「天職一芸~あの日のPoem 245」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市一之宮町の「宮笠職人」。(平成十九年八月十四日毎日新聞掲載)

棚田一面染め上げて 緑の稲が風に舞う         蝉は往く夏惜しむよに 声を限りの鳴き比べ       宮笠被り背を丸め 小さな影が畦を行く        「今帰った」と母を呼ぶ 帰省土産を抱え上げ

岐阜県高山市一之宮町、代々宮笠を作り続ける宮笠職人の問坂(といさか)義一さんを訪ねた。

「昔は薪ストーブ囲んで、親子三代で笠を編んだもんやわ。朝四時から夜鍋仕事で十時まで。みんな座る場所も決まっとって、笠を編むのもご飯食べるのも同じ場所やった」。義一さんは、南に面した六畳一間の作業場で、指先を片時も休めず懐かしそうに笑った。

義一さんは昭和11(1936)年、六人兄妹の二男として誕生。

「宮笠はここ宮村の問坂部落で三百年以上に渡って代々受け継がれてきたもんで、野良仕事の無い農閑期の重要な副業やったんさ」。

昔は村中の百二十~百三十軒で生産されていたが、今ではたった三軒を残すだけ。

中学を出ると地元の農協へと就職。

二十歳になった昭和31(1956)年、長距離トラックの運転手に転身。

「材木積んで名古屋まで片道七時間の道程。日用品を山ほど積んで帰ってくるともう朝方やわ」。トラック輸送は、何も荷物ばかりでは無かった。

「平湯温泉にも荷を運んどって、そこの売店で店員を見初めたんやて。えへっ。それが今の女房やさ」。義一さんは思わず照れ笑い。

昭和37(1962)年に加代子さんと結ばれ、二男が誕生。

義一さんはトラック運転の片手間に、両親と共に宮笠作りも続けた。

宮笠作りは農閑期となる十一月から三月下旬まで。

太さ三十㌢程のヒノキとイチイを60㌢程の長さに切り、一昼夜煮て柔らかくする。

それを機械に掛け厚さ0.6㍉程に剥く。

さらに裁断機で6㍉幅に切り揃え、基本となる「ヒデ」を準備。

まず初めに21×22本のヒデを十字に交差させ、「いかだ」を作り、笠の頂点の「つじ」を編み上げる。

「ヒデとヒデの目を詰めて編んでも、どうしてもホセ(隙間)が出来るんやて。晴れた暑い日はそこから風が通るし、雨降りにはヒノキやイチイが水分を吸ってホセが狭ばまり雨を通さんのやて」。義一さんは先達たちの理にかなった知恵を称えた。

次に竹を輪にしてヒデで巻き留めた「ふち」を笠に取り付け、ふちから飛び出したヒデを切り落とす。

さらに笠の内側へ放射状に竹を割った「さし骨」を編み付け、ふちと笠を縫い付ける。

最後に頭頂部と笠を固定する、「笠あて」を編みつけ完了。

「まあ、全部材料を事前にこしらえてあっても、一つ編み上げるのに二時間はかかるんやて」。

宮笠の種類は大きく分けて二種類。ヒノキの白とイチイの赤茶色の木肌を組み合わせた紅白と、笠の表面にヒデを編み込み蝉のような飾りを施す宮村特産の「蝉笠」である。

「もう今は、三軒で年間千個から千二百個がやっとやて。わしらが子供の頃は、六~七歳になると『子供はこつ(これ)やれっ』って、親父や爺さんに有無を言わさず手伝わされたもんやけど、今の子らはそんなこと誰もせえへん」。

位山山系の樹齢百五十年のイチイは、天皇即位の折の笏(しゃく)に用いられることから、一位の名になったとか。

「だから宮様の村の宮村、一之宮なんかのう」。

宮笠職人は窓から位山を見上げ、ちょっぴり誇らしげにつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 244」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「尺輪(しゃくわ)職人」。(平成十九年八月七日毎日新聞掲載)

父の手は 油塗(まみ)れで真っ黒け          晩酌だけを楽しみに 自慢話しを繰り返す        小さな命籠に載せ ガタゴト押した乳母車        どんな凸凹(でこぼこ)畦道も 父のタイヤは子を守る

名古屋市中川区、大正末期創業の宇藤車輪製作所。三代目尺輪職人の宇藤昇さんを訪ねた。

「家は痩せても枯れてもメーカーだて!」。

とても七十四歳を迎えた老人とは思えぬ、威勢のいい声がガランとした工場に鳴り響いた。

尺輪とは、乳母車専用の直径一尺(約三十㌢)の車輪。

昇さんは昭和8(1933)年、五人兄弟の長男として誕生した。

中学生になると父の手伝いを開始。そして卒業を待って本格的な家業の後取りに。

戦後復興と共に乳母車の生産は最盛期へ。

二十六歳になった昭和34(1959)年、見合いで正子さんを妻に迎え娘二人をもうけた。

だがそれから四年後、先代の父が他界。

遺された職人一人と、妻の三人で家業を引き継いだ。

乳母車の尺輪は、まず一㍉の鉄板をロール機にかけて、リムの輪っかを作り出すことから始まる。

それを溶接で繋ぎプレス機でスポーク用の穴を十六個を打ち抜く。

続いて三十㌢の番線を二つ折りにしてスポークに。

次は鋳物製のハブの片側にスポーク四本をハンマーで叩き込み、両端を押し切りで裁断し長さを合わせ万力に挟みかしめる。

それを今度はリムにかしめて合体。

「金槌で叩いてチンチン鳴ったら上出来だわ。かしまっとらんとゴソゴソ鳴ってひび割れてまうって」。

次にリムにタイヤを取り付ける。

「毎日やっとってもかんて。最初の五~六個は調子出えへんでかんで。タイヤは長靴やゴム鞠(まり)溶かした再生品で、チューブなんて入っとらへんで一生物のノーパンクだって」。

最後に心棒を通しぶれが無いかを確かめて完了。

「まあ全国でもたぶん俺一人じゃないだろか。昔のまんまで作っとるのんは」。昇さんは誇らし気に笑った。

だが昭和40(1965)年代半ば頃になると、ゴムタイヤの代わりに発砲スチロールを使用した模造品が出回り出した。

「まあピークは、昭和48(1973)年のオイルショック頃までだったわ」。最盛期は一日五十台分の二百個を製造した。

「そんな頃は父も母も毎日仕事で大忙し。工場の片隅に乳母車が置いてあって、私は子供の頃そこに入れられてアイスキャンディーを食べてたもんです」。傍らで次女の恵美子さんが懐かしそうにつぶやいた。

「今は一日五台分がやっとだわさ。一から十までたった独りでやっとんだで」。土日も平日も無いのは今でも同じ。馴染みの客から頼まれれば、そんなことに構ってなどいられない。それが昭和の職人魂だ。

「よう『この車輪で大丈夫かね?』って聞かれるもんで、『あんたが生きとるうちは大丈夫だわ』って答えたるんだわ。そしたら『そんなもんあんまり丈夫に作っとると、自分で自分の首絞めるだけだぞ』だと」。昇さんの笑い声が再び快く鳴り響いた。

写真は参考

「この人ったら、こないだ胃癌の全摘手術したばっかりなのに、もうその翌日から工場に出て仕事しとるんだでねぇ」。妻は夫への労わりを、そんな言葉で照れくさそうに茶化した。

尺輪職人として脇目も振らず歩んだ六十年は、スポークという家族みんなの支えがあったればこそ。

天晴れ、下町職人一家。

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クイズ!2020.10.20「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

先日、日置江のヒロちゃんが、「秋の味覚の料理をお願い!」とそんなリクエストを頂戴しておったこともあり、煮物にしたアレを使って、ちょっと和風な調味料を駆使して、なぁ~んちゃってボローニャ風に仕立てて見ました!

ところがどっこい、あのなんてこたぁない和風のどす黒い調味料が、ある物を混ぜ合わせるとビックリ仰天な味に大変身でした!

さあ、今回も観察眼の鋭い皆様のお答えがとても楽しみです。

頭を柔軟にして、思い付くままご回答を賜れれば何よりの幸せです。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 4話」~「After you」

「敵性語が生きる道具に」2011年5月26日(オカダミノル著)

一億の民がラジオの前で、陛下の玉音に初めて触れ、項垂れ、そして涙した、昭和二十年八月十五日のあの日。

だが、小川菊松だけは違っていた。

出先の千葉で玉音に接すると、急ぎ都内へ取って返したという。

それから一月が過ぎた九月十五日。

小川が企画した「日米會話手帳」が、科学教材社から出版された。

四六半裁判(縦約十センチ、横約十三センチ)、三十二ページ、定価八十銭。

わずか三ヶ月で、三百六十万部を売り尽した。

誰もが食うだけでやっとの時代に。

当時の人口はおよそ七千二百万人。

老若男女を問わず、二十人に一人が手にした勘定となる。

当時のゴールデンバットが一箱三十五銭。

それと比べれば、決して安くはない代物だ。

それでも多くの人々は、空腹と引き替えにこの手帳を手にした。

表紙を捲ると目次の次に「有難うArigato Thank you! サンキュー」と、日本語・ローマ字・英語・カタカナ読みの順に表記され、日常会話、買い物、道の尋ね方までの三章で構成されている。(資料協力/林哲夫氏)

終戦を境に価値観が一変する中、昨日までの敵性語は、今日を行き抜く道具となった。

だから「ギブ・ミー・チョコレート」や、「パパママ ピカドンでハングリーハングリー」さえ、瞬く間に子どもたちにも伝播した。

今日(こんにち)のように「ちょっと家族でハワイへ」などと言う、お気楽な時代が訪れようとは、誰も努々(ゆめゆめ)思いもしなかった敗戦間もないころ。

きっと誰の目にも世界は、呆れ返るほど遠くに見えたに違いない。

敗戦からわずか一月後の事。

最前線の歩兵として戦地を彷徨った父は、突然敗戦を知り捕虜となり、帰国できる日を今か今かと待ち侘びていたことだろう。

そんな我が父がまだ帰国の途にも着けぬ間にも、あっという間に敵性語は敵性語で無くなり、逆にこれからは英語だぁとばかりに、ベストセラーを記録するとは!

この国の民の変わり身の早さには、ただただ驚かされるばかりである。

しかしよくよく考えれば、戦争へと全ての民を追い込んだ、当時の愚かなる軍部や政権の指導者たちの描いた絵空事の行く末を、賢明なる多くの民が見越していたのだろう。

いつか敗戦という苦渋を味わいながらも、誰一人として家族を戦火で失うことのない、貧しくも平和な世が訪れることをひたすら信じて!

そして敗戦後の世界の趨勢を、肌で感じていた証が、いち早く敵性語と言うレッテルを貼られた英語を、身近なものとして使いこなしたいと!

戦後間もない混乱期にあって、この日米英會会話手帳がバカ売れした現象は、これまで軍により言論を封じられた民たちの怒りそのものだったのではないかと思えてなりません。

人が人を殺めて罷り通るような戦争は、あの日をもって終わりにすることこそが、あの忌まわしき戦争で犠牲になられた方々への、供養ではないのでしょうか?

もしも今がまだ、あの忌まわしい戦火の渦中であったら、この曲を唄おうものなら、憲兵隊に連行されたかも知れませんね。

そう思うと、憲法で護られた言論の自由は、如何に尊いものであるかと感じてしまいます。

今日は「After you」をお聴きください。

「After you」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

After you どうぞ君がお先にぼくは君の後を 追い越さぬように見守るだけ

After you もしも君がそこに蹲るならぼくが 直ぐに駆け付けて手を差し出そう

 哀しみ詰めた 重い荷物は  もう捨て去って 心開いて

After you どうぞ君がお先に君はぼくの心を 導く一筋の燈火

After you 君が道に迷えばぼくは風を集めて 草木を靡(なび)かせ君を導こう

After you 君の行く先を嵐が塞ごうとも ぼくは壁となり立ちはだかろう

 鈍色(にびいろ)した 重い雲でも  明日になれば 流れ去ってゆく

After you 君を見守ろうぼくの命の灯が 消え入るその日の来るまで

 After youぼくが前を行くなら  君がはぐれてしまわないだろうか

After you だから君が先に君はぼくの心を 導く一筋の燈火

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「子どもの頃のあなたにとってのベストセラー」。

ぼくにとってのベストセラーは、お父ちゃんが自転車に二人乗りで乗せてくれ、わざわざ隣町の本屋まで出向き、お父ちゃんのなけなしの小遣いを叩いて買ってくれた、「エイトマン」の漫画本です。

表紙も擦り切れるほど、何度も何度も読み返したものでした。

それはそうとあの本、いったいどこへやってしまったのやら?

皆様にとっての子どもの頃のベストセラーとは、どんな作品でしたでしょうか?

何もベストセラーは、児童書でも小説でも、伝記でも漫画でも構いません。

とにかくあなたが何度も何度も読み返したり、どうしても欲しくって仕方なかった、そんな書物の思い出を教えてください。

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「天職一芸~あの日のPoem 243」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「保母」。(平成十九年七月十一日毎日新聞掲載)

黄色い帽子スモックの 君が廊下を駆け抜ける     行って来ますも投げやりに 心はとおに保育園      お迎えバスが口を開け 黄色い声が溢れ出す       迎えに降りた先生を 目掛けて君は一目散

三重県松阪市の市立第二保育園、園長の岡田通子(みちこ)さんを訪ねた。

住宅街の細い路地を抜けると、昭和の名残が漂う木造の学び舎(や)が姿を現した。

運動場の片隅の飼育小屋にはウサギが一羽。

園児が帰った後の運動場を寂しげに眺めている。

「小さい子が可愛いて可愛いて。小学生の頃、近所の子ら集めては、毎日保母さんごっこばっかり」。

通子さんは昭和二十七(1952)年、旧飯南郡飯南町で誕生。

高校を出ると名古屋の保育園に勤務。

保母を目指し勉強を続けた。

昭和四十七(1972)年に三重県保母試験に合格。

二十歳で旧飯南町立すみれ保育園の保母に。

「そこは私が通(かよ)とた保育園やったんさ」。

母校ならぬ母園に舞い戻り、保母のスタートを切った。

昭和四十九(1974)年、同町出身で同姓の晴夫さんとテニスの同好会で知り合い結婚。

やがて二男一女が誕生。

妻として母として、そして保母としての顔を使い分け、家事に子育て、そして仕事に追われながら九つの園を巡り歩いた。

「それがそうでもないんさ。妻も母も中途半端で。この人ともしょっちゅう喧嘩ばっかやさ」。通子さんは傍らの夫に目配せた。

我が子がやっと小学校へと上がった昭和五十八(1983)年、三十一歳の年にあやめ保育園の園長に就任。

「どんどん年上の人が辞めてかんして、若いもんに降りてきただけやさ」。

折りしも腹を痛めた我が子は小学校の低学年。

誰よりも母とのふれあいを求めていた時でもあった。

しかし妻と母の顔を犠牲に、仕事への責任を全うするだけで精一杯。

家庭と仕事の両立は、それほど簡単なことではない。

しばらくすると長男が登校を拒否し、次第に家に引きこもるように。

「嫌やったのは、自分の子供もちゃんと育てられんかったようなもんが、人様からお預かりしとる大事な子供の面倒なんて見とってええもんやろかって」。通子さんは教育者としての限界を感じた。

「俺ら夫婦も、正直大変やったさ。通子に仕事辞めさすわけにいかへんし、息子の心の病とも向き合わないかんのやで。ほんでもさ、どうしたらええかなんてわからんけど、逃げやんとひた向きに生きとったら、なとかなってくもんやさ。なあ」。晴男さんは妻を見つめ、あっけらかんと笑い飛ばした。

平成十七(2005)年、旧飯南郡飯南町は平成の大合併で松阪市に。

そして今年四月の異動で、通子さんはこの園に赴任した。

園では0歳児から六歳児まで、九十九人の園児たちの保育を十四人の先生が受け持つ。

「私らの頃は保母やったけど、今しは保育士やでなぁ。せやでうちにも二十三歳と二十一歳の男性の保育士さんがおるんやさ」。

園児たちが帰った誰もいない運動場。

夕暮れの風がわずかに涼を運ぶ。

「昔と違て今しは、周りが子供たちの環境を変えてもうたったんやで」。

はやこの道三十四年。

されどどこまで行っても終着点などない。

「この年まで子供から学ばせてもうてばっかりやさ」。

身をもって我が子に教えられた心の痛み。

それさえ懐の深さに代え、通子園長は子供たちの目線に膝を折り、真正面から向き合い続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 242」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨市古川町の「切り絵師」。(平成十九年七月二十四日毎日新聞掲載)

春を盛りの古川に 晒し姿のやんちゃ連         櫓(やぐら)の上で闇睨み 辻を目掛けて突き進む    町に渦巻く男気と 起し太鼓に付け太鼓         切り絵が描く魂は 古川男やんちゃ節

岐阜県飛騨市古川町の工房布紙木(ふしぎ)。切り絵師の菅沼守さんを訪ねた。

瀬戸川沿いに白壁の土蔵が続く。

真鯉が流れに逆らい水面にたゆたう。

「こんなん元手なんて安いもんや。黒画用紙一枚に、文房具屋で3割引きになった、何処にでもあるカッターナイフ一本あればええんやで」。守さんは、作品の並ぶ店内を見渡した。

守さんは昭和二十二(1947)年、綿細工を手掛けた父の元で四人兄姉の末子として誕生。

中学を出ると名古屋で料理人を目指した。

「料理は好きやったけど、都会の水が合わんと言うか…」。

翌年帰郷し、運送会社の補助乗務員に。

ところが、翌昭和三十九(1964)年トラックごと峠から転落。

一命は取り留めたが全身打撲に。

翌年職を辞し、今度は手に職を付けようと大工見習いを始めた。

しかし二十一歳の年に、脊椎が変形して病状が悪化。

通院生活は今尚続く。

「腰と首の手術はこれまでに十回。二十七歳まで六年間は仕事どころじゃなかったわ」。

しかしその長患いは、菅沼さんに新たな転機を導いた。

病室のベッドがアトリエ代わり。

ペン画・墨絵・版画・油絵と、とにかく手当たり次第に夢中で取り組んだ。

やがて独学ながら木彫りと切り絵の世界へたどり着いた。

とは言え、まだまだ無名の駆け出し作家。趣味人と作家の境を彷徨い続けた。

二十九歳の年には兄が洋食屋を開業。菅沼さんも手伝いながら、作品作りに励んだ。

「『この町に生まれたことが誇れるような、そんな作品を描き続けたい』って。古い町並みや祭り、それに瀬戸川に泳ぐ鯉や山野草。それが故郷そのものだから」。

その想いは、黒画用紙をカッターで切り込む切り絵に託された。

モノクロームの飾りの無い単純な色調。

だからこそ、飾り気の無い力強さと優しさ、そして懐かしさが見る者を魅了する。

だが店の手伝いと作品作りの両立が、やがて身体に障るように。

ついに切り絵作家として生きる覚悟を決めた。

その後、作品が人々の目に留まり本の表紙や町の看板を飾るように。

次第にテレビや雑誌でも取り上げられていった。

それから十五年。

知人の誘いでクラフト展に、生活雑貨のミニチュア木彫りを出品。

そこで創作人形作家の小形寿美子さんと意気投合。

人形を惹き立てる小道具の木彫りを担当することに。

共同作業は作品作りの枠を越え、やがて二人の絆をも紙縒り出した。

そして平成七(1995)年に結婚。

二年後に工房を開き、二階を住居とした。

「不思議な出逢いだから、屋号も布紙木」。菅沼さんはこっそり妻を見つめた。

切り絵は一ヵ月半ほどかけ、納得のいく構図を練り上げることに始まる。

そして黒画用紙に鉛筆で下書き。

白熱灯の明かりに下書きを浮かび上がらせながら、カッター一つでさらに一ヵ月半ほどかけて彫り上げる。

「一つの作品に何十万回ってカッター入れるんやでね」。

祭りの切り絵には、片隅に必ず自分の姿を掘り込む。

「身体が満足やったらなぁ」。

切り絵師は辻を駆ける若衆の掛け声に合わせ、叶わぬ想いを小刀の切っ先に託し一気に彫り上げた。

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10/13の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「坊ちゃんカボチャとベーコンのとろ~りパンプキンスープ with こんがりシナモントースト揚げ」

郡上から届いた宿儺カボチャと坊ちゃんカボチャ。

宿儺カボチャは天婦羅やフライにして、キリン一番搾りのお供に!

秋酣を満喫中です。

そして真ん丸っちくって可愛らしい坊ちゃんカボチャを使って、外側の硬い皮を器に刳り貫き、中身をスープにして、一枚だけ残って冷蔵庫で保存したままだったトーストを、揚げパンにして添えちゃえってなもんで、ハロウィンをちょいと先取りしてみました。

ところが!

坊ちゃんカボチャの中の実を刳り貫きやすいようにと、丸ごとレンジでチンしすぎてしまい、カボチャの器の底が割れてしまったのです!アッチャー

しかたがないので、身だけをスプーンでほじくり出し、フードプロセッサーですりおろし、そのまま鍋の中へと移して牛乳を注ぎ入れ、細切りにしたベーコン、コンソメに白ワインと生クリームを加え、とろ火で一煮立ちさせれば出来上がり。

後はスープ皿に盛り付け、上から彩でサンドライトトマトをパラパラッと散らせば出来上がり。

次に冷蔵庫の中でグンニャリしていたトーストを細目に縦切りにし、油で揚げてから、グラニュー糖とシナモナパウダーを振り掛ければ、こんがりシナモントースト揚げの完成です。

カボチャ本来のほんのりとした甘さと、シナモントーストが辛口の白ワインに殊の外ピッタリで、ついついグラスを重ねてしまいました。

今回もお目の高い皆様には、ほとんどニアピンの方が続出でした。

ありがとうございました。

次回も鋭い回答を期待しております。

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「天職一芸~あの日のPoem 241」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「歌舞伎一座 座頭(ざがしら)」。(平成十九年七月十七日毎日新聞掲載)

桟敷にデンと陣取って 幕が開くのを待ち侘びる     父は浮かれて冷酒を 湯呑で煽り赤ら顔         芝居も山場佳境入り 贔屓(ひいき)役者の大見得に   ここぞとばかり屋号飛び 舞台へ落ちるお捻りが

名古屋市中区大須、スーパー一座、座長の原智彦さんを訪ねた。

「当たり役は天下を転覆させるような国崩(くにくず)しの敵役、平将門とか清盛かな」。

原さんは昭和二十一(1946)年、長野県大桑村で六人兄妹の五番目として誕生。

父の転勤で小学二年の年に名古屋へ。

高校を卒業すると、電力会社の火力発電所に勤務。仕事の傍ら自分探しを続けた。

「二十四歳の時、愛知県美術館にゴミの作品を出品したんだわ」。まさに昭和四十五(1970)年、都市部を中心に和製ヒッピーが闊歩した時代だ。

前衛的な作品は、保守的な人々の物議を醸した。

「その時、演出・脚本の岩田信市さんと出逢ったんだって。そのまんま意気投合だわ」。

翌年、上司に惜しまれながらも会社を辞した。

「当時レインボー党ってのをみんなで作って、名古屋市長選の立候補者を公募したんだわ」。選挙カーはリヤカー。選挙事務所はTV塔前の公園。七色のテントにカラフルな衣装が党員のユニフォームだった。

予備選が行われ、岩田氏を候補として擁立。5千票を得たものの残念ながら落選。

「選挙も日常の一部として、いたって真摯に市長選に取り組んだんだけどなぁ。そりゃあ時には、公園で野点や踊りに紙芝居も演じたりしたけど」。連日、市政のあり方を熱く論じ合った。

「その後はチリ紙交換や便利屋。オリジナルアクセサリーを作って販売したり。でもこれが実は大当たり。そのおかげで喰わせてもらえたみたいなもんだわ」。

一ヶ月の内一週間だけ思いっきり働き、残りの三週間を自分に投資。

インド放浪にも三度出掛け、物質的な貧しさをものともしない少年の目の輝きに触れ、日本人としての価値観の在り方を自分に問うた。

二十七歳の昭和四十八(1973)年、岩田氏が経営するロック喫茶のアルバイト店員だった舞子さんと結ばれ、一男一女をもうけた。

五年後、大須に拠点を移し大道町人祭りを仕掛け、翌年一座を旗揚げ。

三十三歳の座長が誕生した。

その後のヨーロッパ公演では、ロンドンを皮切りに足掛け七年かけ七ヵ国で日本語版「マクベス」他を二百三十回上演。

「ちょうどイギリスでパンクが流行り出した頃だったんだけど、それよりもっとパンキーだと言われてさ。一流紙が『日本は車だけじゃなく、ついに文化も輸出』と題した記事を掲載するほどだったって」。

生活の一部に組み込まれているヨーロッパの演劇。

それを日本でも実現したい。

原さんの思いは大須師走歌舞伎となって実現し、今年でちょうど二十周年を迎える。

一ヵ月間の公演を控えた六年前、右足アキレス腱を切断。

ギブスを着けたまま病院を抜け出し舞台へ。

摺足(すりあし)・六方(ろっぽう)・見得と、山場の重要な所作も、右足を庇いながら演じ続けた。

さらに昨年、今度は胃癌に倒れ胃の四分の三を摘出。

「死を間近に感じて悟ったって。全力出しっ放しではいかん。ある程度力まず力を抜かんと。アキレス腱切った時も、だから真っ直ぐ立てたんだって」。

今やっと役者として、再出発の門を潜ったと嘯(うそぶ)きながら笑い飛ばした。

「九十歳で踊っとる夢見たんだて。それが俺の宿命かな」。

還暦を迎えた座頭は、今日も演芸場の舞台に挑む。

大須オペラ「カルメン」を引っ提げて。

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「天職一芸~あの日のPoem 240」

今日の「天職人」は、三重県熊野市の「那智黒碁石商」。(平成十九年七月十日毎日新聞掲載)

碁盤を挟む父と祖父 互いに口も開かずに        短い煙草揉み消して 長考の末碁石打つ         囲碁がそんなにおもろいか 兄と二人で首傾げ      祖父のいぬまに盤を出し 五目並べで大人ぶる

三重県熊野市の岡室碁石、四代目主の岡室洋一さんを訪ねた。

七里美浜

那智の黒石は、三重県熊野市神川町で産し、北上川から熊野川へと流れ下り、太平洋を臨む七里御浜(みはま)へと流れ着く。

写真は参考

「その昔の一説には、伊勢路から熊野三山詣でに向かう人たちが、御浜の砂浜で黒石を拾い那智山の熊野那智大社に奉納したのが、那智黒石の始まりとか」。洋一さんは、工場の片隅で椅子を勧めた。

洋一さんは昭和九(1934)年、山林業を営む家に七人兄妹の六番目として誕生。

地元の高校を卒業すると、慶応大学の工学部へ進学。

「当時は熊野から東京まで、和歌山をぐるっと大阪へ回ってから東京へ。ですから片道二十三時間ほどかかったものです」。

大学を出ると東京の小さな貿易会社に入社した。

二年後、家業の山林業を受け持つ番頭が他界。

「父が急ぎ上京しまして、貿易会社の上司に直談判して会社を辞めさせられ、有無も言わさず連れ帰られました」。

昭和三十五(1960)年に帰省し山林業へ。

二年後、和歌山県出身の敬子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

一方、碁石製造は、昭和二十六(1951)年に洋一さんの父が神川町に工場を開設し、やがて兄が製造販売会社を設立。

その後の高度経済成長の追い風を受け、昭和四十(1965)年代に入ると、兄は次々に事業を拡大させていった。

「砂利販売の会社や、輸出用スリッパの販売会社に手を染めて、借金も次々に膨らんで。それで困り果てて経営を兄から姉婿へ、そして父へとバトンタッチしたんです」。

洋一さんも山林業の傍ら、碁石製造も手伝い父を支えた。

しかし昭和四十三(1968)年、碁石の製造から撤退する憂き目に。

「宮崎県日向のお倉ケ浜で採れたはまぐりが激減し、最高級と称された国産白石が製造出来なくなって。黒石みたいなもんは、白石ほど値の付く物と違いますから、その後は日向の碁石屋に頼んで黒石の加工もお願いするようになりました。だから今は製品になった碁石を仕入れる卸売りです」。

山林と碁石、洋一さんの二束の草鞋生活は、昭和五十六(1981)年に父が他界する年まで続いた。

そしてその年、父の跡を継ぎ四代目の主に。

那智の黒石は、黒色硅質頁岩(こくしょくけいしつけつがん)で、鑿で割ると板状になるのが特徴。

「昔は四角く切って、四つの角と四つの辺を八角に鑿で斜めに割って鉋掛けして角を落としていました。それから面取り機の登場、そしてコアドリルと呼ぶもので板状の黒石を丸く抜くようになりました」。

碁石の一組は、先手の黒石が百八十一個に、後手の白石が百八十個。

日向のはまぐりから製造する白石は、蝶番(ちょうつがい)の方から順に花・月・雪と呼ばれ、雪が最上級とされる。

肉厚な一つの貝から一~二個しか取れない貴重品。

「日向のはまぐりは、貝で言う年輪のような目切れが真っ直ぐ。最上級の雪印の厚さは十一.三㍉。三年かけて一組出るかどうかで、値段も一千万円の代物です」。

洋一さんは秘蔵の逸品を取り出した。

写真は参考

布石からヨセへの手筋の妙が碁ならば、生を授かりやがて世を去るまでが浮世の妙か。

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「天職一芸~あの日のPoem 239」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃加茂市の「釜飯立ち売り人」。(平成十九年七月三日毎日新聞掲載)

発車のベルが急き立てる 釜飯売りも大わらわ      窓越しに君 不安顔 つり銭掴み飛び乗った        蒸気を上げて汽車は出る 野山に汽笛轟かせ       二人一つの釜飯は 割り箸キッスの魅惑付き

岐阜県美濃加茂市で駅弁を製造する向龍館。飛騨路名物、松茸の釜飯をホームで流し売る原口民生さんを訪ねた。

高山線美濃太田駅。

高山へと向かう下りホーム。

「間も無く四番線には、普通列車高山行きが…」。アナウンスが流れ出す。その声と同時に、首から四角い盆を吊り下げ、釜飯の立ち売り人もホームの花道へと繰り出した。

「まだ普通列車やでのんびりしとれるんやけど、特急は一分の停車時間に、大急ぎで積み込まんなんのやで」。民生さんは、駅弁に駆け寄る客を巧みに捌きながら笑った。

「この列車が出たら、あっちのホームへ行ったらんなん。さっき向こうで手振っとったで」。

民生さんは昭和二十三(1948)年、警察官を父に五人兄弟の末子として佐賀県で生まれた。

その後父の転勤に伴い鹿児島で高校を卒業。その足で姉を頼り大阪へ。

新聞配達を続けながら自らの天職探しに明け暮れた。

「あの頃は何にでも興味があったで。デザイン学校行ったり、タレントスクールへ通ってみたり」。その後二十四歳の年に、広告関係の仕事に就いた。

「それから二年後やったかな。広告を取りに行った先の、子供向け百科事典の販売会社から誘われて」。転職し岐阜へ。

それから三年後。二十九歳の年に、今度は別の百科事典の出版社から、販社としての独立を持ち掛けられ美濃加茂市へ。

昭和も終盤に差し掛かかり、子供向け百科事典の売れ行きにも翳りが射し始めていた。

ついに三十六歳で見切りをつけ、潔く販社を畳んだ。

「それからは、工場勤めに向いとらんもんで、何やっても長続きせん」。

線路工夫に土木作業員と、本物の天職を追い求め原口さんは流転を繰り返した。

「その日もちょうど仕事探して、ブラブラ歩いとったんやて。そしたら店の窓に急募の貼り紙があったもんで、そのまんま飛び込んだんやわ」。

駅で釜飯を売り歩く前任者が辞めたばかりで、原口さんはその後任となった。

「もともと客あしらいは上手いほうやったし」。原口さんは四十九歳にして、やっと水の合う職に流れ着いた。

飛騨路名物として名高い松茸の釜飯は、竹の子・松茸・鶏肉・わらび等をご飯に混ぜ、じっくりと炊き上げた薫りたつ逸品。

「高速道路が開通して、今ではお客も三分の一だわ.。みんなバスやマイカーだでねぇ」。

昔は売り子だけでも五人もおり、昼前までに百個を販売する盛況振りだったとか。

「今は多い日でも一日百八十~百九十個がやっと」。

昔ながらの陶器製の釜は、昨年末よりセラミック製に、木蓋もプラスチックに変わり果てた。

「それも時代の流れやろ。昔の陶器製に比べたら、こっちの方が幾分軽てええけど」。

原口さんは茶化しながら、帆布のベルトを首に回した。

「ほんでも常連もおるし。『お~い。兄ちゃん、また来たで。一つ土産にもうとこか』って、関西の方も見えるし。病院の見舞いだとか。ホームでは色んな人生とすれ違うで楽しいわ」。

およそ半世紀を掛け、やっとたどり着いた天職「釜飯の立ち売り」。

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