「天職一芸~あの日のPoem 274」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡の「葉なんばん職人」。(平成20年4月8日毎日新聞掲載) 

徹や踊りで夜も白み 踊り疲れて朝帰り             父は浴衣を肌蹴(はだけ)つつ 片膝立てて湯呑み酒       小鉢に盛った葉なんばん 父は美味そに舌鼓          ちょいとどうやと勧められ 摘(つま)めば口が辛騒ぎ

岐阜県郡上市八幡で幻の味「葉なんばん」を作り続ける時代屋大國(おおくに)。二代目主人の大坪順一さんを訪ねた。

♪郡上のナァ 八幡 出て行く時は ア ソンレンセ♪

後4ヵヶ月もすれば、徹夜踊りでお馴染みの「かわさき」に合わせ、黒塀の昔家並みを背に、浴衣姿の老若男女が八重の輪を作り出す。

岐阜県郡上市八幡で400年以上も続く、幻想的な盆の庶民絵巻だ。

三味と大鼓の音に合わせ、旧街道の小路に下駄がカランコロンと心地よく鳴り響き、吉田川を渡る風が真夏の夜に涼を運ぶ。

「真夏のくそ暑つい日に、炊き立てのご飯に葉なんばんを載せて食べてみい。夏バテなんてイチコロやって」。順一さんは、嗄(しわが)れた声で笑った。

順一さんは昭和3(1928)年、八百屋大國の次男として誕生。

地元の農林学校を経て東京の短大で予科へと進んだ。

「そんでもあかんわ。長男が戦死してまったで」。

郷里へと舞い戻り、終戦後は岐阜県地方事務所の耕地課に職を得た。

公務で各地を巡る毎日。

やがて土建業者の娘との縁談が持ち上がり、昭和25(1950)年にまさゑさんと所帯を構え二男二女を授かった。

統制経済も徐々に緩和され、県職員を辞して八百屋の家業に就いた。

「八百屋は、わしの性分にどうにも合わんのやて。ペコペコするのが嫌いやもんで」。

とは言え、子育ての真っ最中。

順一さんは行く末を思案し続けた。

「その内に料理でも始めたろかなあって思ったんやて。それで調理師免許も取って」。

時は昭和39(1964)年、国立霞ヶ丘陸上競技場に東京五輪の開会を告げるファンファーレが鳴り響いた年だった。

順一さんは出前の結婚披露宴を一手に請け負い、披露宴会場の装飾から料理までの一切を取り仕切った。

子ども達も成長し、出張披露宴料理の仕事もすっかり定着した昭和58(1983)年、喉頭癌が発覚。

2年に及ぶ闘病生活を余儀なくされた。

「葉なんばん作りのきっかけは、年寄りから習った山菜料理や、昔ながらの郷土料理やわ。昔からこの辺の人らは、唐辛子のことを南蛮って呼んどったけど、わしが『葉なんばん』って呼ぶようにしたのは平成に入ってからやて」。

順一さんの葉なんばんは、郡上の清流で育った有機栽培の、辛い中に甘味が宿るなんばん(唐辛子)の葉と実を、そのまま秘伝の製法で煮上げたもの。

当然、添加物や保存料は一切使われていない天然食だ。

毎年郡上の徹夜踊りが終わった8月下旬に、完熟となった八房(やつふさ)唐辛子や赤唐辛子のテンツキ(郡上弁)南蛮を収穫。

一旦冷凍保存し、3日に1度の割合で手作り加工し一品ずつビン詰めを施す。

「長良川と吉田川の清流がもたらしてくれる恵みやで、いつの時代になっても大切にせんとかん」。

葉なんばんの老職人は、軒先の家並みを眺めた。

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「天職一芸~あの日のPoem 273」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「稲荷寿司職人」。(平成20年4月1日毎日新聞掲載)

堤に沿って漫ろ行く 川の字歩く親子連れ            ソメイヨシノの薄紅も 川面彩り春爛漫             土手に風呂敷桟敷席 お重を並べ店開き             子らは堪らず手を伸ばす お稲荷さんと卵焼き

愛知県豊橋市、稲荷寿司弁当一筋の合資会社壷屋弁当部。六代目店主の松尾浩志さんを訪ねた。

♪汽笛一聲新橋を♪

ご存知鉄道唱歌の一節だ。

明治33(1900)年発表のこの曲は、新橋を出発する1番から始まり全66番にも及ぶ。

その30番目

♪豐橋おりて乗る汽車は これぞ豐川稲荷道  東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡♪ とあり、東三河の地名が歌い込まれている。

浩志さんは、時代がかった包装紙の稲荷寿司を差し出した。

「稲荷寿司の発祥は諸説ありますが、豊川稲荷の門前で天保の大飢饉に考案されたものとか。今はありませんが、家は壷屋旅館の弁当部として、明治21(1888)年の豊橋駅開業の翌年に創業したんですわ」。

誰もが必ず口にする庶民の味。

煮詰めた油揚げに酢飯という、素朴さゆえに下手な誤魔化しなど通用しない。

浩志さんは昭和38(1963)年に、長男として誕生。

東京の大学を卒業すると、横浜の大手百貨店で外商の仕事に就いた。

「やがては家の仕事に戻らんといかんし、父から他所でしばらく勉強してこいって言われとったもんで」。

しかし平成3(1991)年、父が癌を発病。

「もういくらも長くないと言われ、横浜の会社に辞表出して戻ったら、その途端に父が亡くなりましたわ」。

先代から仕える番頭や使用人に支えられ、六代目を引き継いだ。

それから3年。

知人の紹介で半田市出身の幸代さんと結婚。

一男一女を授かり、家業に励んだ。

100年以上の名代の逸品、壷屋の稲荷寿司は、甘辛の濃い口味に煮上げた油揚げが特徴。

まず油揚げを俵型になるよう半分に切り、20~30分お湯炊きし油分を抜く。

次に醤油、白砂糖、ザラメでタレを作り、甘辛の濃い口味が染み渡るよう1時間以上コトコトと煮上げる。

それにちょっと酢っぱめに調味した酢飯を入れ、俵型に握れば完成。

一折に7つの稲荷寿司が、片側に4個、そしてもう片側には3個。

いずれも右肩下がりに並べられ、時代が偲ばれる包装紙に包まれる。

「なんでお稲荷さんを斜めに並べて入れてるかって?なんでやったやろ?そう言えば、斜めに入れてあると、キツネの顔に見えるとかなんとか言うとった気もするしなぁ」。

浩志さんは照れ笑いを浮かべた。

週末ともなれば、3000折も製造する忙しさ。

「だいたい米4升炊いて50折ですから、えーっと全部で、24斗ぐらいですか」。

その途方も無い数の稲荷寿司は、すべて人の手によって握られる。

「たまにお客様からお小言を頂戴するんです。油揚げの味がどうやったとか、こうやったとか。でもそれは、家の味を覚えてくださっとるんやでって、逆に皆で励みにさせてもらってます」。

豊橋駅のホームに発車のベルが鳴り響いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 272」

今日の「天職人」は、津市大門の「蜂蜜まん職人」。(平成20年3月25日毎日新聞掲載)

今日は臍繰(へそく)り叩き出し 何ぞどこぞで買うたろと    妹連れて駆け出した 蜂蜜まんの店先へ             二つ手にして一目散 町の外れの蓮華畑             野辺の花見と洒落込めど 餡の香りに蜂が寄る

津市大門、蜂蜜まん本舗。三代目蜂蜜まん職人の水谷栄希さんを訪ねた。

「子供の頃は、よう友達に『誕生プレゼントに蜂蜜まんな』ってせがまれて。お陰で友達には恵まれたけど」。栄希さんは、引っ切り無しに訪れる客を目で追った。

蜂蜜まん本舗は、昭和28(1953)年に祖父が創業。

「曽祖父が松阪で養蜂園を営んでいた関係で、伊勢のパンじゅうをヒントに蜂蜜を加えたのが始まりなんやさ」。

栄希さんは昭和48(1973)年、一人息子として誕生。

「母は長女でして、それで婿を取ってぼくを産んだんです。でもピアノの講師の仕事を持っとったもんで、何かと忙しく子育ては祖父母にまかせっきり。だからほとんど小中学校へは、祖父母の店から登下校してましたんさ」。

やがれ両親が離婚。

栄希さんは関東の大学へと進学し、外食系の企業に就職した。

「祖父から『3年間は外で飯食うてこい』って言われたもんやで」。

ところが入社から半年、祖父が体調を崩し急遽店を閉める事に。

「様子見に帰って来たら、暢気なことゆうとる場合じゃありませんて。閉まった店の前で、お客さんが『いつ開くんやろう』って、仰山並んでしもて。それで会社を辞める準備で東京に戻ったんです。そしたら祖父の病状が急変。家へ帰った途端に、危篤状態ですわ」。

孫の到着を見届けるように、祖父は息を引き取った。

「大学時代の4年間、夏休みと冬休みに祖父からミッチリ教え込まれとったから、何とか見よう見真似で」。

俄仕立ての職人の交代劇。

しかし蜂蜜まんをこよなく愛する客は、店の前に列を成し、時には苦言を呈しながら若旦那の行く末を支え続けた。

平成17(2005)年、友人の紹介で優子さんと結婚。

「ありがとうございました」。店頭から優子さんの明るく元気な声が響き渡った。

「家は今でも経木(きょうぎ)に包むんです。せっかくの焼き立てが、汗をかいてパリッとした食感が失せてもうたらかなんで」。

今も昔も変わらぬ、庶民の味蜂蜜まんは、毎朝7時から漉(こ)し餡を炊き上げることに始まる。

そして小麦粉・卵・水に秘伝の隠し味を添え、生地を練り上げる。

後は丸く窪(くぼ)んだ鉄板に生地を流し込み、餡を添え生地で包み込むように焼き上げれば出来上がり。

「生地を練り込む時の気泡が、大き過ぎても小さ過ぎてもあかんのさ。頃良い大きさの気泡やと、パッと膨らんで食感もパリッと焼き上がるもんなんやさ」。

10月の祭の時期には、一日で10,000個の売れ行きとか。

「メッチャ忙して、昼飯もろくすっぽ食べれやんだ時なんか、お腹空いてこっそり摘み食いしたるんさ。そんな時、心底美味いなぁって我ながら惚れ惚れすんやさ」。

庶民が愛する逸品は、作り手も庶民であったればこそ生み出せるに違いない。

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「天職一芸~あの日のPoem 271」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃加茂市の「ポッポ屋」。(平成20年3月18日掲載)

白い蒸気を吹き流し 機関車は行く奥飛騨へ           蓬に土筆川堤 春摘む子らが手を振った

ここらで昼にしましょうと 母がお結び広げたら        「トンネル近い窓下ろせ」 車掌の声に大慌て

岐阜県美濃加茂市。長良川鉄道のポッポ屋、纐纈文雄さんを訪ねた。

写真は参考

「ブレーキは生き物やで。まず試しブレーキ掛けて、列車の癖を見抜かんと。昔のSLやと蒸気上がりの顔があって、機関士は番号で覚えとったもんやて。『あっ、今日はC‐58の208や。こいつはあかんぞ』ってな調子で」。文雄さんは駅の事務室から、今着いたばかりの列車を見つめ懐かしそうにつぶやいた。

文雄さんは昭和19(1944)年、同県八百津町の農家に次男坊として誕生。

高校卒業と同時に国鉄に入社し、美濃太田機関区へと配属された。

「毎日、機関車のボディーや車輪の掃除ばっかやて。手元にボロ布(ぎれ)巻いて、煤や油汚れを拭き取るんやわ。それが終わると今度は、蒸気を立ち上げる点火作業。これがまた石炭になっかなか火が点かんのやて。古い枕木に煤で真っ黒になったボロ布巻いて、それを種火にして」。遠くの山並みを見つめながら、若き日を振り返った。

翌昭和39(1964)年、愛知県稲沢市の第一機関区に転勤。

機関助手としての乗務が始まった。

「主な仕事は石炭の補充と管理。蒸気の加減弁引いてブレーキかけると、蒸気が一斉に噴出してまうもんやで、今度はまた蒸気の圧力を高めとかないかん。そんだでまた、せっせと石炭くべて罐焚きやわ」。

岐阜から高山までの区間で、約2㌧の石炭が焚かれた。

昭和41(1966)年には再び美濃太田機関区へ。

生まれ育った故郷の町並みに、蒸気を燻(くゆ)らせながら乗務に励んだ。

「昔は12両くらい連結して運行しとったんやて。1両が約30㌧やで、総重量360㌧やわ。だからブレーキの込め具合が肝心。駅の進入時までに速度を50㌔に減速し、ブレーキに空気圧を込め直して、ホームに入ってもう一回ブレーキ掛けるんやで。だからカーブや勾配のある場所を、線路図丸ごと頭ん中へ叩き込んで、身体に教え込むんやて」。

写真は参考

ブレーキのタイミングは、空気圧の残量を頭に描き、腰から背で車両の重さを感じながら、効き具合を加減する。

昭和44(1969)年、SLからディーゼル機関車へ。

「ディーゼルの助手は、蒸気と違って何にもすることないんやて。たまに指差し確認するくらいで。一番重要な仕事は、タブレットという安全確認の通票の管理やわ」。

昭和47(1972)年、国鉄仲間とのキャンプで知り合った桃子さんと結ばれ、一男一女に恵まれた。

「今で言う合コンやて。俺が道化役で、二人のキューピッドやわ」。

同期入社の運転士、土屋三彦さんがお茶を入れながら笑いこけた。

その後昭和62(1987)年、国鉄の民営化で長良川鉄道に出向。

60歳でJRを退職しそのまま長良川鉄道に入社。

写真は参考

現在も現役を貫き通す。

「親父の代からポッポ屋。こいつも俺も未だ現役、同期のポッポ屋やわ」と、土屋さん。

ポッポ屋二人の笑い声に、汽車を待つ乗客が振り向いた。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 8話」

「慌て者の台風補強」 2011年9月22日(オカダミノル著)

 台風が接近する度、父の姿が浮かぶ。

ステテコと鯉口シャツに腹巻。

ずぶ濡れになり、窓は雨戸の上から、玄関には戸板を宛がい、胴縁を打ち付けた。

ある大型台風の襲来前夜。

父は慌てて勤め先から駆け戻り、大工道具を片手に補強を始めた。

母は停電になる前に夕餉を終えようと、これまた大わらわ。

当然ぼくにも、そのお鉢が回って来た。

電気が止まるまでに、宿題を済ませろと。

どうせ明日は警報が出て、休校に決まっているのに。

だが、そんなことを口にしようものなら、「この不心得者!」と、たちどころにどやされるのがオチ。

そんな打算も働き、空返事を返したものだ。

トンカン トンカン

それにしても父の補修は念入りだった。

さぞや大きな台風だろうか?

そのうち、勝手口を外から打ち付ける音まで聞こえ始めた。

「ちょっと、そんなとこまで釘付けにしてまったら、私ら缶詰状態やがね」と、母が声を荒げる。

しかし、荒れ狂う風の音に遮られ、父の耳には届かぬようだ。

「それはそうと、お父ちゃんどっから入って来るつもりやろ?」。

母と顔を見合わせ訝しんでいると、「しもたあ!」と外から父の大声。

せっかく打ち付けた補強材まで、慌てて引っぺがし濡れ鼠で駆け込んで来た。

そこまで両親が、台風に神経を尖らせたのには訳がある。

あの伊勢湾台風で被災し、生と死の淵を一家で彷徨ったからだ。

あに図らんや翌日は、台風一過の日本晴れ。

朝から異様に飼い犬が吠える。

それもそのはず、戸板で塞がれた小屋の中で、腹を空かせ七転八倒していたのだから。

先日、両親と共に伊勢湾台風に遭い、命からがら逃げ惑ったという、アパートの辺りを車で通ったことがありました。

もう既に、当時の町名だったとうっすら記憶している「南区江戸町」と言う地名も存在しておらず、仮に伊勢湾台風で被災せず、そのままそのアパート暮らしだったとしたら、ぼくが通ったはずと言われていた「明治小学校」の校舎を見つけることは出来ました。

恐らくその辺りに遠い親類が営んだアパートはあったのでしょう。

なんせ60年近くも前の、遠い遠い昔の事。

どんなに車から眺めて見ても、生を受けた町の記憶は一向に蘇らなかったものです。

そう言えば非常に不鮮明ながら、小間切れの記憶があります。

それは暑い夏の宵。

恐らく断片的な記憶がまだあるってぇことは、伊勢湾台風に被災した後の、ぼくが3歳か4歳の頃の事ではないでしょうか?

昔々の古い内田橋の欄干の上。

両親に手を引かれ、宵祭の熱田花火を眺めていた、そんな記憶です。

とは言え、混雑を極める内田橋の欄干ですから、ちっちゃなぼくは父の肩車だったかも知れません。

その日初めて、ソフトクリームを買って貰って、口の周りをベットベトにしながら、頬張り付いていた・・・ような!

その記憶は、両親と連れ立って花火を眺めたというよりも、初めて食べさせて貰った、得も言われぬ美味しさのソフトクリームの記憶だったのやも知れません(汗)

やっぱり食い物の魅惑にゃ勝てねぇ、そんな貧しき昭和の記憶です。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、これまた逸品とは異なり季節外れではありますが「子どもの頃の台風の思い出」。

ぼくもご多分に漏れず、「タイフウイッカ」を「台風一家」と勘違いし、何人兄弟でやって来るんだろうと、真顔でお母ちゃんに問い、ポカンとされた口です。

皆々様は子どもの頃、台風に関しどんな思い出がおありですか?

皆々様の思い出話をお聞かせください。

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クイズ!2020.11.17「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これは本当にこれでもかっ!ってなほど究極の、随分前の残り物と前日の残り物を組み合わせただけの、超手抜きな作品です。

刻んだ紅ショウガでも散らせば、もっと美味しくいただけたことでしょうに、それと彩ももっと鮮やかになったのにと、悔やまれてなりません!

今回のヒントはそれくらいですかねぇ。

でも観察眼の鋭い皆々様には、すっかりお見通しかも知れません。

皆々様からのご回答をお待ちしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 270」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「石版刷師」。(平成20年3月11日毎日新聞掲載)

今日の煮物はさつま芋 何だか嫌な予感した           父は箸止め芋睨み 「誰やオバQ彫ったんわ」          図工で習(なろ)た芋版画 復習しよと見渡せば         輪切りの芋がまな板に 彫刻等で腕試し

愛知県岡崎市、石版刷師(すりし)の深見充彦さんを訪ねた。

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「毎日仕事で一歩も外出んと、籠の鳥の状態ですわ」。充彦さんは、伏し目がちにこっそり笑った。

充彦さんは昭和33(1958)年、農家の長男として誕生。

大学院では美術を専攻した。

「普通なら美術の教師だったんですがねぇ」。

在学中、仏具の蒔絵を研究する同級生の女性に紹介され、碧南市の石板画作家を訪ねた。

「リトグラフの技法に興味がわいて、どんなものかと通い始めたんです。そこにはどうしたわけか、自然と詩人や作家、それに絵描きなんかが集まって来て。彼らとの人の輪が何より楽しくて。大学行かんと碧南通っとったくらいですわ」。

大学院を修了すると、長野県坂城町の刷師の下へと修業に入った。

昭和59(1984)年、同級生で蒔絵の研究を志していた由美子さんと結婚し、長野で新婚生活へ。

昭和61(1986)年、4年の修業を終え、長女の誕生を間近に控え岡崎の実家へと引き揚げた。

「最初は14畳ほどの農機具小屋にプレス機一台置いてのスタートでした。それも印刷屋のお下がりの石版刷機で」。

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今は立派に立て替えられた工房の一角を、懐かしそうに眺めながらそうつぶやいた。

だが所詮、無名の刷師。

仕事が勝手に舞い込むはずはない。

「仲間が回してくれるわずか数万円の仕事がやっと。不得手な営業しに名古屋の画廊を回ったもんだって。でも信用も実績も無いから、作品を見せろって言われるのがオチ」。

そんな努力が報われるような、大口の仕事が3ヵ月後に飛び込んで来た。

「150万円の大仕事でした。あんまりにも力入れすぎて、完成までに半年も掛かって。その分何回もやり直して、材料費も馬鹿にならず結局赤字でしたけど」。

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充彦さんは創業時を懐かしそうに振り返った。

翌昭和62(1987)年、夫婦は乳飲み子の長女を伴い渡米。

ニューメキシコ州のタマリンド・インスティチュート(石版画研究所)で、本格的な石版を学び己に自信を付けようと。

「『英語なんてしゃべれんでも、技術に言葉はいらん!』って強がって。親との同居も嫌だったし、それほど大変だなんて思わんと。若かったから、もう『矢でも鉄砲でも持って来い』って感じで」。

刷師の仕事はまず、原画に透明のフィルムを当てトレースし、輪郭線を石灰石や大理石の原版に写し取る作業に始まる。

次に描画材で輪郭線の内側に描画を施す。

写真は参考

この原版作りは、原画の色の数だけ繰り返される。

通常でも30~40版は必要だ。

その後ハンドローラーに原画と違わぬ色を載せ、原版に刷り合わせプレス機にかける。

今やコンピューターで色分解の時代。

「でもやっぱり微妙な色の濃淡は、作家の癖を読み取って職人の勘で表現せんと」。

微妙と絶妙の差は、職人の色加減一つに委ねられる。

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「天職一芸~あの日のPoem 269」

今日の「天職人」は、岐阜市八ツ寺町の「高等ライス職人」。(平成20年2月26日毎日新聞掲載)

明治生まれの爺ちゃんは 着物姿にパナマ帽           雨も降らぬに蝙蝠(こうもり)を コツコツ鳴らし町を行く

「馳走したろ」と洋食屋  おい」と爺ちゃん手を上げりゃ     オヤジも「ヘイッ」とうなづいて 高等ライスお目通り

岐阜市八ツ寺町の三河亭、四代目主人の中島稔さんを訪ねた。

何とも不思議な商品名の「高等ライス」。

米の等級を示すものなのではない。

無論、高等学校の給食に端を発したものでもない。

列記とした明治生まれの由緒ある商品だ。

白い丼に炊き立てご飯。

その上に自慢のカレーが盛られ、最上段に目玉焼きを冠した不思議な逸品。

「家は明治27(1894)年に、愛知県豊橋市出身の初代が創業したんやけど、当事のカレーと言えばちょっとした高級品。だけど『高級ライス』じゃ何や可笑しいし、挙句に思い付いたのが『高等ライス』だったんやて」。稔さんは、悪戯っ子のように笑った。

稔さんは同市でスポーツ用品店を営む森田家の三男坊として、昭和26(1951)年に誕生。

高校を卒業すると大阪へ出て、スポーツ用品の卸問屋に勤務した。

「一人暮らしで自炊の毎日やったわ」。

26歳の年に名古屋支店に転勤。

しかしその2年後、母が病に倒れ家業を手伝うため会社を辞した。

「ある時、ここの三河亭と付き合いのある客が、スキー用品を探しに来とって、そんなご縁で家内と見合いする話しになったんやて」。

見合いが終わると婿入りを前提に、三河亭で見習いを始め調理師免許を取得した。

昭和55(1980)年に中島家に婿入りし、一人娘の京子さんと結婚。

一男一女を授かった。

「30歳までに結婚せなかんと思って、切羽つまっとったで」。稔さんは照れ臭げだ。

「三代目は妻の父なんやけど、妻が7歳の時に若くして亡くなってまっとったんやわ。だで私は二代目の祖父に教え込まれたんやて」。

店の客は誰もが、新参者の稔さんより、遥かに三河亭の味に肥えた手練(てだ)ればかり。

「何しろあっち向いてもこっち向いても、先輩のお客さんばっかなんやって。お客さんの最高齢は90歳で、郡上から年に2~3回見えるんやけど、そのお歳でタンシチューを一度に二人前ペロッと召し上がるんやで」。

代々主人が自らの舌に叩き込んだ歴代の味。

少しでも異なれば、通い詰めた客にたちまち見破られる。

名代の逸品「高等ライス」は、小麦粉をオーブンで炒って何ヵ月も寝かし保存することに始まる。

炒って熟成させた小麦粉を取り出し、スープを加え肉や野菜と共に一時間ほど煮上げる。

そうして手間隙かけて仕込み上げた秘伝のカレーを丼飯の上に盛り付け、最上段に目玉焼きを載せれば114年前と寸分違わぬ高等ライスが完成する。

「ご年配の人にも贔屓にしていただき、お出掛けの時なんか、わざわざ寄ってくださり、家のカツサンド持ってかれるほどやて。まったくありがたい話しやわ」。

「育ての親は客だ」と言い切り、家伝の味を護り抜く。

天晴れ高等ライス職人。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 7話」~「生Liveはお休みです」

「呪文は『御馳走(ごっつお)』」2011年8月25日(オカダミノル著)

「今日は御馳走(ごっつお)やな」。

両手を合わせ、親指と人差し指の付け根に箸を押し戴き、父は必ずそう呟いた。

たとえメザシ一匹に、漬け物だけであったにせよ。

思えば一度たりと父は、飯が不味いと母を詰ったことなどなかった。

敗戦直後捕虜として、極限状態の飢えに喘ぎ、命からがら引き揚げたからか。

一方母は、父が額に汗し稼いだ薄給を、一円たりと無駄にすまいと、家計の遣り繰り算段に、知恵を巡らせた。

親子三人貧しくも、人並みに笑って暮らせるようにと。

その慣れの果てに誕生したのが、昼の我が家の定番、残り物丼である。

前夜の残り物を組み合わせた、母の苦肉の一策だ。

「さあ昼やで」。

丼飯の上には、解説不能な料理がテンコ盛り。

前の晩のシュウマイにキンピラ牛蒡、キャベツのトマトケチャップ炒め。

それが一堂に会し、溶き卵を加え油で炒めたものだ。

料理と呼ぶのも憚られる、不思議な出来栄え。

しかしそんなことはお構いなしに、空っぽの胃袋が悲鳴を上げる。

ぼくは父の口癖を真似、「御馳走(ごっつお)や」と念じて頬張った。

「…うっ?旨い!」。

キンピラの甘辛さとケチャップの甘酸っぱさに、シュウマイと溶き卵が絡み、微妙な旨味を引き出している。

見た目とは裏腹な旨さに舌を巻き、今度また作って欲しいと母にせがんだ。

すると「そんなもん残り物やで、二度と同じになんか出来るかいな」と。

「御馳走(ごっつお)や」。

父の呪文に教えられた。

倹しい食事でも、家族で囲むことこそが、何より贅沢な旨味の決め手だと。

*思えばこれが、ぼくの残り物クッキングの原点だったのかも知れません!

わが家のお母ちゃんの作ってくれたご馳走は、数限りがありません。と言っても、なにもハイカラな西洋料理なんぞ、これっぽっちもあるわけではありませんが・・・。

「今日は洋食やで!」とお母ちゃんが、得意げに宣う日は、挽肉がどこにあるかと探さなければ巡り合えないような、大皿に山盛りのコロッケだったり。

わが家は後にも先にも、両親とぼくのたったの三人こっきりですから、とても一晩で平らげる事なんぞ至難の業。

そんなことは言わずとも母は分かっていたはずだと思いますが、コロッケに限らず天婦羅などの揚げ物にしても、煮っ転がしなどの煮物にしても、一事が万事そんな塩梅だったのです。

子どもの頃からそれがずっと、どうやら気に掛かっていたのでしょう。

ぼくの結婚式の前夜、すっかりコップ1~2杯のビールで出来上がり、風呂に入って先に寝入ってしまった父の寝息をBGM代わりに、ぼくはすっかり眼が冴えてしまい寝付けぬまま、手酌でビールを煽っていると母が、「あてでも作ってやろうか?」と。

作ってくれたのは、「イカの鉄砲焼き」なんぞと母が称していた、剣先イカを溶かしバターと醤油で焼いたぼくの好物でした。

そして母と差し向かいで、過ぎし日の思い出の数々を語り合ったものです。

その途中で、ぼくが子どもの頃から気に掛かっていた、何でもかでも一皿に山盛りのおかずの話になったように記憶しております。

すると母は何の衒いも無く「あの頃は、沢山沢山、山盛りい~っぱい作れるのが、お母ちゃんの幸せやったんや」と。

戦中戦後と、まだ幼い食べ盛りの、いつもいつも腹を空かせてばかりの腹違いの弟二人に、思う存分食べさせてやりたかった、そんな思いがお父ちゃんとぼくに毎度振舞った、てんこ盛りのおかずだったそうです。

*毎週火曜日の生Liveですが、このところどうしたわけか、さっぱりやる気がわかず、ギターを手にして唄うのが、正直億劫なほど怠けモードが全開となってしまっております。

そこでしばらく、生Liveだけは「どうしてもどうしても、唄いたくって仕方ない!」と、そんな気分になるまでしばしの間、お休みを頂戴しようと思います。

しかし火曜の夜の「昭和を偲ぶ徒然文庫」は、アップさせていただこうと思っております。

甚だ勝手ながら、どうかご勘如くださいませ。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、これまた逸品とは異なりそうですが「お母ちゃんが作ってくれた昭和のおご馳走」。

皆様が愛して止まなかった、皆様のお母様は、どんなご馳走を作ってくださいましたか?

皆々様からの思い出話をお聞かせください。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

11/10の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「なぁ~んちゃって里芋ニョッキ~茄子とチキンのクリームトマトソース添え」

朝締めのチキンのササミをさっと湯通しし、ごま油・ネギ・おろし生姜・ゴマの薬味で、晩酌のお供として大いにいただいた、その残りの湯引きしたササミが残っておりました。

それをバターとニンニクの微塵切りで残ったササミと茄子をソテーし、そこにトマト缶を開け、白ワインと生クリームを加え、コンソメとハーブミックスにブラックペッパーで味を調え、最後にとろけるチーズを加えて一煮立ちさせておきます。

次に皮を剥いた里芋を、シリコンスチーマーでスチームし、フードプロセッサーで粉砕しホイップして、ボールに移して小麦粉を適量加え、団子状にして沸騰した湯で茹で上げて皿に盛り付け、トマトソースを注ぎ入れれば完了。

里芋のとっても口当たりの良い、見た目は歪ながらも、不格好でちょっと柔らかな、なぁ~んちゃってニョッキとなりました。

これまた白ワインにはピッタリな、イタリア~ンなランチとなりました。

今回もまたまた観察眼の鋭い皆様の、ニアピン続出となりました。

ありがとうございました。

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