「天職一芸~あの日のPoem 251」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「製麺師」。(平成十九年十月九日毎日新聞掲載)

母に引かれて市場まで 散歩を兼ねたお買い物      八百屋 魚屋 乾物屋 肉屋に米屋 金物屋       いつも見とれて立ち止まる 麺打つ親仁(おやじ)の手捌(てさば)きに                    家へ帰って粘土捏(こ)ね うどん屋ゴッコ真似てみる

三重県桑名市、昭和6(1931)年創業の製麺所。伊勢おかめ印の陣田屋商店、三代目製麺師の神山透さんを訪ねた。

「朝一番の仕事は、前のバス停の掃除と水撒きですんさ」。透さんは表通りを眺めて笑った。

「元々この店は家内の実家ですんさ。私は会社勤めやったんやけど、平成12(2000)年に番頭さんが病気で倒れられて、どうしても男手が要るゆうて」「それで主人に店へ入ってもうたんです」。妻、久代さんが傍らで助け舟を出した。

久代さんは昭和32(1957)年、旧姓水谷家の長女として誕生。

だが久代さんが小学校に上がった年に、父は幼子二人を遺し急逝。今年一月に身罷(みまか)られた母が、遺された子供を護り家業を支え抜いた。

その後久代さんは専門学校へと進み、21歳の年に母を手伝い家業を継いだ。

「うどんや味噌煮込みをスーパーや町のうどん屋に配達したり、後は事務仕事が主な担当でした」。

それから三年後。

昭和56(1981)年、透さんと結ばれ神山家の嫁となった。

「まぁ、あきらめ半分のようなもんで」。透さんはそんな言葉で照れ臭さを振り払った。

「どこで出逢(でお)たかって?実は大学の四年間、この店でずうっとバイトしてましたんさ」。

製麺所の跡取り娘とアルバイト学生の間に、いつしか恋が芽生えていった。

透さんは大学を出ると、事務機の販売会社に就職。

家も隣町と近く、事ある度に元バイト先に顔を出しては久代さんとの関係を育んだ。

結婚後もそれまで同様、久代さんは実家へと通い家業を手伝い続けた。

しかし七年前、店を一手に取り仕切ってきた番頭が病に倒れた。

さすがに透さんも見るに見かね、24年の勤めに終止符を打ち、古巣へと転職。

「でももうその頃は、昔とった杵柄は通用せんのやさ」。

当事とは製造方法も異なり、大口顧客であった問屋もいつしか衰退の憂き目に晒されていた。

「このままではあかん。独自の商品を作り出さんと」。

それがカレーうどんや、結婚式の引き出物として人気を呼ぶ「紅白かさね」となった。

紅白かさねとは、文字通り一本のうどんが紅白に重ねられ製麺された逸品だ。

製麺作業は、小麦粉と塩水を捏ね機で練る作業に始まる。

「夏は短めの十分。冬場は十五分ほど。塩味の少ないのが煮込み用で、多目の物はかけうどん用やさ。釜湯の方に塩が出てしまうで」。

次にローラーで生地を伸ばしバームクーヘン状の麺帯(めんたい)にして一~二時間ほど寝かす。

そして仕上げに再度ローラーをかけ、腰と艶を引き出す。

「お母さんが一番仕上げにこだわっとったわ。『まだ早い!』ゆうて」。久代さんが懐かしげにつぶやいた。

「こんな小さな店やで、麺打ちから販売と店先の掃除まで、何でもこなさんと」。透さんは妻を見つめて笑った。

夫婦二人で一つの人生。

妻と夫の『紅白かさね』。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 250」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「蝋細工師」。(平成十九年九月二十五日毎日新聞掲載)

給料後の日曜日 父母に引かれて百貨店         特売漁(あさ)る母を追い 父と二人で大わらわ     買い物後のご褒美は 最上階のレストラン       ケースを覗き品定め どれどれどれにしようかな

名古屋市中村区、食品模型すがもり工房、二代目蝋細工師の菅森弘昌さんを訪ねた。

こちらは、名古屋市守山区中志段味に移転された、現在の食品模型すがもり工房

名古屋駅西口。

椿神社の小さな杜の脇道には、下町風情が今尚色濃く残る。

生鮮品から衣料まで、ありとあらゆる商品が軒先を埋め尽くす。

その一画に、食品模型の蝋細工屋が。

ショーウィンドーの中には今が食べ時とばかりに、焼き立てのステーキからオムライス、そしてホークで絡め上げて静止した状態のスパゲティが並ぶ。

子供の頃、食堂の入り口で蝋細工の模型に見惚れ、駄々を捏(こ)ね母を困らせた懐かしい記憶が過(よぎ)る。

「もう今は蝋じゃなく、塩化ビニール製です。変色しないし耐熱にも優れ割れないので。昔の松脂で艶を出した蝋細工には、ゴキブリやネズミが卵を産み付けるもんだで。20年ほど前から、塩化ビニールに代わったんだわ」。弘昌さんは、展示されているステーキを取り上げ差し出した。

やはり蝋とは異なり弾力性がある。

弘昌さんは昭和33(1958)年、大阪で蝋細工師の父の元に四人兄弟の三男として誕生。

小学一年の年に父の転勤で名古屋へ。

その五年後に、父は独立し兄が営業を担当して家業を支えた。

弘昌さんは高校を出ると、自動車の整備工に。

だが二年半後、蝋細工師である父の跡を継ぐこととなった。

「昔から物造りが好きだったし、兄は営業専門だったから。父の技を学んどかんといかんと思って」。

職人の世界に終わりは無い。

どれだけ技術を身に着けたとて、その先を目指すのが宿命。

弘昌さんの修業は続いた。

昭和63(1988)年、恭子(のりこ)さんと結婚。

その三年後、一念奮起の末独立。

「自分のやりたい方向性と、兄の方向性とが違ってきて。そんな時にお客さんから背中を押されたって感じかなぁ」。

バブル経済崩壊の足音が忍び寄る、平成3(1991)年のことだった。

「バブルが弾けると、飲食業界も不況のどん底。『食品模型を造ると金がかかり過ぎるでかん』と。だんだんショーケースの中から、食品模型が姿を消して写真に代わってしまったわ」。

高いと言っても、相場は食品模型二十点で約十万円ほど。

「だいたい商品価格の十倍。だからチョコレートパフェが六百円なら六千円。まあ、どのみち丼勘定だて」。弘昌さんは大笑い。

食品模型の造り方は、現物をシリコンで型取ることに始まる。

半日乾燥させ、現物の食品を取り出す。

次に現物の色に似せた油絵の具を塩化ビニールに配合し、樹脂を型に流し込む。

今度はそれを180℃に熱したオーブンで二十分ほど焼き上げ、赤・青・黄・白・黒の五原色の油絵の具を調合し、現物と瓜二つに着色し微妙な風合いを再現。

すると寸分違わぬ、精巧な模型が誕生する。

「でもさすがに匂いまでは再現出来んけど」。

これで匂いを発すれば、疑う事無く口に入れてしまうことだろう。

ショーケースの食品模型に心奪われ、いつかはあのステーキが食べたいと立ち尽くした遠い日。

庶民の身近な芸術品を前に、腹の虫はただただ七転八倒だった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

クイズ!2020.10.27「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

またパスタかよーっ!って、どなたですか???

そんなけしからんことをおっしゃったのは?

まぁ、麺喰いな部類に属しておりますので、どうかご寛恕くだされ!

しかし今回は、どんな残り物をベースにしたかは、一目で見破られちゃいそうですねぇ。

さて、皆様のご回答が楽しみなところです。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和を偲ぶ徒然文庫 5話」~「願い星」

「『末は博士か大臣か』は昭和の幻?」2011年6月23日 (オカダミノル著)

 

-職業に貴賤なし-

時折り耳にする言葉だが、「ほんまかいな?」と、疑いたくなる場面もある。

特にその言葉を発する者が、上から目線であったりしたなら、とんだ茶番劇の、上滑りな台詞としか聞えない。

ところで、わずか数十年の間に、貴きものから賤(いや)しきものへと、自らの手で貶(おとし)めた職業がある。

それは内閣総理大臣ではなかろうか?

「巨人、大鵬、卵焼き」に象徴された、昭和の半ば。

学校で先生から、将来の夢はと問われると、大半の子が「末は博士か大臣か」と応えたものだ。

写真は参考

取り分けその中でも別格は、大臣の中でも王様級の「総理大臣」だった。

だから必ずクラスに一人くらいは、何の疑いも抱かず真顔でそう応え、教師の失笑を買う者もいたほどだ。

しかし昭和も時代を下るにつれ、いつしか子どもの夢のベスト三から、「総理大臣」や「大臣」が姿を消した。

一時は、貴き職業の頂に君臨した、総理大臣という子どもの憧れは、時の総理自らの手で夢を打ち砕き、多くの国民の期待を裏切り続けた。

その結果が、「貴」から「賤」への失墜だろう。

今も連日、次期総理を巡る駆け引きが報じられる。

今ごろ永田町では、自分が子どもの頃に夢見た、総理の椅子も近いと、こっそりほくそ笑む議員もいることだろう。

だが次の総理大臣たる者よ。

私欲や功名にはやるより先に、後の世の子どもから、「夢は総理大臣」と、もう一度言われる世にすべきではないか?

己を律し、維新の元老に恥じぬ、総理の復権を目指して。

子どもの頃ってぇのは、恐れを知らぬせいか、抱えきれぬほど途方もなく大きな夢を描くものだ。

またそれが子どもの特権でもあった。

こんなぼくでさえ、子どもの頃は見果てぬ夢を描いたもの。しかししばらくすると、その夢よりも煌びやかな夢に目移りし、再び新たな想いを募らせたりもした。

その結果がいま現在だとすれば、そのすべての責は己自身にしかなかろう。

他の誰かが悪いわけでもない。

その責を誰かに押し付けたり、誰かのせいにして、自分ただ一人だけはのうのうと生き延びようとするなど以ての外。そんな邪な考えを抱き、醜態を曝すくらいならば、いっそのこと潔くお迎えを希いたいものだ。

それが人の道ではなかろうか?

ところがどっこい。

一度でも特別な権力や地位を手に入れてしまうと、人は何人たりと言えど豹変してしまう、そんな浅はかな生き物なんでしょうか?

自らの心の賤しさすら、まるで貴きものであるかのようにすり替えてしまう。

先ごろやっとやっとその職を辞された裸の王様も、その足元に巣食うコバンザメのごとき裸の小人たちも、所詮一皮むけば同じムジナ。

こんなぼくではありますが、恥ずかしながらも純真な幼き頃は、「いつかはぼくも、この国の大臣に!」と、何を血迷ったのか両親の前で宣言したことがあったようにも記憶しています。

それはそれはとても儚い夢でもありました。

今さら負け惜しみではありませんが、そんな心賤しい裸の王様にも、ましてや裸の小人にもならず、自分の信ずる貴さを淡々と貫いたことを、きっと彼岸の岸で待つ両親が誰よりも分かってくれる気がいたします。

「お前もわしらに似て、不器用な生き方しか出来やんだんやなぁ」と。

はてさて、今の子供たちにとっての「巨人、大鵬、玉子焼き」は、いったいどんなものに変わり果てたのでしょうか?

尋ねてみたい気もしますが、ガッカリするのがオチかも知れませんので、せめてこの日本に恒久的な平和な世が続き、子供たちの未来が今より少しでも明るい世でありますようにと、ただただ願うばかりです。

今夜は、「願い星」お聴きください。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

続いては、CD音源の「願い星」オリジナル版と、ちょっぴりジャズっぽいアレンジ版の2曲お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「子どもの頃、あなたが憧れた職業」。

ぼくの一番古い記憶を手繰り寄せると、憧れた職業の一番は、市電の運転士さんでした。

市電に乗せてもらうと、必ず運転士さんが立って運転されている真横の銀色のポールを握り締め、その一挙手一投足を固唾を飲んで眺めていたものです。

そして家に帰ると、デコラ張りの折り畳みテーブルを壁に立てかけ、テーブルの脚を折ったり伸ばしたりしては、独り運転士さんごっこに興じたものでした。

それは遠い遠い、3歳か4歳ころの霞んだ記憶です。

皆様は、今よりもずっと穢れを纏わぬ純真だった子どもの頃、どんな職業に憧れを抱かれていましたか?

皆様からの思い出話をお待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 249」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「味醂干し職人」。(平成十九年九月十八日)

夕日を浴びたススキの穂 家路誘(いざな)う秋茜    腕白どもは腹空かせ 一目散に駆け出した        角を曲がればどの家も 玄関先で七輪が         ぼうぼう煙り撒き散らす 秋刀魚塩焼き味醂干し

三重県四日市市の友印安田友栄商店。三代目味醂干し職人の安田友栄さんを訪ねた。

写真は参考

「何と言っても焼き立てが一番やさ!味醂の焦げる香ばしい匂いが、食欲をそそるんやで」。友栄さんは、冷凍庫の扉を開けた。白い冷気が足元に這い出す。仕上がったばかりの味醂干しが、冷凍庫の中へと運び込まれる。

友栄さんは昭和10(1935)年、五人兄弟の三男として誕生。

しかし長男と二男が相次いで病死し、後取りとしての宿命を負うことに。

「味醂干しを始めたんは、父の代からですんさ。伊勢湾で上がる近海物イワシやカタクチイワシなんかを。元々父は心臓が悪て、中学卒業前に倒れてもうたもんやで、そのまんま家業を継いだんやさ」。

戦後間もない昭和20(1945)年代の浜の暮らしは、近海で育まれた魚たちによってもたらされた。

「毎年一~二月は暇。三~四月にコウナゴが上がり出し、五~六月にかけて縮緬雑魚、七月から十月にカタクチイワシ、九月から十一月にかけてマイワシが上がり、味醂干しに追われたもんやさ」。

写真は参考

戦後の目覚しい復興と高度経済成長。しかしその代償のように海が汚染され、近海物の水揚げも減少した。

「そこへもって伊勢湾台風の襲来で、漁師はみんなお手上げやさ」。

名四国道の建設に伴い、漁業補償が提示され多くの漁師が廃業へ。

「五十艘あった漁船が、わずか十艘やもん」。伝統的な近海漁業も終焉の危機を迎えた。

「『このまんま近海物に頼っとったらあかん!』と、日本各地からサンマ・アジ・サバ・イワシの産地冷凍もんを取り寄せるようになったんやさ」。

昭和36(1961)年、姉夫婦の紹介で近在から八重子さんを妻に迎え、一男二女をもうけた。

昭和38(1963)年に父が、翌年には母が相次ぎ鬼籍入り。

まさに激動の荒波が寄せては返す時代であった。

「近海物は取れやん。嫁さん貰って子供が出来たら、それと入れ替わるように両親を失のうて。海も人生も、自然との闘いですやん」。友栄さんは、切なそうに笑い飛ばした。

秋刀魚の味醂干しは、まず産地冷凍された秋刀魚を前日から自然解凍することに始まる。

次に頭を挟みで切り落とし、内臓を取り除き開いて骨を抜く。

そして水洗いし網の蒸籠に一枚ずつ干し、先代が作り出した溜まり・味醂・砂糖を中心とする秘伝のタレを刷毛で塗り、それを四~五回干しては塗ってを繰り返す。

最後に天日で二時間ほど干し、乾いた瞬間に冷却装置で身を引き締め、仕上げにタレで光沢を出し白胡麻を振りかける。

「天日干しには秋風が一番やさ。夏場は魚が蒸さってまう。それに仕上げは味醂やないとあきませんわ。溜まりやと黴が来ますでね」。

最盛期には一日数千枚の味醂干しが出荷され、家々の食卓へと上がる。

写真は参考

「家でも絶えず試食してますわ。魚がないと飯食うた気がせんし。わしらはどこまで行っても、所詮日本人やで」。

味醂干し一筋六十年。

味醂干しを誰よりも愛した職人は、大衆魚を絶品の味へと引き立てる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 248」

今日の「天職人」は、岐阜市徹明通の「甘納豆職人」。(平成十九年九月十一日毎日新聞掲載)

稲刈り終えた畦道を 真っ赤に染める彼岸花      「彼岸にゃ顔を見せろよ」と 母の墓参の道標      年に一度の不義理侘び 母の好物甘納豆         木箱で手向け香焚けば 傍(はた)で娘が摘み食い

岐阜市徹明通、甘納豆の岡女堂。三代目甘納豆職人の青山邦裕さんを訪ねた。

杉の木箱に納められた、色とりどりに艶を放つ甘納豆。

お正月が待遠しかった遠い日。

何とも馨(かぐわ)しく思えてならなかったお節料理に似ている。

「大納言に斗六(とうろく/大福)、それに金時、青エンドウ。同じ豆でも金時は直ぐに水に浸かるんやけど、大納言はなかなか浸かりません。だから冬場はぬるま湯に浸して」。邦裕さんが人懐っこい笑顔を向けた。

邦裕さんは昭和30(1955)年、三人兄妹の長男として誕生。

一浪の末、大学へと進学。

「家業を継ぐつもりもなく、好きなことがしたくって。だって小さい頃から、家の中では嫁姑の喧嘩ばっかりで。そりやあ四六時中、互いに顔を突き合わせとるんやで」。

ところが程なく父が入院。

大学を一年で中退し、急ぎ帰省し家業を継いだ。

「まぁ、もともと物作りは嫌いじゃなかったんやて。そう言えば、中学の時に祖父から『丁稚に行くか高校行くか』って、真顔で問い詰められたわ」。邦裕さんは懐かしそうに目を細めた。

それからは「技は見て盗め」の、言わずと知れた職人道。

「とは言え幼心に祖父や父、それに職人の後姿を見て育ちましたから、抵抗なんかありません。小さい頃はよく、おやつ代わりに工場で甘納豆摘んだり、泥饅頭捏ねて和菓子作りを真似たもんやて」。蛙の子は蛙。ものの数年で立派な甘納豆職人へ。

昭和55(1980)年、関市出身のまち子さんと結ばれ一男一女を授かった。

「取引先の事務員でして。友人たちと一緒にスキーに誘って。それからは毎週飛騨までスキーへ。それが二人のデートやて」。照れ臭そうに店の奥を盗み見た。

甘納豆作りは、北海道産の厳選された豆を水に浸すことに始まる。

翌日豆を煮て灰汁(あく)を出し渋を抜き取る。

次に編み籠に豆を移し、重曹を入れ再び煮汁が吹き零れるまで煮上げる。

「重曹を入れると皮が早く柔らかくなるんやて」。

次に柔らかく煮上がった豆を、暖めた砂糖蜜の中に一晩浸け込む。

「豆の中に砂糖が浸み込んで、皮の外に豆の含んでいた水分が出て、砂糖蜜がしゃびしゃびになるんやて。それで砂糖蜜を濃くしてもう一晩浸け込むんやわ」。

翌日、蜜浸けの釜のままとろ火で温度を上げ、豆の芯まで温まったところで再び甘みを高め、火を落とし三十分程置いてから編み籠を上げ蜜を切る。

そして仕上げに、切りだめと呼ぶ大きな盆に紙を敷き、その上に豆を広げて二十分程晒し、冷めたところで上からグラニュー糖を塗せば完了。

「時間だけはかかっとるけど、手間はそれほどかかっとらんのやて。ただボ~ッとしとるだけやし」。

保存料や添加物は一切無い。

だから日持ちも一週間ほど。

「昔は砂糖の量が多かったから、一ヵ月は日持ちしたんやけど、今は何もかも糖分控えめの時代やで」。

豆と砂糖と水だけを原料に、時間と手間と己の技を、職人は惜しみなく注ぎ込む。

硬質な一粒の豆は、至福の柔らかさを纏い、名代の甘納豆へと生まれ変わる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

10/20の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「里芋の煮っ転がし入り!味噌味仕立てのなぁ~んちゃってボローニャ風パスタ」

郡上からお送りいただいた、秋の味覚たちの中に、最も毎年楽しみにしている里芋があり、みそ汁の具にしたり、イカと煮っ転がしにしたりして、酒のあてにさせていただいております。

そんな煮っ転がしにした里芋の残り物が、タッパーに入って冷蔵されており、今回はこれも使ってしまえーってなもんで捻り出しましたる作品が、こちらの「里芋の煮っ転がし入り!味噌味仕立てのなぁ~んちゃってボローニャ風パスタ」でございます。

まずHoney Babeのうで肉のスライスをフードプロセッサーでミンチにしておきます。

https://hayashifarm.jp/info/1105784

次に小鍋へ鰹の荒節と昆布で取った出汁を少し入れ、赤味噌を漉し、酒と味醂に山椒粉を入れ、Honey Babeのミンチを加え一煮立ちさせておきます。

続いてフライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立て、ざく切りにした里芋の煮っ転がしとアスパラを炒めます。

最後によく湯切りしたパスタにオリーブオイルを塗し、皿に盛り付けた後、里芋の煮っ転がしとアスパラを盛り付け、味噌仕立てのなぁ~んちゃってボローニャ風のソースをたっぷり注ぎ、上から生クリームを垂らせば完了です!

これがまたどっこい!意外な組み合わせではありますが、本場のホローニャ地方の方にも食べさせたいほど、驚くほどの美味しさとなり、ついつい真っ昼間っから白ワインが進んでしまいました。

ちなみに里芋の煮っ転がしのイカは、酒の肴に食べちゃってしまっていて、今回の煮っ転がしには里芋しか残っていませんでしたぁ!

皆様のご家庭にも、冷蔵庫の片隅に里芋の煮っ転がしがございましたら、ぜひ騙されたと思ってランチにお試しあれ!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 247」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「薪罐(まきがま)焚き」。(平成十九年九月四日毎日新聞掲載)

夕餉(ゆうげ)を急ぎ掻き込んで 父と二人で銭湯へ   背伸びで番台小銭置き 湯船の中へ一目散        烏の行水飛び出して 脱衣場テレビに食い入れば     カポンカポンと豊登 父と真似してカポンカポン

愛知県岡崎市の龍城(たつき)温泉、女将の藤井三千代さんを訪ねた。

「本当はねぇ、一番風呂のさら湯は、身体にあんまり良くないだよ。沢山の人が浸かってある程度身体の出汁(でじる)が出た方が、年寄りや子供にはいいじゃんね」。三千代さんは、首筋に伝う汗を、首に巻いたタオルで拭いながら笑った。

「もともと主人も私も豊橋の出じゃんね。主人は豊橋の人参湯に長男として生まれたんだけど、二男に跡を譲って昭和34(1959)年にこの風呂屋を買っただわ」。

三千代さんは昭和17(1942)年、豊橋の農家河合家で五人姉妹の長女として誕生。

高校を出ると地元のパン製造販売会社で売り子を務めた。

それから三年。パン屋の看板娘に見合い話が持ち上がった。

岡崎で風呂屋を始めて間もない、若大将の公人さんと。

二人は豊橋~岡崎間の中距離恋愛を実らせ、昭和38(1963)年に結婚。

三千代さんは右も左もわからぬまま、二十一歳の若さで風呂屋の女将へ。

「最初は恥ずかしくって、番台によう上がらんかったわ。だって目のやり場がなかったじゃんね。でもまあ三ヵ月もすればへ~っちゃら。そりゃあ形や大きさはいろいろでも、どれもみんな所詮は同じだもんねぇ」。

翌昭和39(1964)年には、戦後復興を世界に高らかと宣言するように、代々木の杜に五輪の開会を告げるファンファーレが鳴り響いた。

「今とは住宅事情も違って風呂屋は連日大忙し。悠長に子供なんて作っとる暇もあれへんわさ」。それから四年、一男一女が誕生。

だが風呂屋の忙しさは待った無し。

「夕方になると赤ちゃんや子供が一杯で、まるで託児所みたい。お母さんたちが身体洗っとる間、私は両手に二人の赤ちゃん抱いて。だから家の子の子守りはぜ~んぶお婆ちゃん。だもんで私なんて家の子抱いたこと無いじゃんね」。

今ではすっかり住宅事情が変わり客数も激減。

「赤ちゃんなんて、今じゃあ年に一回見るか見んかだわ。それとお風呂が壊れちゃった方とか。後は昔ながらのご常連」。

三千代さんは、上がり框(かまち)に脱がれた履物一つで、何処の誰が来ているのかもわかるとか。

薪罐焚きの龍城湯は、午前九時の火入れから一日が始まる。

写真は参考

「まず罐に火入れといて、それから走り回って、お勝手仕事から風呂掃除に脱衣場の掃除。その間に主人が製材所から材木屋、そして木工屋に建具屋を回って二㌧トラック一杯分の薪を集めてくるじゃんね。そうこうしとると湯も沸き上がってもうお昼だわ」。

夫婦差し向かいで昼餉の後、三時の開店に向け湯船に湯を張り、仕上げの沸かし上げへ。

「それでやっと一服。開店前の一番風呂をいただいて一汗流させてもらって」。

開店から夜九時の閉店まで、罐焚きは夫と交代。

「岡崎に風呂屋は四軒残っとるけど、薪はもう家だけかなぁ。昔の閉店前の残り湯はドロドロだったって。お客さんが湯船に一杯で、まるでイモコジ(芋のごった煮)みたいに出汁が出て。でも今はお客さんも少ないで、お湯が汚れる暇もないって」。

大正13(1924)年築の高い天井の脱衣場一杯、三千代さんの笑い声が響き渡った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「わが家からの五重塔???」

昨日何気なく、ベランダから北の方角を眺めていたら、アレレ???

今何かとTVでも取り上げられている、アレが見えるじゃあないですか!

そうです!

NTTの電波塔とかいう、あの紛い物の「五重塔」です。

確かに似ていると言えば似ていますが、やっぱりどこか本物とは違い、バランスが悪い気がします。

どこか近隣国の塔のような、そんな気がしちゃいました。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 246」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「生姜糖屋」。(平成十九年八月二十八日毎日新聞掲載)

「お伊勢詣りのお裾分け」 玄関越しに声がした     餡ころ餅か生姜糖? 子供心は有頂天          母はこっそり茶箪笥に 気付かれぬよに仕舞い込む    鬼の居ぬ間に引き戸開け ちょっと一欠け生姜糖

三重県伊勢市で明治43(1910)年創業の岩戸屋、三代目当主の牧戸福詞さんを訪ねた。

伊勢神宮内宮の参拝を終え、多くの老若男女が御札を片手に宇治橋を俗世へと渡る。

茶店で一服するも良し、土産の品定めに講ずるもこれまた良し。

古(いにしえ)から今日に至るまで、連綿と続くお伊勢詣りの光景だ。

「あらっ、この生姜糖昔のまんま。お多福の絵も懐かしいわ!」。

店頭のショーケースを覗き込み、年老いた妻はそうつぶやき夫を引き寄せた。

「まずはこのまま食べてもうて、残ったらお魚の煮付けに使こてもうたり。ホットコーヒーにも砂糖代わりに入れてもらうと、またおいしさが引き立ちます」。

たまたま店頭に顔を出した紳士が、柔和な笑みを浮かべ遠来の客をもてなした。

さすがに間も無く百年を迎える老舗。

さり気ない売り口上一言にも、百年来の巧みさが感じられる。

福詞さんは昭和24(1949)年、四人兄妹の長男として誕生した。

「創業者の祖父は、家具屋の長男として生まれたのですが、やがて弟に家督を譲り、まるで夜逃げのようにお婆さんと二人でリヤカー引いてこの地へ。そして引っ切り無しに訪れる参拝客を相手に、剣菱型の御札を模った生姜糖を売り出したのが始まりで、他のお菓子と違って日持ちが良く遠来の方に喜ばれたそうです」。

東京の大学を出ると、四日市市の百貨店に就職。

進物売り場で外商を担当した。

「伊勢から四日市まで電車で通勤してましたんやさ。最初の頃は急行で。でもそのうちだんだんと疲れて来て、ちょっと贅沢して特急で通うようになって」。

同じ特急電車で名古屋へと通学していた、女子大生を見初め恋心を打ち明けた。

昭和50(1975)年、百貨店を辞し家業に戻り、美知世さんを妻に迎えて三人の男子を次々に授かった。

百年前と何一つ変わらぬ生姜糖は、水と砂糖に生姜汁だけという素朴な完全無添加商品。

「鍋で水と砂糖を煮て生姜汁を絞り、職人の勘で御札型へ流し込んで固まれば出来上がり。湿気の高い時より、からっとした天気の日の方が日持ちは良くなります」。

夏場は五十日、冬場で九十日とか。

最盛期の正月前後は、六人の職人が朝から晩まで、ひっきりなしに生姜糖を製造。

三箇日ともなれば、店売りだけでも一日千枚を越える。

「昔は関東・関西・中京圏からの修学旅行客や、団体ツアーのお客様が一杯で、観光バスも夥(おびただ)しい数でした。それが十年ほど前から修学旅行客が途絶え、団体ツアーの観光バスも減り、今はほとんどマイカーですわ」。

明治・大正・昭和、そして平成の世へと、刻々と移り変わる世相。

その時代その時代にあって、ただ直向きに生きる参拝客を、そっと通りの上から見つめ続けたお多福。

「伝統の灯を消したらいけません。再びお伊勢さんに帰って来られた旅人が『なんや懐かしいなぁ』と、そんな郷愁感に浸ってもらえることも伝統と違いますやろか」。

お多福印の生姜糖。

一欠け口に含んだら、遠いあの日がよみがえる。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。