「天職一芸~あの日のPoem 268」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「羽子板押絵師」。(平成20年2月19日毎日新聞掲載)

コツンコツンと縁側で 晴れ着でハシャグ君の声        「姉さんズルイ」連発し ベソかき庭で蹲(うずくま)る     父が贈った羽子板は 絵柄淑(しと)やか京禿(きょうかむろ)  そんな願いも何のその 勝気お転婆(てんば)末娘

愛知県碧南市、羽子板押絵師の岡田圭子さんを訪ねた。

写真は参考

「結果的には、主人との新婚旅行よりも先に、姑と一緒にハワイ旅行したようなもの。何でって?だってハワイ旅行のツアーで一緒だったのが姑で、帰りの空港で何気なく写真撮られて。それがお見合い写真だったわけ」。圭子さんは、はにかむ様な照れ笑いを浮かべた。

圭子さんは昭和22(1947)年、現在の岐阜県飛騨市で公務員の家庭に長女として誕生。

高校を卒業すると、名古屋の繊維会社で事務仕事に就いた。

しかし二年後、愛知県警の採用試験を受け昭和42(1967)年に婦警に転身。

「親戚中まわりがみんな公務員のせいもあってね」。

名古屋市内で先輩婦警が二人に同期が一人という時代。

名古屋市千種警察署の防犯課少年係に配属された。

「非行の補導が中心で、私服で町中を見回りするの。学校行かずに遊んでる子を補導して、注意を促すのが仕事の中心。あの頃は、今のように子が親を殺したり、親が子を殺すような物騒な時代じゃなかったから、わりと平和だったわよねぇ」。

それから5年後。

昭和47(1972)年に後輩が配属され、休暇を利用しハワイへと渡航した。

そのツアーで人生の伴侶を決しようとは、マナの神憑(かみがか)り的な導きか?

「ハワイから戻ってしばらくすると、写真を持って姑が署へ訪ねて来たの。それで自分の息子だってこと内緒にして、夫との見合い話しを切り出したわけ」。

そうとは知らず翌年見合いの席へ。

「夫はずっと黙ったまま。でもその姿に不思議と安心感を感じたの」。

昭和49(1974)年に結ばれ、夫の転勤で豊橋に移住。

一男二女に恵まれ、9年間の婦警生活を終え育児に専念。

昭和57(1982)年には再び夫の転勤で、現在の実家へと舞い戻った。

「その翌年から、子育ての合間を縫いながら、名古屋の文化教室へと通って、和紙の姿人形作りを学んだの」。

平成元(1989)年には師範に。

「そしたら先生から、今度はさらに高等な押絵を勧められて」。

写真は参考

再び丸8年に及び修練を重ね、平成9(1997)年に師範の資格を取得した。

「昔からぬいぐるみ作ったり、編み物したり。子供の頃はもっぱら、少女雑誌の付録で紙の着せ替え人形作って遊んでたし。手先を動かしてるのが好きなのよ」。

自慢の押絵の羽子板を手にした。

羽子板の押絵飾りは、干支や宝船、舞妓、勧進帳、禿など雅やかな彩りを再現する技法。

まず図柄のパーツ毎に台紙を切り抜き、絵の立体感に合わせて綿を貼り付け、色鮮やかな古布や端切れで綿を付けた台紙を包み込む。

元絵に合わせ図柄を組み合わせ、黒和紙で裏貼りし、羽子板に発泡スチロールでさらに立体感を持たせ釘付け。

写真は参考

最後に岩絵の具で一息に人形の顔を書き込めば完了。

「孫が出来たら特別な押絵を持たせたいわ」。

押絵師の春はもうすぐ、初孫の産声と共にやって来る。

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「天職一芸~あの日のPoem 267」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「熊鍋屋主人」。(平成20年2月5日毎日新聞掲載)

鉄砲担ぎ爺ちゃんは 熊笹分けて森へ入る            冬空高く輪を描(か)いて 鳶(とび)がヒュルリと声上げた   銃の響きに森が泣き 「熊仕留めた」と声上がる         村の男が獲物引く 山肉森の贈り物

岐阜県関市、熊鍋屋の「とろろ庵四季」。主人の上杉藤雅さんを訪ねた。

「熊の胆(い)は値千金やで、金の値段と同じなんやて。だから猟師は熊の胆売ったら、後の肉はおまけみたいなもんやわ」。藤雅さんは、囲炉裏の炭火を熾(おこ)しながらこっそり笑った。

藤雅さんは昭和18(1943)年、同県旧石徹白(いとしろ)村(現、郡上市)の樵(きこり)の長男として誕生。

中学を出ると上京し、浅草の大衆食堂で板前見習いを始めた。

二年後には中華料理店へと移籍し、静岡県出身の小浪さんと巡り合い結婚。やがて二女に恵まれた。

「実家がダム建設で上流に孤立するんで、福井県の大野市に移転してラーメン屋やることになって。東京から夫婦で引っ越して来たんやって。そんでもいかんわ。雪が多いで年の半分は店閉めて商売上がったりやて」。

三年後に関市へと移転し、中華料理店を開業した。

平成4(1992)年、子供たちの独立を機に、中華から熊鍋屋へ。

「昔から山肉やとろろ芋が好きやってなぁ。親父も鉄砲撃ちやって、ウサギや雉(きじ)、それにイノシシに鹿や熊の四足もよう仕留めて来たんやわ。子供の手も離れたで、猟師に教わって昔から好きだった熊や山肉なぶったろかって思ったんやて」。

子育て後の人生に備え、昭和52(1977)年には銃砲所持許可証と狩猟許可証を取得し、地元の猟師仲間と山へと分け入った。

自慢の熊鍋は熊のロースやバラ肉に、季節の野菜や茸を加え地味噌でほっこりと炊き上げる、滋味溢れる山の恵みだ。

「熊の手のひらを触ると、肉が柔らかいか硬いか直ぐにわかるんやて。何でもそうやけど、歳くって捻て来ると臭みが出て肉も硬なってまうで」。

熊鍋の旬は、身も凍りつくような真冬とか。

シンシンと降り積もる雪の夜の調べに抱かれ、囲炉裏で湯気を上げる熊鍋に舌鼓を打てば、体も芯から暖まる。

「熊はどっこも捨てるとこなんて無い。脂は傷口に磨り込めばよう効くし、胆は心臓病にも効くとか言うし。山肉はすべて、山の神から山の民への贈り物なんやって」。

藤雅さんは今なお、3年に一度銃砲所持許可証を書き換え、毎年狩猟許可証を得て仲間と共に、散弾銃のレミントンを担いで山をゆく。

「熊は近眼なんやって。だから15~20mほどしか見えんのやわ。そんでもその代りに嗅覚はめちゃくちゃ鋭く、体のわりに憶病なんやて。だからこっちが静かにしとれば、熊から襲って来ることは無い。よう鈴鳴らして山を歩けば、熊が怖がって近寄らんとか言うけど、逆に熊を興奮させてまう。それに春は子を守っとるで、気い付けんとやっぱり怖いわ」。

大きな物は体長2m、体重150kgを超えるとか。

古民家風の窓から厳寒の夜空へと、鍋から湯気が立ち上がり笑い声が零れ出した。

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「天職一芸~あの日のPoem 266」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「海苔問屋主人」。(平成20年1月29日毎日新聞掲載) 

火鉢の上でチンチンと ヤカンのお湯が音立てる         丸い卓袱台取り囲み 顔突き合わせ朝ご飯            まずは卵をかけようか? それとも海苔を巻こうかな?      茶碗片手に決めかねた 幼き冬の朝未だき

 三重県伊勢市の海苔問屋かねやす、三代目主人の笠井幹夫さんを訪ねた。

「どこやらの業界と違(ちご)て、海苔の入札には談合なんて一切ありませんのさ。だから買い付け人の眼力一つ。私も若い頃は、とんでもない物をようつかまされたもんですわ」。

幹夫さんは明治41(1908)年創業の海苔問屋で、昭和20(1945)年7月に一人っ子として誕生。

空襲警報が鳴り響き、人々が命からがら逃げ惑う敗戦の直前だった。

高校を卒業後、慶応大学へと進学。卒業後はそのまま大学院へ。

だがそこを一年で中退し、今度は東京芸大の大学院へと転校した。

「まだ父も若く、直ぐに家を継ぐ必要も無かったので、クラッシックを志しましてね」。

理解ある両親に恵まれ、幹夫さんは声楽の道を歩んだ。

テノールだったという声音には、奥深い響きが感じられる。

「わたしは三大テノールのドミンゴやなく、シミンゴですわぁ。ドミンゴがドまで出るとすれば、私はシまでしか出ませんでなぁ」。

だがさすがに、一人っ子の宿命から逃れることは出来なかった。

「23歳の頃から、入札の時期になると東京から戻っては父の手伝いをしたもんです。でも父は何にも言わん人で、とにかく見よう見真似でしたわ」。

昭和51(1976)年、秋田県出身のかず枝さんと結婚。男子二人を授かった。

馴れ初めは大学院三年の時の大学祭だったとか。

大学でコーラス部のかず枝さんと知り合い、半年後には結婚の約束を交わした。

「だんだん親も年を取って来て大変そうでしたし、大学院修了したら家へ戻ろうと思ってましたから」。

結婚の翌年、父は病に倒れ他界。

「子どもが生まれてちょうど二ヵ月でした。今思えば、それがせめてもの親孝行やろなぁ」。

海苔問屋の仕入れは、12月初旬頃の一番摘みから、春先まで年9回の競りで決する。

「有明より伊勢湾の方が、わずかに海苔の出来が遅いんやさ」。

寿司屋向けの板海苔には、8~12%の水分が含まれており、それを70℃で4時間乾燥機にかけ、水分を2~3%に飛ばして焼き海苔に仕上げる。

「真っ黒な海苔を炭火で焼くと、綺麗な緑色になるんやさ。美味しい海苔の見分け方は、第一に色艶。次に香りと味と柔らかさ。『香り良ければ味も良し』って、まったくその通りや」。

得意先の多くは関東。

老舗小売の海苔店に産地問屋として、神々住まう伊勢の海で揚がった、黒々と艶を放つ逸品を納め続ける。

「不思議なもんで、昔から食卓に海苔がないと始まらないくらい、家はみんな海苔好きで。ある時息子に言われましたわ。『海苔屋じゃなかったら、跡継がんかったわ』って」。

創業100年の伝統が裏付ける信頼の逸品は、四代に渡る店主の見事なまでの眼力が支え続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 265」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「肉桂(にっけい)玉職人」。(平成二十年一月二十二日毎日新聞掲載)

回覧板を抱え持ち 母のお遣い妹と               角の大きなお屋敷を 目指して駆けた雪の中          「あらまあこれはご苦労さん」 ご隠居さんは駄賃にと      丸い缶蓋取り外し 懐紙に包(くる)む肉桂(ニッキ)玉

岐阜県郡上市八幡町本町の肉桂玉職人の田口大介さんを訪ねた。

 漆喰土蔵に囲まれた石畳の坂下から、宗祇水と呼ばれる湧き水の清らかな水音が出迎える。

真夏の徹夜踊りで知られる昔屋並みが続く一角。

「明治20(1887)年の創業当事は、大間見屋と書いた屋号やったんですが、昭和の始めに祖父が創業家から買い取って『大』を『桜』に代えてそれ以来、肉桂玉の『桜間見屋(おうまみや)』となって私で六代目です」。大介さんは、作業場の奥へと導いた。

120年の年月に染み付いた、ニッキの香りが店の端々から漂う。

大介さんは三人兄妹の長男として、昭和37(1962)年に誕生。

高校を出ると直ぐ、高山市の飴屋で住み込み修業へ。

「同じ飴屋って言っても、細工物が中心で。20人程の職人に混じって、一から教わりました」。

2年間の修業の後、郷里に戻り家業の肉桂玉作りに従事した。

昭和62(1987)年、友人の紹介で美加子さんと結ばれ一女が誕生。

「今は名古屋で勉強してますが、ゆくゆくは婿さんもらって七代目継いでもらえるとええんやけどなぁ」。

桜間見屋の肉桂玉は、白と黒の二種類。

ザラメの白と、黒砂糖の黒。

「普通の肉桂玉はグラニュー糖を使うんですが、家のは後味がさっぱりするザラメを使ってます。だからグラニュー糖に比べて作り難いんですが、その分口の中で溶け難く長持ちするんやて」。

肉桂玉は真鍮釜にザラメと、それが溶け切るギリギリの分量だけ水を入れ、一煮立ちさせ火を止め少量の水飴を入れる。

「普通は一対一の割合ですが、家の場合水飴を極端に少なくして、飴の表面を溶け難くするんやって」。

真空釜で余分な水分を飛ばし、冷却板に流し込み肉桂の原料液を注ぎ入れる。

「飴を折り曲げながら、香りを満遍なく付けるのが肝心やて」。

ある程度固まってきたら細く伸ばし、球断機にかけて丸める。

「型の悪い物や、玉の中に空気が入ってしまったものを識別し、表面にグラニュー糖を塗(まぶ)せば完成やわ」。

郡上踊りの夏場から秋の紅葉シーズンは、観光客で賑わい最盛期を迎える。

毎日この作業を繰り返し、150~200㎏の肉桂玉を製造。

「肉桂はクスノキ科で、樹皮を剥ぎ取って乾燥させたもの。でも日本の肉桂は根っこの部分にしか辛味が無く皮は使えんのやて。それで家のは、味と香りがどこのよりも優れとる、中国原産のカシアを使っとるんやわ」。

大介さんが出来たての肉桂玉を差し出した。

口に頬張ると、表面のザラザラしたグラニュー糖がさっと溶け去り、中からほんのりとニッキの香りが口中を支配する。

懐かしくもエキゾチックな芳香に包まれ、心なしか身体全体が癒されてゆくようだ。

添加物など一切無い、天然色に輝く一粒の肉桂玉。

我が身は至福の甘さとしばしたゆたう。

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「天職一芸~あの日のPoem 264」

今日の「天職人」は、愛知県半田市の「鰯味噌職人」。(平成二十年一月十五日毎日新聞掲載)

「鰯の煮付けもう一つ それと熱燗お代わりね」         空徳利を振りながら 倅が嫁に声かけた            「お前の魚嫌いには 母さんいつも手を焼いた」         ところが今じゃ一端に 旬を貪る魚喰い

愛知県半田市、いわし専門店の円芯(まるしん)の宮下明洋さんを訪ねた。

「元々鰯とニンニク、それに葱と生姜は相性が抜群だで、八年前に赤味噌足して見たったんだわ。それからこの鰯味噌を料理として出すようになったら、ある日板場まで客の一人が入り込んで来て、『うちの会社で商品として発売したい』って。まぁ、そんな風に言ってもらえりゃあ、板場冥利に尽きるってもんだけどなぁ。でも果たして大量生産してどうだか?倅と二人して、一日おきに手練りで作っとるで美味(うま)いんやないかなぁ」。明洋さんは、蒸篭(せいろ)の上蓋を取りながらつぶやいた。

中には程よく蒸しあがった豆腐と、赤味噌仕立ての鰯味噌が、甘辛い芳醇な香りを放つ。

「まぁ何はともあれ味見しやぁ」。

明洋さんは昭和19(1944)年、中国の奉天で三人兄妹の長男として誕生。

終戦を目前に、父が除隊し福岡市へと引き揚げ、その後終戦へ。

戦後の混乱の中、父は半田市出身の戦友に誘われるまま、リュック一つで家族を伴い同市へと移住を決めた。

そして昭和23(1948)年JR半田駅前に、わずか8坪の小さな大衆食堂「丸信」を開業。

父は軍刀を出刃に持ち替え、一家の暮らしを支えた。

昭和37(1962)年、高校を卒業すると福岡市で割烹店を構える叔母を頼り、板場修業を開始。

3年後には、花板を志し名古屋の料亭へ。

ここでやがて伴侶となる米沢出身の仲居ミサヲさんに一目惚れ。

23歳で一旦郷里の半田へと戻り、料理旅館の板場で更に腕を磨き続けた。

それから2年後の昭和44(1969)年。

25歳でミサヲさんを嫁に迎え、料理旅館を辞して独り立ち。

「まぁ、自分の腕試しも兼ねた流れ板だって」。

だが2年後、父が体調を崩し急遽家業を継ぐことに。

それを機に「丸信」の屋号に、いつも人の輪の芯となる店でありたいと「円芯」の字を当てた。

「ちょうど長男が生まれた年やったって。当時は店に来る客って言ったら、みんな親父の客だわ。やれ『ラーメンくれ』だとか、中にはご飯持って来て『おかずだけくれ』ってな客ばっかり」。

料亭で修業を積んだ明洋さんの心は、大衆食堂と高級料亭との客筋の狭間に揺れ続けた。

「親父の客から俺の客に、完全に入れ替わるまで5年はかかったって」。

その後は出世魚のように店を広げ、平成13(2001)年に現在地へ。

名代の鰯味噌は、明洋さんと長男の二人がかりで一日おきに6㌔を仕上げる。

まず赤味噌、ニンニク、鰯のすり身に葱と生姜を混ぜ合わせ、鍋で弱火に掛けながら焦げ付かせぬよう約1時間手練りを繰り返し、秘伝の調味料を配合し定番の味を引き出す。

「最初の頃は配分がわからんもんで、定番の味に仕上げるまでに一ヶ月かかったって。素材が持つ旨味の足し算じゃ無く、どうやったらそれが掛け算になるかが決めてだわ」。

大衆魚の鰯は、板前の確かな舌と技で、見事な逸品へと生まれ変わった。

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クイズ!2020.11.10「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これはちょっと難しいと思います。

難しさのメインは、手前の白い団子状の物体です。

郡上からお送りいただいた、秋の味覚の〇○をフードプロセッサーでペースト状にして、あのイタリア~ンな「〇〇。〇」風にして見たものの、ご覧の通りの有様です。

しかし食感の弾力は今一だったものの、それなりに美味しくいただけました。

さてさて、今回の残り物クッキングとは???

皆々様からの、想像を逞しく巡らせたご回答をお待ちいたしております。

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「お休みいたしま~す!」

今夜10時の予定でアップする「火曜の深夜ブログ」ですが、諸事情により明日か明後日の午後10時とさせていただきます。

誠に申し訳ございません。

ただし、コロナやインフルエンザではございません。

明日か、明後日か、明々後日までには、ご覧いただけると思います。

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「天職一芸~あの日のPoem 263」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「自転車預り所」。(平成二十年一月八日毎日新聞掲載)

一本線のセラーに チェックのマフラー白い息          踏み切り越えてチリリンと 路地を彼女が行過ぎる        駐輪場の定位置に 彼女を見つけ大急ぎ

「おはよ。今日も一緒だね」 毎朝偶然装った

三重県伊勢市の自転車預かり所、小島美智子さんを訪ねた。

写真は参考

「おばちゃん、おおきに。さいなら~っ」。セーラー服姿の女学生が自転車に跨る。

「女の子同士でちゃんと連れ添うて帰るんやよ」。

三重県伊勢市駅にほど近い、旧道に面した一角の夕暮れ。

高校生たちは思い思いに挨拶の言葉を残し、自転車預かり所を後に家路へと向かう。

「家で買(こ)うてくれた子らの自転車だけを預かっとんさ」。美智子さんは、土間に突き出した座敷で笑った。

「学生さんは朝と夕方しか、自転車出し入れしませんやろ。一般の人らやってみい、ず~っと店番せんならんでかなんわ。それにあたしもいつ出掛けるかわからんでな」。

美智子さんは大正14(1925)年、下駄職人の家に誕生。

「父は亡くなった皇后様に、お履物を献上したほどの腕前やったんさ」。

やがて後の大妻女子大学を卒業し、戦後間もない国民学校で教鞭を執った。

昭和24(1949)年、親類の紹介で自転車店を営む小島家に嫁ぎ三男をもうけた。

「戦後間もない頃のこの辺りは、空襲で焼け野原やったんさ。ほやからして今じゃあこんなボロ家ですが、当事は周りから御殿と言われたもんやで」。

写真は参考

夫は自転車販売と修理に明け暮れ、美智子さんは店の奥で「小島塾」を開き家計を支え続けた。

「自分の子どもを姑に預けといてなぁ」。

その後40年に渡って小島塾は、地域の子ども達を見守り続けた。

「今の子らは気の毒やさ。私らはテスト出すにしても100点取れるように考えたもんさ。でも今はどう足掻いても100点なんてとれやん。それでは子ども等が自信を失くすばっかやさ。それが満点取れてみぃ、やれば出来るって自信が付いて、ほやったらもっと頑張ったろかってなるやろ」。

一番生徒の多い時は、一度に17人を数えたほど。

平成11(1999)年、夫が他界。

「『敗戦で捕虜になって一旦死んだはずが、命貰って還って来たんやで』が夫の口癖。黙ってポケットん中にお小遣い入れといたると、いつの間にかあれしませんのさ。近所の子らにせっせとお小遣いやって歩いて。あたしにはブラウス一枚も買(こ)うてくれやんだに」。

美智子さんは土間の片隅に片付けられたままの、修理道具を見つめた。

夫の死後、自転車販売と修理業は廃業。

その後、自転車預かりへ。

「あたしらの年金だけでは、税金さえも払ろてけやんで、子供らの自転車預かったお金を足しにせやんと」。

入り口の引き戸が開き、女子高生が引っ切り無しに訪れる。

「おばちゃん、おおきになぁ。また明日」。

口々にそう言って、冬の黄昏に染まって行く。

「時折りあの子らの籠ん中へ、俳句捻って入れといたるんやさ」。

どんな句が詠まれているかと問うと、「あかん、それは秘密やわ」。

82歳の才女は笑い飛ばした。

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「天職一芸~あの日のPoem 262」

今日の「天職人」は、岐阜市長住町の「ホルモン屋女将」。(平成十九年十二月二十五日毎日新聞掲載)

色付く街に賛美歌と 恋人たちのはしゃぎ声           あんな時代もあったなと ネクタイ緩めコップ酒         レバーにネギマ ホルモンと 上司の愚痴をアテにして      酒を煽って憂さ晴らし オヤジ二人のクリスマス

岐阜市長住町のホルモン水谷本店。二代目女将の水谷信子さんを訪ねた。

「おお~い、酒二杯に串三本やで勘定おいとくわ」。

夜も更けた光景かと思いきや、まだ昼下がりの午後二時半だ。

名鉄岐阜駅を西に入ったビルの谷間。

歩道に突き出した煙突からは、炭火に爆ぜる美味そうな肉汁の香りが漂う。

歩道をゆけば、ついつい袖を引かれそうになるのが人情。

それが証拠にこんな真昼間から、店内はもう鈴鳴り状態。

店から溢れ出した客用に、ビールケースに板を載せた簡易テーブルが組み立てられ、客も手慣れた様子で丸椅子を運び出し、歩道脇に陣取ってコップ酒を煽る。

「家の名物は何てったって、厚切りレバーやて」。信子さんが、串盛りを差し出した。

「まあお茶菓子代りに食べてみたって」。

確かに串に刺さったレバーの厚みは、2㌢近くもある。

まるで学校給食に添えられていた、三角形のチーズ大の大きさで、おまけに惜しげもなく一串に二切れという大胆さ。

これで一本百円とは、鈴鳴り人気にも合点がいく。

信子さんは昭和18(1943)年、一文菓子屋を営む後藤家に誕生。

中学を出ると化粧品屋に勤務し、看板娘として販売を担当した。

ちょうど娘盛りの20歳を迎える頃の事だ。

「練炭屋に夫を紹介されたんやて」。信子さんは心なしか照れ臭げだ。

「旅館をやってた叔母が『下見してきたるわ』って、この店にこっそりやって来て夫の品定めやて。それで『三郎さんなら間違いない』って、太鼓判押すもんやで」。

昭和38(1963)年、水谷家の二代目三郎さんに嫁ぎ、二女を授かった。

「当時も店はてんてこ舞い。だから娘二人は住み込みのオバサンに任せっぱなし」。

高度経済成長期を支えた男たちは、ホルモン屋でまずは景気を付け、ネオン瞬く柳ヶ瀬へと繰り出していった。

「よう明治気質の義父から教わったもんやて。『飲み過ぎた人に売っちゃいかん』って。だから今でもそれは肝に銘じとるんやわ」。

平成12(2000)年、夫が他界。

「もう二代限りで終わりにしようかって思っとったんやて。そしたら娘婿が、『俺が会社辞めて継ぐ』って涙浮かべて言ってくれたんやわ」。

信子さんは言葉を詰まらせながら、誇らしそうに焼き場の娘婿を見つめた。

「わしなんか忘れたくらい昔から、ほとんど毎日通っとるって。値上がりせんし、隠居の身には助かるんやて。だから勘定も自己申告みたいなもんやって」。

帰り際に常連客の老人が笑い飛ばした。

思い思いの客がそれぞれの人生を引っ提げ、小さな丸椅子に腰かけ赤ら顔で串を頬張る。

ここでは会社の看板や、身分の上下など一切通用しない。

だからこの店が大人たちの止まり木であり、楽園であり続けるのだ。

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11/03の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「残り物の残り物!イタリア~んな広島焼き擬きのモダン焼き~アラビアータソース添え」

皆々様には、大変あれやこれやとお考えを巡らせてしまいましたが、実はなぁ~んてぇこたぁありません!

先週の「きんぴらごぼうのクリームパスタ」が残ってしまい、そいつを更に一捻りしただけの、なんともお粗末極まりない、超超手抜きな残り物のこれまた残り物クッキングでございます。

まずは、残っていたきんぴらごぼうのクリームパスタをボールに移し、そこにとろけるチーズと生クリームを加え、フライパンで軽く炒めておきます。

次にフライパンに油をひき、小麦粉、玉子、生クリームを混ぜたお好み焼きの皮の上に、フライパンで炒めたきんぴらごぼうのクリームパスタを、広島焼きの焼きそばのように乗せ、再び混ぜた小麦粉、玉子、生クリームを上から被せ、ひっくり返して焼き上げ、最後に市販のアラビアータソースを彩に添えれば完了。

とんでもなく超手抜きな、残り物の残り物クッキングではありましたが、これがまた妙に後を引く美味しさで、ついついキリン一番搾りをグビグヒと煽ってしまったものです。

まぁ、よくよく考えれば、焼きそばもパスタも麺に変わりはないわけで、見た目はともかくそれなりに中々どうしてな逸品となりました。

悩みに悩み抜かせてしまいましたが、沢山のご回答をお寄せいただき誠にありがとうございました。

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