今日の「天職人」は、三重県度会郡大紀町の「牛乳配達夫」。(平成十九年十二月十一日毎日新聞掲載)
ガチャゴトガチャと瓶が揺れ 牛乳配達オッチャンの チャリンコ停まる庭先で 木箱がコトン 音立てた コケコッコーと寝惚け鶏 今頃朝を告げて鳴く 庭先母の下駄の音 ぼくは布団で丸くなる
三重県度会郡大紀町の松田商店、大内山牛乳配達夫の松田憲光さんを訪ねた。

「学校給食の脱脂粉乳が、とんでもなくまずいし臭っさいもんでさ、教室へ運ぶ途中のドブによう放ったったもんやさ」。
昭和半ばに生を受けた児童にとって、脱脂粉乳とあちこち凹んだアルミのカップは、好むと好まざるとに拘らず忘れ得ぬ存在と言えよう。
憲光さんは昭和30(1955)年、食料品店を営む家の長男として誕生。
「保育園時代の同級に、今は俳優になった小倉久寛がおってさ。小中学生時代は一緒に野山を駆け巡ったもんやさ」。
高校を卒業すると父が営む食料品店を手伝った。
「20歳の頃から結婚するまでの13年間は、店を手伝いながら毎朝3時半に起きて、新聞配達もしよった。いつの間にか身体が時間を覚えてしまって、目覚しいらずやさ」。
25歳を迎えた頃だった。
大内山牛乳の宅配と、店卸をしていた配達人に欠員が。
「どうせ新聞配るついでやし、ほならオラがしよかって」。
新聞と牛乳の配達、そして乳製品の店卸配送と父の食料品店での販売。
毎日わずか3~4時間の睡眠時間で、一日身を粉にして働き詰めた。
「大内山牛乳は飼料も飼育もピカイチやで、牛乳の味が絶品なんさ」。
憲光さんは大きな瓶から新鮮な牛乳をグラスに注いだ。
勧められるままにグラスを干した。
口中に濃厚な味わいと、ほんのりとした甘さが広がる。
平成元(1989)年、近くのスーパーでレジ打ちをしていたみづほさんを見初め求婚。
男子二人を授かった。
「いつまでも独り身だと、周りからあれこれ言われるんさ。それで終いに面倒臭なって来て」。
接客に追われる妻を盗み見ながら、照れ臭そうにつぶやいた。
平成8(1996)年、国道沿いに山海の郷が開業し、乳製品を中心とする店を出店。
「昔ながらの市場やさ。でもこの対面販売が一番」。
この年大内山牛乳に、地元色を打ち出した商品作りを持ちかけた。
「『手作りのビンバタ(ビン詰めバター)作ってくれんか』って」。

昔ながらのチャーン製法で、じっくり時間を掛けて練り上げた、無添加の素朴なビン入り「大内山手作りバター」が誕生。
「小倉がテレビ番組で紹介してくれたもんで、遠方からもようけ注文が入ったんやさ」。
憲光さんの朝は、今尚早い。
4時に起き出し軽トラに牛乳を積み込み、2時間かけては村の端から端まで約250軒の家々を巡る。
それが終わると今度は店卸の配達から、自分の店の切り盛りへ。
そして夕配の牛乳を配り終え、長い一日を終える。

「今でも3~4時間以上、寝たことなんてないんやさ。それも新鮮な牛乳のお陰やろか?」。
妻を見つめ憲光さんは笑った。
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