでのう」。

車庫の二階に住み込み、板金の腕を磨いた。

再び三年後の二十一歳の年、母が病床に伏し高山へと帰郷。

昭和四十三(1968)年、高度経済成長期の真っ只中、板金職人として独立した。「もう腕も一端やったし、人に使われるのは面白ないで」。

とは言え、弱冠二十一歳の若造。老獪(ろうかい)な職人の世界では、まだまだ雛同然だった。

「何か特徴的なことせんと、何時まで経っても舐められるで」。

そんなある日。春日灯籠から漏れる、蝋燭の何とも優しい明かりに目を奪われた。

「奈良へ出かけて行ったりしては、釣り灯籠とかを独学で勉強し初めたんやさ」。

知り合いの金具職人を訪ねては、その技を真似て銅細工に応用した。

やがて灯籠から燭台、手燭、懐中燭台、香皿へと、作品の域を拡大。

「まあ得手は灯籠と、この通称ブラブラって呼んどる自在手燭やさ」。

自在手燭とは、昔ながらの手燭の応用版。

蝋燭の倒れ止めを付けた燭台は、柄と一体の外枠と、柄と切り離した内枠に燭台を鋲(びょう)で固定したものだ。

だから廊下を持ち歩こうが、燭台は常に水平を保つ。

柄は最大九十度曲がり、鴨居に掛けることもできる。

「やっぱり手燭には、和蝋燭の赤じゃねぇと面白くねぇんさ」。

燻(いぶ)し出された銅の手燭と、和蝋燭表面の赤が何とも対照的だ。

独立から三年。

二十四歳の年に冨士枝さんと結ばれ、二男をもうけた。

「左官職人の紹介でさ、そんでもってイチコロやさ」。

手燭はまず、銅のフラットバーを曲げてコの字に加工。

コの字の外枠と内枠を銅の鋲でかしめて溶接。

次に銅板をいも槌(金槌)で叩いて皿を作り、コの字の内枠に鋲でかしめる。

皿の中央には銅の丸棒を叩き出した心棒をかしめ、薬品で燻し上げグラスウールで磨けば完成。

「わしゃあもう、何時逝ってもええんやて。わしが生きた証に『幸』の字の刻印打ったるで。子供らもそれ見たら、親父の作品やってわかるでな」。

そう言って職人は妻を見つめた。

和灯かりに負けるとも劣らぬ、満面の笑みを浮かべながら。

*この取材後、幾度となく高山を訪れる度、「幸次君、冨士枝ちゃん」と呼びつつ、酒を酌み交わすほどの友人となりました。今は残念ながら、コロナの影響でなかなか逢えなくて残念な限りです。

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10/06の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「角麩の素揚げと二度揚げ唐揚げ添えトマトカレー」

前の晩のつまみにした、鶏のから揚げの残り物と、特売でついつい買い込んでいた角麩を素揚げして、カットトマト缶2缶に、成城石井で買ったギャバンの手作りカレー粉セットを加えたトマトカレーに添え、彩で缶入りのスイートコーンを散らせば、「角麩の素揚げと二度揚げ唐揚げ添えトマトカレー」の出来上がりです。

ぼくは晩酌のつまみ代わりにいたしましたので、ライスもナンも無いまま、その代わりが素揚げした角麩という塩梅でいただいて見ました。

ギャバンの手作りカレー粉セットは、ちょっとマイブームで、スパイスをお好みでブレンド出来ちゃうスグレモノです。

小分けされた小袋に、20種類のスパイス(ターメリック、クミン、コリアンダー、みかんの皮、フェネグリーク、フェンネル、シナモン、カエンペッパー、ガーリックグラニュー、ジンジャー、デイル、オールスパイス、カルダモン、クローブス、スターアニス、セイジ、タイム、ナツメグ、ブラックペッパー、ベイリーブス)が入っていて、カレー粉をカスタマイズしちゃうってぇわけです。

ぼくはまだ素人のため、全種類を全部使って説明書による20人分のカレー粉を作って、小瓶に入れて冷蔵保存し、カレーが食べたくなったらその瓶からスプーン2~3杯を加えて、自分好みに味付けして楽しんでいます。

これで500円くらいですから、とってもリーズナブルですし、インスタントのカレールーのような胸焼けも無く、あと口が何よりさっぱりしているからご機嫌です。

今回は、この「角麩の素揚げと二度揚げ唐揚げ添えトマトカレー」をあてに、キリン一番搾りをグビグビと煽ってしまいました。

今回もいつにも増して、観察眼の鋭い皆様方のニアピンが多かったですねぇ!

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「天職一芸~あの日のPoem 235」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「竹細工職人」。(平成十九年六月五日毎日新聞掲載)

小さな両手すり合わせ まるで何かを念ずよに      両の掌(てのひら)繰り出せば クルクル上がる竹蜻蛉(たけとんぼ)                      春のそよ風羽根に受け 大きく空に舞い上がる      君はキャッキャと追い掛ける 夏の気配の蓮華畑

名古屋市中川区で明治二(1869)年創業の籠由商店。三代目竹細工職人の高田定雄さんを訪ねた。

写真は参考

「こんな太っとい指しとったら、女にもてんて」。そう老人は、節くれ立った掌を差し出した。

定雄さんは昭和七(1932)年に四人兄弟の長男として誕生。

「御園座の裏手で生まれて、戦時中の道路疎開で観光ホテルの裏っ側へ。そしたらそこが今度は空襲で焼けてまって」。

戦火を避け母の在所に疎開中のことだった。

「卒業証書貰ったもんで、両親に見せたろうと思って実家に戻ったら焼け野原だて。両親はどこ行ってまったかと探しとったら、防空壕から顔を覗かせとったわ」。その夏戦争は終わった。

その後、第一工業学校へと進学。

「そんでもかんわ。預金封鎖の時代だったし、月謝も納められん。でも父にそんなことよう言えんかったわ」。十五歳の年に中退し、家業に入った。

「最初は父のゆうなりだわさ」。蛙の子は蛙。見よう見真似で父を模倣した。

「真竹は岡崎市の額田か岐阜県明智のもんがええ」。

製品の寸法に合わせ真竹を切り落とし、苛性ソーダで煮て脂を落とし天日に一週間晒す。

それを両刀鉈で割り、製品の仕様に応じて籤(ひご)へと割く。

「これは笊蕎麦の笊に当たる『サナ』だわ。夏場が最盛期だで」。

サナは幅約十五㌢、長さ約二十㌢。

まず三分五厘の竹をさらに四本に割き、抜き板の上に並べる。

「竹の癖を見ながら、青みの色合いを揃えんと」。

次に編み台の上に長さ約十五㌢の竹籤を一本ずつ並べ、綿糸を巻いた糸巻きの独楽で、籤の両端と真ん中の三箇所を編み上げる。

独楽の自重を錘に籤二十六本を編み、その両端に幅約一㌢弱の縁竹を取り付ける。

いずれの独楽も永年の手垢で、艶々な光を放つ。

「戦時中の疎開先で、大水が出て流れ着いた材木を、父が独楽にしたんだわ」。定雄さんは艶のある独楽を手に取り、しみじみとつぶやいた。

昭和三十四(1959)年、三年程の交際を経て美智子さんと結婚。

「馴れ初めなんて、そんなもんロマンスだがや」。

当時青年団の団長だった定雄さんは、知多へのバス旅行を計画。

そのバスガイドが美智子さんであった。しかし子宝には縁が無かった。

「そんなもん、子供の作り方を学校で教(おそ)えてまえなんだで」。

寡黙に作業場の座敷ではや六十年。

定雄さんの指先は規則正しく籤を繰る。

「商品の数なんて無限だわさ」。

写真は参考

ホテルや料亭の季節料理を盛る手付き籠や、料理の盛り付けを引き立てる飾りの袖垣、魚籠(びく)から買い物籠まで。職人の閃きが新たな商品を生み出す。

写真は参考

「こんなもん、利口な人のやる事じゃないって」。定雄さんは片時も指先を緩めず笑った。

ある正月前の繁忙期、鋸の目が潰れた。

しかし馴染みの目立て職人は病の床。

「違う目立てに頼んだんだけど、全然切れえへんでかんわ」。

困り果てたところに、腕利き職人が紹介された。

その後、その職人との二人三脚が始まった。

「『お前さんが死ぬまで、わしがやったるで』って言ってくれるんだわ」。

職人と職人の技。

互いの技を慮り、薄れ行く古き時代の幕切れに抗い続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 234」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「桑名箪笥職人」。(平成十九年五月二十九日毎日新聞掲載)

幼心に憧れた 二軒隣りのお姉さん           いつもと違う出で立ちは 白い内掛け角隠し       祝いの声に送られて 玄関先で暇乞い          黒塗り車しんがりは 紅白巻きの桐箪笥

三重県桑名市で昭和六(1931)年創業の田中木工所。二代目を継ぐ桑名箪笥職人の田中太美泰(たみやす)さんを訪ねた。

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車が主役の力任せな幹線道とは異なる、今では裏通りと成り果てた旧街道。

その名も馬道。

緩やかに曲がりくねる道に沿い、昔の名残を浮かべる民家や商家が連なる。

道幅は、当然車など存在しなかった時代のままだ。

だからか、何故かやさしい気持ちになる。

「員弁と東海道を結ぶ街道やったで、そりゃあ往時はようけえ馬車や大八車が行き交(こ)うて賑おうたもんやさ」。太美泰さんが、今では人影も疎らとなった馬道を眺めながらつぶやいた。

太美泰さんは昭和二十六(1951)年、三人兄弟の長男として誕生。

家業を手伝いながら夜学の大学を卒業。

婚礼家具問屋で二年間、小売販売の修業を続けた。

そんな青春の真っ只中、休みを利用し若者に人気の小京都高山へと、一人旅に向かった。

「娘さんの二人連れが、近くの席に座ってなんや楽しそうにしとったもんやでさ。他にすることもあらへんし、声かけたったんやわ。そしたら東京のOLさんやってなあ。まあえらい話しが弾んでもうて」。

別れ際、小売販売の職場であった百貨店名を告げ、帰りに寄ってくれたら名古屋城でも案内しようと。

すると数日後、二人の娘が百貨店を訪れた。

「その片割れが家内ですんやわ」。太美泰さんは大きな身体を縮めるように照れ笑いを浮かべた。

二年間の奉公で仕事を覚え、伴侶の目途も立ち家業に。

父の元で桑名箪笥職人としての修業を開始。

そして二年後の昭和五十二(1977)年、富子さんを妻に迎え、三人の男子を儲けた。

桑名総桐箪笥の特徴は、桐以外の材を一切使わず、すべて一貫した手作りにこだわる点だ。

特に胴や引き出しは、縦横二枚の板を凹凸で組み合わせて接合する、古来からの技法「あり組」が取り入れられ、引き出しの底板止めには木釘が用いられる。

あり組

「昔は檜葉とか竹で木釘を作り、米糠で炒って強度をつけたもんやさ」。

さらに箪笥最上部の上置き引き戸の鏡板には、乾漆板戸の蒔絵が施され雅やかな風情を惹き立てる。

また開き扉も特徴的で、四方が額縁状に組み込まれており、取り付けが最も難しい「段付丁双(だんつきちょうばん)」の金具で固定されている。

「桐の最適な伐採年数は、だいたい七十~八十年。樹齢が百年になると桐の木自体が劣化してもうてあかん。冬の葉の無い時に切り倒して、二~三年放置してから製材せんと。桐は灰汁が出て黒なるで、茹でて灰汁を飛ばすんさ」。

桐は他の樹木に比べ、含水率が低く湿気から衣類を守るには最適とか。

「古人の知恵はたいしたもんやさ」。

桐材の木取りに始まり、胴・引き出しの順にあり組を用いて組み立てへ。

次に夜叉五倍子(やしゃぶし)の実を煎じた液に砥粉(とのこ)を混ぜて塗り上げ、金具を慎重に取り付けロウ引き仕上げへ。

三週間にも及ぶ手作業を経て、一棹の桑名総桐箪笥が完成する。

写真は参考

紅白の幕に覆われ、嫁ぎ先へと向かう花嫁箪笥。

手塩にかけて育て上げた娘に、幸多かれと願う両親の祈りを封じ込めながら。

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「天職一芸~あの日のPoem 233」

今日の「天職人」は、岐阜県各務原市の「チャルメララーメン職人」。(平成十九年五月二十二日毎日新聞掲載)

北風運ぶチャルメラが 炬燵のごろ寝酔い覚まし     慌てて羽織る丹前に 欠けた丼「おい親父」       釜から上がる湯煙が 凍て付く夜を遠ざける       鳴門チャーシュー海苔メンマ 醤油の香り縮れ麺

岐阜県各務原市のチャルメララーメン職人、ダイマンラーメンの上野一吏(かずさと)さんを訪ねた。

写真は参考

静かな住宅街に響くチャルメラ。

それに釣られる犬の遠吠え。

建て付けの悪い引き戸が軋む。

下駄履きで「お~い、親父!」「へい、毎度」。

丼鉢が擦れ合う。

「あっ『今日はこの家、何杯だな』って真っ暗な夜でもわかるんだわ。お客の顔はわからんでも、丼の顔が見えちゃうんだから」。

一吏さんは昭和十六(1941)年、旧満州で食堂を営む家の長男として誕生。

しかし戦局は日々悪化。

昭和十九(1944)年、一家は逃げるように母の在所の鹿児島へと引き揚げた。

「父の食堂を軍の上層部が利用しとったから、戦局の状況を早く入手出来したんだろうな。だから命拾いやて」。

昭和二十二(1947)年、父の在所の岐阜市へ。

「駅前の北側一帯は、ハルピン街と呼ばれる満州からの引揚者ばっかり」。

高校を出ると、父と共に家業の菓子製造へ。

しかし問屋相手の薄利な商売に見切りを付け、昭和三十九(1964)年に廃業。

「知人にこれからは自動車だって勧められて」。

一吏さんは自動車部品販売に転職。

それから三年、今度は東京へ。

「ビールや清酒会社で製造ラインの組み立てと、その保守管理の仕事やわ」。

二年後、秋田県出身の範子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

しかし三十一歳の年に腎臓病を患い、岐阜に舞い戻り六年に及ぶ闘病生活が始まった。

「退院してからもしばらくは放心状態でねぇ」。

一日五時間程度の事務職で家計を支えた。

昭和五十六(1981)年四十歳で一念奮起し、親類の援助を得て食材の宅配を開始。

「その傍ら、何か手に職を付けようと、調理師免許を取ったんやて」。

そんなある日。

「夜鳴きラーメンが来て、作るのを見とったら『こんなもん俺にも出来そうだ』ってな調子で」。

チャルメラ販売元締めの門を叩いた。

チャーシューや具の仕込から、引き売り方法を学び三年後に独立。

真新しいラーメン車に自慢のチャーシューとラーメン百二十食を積み込み、犬山・小牧・江南・可児・各務原へ。

今でも曜日とコースを定め、一日七十㎞の引き売りを続ける。

朝十時頃から自慢のチャーシューを煮込み始め、夕方五時になると半被を羽織ってチャンコロ帽を被り出陣。

チャルメラが奏でる郷愁の音を響かせながら住宅街の辻々を巡る。

「ラーメンはチャーシューが命。その煮汁がラーメンスープの旨味を惹き立てるんだで。ある時肉屋が『チャーシュー売らせてくれんか』って言いに来たほどやて」。

写真は参考

客が丼片手に玄関を飛び出すと、まず麺を湯がきながら丼を湯煎。

程よく温まった丼にチャーシューの煮汁垂れとスープを入れ、そこに麺を湯切りし注ぎ込む。

仕上げにガランと呼ぶネギ・メンマ・蒲鉾・ゆで卵・チャーシューの具を彩りよく配す。

「こんでも楽しみに待っとる客もおるで、無断欠勤は出来んわ。食べ物の恨みは怖いで」。

法螺は吹くけどチャルメラは吹けんと嘯(うそぶ)きながら、チャルメラ職人はラーメン車を走らせた。

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「天職一芸~あの日のPoem 232」

今日の「天職人」は、名古屋市東区の「噺家」。(平成十九年五月十五日毎日新聞掲載)

観音様の帰り道 路地の奥から寄席囃子         木戸脇燈る提灯に 雷門の亭号(ていごう)が      高座に上がる噺家に 待ってましたの掛け声が      ここは下町情け町 泣いて笑えば日も暮れる

名古屋市東区の噺家、雷門小福(本名・中島捨男)さんを訪ねた。

「お呼びがかからな、噺家なんて開店休業。おタロ(金銭)も貰えへんし」。小福さんは、年季の入った笑顔を向けた。

小福さんは昭和九(1934)年、東区の下町に誕生。

大通り一本隔てた北側には、徳川園が広がる。

「あっちは上町のお坊ちゃま。あたしもあっちで生まれとったら、こんな仕事なんてしとらんかったわ」。

中学時代、防火宣伝の絵画コンクールで全国一に。

「それで演劇クラブの書き割り描かされて」。

しばらくすると役者に欠員が出て、裏方から役者へ転向。

「こっちの方が目立つでねぇ」。

中学を出ると看板屋勤めの傍ら、青年劇団に所属し芸の道へ。

「主役を取るのは大変だし、これでは飯も食えん」。

将来に悲観的だったそんなある日。

演劇部の恩師の招きで、桂文楽の一席に触れた。

「『これだ!』って思ったわ。だって自分で問いかけて自分で返事すりゃあええんだで」。

噺家への道を模索し、十八歳で初代三遊亭小円歌に入門。

「師匠の高座は歌謡ショーの前荷(まえに/前座)専門。緑のスーツ姿で立体落語と称しては十八番(おはこ)の『ボロタク』。所詮金持ちの手慰み芸だったで」。

そうとは知らず住み込み弟子で一年。

食事は縁側。リンゴ箱に新聞紙を貼った飯台で、冷や飯に梅干一つ。

「喫茶店へお供すると、師匠がコーヒー一杯頼んで。カップの下に少し残して『ほら、お飲みよ』って。あたしなんかそれを白湯で薄めた極薄のアメリカン」。

落語の稽古どころか内職仕事と掃除の毎日。

「もうこの師匠じゃあ駄目だって。師匠の弟弟子にあたった、『山のあなあなあな』の歌奴を頼りに上京したんだけど、結局追い返されちまって。今更帰るに帰れず埼玉県の大宮でパチンコ屋に住み込んでねぇ」。

それから一年後に名古屋へ。

昭和二十九(1954)年、二十歳の年に初代雷門福助に入門し小福を襲名。

「東京深川の列記とした雷門だけどね、うちの師匠は女と博打で失敗して、師匠の実家がある名古屋大須に都落ちしたわけよ。だから弟子入り当初は、あたしも師匠の家に住み込み。三年辛抱したら東京へいかしてやるって約束で、修業しながらただ働きのボイラー焚き」。

ひたすら東京の高座に上がる日を夢見た。

「ところが三年経ったと思ったら『おまえさんねぇ、礼奉公ってのがあるだろう』ってんで、また一年ただ働き」。

しかしその見返りか、お勝手女中をしていた妻花子さんとの縁組が薦められた。

地方巡演を続けながら二年後の昭和三十五(1960)年、二十六歳の若さで芸能プロを設立。

芸人の呼び屋を務める傍ら、出稽古を重ねて話芸を磨いた。

そして昭和五十一(1976)年、四十二歳で晴れの真打へ。

その後は地元大須演芸場で高座を張り続けた。

昭和六十三(1988)年、師匠福助が死去。

東京本家からは福助襲名話が持ち上がった。

「そりゃあ嬉しい話しだったけど。小福の名に愛着もあったし。生涯このまんまで通そって」。

平成七(1995)年には脳梗塞に倒れた。

「平衡感覚が衰えちゃってねぇ。そしたら次は肺気腫。あたしはどうにも昔っから欲深だからねぇ」。小福師匠は大声で笑い飛ばした。

降り注ぐすべての運命(さだめ)を遍(あまね)く受け入れ、笑いにすり替えた噺家人生。

「なごや雷門」の亭号は、噺家の矜持にかけ小福師弟の心意気が護り抜く。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 2話」~「All for you」

先週から毎週火曜日の夜10時には、「昭和を偲ぶ徒然文庫」と題して、過去に新聞に掲載した雑文をご紹介させていただきます。

どうかよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

「忌わしき戦争の記憶」2011年3月24日

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ…」

特別養護老人ホームの談話室。

テレビの終戦記念特番で、玉音放送の件(くだり)が流れ出した。

父はいきなり立ち上がり、直立不動のまま虚の三八式歩兵銃を両手に戴き、捧げ銃(つつ)の構えのまま嗚咽を漏らす。

時ならぬ父の姿に、周りの老人があたふたと杖を頼りに立ち上がった。

忌まわしき戦争の記憶は、どれだけ心の奥底に封じ込めようと、馬鹿正直にも体は、己の意思と裏腹に反応するのか。

敗戦から半世紀以上を経た今となっても。

父は亡くなる数年前から認知症が進み、夢と現(うつつ)の狭間に生きていた。

ぼくは無礼にも、そんな父の一進一退を、よく天気になぞらえたものだ。

だから母の七回忌を終え、その足で父を訪ねた時は、手の施しようも無い「土砂降り」状態。

母の供物が詰め込まれた、お下がりのお重を開き、立ち尽くす父に差し出した。

「どこの親切なお方か知りませんが、ほなこの牡丹餅頂戴します」。

父は胡乱(うろん)な眼(まなこ)のまま、牡丹餅に舌鼓を打つ。

…今日は息子の顔すら思い出せんのか?…

「あのー、厚かましついでにこの牡丹餅、もう二つ貰えませんやろか。今日は家内の七回忌でしてな。大好物やったでせめて供養にと」。

…あっ!

土砂降りの中を彷徨いながらも、母の命日だけは忘れずにいてくれた…

赤紙一枚に命を弄ばれ、焼土に帰しどうにか手にした、母との倹しい暮らし。

吉凶相半ばの父の人生。

「勝ち負けより、お相子(あいこ)でええ」。

その時初めて、父の口癖だった言葉の、本当の意味を知った。

どれだけ人類が過去からの智の遺産を積み重ね、叡智を欲しいままに極めたところで、争いや諍い、それと愚かしい戦争というものが、各地で今なお繰り返されるのはなぜでしょう?

悲惨な戦争の記憶が薄れゆく度に、戦争に対する恐怖や憎悪まで薄れてゆくようで、不気味な思いを抱いてしまいます。

とは言え、ぼくがこの世に産声を上げたのは、先の玉音放送にこの国の民が泪し、そして誰もがもう家族を一人として戦争で失わなくても良いと、心から安堵したあの日から、たった12年後のこと。

当然のことながら、父は戦地で生死の淵を彷徨い、母は空襲から命からがら逃げ惑った、そんな戦争の渦中に身を挺していたわけです。

父は戦地での出来事を、死ぬまで一切語ろうとはしませんでした。

今になって見れば、それこそが何をかいわんやだったのだと思えてなりません。

しかし多くの無辜の民が流した血の上に、この平和な世が今なお辛うじて曲がりなりにも続いていることを、忘れることがあってはなりません。

それが先の戦争で、尊い命を奪われた方々への、唯一出来る供養でしかないのです。

戦後75年。

昭和は平成へ、そして平成は令和と改まりました。

しかし先の戦争の苦渋と、国民がすべからく味わった塗炭の苦しみを、単に歴史の一頁として葬り去ることだけは、何がどうあれあってはならぬ事だと思います。

愛するすべての人のために、争いや諍い、それに愚かしい戦争が二度と繰り返されないことを切に祈りつつ、今日は「All for you」歌わせていただきます。

「All for you」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

 All for you この命懸けて君を守るよ

 All for you 不器用だからそれしか言えないけど

夢ばかりでゴメン見果てぬ事ばかり だけど願い続ければいつか叶うはず

諦めちゃダメさ祈りが零れ落ちる だから合わせた手と手は決して解かない

 All for you この命懸けて君を守るよ

 All for you 不器用だからそれしか言えないけど

 All for you 命の限り君と生きていたい

 All for you 掛替えのない愛を君だけに

今が辛くても明日だけ信じよう たとえこの先に何が待ち受けてようと

ぼくには何にも誇れるものなどない だけど君を守り抜く力だけはある

 All for you この命捧げ君に誓おう

 All for you 照れ臭すぎてそれしか言えないけど

 All for you 命尽きるまで君と生きていたい

 All for you 掛替えのない愛を君だけに

続いては、CD音源から「All for you」をお聴きください。

★今日は、10月8日にお誕生日をお迎えになる「まさこ」さん、そしてちょっと遅ればせながら先週の9月28日にお誕生日をお迎えになられた「あいうえおばさん」の、お二方のお誕生日をささやか~にお祝いさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、とても逸品とは言えませんが「あなたの家の戦争の記憶」。

昭和の時代の半ば頃までにお生まれの方であれば、きっとご両親やお爺ちゃんお婆ちゃんであれば、戦争のあった時代をご存知でいらっしゃったはず。

子ども心にご両親やお爺ちゃんお婆ちゃんに聞かされた、そんな「あなたの家の戦争の記憶」について、何か思い出されることがあったら、ぜひお聞かせください。

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