「近江商人発祥地の日野町紀行②」

ご覧あれ!

マンホールの蓋まで、在りし日の近江商人の意匠です。

こんな静かな佇まいの街並みに癒されてなりません。

塀の脇からひょっこりと、お父ちゃんやお母ちゃんが現れそうで!

何ともこの鄙びた感が最高です!蔵を改造したカフェでエスプレッソなんて、どうにも洒落てますよねぇ。まぁ、もっともぼくは、キリン一番搾りの方がいいんですが!

これまた愛嬌たっぷりな置物が!

あてもなく漫ろ歩くには、本当に持って来いの古(いにしえ)の町でした。

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「近江商人発祥地の日野町紀行①」

ここは、9月下旬にフラッと訪ねた、近江商人発祥の地の一つ、日野町です。

さっそくご覧のような、元禄14年創業の「萬病感應丸(まんびょうかんのうがん)正野 玄三(しょうの げんぞう)」の看板に目を奪われ、吸い込まれるように店内へ!

すると何と何と!

ここが店内で、近江商人発祥の地の一つ、日野町の観光案内所でした。

こんなしっとりとした、佇まいの一角にありました。

コロナの影響もあり、閑散としていて、ぼくにとっては何より最高の場所でした。

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「Go to 近江牛!って、近江牛ホルモンですが!②」

こちらが堂々たる、近江ホルモンです。しかも一人前480円と、庶民の味方です!

ぼくはホルモンが好きで、焼き肉屋さんへ行くと必ず所望いたしますが、この近江ホルモンほど美味しいホルモンに出逢えたことはありませんでした。

ですから、9月下旬にこのお店のお迎えのホテルに2泊した時も、2日続けてこちらのお店を訪れ、したたかに近江ホルモンの味に酔いしれました。

さすがに2日続けてお邪魔したので、大将ともお話しすることが出来、近江ホルモンの美味しさの秘密を教えていただきました。

それは独自のルートで、冷凍保存されていない生のままの近江牛のホルモンを仕入れられ、それをその日のうちに店で出されるのだとか。

だからとにかくプニョップニョで、口の中に近江牛のまろやかな脂が弾け出すって訳です。

しかもこのお店の品書きの中では、この近江ホルモンが一番お安い品です。

さすがに近江ホルモンを三人前ペロリと平らげ、もう一人前注文しようかと思いながらも、これでは余りに売り上げが増えずに申し訳ないかと、近江牛のハラミを注文した程です。

この近江牛のハラミも柔らかくって、それに赤身と脂のバランスが黄金比で、メッチャクッチャ美味しくって堪りませんでした!

そして口直しには、やっぱりこれ!

大将自家製のキムチでキマリ!

とっても見た目は辛そうに見えますが、よく冷えたこのキムチはまろやかで、ついついまたまたホルモンやハラミに箸が伸びてしまうってものです。

そこで前回9月の湖南三山巡りと、近江ホルモンの味がどうしても忘れられず、誕生日の自分へのご褒美にと、今度は湖東三山巡りを兼ね、近江ホルモンの大将のお店を訪ねたというわけでした。

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「Go to 近江牛!って、近江牛ホルモンですが!」

誕生日のお祝いにと、近江の湖南市にある「近江ホルモン」にお邪魔し、生の近江牛ホルモンとキリン一番搾りをたらふくいただいてまいりました。

と言うのには、ほんのちょっぴり訳があったからです。

実は9月下旬にふと思い立ち、近江商人発祥の地である日野町と、国宝犇めく湖南三山を巡りたいと、Go to を利用してこの近江ホルモンのお店の迎えにある、ビジネスホテルとシティーホテルの狭間に位置付けられそうなホテルに2泊したのです。

もちろんGo to が適用され、非常にお値打ちに泊れました。

そこで晩はどこで一杯やろうかと、ホテルを出て周りを見渡した途端、この看板が目に飛び込み、迷うことなく乗り込んでみたのです。

焼肉店にしては、ご覧のように奇麗な店内で、何処にも焼き肉の脂が飛んでこびりついた形跡もありません。

気をよくしてカウンターに陣取り、さっそくキリン一番搾りを所望したものです。

すると手作りの粋な突き出しと共に供されてまいりました。

とりあえず一気にグラスを空け、手酌しながらおもむろにメニューを眺めます。

ぼくは店名にもある「近江ホルモン」と「近江牛のハラミ」、それに「キムチ」を注文!

するとカウンターにパチパチと炭火が熾った七輪が登場。

続いて何やら浸けだれと薬味が!!!

この浸けだれは、この店の大将が考案されたもので、明石焼きの浸けだれのような感じの物に、お好みで刻み葱、おろしニンニク、コチュジャン?を入れ、焼き立てのお肉をたれに潜らせて、脂を落としていただくというもの。

こんな感じです!

こうすることで、余分な脂っこさが落ち、どんだけでも食べられちゃうと言うスグレモノです。

明日は、近江ホルモンについて、もう少し解説しますね。

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11/17の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!遅ればせながら(汗)

「自家製残り物炒飯と残り物焼きそばの春巻き~クリームソース添え」

随分前に残り物クッキングで登場した、枝豆入りの炒飯の食べきれなかった分が冷凍してありました。

それと前の晩に作った焼きそばの食べ残しもあったため、それらをひとまとめにしてランチにと、チャチャッと手軽に取り組んでみたのが、この「自家製残り物炒飯と残り物焼きそばの春巻き~クリームソース添え」です。

とは言え、実に見事に手抜きな作品です。

まず春巻きの皮で残った焼きそばを包み、油で揚げ普通の春巻きのように仕上げ、レンジでチンした冷凍の残り物炒飯を皿に盛り、小鍋で生クリームを弱火で温め、コンソメと白ワインでお好みの味に仕立て、ブラックペッパーとハーブミックスをパラパラッと振り、皿に注げば完了です。

いずれも残り物ながら、生クリームソースのおかげで見事に生まれ変わり、焼きそば春巻きのパリパリ感が歯触りも良く、キリン一番搾りがグビグビと進んでしまいました。

今回も実に観察眼の鋭い皆様の、ニアピン回答が続出でした!

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 279」

今日の「天職人」は、愛知県吉良町の「浜採り」。(平成20年5月20日毎日新聞掲載)

吉良の白浜夜も白(しら)みゃ 浜採りたちが塩田へ       平(ひら)で砂撒き腰を振る 満ち潮までの一仕事        潮が引いたら天日干し 満鍬(まんぐわ)曳いて砂返す      夏の初めの昼下がり 塩焼き小屋に煙立つ

愛知県吉良町で先祖代々浜採りを務める、渡辺友行さんを訪ねた。

「浜採りにゃ盆も正月もあれせん。天気のいい日は、朝から夜中まで働き詰めだわ」。友行さんは麦藁帽の庇を押し上げ、潮焼けた赤ら顔で笑った。

「この辺一帯は、あの赤穂浪士で敵役に祭り上げられてまった吉良公が、干拓地として築いた新田だで、土壌に塩分が含まれとって作物が出来んかっただ」。

波穏やかな三河湾の内海。

その特性を活かし、入浜式塩田へ。

いつしか吉良の饗庭塩(あいばしお)と呼ばれ矢作川を舟で遡上し、豊田市足助町で中馬に積み替え、長野県塩尻市まで運ばれた。

饗庭塩は塩の尻の終着点を目指し、「塩の道」を旅した。

友行さんは大正15(1926)年に長男として誕生。

尋常高等小学校を出ると家業に従事した。

「白浜地区でも一番広い2反7畝(約27㌃)の塩田があっただ」。

300年の歴史を誇る吉良の饗庭塩作りは、夜明け前から始められる。

まず平と呼ぶ木製の平らなショベルに砂を載せ、浜採りたちが腰を使い塩田に砂を撒く。

やがて陽が昇り潮が満ち、砂を濡らす。

すると幅2間(約3.6㍍)もある巨大な満鍬(まんぐわ)を曳き、手返しで砂を乾燥。

砂が乾けば、寄せ振りで砂を集め沼井(ぬまい)へ。

その上から海水を掛け流し、砂に纏わり付いた塩を流し落す。

沼井は約1㍍四方。

木製の風呂桶のようだ。

底部には簾が張られ砂を堰き止める。

さらにその最下層には空洞があり、濃度を増した海水が流れ込み、取り出し孔を伝って壷桶へと流れ出す。

「潅水(かんすい)を柄杓で汲み取って、桶を肩にいなって塩焼き小屋へ。最初に砂で濾過して、今度は家畜の骨を焼いて作った骨炭で濾過するだ。次に釜に入れて石炭で2時間ほど煮詰めた後、ドサへ苦汁(にがり)を含んだままの塩を掬って入れとくだ。やがて苦汁が簾から流れ出せば饗庭塩の完成だわ」。

昭和20(1945)年、戦火が激しさを増す中、三河大地震が大地を引き裂いた。

「もう塩焼き小屋は壊滅だわ。それからは潅水取って、それを売って生計に充てたとっただ」。浜採りは沖を見つめた。

昭和24(1949)年、ふじゑさんを妻に迎え、一男一女を授かった。

だが昭和28(1953)年、13号台風が三河湾を直撃した。

今度は塩田そのものが壊滅。

友行さんはその後、農業に酪農、温室園芸などで家族を支えた。

「農業では食うてけんで、昭和47(1972)年に喫茶店を始めただ。店の名前の由来か?そりゃあ女房の名前『フジ』だわさ」。

昭和も終わりが近付くと、塩作りの再現話しが舞い込んだ。

「私らの年代が最後の浜採りだで」。

今週土曜日から9月までの第4土曜日に、吉良町の復元塩田で一般参加の饗庭塩作りが始まる。

「これからは月1の浜採り復活だで、生きとるうちに若いもんらに饗庭塩作り伝えとかんと」。

浜採りは沖行く海鳥を見つめながら、ぼそりとつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 278」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「八百屋」。(平成20年5月13日毎日新聞掲載) 

商店街を妹と 端から端へ駆け回る               「今日は何屋を真似て見る? 寿司屋ゴッコはどないやろ?」  「嫌や兄ちゃんずる過ぎる たまにはうちが八百屋さん」     色紙土間に並べ立て 「毎度おおきに」春爛漫

三重県桑名市、寺町商店街。路地野菜を中心に扱う八百屋、アサキ商店二代目の浅野雅基さんを訪ねた。

夕暮れ時の商店街が、買い物籠を手にした主婦で賑わい出した。

漂う焼き魚の煙り。

天ぷら油の爆ぜる音。

売り子と客の親しげな声が飛び交う。

ここには洒落た舶来品が居並ぶ店など見当たらない。

だから隙のない化粧で身構え、客を見下す傲慢な店員もいない。

売り子と客を分かつ境界線がないから、何処の家の冷蔵庫に何が残っているかも先刻お見通しだ。

「家は姉と妻の三人でやっとんやで、お得意さんの顔も素性もみんなよう知っとりますわ」。雅基さんは、店先を行過ぎる馴染みの客に声をかけた。

写真は参考

アサキ商店は、昭和10(1935)年に父が創業。

雅基さんは昭和19(1944)年に3人姉弟の長男として誕生した。

高校を卒業すると料理人を志し、地元料亭の板場へ。

「何か手に職をと思って」。

とは言え、板場修業の厳しさは並大抵ではない。

半年間は、明けても暮れても洗い場専属。

次にやっと漬け物の担当へ。

「四季折々に旬の野菜を漬け込むんさ」。

そうしてやっとの事で焼き方へと昇格していった。

丸4年間の板場修業を終え家業に。

「オリンピックが終わって間もない昭和41(1966)年のことやで、みんな自転車で仲買まで買い出しに行くんやさ。ちょうど自転車から、車の世の中に変わりつつあった時代やったでなぁ。あの頃は地べたに松茸が山に積んであって、アンコが太(ふっと)い声枯らして『ハイッ、一山いらんか』ってな調子で。それでも誰(だあれ)も見向きもせんのさ。今やったらえらいこっちゃわ」。雅基さんは懐かしそうに店先を眺めた。

春は蕨(わらび)に薇(ぜんまい)、筍。

夏になれば胡瓜と西瓜に瓜。

早稲蜜柑が秋の訪れを告げれば、茄子に栗と柿、それに茸。

冬はほうれん草と白菜に大根。

季節の野菜や果実たちが、八百屋の店先を彩り、今が旬を競い合う。

「嫁いで間もない嫁さんらは、八百屋で桑名の味付けや、調理の仕方を聞いて覚えてくんやさ」。

写真は参考

しかし昭和45(1970)年代に突入すると、大型スーパーの誕生で商店街の客足も疎らに。

「桑名近郊で240~250軒あった八百屋が、今はたったの80軒やで」。

それからしばらく後、知人の紹介で山口県出身のうら若き美人売り子が看板娘として加わった。

店先に並び、盛りを競う旬の野菜と旬の娘。

真っ先に旬を手にしたのは、もちろん雅基さんだった。

昭和53(1978)年、看板娘の八重子さんを射止め、一男一女を授かった。

「妻は討幕派の長州から、幕府方の桑名に寝返ったみたいで、不思議なご縁やさ」。店先で八重子さんが微笑んだ。

「旬が来ると野菜の声が聞こえるんやさ。『はよ、薄味で炊いて鰹節ふってや』って」。

雅基さんは筍を手に取り、慈しむ様に見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 277」

今日の「天職人」は、岐阜市真砂町の「ストリップ劇場小屋主」。(平成20年4月29日毎日新聞掲載)

ミラーボールも悩ましく ホールに星が乱れ舞う        ムード歌謡の曲に載せ 「待ってました」と声が飛ぶ       芸子姿の踊り子が スポットライト艶(あで)やかに       帯を解けば濁声も ヤンヤヤンヤの大騒ぎ

岐阜市真砂町のストリップ劇場「まさご座」。二代目小屋主の玉木国大(くにお)さんを訪ねた。

「なるべく踊り子の裸、見んようにしとるんやて。何十年もこの家業やっとると見飽きてまってなぁ」。国大さんは、ちょっぴり照れ臭さげに煙草の煙を吐き出した。

国大さんは昭和16(1941)年に、7人兄姉の末子として誕生。

「ここは終戦後の昭和22(1947)年に、芝居小屋として親父が開業したんやて。

歌謡ショーから浪曲、漫才から宝塚歌劇まで。

「最盛期は三波春夫や村田英雄、コント55号に間寛平、それに宝塚のトップスターも来とったんやて」。

しかしお茶の間に映画やテレビが台頭し始めると、一転芝居小屋は娯楽の王様から凋落。

「ちょうど大学3年の頃、昭和37(1962)年頃やったかなぁ。常打ち芝居で客が入らんくなって、女剣劇一座が胸元を大きく開けてお色気を出すようになったんやて。それが芝居小屋からストリップ劇場への転換期やった」。

翌年大学を卒業すると、兄が経営する映画館に入り映写技師を3年務めた。

その後父のまさご座に移り、照明係を担当。

「照明係って言っても、ライト照らしとるだけやし。どうしたら踊り子を艶(なま)めかしく見せられるか、そればっかり考えとったわ。昔は今と違って、ヘアも見えるか見えんか瀬戸際の時代やったし」。

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昭和42(1967)年父が他界。

二代目小屋主を引き継ぐことに。とは言え、まだ弱冠26歳の若者だ。

10日毎に総入れ替えとなる旅の踊り子と、一つ二つロマンスが芽生えたとて不思議なことではない。

「昔の踊り子はヒモ付きが多かったんやて。子持ちの踊り子もおったし、楽屋で寝泊りするヒモもおったって。まあ今はそんなもんおらんけどなぁ」。

遠い記憶をたどるように、吐き出した煙草の煙の行方を見つめた。

「楽屋で母相手に、踊り子等が小声で身の上相談ようしとったわ。自分等の母親くらいの歳やったで、話やすかったんやろ」。

昭和52(1977)年、踊り子達からも慕われた母が他界。

国大さんが36歳の年だった。

母を失った哀しみを振り切るように、九州出身の踊り子であったカツコさん(享年52)と結婚。

一男一女に恵まれた。

小屋主と舞台に舞う踊り子の、ロマンスはやはり強かに育まれていたのだ。

「昔の踊り子は、よう柳ヶ瀬飲み歩いてお金を落しとったわ。そうすると今度は、飲み屋の客が踊り見に来るで、金がうまいことまわってく。でも今の若い踊り子さんは飲みにもでかけんと、しっかり貯め込んどる見たいやわぁ」。

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2本目の煙草に火を燈しながら、大きな声で笑った。

「朝から晩まで、弁当持参で一日中座っとる常連もおるし、若い踊り子には全国から追っ駆けも来るし。タンバリンや紙テープ持参でな」。

踊り子は日陰に咲く、庶民の徒花(あだばな)。

ならば小屋は、泡沫の男の隠れ家。

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「天職一芸~あの日のPoem 276」

今日の「天職人」は、愛知県知立市の「大根切干買入所」。(平成20年4月22日毎日新聞掲載)

春の祭の炊き出しに 刻み人参お揚げ添え            切干大根煮しめれば ふやけて鍋にテンコ盛り          父は溜め息付きながら 毎年同じ愚痴を言う          「またも十日(とおか)は朝昼晩 煮物尽くしかありがたや」

愛知県知立市の大根切干買入所。大和屋商店の三代目店主、杉浦利治さんを訪ねた。

東海道五十三次、池鯉鮒(ちりゅう)宿(現、愛知県知立市)。

今となっては静まり返った旧街道だが、わずかに往時の名残を留めている。

「切干大根の決め手は、何といっても色白じゃないとかんわさ。ほんのりとでも赤こなったら終(しま)いだて」。利治さんは、荷受場に山積みされた切干大根を、手で掬(すく)い上げながら笑った。

「昔は大根切干って呼んどったけど、知らんとる間に切干大根になっとったでなぁ」。

大和屋商店の創業は明治末期。

「もともと切干は、尾張が本家本元だって。それが明治の終わり頃から、ここらの西三河でも作るようになっただ」。

宮重青首総太大根や長太大根が切干用として生産された。

利治さんは昭和16(1941)年、長男として誕生。

高校を出ると大阪の食品問屋で住み込み修業に。

翌、昭和35(1960)年には帰郷し、家業に従事した。

「ちょうど東京オリンピックから、大阪万博へと向かう時代だったわ。そんな頃はもう忙して忙して。冬場なんか毎晩夜中まで作業せんとおっつかんだぁ。放っといたら荷受場が、切干で山のようになって、足の踏み場もあれへんでかんわ」。

店の前には、切干を山積みにした農家のリヤカーや軽トラックが列をなした。

昭和41(1966)年、叔父の紹介で節子さんを妻に迎え、一男二女をもうけた。

切干大根は、生産者が畑から引き抜いた大根を洗い、専用の切干台で厚さ3㍉、幅2~2.5㍉にスライスし、それを天日で2日間寒晒しで乾燥させ、それを買入所に持ち込む。

写真は参考

「だいたい12月から2月にかけて、伊吹颪が吹きすさぶ厳寒の晴れの日が、切干に一番適しとるだぁ。2月を過ぎると大根がまずくなるでかんわ」。

写真は参考

買入所では農家から買い入れた切干を、業務用や一般家庭向けの用途に合わせ袋詰めを行い、取引先に向けて出荷する。

「まあ冷蔵庫が世に出てきてからは、年間を通じて出荷できるようになっただけど、冷蔵出きんかった昔の夏場は、それこそ『売り切れ御免』だったし、それに注文もあれへんかっただぁ」。

水に浸して戻した切干大根に、人参や油揚げにハンペンをさっと油で炒め、だし汁に砂糖と醤油で味付けながら煮上げれば、伝統的な庶民の一品が完成する。

「保存食の乾物だで、その地方地方で料理の仕方もまちまちだわさ。今は切干も乾燥機の時代だけど、あれはいかん。乾燥機で乾かすと大根の匂いが無くなってまうし、完全に乾燥してまうと水分が無くなって粉っぽくなるし。逆に生乾きだと、大根の糖分が出て赤なるで難しいって」。

厳寒の空っ風と太陽の陽を浴び、極限まで己が水分を絞りきる切干大根。

再び水に浸れば、新たな食感を宿し、えもいわれぬ味となり生まれ変わる。

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「天職一芸~あの日のPoem 275」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「釣具店女主人」。(平成20年4月15日毎日新聞掲載)

日曜の朝台所(だいどこ)で 父は何やらガサゴソと

「ひねたネズミが出たんやろ」 寝返り打って母は言う      ぼくは急いで起き出して 父の自転車飛び乗った         近くの川で浮子(うき)並べ 春の鮒釣り魚信(あたり)待つ

三重県伊勢市のニシオカ釣具店、三代目女店主の西岡佳子さんを訪ねた。

家族のため、高度経済成長期をボロ雑巾のように働き詰め、七年前この世を去った父。

唯一の趣味は、ささやかな釣りだった。

僅かな小遣いを工面し、少しずつ道具を買い足して。

車を持たない父はぼくを荷台に乗せ、魚場を求め何処までも自転車を走らせ続けた。

「今しはなぁ昔と違(ちご)て、鳥羽の漁師さんらが、ワームやルアーに針とかワイヤーを買いに来る時代なんさ」。佳子さんは、数多(あまた)の商品に埋め尽くされる店内を見渡し微笑んだ。

佳子さんは昭和19(1944)年、市内で旅館業を営む加藤家の末子として誕生。

「物言いかけるか、かけやんかで西岡の家に養女にもらわれて」。

地元の高校から東京の短大へと進学した。

「ちょうど東京オリンピックの年やったわ。大空に飛行機が、五色の煙で五輪を描くように飛んだの、この目で見ましたんやさ」。

翌年帰省し、本家の縫い糸店を手伝い、昭和41(1966)年には釣具店を任された。

昭和43(1968)年、叔母の紹介で津市出身の忠文さんが婿入りし、二男一女を授かった。

妻として母として、そして両親の面倒も見ながら、釣具店の切り盛りに追われ続けた。

「もう戦後間もない頃と違(ちご)て、喰うための釣りから、遊びとしての釣りに様変わりし始めた時代やったでなぁ。毎年9月になると、この辺の釣師さんらは、落ち鮎求めて宮川でガリっていうコロガシ漁をするんさ。五十鈴川は禁漁区で出来やんで。それから海やと鳥羽でカイズ(黒鯛の一年子)を釣って、それを背開きにして干物にすんのが、秋の風物詩の一つやさなぁ」。

時代と共に釣り道具も餌も変化を続けた。

竹竿からグラスファイバー製の竿へ、そして現在ではカーボン製が主流に。

餌はミミズやゴカイにエビ等の本物から、ルアーやワームの疑似餌が主流となった。

「私がちっさい頃は、まだマイカーが無い時代やった。だから釣師さんらは店が開くのを待って、餌買(こ)うて伊勢市駅まで一番列車に乗り遅れんように走って行かしたもんさ」。

週末の釣師たちは、日曜日が待遠しくてならなかった。

「漫画の釣キチ三平が流行った頃は、店の前が小学生のチャリンコで一杯やったんさ。歩道に雷魚やブラックバス並べてルアーダービーとか言って、釣果を競い合いよったんやで」。傍らで夫が懐かしそうに笑った。

「何で漁師さんらが買いに来るかって?すぐ近所の鰻屋に、漁師さんが餌のドジョウを買いに来とって、家のワームを見つけて『いっぺんこれでやって見たろか』って買(こ)うてったのが始まりやさ。それが今では知多半島の漁師さんらまで買いに来るんやで」。

釣道具の進化は、人類の進化そのものだったのかも知れない。

如何に獲物を騙すかという。

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